シナリオ

月灯りとカンテラリウム

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●薄明
 ぷかり、ぷかり。
 揺らめく水の流れに反射した光が瞬くと、ちかちかと煌めくその合間を小さな水泡が昇っていく。青色に染まった世界に彩りを添える珊瑚礁や小魚たちは海の底でも鮮やかな色を放ち、まるで南の海を思わせた。
 海中トンネルと呼ばれる大水槽のような作りをした空間は一見すればまるで水族館のようだったけれど、しかし人の気配はまるでしない。
 きらり、きらりと。
 ーーただ音もなく月明かりだけが静かに輝き、魚たちの楽園を照らしていた。

●月に願いを
「月が落ちてきたーーと、ある港町に住む子供は言っていたよ」
 やあ、こんにちは。そんな挨拶も程々に、片手を上げた立花・晴(猫飼い・h00431)はそのまま流れるように和綴じ本を開いて言葉を続ける。
「ところで、あなたは水族館に興味はあるかな?」
 水族館とは言っても普通の施設ではなく、√ドラゴンファンタジーで最近発見されたダンジョンらしい。月が落ちてきたという子供の証言もそのダンジョンに関わるもので、夜になってもそれはそれは強い光を放ち、周囲を照らし続けているのだとは晴は眉尻を下げた。
 日没後でも白夜のように薄明が続く怪奇現象に港町の住民たちが悩まされていることも問題だが、問題はそれだけではないからだ。
「本来であれば、その町では夏至の季節になると、あるお祭りを開催するそうだよ」
 その名もカンテラ祭り。
 なんでも短い夜の訪れに合わせて、死者を弔うためにカンテラを灯すお祭りを毎年開催しているらしい。
 しかし最近、港町からも程近い場所にできたダンジョンから夜になっても明るく強い光が放たれているせいで、これではまともにカンテラ祭りが開催できないと困っているという話だ。
「不思議なカンテラでね。そのままでは大して光らず、夏至の夜に月光を浴びせて初めて完成する魔法のカンテラなんだ」
 あなたにお願いしたいことは3つ。晴は数合わせに指を三本立てて、それからひとつひとつを指折りに願いごとを並べていく。

 ひとつ、魔法のカンテラを入手してきてほしい。
 色や形まで、思い思いの好きなものをお店で選ぶといいだろう。
 ふたつ、魔法のカンテラを持って、ダンジョンの奥地へ向かってほしい。
 アクアリウムにも似たダンジョンは、時間に余裕があれば水族館のように楽しめるだろう。
 ーーそして最後に。
 ダンジョンの奥地で、月の光を奪ってきてほしい。

「カンテラに月光を閉じ込めてしまえば、いつかは光も尽きる。そして魔法のカンテラが完成すれば、彼らも無事にお祭りを開催できるだろうからね」
 港町の住民たちはダンジョンを恐れて近寄らないけれど、冒険者に恐れは無用だ。
 難しく考える必要はないと微笑んだ後に、晴は和綴じ本をそっと閉じる。「ーーいってらっしゃい」そう言って手を振れば、その動きに合わせるように猫の鳴き声が聞こえた気がした。

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第1章 日常 『魔法露天商』


ラデュレ・ディア

●爛然
 夏至の季節を迎える頃の日差しは熱を持ち、じりじりと石畳を焼き付ける中でもその港町は活気に満ちていた。
 吹き抜ける潮風に混じる香りはどこか異国情緒に溢れているようで、香辛料の刺激的な匂いやハーブを使用したアロマの薫香が流れてきている。その風に乗って歩いていくだけでも充分に楽しめるだろうけれど、しかしラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)が今回この港町に訪れたのは目的あってのことだ。無意識に止めていた足をまた踏み出して、ラデュレは港町の中でも魔法道具を取り扱っている露天商がひしめく場所へと向かっていく。
「お店がぎゅうぎゅうに並んでいます……!」
 港に面した通りには色とりどりの鮮やかな布で編まれた天幕が連なっていて、日差しを避けるように作られた影のおかげかあまり暑さを感じることもない。
 惜しげもなく魔力を帯びた品々を並べている露天商の数々に目を輝かせて、ラデュレは隅々まで見渡すように背を伸ばす。いくつもある魔法道具の中でも、やはり数が多いのは多種多様な材料から作られている魔法のカンテラだろうか。ラデュレが仕入れた耳寄りの情報も、まさにその魔法のカンテラだった。
 月のひかりを宿して輝く、不思議なカンテラ。そんな話を耳にしてからというもの、ラデュレの心はすっかりその灯りに奪われてしまっていたのかもしれない。御伽噺と童唄を伴にした旅がこれからも続いていくのなら、きっと魔法のカンテラも良き供になってくれるはずだ。
「うぅ、どれにいたしましょう……」
 新たな旅のお供にと魔法のカンテラを仕立てるべく、露店がひしめく通りをラデュレは悩みながらも進んでいく。
 右を見ても左を見ても、カンテラ、カンテラ、またカンテラ――砂時計のようなもの、芳しい花が咲いたもの、金色に輝く宝石のもの。それぞれが自分を選んでほしいとラデュレの耳元で囁いてくるようで視線は行ったり来たり、決めきれずに終いには足がもつれそうだ。
「――あれ?」
 ふと、視界の隅でひとつのカンテラが目に留まる。
 喧騒の隙間に静かに佇むような、アンティーク調のカンテラだ。銀の縁取りに包まれた色硝子はまだ光ることを知らないけれど、月のひかりを閉じ込めたのなら、それは美しく輝いてくれることだろう。ラデュレはそんな姿を想像しながら、カンテラに手を伸ばす。
 色硝子から銀の縁取りをゆっくりと指先でなぞって、そして最後にアンティーク調の細い取っ手に触れたとき――潮風がさあと吹く。風が天幕の隙間をすり抜けてラデュレの頬を撫でた拍子に、カンテラの色硝子が微かに鳴ったような気がした。
「……この方にいたしましょう」
 心の裡で、ラデュレは自分だけの特別なカンテラを決めた瞬間だった。
 これがただの灯りではなく、これから共に歩む旅の道しるべとなるように。
 そして、出会ったばかりの『お友だち』と一緒に見つけるもの――まだ見ぬものへと導いてくれる、ちいさな希望となってくれるように。「ラーレには素敵なお友だちが出来ました」そう言って口もとを綻ばせて、ラデュレは満足げに買い取ったばかりのカンテラを胸に抱きながら一歩、また一歩と歩き出していく。
 その背を押すように再び潮風が吹いたとき、カンテラが音を発することはなかった。けれどラデュレの胸はひかりを灯したように暖かい。
 どこか清々しい気持ちで空を見上げればウミネコが鳴いて、その遠くで小船に張られた帆がはためく音がする。
 夏至を迎えた港町はにぎやかで、物語のはじまりに満ちていた。

継歌・うつろ
バルザダール・ベルンシュタイン

「カンテラ、いっぱい……!」
 透き通るような瞳をきらきらと煌めかせた継歌・うつろ(継ぎ接ぎの言の葉・h07609)がぐるりと辺りを見渡せば、そこには数々の露天商がひしめいている。港町の露店通りには色とりどりの布で編まれた天幕が連ねられていて、それはそれは目にも鮮やかな場所だったけれど、うつろの目には並べられたカンテラたちもその鮮やかさと同じくらいに輝いて見えるようだ。
「琥珀おじ様、見て、たくさんあるよ……!」
 人波に流されないように繋いだ手を小さく引いて、うつろは自分の視線よりもずっと高くにある穏やかな琥珀色を見上げる。そこにいるのは、彼女がおじ様と呼んでいる紳士の姿。バルザダール・ベルンシュタイン(琥珀の残響・h07190)だ。
 バルザダールはうつろと目を合わせて微笑みを浮かべると、「きっと素敵なものが見つけられるよ」とあたたかな声で応えた。
 ずらりと並ぶカンテラたちはその色や形はもちろんのこと、硝子や金属、宝石、花弁、星の欠片といった素材さえもさまざまで、どれもがそれぞれの物語を秘めているように見えた。きっとこの中のどこかで、うつろとバルザダールのためのカンテラが静かにその訪れを待っていることだろう。
「まほうって、やさしいものも、あるんだね」
 どこか遠くを見るようにうつろが思わずと呟けば、バルザダールも静かに頷く。
「この|世界《ルート》に来るのは初めてなのだけれど……うつろ君と来たいと思ってね」
「……わたしも、はじめて。……琥珀おじ様と、おでかけ、楽しいよ?」
 可憐な笑みで繋いだ手のひらをぎゅっと握ったうつろに、バルザダールはふと安堵の息を零した。
 お出かけが楽しいあまりについ誘ってしまう自覚はあったけれど、こうして彼女が楽しんでくれているのなら誘った甲斐もあったというものだろう。「それは何よりだ」と笑みを返したバルザダールは、早く早くと逸る心のままに軽い足取りで歩き出したうつろの歩調に合わせながら露店通りの奥へと進んでいく。

 色鮮やかな天幕の下、風に揺れる布越しに太陽の光がちらちらと踊る中でうつろが見つけたのは小さな看板だ。
 露店通りから逸れた細道の先、静かに佇む看板には『琥珀でつくられたカンテラ』と書かれていて、うつろは「あっ」と小さく声をあげると、ぱたぱたと軽い足音を立てて駆けていく。
 その先にあったのは、露店通りの中でもやや薄暗い一角にある店。並ぶカンテラにはどれも店主のこだわりが感じられるように多くが琥珀色を基調としているが、その中でもうつろがじっと見つめていたのは深い琥珀色を帯びたカンテラだった。
 磨き上げられた琥珀は幾層にも重なり合い、小さな宝石のような灯籠を形づくっている。うつろが手の中で傾ければ僅かな光にも反射して、カンテラはきらりと輝いた。
「このカンテラ、ください……!」
 そうと決めたうつろの表情に迷いはなく、バルザダールは何度か目を瞬かせる。
「色んなものがあるけれど、そのカンテラでいいのかい?」
「琥珀おじ様、わたし、これがいい。――これじゃなきゃ、やだ」
 思わずと問いかけた言葉にもうつろは揺るぎない意志を見せるものだから、それ故に同じ琥珀色を身に宿す者としてバルザダールは少しの面映ゆさを感じてしまった。
 けれど嬉しい気持ちも間違いなく、バルザダールは頷く。「……そうか。うつろ君が望むならそれにしよう」と、同じ形のカンテラを手に取れば後は買い取るだけだ――といったところで、どうやらこの露店では琥珀のカンテラを買うにあたって、好きな装飾品が選べるということに気付いた。
 いくつか選べる品書きの中から装飾品を決めようとバルザダールが促すと、うつろは少しの間を置いて首を傾げた後、それからすぐ傍に座っている店主へと声を掛けた。
「あの、そうしょくひんは琥珀おじ様……じゃなくて。この人、イメージで、おねがいします」
「店主。それなら私にはうつろ君――この子をイメージしたものを頼めるかな?」
 肩を並べたふたりが差し出した琥珀のカンテラと見比べて、店主は不愛想ながら確かに頷く。
 そして数ある装飾品の中から店主が選んだのは、五線譜に音符を連ねたものと、金細工で作られた茨を模したものだ。
 バルザダールとうつろは互いの印象を反映させたようなカンテラを店主から受け取ると静かに顔を見合わせ、どこか気恥ずかしさを覚えながらもそれ以上の喜びをもって、やがてどちらともなく破顔するのだった。

アデドラ・ドール
桂木・伊澄
式凪・朔夜

 夏至を迎える頃の陽射しは肌身に感じるほどに熱く、けれど爽やかに吹き抜ける風と重なるようにきらきらと輝いている。小さな港町の中でも一際活気付いている露店通りには波の音と人々のざわめきが心地良く重なり合うようで、アデドラ・ドール(魂喰いソウルイーター・h07676)は見知らぬ土地への期待に胸を膨らませながら歩いていた。
 これまで他の|世界《ルート》はおろか、出掛ける機会すら少なかった彼女にとっては目に映るすべてが新しく色鮮やかだ。
 香辛料やハーブを使用したアロマの薫香、どこか異国情緒の満ちた香りが風に乗って漂う中で、魔法のカンテラを前にしたアデドラの瞳はよりいっそうと輝く。彼女にとって、露店に並べられたカンテラたちはそのひとつひとつがまるで小さな夢の欠片のように見えていたのだろう。
「……ああ、迷ってしまうわ。だってどれも素敵なんですもの」
 指先でそっと優しく触れてはひとつ、またひとつと目移りすることしばらく。
 アデドラが選んだのは、虹のように煌めく色硝子があしらわれた小さなステンドグラスのカンテラだった。
 光を反射してきらきらと目映いカンテラを抱えて微笑むその横顔は、どこか無邪気な少女のようで。少し離れたところからその様子を見守っていた桂木・伊澄(蒼眼の超知覚者サイコメトラー・h07447)も、気が付けば口もとを緩めていた。
「……ふふ。アデドラが楽しそうにしてるのを見るのも、悪くないな」
 その声に、その視線に。自分を見守る存在に気付いたアデドラは、はっとした表情で視線を逸らす。
 澄まし顔で何気ないふりをしながらも、黒檀の髪の隙間から覗いた耳はほんのり赤かった。くすくすと漏れ出す声を聞けばアデドラはジト目で伊澄を睨みつけてしまった――けれど、いつもと違う心躍る自分も悪い気分ではなかった。
「はは、アデドラも伊澄も楽しそう」
 ふたりの傍らで、微かに表情を和らげた式凪・朔夜(影狼憑きの霊能力者・h07051)も小さく笑みをこぼす。
 ジト目のまま朔夜に視線を向けたアデドラは、ふたりがまだカンテラを選んでいないことに気づいて、小さく息を吐いた。
「あたしばかり見てないで、ふたりも早く決めたら?」
「うん。でも、そうやって素直に喜びを出せるのっていいと思うよ。かわいいよね」
「……その言葉は、有難く受け取るわ」
 かわいいと言われれば、それも悪い気分はしないけれど。
 アデドラは精一杯の虚勢から平然とした素振りで頷いて、それからふたりがカンテラを選べるようにと一歩下がる。露店のすぐ目前まで伊澄と朔夜の背中を押し出せば、今度はふたりがカンテラを選ぶ番らしい。
 露店に並べられた魔法のカンテラは多種多様だ。
 アデドラが選んだようなステンドガラス風のものもあれば、反対にシンプルなブリキ製のものもある。これほどの種類が一堂に並ぶ様子はまさに圧巻で、目移りしてしまうのも無理はないだろう。
 いくつか手に取ってはまた戻して、しばらくうんうんと唸りながら悩んだ末に、朔夜はようやくひとつのカンテラを手に取る。一面だけに青色の硝子があしらわれた、簡素に見えて遊び心もあるカンテラだ。
「――ん、これにしようかな」
 何故一面だけが青色なのか、朔夜には分からない。けれど、不思議と目を引かれたそのカンテラが特別なものに見えたのだ。
 その一方で。伊澄がカンテラ選びに迷うことはなかった。
 悩み抜いた末に見つけたカンテラが良きものであるように、直感に任せて手に取ったカンテラもまたひとつの最良な出会いと言えるだろう。「おれは正直どれでもいいんだけど……まぁ、これかな」と呟いて手前にあったカンテラを手に取った伊澄は、視線の高さまで持ち上げてカンテラを眺める。それは黒い鋼で作られていて、どこかレトロな雰囲気のカンテラだ。よく見れば、自身の瞳にも似た青い宝石のようなものが控えめに装飾されている。
「伊澄さんは王道的なやつだね。カッコいいよ」
「そうね。悪くないと思うわ」
 その青い宝石の名前すら気にしていない伊澄にとって、仕事は仕事として淡々とこなすだけのものだ。
 それでも、アデドラと朔夜のどこか楽し気な様子を見ればたまにはこういうのも悪くないと思えたから。伊澄は自身の手で見つけた魔法のカンテラを買い取ると、取っ手に指先を掛けて軽く揺らしてみる。まだ大して光を発することもできないこのカンテラが月の光を受けたとき、どのような輝きを見せるのだろうか。
「……行くか、ふたりとも」
 伊澄の声に、アデドラと朔夜も顔を見合わせて頷き合う。
 そうしてそれぞれが選んだ魔法のカンテラを手に、三人は露店通りを後にした。

オルテール・パンドルフィーニ
オーキードーキー・アーティーチョーク

 燦々とした日差しが降り注ぐ港町は、朝からにぎやかだ。
 石畳をじりじりと焼くような暑さが肌を刺す中、オルテール・パンドルフィーニ(Signor-Dragonica・h00214)は潮風を受けながら鮮やかな紅緋色の瞳を細めて、波間にきらめく光を遠くに見ていた。
「月が落ちて来た、か」
 詩的で良い表現だが、事実になっちゃ困るよな。
 オルテールはそう呟いて、手を額にかざすようにして空を見上げる。雲ひとつない青空には今でこそ月の影すら見えず、太陽が我が物顔で輝いている。けれど、この太陽が海の向こう側に沈んでも港町は薄明るいままで、白夜のような怪奇現象が続いているのだとすれば――「人間が困ってるなら助けるのは俺の責務、だな」颯爽と背後を振り返ったオルテールは港町の中でも最も活気付く場所、露店通りを指差して呵々と笑った。
「だが、遊んじゃいけないってことはない。楽しもうな、オーキー!」
 そう言ってオルテールが語り掛けたのは、傍らに立つシルクハットを目深く被った男。オーキードーキー・アーティーチョーク(Spaghetti Monster!!!・h02152)だ。朗らかな声を響かせた彼は針金の如く細い身体を最礼敬のような仕草で丁寧に腰から折り曲げて、頭上のシルクハットをそっと被り直す。
「月が落ちて来たッッッ!!! 実現したらそれはそれで面白いですが――ンフフッッッ!!  無論冗談ッッッ!!!」
 その目深帽子の奥で、彼の瞳はどれほど輝いているのだろうか。
 舞台の幕開けもかくやと、大仰な仕草でゆっくりと上体を起こせばその背丈は屋根に届きそうなほどに高かった。
「紳士されども享楽主義の我輩、大いに喜ばしく。ええ、存分に楽しみましょうともオルトッッッ!!!」
 そう言って目指す先は、露店通りで売られているという魔法のカンテラだ。
 頭上、オーキードーキーにとっては目線近くに差し掛かる色とりどりの鮮やかな布で編まれた天幕に当たらないように気を付けながら、目当てのカンテラを探すべく足早に歩き出す。その縦に長く伸びた背を追って、オルテールもゆっくりと一歩を踏み出せば、ふたりの魔法のカンテラ選びが幕を上げた。

「折角だし、お互いに選んで交換しないか?」
 ただ選ぶだけでも良いが、どうせなら互いに選んだカンテラを交換した方がより楽しめるに違いない。
 眼前に並ぶ数々の魔法のカンテラを見下ろしながら、オルテールはふと思いついたように提案する。その誘いに乗らないオーキードーキーではなく、名案だと手放しに喜んだ彼は一も二もなく胸を張って応じた。
「似合うカンテラをきっと探して見せましょうッッッ!!!」
 そうと決まれば、さっそくと。
 オルテールはひとつ、そしてまたひとつを吟味するようにカンテラを手に取っては首を捻る。
 せっかくなのだから、より良いものを選びたい。暗所と孤独が大の苦手だと自覚するオルテールだったからこそ、カンテラに光と友人との思い出を込めることで――いつでも友人が隣にいてくれる、そんな気分になれそうだと思うのだ。
 そして自分にとってだけでなく、オーキードーキーにとってもそんな風に素敵な思い出を残せるカンテラを探したい。であれば、まずは彼の体格を考える必要がある。3mにも及ぶ体躯に見合ったサイズのカンテラを探すことは難しいかもしれないが、なるべくなら大きなカンテラを選ぶべきだろう。
「……うん、そうだな」
 ひとつ頷いて、オルテールは奥まった場所に置かれていたカンテラを掴み取る。
 藍色の鉄枠に星を散りばめたような静謐な上品な美しさ。怪異という先入観があるためか、夜のイメージが強い彼にはぴったりだとオルテールは満足そうに口もとを緩める。他のカンテラよりも大きく作られているところも良い。このカンテラであればきっと彼の手にもよく馴染むことだろう。
「うーん。我ながら良いセンスだ!」
 月光を捕まえたとき、夜空そのもののように美しく灯る様が目に浮かぶようだった。
 ――その一方で。
 オーキードーキーもまた、真剣にオルテールのためのカンテラを選んでいた。
 細長い指先で持ち上げては、こつこつと軽く叩いて音を確かめる。彼を思って選ぶのであれば、彼の熱や火も物ともしない耐熱性の高い品であることは前提条件とも言えるだろう。そして彼の気品に満ちた振る舞いにも似合うカンテラとすれば、デザインはアンティーク調であることが望ましい。
 そうして条件を絞りつつ選別し続けること、しばらく。
「鉄枠の下に何処かの街並みの細工模様――この温かな橙のガラスに致しましょうッッッ!!! 店主、これを頂きますッ!!!」
 オーキードーキーが選んだのは、どこか懐かしさを感じさせる鉄枠に、橙色のガラスが嵌め込まれたカンテラだ。どこか遠くの街並みを模した細工模様が彫られているため、実際に光が灯ればその街並みが灯り越しに浮かび上がり、まるで人々の暮らしの灯を思わせるような輝きを持つことだろう。
 闇と孤独を不得手とする友に寄り添うようにと願いを込めてカンテラを選んだオーキードーキーは、自分には聊か小さなカンテラを大事そうに手中に収めながら、満足げに笑みを深める。「これならきっと、友に相応しき灯りとなりましょうッッッ!!!」どうか、気に入って下さるように。再び合流すべく踵を返した彼の足取りはいつも以上に軽やかに見えた。

 やがて合流を果たしたふたりは、それぞれが選んだカンテラを交換する。
 オルテールは橙色のガラスに見入るように目を細めて、ぽつりと呟いた。
「……どんな光が灯るんだろう。今から楽しみだな」
「吾輩、怪異たる身にどんな灯りを齎すのかも楽しみにしておりますよッッッ!!!」
 言葉少なくも、オルテールからは滲むような期待が見て取れる。
 無事に気に入ってもらえたことを確信したオーキードーキーはどこか誇らしげに背筋を伸ばしながら、彼の言葉に堂々と頷くのだった。

茶治・レモン
日宮・芥多

 夏至を迎えた太陽は海辺の小さな港町の空高く昇り、波間に映る光がきらきらと瞬いている。
 吹き抜けた潮風は思っているよりも爽やかなもので、からりとした暑さも日陰に入ってしまえばそこまで気にならないものだ。とりわけ、色とりどりの鮮やかな布で編まれた天幕が連なる露店通りは、陽射しを遮ってやさしい影を作り出していた。一歩足を踏み入れれば、不思議とひんやりとした空気が漂っているように感じられる。
 茶治・レモン(魔女代行・h00071)は通りに軒を連ねている露店のすべてにカンテラが掲げられていることに気付くと、その金糸雀色の瞳を瞬かせて小さく唇を開いた。
「これが、魔法のカンテラ……」
 身近にカンテラがなかったこともあり、どの店先に並ぶ品にも思わず足を止めてしまう。職人のこだわりが感じられる装飾や細部の作り込みに、つい見入ってしまうのだ。
 色とりどりのガラス、星屑を溶かしたような装飾。植物を封じ込めたものもあれば、動物の姿を模したようなものまで――色や形、大きさ、素材すらも異なるさまざまなカンテラの数々が所狭しと並べられている光景は見応えがある。これだけあれば、お気に入りの一品を見つけることもできるだろう。
「これだけの数、選び放題では……!? あっ君はどうです?」
 レモンが肩越しに振り返った視線の先には、日宮・芥多(塵芥に帰す・h00070)が立っている。
 どうやら彼は既に目に留めたカンテラを手に取っていたらしく、その手には奇妙な形のカンテラが揺れている。
「お、魔女代行くんに良さそうなのを早速発見しました。これを持ってたら悪い意味で注目されまくって爆ウケ間違いなしですよ!」
 しかし、そう言って満面の笑みで差し出された魔法のカンテラはどう見ても『キモカワイイ』と称する以外に表現しようのない、奇抜なカンテラだった。
 ぐにゃりと歪んだ形、ギョロリとした目のような飾り。見ているだけで怖気が走るような奇怪極まりない色。それを眼前に差し出されたレモンからしてみれば、なぜこれを選んだのかと本気で問い詰めたいレベルである。
「キモカワイイのを探さないで下さい! そんな不名誉な注目を浴びたくないです、恥ずかしい」
「えー、結構良いと思ったんですけどねぇ」
 からり、からりと軽快に揺れる奇抜なカンテラは、まるで意思を持っているようだ。背筋に走る確かな寒気を感じながら断固拒否の姿勢を示したレモンに、芥多は肩を竦めてカンテラを元の位置に戻す。
 このままでは変なカンテラを押し付けられてしまう――そう予感したレモンが、芥多が意識を逸らしている隙に周囲に視線を走らせたのも道理と言えるだろう。幸いなことに、レモンが心惹かれるようなカンテラはすぐ傍にあった。
「……あっ君見て下さい。これ、蓋が魔女帽子みたいになってます」
「ん、何ですか?」
 レモンが指差した先にあったのは、白いとんがり帽子のような蓋をもつ可憐なカンテラだ。
 淡色のガラス部分には花と蔦が絡まったような装飾が施され、可愛らしさの中にもどこか気品が感じられる。細い取っ手に指を掛ければ不思議なほどに手にしっくりと馴染んだ気がした。
 レモンはぐるりと手元で回してから、芥多にも見えるようにカンテラを掲げる。
「ビビッと来ました。僕、これにします!」
 どうやら、彼が選ぶカンテラが決まったらしい。
 カンテラを大切そうに胸に抱えたレモンの表情は明るく、心なしか蒸気した頬を見て芥多はふと笑みを深める。「素晴らしい、魔女代行くんにお似合いじゃないですか!」そう言って手放しに誉める間にも、その手にはいつの間に取り出していたのかスマートフォンが握られていた。
「写真を撮ってあげますよ」
「え、写真撮ってくれるんですか? 珍しい……って、」
 ――はいチーズ、なんて合図もない。
 シャッター音は容赦なく鳴り響き、レモンが驚く間もなく画面には撮られたばかりの自分の姿が表示されている。
「ほら、持ってる姿が完璧でしょう?」
 画面をレモンに見せたかと思えば、スッと自然な動作でその画像は削除される。その間、僅か3秒の出来事だった。
「……すぐ消した! ひどい!」
 レモンが不満そうに頬を膨らませると、ふと芥多の表情が緩む。
 そうして「またからかって……」とレモンが呆れ気味に溜息を吐いた次の瞬間には、芥多の手には今度こそ彼自身が選んだ魔法のカンテラがあった。どうやら悪戯をしかける合間にも、しっかりとお気に入りを見つけていたらしい。
「――これが良い、俺はこれにします」
 彼の手に揺れるのは、天球儀を組み合わせたようなデザインのカンテラだった。
 真鍮で組まれた幾何学的なフレームにはアンティークのような趣があり、美しさの中にもどこか懐かしさが漂っている。
 更に目を惹かれるのは、天球儀の中に浮かぶ真白の白百合だろうか。ただひとつ、静かに浮かんでいるような白百合は光源はないはずなのに、その花だけが淡く、あたたかく輝いているように見えた。
「……俺の奥さんが好きそうな感じで、気に入りました」
「あっ君のもとってもお洒落! 奥さん、喜ばれると思います」
 やさしい眼差しでカンテラを見つめる芥多に、レモンもにっこりと笑って頷く。
 魔法のカンテラはまだ完成はしていない。けれど、月の光を受けてふたりの手元で灯るその様子がすでに目に浮かぶようだ。
 レモンと芥多は露店の店主からカンテラを買い取ると、それぞれしっかりと手に抱えて露店通りを後にする。
「これは奥さんへのお土産にします。……壊さずに持ち帰れたら!」
「壊さない様に走らず・騒がず・慌てずいきましょうね」
 せっかく自分の手で見つけた魔法のカンテラだ。
 絶対に無事に持ち帰ろう。そんな気持ちを胸に、芥多とレモンは心から頷き合うのだった。

夜鷹・芥
戀ヶ仲・くるり

「……完成するまでは、まだ光が灯らないんだったか」
 夜鷹・芥(stray・h00864)は腕を組み、一列に並んだ魔法のカンテラを眺めていた。
 港町の露店通りにはさまざまな店が軒を連ねており、そのすべての店で魔法のカンテラが飾られている。棚に置かれているものや柱から吊るされているもの、そのどれもが色や形をはじめとして使われている素材さえも異なるようだ。それだけに、この中からひとつを選ぶのは容易ではなさそうだと芥は首を捻る。
 その一方で、戀ヶ仲・くるり(Rolling days・h01025)も彼の横で興味津といった様子で店先を覗き込んでいた。活気に満ちた露店通りの空気そのものが彼女の心を浮き上がらせているようで、ひとつ歩くたびに視線の先が移っていく。
「いっぱい〜! どれ買おうかなぁ……」
 あっちにあるカンテラ可愛いかも。でも、こっちのも可愛いかも。なんて口遊んではきょろきょろと視線を巡らせるくるりの姿に、芥は小さく笑った。
 そんな声を聞いて芥を見上げたくるりは、ふと思いついたように人差し指を立てる。
「そうだ、芥さん。私の選んでくれませんか?」
「俺がくるりのを?」
 見上げるその瞳には、躊躇のない期待と信頼が宿っているようで。「責任重大だな」と口では言いながらも、芥の目元はどこか穏やかに綻んでいた。
「気に入って貰えるように頑張りマス。……じゃあ、お前も俺の選んでくれよ」
「これは重大任務……がんばって選びます……!」
 選んでもらう楽しみがあれば、相手を思って選ぶというのもまたひとつの楽しみと言えるだろう。他愛のない時間さえも大切な思い出に変わっていくようで、くるりは拳を握り締めて力強く頷く。
 そして集合場所を取り決めたふたりは、一旦露店通りで別れてそれぞれのカンテラ選びを開始するのだった。

 最初に視界を占めるほどの数が並んでいる魔法のカンテラを見たとき、芥はこの中からひとつ選ぶとなればそれなりに迷うだろうと思っていた。
 けれど、くるりのことを考えながら露店を見て回るうち、芥は自分が思っていたよりも迷うことはなかった。彼女のことをイメージするのなら、それはきっと――、
「……ああ、此れだな」
 棚に置かれていたカンテラをひとつ、手に取る。気に入った様子を見た露店の職人は、すかさずカンテラの構造や取扱い方法を丁寧に説明してくれるようだ。芥は律儀にそれを聞きながらひとり頷いて、視線の高さまで持ち上げたカンテラをぐるりを回して見る。
 それは、天辺に小さな硝子の小鳥が羽を休めている意匠のカンテラだ。中に納められているのはまだ淡く光るばかりの無色透明の鉱石で、何色に光るかは月の光を受けて初めて分かるもの。手掛けた職人さえも現状では分からないらしい。
「何の鉱石かは……そうだな、完成したときに解る仕掛けってのも良いだろ」
 そんな遊び心さえも、くるりらしいと芥は思うのだ。
 その光がどんな色になったとしても――きっと彼女なら、笑ってくれるだろうから。

 そうしてカンテラを選び終えたなら、あとは合流するだけだ。
 集合場所へと芥が戻ればそこには既にくるりがカンテラを持って佇んでいて、芥を見つけた途端にぱっと目を輝かせて大きく手を振る。
「どんなのかなっ、どんなの選んでくれたんですかっ」
 わくわくと弾むような期待を隠さず身を乗り出すくるりに、芥は先ほど選んだばかりのカンテラを差し出した。
「――わぁ、硝子の小鳥!」
 歓声を上げて覗き込むくるりに鉱石の仕組みを説明すれば、「どんな風に光るんだろ~! 待ち遠しいなぁ」と満面の笑みを浮かべたくるりに、どうやら気に入ってもらえたようだと芥はこっそりと胸を撫で下ろす。
 そんなとき、ふと目の端に可愛らしい影が駆け抜けた。
「お、すげぇ猫が走ってる。可愛い」
「そうなんですよ! じゃーん!」
 見て見てと芥の前に差し出されたのは、芥のためにくるりが選んできたカンテラだ。
 手元でカンテラをくるくると回せば、硝子の装飾の中で満ち欠けする月の意匠に合わせて小さな猫がぐるりと走っているように見えて可愛らしい。どやっとした表情でカンテラを渡すくるりに、芥はしばしその満ち欠けを眺めた後、不意に彼女に尋ねた。
「……くるり、そういや、なんで月を選んでくれたんだ?」
 芥の問いかけにくるりは少し首を傾げて、それからゆっくりと芥の目を見つめた。
「――ふふ、言っても芥さんには見えないかも」
 その言葉と共に、くるりはまるでお月様を見るかのようにやわらかく目を細める。
 夜空に浮かぶ月を仰ぐように。
 あるいは――目の前の誰かの瞳に、重ねるように。
 芥は一瞬、その視線の意味を測りかねて黙り込んでしまった。「見えない月ってどういう……」そう問いかけそうになったところで、芥はふと息を止める。彼女の言葉の真意が、まるで水面に浮かぶ月のように手が届きそうで届かない場所に隠れている気がして。だからこそ、ますます気になってしまう。
 答えを探すように芥がカンテラを見下ろせば、その天辺では小鳥は変わらず静かに羽を休め、そしてくるりの選んだカンテラの中では月の軌道をなぞるように子猫が走っている。
 どちらのカンテラもこのままでは大して光ることはなく、いまだ未完成のカンテラだ。けれどふたりのカンテラが並んだとき――まだ灯っていないはずの光がほんの一瞬、ほんの少しだけ、胸の奥でふわりと揺らめいた気がした。

井碕・靜眞
物部・真宵

 夏至を迎えた港町は、白昼の熱がじりじり石畳を焼くような暑さの中でも変わらずにぎわいに満ちていた。
 肌を刺す日差しから逃れるように色とりどりの鮮やかな布で編まれた天幕が連なる露店通りへと足を踏み入れた井碕・靜眞(蛙鳴・h03451)は、体の内に籠る熱を溜息とともに吐き出す。
「……この暑さも、そこそこ体に効いてきますね」
 そう呟きながら首元のネクタイを緩めて、ちらりと隣を歩く人物に視線を向ける。物部・真宵(憂宵・h02423)だ。
 この暑さ故か彼女の頬もわずかに火照りが見えたが、それでも暑さに疲れた様子もなくその目は輝いている。露店をひとつ、またひとつ覗いて楽し気に歩く彼女の姿を見れば、靜眞は胸の奥で何かがほどけていくような穏やかな気持ちになるのを感じた。
「でも、よかった。楽しそうな話でしたから、物部さんも気に入るかと思って」
 彼の言葉に真宵はそのまま足を止めて、胸の前に両手をそっと重ねた。
「夏至祭もカンテラを灯すお祭りも興味があったので……井碕さんにお誘いして頂いて嬉しいです!」
「カンテラと言えば、物部さんのお店で拝見した品以外にも、種類が豊富ですね」
「でしょう? よく見ればけっこう違いがあるんですよ」
 言葉に弾みがついた自分に気付いてか、その気持ちを抑えようと胸の前で重ねた手を握り締めて真宵はぐるりと辺りを見渡す。
 露店通りに並ぶカンテラは数多く、色も形も素材もさまざまだ。同じように見えても実は細部に職人のこだわりが宿っていて、アンティークショップを営む真宵にとって興味は尽きない。
 そんな中で、先にカンテラへ手を伸ばしたのは靜眞だった。
 ひとつのカンテラに吸い寄せられるように視線を向けた靜眞は、他よりも少し低い位置に置かれていたカンテラを手に取る。
 丸みを帯びた素朴でちいさなカンテラは決して目立つような装飾ではないものの、不思議と惹かれるものがあった。所々に浮いた錆すらも味わい深く、どこか懐かしさを誘うような雰囲気がある。まさにアンティークと呼ぶにふさわしい一品だろう。
「まぁ! 素敵なカンテラですね。では――わたしはこちらのカンテラを」
 靜眞がカンテラを手にしたのを見て、真宵もまたひとつ、そっと手を伸ばす。
 指先でそっと触れるようにして選び取ったそれは、こまやかな細工の施されたアイアン製のモロッコ風カンテラだ。繊細な透かし模様が月影のようで――彼女らしい、奥ゆかしい美意識がにじむような一品だと靜眞はそうと目元を緩めた。
 きっとどちらのカンテラも、光を灯せば美しく輝くのだろう。しかし、このカンテラは未完成のものだ。中を覗けばガラスの内側には、まだ光を持たない鉱石が沈黙を保っている。
「これに月の光を……魔法が実在する世界らしい表現ですね。確かに、すこしだけ浪漫のある泥棒かもしれません」
「ええ、本当に。それに『月の光を奪う』だなんて。詩的ですよねぇ」
 露店の店主から買い取ったカンテラを手に抱えた靜眞がまじまじとカンテラを見つめると、真宵も相槌を打って空を見上げた。
 白昼の空には太陽は高く輝いていて、月は姿はその目には見えない。けれど、月が落ちてきたと子どもが言うように、夜になればその光がこの港町を悩ませるのだろう。その怪奇現象を解決するためにふたりは来たのだからと、靜眞はまるで内緒話をするように軽く口元に人さし指を立てる。
「花盗人という言葉はありますけど、今回の役目は――月盗人、ですかね」
 それを聞いた真宵は、ふっと小さく笑い声を漏らした。
「……絶対に届かないものに触れてしまうのって、何だかわるいことをしているみたいで、少しどきどきしますね?」
 その目に浮かぶのは、ただの興味だけではない。
 まるで子どもの頃、誰にも言わず秘密の場所に忍び込むような、秘密を分け合うような。彼女の瞳は、そんな煌めきに満ちていた。
 その煌めきを間近で見ることになった靜眞が「……そうですね、捕まらないようにしないと」と頷けば、真宵はよりいっそうと笑みを深める。
「ふふふ。それじゃわたしたち、共犯ですねぇ」
 真宵は口元に手を当て、誰にも聞かれないようにとそっと囁いた。その仕草はまるで内緒話そのもので、靜眞も知らずのうちに口もとに笑みを浮かべている。
 ふたりの手の中にあるそれぞれのカンテラは、まだ光らない。けれど――どこか、すでに何かを灯しているようにも見えた。
 それが光なのか、想いなのか。あるいは、共犯という名の目に見えない絆なのか。答えは、月が満ちた夜が教えてくれるのかもしれない。

沙賀都・ラピ

 白夜――それは、陽が沈まない夜のこと。
 知識としては持っていた現象だが、その異変が実際に起きているというのであれば困った話だ。空は明るいまま夜の帳は降りず、人々は祭りを始めるきっかけを見失い、海とて夜の闇を好む魚たちは光の下で苦しむことになる。
「……それは困ったことだね」
 沙賀都・ラピ(湾の尾・h06749)は、目の前の景色をじっと見つめた。
 港町の露店通りには数々の魔法のカンテラが吊るされており、今でこそ活気付いているように見える。しかし事実としていまだ祭りが開催されることはなく、その準備も進んでいないようだ。このままでは日没後には、件の白夜を目にすることになるだろう。
「ならば、行かなくては――」
 小さく呟き、彼女はゆっくりと人混みの中に足を踏み入れる。
 海に生きる者として、海辺に暮らす者たちの憂いを放っておくことはできなかった。

「かんてら、カンテラ……ふぅん。いろいろなものがあるんだね」
 露店通りを進むほどに、吊るされた魔法のカンテラたちも次々と表情を変えていく。
 丸いもの、尖ったもの。大きなもの、小さなもの。普通のカンテラのように見えるものもあれば、見るからに魔法道具らしい形をしているカンテラもあるようだ。ラピはそのひとつひとつに目を通しながらも、どこか自分にしっくりくるものを見つけられずにいた。彼女にとって大切なのは使い勝手がよいものであり、ただ美しい、珍しいというだけでは心が動かない。
「とはいえ、僕はこういった道具にはあまり詳しくない。どんなものが良いのか……」
 立ち止まって考えた後、ふと、微かに口元を緩めた。
「……嗚呼、そうだね。こんな時は、店の人に聞いてみるのが良いんだったか」
 そう判断するが、早く。ラピはすぐ近くの露店にいた老職人に話しかけると自分の用途を淡々と告げる。
 ダンジョンに持ち込むことを思えば、軽くて使い勝手が良いような実用的なものであるほうが望ましい。決して華美である必要はなく、どちらかといえば手に馴染むかどうかのほうが彼女にとっては大事な条件だ。
「あとは、そうだな……」
 悩むような、少しの間。
 ラピは通りの向こうに見える海を見つめて、ふと口もとを緩ませる。
「――装飾が付いているものなら、何か海を思わせる物が良いな」
 僕がいったようなカンテラはあるだろうか。ラピがそう問いかければ、老職人はしばしラピを見つめた後にやがて鷹揚とした仕草で頷いた。
 老職人は重い腰を上げて立ち上がると、店前に並べていたカンテラではなく奥に置きっぱなしにされていた箱からひとつのカンテラを取り出してくる。節くれ立った老職人の手がゆっくりとカンテラを運び、目前まで差し出されるまでをラピは静かに見守っていた。
 そうして差し出されたのが、銀青色の細工が施された薄い貝殻のようなカンテラだ。外殻には微細な波の模様が彫り込まれ、内部には真珠の粒のような鉱石がひとつだけ置かれている。
 その繊細な見た目にラピは僅かに眉を潜めたけれど、実際に手に持てば軽く、その外殻は想像するより硬いようだ。これなら多少手荒に扱ったとて壊れることもないだろう。ラピは無言でそれを手に取り、しばし見つめた後に小さく呟いた。
「……これは、良いものだ」
 このカンテラであれば、白夜を越えて、月の光を奪う小さな旅路の供になってくれることだろう。
 海の気配を連れて歩く彼女の手元で揺れるカンテラは、まだ光ることを知らないけれど。きっと夜を照らす月の光がよく似合う。やさしく瞬く月の光を思い浮かべるようにラピは目を伏せて、やがて静かに踵を返した。

アンジュ・ペティーユ
結・惟人

 太陽はまだ空の高みにあったが、頭上を越えてゆっくりと西に傾きはじめていた。
 白昼の陽射しは肌を刺すように強く、行き交う人々を燦々と照りつけている。それでも港町の通りを進むふたりの足取りはとても軽やかなものだ。その視線の先では、色とりどりのカンテラが並べられた露店が軒を連ねていて、魔力を帯びた不思議な品々が所狭しと置かれている光景はまるで道行く人々を誘っているようだ。
「――わあ! 魔法のカンテラだ!」
 アンジュ・ペティーユ(ないものねだり・h07189)は声を弾ませながら駆け寄ると、きらきらと輝く瞳でカンテラを見つめる。
 木枠のもの、鉄製のもの、丸い硝子に覆われたもの。それぞれが異なる素材で作られているカンテラたちは、一見して同じように見えるものでも同じものはひとつとしてない。細かなところまで施された意匠からは職人のこだわりさえ感じられそうだ。
「色んなカンテラがあるね。あたしは日々の素材探しでも使える子にしようかな……持ち運びのしやすい子がいいかも」
 アンジュは片手で腰のあたりをぽんと叩きながら、自分の目的に合いそうなカンテラをいくつか見比べる。その隣で、結・惟人(桜竜・h06870)もまた静かにカンテラを眺めながら頷いていた。
「アンジュはどんな形が好きだ?」
「あたしは……小さくて、それでいて繊細な子がいいな。惟人は手に馴染む子?」
「あぁ。折角なら、夜の散歩に使いたい。アンジュの手伝いをする時にも良いな」
 そう言いながら、惟人はさっそく目に留めたカンテラに手を伸ばす。
 手に取ってみれば、それは取っ手の曲線が掌にしっくりと馴染むような程良い重さのものだ。装飾もさりげなく、ガラスの外縁には小さな花があしらわれているもので普段使いにも申し分ない。そして何より、光を灯せばきっと美しい輝きを放つことだろう。
「私はこのカンテラが気になる。綺麗な光を見せてくれそうだ」
「惟人の子、花の飾りがついててかわいいね!」
 一方で、アンジュも自分のカンテラを無事に見つけることができたようだ。
 アンジュは棚の高いところに背を伸ばすと、そうっと落とさないように慎重にカンテラを手に取って見せる。
「なら、あたしはこっちの蔦のベルトの子にしようかな」
 彼女が選んだのは、細いベルトのような金具につる草の意匠が編み込まれたカンテラだ。
 それは小さく軽やかで、腰に下げれば歩くたびにやわらかく揺れるだろう。目線の高さまで持ち上げて覗いてみると、カンテラの中には橙色の石が沈んでいるのが見えた。月のひかりを受けることができれば、この石があたたかな光を灯すのかもしれない。
「ちょっとお揃いみたいで、かわいいなって思って」
「蔦に花……本当だ、お揃いみたいで良いな。アンジュが選んだのも素敵だ」
 惟人はそう言って、彼女の選んだカンテラに視線を落とす。
 ふたりの選んだ灯りは、異なる意匠でありながらもどこか不思議な統一感があった。違うようでいて、共鳴しているような――そんな印象を覚えて、惟人は木蓮のような淡黄色の瞳をゆるやかに細める。
「これを灯せば、夜でも探し物が楽に出来るな」 
 さっそく行きたくなってしまったと呟きながら、惟人はまじまじと自分で選んだばかりのカンテラを見遣る。
 初めての、自分用のカンテラだ。装飾を確かめるように何度か手元でくるくると回して、それから両手でしっかりとカンテラを持ち直した惟人の眼差しはどこか子どものように無邪気で。それでいて、少しだけ誇らしげなようにも見えて。アンジュは釣られるように自然と口もとを綻ばせて、彼と同じように自分のカンテラを胸に抱えた。
「……大切そうに抱えるキミの顔につられて、あたしも笑顔になっちゃうや。うれしいね!」
「あぁ、嬉しい。――夜が待ち遠しいな」
 ふたりは視線を交わし合った後、まだ灯らぬ小さなカンテラを大切そうに手にしたまま並んで歩き出す。
 夜になればきっと、月の光がこのカンテラたちやさしく照らしてくれるだろう。露店通りに響いたふたりの笑い声は、波の音とともに遠くまで流れていく。穏やかな夜が、もうすぐそこまで来ているようだった。

絹更月・識
花牟礼・まほろ

「ほら見て、識くん! カンテラがいーっぱい!」
 とある港町の露店通り。魔法のカンテラが所狭しと並べられている中で両手を広げて振り返った花牟礼・まほろ(春とまぼろし・h01075)の笑顔は、白昼の太陽にも負けないほどきらきらと輝いていた。
 まるで光そのものを跳ね返すような無邪気な笑顔に、絹更月・識(弐月・h07541)は「ん、言われなくても見てるって」と軽く息を吐きながら、どこか忙しない様子のまほろを宥めるように落ち着けと声を掛ける。すると、まほろはぴたっと識の隣に落ち着いたけれど、その表情は変わらずにこにこと楽し気なままだ。
 それもそのはず。普段は図書館にいる識が外にいることはほぼ無いに等しく、まほろからしてみれば一緒のお出かけが嬉しくて仕方ないのだ。
 識としても図書館から出た理由はいくつかあるものの――彼女がそこまで喜ぶのであればたまにはいいか、と自分に言い聞かせながら今度は少し深めに溜息を吐いた。実際、この港町で開催されるという祭りに興味があったのも事実なのだから、こうして来てしまったからには件の魔法のカンテラを調達する必要がある。
「ね、ね、暑くない? ジュース買おっか?」
「……飲みモン? お前の好きなもんでいいよ」
「ふふっ、じゃあラムネ買ってくる! お金預かりますっ」
 露店通りに足を踏み入れながら、何かと世話を焼こうとするまほろに識は肩を竦めて応じる。一応年上なのだからと彼女の掌に駄賃を置けば、しっかりと受け取った駄賃を手を握ったまほろはやはり笑顔で駆け出していくのだった。

 しゅわしゅわと弾けるさわやかなラムネを楽しみながら、識とまほろはカンテラを選ぶために再び露店の奥へと足を進める。
 右を見ても左を見てもカンテラが並べられているが、そのどれもが色や形が異なっていて見ているだけでも飽きない。使われている素材すらも異なるせいか、まだ光を灯さない未完成のカンテラでありながら不思議な魅力を放っているようだ。
「カンテラはどれにしよっかな? うーん……お月様、猫さん……」
 棚を覗き込んだまほろは、いくつかのカンテラを見比べながら小さく首を傾げる。
 どうせなら図書館に置けるものがいいだろうか、と考えた彼女が最初に手に取ったのは金色硝子に猫の透かし彫りが施されたモロッコ風のカンテラだ。慎重に棚から取り出すと、まほろは細部の意匠を確かめた後に識の前に差し出した。
「あ、コレとか可愛いんじゃない? 識くんにピッタリだよ」
「……かわいすぎない? もしかして、これ僕のイメージか?」
 光さえ灯せればなんでもいい、と思っていた識にもそのあまりに可愛らしいカンテラには少し面食らった様子だ。
 何度か目を瞬かせた識は言われるままに手に取って、軽い仕草でカンテラを揺らしてみる。どこかやわらかな繊細な形は、意外と手にしっくりと馴染んだようで――悪くない、とは声に出すことなく識は口を開く。
「お前、自分のは?」
「……あ。まほろの分、忘れてた! え、ええとね……!」
 聞けば、どうやら自分の分をすっかり忘れていたらしい。
 慌てた様子で棚と識の間を行ったり来たりしている視線に識はまた肩を竦めて、それから目に留めていたひとつのカンテラを彼女の手に持たせた。「なんで自分のから選ばないんだよ」と苦笑しながらも、選んだものは彼女に似合いのカンテラだ。
 それは銀白色の金属を使って繊細に作られていて、持ち手は鳥籠を思わせる。嵌め込んだ硝子の表面には花模様の意匠が淡く浮かんでいるのが見えて、まほろの手に持たせてみればやはり違和感がない。しっくりと来た様子で識が頷けば、カンテラを見つめたまほろの新緑の瞳がきらきらと輝きはじめた。
「わあ、これ、選んでくれたの? ありがとう識くん!」
「別に。落とさないように、しっかり持っときなよ」
 何気ない口ぶりながら、それでも識の口もとが少しだけ弧を描く瞬間をまほろは見逃さなかった。
 まほろは喜びをめいっぱいに噛み締めるように、識に選んでもらったカンテラをぎゅっと胸元で抱きしめる。
「……大事にしすぎ、大げさ」
「えへへ……ずーっと、大事にするね!」
 まだ光は灯っていないカンテラなのに、胸の奥ではもうあたたかな光が灯っているようで。
 その灯りをそっと抱きしめるように、まほろは幸せそうに微笑んだ。

神元・みちる
和田・辰巳
真心・観千流
ユナ・フォーティア
ベニー・タルホ

 港町の空に昇る太陽がゆっくりと西に傾きはじめる頃。
 にぎわう露店通りへと訪れた一行は、軒を連ねている露店のすべてに所狭しと並べられたカンテラを見て、感嘆の声をあげる。
 カンテラ祭り――夏至の季節になると、この港町では死者を弔うためにカンテラを灯すお祭りが開催されるらしい。この露店通りに並べられているカンテラたちも、そのために職人の手によって誂えられたものだ。
「まずはカンテラの用意! ――だけど、皆で送り合おう!」
 自分で選ぶのと人に選んでもらうのとでは、見方も違って意外なものになるかもしれない。楽しそうだと笑って、まず一歩を踏み出したのは神元・みちる(大きい動機 okey-dokey・h00035)だった。
 目の前に広がる露店の数々と、棚にずらりと並んだ色とりどりのカンテラたち。そのどれもが個性豊かで、彼女の好奇心をくすぐるようだ。わくわくと目を輝かせながら、一際目を惹いたカンテラに手を伸ばす。
 それは灯りの面が全て異なる色で彩られた、ステンドグラス風のカンテラだった。手元でくるっと回して見ればどの面も違う柄がきらきらと華やぐようで、みちるは自分が贈る相手――ユナ・フォーティア(ドラゴン⭐︎ストリーマー・h01946)を思い浮かべながら、よりいっそうとその目を輝かせる。
「……ん、これ、ユナっちに似合いそうじゃん! 明るくて派手で、どこか自由な感じ!」
 よく見ればカンテラそのものが建物のような形をしていて、小さな塔のように見えるところも良い。
 誰かに贈るとなると悩んでしまうものだが、考えすぎもよくない。直感を大事にしようと決めたみちるは「これに決めた!」と笑みを深めて、選んだカンテラを大事に抱え直した。
 そのすぐ近くで。
 和田・辰巳(ただの人間・h02649)もまた、真心・観千流(真心家長女にして生態型情報移民船壱番艦・h00289)に贈るべきカンテラを選んでいた。
 あまりこういった賑やかな場所には慣れていない辰巳だったが、けれど仲間と共に買い物を楽しむのは悪くない。ドキドキと高鳴る緊張感を呑み込むように深呼吸をひとつ、辰巳はふと足を止めた。
 彼の目に映っていたのは、上部の深い青色から徐々に橙と白のグラデーションに変わっていくカンテラだ。その色の移り変わりに新しい1日の前触れを見るようで、辰巳は独り言のように呟く。
「……真心さんが持つに、相応しい物」
 彼女の来歴を考えれば、夜明けをイメージさせるような物が良いだろうと辰巳は考えていた。
 それならば、まさに目の前のカンテラが相応しい。辰巳は慎重にカンテラを手に取って、ガラスに描かれた風景をじっくりと見る。――そんなとき。彼の背後からひょこりと顔を出したのは、まさに彼がカンテラを贈る相手である観千流だ。
「なるほど、そうきましたか」
「わ、真心さん!」
 驚いた様子の辰巳を余所に、観千流はカンテラを覗き込みながら、ふと目元を緩める。
 どうやら観千流にとっては意外な選択だったらしい。しかしそれこそが、人に選んでもらう楽しみ方というものだろう。
「……うん、私を作った人達も喜んでくれると思います!」
 月の光を受けて、どんな色に輝くのか。今から楽しみだと笑った観千流を見るに、どうやら気に入ってもらえたらしい。我ながら中々良いチョイスができたと胸を張る辰巳であった。

「――さて、次は私のセンスを見せる番ですね!」
 ここは団長らしく、センスの良さをビシッと見せてあげましょう。
 そう言って真剣なまなざしでカンテラを見比べる観千流が贈る相手は、ベニー・タルホ (冒険記者・h00392)だ。記者として毎日忙しくあちこちを飛び回る彼女のことを考えるならば、木製のものが良いだろうか。
 いくつかのカンテラを見比べた後、まさに思い浮かべていたイメージに合うものを見つけた観千流は満面の笑みでひとつのカンテラを手に取る。
 それは鳥の巣箱や止まり木を連想するような、暖かみのある古木のカンテラだ。少し丸みを帯びた形状に繊細な彫り。彼女を渡り鳥と例えるなら、その羽を休める巣のような――そんなカンテラが良い、と観千流は思うのだ。
「どうです、見事なセンスでしょう?」
「おお。これは、まるで実家のような安心感。私の祖霊も喜んでいます」
 どやどやと自信たっぷりに差し出されたカンテラを受け取って、ベニーはしみじみと頷く。手に持ってみれば指先まで馴染むようで、ベニーは観千流に感謝するばかりだ。
 そうして次は、ベニーが選ぶ番となる。自分も辰巳へ贈るカンテラを選ぶなら素敵な一品を選びたいものだ、と気を引き締めたベニーは視線を棚に戻すと、やがて多くのカンテラの中から一際目を惹いたカンテラに手を伸ばす。
「辰巳さんには……これかな」
 それは、昔の船乗りたちが使っていたといわれている航海灯のカンテラだった。
 持ち運び用のハンドルを後付けしたような変わり種だったが、ベニーがその構造を確かめるように覗き込めば、照らす方向を定めるための覆いと赤色のフィルターが備えられている。一見すると実用性重視の無骨な作りにも見えるが、実際に使われていた航海灯なのか、ところ変わればアンティークのような趣さえ感じられた。
「赤い月のような光を放つところが見られる……と、思う」
「綺麗な赤い月の光が見られるように頑張ります……!」
 それはきっと、船乗りが進む道を照らすように。進むべき道を見失わないように。
 船海灯らしく彼の道も照らしてくれることだろうと、ベニーは静かに微笑んだ。
 ――その一方で。
 ユナもまた、みちるに贈るためのカンテラを探していた。色や形、使われている素材さえも多種多様なカンテラを前に、ユナは改めてみちるのイメージを固めていく。
「みちる氏は、やっぱり刀ってイメージ強いかな~」
 それなら、とユナが手を伸ばしたのは彼女の信念の如く硬く、煌々と輝くような鉄製のカンテラだ。
 上部は黒から白へ、刃文を思わせるグラデーションが目を惹くようで、取っ手には刀の柄を模した装飾。より彼女のイメージに合わせるならば、赤いリボンを巻けば完璧だろうか。視線の高さまで持ち上げたカンテラをしっかりと確認したユナは、イメージにぴったりのカンテラを見つけた満足感にふくふくとした笑顔を浮かべていた。

 こうして彼女たちの手に渡ったカンテラは、それぞれを想う気持ちから選ばれたものだ。その想いごとカンテラを受け取ったなら、気に入らないはずもなく。まだ光ることを知らない魔法のカンテラが何色に灯るのか――それは、今夜のお楽しみとして。
「よーし、出発だー!」
 応と手を上げて笑い合った5人は、カンテラを揺らしながら歩いていくのだった。

雨夜・氷月
李・劉

 行き交う人々でにぎわう露店通りの中でも、一際静かな一角。幻想的な魔法のカンテラがゆらめく露店の前で足を止める。
 宵月のような深い藍の瞳を瞬いた雨夜・氷月(壊月・h00493)は棚に並べたカンテラを見下ろすと、僅かに唇を吊りあげた。カンテラという名前を持ちながら、それはいまだに光ることも知らないらしい。それぞれ趣が異なる硝子の奥にはまだ目覚めない鉱石が眠っているようで、曰く、月の光を受けてはじめて煌々と光ることができる代物のようだ。
「……魔法のカンテラ、だって」
 囁くようなひそやかな声で、氷月が口を開く。その声はどこか愉快そうにも聞こえたけれど、瞳の奥には鋭い静謐が宿っていた。
 氷月は数々のカンテラの中からひとつを手に取ると、太陽の光に透かすように硝子の反射を目で追う。
「そういえば劉ってなんかお店やってるんだっけ。……アンタの店もこういうの取り扱ったりするの?」
「あゝ、私もこういった不思議な品を扱っている。様々な力を秘めたネ」
 氷月の声に応えたのは、傍らに立っていた李・劉(ヴァニタスの匣ゆめ・h00998)だ。硝子の反射を目に留めながらも、劉は肩を竦めるように笑った。
 どの世界にも奇妙で不可思議な代物は眠っているもので、そして必要な者には必要な物が縁付くものだ。それは彼が営む店でも同様らしく、氷月はカンテラを棚に戻しながら「今度劉の店にも遊びに行こうかな」と嘯いた。
「ふふ、君なら大歓迎だヨ。愉しんで頂けそうな品をご用意しよう」
「ははっ、楽しみにしてるね」
 歓迎を示すように劉が手を広げれば、氷月も僅かに頬を緩めて応えるのだった。

 閑話休題。
 さて、と両の手を腰に置いた氷月は周囲をぐるりと見渡すように視線を巡らせる。
 並べられたカンテラは数多く、この中からひとつを選ぶとなると中々に悩むものだ。いくつか手には取ってみたものの、何故だかしっくりこないような気がして。共にカンテラを見ていた劉を肩越しに振り返ると、氷月は棚を指差しながら問いかけた。
「ねえ、どれが俺に似合うと思う?」
 ――アンタの俺の印象、教えてよ。なんて、問いかけは軽やかでありながらも、どこか挑むようにその真意は深い。まるでどこまで見抜いているかを静かに試すような声音に劉は少し視線を逸らすと、カンテラのひとつひとつを吟味するように目を細める。
 美しい耀きが眼前にあると謂うのに、其れはまるで夢幻のように掴み所がない鏡花水月。然し、研ぎ澄まされた蒼は鋭い繊月にも似る――そんな彼に相応しいカンテラを自分が選ぶというのは、なかなかに大役だ。しかし、迷うことはない。
 棚の中にただひとつ、劉の目に留まるカンテラがあった。それは鳥籠を模したようなカンテラで、円筒状の硝子の内には細い三日月の装飾が閉じ込められている。アンティーク調の繊細な作りをしたカンテラの取っ手を慎重に手に取ると、劉は氷月の前に差し出して見せた。
「……其の眸が如く繊月を秘める此方は如何かな?」
 カンテラを手に取った氷月はしばらく沈黙して、やがて静かに微笑む。へえ、劉には俺がそう見えてるんだ。
 言葉少なに、けれど気に入ったように手元でカンテラを軽く揺らして遊ぶ氷月に、今度は劉が問いかける。
「よければ、君からも聞いてみたいナ。私の印象とやらをネ」
「俺のセンスでいいの? そうだなあ――、」
 僅かに首を傾げて、劉をじっと見つめる氷月。
 彼の脳裏に浮かんだのは、胡蝶の夢だ。まるで掴みどころのない紫煙のように、それは形を変えてどこにも留まらない。そして仄かに感じる死の気配。浮かんでは消える印象を整理した頃には、劉に相応しいモチーフは決まっていた。
 彼のために意匠を選ぶなら、彼岸花だ。
 そうして氷月は劉から視線を逸らすと、棚の中からひとつのカンテラを選び出す。細い指先が取っ手に掛かり、氷月はそのまま流れるように劉へと受け渡した。
 それはつい先ほど劉が選んだものと同様に円筒型に作られたアンティーク調のカンテラだったが、中を覗いてみれば意匠が異なっており、硝子の内側には無色の死人花が静かに咲いている。傘や枠に留まる紫蝶の装飾はまるで花に誘われるように数匹があしらわれており、幻想的なデザインの中にも遊び心を感じるようだ。
「ほら、花が灯りになるコレはどう?」
「……ふふ、良いネ」
 劉はカンテラを見つめ、どこか嬉しげに口角を上げる。
「人から聴く己の印象というのも面白いものだ。――では、此方を頂こう」
 ふたりはそれぞれに選んだ灯りを手にして、夜の帳を待つ。
 カンテラにはまだ光は灯っていないけれど、選んだその瞬間から既にふたりの中には仄かな火が灯っているようだ。
 露店通りから踵を返して歩いていく彼らの影と共に太陽も西に傾いて、いずれ海の向こう側に沈んでいく。それでも空は明るいまま――静かな夜が始まろうとしていた。

ヒュイネ・モーリス
チェスター・ストックウェル

「死者を弔うお祭りに使われるカンテラを俺たち二人が探してるのって――あはは、最高にイカしてない?」
 皮肉混じりの冗談は、揶揄するような含みを持たせながらも声は明るく、まるでこの状況を楽しんでいるかのようだ。
 チェスター・ストックウェル(幽明・h07379)の声に淡々と頷きながら露店通りを進むヒュイネ・モーリス(白罪・h07642)は、「うっかり成仏しないように、きみには特段気を付けてもらわないと――」と囁いたところで口を噤み、宙に寝転んだ姿勢のまま人混みの上をふわふわと漂っているチェスターを横目に見遣る。
「……せめて、普通に横にいて?」
 表情に変化はあまりない。けれど、その声音には僅かに呆れた色を乗せている。
 しかしチェスターに堪えた様子はなかった。まだ太陽の光が降り注ぐ空を仰ぎ、ふわりと可笑しそうに笑う姿はまさに浮遊霊のようだ。人混みのざわめきも、露店通りの熱気もどこか遠くに彼だけが現実から少しだけ浮いているようで、ヒュイネは無言で肩を竦める。「分かった、分かったって」浮いている方が気楽なものだが、薬屋さんを見失うわけにはいかない。
 ひと呼吸を置いて、仕方ないとヒュイネの隣に降り立ったチェスターが並んで歩き出せば、港町の活気をより近く感じられるような気がした。
「英国ではハロウィンも諸聖人の日も、あんまり盛り上がらないしなあ。ヒュイネのいた√でもこういうお祭りはあった?」
「……さあ、どうだったのかな」
 わたしは栄えてた時期を知らないから。そう言って首を傾げて見せるも、どこか関心は薄いようで。まるで遠い昔の記録を眺めているように他人事にも聞こえる言葉に、チェスターは少しだけ目を細める。――そんなとき。
 露店に並ぶさまざまなカンテラの中から、ひとつのカンテラに自然と視線が向いた。
 それは波を模したフレームに青みがかった硝子を嵌め込んだような、涼やかなカンテラだ。
「……ん? 何かいいの見つけた?」
「うん、俺はこれにするよ。ほら、暑い夏にぴったりだから」
 ひんやりとした取っ手に指を掛けて、チェスターはカンテラを手に取る。陽の光にかざして見れば、波が揺らめいたような気がした。
 その一方で。どうやらヒュイネも自分のカンテラを見つけたらしい。
 棚の中からカンテラをひとつ取り出したヒュイネは「わたしはこれかな」と言って掲げて見せる。それは命の灯をともすような真っ赤な曼殊沙華の意匠をあしらったカンテラで、いまにも硝子の中で赤色がじんわりと広がっていくような気配がしていた。
「別名、幽霊花っていうんだよ。ふふ」
 表情が乏しくとも、僅かに吊り上がった唇が彼女の機嫌の良さを表しているようで。
 意表を突かれたように一瞬言葉を失くしたチェスターに、ヒュイネはその花と同じ赤い瞳をゆるりと細める。
「きみのことも想ってわざわざ選ぶなんて。わたしって、割とロマンチストだよね」
「……ふん、偶然目に入って選んだだけだろ」
 自画自賛というにはあまりに平坦な口調なのに、彼女の声に揺らぎはない。
 その言葉の奥底に確かにある感情から意識を逸らすように鼻を鳴らして――けれど、チェスターも確かに笑っていた。
「――でも、ヒュイネの目の色にも似てるね」
 まあ、悪くないんじゃない。そう呟いて、チェスターは選んだカンテラをしっかりと手に握り直す。
 波と花。対照的なモチーフを持つカンテラがふたりの間で揺れていた。
 もうしばらくもすれば太陽は沈み、やがて眠れない白夜が訪れる。そしてこのカンテラたちにも月の光が灯る頃、誰よりも死に近いふたりが選んだカンテラはきっとどんな光より静かに、けれど確かにふたりが歩む道を照らしてくれるだろう。

緇・カナト
八卜・邏傳
野分・時雨

 昼下がりの港町には、陽光がまだ強く照りつけていた。
 けれどそれもどこか丸みを帯びて、足元から伸びた影は徐々に長くなる。気が付けば、青空の端にほんのりと金色のほつれが現れはじめている。日没にはまだ少し早いけれど、太陽だけが支配していた時間はゆるやかに終わりへと近づいているようだ。
 そんな空の下で。露店通りを歩く影が3つ、肩を並べて揺れている。
 魔法のカンテラを探しに来た彼らの足取りは風のように軽やかなものだ。しかし、ふと何かに気付いたようにひとりが足を止めた。緇・カナト(hellhound・h02325)だ。
「このメンツで買い物行くのって、実は初めてだったりするような……?」
「初めてでございますねぃ。つまり、ここで初めて各個のセンスが問われるというわけです」
 カナトの疑問に答えたのは野分・時雨(初嵐・h00536)で、いざ言葉にしてみれば一気に緊張感が増すようだ。彼らの視線は早くもカンテラが所狭しと並べられた一角に釘付けになっている。――その一方で。
 わずかに張り詰めた空気を気にも留めない者もいた。「わーい! 一緒にお出かけ♡」なんて言って、弾んだ声を上げた八卜・邏傳(ハトでなし・h00142)は若竹色の瞳を輝かせながら棚の上に身を乗り出すようにしてカンテラを見つめている。棚に並べられているカンテラの数々は使われている素材はもちろんのこと、その色や形もすべてが異なるようで興味は尽きないらしい。
「どんなものが好きなのか、知れるのも割と楽しいよねェ」
 そう言いながら、最初にカンテラへ手を伸ばしたのはカナトだった。
 少し低い位置に置かれていたカンテラの取っ手を掴んで引き寄せたカナトは、ゆっくりと目線の高さまで持ち上げてみる。それは四角形の、ごくありふれた形だ。それでもカナトが目を惹かれたのは、その中が驚くほど透明度の高いガラス細工で作られていたからだろう。
 目線の高さよりもさらに高く、太陽の光で透かしてみればきらきらと輝く様がまるでスノードームのようだ。いくつか同じような形をしたカンテラが並んでいたけれど、カナトはその中でも蒼い花が咲いている装飾が施されたカンテラを選んで静かに笑った。
「うん、気に入った。水底に花畑もあるようで幻想的じゃない?」
 まだこのカンテラが光ることはないけれど。
 月の光を灯したなら、その灯りの中にも花びらが浮かび上がるのだろう。
「カナトちゃんの水中の花畑ちゃん、めちゃ綺麗♡ すんごいお洒落だわぁ」
「お買物の判断早い……!」
 まるで水中花を手にしているような、中の世界に惹き込まれるような。カナトの手中に納まる美しいカンテラに感嘆の声をあげながら、彼に続くべく時雨と邏傳も自分のカンテラを探そうと周囲をぐるりと見渡す。
 そうして次にカンテラを選んだのは邏傳だ。「俺はねーこれ!」といって上機嫌な様子で差し出したそれは、丸みを帯びたガラスで作られている。特徴的なこといえば、表面に魚の透かし彫りが施されているためか、光が差したときに魚たちがまるで水の中を泳いでいるように揺れて見えるところだ。
 しかし、よくよく見れば中には細かな貝砂に赤や青に色付いた星のような石が埋め込まれていて、ヒトデが住んでいる砂浜のようにも見えることに気付いた時雨が黄金の瞳を瞬かせる。
「おや、綺麗な星のようなヒトデ。砂も入って海と夜空の両方あるんだ!」
「そなの、欲張りちゃん☆」
 ゆらり、ゆらりとカンテラを軽く揺らして笑った邏傳に、時雨は「ぼくはどうしようかな~」と首を捻る。
 カナトの花畑のようなカンテラも、邏傳の星空を思わせるカンテラもどちらも素敵なものだ。それに、いずれも意匠こそ異なるものの共通点もある。水中のようで涼し気なカンテラたちを横目に、時雨は棚から棚へと視線を移していく。
 悩むことしばらく、やがて時雨が手に取ったのはやはりガラスのカンテラだった。
 淡い水色から徐々に深まっていくグラデーションは水中を思わせ、底面には小さな魚の絵が描かれている。覗き込めば魚が水の中で泳いでいるようで、持ち手の部分にはあしらわれた水蓮の彫刻も相まって静かな池のような趣があった。
「じゃ、ぼくコレ。海ってか、池かな」
「底にお魚ちゃんいるの可愛〜♡」
「時雨君は水妖らしく、海底みたいなの好きだよね」
 カンテラの底を見る時雨に釣られるようにふたりも覗き込めば、そこには自由気ままに泳ぐ魚がよく見える。そのうちカナトが「鮭のような魚は泳いでないのー?」と聞くので、これは鮭じゃないと首を振りながらも少し不安を覚える時雨がいた。

 そうして3人でお互いのカンテラを楽しく眺めていれば、露店の喧騒も少し遠くに感じられるようだ。
 陽射しはますますと西へと傾いて、ふとガラスに映る光の黄金色も随分と深まっていることに気付く。カンテラたちはまだ灯っていないけれど、月の光を受けたならこのやわらかい灯のように輝くのだろうか。
 これから向かうダンジョンを思いながら、3人はそれぞれ選んだカンテラを落とさないようにしっかりと持ち直した。
「………木彫りのカンテラとかあるんだ」
 露店から踵を返す、その一瞬。
 不意に既視感を覚えたカンテラに戸惑いつつ、時雨は今回は見送ろうと静かに視線を逸らすのだった。

クイント・クリエンテス

 水族館。月光。魔法のカンテラ。
 耳にした言葉のひとつひとつが、クイント・クリエンテス(初春の星読み・h04957)の好奇心を静かに揺さぶるようだ。彼の目には、港町のにぎわう空気さえどこか特別な色合いを帯びて見えていた。これだけだくさんの種類のカンテラを作られていることも踏まえれば、町の住民たちにとってもカンテラ祭りが特別な意味を持つものであることが伝わってくる。
 昼と夜の境界をゆっくりと進むこの時間――ふだんの生活では味わえない、少し不思議でやわらかな高揚感がクインの胸に広がる。
「……本当に、興味をそそられますね」
 言葉というより、思考がそのまま漏れ出たような独白。
 クインは大きく深呼吸をして、それから魔法のカンテラを探すべく露店通りを歩きはじめる。
 露店通りに並べられたカンテラの数は多く、どの店先にも硝子と金属のきらめきが整然と、あるいは奔放に並べられている。形も色も実に多様なもので、まるで誰かの夢を余すことなく具現化したかのような幻想的な光景が広がっていた。
「やはり皆さん、このお祭りを心から楽しみにしているのですね」
 穏やかな微笑を浮かべながら、クイントは目に留まったカンテラにそっと触れてみる。
 それは繊細な意匠を纏った楕円型のカンテラだ。薄く色づいた硝子は角度によって淡い月光のような銀色を宿し、やさしく包み込むような暖かみのある曲線を描いている。職人のこだわりを感じるその造形には、クイントはそうと目を細めた。
「うん。これがいいですね」
 実際に手に取って重みを確かめれば持ち手も滑らかで、金属質の冷たさが心地よく指に馴染むようだ。
 ふと目を閉じれば、これを灯した夜の風景が脳裏に浮かんだような気がして。静かな夜道、あるいはゲームを終えたあとの余韻の中で、この光が穏やかな時間を与えてくれることを願うのだった。

 その後、無事に魔法のカンテラを買い取ったクイントは自分が営むカードショップのための品物選びに専念する。
 カードやボードゲームのトークンとして使える小さな宝石、そして港町ならではのシーグラス。片端から手に取って確かめる時間さえも楽しいもので――これもまた、旅の醍醐味のひとつだとクイントは満足そうに息を吐いた。

梔子・リン

 カンテラ祭り――その名を耳にしたとき、梔子・リン(残香・h07440)の中ではひとつの光景が思い浮かんでいた。
 ひとつ、またひとつと光を灯したカンテラが一面に浮かぶようなあたたかな灯の海。
「カンテラ祭り、ですか……」
 それはきっと、とてもうつくしいのだろう。
 ぽつりとつぶやくような声音には淡い期待と、抑えきれない好奇心が滲んでいた。そしてそれは声にすることで、少しだけ現実味を帯びてくる。これから自分が選ぶ魔法のカンテラは、その灯の海を飾るひとつになれるだろうか。
 梔子色の目を細めて、遠くの空を見上げる。夕暮れにはまだ早い空に、リンはすでに夜の面影を探していた。
「それに月が落ちてきた、とは……言い得て妙です」
 ほんのりと口もとを緩めて、ひとつ頷く。
 詩的な表現ではあるが、子どもながらになかなか的確だ。お月さまも落ちたくて落ちたわけではないかもしれないけれど、もし、そうなのだとしたら。
「……是非、一目見てみたいところ」
 少しの間、目を瞑って。
 リンは静かな足取りで、魔法のカンテラを取り扱う露店通りへと歩みを進めていく。

 色とりどりの鮮やかな布で編み連ねた天幕の下、露店通りにはさまざまなカンテラが並べられている。
 木枠のものもあれば真鍮製のものもあり、鉱石の冷たさを感じられるものもあれば新緑のあたたかみを覚えるものも、すべて職人が手ずから作り上げた魔法のカンテラだ。リンはそのひとつひとつに視線を向けながら、自分が考える形を探すように足を止める。
「最後に月の光をお迎えするのなら、やはり少し丸みを帯びた形がいいでしょうか」
 そっと手を伸ばして、ゆっくりと持ち上げたカンテラはころんとした丸みのある小ぶりのカンテラだ。
 陽に透かして見ると硝子に夜の青が差していて、控えめな上品さが感じられる。普段使っているランプは実用性を重視することが多く、こういった洒脱なものもよいかもしれない。手元でくるりと回して見ればまた違った美しさが目に現れるようで、リンはカンテラを手に抱えながらも首を傾げる。
「ああ、でもアンティーク調のものもいいかもしれません」
 選択肢が多すぎることに、リンは驚かない。そうなることは最初から分かっていたからだ。
 だからこそ早めに港町に来ていた、ということもある。おかげで悩むにはまだまだ時間があり、早く出てきて正解だったとリンは深く深く頷いた。
 嗚呼、けれど。
「夕方までには決めないと……ううむ」
 手にしていたカンテラを棚に戻すと、リンは再びカンテラたちの間をゆっくりと歩きはじめる。
 その歩みは迷いながらもどこか楽しげで、まるで灯りのひとつひとつと対話をするように穏やかなものに見えた。
 そうして歩みを進めているうちに、いずれ彼女の掌に収まるものも見つかることだろう。そしてそれはただ光を灯すだけではなく、夜を、そして彼女自身の歩む道をやさしく照らすカンテラとなってくれるはずだ。

セレネ・デルフィ
エメ・ムジカ

 潮の香りがほのかに混ざる風が吹き抜ける、昼下がりの港町。
 太陽まだ空高く、寄せては返す波の穏やかさとは裏腹に露店通りは行き交う人々で活気付いているようだ。
 あちこちに軒を連ねた露店のすべてに、整然と――あるいは奔放に――並べられた魔法のカンテラたちは定番のブリキ製や硝子細工、木製や布張りのものまで、その数は実に多彩ですべてを見て回るには1日を使っても足りないかもしれない。
「セレネちゃん、みてみて!」
 ひときわ元気な声をあげたのは、エメ・ムジカ(L-Record.・h00583)だ。
 赤い宝石眼をきらきらと輝かせたエメは、真夏の陽射しにも負けないほどの笑顔を咲かせている。そして両の手をぱっと広げると、楽し気にくるくると踊るような足取りで露店の前で立ち止まる。
「カンテラがいーっぱい! これを灯すための冒険をできるんだねっ。とってもわくわくする!」
「本当……たくさん素敵なカンテラが並んでいますね」
 朗らかな声に釣られるように、隣を歩いていたセレネ・デルフィ(泡沫の空・h03434)はゆるやかに目を細める。その視線は店先に並ぶカンテラたちに注がれているようだ。
 いまは眠るように静かなカンテラも、いずれ月の光を受けて美しく灯る様が目に浮かぶようで。そんな光景を想像しながらも、セレネは小さく息を吐いた。どれも良い品で、素敵だからこそたさんあるカンテラの中からひとつを選ぶのは苦労しそうだ。
「どの子にしよう~?」
 たくさんあって迷っちゃうね、と笑ったエメにセレネも深く頷く。
 そうしてどんな形にしようかと話し合いながら棚を眺めていると、ふとエメが何かを見つけたように手を伸ばした。
「あ! これとかかわいいっ」
「わ、ムジカさんの……とても可愛いですね」
「ね、絵本では月にうさぎさんがいるっていうから今回の冒険にうってつけ?」
 エメが手に取ったのは、丸くて小ぶりなキャンディーポットのような形をしているカンテラだった。
 側面には銀細工でうさぎのシルエットが彫られていて、可愛さの中にも繊細さが感じられる。セレネにも見えるようにと掲げられたカンテラは陽に透かされてきらきらと瞬くようで、セレネは思わず感嘆の声をあげる。
 月にはうさぎの形が見えるという諸説もあるくらいだ。月の光をうけてうさぎの影が浮かぶ様はきっと見応えがあるだろう。
 そして、エメが気に入った様子でカンテラを抱えるのを微笑ましく見ていたセレネもまた、ふとある一点に吸い寄せられるように止まった。棚の少し高いところに手を伸ばしたセレネは、取っ手と掴んで慎重にカンテラを引き寄せる。
 それは繊細な金属細工が施された、渾天儀を模したカンテラだった。
 重なる輪の中心には球体がひとつ。天体の軌道をなぞるように並べられた輪が光を受けて、影がさまざまな表情を見せるような形をしている。まだ光が灯っていない今でさえ、どこか星の鼓動を感じさせるカンテラににセレネは自然と笑みを浮かべていた。
「これ、とても綺麗……! 私、このカンテラにします!」
「ほんとだ、キレイ! それに星を探す渾天儀型……ろまんちっくっ」
 通常の灯り要素とは別に、天体観測の機能も兼ね揃えているのは魔法のカンテラならではだろうか。
 面白いね、と無邪気に手を叩いて笑ったエメに、セレネも嬉しそうに笑みを返す。
 そしてエメとセレネ、ふたりのカンテラが並ぶ様を改めて見遣れば、趣は異なれど月や星に関わる意匠のカンテラになっていることに気付いた。まるでおそろいのようで、どこか面映ゆいような気持ちになりながらもセレネは選んだカンテラを大事そうに胸元に抱きしめる。
「あかりが灯った時どんなふうになるのか……とてもたのしみです」
 月の光を受けたカンテラはどのように光るのか。それはまだ分からない。
 けれど、やがて明るくやさしい光を灯すのだとしたら――、
「はやく灯したいなぁ」
 波の音が遠くで響いて、ウミネコの声を風が攫っていく。もうじき、太陽は海の向こう側に沈んでいくのだろう。
 そうして訪れる夜を迎えるように、ふたりは静かに歩き出すのだった。

蓬平・藍花

 夕暮れを迎える港町は、喧騒の奥に静けさを含んでいた。
 白昼の陽射しは既に陰り、空は澄んだ水色から茜差す夕空へとその表情を変えようとしている。海から風は潮の匂いとどこか花のような甘さを運び、大きく息を吸い込めば胸の奥まで染み渡るようだった。
 蓬平・藍花(彼誰行灯たそかれあんどん・h06110)は露店通りの前でふいに足を止めると、藍苺を思わせる瞳をそうと細める。
 露店通りに並ぶカンテラたちはまだ火も灯っていないというのに、それぞれが不思議な存在感を放っているように見えて、興味は尽きなかった。
「……綺麗……」
 小さなひとひらのように零れ落ちた言葉は、誰に向けたわけでもない。
 故に誰かに聞かれることもなく、ただ目の前で彼女の意識を引き寄せたカンテラに零れ落ちて消えていく。
 それは鳥籠を模した形をした、やや古風な意匠のカンテラだった。中には蝋燭の代わりに鉱石でできた睡蓮が一輪だけ浮かんでいる。他のカンテラと同様にまだ強く光ることはなかったが、翡翠と螢石を混ぜたような色彩は淡い緑と水色が溶け合い、硬質でありながらやわらかさも感じ取れる不思議な光沢があった。
 藍花はその淡い輝きに吸い寄せられるように、そっと手を伸ばして触れようとした――そのとき。
 目の前のカンテラが、からんと揺れた。
「……えっ?」
 からり、からりと。
 そんな音を立てて動きはじめたカンテラに思わず目を疑う。よく見ればカンテラの下には小さな脚部がついていて、ランタンハンガーの台座部分がまるで小動物のように音を立てて動いているのだ。どうやら意思があるらしい。
 やがてカンテラはどこかへ案内するように自ら歩き出す。それを追うか、それとも見逃すか。藍花は少し悩んだ後、おそるおそると後を追うことを選んだ。少し離れたところでこちらを見ているカンテラが、まるで自分を待っているように思えたのだ。
 ――そうして辿り着いたのが、人気のない路地裏だ。
 露店通りの喧騒が嘘のように辺りは静まり返り、風の音と布擦れの音だけが微かに響いている。藍花が建物で切り取られたような狭い空を見上げれば、夕空の向こう側では藍色が混じりはじめているのに、この港町の空だけが異様なほど明るく見えた。
 星も見えない夜の不思議な匂いがして、藍花は小さく息を吸い混んでからそっと口を開く。
「Kokoo――、」
 さぁさ、おいで。導きの蛍火、煌めく宵星。
 声はまるで謡のように、詩のように。誰もいない路地裏で静かに空気を震わせた。
 謡うたびに増えていくのは、睡蓮を模した螢石の幻想花だ。一輪、また一輪と。まるで蛍のように淡く辺りを照らす中を、カンテラはくるりと踊るように歩いていく。
 その足跡を辿りながら、藍花はもう一度だけ空を見上げた。
 遠い昔、何度も話してもらった|夏至祭《ユハンヌス》とは、こんな風景なのだろうか。記憶の中にある言葉たちは今となってはぼんやりと霞む。それなのに、確かに心のどこかで覚えているから。
 前を向いたその瞳は少しだけ、郷愁に染まっていた。

氷薙月・静琉

 港町の石畳を踏みしめながら、氷薙月・静琉(想雪・h04167)は微かに漂いはじめた宵の気配に溶け込んでいた。
 夏至の宵。死者を偲び、光を掲げる祭り。人々は亡き者を想いながらカンテラの光を灯す。――まさか死者自身が灯しに来ようとは、誰も夢にも思わないだろう。
「……死者を弔う祭り、か」
 生前の姿へと変身した静琉はひとりごちて、人波に紛れていく。
 そうして喧騒を遠くに聞きながら向かう先は、カンテラが数多く並べられている露店通りだ。軒を連ねる店はいずれも華やかで、あるいは妖しげで、それぞれに異なる趣がある。多様な佇まいから読み取れる文化は静琉にとっても興味深いもので、いくら見ていても飽きそうにない。
 そんな中で。
 ひとつ、またひとつと視線でなぞるようにゆっくりと歩くうちに、不意に目に留まった店があった。特筆して目立つ店構えというわけでもないのに、不思議と他とは違って惹かれるものがあるような気がして静琉は無意識に足を向ける。
「……このカンテラは?」
 寡黙な店主に声を掛ければ、返ってきたのは簡潔な説明だ。店主は名のある錬金術師が残した作品なのだと言葉少なに語る。
 成程、と静琉は小さく頷いた。カンテラたちをよくよくと見遣れば、そこに仄かな思念を感じたからだ。
「名のある錬金術師の作品、か……」
 此処にあるすべて、強い拘りや思い入れと共に作られたのだろうと推察する。その中でも、静琉は特に強い思念を感じたカンテラへと棚の奥へと手を伸ばした。
 それは夜空の意匠を纏った硝子細工の一品だ。硝子の中で静かに鎮座する月輝石が魔法の蝶が集まると聞けば、「凝ったものだな」と静琉は感嘆の息を吐く。
 まだ灯らないカンテラは、いかに名のある錬金術師が残した作品であろうと未完成に変わりない。けれど、その完成度の高さは既に言うまでもないだろう。さらには月輝石の特性として、その場の精霊の属性によって灯る彩も変化すると聞いた静琉の心は既に決まったも同然だった。
「……よし。これに決めよう」
 選び取ったカンテラを店主から買い取り、静琉は音もなく踵を返す。
 見上げた空はいつの間にか茜色に染まり、遠くには一番星が輝きはじめていた。だというのに、この港町の空ばかりが異様なほどに明るいまま。
 ――もうじき、白夜と共に月の光を迎えることとなるだろう。

エストレィラ・コンフェイト
ネム・レム

 空に茜色が差す頃になっても、数多くの店が軒を連ねている露店通りは未だに賑わいを見せていた。
 ずらりと並んだカンテラたちは色も形もさまざまで、行き交う人々は思い思いにそれらを手に取っている。露店の前で足を止めたエストレィラ(きらきら星・h01493)もまた、そのうちのひとりだ。
「うむ、可愛らしい子がたくさんいるな。とても愛い!」
 蜂蜜酒のような黄金の瞳をきらきらと輝かせて、エストレィラは所狭しと並べられているカンテラたちを見渡す。整然と、あるいは奔放に並べられたそれらはまるで個性豊かな子どもたちのようだった。
 傍らに立つネム・レム (うつろぎ・h02004)もまた、彼女の視線を追うようにカンテラを眺めていた。星型に花びら型、鳥籠を模したようなものから万華鏡のように色彩が変わるようなものまで。「どの子もかわいらしいて、迷てしまうねぇ」なんて微笑みながら隣を見遣れば、くふふと笑った彼女もそれは可愛らしいお顔で。笑みを深めることで応えたネムは、棚を指差して問いかける。
「レィラちゃんはどの子にするん?」
「わたくしは、星の形をしたこの子にしよう」
 小さく角ばって、それでいて丸みを帯びたカンテラは星によく似た形をしている。
 その可愛らしい形が気に入ったのかと思えば、エストレィラはカンテラを手に取りながら言葉を続けた。
「金平糖のようで美味しそうだ!」
「こんぺいとう……お腹空いたん?」
「……本当に食べたりはしないぞ?」
 どうやら夜空に浮かぶ星よりも、手のひらに零れ落ちた金平糖を思い浮かべたらしい。釣られるようにエストレィラの手元を見下ろしたネムは、成程とひとつ頷く。
 星のかたちをして、さらには淡い光を灯したなら。ふわりと甘い香りまで漂ってくる気がして、彼女が金平糖を想像する気持ちが分かったような気がした。
「なんや可愛い灯りに甘い香りもしそうやねぇ」
「甘い香り、とな。それではほんとうにお腹が空いてしまうなあ」
 くすくすと笑い合いながら、エストレィラとネムは次の棚へと視線を移す。エストレィラが選び終えたなら、次はネムが選ぶ番だろう。
 棚をぐるりと見渡してしばし迷うような素振りを見せたネムは、やがて棚の中からひとつのカンテラを手に取る。それは夜空を思わせる深い藍色のカンテラで、視線の高さまで持ち上げて中を覗き込めば小さな星屑がふわりと浮かんでいるのが見えた。
「ネムちゃんは……この子がええやろか」
 星明りの海を泳ぐお魚さんを見てみたい、なんて。
 エストレィラにもその星屑が見えるように差し出してながら、ネムは静かに微笑む。
 実際にこの魔法のカンテラが灯るのは夜だけれど、それでも――、
「お星様を連れてのお散歩やなんて粋やない?」
 片目を瞑ってみせたネムに、エストレィラはぱっと笑顔を広げて大きく頷く。自分の選んだカンテラももちろん愛いけれど、ネムが選んだその子にもまた違った趣があってとても愛いものだ。
 カンテラを並べて見比べながら、エストレィラは燈が灯る様を想像してみる。星空の下、星の灯を持つ――それは、とても胸が躍る光景だった。
「わたくしが選んだカンテラとは少し違うが、星仲間だ。お星様を連れたお散歩とは素敵だな」
 似ているようで違う、けれど確かにどちらも星を灯すカンテラ。その灯を、この目で見てみたいと思った。
 だからこそ。

「おまえさまがよければ、わたくしと宵の散歩なぞ如何であろうか」
 ――ばっちり、えすこーと、するぞぅ!
 そう言って、エストレィラは改めてネムを見上げると、カンテラを抱えた手とは反対の手を差し出す。
 まるで悪戯に誘うこどものように、きらきらと煌めくような瞳がネムを見つめていた。その様子があまりにも自信満々で可愛らしくもあり、面白くもあり。ネムは思わずと笑みを零して、それから冗談めかして肩を竦める。
「……あれまあ。そないかわいらしいお誘いされたら……なぁ?」
 星を連れて、お星さまみたいな子と歩く宵も悪くない。
 差し出された小さな手にそっと自分の手を重ねて、ネムは彼女の誘いに応えた。
「えすこーと、お願いしても?」
「もちろんである!」
 にんまりと笑ったエストレィラが、さっそく宵の散歩に出発しようと星型のカンテラを高く掲げる。
 そうして似て非なる星がふたつ、白夜に向かって静かに歩き出した。

ツェイ・ユン・ルシャーガ

 港の風は湿り気を帯びながらも、潮の香りを運んできていた。
 風に背を押されるまま、ツェイ・ユン・ルシャーガ(御伽騙・h00224)は夕刻の薄明りに染まる露店通りをゆるやかな足取りで歩いていく。
「そうか、弔いの灯火か」
 空気のどこかに、懐かしい気配があったからだろうか。ツェイは店に飾られたカンテラを見つめて静かに足を止めた。
 近年では疎かになりがちではあったけれど、どうやら此方でも近々そんな季節を迎える頃らしい。
 潮を含んだ風と香りを感じながら漫ろ歩けば、異世界の似て異なるかたちも色彩もなかなかに興味深いものだ。硝子を吹き、金属で縁取り、こまやかな意匠を施して飾られたカンテラ。それが例え見慣れない造形をしていても、美しいと感じる心はどこであれ変わらない。
「……子狐も誘うてやればよかったろうか」
 あとで恨み言を聞くやもしれぬ、なんて軽口をひとつ。
 それでも自然と浮かんだ微笑は袖の下で隠して。ツェイは人波に紛れるように、露店の奥へと足を進めた。

 露店通りの中でも比較的静かな一角。通りの隅でツェイの目を奪ったのは、ひと際風変わりなカンテラだった。
 それは透けるような薄紙を張った、鬼灯型の吊しカンテラ。内にはそれこそ月のようにまるい果実が抱かれていて、気が付けば手に取っていた。
「ふふふ、なんとも愛らしいではないか」
 布と紙、そして精緻な線細工は一見すれば脆弱にも見える。けれどだからこそ、そこには得も言われぬ風情と儚さがあった。
 この果実が月の光を浴びたとき、どのような輝きを見せるのか。その様を思い浮かべながら、ツェイはゆるりと微笑む。
「幻想郷の意匠とて妖の端くれらしくもあろう。さて、店主殿に声を掛けてみようか」
 カンテラを小さく揺らしながら、ツェイは上機嫌な様子で店主を探す。
 夜はもう間もなく深まりゆくだろう。手にした鬼灯の灯は、まだ入れてはいない。
 けれど、今はそれでよいのだ。
 ――ほどなくして、店主から買い取ったカンテラを手にしたツェイは、なんとなしに港町の高台へと足を向ける。
 海に面した高台からは、茜色の光に照らされた海がよく見えるだろう。近付けば近づくほど、寄せては返す波の音が聞こえるようだ。そうしてツェイは高台の傍に静かに腰を下ろして、灯らぬあかりをそっと胸に抱きながらただ海を眺めていた。
 昼と夜の狭間に揺れる空のもとで、静かに、ただ静かに。

鳴瀬・月

「ねえ、せんせい。ステキなカンテラのお祭りがあるんだって」
 ――わたしも見てみたい!
 そんなひとことをきっかけに、鳴瀬・月(君影ノヴィルニオ・h07779)は夕暮れの港町へと訪れていた。
 風が運ぶ潮の香りに香辛料の匂いが混じりあう中、ぽつぽつと露店通りにも灯りが点きはじめた。しかし、棚に並ぶカンテラたちが光を放つことはない。それはこのカンテラたちがまだ未完成だからだ。夏至の夜に月明かりを受けてはじめて完成する魔法のカンテラを横目に、月はくるりと回って立ち止まる。
「|月《ルナ》はわたし!」
 それは、お月様と同じ素敵な名前。
 できることなら、あのお月様のようにぴかぴかと輝いて光を分けてあげたい――けれど。そうもいかないから。
 月は周囲をくるりと回る『せんせい』に笑顔を向けて、それから大きく頷いた。
「ふふ、お月様に会いに行こ! せんせ!」
 再び、一歩を踏み出して。
 お散歩のように軽やかな足取りで、ふたりは露店の中へと消えていく。

 木枠のもの、鉄製のもの、丸い硝子に覆われたもの。
 素材も形も異なるカンテラたちは数多く、所狭しと並べられている光景は壮観だ。色とりどりのカンテラたちに迎えられながら、月は棚の奥までしっかり見るように背筋を伸ばす。
「綺麗なのがいっぱいだね」
 彼女の視線の先には、鬼灯のように暖かな橙色の吊るしカンテラがあった。そしてそのまま隣に視線を移せば、ステンドグラスのように七色の面で彩られたカンテラ。「あ、アンティークみたいなのもある!」シンプルに炎が揺れるようなブリキのカンテラまで見てしまえば、選ぶ難しさを実感するように月は眉尻を下げる。
「どれもステキで選べない〜! せんせいはどのカンテラにする?」
 悩みに悩んで、それでも選べなくて。月はせんせいを振り返る。
 すると、そこには三日月がゆらゆらと揺れている銀枠のカンテラに執心している様子のせんせいがいた。短い尻尾がカンテラの動きに合わせて揺れているのを見た月は「それカワイイ!」と目を輝かせると、それからはたと気付いたようにはにかむ。
「わたしが月だから選んでくれたの? ありがと」
 くるくると周りを駆けまわるように空を翔けるせんせいのまなざしは、月明かりのように穏やかなものだった。

 そうしてせんせいと戯れること、しばらく。
 ふと、別の棚に並べられているカンテラが彼女の目を惹き付けた。はっとした表情で棚に体を向き直した月は、「ねえ見て見て、こっち!」とせんせいを呼びつけながら、少し高い位置にあるカンテラを慎重に引き寄せる。
 それは、小さな白い鈴蘭の花を模したガラス細工のカンテラだ。光を透かせば、まるで本物の花がそこに咲いているかのような瑞々しさをたたえている。月は光を通して輝くような鈴蘭のカンテラをひとつ手に取ると、せんせいに向けて差し出した。
「わたしコレにする! せんせいとわたしと一個ずつ、ね?」
 さあ、そうと決めればあとは買い取るだけ。
 ――だというのに、月の足はぴたりと止まってしまった。
 不安げに揺れる瞳で、月はそっとせんせいを見上げる。
「……お店の人、わたしたち見えてるかな?」
 幽霊である彼女の声を聞き、姿を見るひとはそう多くない。普通の人間には届かない、異なる位相の存在であることを思い出して少しだけ肩を落とす。
 もちろん、実体化すればいいと言ってしまえばそれだけの話だ。けれど彼女にとっては、そう簡単な話ではない。
 現世に姿を映すということは、自分の存在をこの世に押し込むための力を使わなくてはならない。そしてその反動は彼女に痛みを与えるものなのだから、決して楽なものではなかった。
 誰でも痛いものは嫌だ。それでも。
「痛くても――頑張って、素敵なカンテラが欲しいもん!」
 もう一度、鈴蘭のように可憐なカンテラを見つめてから月はひとつ頷く。
 彼女の手が、胸元でぎゅっと強く握られて――そして、瞬く間。
 周囲の空気が一瞬のうちに揺らいで、光の粒子が波のように彼女の姿をなぞる。次の瞬間には、この現実に確かな輪郭を持つ月がそこに立っていた。月はひっそりと、けれど大きく深呼吸をしてから口を開く。
「すみませんっ!」
 少し震えている、けれどまっすぐに届く声が響く。
 驚いたように振り向く店主の目には、確かに月の姿が映っていた。
「――この、鈴蘭と三日月のカンテラくださいっ!」
 ちょっぴり涙目だけれど、そこはご愛嬌。
 頑張ったご褒美は、きっと今夜にも美しい光を灯して彼女を照らしてくれるだろう。

椿紅・玲空
鴛海・ラズリ

 ふたりの影は、にぎやかな人波の中をゆっくりと、けれど確かな歩調で進んでいた。
 夕焼け空はすっかりとその色を濃くしているけれど、露店通りは変わらずにぎやかなものだ。異国情緒を漂わせるアロマの薫香を胸いっぱいに吸い込めば、期待も膨らむようで鴛海・ラズリ (✤lapis lazuli✤・h00299)はゆるりと微笑む。
「魔法のカンテラ、探すのがたのしみね……!」
 そうして華やいだ笑顔で振り向いたかと思えば、ぱたぱたと跳ねるように歩いては繋いだ手を引いて。「玲空、みてみて!」なんて、露店を飛び回りながら呼ぶのは椿紅・玲空(白華海棠・h01316)だ。
「ラズリ、あまり跳ねると転ぶぞ」
「こ、転ばないよ……!」
 だって玲空といっしょ、わくわくするんだもん。
 うさぎのように跳ねたかと思えば、今度は風船のように頬を膨らませた彼女の手に引かれて歩く。玲空は忠告こそ口にするものの、その頬にはうっすらと微笑みが浮かんでいた。

 港に面した露店通りには、軒を連ねる店々のすべてにカンテラが並べられている。
 金属製のもの、木製のもの、硝子に布、素材も形も多種多様で、その意匠も個性豊かなものだ。ラズリに手を引かれるまま辿り着いた棚の前で、玲空は所狭しと並べられたカンテラを見下ろしながら眉を潜める。
「種類が多すぎて迷う……」
 どうしたものか、と腕を組みかけた――そのとき。
 ふと目についたのは、林檎をモチーフとした香水瓶のような形のカンテラだった。
 玲空はそっとそれを手に取り、指先で表面の細やかな模様をなぞる。中を見れば、どうやら瓶の内部には花のような硝子細工がひとつ、まるでひそやかに閉じ込められた秘密のように小さく咲いている。
「魔法のカンテラだし……月光を閉じ込めたら色付くか?」
 香水瓶も、花の硝子細工も。どちらも曇りひとつとしてない透明なもので、玲空は不思議そうに首を傾げた。
 すると、カンテラを覗き込んでいた玲空にラズリが駆け寄ってくる。どうやら彼女も、自分のためのカンテラを見つけられたらしい。
「玲空のも可愛い……! 香水瓶のかたちに、林檎も玲空らしくて素敵っ」
「ラズリ、そのカンテラは?」
「迷ったけど、此れにしたの!」
 玲空にも見えるように、ラズリは胸に抱えていたカンテラを掲げてみせる。
 それは六芒星のかたちをしたカンテラだった。中心に抱かれているのは、まだ淡いだけのひかりに包まれている花蕾で、まだ未完成であることを示している。
 ラズリはそのカンテラを光に透かして見ながら、そうと微笑んだ。
「蕾の花開くのは、月光を閉じ込めてから……咲くのは、その後のお楽しみみたい!」
「へえ、咲いた姿が楽しみだな」
 すごくラズリに合ってる。自然と零れた言葉と共に、玲空も目元をゆるめる。
 月の花に彩る硝子花と咲く蕾花。目を伏せれば、月の光を受けて美しく灯るその姿が目に浮かぶようだった。

「――カンテラに装飾ができるの?」
 選んだカンテラを買い取ろうとしたとき、店主から勧められた装飾に玲空は小首を傾げた。どうやらオプションで好きな装飾を追加することができるらしい。
 それを耳にしたラズリはきらきらと目を輝かせて、それから店主に問いかける。
「露天商さん……! 玲空と何か、お揃いにできる?」
「ラズリとのお揃い、私も欲しい」
 どうやら店主にお任せすることにしたようだ。
 どんなものがあるかと玲空もそわりと尾を揺らす中、ふたつのカンテラを手渡された店主はにこやかな笑顔でしっかりと頷く。カンテラとふたりを見比べて、奥から小さな箱を持ってきたのはそれからしばらく経ってからのことだ。
 そうして手渡された箱をラズリが開けてみれば、そこには細い飾り紐が収められていた。赤と青、色違いの飾り紐をカンテラに結ぶことで、カンテラの形こそ違えど揃いの印象を持たせることができるだろう。好きな方を結ぶように、と渡された飾り紐のどちらを選んだのか――それは、ふたりだけが知っている。

 仲良く肩を並べて露店を後にする中、ふと思いついたようにラズリが声を上げた。
「ふふ、小さなカンテラもあるかも」
「そんな小さいサイズも?」
「白玉とトルテにも選んでみよっか?」
 自分たちのカンテラを選ぶことができたなら、その次は。ラズリは小さな存在たちを思い浮かべながら提案してみる。
 これだけカンテラがあるのだから、小さいカンテラだってどこかにはあるだろう。空を見上げた後に日没までまだ時間があることを確かめた玲空が「ふたりのためのとっておきを選びにいこう」と頷けば、ラズリはゆるやかに微笑んだ。
 そしてふたりは、また手を繋いで歩いていく。

ララ・キルシュネーテ
詠櫻・イサ

 すっかりと西に傾いた太陽が、空を茜色に染めている。
 気付けば自分の背丈よりも長く伸びた影を揺らしながら、ふたりは露店通りへと訪れていた。
「イサ、カンテラがたくさんあるわ」
 ララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)はそう言って隣を見遣る。静かな好奇心を湛えたその表情は、夕暮れの光の中できらりと輝いているようだ。
 輝く花眸が仰ぎ見る視線の先には、詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)の姿。ララは小さな手で彼の手をぎゅっと握りしめたまま、夕暮れを迎えても変わらない賑わいを見せている露店通りに視線を巡らせた。
「綺麗なのもかっこいいのも、不思議なのも……ぜんぶ、カンテラなのね?」
「魔法のカンテラ祭だって、楽しみだな」
 百花繚乱のように色鮮やかなカンテラたちが整然と、あるいは奔放に並べられているのは、まさにカンテラ祭りのためだろう。
 好奇心から目を輝かせるララの姿を素直に可愛いと感じながらも、良さはそれを口にすることはなく平然とした表情で首肯する。このたくさんのカンテラの中から、自分だけのひとつを選ぶために来たのだ。気持ちが現れるように弾んでいくララの足取りに合わせて歩きながら、イサもまた、数多く並ぶカンテラに視線を巡らせていく。
「みて、あのカンテラは斬新でかっこいい」
 ララが指差す先には、重厚な装飾が施された近代的な意匠のカンテラがあった。
「でも、あっちは大きくて立派だわ」
 さらに指差す先には、次には両手よりも大きく球体的なフォルムのカンテラ。
 ひとつひとつを見つけては、ララはその場で素直な感想をぽろぽろと零していく。心の赴くままに口を突く言葉に合わせてその指先までも忙しなく動くものだから、イサは自然と口もとをほころばせていた。
「ララはどんなカンテラにする? 夏至の月の光を糧に光るって浪漫があるよな」
「皆、月の光で光るの? 綺麗でしょうね……早く見てみたい」
 普通の形もあれば、動物の形や花のようなもの。少し見ただけでも、カンテラはさまざまな姿かたちをしている。
 自分がこれだと思えるものを見つけるなら、たくさん見て比べてみるのが良いだろう。まずはいろんなお店を見て回るべく、ララは繋いだ手を引いて次のカンテラへとイサを誘うのだった。

 そうして、いくつかの店を巡った頃。
 ふと、ひとつだけララの目を惹いたカンテラがあった。
「……!!」
 それは、蓮を模したような形をしているカンテラだ。透き通るような硝子で作られた花弁が幾重にも重なりあい、中央に細い芯が立っている。目の前の美しいカンテラが月の光を受けて灯る姿を想像して、ララはそうと目を細めた。
「綺麗な、蓮のカンテラ」
 それはきっと、綺麗な黄金に煌めくはず。
 おそるおそる、壊さないように慎重に手を伸ばしたララは蓮のカンテラを自分の元へと引き寄せる。指に伝わるのは冷たい硝子の感触だったけれど、不思議と心はあたたかい。きらり、きらりと黄金に煌めく姿は――「……何処か、パパを思わせる」ぽつりと無意識に零れた言葉に、ララは小さく目を見開いた。一目でお気に入りとなった理由が、そこには確かにあったのだ。
「……ララはそれ? あんまり見ないやつだけどいいんじゃない?」
「イサは……アネモネ?」
 肩越しに聞こえた声に振り返ると、既にカンテラを手にしたイサが立っていた。
 彼の手にあるそれはシンプルなカンテラのようだけれど、アネモネの装飾を施すことで華美ではないが瀟洒な印象がある。ララはゆっくりと笑みを作ると、カンテラからイサへと視線を移してさらに笑みを深めた。
「ララの花だわ。ふふ……お前、可愛い子ね」
「……別に、ララの花だから選んだって訳じゃないし!」
 ぶっきらぼうに返したつもりでも、その言葉は言い訳にしてはどこか拙い。
 ララは笑みを隠さないままに小さく肩を竦める。
「――そういうことにしてあげる」
 くるり、くるりと。
 弾むような足取りで彼の隣に戻って、ララはその横顔を覗き込むように見上げる。
 揶揄するような視線を受ければ、イサは咳ばらいをして視線を逸らした。「いいからっ、もう!」と声を上げて、暗くなる前に行こうと彼女の手をもう一度掴む。そしてその手を引いて踵を返せば、ララはやっぱり可愛い子とくすくす笑みを零すのだった。

ステラ・ラパン
小沼瀬・回

 茜色に染まる空の向こうに、群青が沈んでいる。
 西に傾いた太陽はいずれ海に沈むというのに、港町は依然として明るいまま。
 黄金色の陽を反射するカンテラにも光は灯ることなく、色とりどりのカンテラたちは露店通りの店先に静かに並ぶばかりだ。しかしそのどれもこれもが色や形も異なる個性を持つようで、ひとつ、またひとつと眺めて歩くだけでも楽しい時間には違いない。
 ステラ・ラパンは(星の兎・h03246)はうさぎのように真っ赤に艶めく瞳をきらきらと輝かせながら、可愛らしいカンテラの列に沿うようにゆっくりと歩いていた。
「とりどりと並ぶカンテラは、眺め歩くだけでも心が躍るね」
 声には浮つきもなく、純粋なときめきだけがそこにある。
 あの子もあの子も、みんな可愛い。その言葉通りに指先が軽やかに動いて指し示す先を追いかけるように、小沼瀬・回(忘る笠・h00489)は目を眇める。何とも煌びやかであることだと首肯した回がやがて隣を歩く友人に視線を落とせば、此方を見上げる視線と交差した。
「君はどんな子を探してるんだい?」
 問いかける声は、どこかくすぐるような調子で。けれどただの好奇心ではなく、深い興味が見て取れる。
 回はその視線を正面から受け止めて「私は――、」口を開きかけたところで、一度口を噤んだ。僅かな逡巡は瞬く程度に短く、再び口を開いた回はゆっくりと言葉を選ぶ。
「傘の形の屋根に、雨雫の形の硝子。そこに月明かりを灯して、本来なら見えない筈の雨天の月――雨月を眺められるものがあれば、と」
「いいね。月灯りも暑い雲に遮られ、常は雨を見られぬだろう」
 その情景はまるで詩の一節のように静謐で、するりと心に染み渡るようだ。深く頷きながら、ステラはやさしく目を細める。
 雨を乞いながら月を乞うのは、ともすればとんだ我儘なのかもしれない。それでも、何方も捨て難くあるものだから、回にその気持ちを否定することはできなかったのだ。
 そんな彼の気持ちに寄り添うように「月も雨も喜ぶ子になりそうだ」とステラは呟いて、ふと微笑む。その言葉が回にとっては一滴の雫のように胸の裡に滲むようで、回はほんのりと口もとを柔らげた。
「……そうか、喜ぶか。それは何よりだな」
 であれば、雨と月の縁結び――或いは、我儘の手本として探そうかね。
 回の言葉を皮切りにどちらともなく破顔して、そしてふたりは露店の奥へと進んでいく。

「お前さんは?」
 回が問いかけたのは、先ほどからそう間もないことだ。
 露店の棚に並べられていたカンテラをひとつ、またひとつと手に持って見比べていたステラは回を仰ぎ見ると、小さく首を傾げる。
「実は迷っていてね。だってどの子も可愛んだもの」
「一途の助言をするならば……恒は月の裡にあると云う兎、であればこそ。兎形の裡に月光を抱くのも愉快ではないか?」
 愛おしむようにカンテラを眺めては目移りしているステラに、回から提案をひとつ。
 その提案に思わずと長い耳が揺れてしまったのは、驚きからだろうか。付喪神と化す前の己を思って、ステラは今の本体である兎杖を見下ろしてそうと笑む。
 ――まさか、その組み合わせを君が口にするなんて。
 そんなことを思いながら手繰り寄せるのは、今よりもずっと昔の記憶だ。
 八百万の一柱であった頃、月光に宿る神性を|月夜見《ツクヨミ》と呼んだのは誰だっただろうか。話したこともなく、触れたこともないただの昔話。
 けれど、知らぬ儘にその組み合わせを紡いでくれたことが、なんだか縁めいているようで。知らない筈の彼が無意識のうちに”本質”に目を向けてくれたようで――「いいね、それ採用」なんて、ステラは手を叩いて笑った。
「とても『僕』らしいカンテラだ。折角だ、月と兎、星も添うよな子にしよう」
「佳し、ならば其れも共に探しにいかねばな」
「一緒に探しておくれよ」
 何気ない提案が喜ばれれば、さらには『らしさ』を掬えたとあれば回にとっても嬉しいものだ。
 上機嫌なステラは次なる棚へと足を勧めようとした――そんなとき。
「――あ、」
 思わず声をあげたのは、目の前を過る唐傘を見たからだ。
 それは彼が持つものではなく、カンテラの横に飾られていた唐傘をモチーフにしたチャームだった。指先で掬うように持ち上げた唐傘のチャームを回の前で揺らすと、ステラは悪戯っぽい笑みで片目を瞑る。
「それに、これも付けようかな?」
「……おい、それを足してしまうと『らしさ』が褪せてしまうだろう」
 右へ左へ。からからと揺れるチャームに数度の瞬き。
 それから気を取り直して口を開くも、思わず寄ってしまう眉間は照れ隠し故か。しかし、そんなことはステラにはお見通しだったのだろう。谷のように深まる眉間を気にすることもなく、ステラは小首を傾げた。
「おや、今の『僕』には寧ろ必要だろう? 違うかい?」
「ン、む、――それなら、」
 咄嗟に言葉を返せず、逸らされた視線が棚の上を走る。
 そして目に留めたのは、小さな白兎の飾り。回が「御返しをしてしまおうか」なんて飾りを摘まんで笑うものだから、ステラはここが露店であることも忘れて声を上げて笑ってしまった。おっと、と口を押さえた彼女に回も薄らと笑みを深める。
「傘の下の雨の月、兎も歓んでくれたら幸いだよ」
「――あゝ勿論。悦ぶに決まっているだろう」
 星も月も、雨も兎も。
 全部が欲しいなんて言ったら、笑ってしまうほどに我儘な話だ。
 けれど、そんな我儘が許される夜があってもいいだろう。ふたりはまるで理想どおりのカンテラを手にすることができたのだから、あとは月の光を迎えるだけだ。
 からり、からりと。
 並んで揺れるカンテラは姿かたちも異なるものでありながら、まるで互いを映す鏡のようにぴたりと嵌っていた。

第2章 冒険 『アクアリウムダンジョン』


●interval
 港町から少し離れたところには、海岸線を一望できる小高い岬があった。
 かつてはそこで魔法のランタンを灯すこともあったと聞くが、それも少し前までのこと。いまとなっては岬を呑み込むような形で新たなダンジョンが形成されている。
 外観は、ただぽっかりと口を開けた洞窟のようにも見えた。
 しかし、坂を下るように進んでいくと、ぽつんと一枚の扉が現れる。その先がダンジョン――疑似異世界へと続いているのだろう。
 冒険者たちが内部へ足を踏み入れると、不思議なことにモンスターの気配はなかった。人気もなく、深く静かな水の気配に満ちている。
 外界から隔絶されたその空間は、まるで巨大な水族館のような構造をしていた。磨き抜かれた水晶のような透明な壁を見れば、向こう側だけが青白い光に照らされている。
 ぷかり、ぷかりと。
 光を反射して煌めく水泡がはじけて、視界の隅を熱帯魚が横切っていく。
 可愛らしい橙色に白い帯を纏うカクレクマノミ、鮮やかな瑠璃色に輝くルリスズメダイ、縞模様がたなびくチョウチョウオ。サンゴ礁の合間を縫うように魚たちが泳ぐ水槽には白い砂が敷き詰められて、小さなサンゴの森が広がっているようだ。
 そして、その海中トンネルとしばらく進んだところで――道が分かたれていることに気付いた。
 ダンジョンの奥地を目指すには右か左か、いずれかの道を選ばなくてはならない。

 右に進んだなら、クラゲたちのまほろばが待っている。
 青白い光を身に纏うクラゲの群れが月明かりの中をゆったりと跳ねるように、静けさの中を歩く穏やかなひとときを楽しむことができるだろう。

 左に進んだなら、イワシの大群が渦巻く回廊を通り抜けた先で、それは大きなジンベエザメと見えることができる。
 迫力のある銀色の渦を越えて、雄大な自然の海をより身近に感じられることだろう。運が良ければ、悠々と泳ぐウミガメにも出会えるかもしれない。

 最奥を目指す間も、時間は刻一刻と進んでいく。けれど、完全に月が昇るまでにはまだ時間があるようだ。
 ――魔法のカンテラを手に、どちらへ往くべきか。
 冒険者たちは分かれ道を前に、静かに魚たちの楽園を仰いでいた。
ラデュレ・ディア

●誘爛
 港町の外れにある小高い岬を呑み込むようにして生まれたダンジョンを前に、ラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)は空を見上げていた。遠い水平線の向こう側に太陽が沈み、いまや夜のとばりも静かに降りようとしている頃だというのに、やはり不思議なことに港町周辺の空だけ薄明に包まれている。
「この先に、迷宮が……?」
 ぽっかりと口を開けた洞窟に足を踏み入れたラデュレは、ゆっくりと慎重に坂を下りた。先ほどまでの暑さが嘘のようにひんやりとした風が頬を撫でて、思わず胸元に抱えた小さなカンテラを強く抱きしめる。
 下りきった先にあるのは、一枚の扉だけだ。この先に迷宮があるというのなら、――デュレは勇気を振り絞るように大きく息を吸って、それから「せーの」と心の中で唱えて、恐る恐ると扉を開いた。

 軋む音と共に、視界は開いた。
 突然の青白い光に目を瞬かせて、ラデュレはようやくと見えた光景に息を呑む。
「……! きれい……」
 視界を埋め尽くす涼やかな青色の世界は、大きなアクアリウムのように美しい。
 光に反射してきらきらと輝く泡や、その間をすいすいと泳いでいく鮮やかな熱帯魚たち。青に赤、群青に黄金、紺碧に白銀――目をくらむほどの彩りが、ゆらゆらと光を帯びて揺れている。
 ラデュレは幻想的な光景を目に焼き付けるように、ゆっくりとした足取りで進む。やがてその先で、ふと道が二手に分かれていることに気付いた。
「右と、左……」
 どちらに進むべきか、迷うように視線を漂わせる。
 しばし悩った末に、ラデュレは心の赴くままに進むことを選んだ。またひとつ現れた扉をそうっと押し開けば、扉は軽々しく開いてラデュレを迎え入れる。
 そうして次にラデュレを待っていたのは、色とりどりの鮮やかな熱帯魚たちとは打って変わって、青白い光を身に纏って漂うやわらかなクラゲたちだった。
「これはクラゲ、ですね……!」
 深海のように暗い青色のなか、ふわふわと気ままに漂う様はまるで青空と透き通った風船のようだ。
 その穏やかな光景にほうと息を吐いて、ラデュレはそっと魔法のカンテラを掲げる。薄暗いアクアリウムの中であっても、カンテラが強く光を放つことはない。波間に溶けてしまうような弱く淡い灯りを揺らせば、漂うクラゲたちも傘を広げては縮めて、ぷかりぷかりとラデュレの傍をたゆたうようだ。
「――海は、とても素敵な場所なのですね」
 海のなかを歩いているような不思議な感覚が、時間を忘れさせる。けれどラデュレは足を止めず、静けさに身を委ねながらもどこまでも澄んだ青色の世界を歩き続ける。
 灯りを手に、ただひとり。海は深くやさしく、そしてどこまでも美しかった。

桔梗・守

 アクアリウムダンジョン。その名を冠するダンジョンの前で、桔梗・守(付喪神・h05300)はそわそわと身体を揺らしていた。
 すぐそこには不思議な水の気配を漂わせる扉。空気中に漂うひんやりとした湿り気はごくりと喉を鳴らすような緊張感に満ちていたけれど、守が躊躇することはなかった。それどころか、わくわくするくらいに意気揚々と赤組紐を肩に引っ掛けて守は扉が開いた瞬間にぴゅーんと素早く飛び込んでいく――はずだった。
「むむむー! 沢山のお魚さん!」
 どうやら入る扉を間違えたのか、それとも扉の気まぐれか。
 気が付けば守はすっかりと水の中に潜り込んでしまっていたらしい。
 こぽこぽと水泡が体にぶつかる度にくすぐったくて、身体を捩るようにゆらり、ふわりと浮遊する。重力という概念がどこかへ消えてしまったかのように軽やかなその身は、水中をすいすいと進んでいくようだ。
「あっちにも、こっちにもお魚さん!」
 下を見ても、上を見ても。右にも左にも。
 名前も知らない熱帯魚が横切る度に「あれは何だろ、これは何だろ」と守は考える。しましまの魚、ひらひらの魚、つんつんしている魚。どれも初めて見るような姿かたちをしていて、守にはそのどれも名前さえ分からないけれど。まるで一緒に泳いでくれているような魚たちに守はじたばたと全身を震わせて、身体いっぱいにその喜びを表現する。
 付喪神の身体は小鬼のように小さくて、目もなければ鼻も口もないけれど。楽しいという気持ちを体いっぱいに溢れさせた守の姿は、誰よりも表情が豊かに見えた。
 ――そんな風に、夢中になっていた矢先のことだった。
 横から静かに近づいてきた、やわらかな物体。青白く淡い光を帯びたものが守を包み込むように傘を開いて――そして、閉じる。
「あわわわ!」
 気が付いたときには、もう遅かった。
 ふわり、と。体に軽く触れたその感触はまるでゼリーのような弾力をもって守を押しやるものだから、小さな体ではどうしようもなく押し流されていく。
「わっ、わっ、わあぁ! もっていかれるぅう!」
 それはクラゲの群れだ。
 水の中を跳ね回るようにやわらかな傘を開いては閉じて、焦ってもがいた守を意に介すこともない。
 ついにはぐるんと一回転して、組紐が水流に乗って絡まりかけたところで「だめだめー!」と一生懸命に水を掻いて、そうして勢いよく水を蹴って飛び出すことで、ようやくと守はクラゲの群れから抜け出すのだった。

「ふぅ、あぶなかった……」
 小さな手で額を拭う仕草。もちろん、特に汗があったわけではなくひとつの感情表現のようなものだ。
 守はようやく静けさを取り戻したその場所で態勢を立て直すと今度はどこへ行こうかと視線を巡らせる。
 しばらくふわふわと漂って、カンテラをからから揺らしては道を吟味する。こっちかな、あっちかな、と悩んだところで――、
「むむむ、ぼくはこっち! お魚さんはどっちがいいかなぁ?」
 目の前を横切っていった魚に問いかけてみても、答えはない。
 だから守はもう一度だけカンテラを振って、それから水泡が昇っていく先を見る。
「そこは、これまでの勘で……こっちなんだよう!」
 選んだ基準も、理由も特にない。ただただ其方に興味を引かれただけ。けれど、それで良いのだ。進む道を決められるのは自分だけなのだから、大事なのは気分と、少しの直感――それだけで充分だろう。
 からり、からりと。カンテラを鳴らしながら、守は再び暗い海の終わりまですいすいと進んでいく。

バルザダール・ベルンシュタイン
継歌・うつろ

「これも、うつろ君に見せてあげたくてね」
 低く、けれどどこかやわらかな声が反響する。
 バルザダール・ベルンシュタイン (琥珀の残響・h07190)は青白い光が差し込む透明な壁の向こう側を見上げながら、そっと手を広げて珊瑚礁の森を指し示す。
 それは、水晶のように曇りのない透明な壁によって作られた大きな海中トンネルだ。モンスターの気配もなく、人気もない。ただ色鮮やかな熱帯魚たちが優雅に泳いでいるばかりの空間は、とてもダンジョンの内部とは思えない。
「水族館――アクアリウムのようになった、ダンジョンだそうだよ」
「あくあ、りうむ? えっと……すいぞく、かん?」
 古式ゆかしく上質なコートの裾を翻して、バルザダールが振り返る。その視線の先には、不思議そうに周囲を見渡す継歌・うつろ(継ぎ接ぎの言の葉・h07609)がいた。
 白磁のような頬を淡く染めて、「どっちにしても、わたし、行ったことがない……」と唇から零れ落ちた言葉のとおり、それは彼女にとって初めて見る世界だ。
 壁の向こうで踊るように泳ぐ魚たちに、きらきらと瞬いては消えていく水泡。差し込む青白い光の輝き。すべてが幻想的に見えて、うつろは現実と確かめるように透明な壁にそっと触れてみる。
「……だから、すっごく、びっくりしたの」
 ひんやりとした硬質な感触が、目の前の現実を知らせてくれている。向こう側では小さな魚たちがまるで音符のように跳ねまわっていて、うつろはじわじわと胸から込み上げる気持ちを映すかのように目を輝かせた。
「琥珀おじ様……! ダンジョン? これも、ダンジョンなの?」
「そうとも、さあ往こうか」
「すごいよ、お魚さんがいっぱいなの」
 音符のように跳ねて、歌うように舞って。
 小さな魚たちの動きに合わせるように、うつろはくるり、くるりと軽やかに足先でステップを踏む。その様子があまりにも楽し気なものだから、バルザダールは彼女を見守るうちに静かに微笑んでいた。

 そうして熱帯魚たちの合間をすり抜けて進むこと、しばらく。
 やがて彼らの前には二手に分かたれた道が現れる。
「さて、どうしたものか……」
 片方には、ふわふわと浮遊するクラゲたちの海。もう片方には、銀の魚群と雄大なジンベエザメたちが待っているらしい。それぞれが特色を持つ道の岐路に立って足を止めたバルザダールは「うつろ君はどちらが見たい?」と問いかけて彼女に視線を向ける。
 うつろは、少し困ったように眉を下げていた。
「クラゲ、じんべえ……ざめ……? どっちも、よくわからない、けれど」
 突如として現れた目の前の選択肢に、胸が躍るような気持ちもあれば、不安に揺らぐような気持ちもあった。
 声はだんだんとしぼんでいき、けれどそれでも一生懸命に決めようと悩む姿を前に、バルザダールは急かすことなく彼女の答えを待っている。そうして、うつろは真剣に考えたその末に――ぽつり、と告げた。
「琥珀おじ様……わたし、決められない」
 その言葉を受けて、バルザダールは鷹揚と頷く。
 そして、手にしていた『錬金魔杖』を持ち上げるようにして、悩んで決めかねているうつろに見せて提案した。
「では、私の魔杖ステッキが倒れた方に行くのはどうだい?」
「うん……! ステッキ、たおれた方に行くね」
「――では、手を放すよ」
 こつり、と。垂直に立てた錬金魔杖から節くれ立った指が離れていく。
 息を呑んでうつろが見守る中、それはゆっくりと傾いていった。重さを感じさせないゆるやか動きで杖が倒れていく先は――左だ。
 方向を確認した後、音もなく倒れ伏した杖を拾い上げたバルザダールは、左の道へと視線を向ける。
「左はイワシやジンベエザメがいる方だ。魚群もだが、大きなジンベエザメも見応えがあるだろうね」
「ウミガメさん、見られる、かなあ?」
 先導しようと差し出されたバルザダールの大きな手に、うつろは自然な動作で小さな手を重ねる。一段と暗くなっていく回廊をゆっくりと進んでいけば、ふたりの影も静かに水の中へ溶けていくようだ。
 いつしかその頭上を無数の魚たちがぐるりと覆って、銀色に輝く光のカーテンがさざめいても、ふたりが臆することはない。そして横切っていく巨大な影――ジンベエザメをも身近に感じながら、ふたりは更なるダンジョンの奥地へと歩みを進めていった。

絹更月・識
花牟礼・まほろ

 水の中に沈んだような静けさが、そこにはあった。
 天井も床も、すべてが磨き上げられた水晶のように透明な壁に囲まれている。その向こう側では、青白い光の中でも驚くほどに色鮮やかな魚たちが悠々と泳いでいた。
 虹のように煌めく鱗、光をはじく尾ひれ、波のように群れる魚たちの呼吸と水泡。それらは水のゆらぎと共に此方側にも影を落として、まるでこの空間がひとつの海そのものであるかのような錯覚を与えている。
 花牟礼・まほろ(春とまぼろし・h01075)は、そんな幻想的な空間に目を見張っていた。その手の中にあるカンテラは、港町の露店通りで識が選んでくれたものだ。カンテラをしっかりと握った手とは反対に、空いた片手をまほろは隣に向けて差し出す。
「識くん、一緒に行こっ」
 隣を歩いていた絹更月・識(弐月・h07541)は差し出された手を横目に、足も止めずに自然な動作でその手のひらを軽く包む。カンテラを指に引っ掛けてからからと揺らす横顔は無表情のようでどこか一歩引いたような佇まいだけれど、まほろがその柘榴色に冷たさを感じることはない。
「迷子防止か子供のお守りか微妙なところだな」
「別に迷子はならないけど、一緒に行きたいんだもんっ」
 水に囲まれてひんやりとしている空間とは裏腹に、繋いだ手の温度に心はふと安らぐようで。まほろはぎゅっとその手を握って、もう一歩を踏み出した。

「わーホントの水族館みたい!」
 足元の硝子の床には、天井から差し込む青白い光が波紋となって揺れていた。
 水の中にいるような不思議な錯覚にまほろが歓声をあげれば、静かな空間に広がるように響く。けれど、その声が反響することはない。ひとつひとつの音がやわらかな膜の中を通るように消えていくようで、まほろは小さく首を傾げる。
「……スズメダイ、チョウチョウウオ、ハタタテダイ」
 そんな中、識がぽつりと呟く。視線の先を横切るように泳いでいく魚たちに、ひとつずつ名前を当てはめていっているのだろう。それは知識の照合であり、確認でもある。「ふうん、本当に危険はないんだな」おかしな魚も見えず、モンスターの気配もない。心の中で納得するように最後にそう呟けば、うずうずと好奇心を抑えているまほろの顔を横目に繋いだ手を緩める。
 どうやら、識が魚に意識を向けている間にずっと大人しくしていようと努めていたらしい。識の視線に気付いたまほろはうろうろと目をさ迷わせて、それから小さく呟く。
「いえ、まほろはちゃんといい子になれるタイプなんですけども……」
「……今更じゃない? いい子って、別に僕の前でそんな猫かぶっても」
「ネコ被りってゆか、識くんは静かな方が好きかなって……お魚さんも突然近くに来たらビックリしちゃうかもだし?」
「ちゃんと見てるし、好きに遊べばいいよ」
 否定はしないけど。なんて言いながらも、まほろに向けられた声に咎めるような響きはなかった。ただ事実をそのまま言葉にしているだけだ。
 まほろにはそれがなんだか嬉しくて、くすぐったくて。緩んだ手をすり抜けて、まほろは身を翻す。
「………う、じゃ、ちょっとだけあっち見てくる!」
 言葉が終わるより早く、手を離したまほろはカンテラをぶら下げて駆けていく。
 その背中に、識は一度だけ溜め息を吐いた。はいはい、と声がすぐ届く距離で追いかけながら、識は小さく肩を竦める。自分にとっては今更でしかないけれど、びっくりする魚は可哀想かもしれない。
 ――しばらくして。
 思う存分に楽しんできたのだろう。満足そうな顔で戻ってきたまほろが、息を弾ませながら識を見上げる。
「識くんはどう? 気に入った?」
 気に入ったかどうかと言われれば、どうだろうか。識が見ていたのは魚というよりも、無邪気に魚を追いかけて、時折立ち止まってはきらきらと目を輝かせていたその横顔だった。
 そうと気付いた識は少しの間を置いて、静かな空間でようやく聞こえる程度の声音で呟く。
「……たまには良いかなって思うよ」
「あは、それは概ね満足ってことだね!」
 曖昧な言葉にもまほろは満面の笑みを浮かべて、そう言って再び手を差し出す。識はそれ以上は何も言わず、黙ってその手を取るだけだ。
 そうしてふたりは珊瑚礁の森を通り抜けた先で、二手に分かたれた道の岐路に立つ。右と左に分かれた道はどうやら進む方向によって見えるものも異なるようで、まほろは「どっちにする?」と問いかける。
 その答えは簡単だ。識は眉間にうっすらと皺を寄せたまま、柘榴色の目を僅かに細める。目に見えない情報さえも拾うように一度凝らせば、あとは迷うこともなく識は右へと向かってその足を踏み出した。
「こっちが人が落ち着いてそう」
「なあに、それ」
 ぷかり、ぷかりと。
 青白く光り輝くようなクラゲが待つ階層へ向かって歩きながら、まほろはくすくすと笑みを零す。理由はひどく単純なもので、けれどそれが何だかとても彼らしくて。
「……うるさい、癖なんだよ」
 小さな笑みが波紋のように空気を揺らして、消えていく。
 静けさの中をおだやかに歩んで、並んで揺れる影の距離は近い。そして暗い海の終わりに辿り着いても、繋いだ手が離れることはなかった。

式凪・朔夜
桂木・伊澄
アデドラ・ドール

 水の匂いがしている。空気の密度、静けさ、温度、それらがすべて混ざり合って、まるで本当に水中を歩いているかのようだ。
 よく磨かれた水晶のように透明な硝子越しに、深い青色に沈んだ海中トンネルに入ってようやく魔法のカンテラがほんのりと淡い光を放っていることが分かる。手元で揺れる光が硝子の水面に映り込んでは溶けて消えていく様を眺めながら、式凪・朔夜(影狼憑きの霊能力者・h07051)はぽつりと呟いた。
「こういうの、いいな……」
 声は反響することなく、水の膜に吸い込まれていく。それさえも水中にいるかのような不思議な心地がして、朔夜はそうと目を細めた。
 その隣を足早に歩いていくのはアデドラ・ドール(魂喰い・h07676)だ。よりいっそうと視認できるようになったカンテラの灯りを確かめながら、朔夜を通り越して珊瑚礁の森へと踏み込んでいく。
「……何をグズグズしてるの? さっさと行くわよイズミ、サクヤ」
 いつも通りの調子に見えて、その背にはどこか浮足立った気配が滲んでいた。
 その逸る心が伝わったのだろう。桂木・伊澄(蒼眼の超知覚者・h07447) は微笑ましく見守りながら「ほら、薄暗くなるからアデドラも朔夜君も足元に気を付けろよ」と先行く背中に声を掛ける。しかし、ずんずんと前を進んでいくアデドラの足は止まる様子もない。
「って、アデドラ、先に行くと危ないって!」
「ねえ、あれは何? あの魚は?」
 硝子越しのぎりぎりまで近寄って、珊瑚礁の影に隠れた魚を見ようと覗き込むアデドラはいつもよりも幾分か幼く見えた。
 マイペースなお嬢さんだと苦笑した伊澄が「あれはカクレクマノミだな」と逐一答える傍らで朔夜もつられて覗き込めば、カンテラの光に引き寄せられた熱帯魚たちがすぐ近くを横切り、ふたりは小さく歓声をあげるのだった。

 やがて、3人が辿り着いたのは分かれ道だ。
 左右に分かたれた岐路に立てば、その先を確認するように伊澄が目を凝らす。
「……右はクラゲ、左はジンベエザメか。さて、どっちがいい?」
「俺はジンベエザメが見たい! です!」
 伊澄の問いかけに真っ先に朔夜が手を上げる。勢いがつきすぎて、自分が子供っぽくなっていることを自覚した瞬間だった。誤魔化しようのない照れくささから首を竦めたけれど、しかしジンベエザメが見たいという気持ちは本心からのものだ。
 その素直な気持ちが通じたのか、伊澄もアデドラも反対することはなかった。顔を見合わせた後に「ジンベエザメなんて滅多に見れるものじゃないしな」と伊澄が頷けば、アデドラも話は決まりだとばかりに左の道へと進んでいく。
 そうして三人を迎えたのが、銀色が渦巻く回廊だ。イワシの群れが波のように一斉に動いて、青白い光が反射して模様を描いていく。その中を通るようにトンネルを歩いていけば、さらに銀色の奔流が激しく動いて――その奥から静かに、そしてゆっくりと巨大な影が現れる。
「うわ~、デカい……!」
 ジンベエザメだ。すぐ近くまで押し寄せる巨体に全員が息を呑む。
 星を散りばめたような斑紋がその背を覆っていて、まるで夜空が海の中に現れたようだ。両手を伸ばしても足りないほどに大きいのに泳ぐ姿は音もなくすべらかで、何より近くで見ることができたその瞳はどこまでも静かで、海の深みのように優しく見えた。
「あれが、ジンベエザメ? 鮫って……怖いものではなくて?」
「そうそう、ジンベエザメって主食はプランクトンという大人しい奴なんだ」
 あれほど大きな生き物に実際に海中で出会ったら驚くだろうけれど、その巨大な体躯に反して温厚な性格をしていることを伊澄が補足する。あんなに大きいのに、と朔夜もアデドラも意外そうに目を瞬かせていれば、その間にもジンベエザメは硝子を隔てた本当にすぐ近くまで、迫力をもって差し迫る。そのとき――優しいまなざしが、こちらを見た気がした。
「見て! もしかして今こちらを見たのかしら?」
「うん、ほら、今俺たちのこと絶対見てた!」
 アデドラが思わずと、声を上げる。振り向いたその顔には珍しく屈託のない驚きと喜びが浮かんでいるようで、朔夜もきらきらと目を輝かせて大きく頷いた。
 ほどなくして、ジンベエザメはその大きな背をふわりとくねらせて、また奥へと泳いでいく。その雄大な姿とは裏腹に、波間に消えていく光景はまるで流星が夜空を渡る瞬間のような神秘的な輝きが見て取れた。
 そうして間もなく、回廊には静寂が訪れる。カンテラの淡い光だけがゆらゆらと水面を照らし、3人の影がほのかに足元をなぞるばかり。それでもしばらくの間、ゆるやかに消えていく余韻に浸るように3人はその場に佇んでいた。
「……ほんとに、いいなぁ。こういうの」
 朔夜が、誰にともなく呟く。その声音には確かな安らぎが含まれていた。
 その隣で小さく頷いたアデドラもまた、カンテラをしっかりと握りしめたままジンベエザメが完全に見えなくなるまで遠くを見つめている。だからこそ伊澄はあえて先を促すことなく、彼らがその光景に別れを告げるそのときまで――静かに見守って、待つことを選んだのだった。

茶治・レモン
日宮・芥多

「あっ君、ほら! カクレクマノミがいますよ!」
 天井も壁も床も、よく磨き上げた水晶のように透明な硝子に囲まれている。それは硝子のようでありながら、どこか水の膜のようにやわらかく波打っているようにも見えた。
 そして、その壁の向こうには悠々と泳ぐ魚たちがいる。茶治・レモン(魔女代行・h00071)はその中に見覚えのある熱帯魚を見つけて、ぴたりと足を止めて指差した。
 その指先から少し離れたところで、橙と白の縞模様を身に纏った小魚が珊瑚礁の隙間から顔を覗かせているようだ。レモンの指先を辿るように視線を向けた日宮・芥多(塵芥に帰す・h00070)は、その特徴的な模様を見て感嘆の声を上げる。
「この魚は何かで見たことあります!」
 珊瑚礁からふわりと泳ぎ出して、また別の珊瑚礁へ。
 波を作るように揺れる魚たちの尾びれを視線で追いながら、「カクレクマノミっていうんですか? 物知りですねぇ」と芥多は関心するばかりだ。珊瑚礁の森を自由気ままに泳ぐカクレクマノミを追いかけてしばらく歩いたふたりは、やがて二手に分かれた道を見つける。どうやらここから先に進むためには、どちらかの道を選ばなければならないらしい。
 左と右、首を回らせた芥多は軽い声音でレモンに問いかける。
「魔女代行くんはどっちがいいですか?」
「うーん、悩ましいですが僕は左が――ってあぁ! もう行ってる!」
 じゃぁなんで聞いたんですか、なんてレモンの小言もなんのその。
 聞いた傍から左の道へ向かって颯爽と歩き出した芥多の背中を追いかけて、レモンも左へと進んでいく。本当はもう少し文句を言いたかったところだけれど、続け様に口を開いたところで――視界一面を覆うように渦巻く銀色に、レモンは息を呑んだ。

 それはまるで巨大な生き物、はたまた強大な竜巻のようにも見えた。
 ひとつひとつは小さな魚でありながら大きな塊となって、ひとつの意思を持っているかのようにうねりながら進んでいく。その姿には自然の力強さを感じるようで、言葉にできない凄みがあった。
「うわ、凄いイワシの大群ですよ!」
「これ全部イワシなんですか? すごい迫力ですね……」
 芥多の言葉に、ぽかんと口が開く。レモンは銀色が織り成す渦を見上げたままその場に立ち止まって、それから深く息を吐いた。
 群の影で海の色が変わっていく様は幻想的で、現実を忘れてしまいそうだ。銀色の鱗が青白い光を受けて反射しているのか、影とは別に無数の光もきらきらと瞬いている。躍動する光と影が空間を満たしていく感覚は、まるで星の海の中にいるようだった。
 やがて、イワシたちの律動に合わせて光と影は流れていき、通路の奥に巨大な影が現れた。それは――ジンベエザメだ。
 回廊の主のように堂々とした体躯で、ジンベエザメは音もなく泳いでくる。
「……鮫なのに、ちょっと可愛く見えて不思議ですね」
 イワシの大群は近くで見るとちょっと怖いような気さえしたけれど。ジンベエザメの想像よりも可愛らしいまだら模様が見えて、レモンがそっと呟く。実際に見てみないと分からないこともあったようだ。そしてそれは、傍らに立つ芥多も同様だったらしい。芥多は「へぇ、俺よりデカいんですね」と遠目に見てもそれは大きなジンベエザメの体躯に、唐紅色の目を瞬かせていた。
「これは、なかなかに楽しいですね!」
「ふふ、あっ君が楽しめているなら何より。ただ、魚にちょっかいは出さないように――、」
「しかし折角ですから、もう少し近くに来て欲しいですよねぇ」
 ほらほら、こっちにおいで。こっちにおいで。
 ゆらゆらと揺らされるカンテラの淡い光が、回遊するジンベエザメを誘う。
 言ってる傍からちょっかいを出しはじめる芥多に肩を落としたレモンを余所に、ジンベエザメの反応は顕著なものだ。まるでカンテラの光が目に見えているかのように反応すると、ゆっくりと泳ぎながらふたりのすぐ近くまで寄ってくる。怖がる様子もなければ攻撃的な様子もなく、そこにはただ小さな興味があった。
「お、来ましたよ! 海洋生物って日本語通じるんですね」
「通じてませんよ! はあ……、あっ君の存在か興味を引いたのかも知れませんね」
 レモンはこめかみに手を当て、溜息を吐いた。
 しかし、こうしてジンベエザメをすぐ近くで見れたことは貴重な体験だったかもしれない。レモンは気を取り直して、芥多へと提案する。どうせならば。
「――折角ですし、ウミガメも探しに行きましょう!」
 ジンベエザメはふたりの傍を一度旋回すると、悠然と離れていく。
 その尾ひれに続くようにイワシの群れも散り散りとなっていくのを見送って、芥多は大きく頷いた。
「ええ。やりましょう、ウミガメ探し」
 一方は日頃の行いが良いので。
 もう一方では、海洋生物たちの興味を引く存在ですので。
 ――きっと見つかりますよ、なんて。ふたりの声が重なれば、一拍の間を置いて静かなアクアリウムに笑い声が響いた。
 そして進む道の先、静かに漂う影がひとつ。それが彼らの探すウミガメかどうかはまだ分からないけれど。それでもこの深く穏やかな水の世界なら、きっと彼らの願いも届くことだろう。

結・惟人
アンジュ・ペティーユ

 まるで夢の中を歩いているようだと、アンジュ・ペティーユ(ないものねだり・h07189)は思った。
 見上げる天井も、歩く床も、触れる壁も。すべてがあやふやな透明色に包まれている。一歩進めば足元が淡い波紋を描くようで、頭上を泳ぐ魚たちの影がすべての境界を曖昧で。水の中ではないのに、水中を漂っているかのような不思議な心地がしていた。
「わあ……すごい……」
 青と白、時折きらめく虹色の光が階のように体に降りかかり、アンジュは小さく呟く。その声すら、床に落ちるよりも前にやわらかい膜を通って消えていくようだ。
 買ったばかりのカンテラをそっと持ち上げて小さく揺らせば淡い光がまわりに浮かび、小さな魚たちの影がまるで呼応するように揺れるようだ。新しく手にしたそれを確かめるように、アンジュはもう一度だけ揺らしてみる。光はまるで呼吸するように膨らみ、また縮む不思議な律動を刻んでいた。
「これだけでも圧巻なのに、ここから先もっとすごい景色が待っているんだね……!」
「ああ。色々な魚がいて本当に綺麗な景色だな」
 色鮮やかな魚が自由気ままに泳いで暮らしている珊瑚礁の森を覗くように、結・惟人(桜竜・h06870)は黄金の瞳を瞬かせる。ここだけでも色々な魚を見ることができて見応えがあるが、しかしふたりの興味を誘うものはこの道の先だ。
「――さあ、右に進んでクラゲも見に行こう」
 アンジュと惟人が足を止めた分かれ道。右と左に分かれた分岐点で、ふたりは迷うことなく右の道を選ぶ。
 足音も響かない静けさの中、肩を並べてカンテラを掲げたふたりの姿が水面に映っていた。

 青白い光を浴びて光り輝くようなクラゲたちが漂っている。
 硝子の向こう──そのあわいはあまりにあいまいで、同じ空間を漂っているのかのように判別できない距離感で。白や青、時折ほのかな紫に染まりながら、クラゲたちはふよふよとゆるやかな水流に身を任せてただ流れている。時折そのやわらかい傘を開いては閉じて大きく跳ねている姿は、水中で遊んでいるようにも見えた。
「……カンテラの灯りのようで、なんだかおちつくね」
「……そうだな」
 暫しの間、幻想的な光景を前にふたりは口を噤んでいた。
 思わず感嘆の声を漏らしてしまいそうになるけれど、アンジュはその静けさを壊さないようにひそやかな声で囁く。その声を聞いた惟人もまた、この空間を壊しがたいといった様子で小さく頷いた。
「クラゲのこうやってのんびりとしている所は、惟人みたいだなっておもうんだ」
「そう、のんびりしていて……ん、私みたいか?」
「キミはクラゲじゃないけどね」
 くすりと笑みを零しながら、アンジュはクラゲたちのゆるやかな挙動を見守る。それは、時間の流れさえ忘れるような光景だった。沈むような、揺蕩うような不思議な安心感に身を委ねるように、そうと目を細める。
 クラゲに例えられた惟人もまた、ふと笑って肩の力を抜いた。成る程、と頷いたのは確かにそうかもしれないと自分でも思ったからだ。あの月明かりの中で自分もゆらゆらと漂えたら楽しそうだと、水の流れに乗って揺れているクラゲの口腕を惟人は穏やかな気持ちで眺める。
 そして、しばらくして。
「アンジュも漂ってみたいと思うか?」
 惟人は不意に口を開くと、アンジュにそう問いかける。
 活動的な彼女であれば漂うより泳ぎたい、というかもしれない――そんなことを思いながら、視線を向ければアンジュは目が合った瞬間に微笑んで、大きく頷いた。
「あたしなら……うん! 泳ぎたくなりそう!」
「そうか。それは……アンジュらしいな」
 海の中はきっと、彼女の好奇心を擽るような未知に溢れていそうだ。
 笑ってカンテラを掲げたアンジュに合わせて、惟人もまた静かにカンテラを掲げる。
 青白い光のなかで、わずかに揺れる淡い光がふたりの影を伸ばして、水底に揺らめかせるようだ。カンテラの光に合わせて揺れたクラゲの影がそこに交わると、境界線は次第にあいまいになっていく。どこからが光で、どこからが影なのか。どこからがふたりで、どこからが海なのか――そんな感覚さえ、少しずつ融けていくような気がした。
 惟人は小さく息を吸うと、手元のカンテラをもう一度しっかりと握りしめる。
 きっと写真ではおさめきれないこの景色をじっくりと眺めて、移り変わる瞬間さえちゃんと覚えておきたいと思ったのだ。青白い光の色も、揺れるクラゲのやわらかさも、静けさに落ちる小さな呼吸の音さえも。全部目に焼き付けて、心に刻んでいこう。
 そうしてゆっくりと歩き出せば、カンテラの淡い光が波間を揺らいで、まるで道標のように進む先を僅かに照らす。クラゲたちのまほろばを通り抜けた先には、さらに奥へと続く道が伸びているようだ。
「……行こっか」
 青い光がだんだんと深くなっていくように、静寂もまた濃くなっていく。
 それでも不思議と、怖いと思うことはなかった。それはきっと隣に君がいるからだろう。言葉はなく、ただゆっくりと進むふたりの足音だけが静かな水中にぽつ、ぽつと響いては消えていく。それはまるで――水中を漂うクラゲたちのように、どこまでも穏やかな時間だった。

ヒュイネ・モーリス
チェスター・ストックウェル

 耳鳴りがするほどの静けさが、そこにはあった。ひんやりとした風が頬を撫でるように通り過ぎて、ぽかりと口を開けた洞窟の中を下るほどに水の気配を感じるようだ。次第に濃くなる潮の匂いに目を細めて、ヒュイネ・モーリス(白罪・h07642)は薄らと笑みを浮かべる。
「仕方ない、ここからは……わたしがエスコートしてあげようかな」
 悪戯げな言葉と共にヒュイネは手を伸ばして、ダンジョンへ続く扉に指先を添える。見た目に反して、少し押せば開く程度に軽い扉だ。そこに訪れた者を拒む意思はなく、ただ外界と隔絶する境界のような役目しかもたないのだろう。
 ゆっくりと鷹揚な動作で扉を開けば、ヒュイネは横目で内部の様子を窺う。やはり水の気配があるばかりで人気もなく、モンスターの息遣いすら聞こえない空間だ。
「お先にどうぞ」
「……どうも」
 促されるまま、開かれた扉をェスター・ストックウェル(幽明・h07379)は潜り抜ける。最初の一歩を踏み出したように見せて、しかしその足音が響くことはなかった。
「薬屋さんもこういうところに誰かと来たりするの?」
 すれ違いざまに問いかけたのは、興味本位からくるものだ。視線が交差する僅かな間、ヒュイネは「……来ないけど、きみよりは知識はあるかなって?」と言葉を重ねて、それから彼の後に続くようにダンジョン内部へと踏み入る。
 中に入れば、視界は瞬く間もなく一変していた。
 天井も床も、すべてが磨き上げられた水晶のように透明な壁に囲まれている海中トンネルはそのあわいさえ曖昧に見える。ヒュイネは境界線を確かめるようにそっと壁に触れて、その向こうに揺れる珊瑚礁の森を見た。
「へぇ、中はこんな風になってるんだ。きれいだね」
 珊瑚礁の合間をすり抜けていく魚たちは、青白い光の中でも驚くほどに色鮮やかだ。悠々と泳いでは光をはじく尾ひれが水のゆらぎと共にこちら側にも影を落として、まるでこの空間そのものがひとつの海であるかのような錯覚を感じる。
「――ね、奥の珊瑚に隠れる魚を引き寄せてみてよ」
 振り返らず、何気ない調子で言うその声音には、ほのかに含みがある。
 本気だったかもしれないし、冗談のつもりだったのかもしれない。けれど、彼が素直に真に受けたことは事実だろう。「それくらいなら」と軽い調子でヒュイネの隣に並んだチェスターは、壁の奥を覗き込むように顔を近づけて、それから指先で何かを引き寄せるように小さく動かす。念能力だ。
 何かに掴まれたかのように引き寄せられて、ヒレを懸命に動かす小さな魚の姿にヒュイネの口角が少しだけ持ち上がった。けれど――、
「……冗談。弱いものいじめはよくないよ?」
「――へ? 違う、これはヒュイネが……!」
 振り向いた彼女の表情は、どこか悪戯が成功した子どものように満足そうで。
 からかうような視線に慌てて魚を念能力から解放したチェスターは、思わず眉を潜める。そうして彼女にしっかり弄ばれていたことに気付いて、不名誉な言われように口を尖らせるのだった。

 しばらくすると、ゆるやかに分かれた通路がふたりの目の前に現れる。
 左右に続く道の先には、それぞれに異なる生態系が広がっているのだろう。ヒュイネは一瞬だけ足を止めると、チェスターを見遣る。
「男子はクラゲよりサメを見て、かっけー! ……とかやりたいんでしょ」
 じゃ、こっちに行こう。
 返事も聞かずにヒュイネはあっさりと左の道を選ぶ。それは問いかけというよりは、既に決めつけたような口ぶりだ。チェスターは「なんだよそれ」と呆れたように肩を竦めて、けれど颯爽と進んでいくヒュイネに置いていかれないようにとチェスターは宙を進む。
 そうして小さく息を吐こうとしたところで――チェスターは息を呑んだ。
 目の前に押し寄せるような、銀色の奔流が視界を圧倒する。無数のイワシたちが渦巻き、流れて、反射する光に模様を描くような圧巻の光景に、言葉を失くしたままいつまでも見入ってしまいそうだ。
「これ……全部、イワシ?」
 彼らの動きひとつで水の色が、光の階が、景色そのものが瞬く間に変わっていく。呆然としながら呟くチェスターの耳元で、ヒュイネが少しだけ息を呑む気配がした。彼女の視線は、イワシよりもずっと奥に向けられている。
 そして煌めくイワシの大群を過ぎようとしたとき、イワシの群れを割ってひときわ大きな影が現れる。ふたりを丸ごと覆ってしまうほど強大なその影の正体は――ジンベエザメだ。
「わ、大きな星空が泳いでるみたい」
 それはまるで、夜のとばりが降りていくように。目の前に夜空が横たわっているように。
 斑点模様が星のようにも見えて、悠然としたその動きにはどこか神秘的な重さを感じる。それ故か、神秘的な光景とは裏腹にヒュイネの口から飛び出した言葉は存外に可愛らしく聞こえて、チェスターは思わず笑みを零した。
「大きな星空かあ、あはは」
「……なに? 別にはしゃいでないからね」
 そう言って可愛げなくそっぽを向いた彼女の耳は、少しだけ赤く染まっている。
 チェスターはふっと息を吐いて、それから息を吐くように囁いた。「薬屋さんがそんなに楽しそうなの、仕事以外で初めて見たよ」すぐ近くを旋回し、また遠くへと泳いでいくジンベエザメを見送るまでの間、ふたりは静かに肩を並べて立ち尽くす。
 同じ景色を見て、同じように心を動かしている。それが言葉に出さなくても伝わるこの距離が、結局のところ気に入っているのかもしれない。
 ――自分も同じくらい楽しんでいることは、秘密にしておこう。心の中でそう決めて、チェスターは何事もなかったとばかりに平然とした顔でまたふわりと浮かび上がり、すいすいと水の気配を切るように宙を泳ぐのだった。

緇・カナト
野分・時雨
八卜・邏傳

 淡く弱く、暗がりでようやく見える程度の小さな灯りを湛えたカンテラを手に、3人はゆるやかな足取りで回廊を進んでいた。
 水の気配を色濃く感じられる回廊は、ひんやりとしていてどこか冷たい。それはまるで、海中に降り立ったように深い青色に染まった空間だ。よく磨かれた水晶のように透明な硝子の向こう側には色とりどりの様々な魚たちが泳ぐばかりで、ダンジョンでありながら近くにモンスターの気配は感じられない。それどころか人の気配さえなく、回廊には水の音と自分たちの足音が響くばかりだった。
「此れがウワサの水族館みたいなダンジョンか~」
 海中を歩いてるみたいな気分にのんびり浸れるのって良いよねェ。そう言って珊瑚礁の奥を覗くように視線を向けた緇・カナト (hellhound・h02325)の声音はどこまでも緩く、淡い光の中に溶けていくようだ。
 彼の視線の先では、珊瑚の群れが静かに揺れていた。細かく入り組んだ枝を住処とした色とりどりの小魚が影のように潜り込んでいくのを眺めていれば、鮮やかな鱗が上空から差し込む青白い光を反射してきらきらと煌めく星屑のようにも見える。
「わ! すご、カラフルな魚ちゃんたち! きれ〜!!」
「あまり見ないお魚もいて新鮮~」
 露店通りで出会ったカンテラをからんと揺らした八卜・邏傳 (ハトでなし・h00142)も、海中を歩いているような心地よさに気分は上々のようだ。感嘆の声をあげた邏傳が硝子の壁へ一歩近付けば、カンテラの光に引き寄せられた小魚が珊瑚礁から顔を覗かせている。
 野分・時雨(初嵐・h00536)も合わせるようにカンテラを揺らせば、彼らのカンテラが作るあわやかな光の輪が静かな海に重なって、興味を引かれるまま近寄ってきた熱帯魚たちをすぐ近くで見ることができた。

 分かれ道に差し掛かったところで、3人は顔を見合わせる。
 どちらも楽しそうだと迷ったのも束の間、右の道に進もうと最初の一歩を踏み出したのは誰だったか。「それじゃあ、海の月でも眺めに行こうか」と笑ったカナトに反対する声はなく、クラゲたちのまほろばへと向かっていく。
 しばらくの間、ほの暗い道が続いていたようにも思える。けれど、ある一線を越えたところで突如として視界に青白い光が現れた。
 そうして視界いっぱいに広がるのは、ふわりふわりと漂う白や薄青色の傘たちだ。まるで夜空を逆さまに映したような淡い光の群れはあっという間に広がっていき、気が付けば数えきれないほどのクラゲが静かな海の空気を撫でるように漂っていた。
「幻想的~。こんなにたくさんクラゲがいたんだ……」
 時雨がぽつりと呟いた声も、そのまま水の膜に触れるように溶けていく。
 光に反射して揺蕩う様が美しくて、誰からともなく足を止めた。
 ひらひらと豪華な口腕を揺らす子もいれば、小さくちょこちょこと泳ぐ子もいて、よくよく見れば小さなクラゲたちにも個性がある。
 もっとよく見ようとカンテラを掲げれば淡い灯りがふわりと手元を照らして、ふと床にもクラゲのような影が滲んでいることが分かった。硝子の壁が、床や天井さえも穹窿の如く囲んでいるのだ。もちろん水の中にいるわけではない。けれど、地に足がついていることを忘れてしまいそうになる。
「陸にある水族館とはまた違った光景で、風情あるな」
「クラゲちゃん改めてみるとさ、自分とはまったく違うイキモノで不思議~」
 カナトと邏傳の声が波紋のように広がって消えていく波間に、クラゲたちがふわりふわりと揺らめく。その様子がまるで優雅に水中を踊っているようにも見えて、時雨も大きく頷いた。
 ふわり、ふわりと。開いては閉じる小さな傘を眺めながら、カナトはぽつりと呟く。
「……元々、クラゲの水槽眺めるの好きだったんだよねぇ」
 音もなく、声もなく。何もせずただ漂うだけ。
 流れに身を任せるだけでも生きていけるような平和な風景だと思っていたのは、単なる昔話だけれど。そう言ってクラゲたちを見守るカナトの瞳はいつになく静かに、どこか遠くを見ているようにも思える。
 軽やかな声とは相反して、その奥にどこか懐かしさと寂しさが混じっているようで。それはとりとめのない独り言のようで、自分に言い聞かせるようでもあった。
「流れに身を任せるだけ……」
 少しの沈黙。
 けれどその間は続くことなく、カナトは唐突に話題を切り替える。
「……ところで、クラゲって食べられるの知っている?」
「えっクラゲちゃん食えるん!?」
「コリコリ食感なのが割と楽しい~」
「カナトさん食べたことあんの嘘でしょ……」
 真顔で続けるカナトに、時雨は心底いやそうな顔をして後ずさりした。
 あのふわふわと揺れる傘、水中にたなびく触手――絶対痛い。毒針のイメージが強すぎて食べる気も起きないと、時雨は頭を振る。
 そもそも時雨からしてみればコリコリとした触感は苦手なのだ。「いざとなったら邏傳くんにあげるからね」「わぁーい、食べてみたぁい♡」絶対に嫌だという強い意志を見せるその隣で、期待を寄せるように若竹色の目をきらきらと輝かせる邏傳だった。
「此処では目玉焼きみたいに見える子いるかなぁ」
 それなら時雨君も食べれるかも、なんて。
 カナトが戯言半分にクラゲたちのまほろばに視線を向ければ、無言で首を振る時雨を余所に、邏傳の瞳はさらに輝きを増していくようだ。
「そな子いるん?? そらぁ是非お目に掛かりたいー! 探そ!!」
 淡い光に満ちた水の回廊を、3人の足音がまたひとつ奥へと進んでいく。
 時に冗談を交わしながら、揺れる灯と海の月たちの間をすり抜けて――、
「……なんか、目玉焼きみたいなクラゲ浮いてるよ」
 遠くで、妙に平たく、妙に黄みがかった丸いクラゲが揺れている気がした。

オーキードーキー・アーティーチョーク
オルテール・パンドルフィーニ

 天井を覆う硝子の穹窿を、深い青色の世界がゆるやかに包み込んでいた。
 差し込む青白い光に反射してちかちかと煌めく水泡に、水の流れに沿って泳ぐ魚たちの色鮮やかな尾びれ。青に赤、群青に黄金と空中に瞬く星のような輝きがゆらゆらと光を帯びて揺れている。静けさの中にも目の覚めるような彩りを湛えた珊瑚礁の森を潜り抜けて、次に見えたのは銀色の渦巻く回廊だった。
 ほの暗い道を照らすようにカンテラを翳せば、まだ弱く淡いばかりの光が波間に揺蕩うようだ。オーキードーキー・アーティーチョーク(Spaghetti Monster!!!・h02152)はその景色に酔いしれるように感嘆の息を吐いた。
「実に見事ッッッ!!! 鰯の鱗が月明かりを反射して、光の渦のようですねェッッッ!!!」
 彼の声はひときわ大きく、けれど不思議とこの空間に溶け込んでいた。水の膜のような壁は彼の声さえ呑み込んで曖昧にしてしまうようで、これほど大きな声を発しても反響は少ない。
 その横でオルテール・パンドルフィーニ(Signor-Dragonica・h00214)も足を止めて、光の渦の先まで見るように目を細める。透明な硝子の向こうでは数えきれないほどの鰯たちがまるで意志を持ったひとつの生命体のようにうねり、波立ち、刻々と様変わりする模様を描いていた。
「鰯って本当に群れになるんだな! 君の言う通り、光が渦巻いてるみたいで綺麗だ」
 オルテールの瞳には、純粋な驚きが浮かんでいた。
 瞬く合間にも姿かたちを変えていく光景から目が離せなくて、心まで惹きつけられるようで。もっとよく見ようと壁の傍へと一歩を踏み出した――そのとき。水面を割るように、そして鰯の群れを断つように大きな影がゆっくりと横切った。
「オーキー! 大きい鮫がいる!」
「ほぉゥ、ジンベエザメッッッ!!! 何とも見事な大きさなのでしょうッッッ!!!」
 オルテールがカンテラを掲げ、影のほうを指し示す。
 そこには空間を丸ごと呑み込んでしまいそうなほどの巨大な体躯をもつ、ジンベエザメの姿があった。ゆったりとした動きは優雅でありながら雄大で、堂々とした姿はまさにこの空間の支配者と言ってもいいだろう。ゆるやかな尾を一振りするだけで空気が振動し、周囲の水が大きくたゆたうのが見える。
「ジンベエザメ……こんな風に泳ぐんだな」
 人間となって三年と半年程度。長いようで短いようで、未だ水族館に行ったことがないオルテールにとっては初めて見る生き物だ。
 その大きさは隣立つオーキードーキーと見比べてもはるかに大きいもので、オルテールは自然の偉大さを感じながら歓声をあげる。「凄いな! 君より大きいんじゃないか?」――その言葉の、なんとまあ不本意なことか。口を尖らせたオーキードーキーは、次の瞬間にはぐわりと大きくその口を開いた。
「ムムム、大きさではサメに分が有りッッッ!!! しかァしッッッ!!!」
 それは威嚇か、はたまた本能か。否、彼なりの大いなる主張である。
 オーキードーキーが大きく開いた口腔には、ぎらりと光る乱杭歯の二重歯列がまるで凶器のように並んでいた。なんでも嚙み砕けそうな牙を前にすれば、確かにプランクトンを食べるばかりのジンベイザメでは文字通り歯が立たないだろう。
 オルテールが成程、と頷いたところで、牙を露わとした彼は怪異としての在り方を誇示するようにさらに大きく、そして強く、明確に勝利宣言をあげる。
「――牙では我輩に軍配があがるでしょうッッッ!!!」
 ざわり、と。
 舞い踊る魚たちがざわめき、水の流れが一瞬だけ乱れたような気さえする。しかしそんなことはオーキードーキーが気にする由もなく、大仰な仕草で両手を広げながら言葉を続けた。
「フフフ、それにオルトのほうが元々は大きいですし、つまり我らが勝利ッッッ!!!」
 その目深帽子に隠された奥の顔が、見えない筈なのにどこか満足そうにも見えて。
 オルテールは昔の姿を思い出せないというのに、何故だか不思議と「――確かに」なんて首肯してしまった。彼が言うならそうなのだろうと、だんだんとそんな気がしてくる。少なくとも、ダンジョンという小さな枠に収まるようなサイズではなかったかもしれない。で、あるならば。
「よし! 俺たちの勝ちだ!」
 鮫相手に何を張り合っているのやら、少しの間を置いてふたりはどちらともなく破顔する。
 ふと息を吐けば、その横でゆっくりとジンベエザメが尾びれで水を裂いて、また奥へと泳いでいく。その背にはまだら模様の星が浮かんでいて、まるで海の夜空を運んでいるかのようだった。
「ンフフフ、つい童心に戻ってしまいましたなッッッ!!!」
「まあ良いか、こういうのも楽しいよな」
 ジンベエザメが遠くに消えても、鰯たちが散り散りと消えても。カンテラの淡い灯りは変わらず弱々しく彼らの影を揺らしている。
 静けさを取り戻した回廊には水の音がやさしく響くようで、こんな時間も悪くないと思えた。例え相手が巨大な鮫であろうと、未知のダンジョンであろうと――隣に友が在るのなら、それだけで。彼らにとって、そんなことは取るに足らない問題だった。

雨夜・氷月
李・劉

 静かな水の世界へ足を踏み入れたその瞬間、周囲は深い青色に沈んだ。
 壁も床も、天井さえも透き通るような硝子の穹窿に囲まれて、その向こう側では水がゆるやかに揺れ動いている。そこには海の底を思わせる静謐が漂い、水音さえ聞こえぬほどの静けさが広がっていた。
「へえ……ダンジョンって感じじゃないな。まるで壮大なアクアリウムだ」
 雨夜・氷月(壊月・h00493)は不意に立ち止まって、天井越しに泳ぐ魚の影を見上げた。ぼんやりと浮かぶ魚影が、まるで空を行く雲のように形を変えながら流れていく様はなかなか見応えがある。彼が足を止めたことに気付いた李・劉(ヴァニタスの匣ゆめ・h00998)は、肩越しにちらりと彼を見遣るとほんのりと微笑んだ。
「こんなダンジョンも存在していたのだねぇ」
「ダンジョンと言うより、壮大なアクアリウムだな」
 珊瑚礁の森から顔を出したカクレクマノミが、すいすいと視界を横切っていく。色鮮やかで特徴的な模様は南の海を思わせて、本来であれば危険が渦巻くダンジョンとは思えないほどに平和なものだ。
 再びゆっくりと歩き出した氷月は、手にしたカンテラをゆらゆらと遊ばせながら劉に問いかける。
「劉はこういう場所って行ったりする? 水族館とか」
「ン~……普段は店があるからネ。誘われなければあまり行かないかも」
「俺もわざわざは行かないかな」
 だからちょっと新鮮、なんて言えば同意するように劉も頷く。
 静けさの中で交わされる会話は水泡のように軽く、硝子と水面のあわいに溶けていくようだ。まるで水中の中を歩いているような錯覚を感じはじめたところで――やがて、道が二手に分かれていることに気付く。
 右と左に分かたれた岐路に立っても、氷月が迷うことはなかった。カンテラを軽く掲げれば淡く弱々しい灯りが揺れて、右側の通路に伸びていく回廊に僅かな光を落とす。その様を一瞥して、氷月は小さく首を傾げた。
「今日の俺は右に進みたい気分。良いかな?」
 その問いに、劉はおおらかに笑って首肯する。
「あゝ、君の直感のままに往こう。屹度、興味深いものと出会えるかもしれないヨ」
 そして間もなくふたりが右の道へと進めば、世界はさらに深い青色へと変化していく。ほの暗い道を進むにつれて視界も狭まり、暗い海の底へと潜っていくようだ。
 しかしそれも束の間、青白い光がゆらりと揺れた。それはぽつり、ぽつりと増えていく。――小さな小さなクラゲたちだ。
 気が付けば幾千ものクラゲたちが月明かりの中を泳ぐように漂って、透き通る白と淡い青の笠を揺らしている。光を吸いこんで、また吐き出すようなその動きはひどくゆるやかなもので、時間の流れさえ忘れてしまいそうだ。
 氷月はしばらくの間を置いてから息を吐き、溜息にも似たひそやかな声で呟いた。
「……月明かりを泳ぐ海月の群れ、か」
「なかなか綺麗なものだネ」
 硝子の向こう側で漂うクラゲをふたりは暫し黙したまま見つめていたけれど、氷月はふと口もとを綻ばせて劉に視線を流す。
「こういうのなんて言うんだっけ、デートコース?」
 暗い水族館に、穏やかなひととき。青白く輝くようなクラゲたちが作り出すロマンチックな光景をふたりで見る流れはまさしくデートコースそのもので、「劉、大丈夫? 一緒行く相手間違えてない?」と氷月は戯けるように笑った。その揶揄うような声音には劉も喉を鳴らして、笑みを零す。
「それを云うなら、この旅路の最初からデートコースではないか?」
 君こそ、私より美しい女性と歩めば雰囲気も出るだろうに。なんて言って肩を竦めた劉に、それは確かにと今度こそ心底笑ってしまった氷月だった。

「けれど、良い事もあるヨ」
 ひとしきり笑った後、クラゲたちの光を縫うように進みながら劉は言う。
「君は水の青色が良く似合う。私は美しいものを眺めるのが好きだからネ――風景と合わせても絶景で、眼福さ」
 その声音には皮肉ではなく、ただ楽しげな響きだけがあった。
 氷月はにんまりと口角を上げて、劉の方へと一歩だけ身を寄せる。顔は近付けず、ただ視線だけはまっすぐ射貫くように。
「んっふふ、何それ口説いてる?」
「どうだろうネ?」
 きっと、これくらい軽口を叩けるくらいがラクで楽しいのだろう。
 ゆらゆらと漂うクラゲたちの灯りが劉の頬に淡く影を落とせば、白皙の相がより印象的に見えて、彼の顔こそ充分に綺麗な顔をしていると氷月は溜息を吐いた。「海月と並ぶなら劉の方が似合うんじゃない?」捉え所のない感じなんてそっくりだ、と言えば、劉は答えず、けれどその言葉を受け取るように静かに微笑むばかりだった。
 そうして、ふたりは再びカンテラを手に奥地へと向かって歩き出す。
 静かな海の中を歩くうち、いつしか自然と口数も減ったとして、それでも心地よい沈黙がそこにはあった。
 水と光と、互いの距離。そのすべてが穏やかに混ざり合い、ほんの少しだけ、ふたりの世界が深まったように思えた。

和田・辰巳
真心・観千流
ベニー・タルホ

 からり、からりと。
 深い青色に包まれた海中トンネルに、押して歩く台車の車輪がわずかに軋みながらも心地よい音を響かせていた。
 通路の両側を覆っている硝子の壁の向こう側では、まるで空に浮かぶ星々のように無数の熱帯魚たちが群れをなして泳いでいる。青白い光が鱗に反射して足元に光の波を揺らし、重なりあって不思議な模様を描いていく。光を遮るように台車が過ぎれば、その上にちょこんと乗った真心・観千流(真心家長女にして生態型情報移民船壱番艦・h00289)は、ひときわご機嫌な様子で体を揺らしていた。
「ふむ、それぞれ見たいやつがあるみたいですねぇ」
 珊瑚礁の森を通り過ぎた頃、二手に分かれた岐路を前にして観千流が目を細める。
 右と左、それぞれ異なる景色が広がっていると知ったとき。選んだ道がそれぞれ違ったとしても、それを止める者はいなかった。
 ――では、またあとで。それが当然の選択であるかのように、まるでそれこそが冒険であるというように、軽やかに観千流は告げる。その声に応えるように、ベニー・タルホ(冒険記者・h00392)は台車の取っ手を少し握り直した。
 別れ際には観千流が量子ハッキング弾頭を配り、一行は手を振って二手に分かれて進んでいく。

 港町で借りた台車は決して快適とは言えないが、軋む音すらもこの静かな回廊では心を和ませるリズムに思えた。
 通路の硝子越しには、海を泳ぐイワシたちの姿が見える。銀色の光が一斉にうねる姿はなんとも見ごたえのあるものだが――それと同時に、水の中に紛れるように揺らぐ半透明の影をベニーは見ていた。それがインビジブルであることは、能力者であればすぐに分かるだろう。
「……私、冒険中に死んだことがあるのですが」
 ぽつりと誰にともなく呟やかれた言葉に、和田・辰巳(ただの人間・h02649)は目を瞬かせる。
 ベニーの口調は淡々としていたが、その響きは硝子越しの海流のように穏やかなものだ。彼女の言葉をよく聞こうとカンテラの灯りを傾けた辰巳にを一瞥した後、ベニーはその後ろを通り過ぎていくインビジブルを見遣る。
「インビジブルとなった自身の姿について、覚えていないんです」
「ほうほう、インビジブルの姿ですか……」
 すべての生命は、死後にインビジブルと化す。
 この水族館に漂う影のように大半は無害かつ善良なもので、能力者以外には見ることも出来ず、やがて薄れて消えていくものだ。しかし、能力者だけは自らが死んでインビジブル化したとしても、時間を掛けて蘇生することができる。――それゆえに。ベニーは一度死んだそのとき、本来であればインビジブルとなった自分の姿をそこで知るはずだった。
 大半は海の生物のような姿をしているように、ここにいるものたちのどれかに似ていたのだろうか。イワシのように、サメのように。はたまた、まったく違う何かだったのか、ベニーにはいまも分からない。
「皆さんには、なりたい姿ってありますか?」
 硝子の向こう側へと視線を向けたベニーにつられるように、辰巳も首を傾ける。
「僕は死んだ覚えはありませんが、そうですね……強いて言えば鯨でしょうか」
 綿津見神がそのような姿をとっていたことを思い出しながら、辰巳は言う。雄大で力ある姿は、憧れるには充分だった。
 それも良いかもしれない、と頷いたベニーに辰巳は「ベニーさんは?」と問いかける。自ら水を向けたくらいだ。きっと彼女にも憧れる姿があるのだろうと耳を傾ければ、ベニーは少しの間を置いて口を開いた。
「私はジンベエザメやウミガメにくっついているコバンザメになって、竜と一緒に√ドラゴンファンタジーの空を旅したいです」
 それは、まるで夢のような話だった。けれど不思議と、その姿が目に浮かぶようで。
 台車の上で静かに聞き入っていた観千流が小さく笑う。「なるなら人の姿のままが良いですねえ……」という彼女の言葉も、またひとつの理想の形だろう。
 そして静かに語り合って進むうちに銀色の渦を通り抜けて、もう少しで回廊の終わりに辿り着く――そんなとき。
「――あ! ジンベエザメですよ!」
 不意に頭上を大きな影が覆って、巨大な体躯が頭上を通り過ぎていく。
 静かな捕食者の姿に、イワシたちが食べられてしまわないかという不安が辰巳の脳裏をかすめたけれど、どうやら此処ではイワシたちが危険な目に合うことはないらしい。ゆっくりと通り過ぎていくジンベエザメの影の下、くっつくように泳いでいるコバンザメの姿を見つけてベニーの目がほのかに輝く。
「クラゲたちの道に進んだ皆にも、見えていると良いですねぇ」
 やがてジンベエザメが通り過ぎた回廊を再びふたりで歩き出せば、台車の車輪がからりと音を立てる。
 その心地良い響きを聞きながら観千流は目を伏せ、別の道を行く仲間たちに思いを馳せていた。

神元・みちる
ユナ・フォーティア

 透明な壁の向こうに、光が踊っていた。
 晴れた海のような青い世界。揺れる水の反射が天井を淡く照らし、珊瑚の森の合間を小さな熱帯魚たちが行き交っている。目の前に広がる光景はダンジョンという言葉からはかけ離れた、まるで夢の中のような空間だった。
 天井を覆う硝子の穹窿の向こう側には、青く透き通った海中のような景色が広がっている。壁一面に敷き詰められた硝子を挟んで色とりどりの魚たちが優雅に泳ぎ、珊瑚礁の間から水泡がふわりと立ちのぼっていた。
「いざ、ダンジョン内部へ……お?」
 ユナ・フォーティア(ドラゴン⭐︎ストリーマー・h01946)の目が、一瞬で星のように輝いた。
 靴音も忘れたように駆け出したかと思うと、すばやくスマホを取り出して無数のシャッターを切る。
「このダンジョン……透明な壁、晴れた海の反射する光、熱帯魚に珊瑚が沢山! まさに水族館じゃん!」
「おぉー、すげー……! ダンジョンだけどダンジョンじゃないって新鮮かも!」
 心の昂ぶりが、そのまま言葉となってこぼれ落ちた。立ち止まる度に、ユナが構えるスマホの画面には夢のような景色が次々と収められていく。
 青白い光が鱗に反射して、七色にきらめいては瞬く間にその表情を変えていくのだ。どれだけシャッターを切っても、ユナの手が止まることはない。その様子を一歩後ろから眺めていた神元・みちる(大きい動機 okey-dokey・h00035)もまた、天井を見上げて感嘆の声をあげた。
 天井から射し込む光が、海と硝子のあわいを優しく照らしている。硝子の壁のすぐ傍まで近寄ってもその境界線は曖昧で、手を伸ばせば海に触れられるような気さえした。
「これどーなってるんだろ? 触ったら怖いしそっとしとくけどさ」
 好奇心に満ちた眼差しを向けながらも、みちるは慎重に距離を保ったままスマホを取り出してカメラアプリを起動する。
「ユナっち、あとであたしにも写真送ってー。こっちも撮るけどさ!」
「おっけー任せて♪  もう100枚くらい撮ってるから、選ぶの大変かもだけど!」
 からからと笑い合いながら、ふたりは道を進んでいく。
 まるで初めて水族館に来た子どもたちのように、軽やかで心浮き立つ空気が広がっていた。

 やがて、分かれ道に差しかかる。
 同じ道に進むのか、それとも異なる道に進むのか。岐路に立ったユナは一度立ち止まって、それから右の道を指差した。
「じゃあ、ユナ達は右に進むね!」
 手渡された量子ハッキング弾頭を手に、左の道へと向かう仲間たちに手を振る。進んだ先でまた会えると思えば、別れを惜しむこともない。
 そして、ふたりが岐路を右に曲がった先——そこには、揺蕩う水底のように静謐な空間が広がっていた。
 まるで夜空を閉じ込めたかのような薄暗い通路。その静けさの中で、ふわりふわりと光が漂っている。光に誘われるまま近寄れば、それが青白く輝く無数のクラゲたちであることに気付くだろう。
 透き通る身体をゆっくりと上下させ、傘を開いては閉じて。まるで時間の流れを忘れたように、水の流れに身を任せて浮かんでいた。
「わあ……クラゲがいっぱい!」
「おー。これだけいっぱいだと灯りみたいだ。きれー!」
 青白い光を身に纏い、月明かり輝く静けさの中を泳ぐクラゲたち。先ほどまでの景色とはまた違った雰囲気で写真映えをしそうなクラゲたちを前に、ユナはうっとりと目を細める。「何ともbeautifulなんだろう……♡」足元に落ちるクラゲの影はまるで水中の天の川のように揺れていて、クラゲが漢字で海月と書かれていることも文字通り納得の景色だった。
「ふわふわして、好きな人がいるっていうのも納得かも。ふわー……」
 静かに、言葉に余韻が残る。
 ふたりの間に沈黙が流れても、それは気まずいものではなかった。やがて再びスマホを取り出したユナが「せっかくだし、クラゲ達と一緒に記念写真撮ろっ!」と掲げればふたりは肩を並べて、カメラロールに一枚、また一枚と思い出を増やしていく。
「あっちの道もこんな感じかなー?」
 別の道を選んだ仲間たちは、今頃何をしているだろう。きっと同じように綺麗で、けれど異なる景色を見ているに違いない。
 無事に合流したときには積もる話ができそうだとみちるは笑って、もう一枚シャッターを切った。

夜鷹・芥
戀ヶ仲・くるり

「すごい、海底ですね……!」
 水の揺らぎを閉じ込めたような、深い青色が空間を満たしていた。
 静けさの中にはかすかな泡の音が小さく鳴るばかりで、思ったより大きく聞こえた自分の声に戀ヶ仲・くるり(Rolling days・h01025)はぱちりと目を瞬かせる。その隣では夜鷹・芥(stray・h00864)も辺りを見回していて、よく磨かれた水晶のように透明な硝子の前で足を止めた。「へえ……水族館の中を歩いてるみたいだ」低く、そして呟く程度の声は水に溶けるように消えていく。
 硝子の向こう側では珊瑚礁が広がっていて、その細い枝葉の影を覗き込めば色鮮やかな魚たちが隠れているのが見えた。その中でも、ひときわ目立って見えたのがオレンジ色に白い縞模様を纏った熱帯魚だ。
「あ、アイツは知ってる。クマノミだったか……」
「映画で人気になったお魚ですね、かわいい」
 揺れる珊瑚の隙間をぴょこぴょこと動く様は確かに愛らしく、微笑ましい。
 芥はその小さな魚をじっと見つめた後に、ふよ硝子に映ったくるりの横顔へと視線を向けた。少しの間、視線に気付いて首を傾げたくるりに、芥は口を開く。
「……、くるりっぽくねえ?」
 なんというか、こう。つつきたくなる感じが。
 硝子に指先を向ければ好奇心からかぴょこりと顔を出して、すいすいと傍まで近付いてきた様さえ段々と似ているような気がしてきた芥だった。
 そのまま流れるように指先を向けられたくるりといえば、首を傾げている。
「ええ? 似てるかなあ……つつきたい……?」
 目の前で揺れる指先になんとなく自分の指先を合わせて、くるりは考える。「……待ってください、私もつつきたいってこと?」その疑問に答える声はなく。僅かに口角を吊り上げた芥は、音もなくするりと横を通り過ぎて、道の先へと歩き出した。

 ふたりが進んだのは、左の道だ。
 ほの暗い道を抜けたところで銀の光が見えると、くるりは目を輝かせて駆け出す。
「芥さんっ、あっち! 銀の光が見えました!」
「あ、おい。あんまり離れんなよ、見失う」
 緑青色のスカートの裾がふわりと揺れて、それから少し遅れて深藍色の髪が水中に踊るように波打つ。
 反射する白い光に目を細めながら、芥はその背を追った。
 途端に開けた通路は、進むほどに上方へと開けていくようだ。先ほどよりも幾分高くなった天井はやはり硝子の穹窿に覆われていて、鮮やかな碧色ががゆるやかに包み込んでいる。なるほど確かに、同じ水の世界といえどもところ変われば随分と明るく感じるものだと芥は頷いた。
 しかし、くるりが言った銀の光とは、空から差し込むものではないらしい。それは――銀色に煌めく、巨大な群れだ。
「――すげえ、イワシの大群だ」
 水の回廊を囲むように、巨大な銀の波がゆっくりと渦を巻いている。
 それは大きなひとつの生物のようにも見えたけれど、よくよくと見ればその正体が無数のイワシたちであることが分かる。ひとつひとつは小さく、ぴたりと揃った動きで一斉に反転する度に、硝子の奥は明るくなったり暗くなったりと、瞬く間にその色を変えていくようだ。
「キラキラしてて綺麗ですねぇ……」
 くるりは上方を見上げたまま目を丸くして、しばしその場に立ち尽くしていた。
 イワシたちが作る影が自分たちを覆ってしまえば、硝子の境界線さえ曖昧になっていくようだ。しかしそんな中であっても芥は普段と変わらぬ様子で腕を組み、少し考え込んだ後にぽつりと呟いた。
「美味そうだな……。塩焼きか、煮つけか」
「もしかしてお腹空いてます?」
 別に切り身が泳いでいるわけではない。焼き魚が泳いでいるわけでもない。
 それなのに見ているうちに空腹を覚えるものだから、人体は不思議なものだ。しみじみと頷いた横で、「ここを出たら何か食べましょうか」と思案するくるりを余所に芥はしっかりと手を合わせる。
「じゃあ今日の飯は魚料理ってことで、命に感謝」
「いや、今、手を合わせないでください!?」
 ここの魚は食べれませんよ! なんて、くるりが慌てて制止しようとした――そのとき。
 周囲の光がふと陰り、まるで天井全体が覆われるような気配がした。それほどに大きな魚影が、ゆっくりと現れたのだ。
 それは深い海の奥から悠々と現れて、硝子の向こう側を音もなく泳いでいく。その巨体から想像できないほどに静かな動きで、けれど鰭をひと振りするだけでイワシの群れたちを割いていく様には圧倒的な存在感があった。
「こいつは……ジンベイザメじゃねぇか?」
 見上げても足りないほどに大きいが、獰猛なサメにしては意外にも愛らしい。つぶらな瞳には温厚さすら覚えるようで、くるりは見入るように背を伸ばす。
 黒地に散る星のような白い斑点、厚みのある鰭、穏やかに揺れる尾。悠然と泳ぐ姿は海そのもののようで、ふたりは言葉少なに、ジンベエザメがゆっくりと通り過ぎていくその時まで眺めて続けた。
 そして、その姿が遠くへと消えていった頃。
 そろそろ進もうかとカンテラをしっかりと握り直したくるりの肩を、芥が軽く叩く。
「くるり、後ろ向いてみろ。ウミガメがいる」
「ほんとだ、ウミガメ!」
 イワシともジンベエザメとも違う存在に気付いた芥が指差した先。
 そこには厚みのある甲羅を揺らしながら、のんびりとした泳ぎでこちらに向かってくる一匹のウミガメがいた。
 運が良ければ会えるかもしれないと言われていた存在が、目の前に現れたのである。途端に目を輝かせたくるりが何をしたかといえば――両手を挙げて、叫んだ。
「お前達最高だぜー!」
 ウミガメの挨拶である。
 たぶん、おそらく。彼女の知る中では。
「……ウオー! 身体が勝手に……!」
 つられるように芥までもが両手を挙げて、何かに突き動かされるようなテンションに身を任せる。
 青い海の底に広がる、不思議な光景がそこにはあった。「これ挨拶で合ってるのか?」そう呟いた芥の疑問に答えてくれるひとはいない。何故ならくるりはウミガメに挨拶をすることに忙しいので。
 やがて、のっぺりとした手足を動かしていたウミガメが、去り際にくるりに向かって両手を揺らす。それはきっと、異種間の挨拶が成立したきわめて貴重な瞬間だった。

井碕・靜眞
物部・真宵

 胸に抱えた魔法のカンテラを覗き込みながら、物部・真宵(憂宵・h02423)はそっと目を細めた。アクアリウムというほの暗い空間に足を踏み入れて、ようやく淡い光が目に映る。まだまだ辺りを照らすには足りない小さなこの輝きは、これからどんな色に染まるのだろうか。
「この鉱石、どんな光を灯してくれるんでしょうね」
「やわらかい光なんでしょうか。案外ぴかぴか……とか?」
 井碕・靜眞(蛙鳴・h03451)は隣で立ち止まり、同じようにカンテラを覗き込む。いつも通りの落ち着いた表情のまま、けれど口を突いて出たのはどこか無邪気なもので。鉱石が放つ光というものがいまいち想像がつかなかったからこそ、その子供じみた擬音が可愛らしくて、真宵は思わず笑みを零す。「……ふふふ、月ですものね?」それはもう、きっとぴかぴかと輝いて綺麗に違いない。
 ちゃんと月盗人を全うできるか、ほんの少しだけ不安はある。けれどそれ以上に、どきどきと高鳴る鼓動と同じくらい楽しくなっている自分がいることに真宵は気付いた。
「どんな光を灯すのか……ふふ、責任重大ですからね」
「ええ、ふたりで頑張りましょう!」
 ふたりで協力すれば、きっと大丈夫。
 そう口にした瞬間、やわらかな風がふたりの間を通り抜けた気がした。
 ひんやりと、それでいて心の裡をくすぐるような風を追い風として、ふたりはダンジョンの奥地を目指して進んでいく。それが小さな灯火を頼りに歩く未知のダンジョンであっても、隣に並ぶ存在は心強く、不安さえ吹き飛ばしてくれるようだ。

 やがて足を進めたふたりは、水族館の中でもひときわ静かな海中トンネルに足を踏み入れる。
 通路の先に広がるのは、深い青色に沈んだ世界だった。天井も床も壁も、よく磨かれた水晶のように透明な硝子が張り巡らされていて、まるで本当に海中を歩いているようにも思える。次第に曖昧となっていく境界線をなぞるように真宵は硝子の壁に触れて、その向こう側でふよふよと漂うクラゲたちを覗き込んだ。
「きれい……。海に咲く花のようですねぇ」
 息を吐くように、小さく囁く。
 ゆっくりと傘を開いてはまた閉じて、水の流れに身を任せてたゆたうクラゲは今にも触れられそうなほどに近い。青白い光を受けて輝くような、それでいて透けるような傘の模様を眺める真宵の横で、靜眞は静かに目を細める。
「クラゲって、毒がある種類も居るんですよ。√EDENや汎神の夏の終わりは、浜辺に近づかないほうがいいんです」
「毒……? こんなに可愛らしいのに?」
 ふよふよと浮かぶミズクラゲを硝子越しにつつく姿はいつになく幼く、そして無防備に見える。思わず口にした助言は淡々としたものだけれど、それは彼のなりの優しさでもあった。
 今まさに突いているミズクラゲにも、毒刺があるくらいだ。真宵がもしどこかでうっかり毒を持つクラゲに触れてしまわないように――そう思えばこそ。靜眞の真摯な言葉を受けて、真宵は神妙な面持ちで頷いた。
「……こっちには赤ちゃんが居ますよ」
 気を取り直すように、靜眞が別方向の硝子を指差す。
 そこにいたのは、他のクラゲよりも小さく、人間の爪ほど程度のクラゲたちだ。
「赤ちゃん! まぁまぁまぁ、ちっちゃい……かわいい……!」
 真宵は身を乗り出すようにして、きらきらと目を輝かせる。
 こんなにも無数のクラゲが揺蕩うところも、小さなクラゲの赤ちゃんが漂うところも、真宵にとっては初めて見る景色だった。ここがダンジョンであることを忘れてしまいそうなほど穏やかな景色に、自然と口元がほころぶ。
「わたし、水族館に行ったことがないんです」
「自分も、水族館は小学生の遠足以来です。ペンギンやイルカが人気だったな……」
「ふふ。こんな風に景色をひとり占めできるのは冒険者の特権なんでしょうか」
 ――いえ、ふたり占め、でしたね?
 硝子越し。水面に映る赤茶色の瞳を覗くように微笑んで、真宵は囁いた。
 靜眞は思わず瞬きをして、口を噤む。何気ない一言だったはずなのに、胸の奥に小さな波紋が広がったような気がした。
「……ふたりじめ、ですか」
 返した言葉は小さく、戸惑いが入り混じる。
 自分と居ることを楽しいと思ってくれている――その事実が、なんだか不思議で。
 嗚呼、でも。
「……時間がゆっくり流れるのを楽しめるのは良い。……自分も、落ち着きます」
「そういえば、井碕さんとはこんな風にのんびりとした時間を過ごすことが多いですねぇ」
 うれしいです。そう言って硝子越しに交わした視線を、そっと伏せて。
 再び顔を上げたとき、ふたりはどちらともなくカンテラを握り直して、クラゲたちのまほろばを後にした。

エメ・ムジカ
セレネ・デルフィ

 澄んだ水のような静けさが辺りを包み込み、深い青色が視界を染めていく。
 そこにはモンスターの気配もなければ、重苦しい空気もない。ただ淡く揺れる青白い光と、悠々と泳ぐ色鮮やかな魚たちがたゆたう自然のアクアリウムだけがそこにある。
 眼前に広がる珊瑚礁の森を見て、ぱっと笑顔を輝かせたエメ・ムジカ(L-Record.・h00583)が肩越しに振り返る。目の奥まで煌めくような満面の笑みを正面から受け取ったセレネ・デルフィ(泡沫の空・h03434)はやわく笑みを返して、口を開いた。
「海の中を歩いているような、不思議な場所ですね」
 まるでダンジョンではないようだと言葉を続ければ、大きく頷いたエメがくるくると軽やかにステップを踏む。手に持つカンテラもゆらゆらと揺れて、淡く弱い灯りが波紋を描くようだ。
 すると、その光の揺らぎにつられたのか、珊瑚の奥からそろりと顔を出した魚たちにセレネは目を瞬かせる。
 硝子越しに広がる珊瑚の群生は深い青色に彩りを添えていたけれど、そこに熱帯魚の華やかさが加わればよりいっそうと鮮やかさが増して、目を離せない美しさがそこにはあった。
「熱帯魚さん達にサンゴっ! ダンジョンでこんな風景も見られるんだね!」
 すごいすごい、と手放しに喜ぶエメにつられてか、セレネの足取りさえ軽くなっていく。先へ進もうと肩を並べて歩くふたりの心は確かに、少しの好奇心と、ほのかな期待に高揚していた。

「道はふたつ。こっち、いってみる?」
 やがて道が二手に分かれた岐路に立ったところで、エメが指を差したのは左の道だ。
 こっちのほうが楽しい予感がすると言えば、「ふふ、私もそちらが良いと思っていました」とセレネもおだやかに首肯して、ふたりはさほど悩むことなく左の道へと足を踏み入れる。冒険者の勘とは案外よく当たるものだ。
 そしてその勘の通り、ある一線を越えたところで風景は様変わりする。
 通路はやや広く、上方へと開けていくようだ。先ほどよりも幾分高くなった天井は硝子の穹窿に覆われていて、水底のような青色ががゆるやかに包み込んでいる。しかし、それ以上に目を惹くものがある。――銀色に煌めく、巨大な群れだ。
「わぁっ……! まるで一つの生き物みたいに泳いでる!」
「わ、わ、本当にたくさん……」
 上方を見上げたまま立ち止まり、どちらともなく息を呑む。
 巨大な群れは一見するとひとつの生物のように見えたけれど、よくよくと見ればそれが小さなイワシたちによるものだということが分かる。無数のイワシたちはまるでひとつの意思を持つかのように、ぴたりと揃った隊列のような動きで渦を描いていた。
 群れが一斉に反転すれば壁のように渦は立ち上がり、再び波のようにうねる。その動きは差し込む青白い光と交差して、エメにはモザイクアートのようにも見えた。
「とっても綺麗ですね……!」
 光に当たったり、影に入ったり。きらきらと輝く銀色はまるで宝石のようにも、太陽に照らされた海のようにも思える。セレネは知らずと詰めていた息を吐き出すように力を抜いて、その圧倒的な存在感を焼き付けようと空色の瞳を細める。
 ――そのときだった。
 銀色の渦よりも奥深く。静かに、しかし確かに水を押し分けて進んでくる大きな影が見えた。
「は! おっきいお魚……! あれって……ジンベエザメさん……?」
 その影の正体がジンベエザメであることに気付いたとき、エメの声が寸時に弾む。ふすふすと飛び跳ねた彼の瞳には抑えきれない高揚が映っているようで、セレネもまたその巨大な体躯を見上げて素直な感嘆を表した。
 何をも気にせずゆっくりと、そして悠々と進むその姿は何よりも雄大なものだ。黒地に散る星のような白い斑点、厚みのある鰭、穏やかに揺れる尾。深い夜空が横たわるようにエメとセレネのすぐ傍を通って、また遠くへと泳いでいく。
「あれがジンベエザメ、なのですね。とても大きい……私たちなんて一口ですね……!」
「ぱくっと食べられちゃうね~!」
 すいすいと気持ちよさそうに泳いでいる様も、模様も可愛らしくて。ふふ、と思わず笑みを零すエメだった。
 そうしてしばらく。そろそろ行こうかと歩き出したところで、不意にセレネの視線が逸れる。それは、ジンベエザメもイワシも消えていった静かな硝子の向こう側だ。「あ、ムジカさん……!」エメの外套をつい、と軽く引いたセレネは囁くようにひそやかな声で視線の先を示す。
「あれ、ウミガメさんじゃないですか?」
 そこにはまぎれもなく、のんびりと泳ぐウミガメの姿があった。
 艶々とした大きな甲羅に、のっぺりとした手足。遠目に見てもはっきりと分かるその姿に、エメも再び目を輝かせる。
「ひゃーっ! ほんとだ~!」
 ゆるやかに水を掻いて泳ぐ姿は、まるで自分たちに手を振っているようにも見えて。
 なんだか歓迎されているようだとエメは笑って、手にしていたカンテラを胸元で抱きしめる。魔法のカンテラのために来たダンジョンだったけれど、海の生き物たちはどこまでも穏やかで、和やかで、ここがダンジョンであることを忘れてしまいそうだ。
 それは、ほんの数分のことかもしれない。それでも時間さえ忘れてしまうほどに心は安らいでいく。やがてゆっくりと、遠い海の向こうへと消えていくウミガメを最後まで見送って、ふたりはしばしの休息を楽しむのだった。

梔子・リン

「こういった場所は初めてですが……」
 写真で見た、海の中そのものみたいです。ぽつりと零した言葉が、水の流れに溶けるように消えていく。
 手のひらにすっぽりと収まるほどの、丸くて柔らかな光を宿したカンテラ。迷いに迷った末に梔子・リン(残香・h07440)が選んだのは、最初に手に取ったカンテラだ。
 リンはしっかりとカンテラを握りしめ、ゆっくりと歩き出す。硝子の向こうに広がる景色は、まるですべてを水に沈めたように幻想的で――それでも、確かにここには道が続いている。
 そうして足を踏み入れて最初に見えたのは、珊瑚礁の森だった。両脇に広がる珊瑚礁たちは華やかなピンク色をはじめとして、オレンジ色や淡い青色に染まった枝葉が水中に揺れている。よりよく見ようと近付けば、小さな魚たちが珊瑚の隙間を隠れ家として、その合間を縫うように泳いでいる姿が見えた。
「こんなに小さいんだ……」
 リンはその場にしゃがみ込んで、そっと珊瑚の奥を覗き込む。
 その手元ではカンテラの灯が水面に反射して、ゆるく揺らいでいた。すると、その揺らぎに気づいたのか小さな魚が一匹ふよふよと近づいてくる。光に誘われたのか、それともただの偶然か――。
「……こんばんは。あなたも、夜の散歩ですか?」
 どちらにせよ、小さな魚はリンの前に現れて目の前でくるりとその身を翻した。
 もちろん、問いかけた声に答えはないけれど。それでもほんの少しだけ空気がやわらいだ気がして。リンは小さな魚がまた珊瑚の奥へと消えていく姿を、尾ひれが見えなくなるまで眺めていた。

 しばらく道を進むと、分かれ道に辿り着く。
 今度は迷うことなく、リンは左の道へと足を向けることにした。カンテラは淡く弱々しい灯を揺らして足元を照らしている。ほの暗い道をそのまま真っ直ぐと進めば――ふいに、目の前が一気に開けた。
 そこには広がっていたのは、それは大きな銀色の渦だ。ぐるぐると渦巻く無数の光がすべて魚の群れだったと気付いたとき、リンは思わず足を止めて目の前の光景に見入ってしまう。
 それはまるで、銀の雨が降り注いでいるような不思議な光景だった。鱗が青白い光に反射して無数の矢のように走る様を見つめていると、その先にゆっくりと大きな影が現れたことに気付く。
「あの子は識っています……確か、ジンベエザメ」
 夜のとばりが下りていくように、目の前に夜空が横たわるように。大きな影がリンを覆い隠していく。
 手を伸ばせば届きそうなほどにジンベエザメとの距離が近付いたとき、その強大な体躯に反してひどく穏やかな目をしていることが分かった。こちらを見つめる目は想像より理知的なもので、水を押し分けて進んでいく姿もよく見ればとても穏やかだ。
「近くで見ると……愛嬌のあるお顔を、しているのですね」
 リンはカンテラを掲げようとして、そっとその手を止めた。
 その小さな光にさえ、驚いてしまうかもしれない。だから、写真を撮ることもしなかった。この目にだけ焼きつけていこうと静かに微笑んで、リンは硝子越しにジンベエザメに触れる。
「……いつかまた、ゆっくりと逢いに来たいものですね」
 どこか名残惜しい気持ちは、ここに置いていこう。
 足元を照らす淡い光を見下ろした後に、もう一度だけ顔を上げて。そうしてリンは、その大きな背に別れを告げるのだった。

熙・笑壺
花嵐・からん

 差し込む青白い光が、水底にか細く揺れていた。やわらかに漂う光はまるで道の先へ誘うように瞬いては、影が作り出す波間に消えていく。まるで空気そのものが水の膜をまとっているような静けさが、そこにはあった。
 辺り一面を覆うのは、よく磨かれた水晶のように透明な硝子の壁だ。その向こう側にはどこまでも広がる海のように深い青色に包まれていて、果てがない。群生する珊瑚と色鮮やかな魚たちが作り出す彩りを追いかけるように視線を向けて、花嵐・からん(Black Swan・h02425)は吐息のように声をこぼした。
「とっても綺麗な景色……」
 花色の瞳に映るのは、波紋のように揺れる青色。
 透明な硝子のあわいは驚くほどに曖昧で、近付くほどに海の中を歩いているような錯覚をおぼえる。空を仰ぐように上方を見上げればそこにさえ広がる青色に目を細めて、からんは微笑んだ。
「いつもは陸の上で雨を楽しんでいるけれど、このような場所であなたに会うというのも素敵ね」
 雨の中で、傘を広げて歩くのも良いけれど。こうして、水の中の静けさに包まれるのも悪くないのかもしれない。からんが肩越しに後ろを振り返れば、熙・笑壺(拾弐の契り・h01216)は視線を返して問いかける。
「雨が好きっていうのは知ってたけど、水の中も好きなん?」
 からんは答えず、やわらかに微笑んでまた前を向いた。返事はいらない。その微笑みこそが答えなのだろう。
 前を歩く彼女の隣に並ぶように一歩踏み出して、笑壺は辺りを見回す。不思議な硝子の壁に囲まれている空間はなんとも言えない気持ちにはなるけれど、綺麗なことは確かだ。地上が暑かっただけに、ひんやりとしていて涼しいところも良い。
 進めば進むほど、ひんやりとした水の気配は強くなっていく。やがて熱帯魚たちが回遊する珊瑚礁の森を通り過ぎても、ふたりは穏やかな談笑と共にゆっくりとした足取りで歩いていく。

「――まあ、見て。大きなジンベエザメよ」
 青く広がる水の向こうから、ふたりを覆ってしまうほどに巨大な影が現れる。それはまさしく、海の王とも称されるジンベエザメのものだ。
 大きな背にちりばめられたまだら模様はまるで夜空の星々のように煌めいていて、鰭や尾はひと振りするだけで大きな波を立てられそうなほどに分厚い。ゆるやかに近づいてくるジンベエザメに足を止めて、からんはその大きな口に目を留めた。
「食べられてしまわないかしら?」
 ちょっぴり、そわそわと。
 軽口のような口振りにも、からんの声にはほんの少しだけ本気の色が混ざっていた。
 硝子越しにカンテラをそっと掲げてジンベエザメの顔を覗き込めば、その目は意外とつぶらで穏やかな顔立ちをしているようだ。「……ほんとだ、大きいな」同じようにジンベエザメの大きな口を覗き込んだ笑壺は横目でからんを見て、肩を竦めて笑う。
「からん、食いしん坊だろ? 食べちゃうぞって言ってやれよ」
「もう、さすがに食べないわ」
 くすりと笑って、それからジンベエザメに手を振ってまた歩き出す。
 更に進んだ道の先には、イワシの群れが渦を巻くように泳いでいた。きらきらと光を反射しながら渦を描く姿は、まるで夜空に咲く花火のようでもあり、巨大な生き物の皮膚のうねりのようでもあった。
 遠くにいるはずなのに、まるで風を連れてこちらまで吹きつけてくるほどの臨場感に触れて、ここがダンジョンであることを忘れてしまいそうだ。視線をなぞるように動かし、からんはその一瞬を目に焼き付けようとした。
「イワシの大群も、大きな魚が現れたようで驚いたけれど……」
 暑さもわすれてしまうくらいにはしゃいでしまったわ、なんて。
 からんが銀色の光にも負けないほどに、きらきらと目を輝かせる。口もとは僅かにゆるめられ、いつになく無邪気な笑みが浮かんでいた。けれど、自分がはしゃいでいることに気付いたときには少しだけ面映ゆい気持ちもあって、「子供っぽいってわらわないでね……?」と囁くように笑壺を見上げた。
「子供っぽいからんといるの、結構楽しいけどな。いいだろ、子供なんだから」
「まあ、本当に?」
 突き放すでも、慰めるでもない。けれどどこまでも真っ直ぐな言葉は、あまりに彼らしくて。からんはほんの小さく息を吐いて、胸を撫で下ろす。そんな彼女を前に笑壺は、少し考えるような仕草で足を止めた。
「恥ずかしいなら――そうだな、少しくらいなら一緒にはしゃいでやってもいいよ」
 子供のようにはしゃいだって、誰も気にしない。いま、この海の中では咎める者などいない。笑壺が憂いを晴らすように笑い飛ばしてくれたからこそ、からんも華やぐように微笑んだ。「どうせなら一緒にこどもに戻りましょう?」と手を差し出して誘えば、きっと彼も頷いてくれることだろう。
 そして銀色の渦を越えて進んでいくふたりは、遠くに泳ぐウミガメを見つける。
 実物を見たことがないという笑壺は興味深げに目を細めて、それから思い出したように口を開く。「亀って歩くのは遅いけど、泳ぐのはまぁまぁ早いって聞いたことがある……からんとどっちが速いだろうな?」――そう言って悪戯っぽく笑った彼の顔もまた、どこか子供のように見えた。

ツェイ・ユン・ルシャーガ

 分かれ道を右に進みながら、ツェイ・ユン・ルシャーガ(御伽騙・h00224)は手にした鬼灯の灯をそっと翳す。それはまだ淡く、ほの暗い道に入ってようやく視認できるほどに弱い光だ。かすかに脈打つような光は、淡い藍色の回廊を染めては消えていく。
 自身の足音すらも余計と感じたのは、深い水底のような静謐が横たわる空間だからか。布擦れの音をも最小限に抑えながら音もなく地を離れたツェイはふと浮遊して、ゆるりと低空飛行するように静けさの中を進んでいく。
 やがて、青白い輝きが視界いっぱいに広がった。よく磨かれた水晶のように透明な硝子は穹窿のように周囲を多い、その向こう側に海月たちが浮かんでいる。音も泡もなく、浮いては沈んで、傘を開いては閉じて。ただひたすらに水流に身を任せて揺蕩う海月たちを前に、ツェイは空中に停止した。
「……、」
 言葉も、そうと知れる遣り取りもツェイからは見えない。
 けれど、彼らなりに何かを伝える術を持つのだろうか。ひらひらとなびいた触手の先に意思を見るように、ツェイは微かに目を細めた。
 ただ、そこに在るだけ。煩わしいものはなにひとつとしてなく、彼らは時間を認識することさえない。
 不意に思い出すのは、ベニクラゲと呼ばれている海月に見られる不思議な身体の構造――その仕組みだ。海月にはひとつの命で生と死を繰り返せるものがいると聞いたことがあったと記憶をたどるように、硝子の壁を指先でなぞる。
「脆い身というに……ふふ、まるで我らのようではないか」
 ひそやかな独り言が、水の膜の向こうに沈んでゆく。
 ふと、目の前を横切るクラゲが、その呼気に応えるようにひときわ大きく傘を開いた。再び傘を閉じれば目線の高さよりも上方に浮き上がり、ふわりと水中を揺蕩う。
 その動きを真似るようにツェイも少しだけ高く浮遊して、そのままゆったりと波打つように進んでいけば、まるで海月の群れと共に泳いでいるかのようだ。透明な硝子はその境界さえ曖昧とするようで、ツェイはカンテラを揺らして、そのあわいを確かめる。
「……斯うしていると、ともに泳いでおるようだの」
 こころまで凪ぐほどの静謐に、そうと目を伏せる。
 その静けさは、あの子を拾ってからは久しく感じることもなかったものだ。
 瞼の裏に思い浮かべた日々は怒り、笑い、また怒って。幼子とはかくも忙しないものだったと思い返す。――けれど、あの子と過ごした日々はまるで波のように感情を揺さぶるものだった。手がかかって、まるで目が離せない。けれど愛おしくてたまらない。自然と唇に乗る笑みを、ツェイが隠すことはなかった。
 長き生のなかで、忘れかけていた穏やかな時間がここにある。
 与えられるまま、日々が渦巻くように流れていった永遠のうちにもこうして立ち止まり、始まりを思い返せることの重みを静かに噛み締める。
 日々繰り返し、繰り返し。――嗚呼、それでも。
「始まりを思い出していられるのは、幸いなのであろうなあ」
 呟きながら、ふと手元の鬼灯に目を落とす。吹けば飛ぶような弱い灯は変わらず小さく脈打っている。さあ、そろそろ行かなければ。ツェイは奥地に続く道へと視線を戻して、空中をゆっくりと進んでいく。
 ゆらり、ゆらりと。
 海月とともに、凪いだ水面のようにおだやかなこころをたずさえて。

沙賀都・ラピ

 透けたような淡く青白い色の光が、辺りを照らしている。天井、床、その壁すべてがよく磨かれた水晶のように透明な硝子で作られた回廊は、まるで小さな海の底に自分がいるかのような錯覚を起こす。
 沙賀都・ラピ(湾の尾・h06749)が硝子の向こう側を見遣ると、そこには珊瑚が群生していた。その枝葉の奥から熱帯魚が顔を出して、すいすいと泳いでいく様を静かに見守る。青白い光が魚たちの鱗は反射する度にきらきらと瞬いて、まるで万華鏡のようにも見えた。
「……僕の家の近くにある海と、魚たちの顔ぶれが似ているね」
 特徴的なオレンジ色に白い帯を纏う縞模様の熱帯魚たち。カクレクマノミだ。
 目の前をひらひらと泳いで、また珊瑚礁の奥へと消えていく尾ひれを見つめてラピは小さく呟く。小さな海、あるいは水族館のような空間は見覚えのある魚の方が多いくらいで、モンスターの気配さえなかった。
 潮風に混じる磯の香り。岩陰に隠れる貝の色や、浜辺に打ち寄せる泡立つ波の音。記憶の中の海は、今もラピのなかで鮮明に息づいている。「――そういえば、」ふと思い出したように、ラピは首を傾げた。
「いつぞや僕の鬣に潜ろうとしたクマノミの稚魚は元気にしているだろうか」
 鬣を搔き分けるくすぐったい感触と、小さな息遣い。耳元で聞こえる命の鼓動が妙に鮮烈に蘇った気がして、そうと微笑む。
 今頃は、あの稚魚も成魚になっているかもしれない。また珊瑚からひょこりと顔を出した小さな魚たちに手を振って、ラピは珊瑚礁の森を後にした。

「……おや、分かれ道か」
 ゆっくりと歩いた先で、道は二手に分かれていた。
 右と左。どちらかを選べば良い、ということだろう。岐路に立ったラピは考えるような仕草で首を回らせて、耳を傾ける。どちらを選んでも構造は似たように見える。それでも、空気の流れや匂いの密度、水音の響きがわずかに違っていた。
「――ならば左、海が動く音が大きい方に」
 音が穏やかな方よりも、何かが起こっているかもしれない。そう判断したラピは颯爽と左の道を進む。何が起きているのか、その答えはすぐに分かった。
 道を進んで一線を越えたところで、視界は急に開けていく。先ほどよりも広く、天井も高くなった回廊でラピは一度足を止めた。
「……嗚呼、なるほど。群れが海をかき混ぜる音だったか」
 そこは魚の群れで満ちていた。
 銀色の光が瞬いて、渦を巻き、波のように進んでいく。その音はまるで海が息をしているかのように聞こえて、ラピは銀色の光を追いかけるように上方を仰ぐ。
 その間にも、群れは大きなうねりのように形を変えていくようだ。個々は小さな魚でありながらまるで大きなひとつの命のように、意思をもつように動いている。それはきっと、どこの海でも変わらない豊かな命だった。
「ダンジョンの水槽の中といえど、此処は良い海なのだろうね」
 ふと、銀色の渦の中を通り抜けていくラピを覆うように、ひときわ大きな影が現れる。「――お、ジンベエザメ」そう口を突いた言葉のとおり、ゆったりと現れた影の正体はジンベエザメのものだ。特徴的なまだら模様にラピは口角をあげて、悠然と泳いでいく姿を見送る。何にも囚われず泳ぐ姿はあまりに雄大で、まるで海の主のような風格があった。巨大な体躯とは反して穏やかな泳ぎはいっそ優雅とも言えるだろう。
「……君たちは相変わらず大きいな、口」
 ほんの一瞬、ジンベエザメと目が合ったような気がして。
 ラピは小さく笑って、そしてまた歩き出したのだった。

ララ・キルシュネーテ
詠櫻・イサ

 カンテラの灯りが揺れる。一歩踏み出した先は、深い青色に沈んだ世界だった。
 透明な水の向こうに広がるのは、きらきらと舞う魚たちと珊瑚礁の森。静寂の中にもどこか華やいだ神秘的な景色に、ララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)は思わず足を止めた。
 ぐるりと見渡してしっかりと景色を堪能した後、ララは繋いだ手から伝わるぬくもりと鼓動を追うようにそっと視線を隣に向ける。そこには同じようにカンテラを手にした詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)がいて、目が合えばふわりとほどけるように微笑む横顔を見上げる。
「見事な水族館だな」
 海を往く人魚に、その青の世界は良く似合う。
 安らかな微笑みを目にして、ララもふと口もとを綻ばせた。
「イサ、綺麗な宝石のような魚よ」
「宝石みたい? その熱帯魚は暖かい海に住んでるやつだ」
 ふいに、小さな魚の群れがカンテラの灯りに誘われるように近寄ってきた。
 宝石のように煌めく鱗がひとつひとつ違う色で光を返して、ララは好奇心にうずく瞳を輝かせる。そんな彼女を横目に和みながら、イサは熱帯魚の名前を口遊んだ。ナンヨウハギ、チョウチョウオ、ハタタテダイ――よくよく見ようと硝子の壁を覗き込んだララに、珊瑚の奥へと顔を隠してしまった魚が一匹。「……今のは?」「今イソギンチャクに隠れたのはクマノミ」小さな問いかけに、イサもそうと目線を合わせて覗き込む。珊瑚の隙間に見えるのはオレンジ色に白い帯の縞模様が特徴的な魚で、確か他の魚と比べても臆病な性格をしていたはずだ。
「ララに驚いたんじゃない?」
「……ララにびっくりしたの? むう、何もしないのに」
 ぷくりと頬をふくらませるその仕草に、イサは声をひそめて笑う。
 ゆらり、ゆらり。笑い声は揺蕩う水面に溶けるように消えていった。

「分かれ道ね」
 右か左か、どちらがいいか。顔を見合わせたふたりが悩むことはなかった。
 ララが左の道へと顔を向ければ、イサはその手を引いてゆっくりと歩いていく。カンテラの淡く弱い光は壁に映る波紋を撫でて、進むほどにまるで深海へと潜っていくような錯覚をおぼえていた。
 そこは先ほどまでよりもほんの少しだけ薄暗く、海底のような静けさを思わせる。まるで時の流れがゆるやかになったかのように、ふたりの歩みも自然とゆったりとしたものに変わっていく。
 足元に広がるのは、青と銀が交じり合う世界だ。水の中を通る光が、壁にさざ波のような模様を描いていた。
「イサ! 大きな銀の魚だわ!」
 ララの声に、イサが顔を上げる。
 視界いっぱいに広がる大きな渦巻のような光の帯が、ぐるぐると流れている。それが群れを成した小さな魚たちであることに気付いたとき、ララは息を呑んだ。
 光の筋のように泳ぐ魚たちは個々は小さな命でありながら、まるでひとつの生き物のようにも見えた。銀色の鱗が光を反射し、まるで夜空を舞う星の帯のように流れていくのを見上げて、イサは口を開く。
「あれはイワシの大群だ。ああやって身を守っているんだ」
「皆で集まって身を守ってるのね。イワシは美味しいから気をつけるべきだわ」
 刺身にかば焼き、香草焼きや田作り、つみれ鍋。真剣な表情でララはじっとイワシの群れを見つめていた。――そのとき。
 ふたりを覆うほどに大きな影が、音もなく現れた。水を波立たせるような空気の揺らぎと、圧倒的な存在感が押し寄せてイサは目を眇める。
 灰青色の夜が帳を降ろすように視界を覆い、ふたりは硝子の壁から距離を取るように一歩下がった。
「――ジンベイザメがきた!」
 イサの声に驚いたのか、イワシの群れが一斉に形を変えて渦を巻く。その中心を、ジンベイザメが悠然と泳いでいた。
 星を散りばめたような斑紋がその背を覆っていて、まるで夜空が海の中に現れたようだ。両手を伸ばしても足りないほどに大きいのに、悠々と泳ぐ姿はおだやかで音もない。首が痛くなるほど見上げて、イサは真顔で呟く。「ララ何人分だろうな……」「ララで大きさを測るものではないわ」少なくとも10人くらいは必要かもしれない。イサの真っ直ぐな眼差しに肩を竦めて頭を振るララだった。
 しばらくして、また静けさが戻る。
 ジンベイザメが去っていった方向に目を向けると、その向こうにふわりと泳ぐ影が見えた。
「……イサ、みて。遠くに亀がいる」
 ゆったりと泳ぐウミガメは、波のような動きで水の中を進んでいた。
 その甲羅に反射する光が、ゆらゆらと水面に模様を描いている。静かで、穏やかで、見ているだけで心が凪いでいくようだった。
「あんな風にならララも泳げるんじゃない?」
「む、ララだってすぐに泳げるようになるわ。まぁ……亀のようには試してみる価値はあるけど」
「ふふ。膨れる頬も可愛いな」
 まだ泳げない迦楼羅の雛女を少しばかり揶揄してみれば、小さく唸ったララがぷいと顔を背ける。その白くまろい輪郭が殊更いとおしくて、イサは目尻を下げるようにやわらかに微笑んだ。

エストレィラ・コンフェイト
ネム・レム

 きゅっと繋いだ手は、小さなぬくもりを伝えてくれる。
 一歩進むごとに水の気配が濃くなっていく静けさの中で、エストレィラ・コンフェイト(きらきら星・h01493)は目を輝かせながら、その手を引いた。
「えすこーとである!」
 誇らしげに胸を張り宣言するその様はどこか可愛らしく、微笑ましく。小さな体に満ちた好奇心が涼やかな空間を駆けていく。
 水に満たされたような透明な空気に、壁面に映る光のゆらめき。頭上には波紋が反射していて、まるで水面の下を歩いていると錯覚してしまいそうになる。「うむ、何とも涼し気でえも言われぬ光景よな」エストレィラが呟いた言葉は水の膜のように透明な壁に吸い込まれて溶けてしまって、反響することもない。まるで水の中にいるかのようだ、と小さく首を傾げた。
「あっ、あの子……レィラちゃんみたいやない?」
「わたくしに似た魚とな! いずこか!?」
 ふいにネム・レム(うつろぎ・h02004)が指差したのは、珊瑚が群生している一角だ。両脇に広がる珊瑚礁たちは華やかなピンク色やオレンジ色、淡い青色に染まった枝葉をゆらゆらと揺らしている。
 エストレィラがもっとよく見ようと覗き込めば、そこには黄金色をした小さな魚が尾ひれをひらひらと遊ばせていた。その楽しげで無邪気に泳いでいる姿がよく似ているようで、硝子に映る横顔を一瞥してネムはくすりと笑みをこぼした。
 
「……どっち行こなぁ?」
 珊瑚礁の森を通り抜けたところで、道は二手に分かれる。
 岐路に立ったネムがそう問いかけたとき、エストレィラは既に心を決めていた。
「わたくしはクラゲが見たいぞ!」
「ふふ。はいはい、クラゲさんやね」
 こっちだ、と笑ったエストレィラに手を引かれるまま、右の道を進んでいく。
 それからしばらくの間、ほの暗い道が続いていたようにも思える。けれど、ある一線を越えたところで――ぱちり、と泡が弾けるような音がした。
 そして視界いっぱいに広がるのは、ぼんやりと膨れるような青白い光。無数のクラゲたちだ。
 小さくて丸い傘のような体が水の中をふわり、ふわりと漂っている。膨らんでは縮んで、開いては閉じて。優雅も漂う透明なクラゲたちが、その光を通す性質ゆえか、青白い光に当たっては輝いて見えているようだ。
「……美しいな」
 息を吐くようにして、エストレィラが呟く。
 まるで月の光が滴り落ちてくるような、星の光が瞬いているような。そんな不思議な美しさがそこにはあった。
「クラゲさんは海の月って書くらしいけど、のんびりさんな流れ星みたいに見えてこーへん?」
「のんびりな流れ星とは、言い得て妙である。ではお願い事でもしてみようか?」
 ぷかり、ぷかりと。
 ただ水の流れに身を任せて漂うクラゲが目の前を横切る。
 それは流れ星とは比べるまでもなくゆっくりとした動きで、通り過ぎるまでに願い事を三回口遊んだとして消えることもない。「あそこまでゆっくりだと、お願い事し放題だな」と言いながら、エストレィラは硝子の壁を指先でなぞる。それはさながら、流れ星の軌跡をなぞるように。
「……お願い事し放題。あはは、せやねぇ」
 おさなごのような、なんとも可愛らしい発想を口の中で転がしてネムは小さく笑う。
 ようく、ようくお願いしたら、ひとつくらいは叶うかもしれない。なんて呟いた言葉はクラゲたちの漂う波間にそっと溶けていく。もし願いごとが叶うとしたら、何を願うのだろうか。そうと考えるようにネムは目を伏せた。
「もし、願うなら――ネムちゃんは、うちの子たちが笑顔でおれるように、やろか」
 もちろんレィラちゃんも、な。
 そう言って、ネムはエストレィラの手をそっと握り直す。その手から伝わるあたたかさに自然と肩の力が抜けていくようだ。
 一方で、彼の願いに自分も含まれるとは思っていなかったのか、ぱちぱちと目を瞬かせたエストレィラは、やがてふわりと花開くように微笑んだ。
「くふふ、わたくしまでよいのか?」
「笑っとる顔が一番やからね」
「そうか、そうか。それならネムちゃんの多幸はわたくしが祈ろう」
 ――おまえさまには笑顔でいてほしいのでな。
 その言葉にネムはやさしく頷いた。手を繋いだまま、おだやかに、ゆっくりと。
 静かな海底のような時間は、歩くような速さで流れていく。
 その間にもクラゲたちは、ゆるやかに、ただゆるやかにその空間を漂っていた。彼女たちの願いごとを、そっと運ぶように。

ステラ・ラパン
小沼瀬・回

 最初の一歩を踏み出した瞬間、ステラ・ラパン(星の兎・h03246)は目を見開いた。
 透明な壁の向こうに広がる、果てしない青の世界。波紋と共に鮮やかな魚たちが光の粒となって泳げば、その度に青色の中に目も覚めるような赤色が煌めく。それらはまるで散りばめられた宝石のようで、ステラは感嘆の息を吐く。
 その無邪気な姿が微笑ましかったのか、忍び笑いで口もとを隠したのは後方を歩いていた小沼瀬・回(忘る笠・h00489)だ。
 どんな小さな音も聞き漏らさない長い耳先がぴょこりと跳ねて、ステラは肩越しに振り返る。咳払いをして誤魔化す彼の様子にはうすらと目を細めて、肩を並べるように足を止めた。
「……可愛い魚達が沢山だ」
 その声は、透明な硝子をすり抜けて海に溶けていくようにやわらかい。
 青に泳ぐ楽しそうな尾ひれを目で追いかけて、珊瑚礁の森をおだやかな気持ちで眺める。ふわふわと浮き上がる泡、ゆっくりと揺れる珊瑚。隙間を潜るようにすいと泳ぐ橙に瑠璃に黄色。その鮮やかな色に見惚れながら、ステラは壁にそっと手を添える。
 珊瑚を離れて、泡を突いて、また珊瑚を潜り抜けて。自由に泳ぐ子達はなんとも気ままなものだ。「本当に愛らしいな……」自然とこぼれた声は、やはり水の膜のように溶けて消える。鉢の金魚とはまた違う世界は大きく、硝子を一枚挟んだ向こう側に広がる青の世界には果てがないらしい。ステラに倣うように壁に近寄った回もまた、その絵画のような景色に見入っていた。
「ね、君は泳ぎは得意かい?」 
 気持ち良さげに泳ぐ魚を横目に、ふと問いかける。
 冗談のつもりだった。けれど、ふと胸に浮かんだのは雨のなかを傘ひとつで歩く彼の姿だ。青に溶け込むようなあの佇まいを思い返して――「青に泳ぐ君も、見てみたいや」なんて、そんな無邪気な願いを口にしてしまう。
 その言葉に片眉を上げた回といえば、とてもではないが想像できない姿に小さく息を吐いた。
「なにい? 『月』なら水面に浮かぶも叶うだろうが、泳ぐ傘なぞは居やしないだろう」
 それこそ浮き上がるか、引っ繰り返るか。「私が泳げる青と云えば雨に限る」と続けた声音はどこか真に迫っていて、ステラは思わず笑ってしまった。
「あはは! そうか、そうだね。でもやっぱりそんな君も見たいな……海でも、雨でも」
「――全く、お前さんは物好きだな」
 回を見上げた思色の瞳が、思いがけずまっすぐに見えて。
 単なる言葉遊びのつもりが、不意に心の奥底をそうと撫でられたようで。
 けれど、そんな物好きの彼女とこうして歩むことが嫌いではないと気付いてしまえば――あとはもう、口を噤むしかなかった。

「君も、ちゃんと見えているかい?」
 一歩壁から離れたステラが、手にしたカンテラを透明な境界に近付ける。
 手元を揺らした灯りは淡く、弱々しいものだ。けれど確かに彼女の影を揺らして、灯りは小さく鼓動する。
「小さな『ぼくたち』も同じ景色を贅沢に……ね?」
「そうさな、皆で共に歩んでいるのだ。『私達』を月灯りで満たす前に、硝子の裡に思い出も添えておこうか」
 静かな声音にも、ほのかな優しさがに滲む。折角共に往く旅路なのだから、同じ景色を見てほしい。その思いが言葉の奥にも宿るようだ。
 引き立て役にしては恨まれてしまうかもしれないけれど。傘とあっても、月とあっても見れないような景色を分かち合おうとカンテラをふわりと揺らして、ふたりは珊瑚礁の森を後にする。
 ――やがて、しばらくも歩けば分かれ道が見えてくる。
 二手に分かれた岐路に立ったふたりは迷うことなく、右の道へと進んだ。どちらも心に決めていたのか足音はぴたりと揃って、水面に揺れるカンテラの灯りがふたりの影をやわらかに映し出していた。

 足を進めた回廊は、長い間ほの暗い道が続いていたようにも思える。
 けれど、ある一線を越えたところで突如として視界に青白い光が現れた。ふわりと宙に浮かぶように泳ぐのは、青白い月明かりを受けた小さな月――クラゲたちだ。ひとつ、ふたつと数を増していき、気が付けば数多のクラゲたちが泳ぐ回廊を見渡して、ステラは息を呑む。
「……夢の中みたいだ」
 目を細めたその横顔を、青白い光が淡く照らす。
 その視線の先では、ふっくらと膨らんだ白い傘が波間に揺れていた。開いては閉じて、また開いて。水の流れに揺蕩う傘はおだやかにこの青の世界を満たしている。
「空の月はひとつだけれど、海の月はこんなにも居るんだね」
「ああ、それでいて――空の月は掌に収まるまいが、海の月なら収められそうだ」
 まあそれは、お前さん目前の月もかね。そう言って節くれだった大きな掌が、真白の頭を包むようにやさしく触れる。
 やわらかな温もりは髪を、耳を、そして感情ごと撫でていくようで何だかくすぐったい。「もう、」と膨れたまろい頬は、青白い光を受けてもほんのわずかに赤く染まっていた。
 耳先がぴこりと跳ねたのを自覚した彼女は、誤魔化すようにそっぽを向く。けれどそれも長くはもたず、ちらと目だけを彼へ向けて、ふふっと小さく笑った。
 触れられることも、触れることも。こんなにも自然で、あたたかくて。心地よいものなのだと、今さらのように知る。
「月から遠い海中でこんなにも月を味わえるのは……それを|友《きみ》と共にできるのは、本当に――夢のように贅沢だ」
 遠く離れた空の月を見上げることはできない。けれど、ここには幾つもの小さな光がある。それを分かち合えるだけで、こんなにも満たされたような気持ちになるのだから不思議なものだ。
 そっと目を伏せたステラの隣で、回も口もとをわずかに綻ばせる。「……佳い景だ」小さく呟けば海の月がまたひとつ、淡い輝きを増したような気がした。
 陸において月を味わうなど、確かに夢心地と言えるだろう。けれど、夢ではない。
 だからこそ――、
「全く以て、贅沢だな」
 こぼれ落ちた言葉が水に溶けても、そうと思う心は変わらない。
 このおだやかな時間も、隣立つ小さな月も。――きっとすべてが、かけ替えのない思い出になるだろうから。

鳴瀬・月

 足元から頭上まで、世界はすっかり深い青色に染まっていた。
 透明な壁面から差し込む青白い光が、水の揺らめきに反射してきらきらと煌めく。水面を映す床は歩くたびに波紋を描き、まるで自分が本当に水中を歩いているという錯覚を誘うようだ。鳴瀬・月(君影ノヴィルニオ・h07779)は涼し気な水の流れる音に耳を傾けるうちに、ふと立ち止まる。
 よく磨かれた水晶のように透明な硝子の向こう側。視線の先で泡がぷかりと浮かび、目の前で弾けて消える。星のように儚く瞬いた光に月は小さく息を呑み、そしてふわりと微笑んだ。
「きれーい!」
 思わずこぼれ落ちた声は、水の膜に溶けるように消えていく。
 すべてがゆるやかに流れるこの場所では、時間さえも少しだけゆっくりと進んでいる気がした。宙をゆらゆらと泳ぐ『せんせい』に視線を移して、口もとを綻ばせる。
「ふふ、せんせいは泳いでるみたいね? 宙をゆらゆら、羨ましいな」
 月も軽く両腕を広げて、漂うような動きを真似してみる。水に包まれたような静けさの中では彼女の声と仕草だけが明朗なもので、やわらかな水草のように広がっていく。
 回廊の両側には、色とりどりの魚たちが群れをなして泳いでいた。その色彩をより鮮明に見せるのは、海の森のように咲き誇っている珊瑚礁だ。そのひとつひとつが美しい宝石のようで、月は一歩だけ硝子の壁に近付いてみる。「熱帯魚さんたち、鮮やか〜」水の流れを指先でなぞれば桜色の熱帯魚が近付いてきて、その尾びれが優雅に揺れる様子をじっと見つめながら月は夢心地に目を細めた。
「どうして綺麗な色になるのかな? サンゴが可愛いからお揃いにしたいとか?」
 わたしもこんなドレスを着てパーティに行ってみたいな、なんて。夢見るように目を伏せる。
 サンゴと同じ桜色も可愛いし、ナンヨウハギのように鮮やかな青色もきれい。カクレクマノミのオレンジ色も、きっとドレスにすれば華やかに違いない。好きな魚とお揃いのドレスも素敵かも、と考え込んでいると鼻先で月を突いた『せんせい』が先を促す。月は小さく肩を竦め、再び歩き出した。
「せんせいはどのお魚が好き? わたしはねーニシキアナゴが好き!」
 しましま模様に大きな目、黄色の体に白い帯が愛らしい。
 ほら、あそこ。そう言って月が指差した硝子の向こう側では、ニシキアナゴが砂の縦穴から顔を出してゆらゆらと揺れている。気持ちよさそうに揺れていて、ずっと眺めてても飽きないところも月がニシキアナゴをお気に入りとしている理由だ。
 せんせいがくるくると回ると、まるで同意を示しているかのようで、月の笑みはさらに深まった。

 小さな足音だけが響く中、やがて前方には二手に分かれた道が見えてくる。
 月は岐路に立つと、手にしたカンテラをそっと揺らしてみせた。ゆらり、ゆらりと。まだ淡くか細い光が指し示す先を見るように、月は左の道を選ぶ。
 その先に広がっていたのは、大きくうねるように渦巻く銀色の光だ。ひとつひとつは小さな魚でありながら、まるでひとつの命のように一体となって身を翻して、瞬く間に移り変わる光と影を作り出す。光の角度によっては鏡の欠片がきらきらと舞っているようで、月は思わずその場に立ち尽くした。
「ふふっ。見て見て、イワシさんたちすっごく仲良しだね!」
 きらきらと緑色の目を輝かせて、光の奔流に見惚れる。あれほど自由なのに、それでいて揃って泳げるのだから不思議なものだ。
 きっとせんせいも同じように目の前の景色に圧倒されているに違いないと、月は肩越しにせんせいを振り返る。「ねぇせんせ、そう思……、」――そこにいたのは口の端によだれを垂らしてイワシたちを見つめる、なんとも正直なせんせいだった。
「もー美味しそう、って顔しないの」
 口もとを押さえて、くすくすと笑みをこぼす。静かな海の中、笑い声は泡となって浮かぶようだった。
 そしてしばらく、その幻想的な光景に身を委ねたのちに月はゆっくりと歩き出す。
 歩く度に揺れるカンテラの灯りはゆらゆらと波打ち、足元に水面に似た波紋を描くようだ。まるで自分自身が魚になったような気分で、月は軽やかにステップを踏みながら微笑んだ。「せんせいも真似して泳いでみたら? きっと気持ちいいよ」その声は幼い子供が無邪気に遊びへ誘うように屈託がなかった。
 水に満ちたこの世界はまるで夢のようで、異世界のようで。どこか憧れている自分がいる。それはきっと、自分が現実から少し離れた存在であると知っていたからかもしれない。
 ふいに、月は思いついたように口を開く。
「……あれ、幽霊の身体ってもしかして水の中も呼吸要らないのかな?」
 今度お風呂で試してみよ、なんて。
 それは冗談とも本気とも取れない気任せな響きだった。

 銀色の渦を通り抜けた頃、月は空を仰いだ。
 水晶のように透明な硝子の向こう側は相も変わらず水に包まれていて、その奥は見通せない。けれど、青白い光はますますと強く光っているようだ。月は立ち止まり、そっとその光に手を伸ばす。
「ね、海の先に見えるお月様はどんな色なのかな」
 ――楽しみだね。
 問いかけというより、自分の心にそっと語りかけるような声。
 その言葉は、長い回廊の終わりに小さな余韻を残して、静かに溶けていった。

第3章 ボス戦 『白月の幻主』


●interval
 深い青色の回廊を抜けて辿り着いた奥地は、やはり洞窟の形をしていた。
 ぽっかりと開いた口の奥から、かすかな潮騒が響いてくる。この場所が海食洞窟だったことに気が付いたのは、陸地に切り込む入り江があったからだ。足元まで迫る水面はそのまま海へと繋がっているようで、濃密な潮の匂いが漂ってきていた。
 岩壁は長い年月を経て、すべらかに削られた黒曜石のような光沢を帯びている。青白い光を反射する壁は、まるで宝石のようにきらめいていた。
 そして青白い光――その元を辿れば、そこにはまるく輝く満月が浮かんでいた。
 それは辺り一帯を青く明るく照らすほど煌々と光り輝いているというのに、不思議と眩しいとは思わなかった。直視しても目が痛むことさえない月が、ただそこに在る。海面にまっすぐと道を描いている月明かりが波間を揺蕩うように、月影もゆらゆらと揺らめくばかり。
 言葉も発さず、意思も介さず。月を抱く海のさざ波だけが洞窟に反響していた。

 ――月に願えば、きっと叶えてくれるだろう。
 何も求めず、何も語らず。ただ誰かの願いごとを叶えるだけの願望機のように、願われることを待っている。
 ひとが月に何を願うのか。その想いの在処を、黙したまま見つめるだけだ。

 ――月に願えば、きっと満たしてくれるだろう。
 善悪もなく、勧懲もなく。ただひとつ、願いごとを叶えてくれる願望機を前にしたとき、ひとは何を願うのだろうか。
 それは自分の幸せかもしれないし、誰かの幸せかもしれない。その月光の導きは、ともすれば誘惑になりうるものだ。
 何を考えてもいい。しかし心の奥底にある願望だけは最後まで口にしてはならない。
 いま月に願うべきことはその光を授かること。そして、魔法のカンテラに灯火をくべることなのだから。
オーキードーキー・アーティーチョーク
オルテール・パンドルフィーニ

●水月
 月が昇ったその洞窟は、潮の香りに満ちていた。
 海へと通じる洞窟の岩壁は夜露に濡れていて、月の光を受けてかすかに煌めく様はまるで生き物のように胎動しているようにも見える。波が洞窟の奥へと打ち寄せるたび、水音は呼吸のようにやわらかに反響して静寂の底まで染み入るようだ。
 オルテール・パンドルフィーニ(Signor-Dragonica・h00214)は、入り江の縁に静かに立っていた。
 足元の岩がわずかに湿っている。靴の裏にひやりと伝う海の気配に気を取られる中、ふと空を仰げば満月がこちらを視ていた。
 ――あの月に、願いを?
 喉元まで出かかったその言葉を、胸の内に沈める。
 我欲が強いことは自覚している。遍くすべてに幸福が訪れればいいと、そんな理想を描いたこともある。妹たちが苦労せず暮らせるように。隣で笑う友人が、これからも変わらず楽しげでいられるように。
 けれど、今は違う。
 そのどれもを、オルテールは静かに心の奥へと押し込めた。
 ここに来たのは祈るためではない。これは仕事だ。誰かの願いを叶えるためでもなく、ましてや己の願いを叶えるためでもない。ゆるやかに頭を振って、オルテールはカンテラを握り直す。
「今はただ、仕事を熟そう」
「――そうでしたね、カンテラを高く掲げましょうか」
 オーキードーキー・アーティーチョーク(Spaghetti Monster!!!・h02152)もまた、オルテールの隣で大いに首肯する。
 波が規則正しく岩壁を撫でる反復の中で、彼もまた静かに思考を回らせていたのだ。
 大それた願いなど、もともと持ち合わせていない。願うとすればそれはごく自然なもので、友人の幸せや安息、そして同胞たちの繁栄くらいのものだ。けれど、それすらも今は明かすまいと黙秘して、オーキードーキーは大きく息を吸った。
 そしてどちらともなく、カンテラを掲げる。わずかな衣擦れの音とともに一歩を、月のふもとへ向かって踏み出す。
「さァ、月よッッッ!!! その光をいただきましょうッッッ!!!」
 声が洞窟に響く。まるで祝詞のように、あるいは呪文のように。
 その芝居がかった言葉の裏でオーキードーキーはそっと目を細め、オルテールもまた見極めるように月を見上げた。
 この器が光を得れば、きっと道しるべになる。
 そうして死者たちが帰るべき場所へと還る、その一助となるだろう。

 しばらくすると月の輪郭が揺らいで、カンテラが脈打つように輝きはじめた。
 閉じ込めた光が何色を纏うのか、オルテールは口を噤んだままその瞬間に夢想する。
 街の通りを照らすような、やわらかな橙色だろうか。それとも、冬の朝に差し込む陽光のように白く澄んだものか。あるいは、海の底のように深く、蒼い色かもしれない。――なんて、本当は何色でもいいのだ。
 彼がくれたものに光が灯るならなら、それがどんな色でもきっと好きになる。オルテールはそうと知っていた。
「これは……、」
 眩い光が鎮まる頃、カンテラはやわらかな灯りを宿していた。
 それは無垢なほどに澄んだ何の混じり気もない色――純白の光だ。形も異なるふたりのカンテラにそれぞれ同じ色が灯っていることを確認してオルテールは息を呑む。
 その隣で。オーキードーキーは掲げていたカンテラを静かに下ろすと、ふと口もとをゆるめた。
 魔法のカンテラは、こうして無事に完成した。手の中で揺らめく灯りは凛として美しく、煌々と照らすその色は――このカンテラをくれた友の色に、どこか似ていた。
「……これで無事に祭りが開催されると良いな」
「ええ、ええ、間違いなく開催されましょうッッッ!!!」
 オルテールの小さな呟きに呼応するようにオーキードーキーの声が跳ねて、波間に反響する。けれど、その叫びの奥には確かな確信があった。
 灯りは魂らの導きとなり、きっと死者を安らなる寝床へと送り届けてくれることだろう。そして死者は在るべき場所で、ようやく眠りにつくことができる。
「君のくれたカンテラのお陰で、俺が文明の援けになれたなら――凄く嬉しい」
 ふと横目に見れば、満足そうにカンテラを見つめる友の姿がそこにある。
 君は優しい|怪異《ひと》だな――なんて、言ったら困らせてしまうだろうから。オルテールはあえて言葉にすることはなく、浮かべた笑顔に留めておくことにした。
 それを察したように、オーキードーキーも口角を限界まで吊り上げた笑みを返す。灯りに照らされた横顔はやはり人間のものとは思えなかったけれど、オルテールからすれば親しみのある慣れた笑顔だろう。
「ンフフフ……援けとなったのは、我輩のカンテラだけではないですよッッッ!!!」
 かつり、と。
 カンテラ同士を軽く合わせれば同じ色の光が揺れる。
「――オルト、貴方自身の死者への尊重があればこそですのでね」
 長い白夜は、ようやく終わりを迎えようとしている。
 ふたりは同じ色の光を宿したカンテラを手に、月のふもとから踵を返していった。

茶治・レモン
日宮・芥多

 道の先に、かすかな潮の香りが混じった。
 岩壁に囲まれた狭い通路を抜けると、風が吹き抜けて髪を揺らす。湿った空気と、どこか塩の混じる匂い。それは確かに海の気配だ。
「おや、海の匂いがしますね」
 日宮・芥多(塵芥に帰す・h00070)が小さく息を吸えば、その後ろから茶治・レモン(魔女代行・h00071)が顔を覗かせた。「あっ、本当だ!」と嬉しそうな声が反響するのを聞きながら、ふたりはさらに奥地へと足を進めていく。
 洞窟の奥へ進むほど、空気は不思議と澄んでいくようだ。割れた岩の隙間から月光が差し込み、水面から反射した光は天井に影を作ってゆらゆらと波打っている。
「……お、いましたよ」
「なるほど、これは確かに『月が落ちてきた』と言いたくなります」
 レモンがぽつりと呟くと、芥多もまた視線を上げて言葉少なに頷いた。
 その視線の先に佇む月は、まるで手を伸ばせば掴めそうなほど近くに感じられる。
 あとはその月光さえ頂戴してしまえば、今回の仕事もお終いだ。遊んで歩き回っただけで働いた気はしていないが、芥多はあえて肩を竦めて月を見遣る。
 月に願うだけでどんな願いごとさえ叶うと聞いても、芥多は不思議と願う気にはなれなかった。何も語らずただただ冷たく、美しく、そこにあるだけの存在は荘厳というよりも薄気味の悪ささえ感じるようだ。
「願い事……あっ君は?」
「俺は特にないですかねぇ。よく知らない存在に願って縋るのは性に合わなくて」
「ないんですか!? 意外です!」
 あぁでも、理由を聞いて納得しました。そう言って頷いたレモンもまた、月に願うことはしない。「何か願うのであれば、少しの間だけ静かにしていますよ!」――隣で戯ける彼をどうか真人間に、なんて思わないでもないけれど。それは、月に願う程でもないだろう。彼の性根を正すのは月など名ばかりの得体の知れないものではなく、自分自身で導いてあげればよいことなのだとレモンは思い直す。
 やがてふたりは入り江の境目で足を止め、手にしていたカンテラを静かに掲げた。

 灯った光は、最初はただの淡い燐光に過ぎなかった。
 けれど時間とともに、光はカンテラの中で少しずつ輪郭を帯びはじめる。
 芥多が掲げた天球儀のカンテラは、星の軌道をなぞるように光が脈打ち、ややもすれば夜明けの空の色へと変わっていく。たったひとつ、暁の星が瞬いたような気がしてカンテラの中を覗き込めば、透きとおる朝の気配を抱いた一輪の白百合がふっくらと花弁を開いていた。一輪だけ咲いた白百合が煌めいていて、はるか遠い記憶を呼び起こす。
「――ああ、このカンテラはあの物語がモチーフでしたか」
 百年は、もう来ていたんだな。遥か遠い記憶を呼び起こすように口遊む彼の横顔を、夢から覚めたように煌々と輝くカンテラの灯りが照らしていた。
 その一方で、レモンのカンテラはまったく異なる色を抱いていた。
 シトリンを中心に、やわらかな陽光のような光がゆっくりと広がっていく。外殻に描かれた花と蔦の模様が、光の筋と重なって咲いているようだ。
 その温かな陽光に、ふいにレモンは思い返す。ずっと、どこか見覚えがあるような気がしていた。その正体は――、
「真白なボディに花と蔦、そしてこの陽光……何かに似てると思ったら、僕が住む『大鍋堂』だ……!」
「成る程、既視感があると思ったら大鍋堂に似てるんですね!」
 一度そうと分かれば、視界はほどけるように開けていく。
 レモンは胸のつかえが取れたような清々しい気持ちでカンテラの光を見下ろして、軽く揺らしてみた。最初は弱く淡いばかりだった灯りも、今となっては煌々と辺りを照らすほどの光を得たようだ。
 青白い月の光に交わるように、暖かな陽光が波間を揺蕩う。
 暫しの間、ふたりはその揺らめきを見つめていた。
「……良き巡り合いに感謝ですね、お互いに」
 この灯火が死者を弔う光となって、どこかで迷う魂たちの道しるべになるのなら。
 ふたりが手にしたそれぞれの光が、誰かにとっての夜明けとなるのなら。
 やはり、月にそれ以上を願う必要はないと芥多は口もとをゆるめる。
「ふふ、素敵なカンテラに出会えてよかったですね」
 煌々とした光を灯したカンテラを手に、ふたりは静かに踵を返す。
 こうして、彼らの仕事は確かに果たされたのだった。

式凪・朔夜
桂木・伊澄
アデドラ・ドール

 波音は遠く、空は深く。
 夜の海と空が溶け合ったような洞窟の奥には、まんまるとした月が浮かんでいた。
 足元は打ち寄せる波によって削られた滑らかな岩盤で、時折天井から落ちる水滴が波紋を広げている。どこかに繋がっている内海の潮がゆるやかに満ちては引いていくようで、どこかひんやりとした空気が漂っていた。
 静寂の中に水音だけが息づくようなその場所で、桂木・伊澄(蒼眼の超知覚者・h07447)はふと足を止める。
「……こいつが目的の月とやらか」
 月明かりが水面に映り込み、そこにもうひとつの満月が浮かんでいるようにも見える。その青白い光はまばゆいほどに洞窟を照らしているのにも関わらず、光はどこまでもやわらかく、不思議と目を引くようだ。
 この光をカンテラに閉じ込めれば、任務完了と言っていいだろう。真剣な眼差しで月を見据えた伊澄は、しかし次の瞬間には気だるげに息を吐いて、また口を開く。「しかし、ただひとつ願いごとを叶えてくれる願望機か……」願いを叶えてくれると言われても、咄嗟には出てこないものだ。今回は自分の願望を願うわけにはいかないが、それはそれとして。もし願うなら、と考えるように伊澄は首を回らせる。
「んー、普通に生活できますようにとか?」
 カミガリなんてやっている以上、普通の生活と言われてもしっくりと来ない。
 自分で言いながらも肩を竦めた伊澄の後ろで、式凪・朔夜(影狼憑きの霊能力者・h07051)がふっと笑いを漏らした。伊澄は反射的に振り返り、バツが悪そうに頭を掻く。
「あ、今笑った?」
「はは。こういうのって難しいですよね」
「な、なんだよ……。これでも一応真剣に思ってみたんだけどさ」
「いや、俺も伊澄さんと似たような感じかもですよ。誰も傷つかず、平穏に……って」
 朔夜は苦笑を浮かべながら、視線を月へと向けた。
 無難といえば、そうかもしれない。けれど結局のところ、最後にはその答えに辿り着くのだ。誰も傷つかず、平穏に過ごすことができたなら――もう少しだけ生きやすい世界だったのかもしれない、なんて。
 朔夜がその願いを最後まで口にすることはなかった。ゆるく頭を振った朔夜の隣で、月を静観していたアデドラ・ドール(魂喰い・h07676)も一歩だけ前へと踏み出す。
「――月の光を、分けて貰いましょう」
 どこか淡々とした口振りで、手にしていたカンテラを掲げる。
 どんな願いも叶えてくれる月を前にしても、アデドラが揺らぐことはなかった。
 何も欲しいとは思わない。この身を人間のようにしてほしいとも思わないように、奇跡的に得た魂でいつまでもこの世に留まろうとも思わない。すべて時の流れに身を任せることを選んだ彼女が、月にその身を寄せることはない。
 だけど、少しだけ思うとすれば。
 縁を得て出会えたこのおバカで可愛らしい二つの魂の終着まで傍に寄り添えたら――なんて、やっぱり月に願うようなことではないし、決して本人たちの目前で口にすることもしなかった。
 自分たちがすべきことは、いまはただカンテラに灯りを注ぐだけだ。
「そうそう、光をこのカンテラに入れるんだったよな」
「よし、カンテラに光を閉じ込めて帰るぞー」
 アデドラに倣うように、伊澄と朔夜も手の中のカンテラを月に掲げる。
 静かに青白い光を受け取ったカンテラは、やがて同時に輝きを増して――最後には、透き通った白銀の光へと変化した。
「これで任務完了っと」
 街に戻ったら、どこかで夕飯でも食べに行こう。そう言って軽く笑った伊澄に、朔夜もピンク色の瞳をわずかに輝かせる。「メシ……!」意識した瞬間に盛大に鳴った腹を抑えたところで、もう夜更けも良い時間であることを3人は思い出した。それは腹も減るわけだと顔を見合わせた後、伊澄は先頭を切って洞窟から踵を返す。
「√ドラゴンファンタジーの飯なんて滅多に食べれないだろ? 俺が奢るよ」
「伊澄さんの奢り、じゃあ有難く!」
「まぁ、イズミの奢りなのね。サクヤ良かったわね、遠慮なくどんどん食べるといいわ」
 ひとり、またひとりと洞窟を後にしていく。その足取りは来た時よりもどこか軽やかなものだ。
 最後には漆黒の髪を翻したアデドラも彼らの後に続いて、月を振り返ることもなく。「ふふふ、ほんとあなた達――楽しいわ」くすくすと笑った彼女の声もまた、波紋と共に夜の海に消えていった。

ラデュレ・ディア

 一筋の風が、やわらかに頬を撫でていった。
 湿り気を帯びた空気が、岩壁に沿って這うように流れて来ているのだ。ゆるやかに傾斜する洞窟の奥、足元の岩は塩気を含んでところどころに苔がこびりついていることが分かる。かすかな潮騒が反響して足音すら吸い込まれていく静けさの中で、ラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)は息を整えるように一度立ち止まった。
 潮の香りに、くわんと低くうねる波の音。冷たい夜の静寂に漂うそのすべてが、どこか心地よい子守唄のようにも思える。
「此処が、奥地……」
 そこには、まんまるとした月が浮かんでいた。思わず零れた声は、耳を打つより先に波間へと溶けていく。
 月はあまりにも大きく、そしてあまりにも美しかった。夜の海を照らすその光は、地上に満ちるすべての静寂にやさしい輪郭を与えるように煌々と輝いている。
 まばゆい月の光――けれど、それは決して目を焼くようなものではない。むしろ、肌をそっと包みこむような温もりがあった。心までやさしく降り注いでくるようなその光はまるで――、「わたくしがうさぎだから、なのでしょうか……?」独り言のように、か細い声で囁く。そんな彼女の横顔を、月光は静かに照らしていた。
 ラデュレはカンテラを足元にそっと置いて、しばらくの間、ただ静かに月を見つめ続けた。何かを思い出すように、何かを確かめるように。
「……眺めていると、心が安らぐようなのです」
 この光がずっと続けばいい、と。そんな願いを口に出す前にふと思い出す。月に願いごとをすることが、この魔法のカンテラを完成させる最後の仕事だった。
 足元に置いたカンテラは、まだ灯ってはいない。けれど、その器はラデュレの歩む道を照らす準備を静かに整えているようだ。
 綺麗な嵌め込まれた色硝子たちに月光が反射しているのを見て、ラデュレはその淡い光に触れるように手を伸ばして小さく微笑んだ。
「わたくしの――ラーレの願いは……」
 自分自身も、そして友人たちも。皆が健やかで、幸せな日々を送れれば良いと願う。
 それは誰かのための願いであり、彼女にとってはとても自然なかたちをしていた。けれど心の奥には、もうひとつの想いが残っている。
 もし記憶の在り処について願ったとして、確かに月は叶えてくれるかもしれない。それでも、と口を噤んだラデュレの前で月の光がゆっくりと脈打つ。
「――いいえ。そちらはラーレ自身が見つけるのです。この、わたくしのカンテラと共に」
 月の光は音もなく広がって、それはカンテラを包み込むように輝きを増していく。まるでひとひらの花びらのようにふわりと、やさしく。
 そうして月の光が鎮まる頃、カンテラに光が宿っていた。
 それは淡く、やわからに。夜明け前に瞬く星のように輝いた光が、ラデュレの前で確かに灯っている。
「“これから”の旅が、とても楽しみなのです」
 かすかに揺れ動いたカンテラの中心には、記憶を象るような密やか蒼色が浮かんでいた。光がまたひとつ、夜に咲いた瞬間だ。
 その光を見つめて、ラデュレはそっとカンテラを持ちあげる。新たな光を灯したカンテラを揺らして見れば、胸の内がほんの少し軽くなったような気がした。
「わたくしの道ゆきを、どうか照らしてくださいませ」
 旅はまだ始まったばかりだ。けれどこの光がある限り、きっと進めるだろう。
 誰かと出会い、何かを見つけ、失われたものにもいつか手が届く。――そうと信じて、月にさようならを告げるようにラデュレはたおやかに礼をした。

絹更月・識
花牟礼・まほろ

 岩壁に囲まれていた細い通路の先、急に天井がなくなったかのように視界が開けたところで、ふたりの足が止まる。
 一筋の風が吹き込めば強い潮の香りが鼻孔を掠め、もう少しも踏み込めば夜の海が広がっていることが分かる。入り江のように開けた場所で、まんまると浮かんだ月が辺り一帯を照らして海へと繋がる境界線をくっきりと描いていた。
「わあっ……!」
 満月を見上げた花牟礼・まほろ(春とまぼろし・h01075)が、目を輝かせながら感嘆の声をあげた。
 その声は澄んだ洞窟の空間に跳ね返り、波音と混ざってふたりの周囲にふわりと広がっていく。「こんなに近くでお月様を見たのは初めて!」と笑みを浮かべながら入り江の縁まで近寄って、足元に波が打ち寄せるのも構わずにまほろは身を乗り出す。夜の冷たささえ跳ね除けるようなその横顔は、心底楽しげだった。
 一方で、絹更月・識(弐月・h07541)は少し離れた場所に立ったままその背中を見つめていた。足元に反射する波の揺らめき、海水に映る満月の姿――その異様なまでの静けさと美しさに、わずかに目を細める。
 その光景は確かに怪奇現象といえるだろう。人が恐れを異常という枠に押し込めたくなるものだと、識は理解している。けれど不思議と、目の前の月から敵意を感じることはなかった。強いて言えば、自分には明るすぎる光だと識が物言わずに眉を顰めたとき、まほろが肩越しに振り返る。
「ねえ、識くん。もしお願いするなら、どんなお願いにする?」
 にこにこと笑いながらそう言って問いかけるまほろは、けれど彼の言葉を待つことはなく続ける。「……あっ、待って、当ててみる!」指を唇に当てて、少しだけ考え込むような仕草。識は肩を竦めて、彼女の隣に並ぶように入り江の縁へと歩み寄った。
「うーん、図書館の片づけを終わらせてください……とか?」
「……自分でやることは願わねぇよ」
 できないのではなく、やらないだけ。やりたくないだけだと、ぽつりと呟く彼の答えに「あ、やっぱり真面目にやらないだけなんだ!」とまほろは悪戯っぽく笑った。

 カンテラを抱えて、ひとつ息を吸う。そして深く息を吐いて、目を閉じた。
「――あなたの魔法の光を分けてくれますように」
 そしたら、識くんが選んでくれたこの灯り、心ごとずっと大切に出来るから。心の中で重ねて、まほろは月に囁く。
 永遠というのは、言葉にするよりずっとむずかしい。
 だからこそ、目の前にある今を宝物のように大切にするのだと――わずかに光が脈打つカンテラを大切そうに抱え直したまほろの横で、識は戸惑うように瞳を揺らしてカンテラに視線を落とした。
 そのカンテラを選んだのは、たまたま目に入ったからだ。似合うと思ったのは本当だけれど、言ってしまえばただそれだけ。彼女がこうして大事にしている姿を見ると、もっとちゃんと選ぶべきだったのではないかという葛藤が胸の奥に生まれる。
 そんな自分だからこそ――、
「……特別にしなくても、簡単に壊れないし、忘れねぇよ」
 小さく呟いた言葉は、月光に吸い込まれて消えてしまった。
 けれど、隣で肩を並べていたまほろにだけは確かに届いていたのだろう。まほろはふっと笑みを浮かべて、おもむろに識の手を取る。
「ありがと、識くん。……一緒にここに来られてよかった」
 次はお祭りも一生に行こうね、と笑って、ふたりの手はもう一度繋がれる。識は「はいはい」と軽く返事をしながらも、繋いだ手はいつものようにしっかりと握りしめた。
 カンテラはその合間にも、月の光を受けて煌々とした輝きをその身に宿している。
 それは月の光をそのまま入れ込んだような、やさしい輪郭をした光だ。彼女が大事にする、刹那的な軌跡。それを護ることは自分にできる領分ではないからこそ、識はそっとその光を一瞥するに留める。
 けれど、せめて。
 その輝きが、できる限り長く続くように。そう胸の奥でひそかに願うことくらいは、してもいいだろうと思える――そんな夜だった。

蓬平・藍花

 からり、からりと。
 澄んだ音を響かせながら、鳥籠を模したカンテラが足元を照らす道をゆっくりと進んでいく。小さな明かりの揺らめきは風の通り道を読むように、迷いもなく奥へと導いていくようだ。その後ろを、蓬平・藍花(彼誰行灯・h06110)は不思議そうな顔をしたまま少し離れてついていく。まるで意思を持って歩いているかのようなカンテラはどこか不思議で、少しだけ愛らしく思えた。
 やがて、岩壁の先にぽっかりと空いた空間へと辿り着く。
 洞窟の外とは違う、ひときわ広いその場所に足を踏み入れた時――藍花は夜の静寂に反響する潮騒を聞いた。
 その音に気付いた時には、既に靴の底に冷たい湿気が触れていた。海が、洞窟の奥に広がっているのだ。外に出たはずもないのに、頭上にはぽっかりと月が浮かび、波間に青白い影を落としていた。
「夜の海、だ……」
 岩の内壁には月の光を受けてちらほらと煌めき、波の光と重なってまるで別世界のような深度を作っている。
 息を呑んだ藍花が視線を上げた先にあったのは、静かに海面を照らす丸く大きな満月だ。まばゆいはずの光なのに、どこかやわらかく、見つめていると胸の奥をそっと撫でられるようだった。
 それがどんな願いでも叶えてくれる月だと思い至ったとき、まっすぐと見つめていた瞳がわずかに揺れて、思考も揺らぐ。藍花の脳裏をふと過ったのは、白金色と翡翠色を持ったかつての――アノ子のことだった。
「ボクが、希う事……」
 何十年も前に喪ったアノ子のことを思い返すように、藍花はそっと目を伏せる。
 もう一度、もう一度だけ。何度もそう願った。どれだけ祈っても時は戻らず、声も届かず。けれどその面影だけは、今もの心の底であたたかく生きている。――それでも。
 その記憶に呑まれそうになる自分を、藍花は小さく首を振って振り払った。
 過去を引きずるばかりでは、前には進めない。それに――今日ここに来たのは、『この子』のためだった。

 カンテラは、彼女の足元で立ち止まっていた。
 鳥籠のような金属細工が、月の光を受けて淡く光っている。藍花はそっとその籠の部分に手を添えて、一歩前に踏み出す。そして胸の奥でそっと息を整えると、月へと視線を向けた。
「どうか……この子に、灯火を――」
 祈るように、囁くように、月に向かって言葉を紡ぐ。戀しさも寂しさも、ぜんぶ呑み込んで。それでも目元に滲んだ感情は、もう涙ではなかった。
 やがて藍花の言葉に呼応するように、カンテラの中に小さな灯がひとつ、ふっと点る。それはまるで脈打つように一度、二度、三度。光る度に波間に明るさを増して、ついには洞窟の奥までも満たしていくようだ。
 ゆっくりと目を開けば、魔法のカンテラは真価を発揮するようにひと際強く光り輝いた。その光に包まれたとき――藍花の瞳にもまた、小さな決意の火が灯っていた。

井碕・靜眞
物部・真宵

 潮の香りが濃くなる度に、物部・真宵(憂宵・h02423)は少しずつ息を深くした。
 波音が岩にぶつかっては跳ね返り、幾重にも重なって暗がりを満たしていく。足元には湿った岩肌が広がり、波によって削られた奥まった空間には無骨な岩壁がむき出しのまま伸びているようだ。ところどころに塩の白い結晶が浮いている様こそかろうじて見えるが、それ以上は灯りも届かない潮溜まりが足音を静かに返してくるばかりだった。
「まぁ……これは海蝕洞ですね」
 真宵が立ち止まり、見上げるようにしてぽつりと呟く。それは理屈としては知っていても、実際に足を踏み入れるのは初めてだ。
 その声に応えるように、すぐ隣で井碕・靜眞(蛙鳴・h03451)が声を掛ける。「波の侵食で削れた洞窟、でしたっけ。足元、気をつけ……あ、」――けれど少しばかり、遅かったらしい。声を掛けたその瞬間、彼の目の前で真宵の足がつるりと滑る。
「あうっ……」
 岩の出っ張り部分に見事に額をぶつけ、痛いやら恥ずかしいやらという気持ちで彼女は小さく蹲ってしまった。見兼ねた靜眞は蹲る彼女へ一歩近づくと、迷いながらも手を差し伸べる。
「……大丈夫、ですか?」
「だい、じょうぶ……です。うぅ、お恥ずかしい……」
 真宵は額を押さえたまま、その手を見つめて恥ずかしそうにはにかんだ。
 差し出された手はしっかりと握り返され、細くて温かなその指先が触れた瞬間、靜眞はほっと胸を撫で下ろす。差し伸べた手に、彼女が嫌がる素振りをひとつも見せなかったことに安心したからだろう。靜眞は繋いだ手をそうとやさしく引いて、洞窟のさらに奥へと足を進めた。

 洞窟の奥地には、まんまると輝く満月がひっそりと息づくように浮かんでいた。
 それは空よりも近く、海よりも近く。まるでそこに落ちてきたかのように錯覚するほどに近い場所に浮かんでいる様に、真宵は一瞬だけ目を疑ってしまった。けれど光の階がまっすぐと水面へ伸びて、洞窟内の水をより青く染めているように、確かにここに存在しているらしい。
「これが、落ちてきた月……?」
 真宵はぽかんと月を仰いで、光に向かって手を伸ばす。
 水面にきらきらとこぼれる月光の欠片に、指先がかすかに触れた気がした。
「そういえば、月の光って……どうやって奪えばいいんでしょう?」
 首を傾げた真宵の隣で、靜眞も観察するように目を細めて月を見据える。
 モンスターのように危険性を感じることはない。ただ惹き込まれるような、取り込まれるような、そんな不信感があった。しかし、真宵が月光に手を伸ばしても月は動く様子さえ見せない。靜眞は月から視線は外さず、注視したままアンティーク調の小さなカンテラを月の前まで持ち上げた。
 ――ふいに胸の奥に浮かんだような願いを、口にすることはなかった。
 嫌われたくない、だなんて。おこがましいと振り切るように靜眞は小さく頭を振る。
「……光をわけてもらうように、伝えてみましょうか」
「なるほど、それもそうですね! ええと……あなたの月光を盗みにきました!」
 胸を張って、真宵も手にしていたモロッコ風のカンテラを持ち上げる。
 そうして満月の光が静かに注がれる場所に差し出すと、内側の小さな灯芯がわずかに震え、ぱちりと音もなく燃え上がるような熱を感じはじめた。水面から跳ね返った光がその金属の骨組みを撫でる度、まるで月そのものが宿るように、やわらかく、あたたかく、ひと際輝かしい光を灯すのを静かに見守ってふたりはひそりと囁く。
「まぁ……素敵なひかり。ふふ、ぴかぴかしていますね?」
「……はい、ぴかぴかです」
 並んだカンテラはふたつ。
 モロッコ風のカンテラは夜のようにおだやかな青色の光を湛えて、アンティーク調のカンテラは月のような白銀の光を灯したようだ。
 真宵はそっと灯りを覗き込み、うっとりと目を細める。その声は洞窟に満ちる波音に紛れるほどに小さいものだったけれど、同じように灯りを覗いた靜眞にははっきりと届いた。
 その声があまりにも無邪気で、無垢で。だからこそ心を打つようで。自然と口もとを綻ばせた靜眞は、自分でも驚くほどにやわい表情をしていることに気付いた。こんなふうに笑える自分がいるなんて、と少し不思議に思うほどだった。
「さっそく持ち帰りましょうか!」
 真宵は顔を上げると、カンテラの持ち手を両手で大事そうに抱きかかえながら岩場を一歩ずつ戻っていく。今度はしっかりと足元を確認して、転ばないように。
 振り返れば、カンテラの光によって照らされた影が岩肌に映り込み、波と一緒に揺れている様がよく見えた。この灯りこそがまさしく、今宵の成果といえるだろう。「光を持ち帰ったら、そのあとはお祭りで月盗人成功のお祝いをしなくちゃですね?」ふっと淡く微笑み、唇に指を添える仕草はどこか子供のようで、その横顔に靜眞は少しだけまぶしさを覚えた。
「――ええ、共犯ですからね」
 カンテラの下で、おいしいものでも食べましょう。そう言って薄く笑みを返しながら、彼女の隣を歩く。
 やがて重なる足音が、波の音と調和して心地よいリズムを刻む。カンテラが照らしたふたりの影は長く引いて、潮騒とともに揺らめいていた。
 今宵の光はきっと、ふたりの胸に静かに灯り続ける。忘れがたく、あたたかく――いつまでも。

アンジュ・ペティーユ
結・惟人

 海へと繋がる洞窟の奥地。波音だけが静かに響くその場所に、青白い光を湛えた満月が鏡のような水面に浮かんでいた。
 まるで誰かの手でそっと水に落とされたように、淡い輪郭を震わせながらも完璧な円を保っている満月を見上げて、結・惟人(桜竜・h06870)は黄金色の目を瞬かせる。
 それはまばゆいほど輝いているというのに、不思議と目を引くその光はいつまでも見ていられそうだ。
「不思議だな、こんな風に月を見詰められるとは」
 けれど、いつまでも眺めてはいられない。
 どれほど月が綺麗であっても、ここにずっと在れば人々を困らせてしまうと理解しているからこそ、惟人は手の中のカンテラに目を落とす。小さな花の装飾があしらわれたカンテラの光は淡く、しかし月の光に呼応するように脈打っているようにも見える。
「綺麗な色だね……」
 傍らに立つアンジュ・ペティーユ(ないものねだり・h07189)もまた同じようにカンテラを眺めて、その色彩に目を留めた。今のままでも充分に美しいけれど、月の光を受けたなら。その灯りはどのような色を宿すのだろうか。
 アンジュは惟人と肩を並べるように一歩前へと踏み出すと、目配せをひとつ交わして、同時にカンテラを月の光が差す場所へと掲げた。――そうして月に願う。どうかその光を分けてくれ、と。
 すると、カンテラの灯りがひと際強く鼓動した。
 しんとした空気に灯りがひとつ、ふたつ。ぱちりと熱を灯したカンテラを惟人が覗き込めば、そこには白に仄かな青を帯びた光が宿っている。それはさながら、ふたりで眺めた海の世界の色をしていた。
 夜に溶けるような、波間に消え行くような白縹。その色彩がずっと頭に残っていたからか、惟人は面映ゆい気持ちにふっと息をこぼす。
「……夜に合いそうで、気に入ったな」
 手の中のカンテラを揺らせば、からりと小気味よく鳴る。
 思い出が形を成したような光は、惟人の横顔をやさしく照らしていた。

 その隣で。アンジュもまた、手の中のカンテラを見つめていた。
 灯芯が震えるようにして灯ったその色は、確かに月光の色をしている。けれど、ただの模倣ではない。もっとやわらかく、ほのかな温度を秘めて、手元をそっと照らしてくれるような灯火だった。
「この色は……月の光り……」
 灯りをじっと見つめながら、ぽつりと呟く。
 カンテラよりも明るくて、けれど足元を照らすには朧げな一筋。行く道を照らす標とするにあは少し、頼りないだろうか。けれど、惟人のカンテラに灯った光と重ねると、幻想的な風景が浮かび上がるような気がして――からり、とアンジュもカンテラを小さく揺らす。
 波間に揺れる光。水面に浮かんだ月の輪郭が、ふたりの顔をやわらかく照らす。その色が、なんだかとても懐かしい気がした。
「キミと出会った日も、そして今日もこんな色を宿していた。とっても綺麗だね」
「あぁ、確かに出会った日を思い出させる」
 お互いのカンテラを近くに置いて、重なる色彩を見ればあの日に感じた高揚感さえ蘇るようだ。
 幻想的な光の模様が洞窟の壁に広がって、波の揺らめきと合わせて光が躍る様を眺めながら惟人は「綺麗だ」と頷き返して、暫くその光の調和を楽しむことにした。

 しばらくして、どちらともなくカンテラに手を伸ばしたふたりは顔を見合わせる。
「……このまま早速、アンジュの素材探しへ行くか?」
「ふふふー、実はあたしもこのまま冒険にでもくり出したい気分だったんだ」
 嬉しさに弾んだ心は落ち着かなくて、今夜は直ぐに眠れそうにない。ならばいっそ、と惟人が提案すればアンジュも悪戯っぽい笑みを返して首肯する。
 そして月光を受けて完成したカンテラを標として、新しい冒険をはじめようとふたりはまた一歩を踏み出した。
「――よし、このまま素材を探しに行こっか!」
 ふたりの影は肩を並べて、カンテラの光を揺らしながら消えていく。
 月と灯火、そして隣にいる友のぬくもりが静かな夜を満たしていた。

チェスター・ストックウェル
ヒュイネ・モーリス

 波音が、心の底にまで染み込むようだった。
 海水が長い時間をかけて岩を削り、自然のままに形づくられたこの洞窟は、水族館とはまた違った意味で水の気配が濃い。一歩進むごとに潮の香りも強くなるようで、頬を撫でる空気にもひんやりとした湿り気が感じられた。
 ヒュイネ・モーリス(白罪・h07642)は小さな足音を響かせながら、滑りやすい岩場を慎重に歩いていた。片手には真っ赤な曼殊沙華の意匠をあしらったカンテラがぶら下がっていて、赤色の細工は月光を受けて艶やかにきらめき、まるで血のような輝きをまとうようだ。
「神秘的な光景って、一周するとちょっとぞっとするよね」
 ふと足を止めて、ヒュイネはぽつりと呟いた。その声は夜の静寂に反響しながら、やがて溶け込むように消えてしまう。
 彼女の傍に立っていたチェスター・ストックウェル(幽明・h07379)といえば、その言葉に軽く目を見張っていた。
 美しい光景だとばかり思っていたのに、そうと言われてみれば段々とさざ波の音まで得体の知れない何かの足音に聞こえてくる。あまりに美しすぎるものには、やはりどこか不気味な予感がつきまとうものなのだろうか。「……む、ヒュイネの言葉で現実に引き戻されたよ」とチェスターは唇を尖らせて、そして足元を撫でるひんやりとした空気を振り払うように宙に浮いた。
「でもこの明るさじゃあ、死者を弔うどころじゃないね。早く光をもらって、カンテラを完成させないと」
「そうね、さっさと終わらせてしまいましょう」
 チェスターの言葉に、ヒュイネも否とは言わない。自然と頷き、再び歩を進めようとした。――そのとき、不意にチェスターが言葉を投げかける。
「……あー、やっぱり待って。ヒュイネはないの? その、願いごとってやつ」
 岩壁の隙間から差し込む光が、ふたりの間を斜めに裂いていた。波の音が遠くで跳ね、岩壁を伝う滴が水面に落ちる。漂う沈黙の中でヒュイネは少しだけ考えるように首を回らせて、そして口を開いた。
「――わたし以外のみんなが救われますように、かな」
 それはあまりにも淡々とした口調だった。
 悲しくもなければ、寂しくもない。言葉にした意味はそのまま、それ以上でも以下でもない。それはまるで他人事のようにさえ聞こえて、チェスターは眉を顰める。
「ふうん。随分と立派な願いだけど、どうして君は救われようとしないの?」
「どうしてって……“そう作られていないから”」
 表情ひとつ変えずに答えたヒュイネの言葉は、どこか不思議な響きを持っていた。
 それはあまりに無私で、あまりに無欲で。そしてどこまでも無垢でありながら、その本質はあまりにも不透明だ。チェスターはそっと目を伏せて、胸の奥に生まれた小さな波紋を見るように息を吐く。
 過去の景色が、瞼の裏に浮かんでいた。事故で失われた時間、追ってきた両親――生きていたらどんな日々があったのだろうと、幾度も想像しては押し殺してきた記憶が浮かんでは消えて、チェスターの胸を締め付ける。
「俺は事故に巻き込まれずに、生きて年を取れてたら――なんて、もう叶うはずもないけど」
 そんな風に、考えてしまうときがある。
 カンテラの揺れる灯りを見つめたチェスターが囁くほどの声を吐き出せば、それは反響するよりも早く波間に紛れて溶けていく。
 彼がどんな過去を抱えているか、まだまだ知らないことばかりだ。それでも。「叶わなくても願っていいんじゃない」あえて軽い声音で、ヒュイネは言葉を返す。
「そういう感情や感覚を覚えておくのって、大切だと思うよ」
 その言葉に、チェスターは何も言わずに小さく微笑んだ。

 洞窟の奥地へと辿り着いたふたりは、月の光が水面に落ちるふもとへ歩み寄る。
 月の光が差し込む階にヒュイネがカンテラを掲げれば、光が脈打つようにひと際強く輝きはじめる。曼珠沙華を透かすように揺れるその光は、赤とも金ともつかないような、名づけようのない色だ。幻想と現実のあわいに灯るその色は、誰かの記憶を照らすように鮮烈な光を宿した。
「……魔法のカンテラ、完成したみたい」
 本当の願いは、心の奥底に沈み切って思い出せもしない。
 だから。ヒュイネはそっと目を伏せて、これから少年に注ぐ光が優しいものでありますようにと願って、静かにその時を待ことにした。
 ――その傍らで、チェスターもカンテラを浮かべる。
 やがてカンテラに宿ったのは、青く深い色を湛えたひそやかな光だ。念動力によってゆらゆらと揺れるカンテラを前に、チェスターは心の奥底に本当の願いを秘めるように強く目を閉じる。
 自分を追って|ゲヘナ《火の地》に飛び込んだ両親を。ついでに、ふらっとどこかに行ってしまいそうな|彼女《薬屋さん》を。どうか善き方へ導いて――救ってくれますように。

 ふたりの願いが交わるように、ふたつの光もまたゆっくりと色彩を変えていく。
 赤と青。その灯りが交差したとき、月光よりもまばゆい色が差した。けれど、言葉はもう交わされない。その静寂の中でふたりはそっと顔を見合わせて、小さく微笑む。
 願いは叶うかもしれないし、叶わないかもしれない。
 それでも。誰かのために願う心が灯るとき、その光は確かにそこに存在していた。

梔子・リン

 波音が岩壁にやさしく触れては砕けて、消えていく。
 夜の海に繋がるこの洞窟は自分の足音や呼吸音がいつもより大きく聞こえるほどに静かなものだ。潮の匂いは一歩進むほどに深まり、足元から伝わるひんやりとした空気が肌を撫でていく。爪先が岩肌から染み出した水気に触れた頃、波によって削られた岩壁を伝う水滴がきらきらと輝くのを視界に収めながら梔子・リン(残香・h07440)はゆっくりと足を止めた。
 洞窟のもっとも深いところに、その月はあった。
 海へと続く水面に浮かぶ、鏡のように澄んだ満月がひとつ。夜の静寂を包み込むように青白い光を湛えた、空から落ちてきた月。本物の月は遥か天上にあり、こちらはあくまでその映し身でしかないのに、どうしてだろうか。梔子・リンには、こちらのほうが真実に近いように思えた。
「これは確かに……月が落ちてきた、という言葉どおりですね」
 これ程近くで月を見たのは、さすがに初めてだった。灰白色の瞳をわずかに瞬かせて、リンは月をまっすぐと見遣る。
 光を阻むものもなく煌々と輝く月は、不思議と眩しいとは思わなかった。
 本来であれば月は遠く、触れられぬもの。それが今は手を伸ばせば届きそうなほどに近く、やさしく煌めいている。「月を近くで見る機会があること自体、とても不思議なことではありますが……」けれど、それよりも。リンはもう一度、現実と夢の狭間にあるような月を見止めて、ふと微笑んだ。
「……こんなにも、どこまでもうつくしいものだとは」
 波が寄せては返す度に、岩壁に映る月影も揺れている。
 水面に映る満月は、揺らめきながらも輪郭を崩さず、ただそこにあった。それを眺めているうちに、リンはそっと呼吸を深くする。
 美しいものというのは、時に人の感情を言葉ごとさらっていくらしい。ただただそこに佇んで、さざ波の音だけを共にして、黙って見ていたくなる。そんな光景だった。

「そういえば、願いを聞き届けていただけるのでしたか……」
 しばらく静かに景色を眺めていたリンは、ふと手元のカンテラに目を落とす。
 心の奥底にある願い。それはいつだって、どこにいたときでも――覚えがない頃からずうっと『識りたい』と思ってきた。月に願えば、その心の奥底までも暴いてくれるのだろう。けれど、リンがそれを望むことはない。
「……でもそれは、自分で探すと決めましたから」
 言葉少なに、カンテラを両手で包み込むように持ち上げる。
 小さなガラスの中に、まだ確かに灯りはない。そのための光を、いまこの場所で、月からもらい受けようとしているのだ。
「お月様、お月様――どうか、少しその灯りをくださいな」
 囁くように、月へと語りかける。
 すると水面が再び小さく揺れ、月の光が天井を流れていくのが分かった。けれどリンは動かず、ただカンテラの灯りが脈打つ姿を見守る。
 やがて、その揺らぎの中でリンの手の中のカンテラがふと、ひと際強く輝きはじめた。月の光よりも白く、ふわりと広がるようなやさしい光色。その光を讃えるようにリンは目を伏せて静かに笑った。
 願いとは、時に届かなくてもいい。時に祈らなくてもいい。
 それを胸に抱くこと自体が、生きる証なのだから。
 今はただ――この手に受け取った確かな光を心の奥に仕舞っておこうと、リンはカンテラをやさしく抱きしめた。

夜鷹・芥
戀ヶ仲・くるり

「……ここが終点?」
 潮騒が反響する音に耳を傾けながら、戀ヶ仲・くるり(Rolling days・h01025)は目を瞬かせた。
 ひんやりと湿った空気が頬を撫でて、岩壁を伝い落ちた水滴が小さな波紋を描いている。自然が作り出した巨大な空間はまるで自然のドームのようで、くるりは感嘆の息を吐いた。
 その視線の先で、まんまるとした月はぼんやりと浮いていた。青白い光は階となって海面を照らして、波間の揺らぎに合わせて光も揺蕩う。見下ろせば歪んだ水月がもうひとつ、漣に抱かれるように映り込んでいた。
 この月に願うことで、魔法のカンテラは完成するらしい。しばし景色に見蕩れていたくるりは思い出すようにカンテラを抱え直して、傍らの夜鷹・芥(stray・h00864)を振り返る。
「お願い事、決まってます! 私、芥さんの選んでくれたカンテラが光るところ、見たーい!」
「……奇遇だな、俺も同じ願いだ」
 天辺で羽根を休める硝子の小鳥をやさしく指先で撫でて、くるりはこのカンテラが光を宿した姿を思い浮かべる。
 どんな風に輝くのか、どんな色が灯るのか。それがきっとどんなものでも、もっと好きになれるに違いないと、くるりはそっと口もとをゆるめた。
 その横で。同じように月を見上げていた芥も小さく首肯すると、手にしていたカンテラを軽く揺らしてみせた。互いに選んだカンテラはそのままでも可愛らしいものだが、明るい光を灯してこそのカンテラだ。「くるりが選んだくれた満ち欠けする月も……どんな風に灯るのか、見てみたい」優しい声音で呟いた芥の声が漣に攫われていく前に、くるりは笑顔を浮かべて、カンテラを月の光が差し込む場所へと高く掲げた。
「――お月様、光を分けてもらえませんか?」
 息を合わせるように、芥もカンテラを掲げる。
 そうして目を閉じた次の瞬間に、カンテラの淡い光が脈打つように広がった。ひと際強い輝きを放った青白い光が収まる頃、最初にその光の色を変えたのは芥が手にしていたカンテラだ。
 月にも似た淡い黄色の光が、やわらかに揺れている。
 カラン、カランと。小さく鳴りだしたその音は、カンテラ内部の仕掛けが動き出した音だろうか。金属と硝子が触れ合うような音と共にカンテラが回り出すと、地面に映った影――猫が月を追いかけるように走り出した。
「追いかけっこしてるみたい!」
「仕掛けも上々、楽しいカンテラだ」
 満ち欠けしていく月と走る猫の影は、伸びて跳ねて、くるくると回る。その小さな劇場を覗き込んだくるりがきらきらと目を輝かせれば、芥は小さく笑った。

 そして、次に光の色を変えたのは、くるりが手にしていたカンテラだった。
 月の光を吸い混むように硝子の小鳥は淡い金色に染まって、その羽根を小さく震わせる。装飾の細部まで作り込まれたその小鳥はやがて羽を広げて、不死鳥のように今にも羽搏いていきそうに見えた。しかし、カンテラの変化はそれだけではない。
「わー……私の鉱石の色、翠色に……」
 綺麗ですねぇ。くるりがそう言って覗き込むカンテラの中では、淡く光るばかりだった無色の鉱石が見事な翠色に染まっていた。
 芥はその移ろいを一瞥すると、そのまま彼女へと視線を移して口もとを綻ばせる。
「――くるりの宝石みたいだな」
 きらきらと瞬くようなその色は、彼女によく似ている。
 やわらかな光に照らされたそれは海のようにも見えると微笑んだ芥に、くるりは目を見開いた。
「……え、あ、私の髪、こんなキラキラしてるかな……!」
 ぎこちなく動きを止めたくるりは、頬にじわりと赤みが差すことを自覚して視線を泳がせる。誤魔化すように自分の髪に触れてみても、何も分からなかった。
 きっと彼のような人を人たらしというのだろうと、くるりは心の中で叫ぶ。自覚のない人たらしほど困ったものもなく、くるりは慌ててカンテラを抱え直した。凄まじい動揺を抑えなくては、危うく落としてしまうところだ。「ち、ちょっと照れますけど……ありがとうございます……」そう言うも、動揺を抑えようとして声が震えてしまったのは、この際仕方のないことだろう。
 くるりは気を取り直すように深呼吸をすると、改めてそれぞれ異なる色の光を宿したカンテラを見遣る。
「……お願い、バッチリ叶いましたねぇ」
「ああ、叶ったな」
 月に願うのがこんなにささやかで、あたたかいものばかりなら良い。心の中でそう囁いて、芥はわずかに口角を上げる。
 走る猫と羽搏く鳥。満ち欠けする月と、煌めく鉱石。手元でカンテラが揺れれば光も波紋のように広がって、異なる光が交差する様さえ美しい。ささやかな願いという小さな灯火は、ふたりの影をやさしく照らしていた。

バルザダール・ベルンシュタイン
継歌・うつろ

 足元から伝わるひんやりとした空気を感じて、継歌・うつろ(継ぎ接ぎの言の葉・h07609)は目の前の岩壁にそっと触れる。
 滑らかな岩壁は長い年月を経て削られ、波に洗われてきたものだ。流れ落ちた雫が丸く波紋を描く音に耳を傾ければ、そう遠くないところからさざ波の音が聞こえていた。もう少しも歩けば、その先に夜の海が広がっているのだろう。
 薄らと伸びる青白い光を追いかけるように、うつろは岩壁の間を慎重に抜けていく。入り江のように開けた場所に出た頃、そこにまんまるとした大きな月が浮かんでいることに気付いて、うつろは思わず足を止めた。
「ふわあ……きれい……!」
 きらきらと輝く瞳で見上げるうつろの手には、まだ灯っていないカンテラがぶら下がっている。弱く淡い灯りは月光を受けるその時を待っているのか、かすかに脈打っているようにも見えた。
 そのすぐ傍で、バルザダール・ベルンシュタイン(琥珀の残響・h07190)もまた同じように月を見上げながら、鷹揚と口を開いた。「なるほど……これは美しいね」不思議と目を引く月の光をなぞるように、バルザダールの視線は波間に落ちる。
「月の光は柔らかくていい。太陽は私には眩し過ぎるから……」
 吸血鬼である彼にとって、その身を焼くような陽射しはあまりにも眩しいものだ。月の光が体によく馴染むのも、その身を思えば道理かもしれない。
 しかし、そうとは知らなかったうつろはバルザダールを見上げて小さく首を傾げる。
「琥珀おじ様、たいようが、苦手なの? それなのに……わたしの部屋、ひあたり? のいい所をようい、してくれたんだね」
「あぁ、あの部屋がうつろ君にはぴったりだと思ったからね」
 しっかりと太陽の光を浴びて、元気に遊んで欲しい、という思いから選んだ部屋だと。バルザダールがその思いをありのままに告げれば、うつろは小さく息を呑んだ。
 彼はいつも、当然のようにうつろのことを慮ってくれている。このカンテラも、ここに来るまでの道も――そして、いままでも。ずっと。
 その喜びを表すように小さく微笑んだうつろは、カンテラを月の光が差す場所へとそっと置いた。
「えと、えっと。まずは、琥珀おじ様とわたしの、カンテラに、光をもらおう」
 あなたの月の光が、ほしい。
 星に願いをならぬ、月に願いを。囁くようなささやかな願いごとに合わせてバルザダールもカンテラを並べれば、少しの間を置いてカンテラの灯りが揺れた。それはまるで、月に吸い込まれて溶けていく彼女の囁きに応じるように。
 そして、月の光がゆらりと水面を撫でる。満ちた光は岩肌に反射して洞窟の奥へ、ふたりのいる足元までゆっくりと広がっていく。より一層と強く輝いたその光が鎮まるとき、光は色彩を変えていき――そうして最後に灯った光は、優しい琥珀色をしていた。

「わたしの、ねがいは……何だろう……?」
 もし、願いごとが叶うなら。
 うつろがぽつりと呟いたその声には、まだ灯されたばかりの灯火のような、あたたかな余韻があった。バルザダールはふっと口元を緩めて、しかし言葉は返さず彼女の紡ぐ言葉に耳を傾ける。
「今がしあわせで、みたされていて、それ以上なんて……って、おもっちゃって……」
 小さな声は、波音にさらわれるように響いて消えていく。
 バルザダールはそっと横に立ち、彼女の視線と同じ方向へ目を向けた。
 カンテラに光を授けてなおも輝く青白い月光は、ふたりの間に境を作らず、まるで一枚の布のように重なっているようだ。うつろはそんな光の筋を目で追いながら、ほんの少しだけ間を置いて、静かに目を閉じる。「――あ、そっか」それは、何かを見つけたような声だった。
 そうして、ゆっくりと目を開けて、最後にもう一度だけ月を見上げる。
「……わたしにも、ねがい、あったよ」
 カンテラの灯火が、少しだけ揺れる。
 その光に照らされるうつろの頬は、ほんのりと赤く染まっていた。
「琥珀おじ様に、笑っていてほしい……それ以上は、秘密だよ」
 ふと悪戯っぽく笑ったうつろの、あどけない声は月に届くことなく光に溶けていく。けれど、その言葉には確かに祈りのような力が宿っていた。
 それは月の光よりも無垢で、無邪気で。虚を突かれたバルザダールの琥珀の瞳はかすかに揺れた。けれどすぐに、動揺さえ包むような微笑みが口もとに浮かぶ。
「……琥珀おじ様、どうしたの? なにか、あった?」
 カンテラの灯りに照らされた彼の瞳は先ほどよりも明るく、透き通るような色をしている。灯りが揺れる度にその色は深みを増していくようで、うつろは彼の瞳をよく見ようと覗き込んだ。
 バルザダールはそんな彼女と目を合わせて、それからゆっくりと首を横に振る。
 うつろ君が健やかに、幸せに暮らせますように。そんな風に心の中で囁いた小さな願いは、どうやらふたりともお互いのことを思っていたらしい。
 小さな願いのようで、けれど思うよりも切なる願いを胸に、バルザダールは目を細めて、心からの笑みを浮かべた。
「――大丈夫。君と一緒なら、たくさん笑えるさ」
 その言葉に、うつろはそれは嬉しそうに頷いて、そっと自分のカンテラをバルザダールのカンテラに近づける。
 ふたつの光が重なって揺れ合えば、その色彩もゆっくりと混ざり合い、岩壁に淡く広がっていくようだ。その灯火の中央で、ふたりの影が寄り添う穏やかなひとときを――物言わぬ月の光だけが見ていた。

野分・時雨
八卜・邏傳
緇・カナト

 風はほとんどなかった。満ちては返すおだやかな波の音が、洞窟に反響している。
 足元に広がる岩肌は波によって長い年月をかけてゆっくりと削られ滑らかになり、月光を浴びることで宝石のように輝いているように見えた。光の筋を辿っていけば、もう少しばかり先にあるぽっかりと口を開いた入り江に、まんまるとした月が覗いている。
 波の音だけが聞こえる夜の静寂を破ったのは、ぱしゃりと軽やかに水を蹴った音だ。
「……海の音だ。こんな近くまで来れるとは」
 野分・時雨(初嵐・h00536)は草履を引っ掛けて、水際に足を踏み入れる。潮が少し冷たかったのか、肩を竦めながらもその顔は笑みを湛えていた。
 爪先を使って水を跳ね上げれば月光を弾くように飛沫を上げて、まるで星屑のように宙を舞う。
「わ、ほんとだ海だぁ!」
 八卜・邏傳(ハトでなし・h00142)もすかさず水際に駆け寄ると、足場のしっかりした石を選んで飛び乗って海を覗き込む。底も見えない暗い海に青白い光が差し込めば、水面に自分の若竹色をした瞳が映り込んでいるのが見えて、にっこりと笑む。
 次の瞬間。水面に映った笑みが歪んだのは、時雨が爪先で水を蹴ったからだ。それはわざと狙ったような正確な飛ばし方で、水滴で頬を濡らした邏傳は 「うわっ、やったなー!」と身を傾けて水を跳ね返す。笑い声は波紋のように連なって、洞窟に木霊していくのを聞きながら、緇・カナト(hellhound・h02325)は小さく息を吐いた。
「子どもみたいに海大好きな水妖の時雨君たちは、盛り上がってそうな雰囲気かい?」
 月が浮かんでいる入り江に近付けば、漂ってくる潮の匂いはますますと強くなるようだ。無邪気にも水遊びに夢中のふたりを横目に、カナトは手頃な岩に腰掛ける。
 水面の月という言葉はよく聞くものだけれど、こうして海底の月を見るのは初めての経験だった。波間に漂う光が薄らと伸びて、足元まで照らす様を目で追いかけながらカナトは手にしていたカンテラを揺らす。
「――それじゃあ、カンテラに月光も分けて貰おうか」

 カンテラはそれぞれひとつ、月の光が差す場所へとそっと置く。
 選んだこのカンテラに光を灯すことこそが本日のメインとも言っていいだろう。カンテラの前にしゃがみ込んだ時雨は、口遊むように何度か繰り返す。「……お願いごとねぃ」考えてみれば、思いつくことはたくさんあった。例えば誰かさんがカキ氷にセロリを掛けるなんて言いませんように。例えば誰かさんがノリノリで海遊びするようになりますように。なんて、考えているうちに可笑しくなって、時雨は小さく笑う。
「綺麗なお月ちゃん、光わけてくーださい♡」
 時雨の隣で月を見上げた邏傳にも、月に何を願うかと考えることはいっぱいだ。
 例えばセロリかき氷を試してみたり――「セロリはやめましょうね」「バレちょる……!」もとい、ふたりと一緒に海鮮を食べ尽くしたり。さっきの目玉焼きに似たクラゲとの出会いが、邏傳の食欲に火をつけてしまったらしい。
「……今度、浜辺でBBQでもしようか。目玉焼きに焼き魚に、蟹とか海老まで焼いたりしてね」
 この夏に、色々と体験できますように。なんて口に出すほどの願いでもないだろう。
 元々願いごとは自力で叶える派だというカナトは静かに微笑み、並べられたカンテラを見下ろす。
 会話が弾んでいる間にも、月光をその身に受けたカンテラはより一層と輝きを増していくようだ。そして青白い光がふわりと内側から溶け出して、ひと際強く輝いた後に残ったのは――どこか夏の夜風のように涼やかで、やさしく包み込むような光だった。
「……どんな光になるかなって思ってたけど、綺麗なものだね」
 時雨はカンテラに手を伸ばすと、その小さな灯りを手の中でそっと回した。灯りが揺れることでその頬にも涼やかな光が掛かり、おだやかな横顔を照らしている。
 一方で、邏傳もカンテラを持ちあげると、その中を見るように覗き込んだ。表面に施された魚の透かし彫りから漏れた光は、まるで魚たちが月影の中を泳いでいるように岩壁に映っている。「カンテラちゃん、明るくなったね♡」海のような、夜空のような不思議な光の中で瞬く石をみつめて、邏傳はくるりくると手の中でカンテラを回して見る。
 ほんわかと灯るカンテラも好きだったけれど、魚たちが楽し気に揺れているカンテラはもっと魅力的に見えるようだ。
「この景色と時間がさ、も既に贅沢じゃんね」
「………本当に、とても贅沢な光景になったねぇ」
 ぽつりとこぼれた声は、やわらかに吹いた潮風に乗って流れていく。
 カナトが手にしたカンテラも、無事にその花を開いたようだ。水中の花畑を楽しむように揺らせば、三人の足元にはそれぞれの光が投げかけられ、影が交じり合うように揺れている。それは瞬く間に形を変えていく光と影だからこそ見られる不思議な景色で、目が離せなかった。
 潮風がもう一度吹いた頃、三人はそっと踵を返す。「浜辺BBQだっけ? もう帰りに食って帰ろうよ」「浜辺BBQ! おいしそ楽しそー♡」そう言って肩を並べて歩く彼らの笑い声はさざ波のように夜の静寂に響いて、カンテラの灯りと共に消えていった。

真心・観千流
和田・辰巳
ベニー・タルホ
ユナ・フォーティア
神元・みちる

 洞窟の奥地へと繋がる道を辿った先で、かすかな潮騒が耳に届いた。
 道の両側は黒曜石のような艶を湛えた岩肌に囲まれていて、足元からひんやりとした空気が肌を撫でてすり抜けていく。一歩進めば足音がくわんと岩壁に反響して、また少し潮の香りが強く鳴ったような気がした。
 いままで歩いてきた水族館とはまた異なる景色に神元・みちる(大きい動機 okey-dokey・h00035)は目を瞬かせて、分かれ道の終わりを知る。まだ姿は見えなくとも、遠くから仲間たちの声も聞こえてくるようだ。「となると、ここが奥地ってことで……」岩壁の間を慎重に進んで、やがてぽっかりと開いた入り江のようなところまで出たみちるは辺り一帯を照らしている青白い光に思わず目を瞑る。けれど不思議と、その光は眩しいものではなかった。
「……あれか?」
 月の光というよりも、そのままの月。まんまるとした月が、まるで夜の海に落ちてきたかのように、さざ波に抱かれている。
 手を伸ばせば届きそうな距離に息を呑んだのは、隣を歩いていたユナ・フォーティア(ドラゴン⭐︎ストリーマー・h01946)も同じだったらしい。次第にきらきらと目を輝かせた彼女はすかざすスマートフォンを取り出すと満月に向けてシャッターを切って、画面越しでも煌々と輝くような月の光に歓声を上げた。
「うわあ……満月だ! Full Moon!」
「確か、カンテラにこの月の光を貰えばいーって聞いた気がする!」
 手にしていたカンテラを揺らして、顔を見合わせる。
 何か視線を感じるような不思議な気配を月に感じていたみちるだったが、彼女が深く悩むことはなかった。自分が考えてもきっと意味はないと頭を振って、気を取り直すようにカンテラを掲げた――そんなとき、後方から声がかけられる。「ふたりとも、ここにいたんですね!」それは途中で別れた仲間たちだ。
 先頭を歩く和田・辰巳(ただの人間・h02649)が笑顔で手を振れば、さらにその後ろからベニー・タルホ(冒険記者・h00392)と真心・観千流(真心家長女にして生態型情報移民船壱番艦・h00289)も続くように顔を覗かせる。どうやら無事に合流することができたようだ。
 笑顔で手を振り返したユナは皆でカンテラを一緒に掲げようと促して、物言わぬ月を見上げる。
「――皆の者の願いに彩り、照らされし満月よ。その輝きをカンテラに授け賜え」
 そして月に囁くように、そうと目を閉じた。

 月に願いごとをすれば、どんな願いであれ叶う。
 誰かがそうあれと望んだのか、誰かがそう仕組みを作ったのか。それとも、元々そういう存在なのか。一目見ただけでは分からないけけれど、それはなんだか随分と機械的な存在だと観千流は思ってしまう。
 生態型情報移民船という特異な自分でさえ最低限の『自分』を有していることを思えば、自我もなく願いを叶え続けるだけの存在なんて、いっそ同情してしまうくらいだ。――だからこそ、そんな月に願うこともない。
「……今が一番満たされているので、私には必要のないものですね」
 ユナに続くように目を閉じた観千流の横で、辰巳も小さく頷く。
 大切な仲間たちと、信じる神様が既にいるのだから。心の奥底に、大切な人たちの下へと帰りたいという願いが眠っていたとしても、それは自力で叶えることだと辰巳は理解している。だから今回は、カンテラに光を満たすだけでよいのだ。
 その一方で。
 月の光が差す場所へとカンテラを掲げながら、ベニーはひとり考え込んでいた。
 月に願うならば、自分は何を願うのだろうか。良い人に出会いたい――なんて、プライベートな願いを口にしかけたところで、これが仕事であることを思い出す。
 海中の美しく雄大な光景を見て気が抜けていたのか、それとも。否、それほど油断できるほどに頼れる仲間たちがいるからだと思い直して、ベニーは息を吐く。そして、仲間たちを真似るように月の光が差す場所へとカンテラを掲げた。
「お月様、お月様、その光をカンテラに分けてくださいな」
 ひとり、またひとりとカンテラを掲げれば、月の光を浴びたカンテラは脈打つようにその輝きを増していく。
 やがて視界を埋め尽くすほどの青白い光が収束し、ゆっくりと目を開けばそこにはそれぞれの光を湛えたカンテラが完成していた。
 先ほどまでの青白い月明かりとは異なるその色彩を見るように、辰巳はカンテラを覗き込む。航海灯のような、赤い月にも似た灯の揺らめきは彼にとって思い描いていたとおりになったのだろう。満足そうに頷くと、辰巳は顔を上げて皆へと問いかける。
「みんなは無事に光をもらえた?」
「もちろん! これで魔法のカンテラ、完成だ!」
 みちるが大きく頷いて、刀のイメージから選ばれた鉄製のカンテラを軽く揺らして見せた。刃文を思わせるグラデーションをより印象付ける白銀の光は、みちるの手の中でその刃文と同じように揺らめいている。
 必要だと思うことも、願いたいことも。考えれば考えるほどいっぱいになって迷ってしまう。だからこそ、今だけはカンテラのことだけを願うことにしたみちるも、無事にカンテラに光を灯すことができたようだ。
「カンテラ祭り、盛大に栄えた一瞬を皆の者と一緒に見届けたいね〜★」
 ステンドグラス風のカンテラに似合いのカラフルな光を揺らして、ユナは笑顔でシャッターを切る。カメラロールは既に今日一日の思い出でいっぱいだ。この景色もまた、彼女にとって思い出の一枚になるだろう。
 満足げな様子のユナを横目にベニーもまた、あたたかなオレンジ色に輝く灯火を湛えたカンテラを抱えて小さく笑う。
 どうやらカンテラはそれぞれ、違う色の光を灯したらしい。色こそ異なる光はしかしどれもやさしく、あたたかなものだ。暗い夜の海を照らした光たちがまるで波紋を描くように重なって複雑な色彩を描いているのを見て、ベニーは来た道を振り返った。
 魔法のカンテラが完成したならば、いずれ月も鎮まるはずだ。そうすれば港町でも無事にお祭りが始まることだろう。
「さて、これで依頼は完了ですね! 光ももらったことですし、立ち去りましょうか」
「これでお祭りが上手く行くと良いですね」
 ベニーに続いて観千流も来た道へと向き直り、皆に声を掛ける。こうして5人は、無事に完成した魔法のカンテラを携えて再び地上への道を歩きはじめた。
 からり、からりと。歩く度に揺れるカンテラの灯火は互いに重なり合い、彼らの歩む道をやさしく照らしていた。

エストレィラ・コンフェイト
ネム・レム

「海の音に潮の匂い……そして、目に映るのはまあるいお月様」
 洞窟の奥地へと足を踏み入れた瞬間に、空気が変わったような気がした。
 ネム・レム(うつろぎ・h02004)はまんまるとした月が静かに浮かんでいる入り江に辿り着くと、ふと足元を見遣る。波打つ水面の中で、もうひとつの月が揺れているようだ。青白い光は階となって水面を撫で、水の揺らぎに反射して岩壁までもを煌々と照らしている。水が揺らぐごとに月影までも揺らめくようで、辺りに漂う潮の香りと相まって幻想的な静寂を湛えていた。
「こんな風にお月様を見れるやなんて、不思議なもんやねぇ」
 静寂に溶け込むように呟いた言葉の端々に、どこか夢を見るようなやわらかさが滲む。彼の隣に立つエストレィラ・コンフェイト(きらきら星・h01493)もまた、その瞳に感嘆の色を宿して月を見上げていた。
「うむ、とても――美しいな。斯様な光景が見られるとは思わなんだ」
 エストレィラはそう言うとわずかに目を細めて、心地よい潮騒に耳を傾けながら小さく口遊む。さざ波と重なるようなその音は遠い国の子守唄のようで、どこか懐かしさを覚える不思議な旋律だった。
 ふたりの足元には、それぞれが港町で選んだカンテラが並べられていた。ひとつひとつ形も色も異なるカンテラの光は淡く、まだ月の光を受け取っていないものだ。このカンテラを完成させることこそが今日の本題だと思い出すように、ネムは夜空色のカンテラを両手で包み込むように持ち上げる。
「さてさて、この子に月光もらおか。ただ、お願い事はさっきクラゲさんにしてきたしなぁ……」
 ぽつりと呟く声は水面に落ちた月影のように、小さく、静かに広がってゆく。「ああ、やけど……ええの思いついた」この願いごとは月には願う必要はないと、ネムは一歩引いてエストレィラに身を寄せると、彼女だけに囁くように微笑む。
「また、レィラちゃんにえすこーとしてもらえますように、って」
 ――叶うやろか?
 それは自分でも少し笑ってしまうほど、ささやかな願いごとだ。けれど口にした瞬間にはそれが心からの願いごとであったことを自覚して、ネムは笑みを深める。
 その一方で。エストレィラもまた、目を瞬かせた後にくすりと笑みをこぼした。
「そのお願い事ならば、きっといくらでも叶うぞ」
 そして、ゆっくりとひと呼吸を置いて、エストレィラも自分のカンテラを抱え直す。
 金平糖のような星型のカンテラをエストレィラの小さな指先が撫でて「では、わたくしもネムちゃんに願おうか」とネムを見上げると、彼女もまた、月には聞こえないように彼にだけ囁いた。
「ネムちゃんともっと仲良くなれますように」
 その願いは、まるで夜の海に溶けていくように、月にも届かずに消えていく。
 叶うと良いな、なんて目を細めるように笑みを交わせば、どちらともなくまた手を繋いで月を見上げる。「ほんなら叶うよう、もっとレィラちゃんに遊んでもらわなねぇ」「ふふん、撤回はできぬぞ?」ふたりだけの願いごとは胸の裡に秘めて、そうしてふたりは月の光が差し込む場所へとカンテラを掲げた。

「――カンテラに、月の光を貰い受けよう」
 その瞬間だった。ふたりのカンテラは脈打つように光の鼓動を強め、ひと際強い光がふわりと辺りを照らす。
 光が収まる頃には、どちらのカンテラにも金と銀の光が入り混じるような、星のしずくを封じ込めたような清冽な灯りが宿っていた。
 どこか感慨深げにカンテラを覗き込んだネムは、夜空に浮かんだ星屑を楽しむように暫し眺めた後に、エストレィラに視線を向ける。「……なぁ、レィラちゃん。このままこの子たち連れてお散歩行かへん?」その誘いに、エストレィラは何のためらいもなく笑って頷いた。
「うむ、もちろんだとも! えすこーとはまだ始まったばかりだ」
 今宵はわたくしとともに、どこまでも行こう。
 静かな夜の海は、寄せては返す潮の満ち引きに合わせて月の光を揺らめかせる。ふたりの小さな影もまた、その揺れの中にあった。
 重ねた指先を確かめるように身を寄せ合えば、同じ星屑を宿してより一層と素敵なものになったふたりのカンテラも、やわらかな光を放ちながら揺らめいていた。

ツェイ・ユン・ルシャーガ

「月そのものが迎えてくれるとは……まるで、良うできた御伽話ではないか」
 吐息混じりの言葉が、岩壁に優しく返ってくる。さざ波は静かに息をするように、洞窟の奥へとさざめいていた。
 海月の群れが漂う道は夜の底に差し込んだ夢の名残のようだったが、空から落ちてきたという月もまるで夢の続きを見せるような不思議な心地をもたらしてくれるようだ。光の階を辿るように、ツェイ・ユン・ルシャーガ(御伽騙・h00224)は歩いていく。
 その視線の先では、ぽっかりと口を開いた入り江にまんまるとした月が浮いていた。ぼんやりとした青白い光は手を伸ばせば届きそうなほど近く、煌々と輝いているのにも関わらずまぶしいとは思わない。ツェイは入り江の縁まで歩くと、ふと立ち止まった。
 かつて星を仰いだ人々が、その光に手を伸ばしたように。ツェイもまた目の前に手のひらを掲げて、そっと月光を掬い取るように仰ぐ。
 届かないと知りながらもなお願いを掛けてきた意味とはきっと、考えるより簡単なものなのかもしれない。
「……どちらへも、手を伸ばし続けるものが故だろうか」
 ずっと遠くまで歩めるように、なんて。さざ波に攫われてしまうほど小さな囁きをこぼして、ツェイはふと目を伏せる。
 もし、そうだとすれば。「……ふふ。なれば、こんなかたちで届いてはならぬだろうなあ」そう語る声は、どこか少年のような茶目っ気すら含みながらも、確かな自制を孕んでいた。ツェイは人差し指を唇に添えると、知らず零れてしまいそうな声を奥へと封じる。けして月には聞かれぬように。けして月になど届かぬように。
 そして閉じた口の代わりに、携えていた灯籠――鬼灯のかたちをしたカンテラを月の光が差す場所へと掲げる。ひと呼吸おいて、ゆらりと腕を伸ばすその仕草には祈りにも似ていた。

 しばらくもすると、鬼灯の中の小さな芯が息を吹き返すかのようにふわりと灯った。
 波紋のように広がる光はただただやわらかくて、どこまでも優しいものだ。月の光そのものが宿ったように、ほんのりと暖かな灯りがその横顔をそっと照らす。灯りを静かに見つめる瞳は、海に映る水光のように煌めいていた。
「――嗚呼、綺麗だの」
 ようやく灯った写し身は、柔く淡く、しずかに等しく辺りを照らしている。
 その光を追いかけるように、ツェイはゆっくりと視線を巡らせる。灯籠の縁に指を掛けながら、満ちる感情を吐息に乗せて言葉に変えていく。
「つきあかりの子は屹度、死せるものにも、生きるものにも……永き夜行のしるべと成ってくれよう」
 灯りに囁くようなその声に月は答えることなく、物言わずにぼんやりと浮いている。
 けれど。灯籠の中の光は確かに、その言葉を聞き届けたかのように脈動していた。

セレネ・デルフィ
エメ・ムジカ

「月が落ちてきた……本当に、その通りですね」
 ぽっかりと口を開けたような入り江に、その月はあった。青白い光を湛えたまんまるとした月は、夜の海を照らすようにぼんやりと浮かんでいる。
 長い年月をかけて波によって削られた岩壁はすべらかなもので、月明かりに照らされて宝石のように煌めくようだ。
 天井から伝い落ちた水滴が岩肌を撫で、海面に波紋を描く様を目で追いかけながら、セレネ・デルフィ(泡沫の空・h03434)はぽつりと呟く。その溜息にも似た声は夜の静寂に溶け込むように反響して、冷たい空気を震わせた。
 月灯りをじっと見つめる彼女の隣で、エメ・ムジカ(L-Record.・h00583)も月を仰いでいた。「願いを叶える、優しい月明かりに見えるね」そう言ってやわらかに滲むような月の光へと手を伸ばしてみる。光を掠めた指先が熱を感じることはないけれど、手を伸ばせば届きそうなほど近い距離で見る月という存在は、どこか不思議な心地をもたらしていた。
「誰かの願いが叶ったら……きっと、嬉しく思ってくれるのかな?」
 月は黙したまま、何も語ることはない。何も言わず、何も求めず、ただ視ているだけ。それはあまりにも無機質な存在のように思えたけれど、優しい月明かりに照らされたエメは、そうであれば良いと口もとをゆるめて静かに微笑んだ。
「そうですね。今は静かにカンテラを灯しましょうか、ムジカさん」
「うん! たのしみにしてた灯りだねっ」
 言葉に願えば、その通り願い事を叶えてくれる。それは確かに魅力的かもしれない。
 それでも、それを選ぶことはしない。カンテラを抱えたセレネに促されてエメもカンテラを両手で持ち直し、そしてふたりは月の光が差す場所へとカンテラを掲げた。
「――どうか、光を」
 願わくば、皆が幸せで在りますように。
 この光が、どうか多くの旅路を守ってくれますように。
 そのささやきは、願いというよりも祈りに似ていた。多くを口にすることはなく、胸の中で唱えるようにセレネとエメは目を瞑る。
 次に目を開いたその瞬間には――カンテラの中の灯りが揺れて、青白い月の光を受けるように強く光り輝くと、辺り一帯を照らすように光の輪を広げていく。その灯りが月明かりと幾重にも重なるように織り成して、そして鎮まる頃。ふたりのカンテラは光の色を変えていた。
「……本当に、星が息づいているみたい」
 月の光とはこんなにも美しいものなのかと、灯る渾天儀を瞳に映したセレネが感嘆の息をこぼす。
 光によって照らされた瞳はもうひとつの宙のようにきらきらと輝いていて、エメは覗き込むように見遣る。「わぁっ! セレネちゃんのカンテラすっごくきれいっ」夜空にも似た繊細な輝きがこもったカンテラと相まって、その光に照らされた彼女はまるで神秘の天使様のように見える。エメはその宙を見つめて、心からの笑みを浮かべた。
「にふふ♪ ぼくの灯りもこんなにすてき!」
「ムジカさんのは……わ、とても可愛い……!」
 エメが差し出してみせたカンテラもまた、やわらかな光を灯していた。
 丸いキャンディーポットのような形をしたカンテラは優しい光のヴェールを纏うように輝いて見えて、まるで童話の世界のカンテラのようだとセレネは微笑む。太陽の下で見るのとはまた違う美しさが、そこにはあった。
「月と星と兎と……ふふ、とても優しい魔法、ですね……!」
「ね! 2人で、とってもとってもやさしい魔法をもらったね!」
 くるりとカンテラを回せば、やわらかな光がふたりの間にゆらゆらと舞う。
 足元に星屑が瞬くような景色を楽しんだふたりはそうして、暫し光と影が作り出す世界を楽しむように眺めていた。

 しばらくして。
 カンテラの光を眺めていたセレネが、そっと口を開いた。
「今度、これを持って……冒険しに行きませんか?」
 きっと素敵な旅路になると思うのです、と。そう言ってエメを見つめる瞳は月明かりのように静かで、けれどどこか心の奥底から湧きあがる熱を秘めていた。その熱を感じ取ったのか、エメは一瞬だけ目を瞬かせ、それからふわりと微笑む。
「――うん!」
 カンテラはいまも優しく、静かにふたりを照らしている。
 この灯りと一緒に冒険すれば、きっと願いを叶える道標になってくれるのかもしれない――そんなささやかな期待に胸を躍らせるふたりを、物言わぬ月だけが見ていた。

沙賀都・ラピ

 洞窟の奥は、湿った静けさに満ちていた。
 灯りも届かない暗がりを慎重に進んでいくと、ひんやりとした空気が足元を撫でていく。岩肌を覆うように薄らと水が流れているのか、歩く度に小さな波紋を描くようだ。沙賀都・ラピ(湾の尾・h06749)が濡れた岩壁に手を添えながら一歩を踏み出せば、奥地へ近付くごとに冷えた空気の中にわずかに塩の香りが混ざり、ここが海に程近い場所だということを知らせていた。
「……洞窟を進んだ先で、空に座す月を見ることになるとはね」
 しばらくして、ぽっかりと口を開いた入り江に辿り着いたラピは、月のふもとで足を止める。
 すべてを包み込むような青白い光の正体は、ぼんやりと浮かんでいるこの月だ。煌々と輝いているにも関わらず不思議とまぶしさも感じない月を仰いで、ラピは誰にともなく呟いた。
「妙なこともあるものだね。まぁ、ダンジョンなんて妙なものばかりだけれど」
 潮騒が反響する中で、冷たい空気が頬を撫でていく。ラピは水面に反射した月が波間に歪む様を眺めながら、手にしていたカンテラを軽く揺らした。
 ここへ来たのは、カンテラに月の光を宿すためだ。銀青色の細工が施された薄い貝殻のようなカンテラは淡い光を湛えながら、その時を静かに待っている。「お前が何をしたいのか……そもそも、意思があるのかも分からないけれど」もう一度、物言わぬ月を見上げてラピはそうと目を細める。
 返事など元より期待していない。静謐なその光が何かを語ることはなく、ただそこに在り続けるだけの存在だ。
 それがどうして、空から落ちてきたのかも知る由はない。
 言えることは、ただひとつ――、
「僕にはお前に願うようなものは何もないよ」
 月の光が差す場所へとカンテラを掲げて、光の階に囁く。それは願いでも、祈りでもない。ただ月が此処に落とした光を、勝手に拾って帰るだけだ。
 ラピは少し色褪せたようにも見える月を見据えて、おだやかな声で言葉を続ける。
「月であるなら、お前はただ其処に在れば良い」
 何も求めず、何も語らず。ただぼんやりと浮かんでいる月のように。
 其処から海を揺らし、満ちて引くのを見ていればそれで良いのだ。なぜならば。
「――『願いを叶える』など、お前の役目ではないだろう」
 その言葉は、冷たい響きの中にもどこか慈しみのようなものが滲んでいた。

「さて、|カンテラ《貝》は……」
 そっとカンテラを覗き込むと、中に仕込まれていた真珠のような鉱石がふと輝きを放っていることに気付いた。それは月の光を模したような白藍色に輝いていて、まるで月がこのカンテラに自らの欠片を注ぎ込んだかのようだった。
 ラピは目を細めて、硝子越しに揺れるその光をじっと見つめる。「嗚呼、うん。ちゃんと灯っているね。よろしい」やさしく寄り添うような灯りは、魔法のカンテラが完成した証と言えるだろう。灯りを確認したラピは小さく頷くと、胸を満たすような満足感に頬をほころばせる。
「これなら祭りも、死者の弔いも問題ないだろう」
 そっとカンテラを掲げ、月に背中を向ける。
 そしてラピが歩き出せば、手元で揺れるカンテラの灯りが周囲の闇をやわらかに照らして道を描いていく。彼女が歩く先には水音がひとつ、道をなぞるように連なっていた。まるで光と水とが手を取り合って、彼女を見送るかのように。
 ――もう誰もいなくなった静かな空間に、月はただひとつ。ただ黙して、夜の底を照らし続けていた。

雨夜・氷月
李・劉

 さざ波が細く長く呼吸するように押しては引いて、空気には潮の香りが混じる。風の通り道を辿るように、ふたりは波音に耳を傾けながらゆっくりと洞窟を進んでいた。
 洞窟の奥地へと続く道は、それほど長いものではなかった。ひんやりとした空気が足元を撫でて、一歩進むごとに潮の香りが濃くなることからも海に程近い場所であることが察せられる。
 湿気に濡れた岩壁に手を添えて先を歩いていた李・劉(ヴァニタスの匣・h00998)は、ぽっかりと開けた入り江に出たところで足を止めた。
「……まるで箱舟のようだ」
 彼の視線の先には、まんまるとした月が浮かんでいた。空から落ちてきたという月はまるで水面に落ちかけた白藍色の舟のようにぽつねんと浮かぶばかりで、物言わずに夜の海を揺蕩うさざ波に抱かれている。
 暫し沈黙したまま、劉はその青白い光の階をなぞるように視線を下げる。
 ぼんやりと滲むような光が波間に揺らげば、そこにはもうひとつの水月が映っていた。潮の香りに包まれて海に繋がっているその流れを見ていると、願いを託された聖書の一幕を思い出すようだ。
 傍らに立つ雨夜・氷月(壊月・h00493)もまた、月を静かに見つめていた。
 手を伸ばせば届きそうなほど近くに、月はただぼんやりと浮かんでいる。まさしく月が其処にあるというのに、月からは何も感じ取れない。どれほど見つめても意思は見えず、公平で無私といえるその存在を前に氷月はわずかに目を細める。
「……幻想を詰め込んだような希望を、佳月にも秘められているのだろうか」
 物言わぬ月に目を伏せて、劉は小さく呟いた。誰に聞かせるでもなく、独白にも似た声音はひどく静かなものだ。その輝きが如何なる理由で人の願いを叶えるのか――「案外、秘めているモノも無いかもしれないよ?」月光を掌に透かすように掲げた氷月が、かすかに口角をあげる。
 願いを叶えることそのものが存在意義とでもいうような。人間の欲を一身に受けて、何かをしようとしているような。様々な可能性は捨てきれず、また知る由もない。
 氷月に淡く笑みを返した劉は、手にしていたカンテラに視線を移して軽く揺らす。月にどんな思惑があったとしても、今日やるべきことは変わらないだろう。
「とはいえ、一つ願いをカンテラにくべるのも楽しかろう。気休めでも願ってみようか?」
「んっふふ、願い事? 良いね、」
 ――願おうと思うモノが有るというのは。
 ほんのわずか、言葉に込められたやわらかさ。笑顔を深めて、氷月もカンテラへと目を落とす。カンテラの灯りは淡くも脈を打ち、まるで月の光を受けるその瞬間を今かと待ちわびているかのようだ。
 月に逢えば何か思うものかと考えていたのに、その心には何も浮かばない。氷月には願いたい事も、祈りたい事もない。そんな自分に気付いて、かすかに抱いたのは閉塞感だ。まるで|鳥籠《カンテラ》に囚われた月の如く、どこにも行けない。
 それでも光はただやわらかく、すべてを照らすのだろう。氷月はそれ以上は何も言わず、カンテラを掲げる。
 そして、氷月に倣うように劉も月の光が差す場所へカンテラを掲げる。
 目を瞑って心の中で願いを唱えるとするなら――願う思いが、魔法と成って此処に灯を賜うなら――「……己に願いはないが、」それならばせめて、願い事が好きな|己が楔《Anker》の祈りが叶う事でも願おう。

 カンテラの灯りは、最初は心許ないほどかすかな光だった。
 けれど、それは次第に輪郭を取り戻すように淡く脈打ち、やがて月明かりにも引けを取らない静かな輝きへと変わっていく。手の中でカンテラの光がまるで息をするように膨らみ、光の輪を広げていく様を眺めながら劉は感慨深げに呟いた。
「……おや、どうやら互いに無事光を賜る事ができたのだネ。んふふ、美しい輝きを貰ったのではないか?」
「――そうだね、とても綺麗!」
 無事に月の光を灯したカンテラを一瞥して、氷月もにっこりと笑顔を浮かべる。
 そうして掲げていた手を下した時、ふいに夜の海から風が通り抜けた。カンテラの灯りがゆらゆらと揺めき、ふたりの前髪をかすかに撫でて過ぎていく。氷月は目を細めると、そのままそっと劉へと目を向けた。
「……願いは込められた?」
 答えはない。けれど、それこそが答えだというようにカンテラを指し示す。
 アンティーク調のカンテラの内側には、月明かりに染まった彼岸花がそれは美しく咲き誇っていた。氷月は一瞬だけ目を伏せ、それからゆっくりと頷く。
「その灯りが、アンタを導き、願いを叶える光となるといいね」
 ふたりは月明かりを灯したカンテラを手にしたまま、暫しの間、その光の揺らぎを見つめていた。そうしてもう一度だけゆっくりと夜風が吹いたとき、それを合図として彼らは静かに踵を返すのだった。

ララ・キルシュネーテ
詠櫻・イサ

「イサ、みなさい。うつくしい光があるわ」
 ララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)は静かな声で囁くようにして、夜の海にぼんやりと浮かぶ月を指差した。
 ぽっかりと口を開いたような入り江にはさざ波の音が反響するばかりで、物言わぬ月だけがただそこに在る。手を伸ばせば届きそうなほど近い距離で煌々と輝いている月は不思議と眩しいと感じることもなく、その光は冷たくも熱くもない。
 ただおやだやかに、やさしく。きらきらと降り注ぐような月の光を受けたララは、やわらかなその光が段々と美味しそうに見えて、ふと小さく笑って背中の翼を羽ばたかせる。月の光を浴びて煌めく羽根は、星屑を編んだような淡い虹色を帯びて見えた。
「敵意は感じない、大丈夫よイサ。優しい光だわ」
「……降り注ぐ光は、花吹雪のようだね」
 光の階をなぞるように月を仰いで、詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)は目を細める。
 例えるならそれは、彼女の放つ優しい迦楼羅焔のそれに似ていた。けれど、その光がどれほど優しくてもイサは月に願おうとは思わない。「願い事、ね」小さく呟くほどの言葉を口で転がして、手の中にあるカンテラに視線を落とす。アネモネの装飾を指先で撫ぜれば、淡い灯りが脈打ったような気がした。
「願いなんてのは、『いきもの』が抱くものだ」
「あら、イサったら……またそんなことを言う。願うことも慾を抱くことも、何も悪いことはないというのに」
「……願うことを憶えた『兵器』人形 なんて、使い物にならないだけだ」
 困ったように眉を下げたララにも頭を振るのは、イサ自身の中ではそれが確固たる事実として在るからだろうか。月明かりの透き通る光の中でララの髪が銀糸のように揺れるのをぼんやりと眺めて、イサはそのまま溜息のように言葉を落とす。
「――ララ、まずは光を貰おう」
 このままでは、ララが山盛りのうな重に埋もれたいとか願いかねない、なんて。
 気を取り直すようにイサが微笑めば、「むう、覚えているわ」とララは頬を膨らませて口を尖らせる。
 うな重のベッドに埋もれるという願いも、確かに心惹かれる部分はある。彼はララの心理をよく分かっているようで、その願い自体はララも否定しない。けれど。
「確かにそれも魅力的だけれど、ララの願いとは違うわ」
 冗談めいた一言のなかに、かすかな真意が潜む。ララはそっと目を伏せて、カンテラを月の光が差す場所へとゆっくりと掲げた。
 そして、それを見たイサが倣うようにカンテラを月の光へと差し出せば、月が湛えた青白い光がより一層と強く輝きはじめる。月光は音もなく一心に降り注ぐようにカンテラの元へと集まっていき、光の輪郭が揺らめく。
 ふわり、はらりと。
 光の蓮が花開くように、ほどけるように、月の光がカンテラに宿る瞬間を見た。ララの目の前で、まばゆい光の輪郭はその花弁のひとつひとつを染めるように輝いていて、ララをやわらかに照らしている。
「思い出すわ……パパが水面を歩むと光の蓮が咲くのよ」
 ほら、綺麗。そう言った彼女の花眸はカンテラに向いているけれど、その眼差しは遥か遠くを見ているようだ。イサはその横顔を一瞥して、何も言わずに眉尻を下げる。
 この世界におちてきた、ちいさな迦楼羅の雛女。
 イサにとって、願いとは彼女のかたちをしていたのかもしれない。
 月光を宿したアネモネのカンテラを自分の傍へと引き寄せて、イサは目を伏せる。「……俺の、|たからもの《存在理由》」願わくば、君の隣でずっとこのまま生きていたい――なんて。胸の奥に芽生えた願いに気付いてしまったのは幸福か、それとも。
「おかしいな、それじゃ役割を果たせないのに」
 殻を破ってあふれ出してしまいそうな願いを呑み込んで、イサは小さく自嘲した。

「――イサ?」
 ララの問いかけに、イサは答えない。ただカンテラを見つめたまま、沈黙するばかりだ。だからララも何も言わず、そっと微笑むように彼に寄り添った。
 お前の役割は、ずっとララの隣にいることなのに。
 そうと告げれば、彼の悩み事は晴れるのだろうか。ララは一瞬そんなことを考えたけれど、悩んでいる姿も愛らしいものだから――それは、教えてあげないことにした。
 静けさの中で、月光に照らされたふたりの影は重なるように揺れている。蓮の灯りも、アネモネの灯りも、幾重にも重なる光のヴェールがふたりを包み込むように揺蕩うばかり。やがて花開いたひとひらから零れ落ちた光の粒子は、風に乗って舞い上がる。そうして夜の海へ、寄せては返すさざ波のまにまに滲むように溶けて消えていった。

桔梗・守

 潮騒の音と共に、ひんやりとした風が吹き込んでくる。
 漂う潮の香りは、ここが海に程近い場所であることを知らせていた。桔梗・守(付喪神・h05300)が風の通り道に乗ってふわりと浮かべば、その流れは目に見えない手のひらがそっと背を押して洞窟の奥へと誘うようだ。守は風に誘われるまま、まるで海を泳ぐ魚たちのように空中をすいすいと進んでいく。彼の小さな体は、岩壁から零れ落ちる光の粒を搔きわける度にきらきらと輝くような煌めきに包まれていた。
 ひとつ進む度、ますますと冷たくなる澄んだ空気が頬を撫でて、耳元で風がさざめく。岩壁にぶつからないように進むうちに、その壁はより一層と水気を帯びていた。
 遠くで小石が水面に落ちるような音が響いたとき、天井から垂れる水滴が波紋を描くのをじっと見つめて、守はそこで進むのを止めた。
「ここが奥地?」
 洞窟の奥地は、ぽかりと口を開けた入り江のような形をしていた。
 水面は静かで、夜の海をそのまま閉じ込めたかのような青黒さを湛えている。海面と陸地の境界を縁取るように守はくるりと一回転し、視線をゆっくりと中央へ向けた。
「――すんごいきらきらしてるう!」
 そこにはまんまるとした月が、青白い光を湛えてぼんやりと浮いていた。
 思わず弾んだ声が、洞窟の奥で響いてやわらかく耳に返ってくる。「満月? これがきらきらの正体なんだねぇ」そう言いながら青白い光の階を辿るように海面を覗き込めば、きれいに映り込む水月を見つけて守はきゃらきゃらと笑った。
 まるでそこに大きな鏡があるようだ。水の揺らめきが鏡を曇らせる度に、水月はまるで息をしているかのように形を変えていく。
「む、むむむー」
 守は短い手足をぱたぱたと宙で動かして、月明かりの差す中心へと向かっていく。
 そのとき、手にしたカンテラがゆるやかに揺れて、からんと軽い音を立てた。守がカンテラの存在を思い出すように手元を見下ろせば、まだ淡いカンテラの灯りが海面を照らしている。それは弱く、月明かりの中ではほとんど埋もれてしまいそうな光だ。
「……お願い事は、光を貰う事だっけ?」
 月を見上げながら、守はふと首を傾げる。
 魔法のカンテラを完成させるには、月の光を貰い受ける必要があるらしい。小さな体でカンテラを揺らしてお願いしようとした守だったけれど、ふと胸の奥底で浮かんだ願いごとは別のものだった。それでもすぐに、思い直すように頭を振る。それはきっと、自分でも達成できることだ。
 それならば、自分は月に何を願うのだろう。青白い光を潜るように宙に浮いたまま、守は考える。もし、月に願うなら――皆で沢山色んなものが見れますように。きっと、そう願うだろう。
 脳裏に思い浮かぶのは、さまざまな景色だった。例えば、春の匂いを運ぶ草原の風。例えば、波の音が絶え間なく続く白い浜辺や、遠くの山から聞こえる鳥の声。世界中をぐるっと見て回って、この満月のようにきれいで澄んだものをたくさん見たい。
 そんな素直な気持ちを胸に抱きしめて、守は満月の光の下を泳ぐ。波間に揺れるカンテラの灯りに合わせて楽しそうに、ゆらり、ゆらりと。
 ――そして、はっと思い出す。
 月から光を貰うことこそ、本当の目的であることを。
「光をくーだーさい!!」
 守は慌ててカンテラを持ち直すと、カンテラを掲げるようにその身ごと上昇する。その元気な声が岩壁にぶつかって反響すれば、幾重にも重なって月に届きそうだ。
 いや、実際に届いたのだろう。守がカンテラを月の目前まで運んだ瞬間、月の光はひと際強く輝いて、淡い光の粒子が舞い上がる。そうして光の粒子がゆっくりとカンテラの中へ吸い込まれていけば、やがて灯芯からぱちりと音が響いて、あたたかくやわらかな輝きが灯った。それは先ほどまでの淡い光ではなく、夜道をも照らせそうなしっかりとした輪郭を持った優しい光だった。
 守はカンテラを覗き込んで月の光を宿したことを確認すると、ぱっと顔を輝かせて、そして月に向かって深くお辞儀をする。
「ありがとうごさいます!!」
 どれだけ体が小さくとも、その声はどこまでも明朗で。そこには月に対する確かな誠意があった。
 守は無事に完成した魔法のカンテラを両腕で大事そうに抱え直して、その温もりを胸に刻むようにして振り返る。あれほど青白く美しい光を湛えていた月が、先ほどよりも少しだけ色褪せたように見えた。きっともうしばらくもすれば、月はその光を失うのだろう。それでも。
 ――帰るまでが、お仕事だよう。
 完成したカンテラを抱えて、ゆっくりと来た道を帰っていく。その足取りは宙に浮くほど軽やかで、それでいてどこまでも慎重なものだった。

鳴瀬・月

「綺麗……」
 その入り江に足を踏み入れた瞬間、鳴瀬・月(君影ノヴィルニオ・h07779)は暫し呼吸を忘れた。思わずぽつりとこぼれた声は、湿った岩壁にやわらかく跳ね返り、ほどけるように消えていく。
 彼女の視線を受け止めるのは、青白い光を湛えた大きくまんまるとした満月だった。「わたしもあのくらい輝いてみたいな」そんな風に思わせるほどの輝かしい光は、けれど不思議と眩しさを感じさせないものだ。手を伸ばせば届きそうなほどの距離でぼんやりと浮かぶ満月を仰いで、月は目を輝かせる。
 まるで、魔法の世界にいるみたい――。そう考えたのは、黒く塗れた岩肌が月光を反射してきらきらと輝くからだろうか。黒曜石のような煌めきを見つめるうち、その煌めきにも似た色を思い出して月は『せんせい』に身を寄せてひそりと囁く。
「まるで、せんせいの瞳みたい。ね?」
 夜の静寂に溶けていくような小さな声。思わず声を潜めてしまったのは、この神秘的な光景の前では声を張り上げることすら躊躇われたからかもしれない。ひとつ息を吸えば胸の奥まで澄み渡っていくような冷ややかな空気が満ちていて、月はごくりと息を呑む。けれど、ここで二の足を踏むような月ではなかった。
 意を決して入り江の縁まで進むと、月は両手で包み込むように鈴蘭の形をしたカンテラを持ち上げる。
「お月様、綺麗な輝き分けてくーだーさい!」
 今度は、声を潜めることもない。
 その声は洞窟の高みにまで響いて、満月へと吸い込まれていくようだった。

 お月様に願いを。言葉にすれば、とても簡単なことだ。
 けれど、お願い事というものは本当に叶うわけではなく、そうであればいいという希望――あるいは、こうしたいという目標――であることだと、月はずっと思っていた。
 けれど。今日だけは。この夜だけは。
 本当に叶ってほしいと願いを込めるように、空を仰ぐ。
「あのね、お月様――」
 パパとママと、お兄ちゃんを幸せにしてください。そう言いかけたところで、小さく首を傾げた。ひとつ、ふたつ、みっつと指折り数えて、これではお願いが3つになってしまうことに気付いたからだ。
 さすがに欲張りだろうかと考え込むように口を噤んだ月の背中を、せんせいが鼻でやさしく押した。「そうだね、叶うお願いなんて滅多にないんだから……」欲張ってもいいのだと、せんせいがそう言ってくれているような気がして月は大きく頷く。そして。
 ――わたしの大好きな人たちが幸せでありますように!
 心の中で、つよく、つよく、満月に向かって願った。
 例え今はもうお喋りができなくても、それでもいい。幽霊になってから新しくできたお友達にも、みんなみんな笑って過ごしてほしいから――そして、それが簡単そうで本当はとても難しいことを、月は知っているから。
 どうかどうか叶いますように。目を瞑って願った瞬間に、月に応えるように青白い光がひと際強く輝きはじめる。その光はやがて階を辿るようにカンテラへと降り注ぎ、そして光が収束したときには、カンテラは彼女の手の中で朝露に濡れた鈴蘭のようなやさしい光を灯していた。
「あっ、カンテラ光ってる!」
 喜びから声をあげた月が、せんせいを振り返る。青白い輝きを宿した灯りは、彼女の横顔を鮮やかに照らすようだ。
「……せんせいは、どんなお願いしたのかな?」
 新しい輝きを灯したカンテラを覗き込むせんせいに、月は問いかける。けれど、ぷいっと顔を背けたせんせいが教えてくれることはなかった。「えー、ナイショなの?」と唇を尖らせ、けれどすぐにやわらかな笑みに変える。
 ――みんなの願い事、叶いますように。
 例えそれがどんな願いであっても、叶えばいいと思うことは――それも、お願いのひとつになってしまうだろうか。
 けれど、今日ばかりは欲張りになっても良いと心に決めたのだ。きっとお月様だって許してくれるはずだと最後にもう一度、少しだけ色褪せたようにも見える満月を仰いで、そっと微笑むのだった。

ステラ・ラパン
小沼瀬・回

 夜の海には寄せて返す波音が絶え間なく響き、潮の香りが湿った風に乗って洞窟の奥にまで漂っている。その風を辿るようにして終点へと辿り着いた彼らの前には、青白い光を湛えた満月がぼんやりと浮かんでいた。
 月は静けさの中で澄みわたる入り江の中央に物言わず座したまま、波間に光を反射して銀糸をほぐすように揺らめかせる。辺り一帯を照らすほどの強い光を有しながらも、少しずつぼやけていく輪郭は不安定に揺らいで、現実との境目さえ曖昧にするようだ。
 小沼瀬・回(忘る笠・h00489)はその光景を一望しながら、胸の奥でふっと鼓動が跳ねるのを感じていた。
「……願いの打ち寄せる月の浜か」
 口に出した言葉は夜の静寂を裂くように零れ落ちて、水面にささやかな波紋を描く。
 何度か目を瞬かせても、月は確かにそこに在った。回はわずかに口角を上げて、月の階をなぞるように視線をめぐらせる。
「此度は正に夢想が如しの光景だ」
「あゝ本当に。夢の中だと言われても信じてしまいそうだ」
 肩を並べて月を仰いだステラ・ラパン(星の兎・h03246)もまた、感嘆の息を吐くようにささやき、小さく頷く。
 けれど、例えどれほど夢のような光景だったとしても、それは現実だ。ここまで歩いてきた道と、手に持っているカンテラこそがその証といえるだろう。回は袖を振って、隣にいる相手へと確かに示す。「……ふふ、ちゃんと居るね」指先を掠めた裾を手繰り、その存在を確かめたステラが微笑んだ。夢や幻のように露と消えるほど薄情なものは、ここにはいないらしい。それは喩え、夢であったとしても。
「……然して、何とも言い難い心地だな」
 物として、あるいは神として。
 彼是と願われてる立場であったものが、それを叶えるものの前に立っている。
 そうと考えるとなんとも可笑しな話ではないかと、くっと喉を鳴らした回にステラも笑みを浮かべた。
「願いを『願われる』のなら、君のように溢れる方が相手も喜ぶだろうに……まだまだ僕は足りないね」
 月光に寄り添うように入り江の縁まで近寄れば、青白い月光が毛先にほんのりと滲む。「もっと君に手本を見せてもらわなくちゃ――ね、とうさん」くつりと笑ったステラが手元のカンテラを揺らせば、まるで笑みを返すように灯りも明滅していた。
 そのカンテラの灯りはまだ淡く、月明かりの中ではほとんど埋もれてしまうようなものだ。カンテラを完成させて、月明かりにも重なる確かな光を灯すことこそ、今宵の本懐と言える。だからこそ。
「――任せたまえ、それに関しては先達だ」
 我儘にしろ、贅沢にしろ。自由とは思うより厄介なものだと笑って、回は静かな眼差しで月を仰いだ。
 然れど、月を迎えることは初心に他ならない。思考をめぐらせるように軽くカンテラを揺らしながら、目を瞑る。
 歓んでくれることは無論、知っているだろう。他でもない月光が教えてくれたことだ。けれど――「……空と海を知る月にとって、硝子が窮屈でないと佳いが、」なんて、灯籠越しに月光を収めて見れば如何にも窮屈そうで、回は思わず笑ってしまった。それを強いる願いの、なんと傲慢なことだろうか。
「あははっ! そうだと思うなら精々連れて歩くんだ」
 視線を上げれば燈會越しに笑う回と目が合って、ステラは大きく笑った。
 共に歩んで見て過ごし、その先を照らすこと叶うなら。硝子の中の月光も、其処が無二の居場所となるだろう。それはきっと――、
「窮屈を超え、しあわせになる。君の傲慢がそれになる」
 波間を越えて届く月光が、ふたりの足元に光の道を描く。
 音もなく舞い降りる光の粒子を細い指先で遊ばせながら、ステラはおだやかな声で回の背を押した。
「――他でもない|月光《ぼく》が保証する」
 だからどうか、その手を放さないであげてほしい。そう言って、紅赤の双眸がまっすぐと回を見据える。「これは月にじゃなくて僕から君への願いだ、回」なんて、真剣な声音の後に破顔したのは他ならないステラだった。
「ふふ、君には随分な我儘になってきた」
「は、我儘で言われたら飲み込まざる得ないな」
 真か問えど、月光に保障されてはそうせざるを得ないだろう。何よりそうなればと強く願う心があったから、回は軽く肩を竦めて、そうして短く息を吐いた。
 夜空は深く、群青の幕に針で刺したような星々が瞬いている。その中でもひときわ明るい月は何も語らず、冷たくもやさしい光を降らせるばかり。――その光を、すべからく貰い受けるときが来た。

「……ならば、何処へでも連れ歩き、何処までも離さずにいるとも」
 月の光が差し込む場所へ、ゆっくりとカンテラを掲げる。
 応えて欲しいと月を見据えた回と共に、ステラも静かにカンテラを向けたときには、既に月への願いは決まっていたのだろう。潮風がステラの前髪を揺らせば、灯りが反射するようにその瞳にきらりと映る。
 ――この手の『僕』を『僕』たらしめる灯りを分けて。
 とうさんに、見せたいんだよ。言の葉は音を得ることなく、口の中で溶けていく。――彼の言葉で生まれた|カンテラ《僕》の灯る様を、他でもない彼に見せたい――それは月にも海にも向けられたものではない。唯一無二の相手へ捧げる小さな願いだった。
 やがて降り注ぐ光の粒子が輪となって広がり、カンテラへと向かって光の階が伸びる。カンテラを包み込むような輪郭が滲んで消えるまでのひととき、ふたりは口を閉じていた。ただ静かに、月に願っていた。
 雨降る傘下に、月光が来てくれるように。逍遥を愛してくれるように。
「――あゝ、ありがとう」
 まばゆい光が収束した後、カンテラには燦然と輝くような月光が宿っていた。
 そして、力尽きたように光を失った月は、カンテラに光を残して夜の海へと音もなく沈んでいく。とぷり、とぷり。青黒いさざ波に抱かれた月がその波間に溶けていくまでを、ふたりはカンテラの灯りと共に見送るのだった。


●epilogue
 月が沈んで、白夜が眠りについて、やがて新たな夜が訪れる。
 それは夏至の短い夜のことだったが、もう憂うことはひとつもない。
 冒険者たちの尽力によって今年も魔法のカンテラを灯すことができた港町では、再び朝陽が昇るそのときまで盛大な祭りが開催されることとなった。そして。
 きらり、きらりと。
 ――月灯りのカンテラはただ静かに輝き、彼らの一夜を照らしていた。

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