タグ付けされない声
図書館の空気は、まるで呼吸を拒むように冷たく張り詰めていた。
窓から差し込む昼下がりの光は、静寂を際立たせる白い刃のようで、机に広げられた参考書の文字すら霞んで見える。
白鷺沙耶は、シャープペンを握りしめたまま、ページをめくるふりをしていた。ペン先はわずかに震え、掌は冷たい汗に濡れている。
視界の端に映る誰かの小さな笑い声に、心臓が跳ねる。近くの席で囁き合う声、階段を上る靴音、カウンターで本を借りる人の背中。すべてが自分を笑い、疑い、貶めるための陰謀に思えてならなかった。
彼女のスマートフォンには、未読の通知が溢れている。
「見損なったよ」
「結局、そういう子だったんだね」
「消えろ」
赤い吹き出しに並ぶ毒の言葉たちは、頭に焼き付いて消えない。
演劇部で「ヒロイン」として輝くはずだった未来は、捏造された証拠に奪われた。
告白してきた男子、Aの狡猾な仕掛け。
信じてくれると思った顧問、友達、家族、誰もが自分を突き放した。
「どうして、誰もわかってくれないの……」
声に出せたのは、机の下に隠れた唇の動きだけだった。
苦しくて、悔しくて、それでも助けを呼ぶ勇気は残っていない。
心の奥で、ただ一人でもいい、信じてほしいと願い続ける自分がいる。
だけど、それはもう夢物語だと知っていた。
気づけば、ノートの端に「死」という文字を何度も書き連ねていた。
その文字を見て、ふっと笑いが漏れる。
終わらせれば、全てから逃げられる。
でも、その一歩を踏み出すたびに、底知れぬ恐怖が牙を剥く。
机に置かれた心理学の本のページは、過剰適応とトラウマの項で止まっている。
ページの隅には、うっすらと血が滲んだ指跡があった。
今この瞬間も、沙耶の心はずたずたに裂かれたまま、助けの声を求めて揺らいでいる。
だが、その隙間に忍び寄る影があることを、彼女はまだ知らない。
白無垢を思わせる、赤い涙の妖。
――紅涙。
その名を、沙耶はまだ知らない。
小さな白い影がぴょんと跳ねた。あなたの視界にもふもふが目に入る。星詠み――コロ・マルメール(吠えぬ番・h07384)だ。
「きいてきいてー!みんなにたすけてほしいの!女の子がね、図書館でずっと一人で震えてるの。
机に向かってるけど、全然勉強なんかしてないの。ずっとスマホを見てるんだよ」
星詠みの力で見えるのは少女を傷付けるとげとげしい言葉たち。
「助けてほしいって、思ってるみたいなんだけど…、誰も助けてくれなくて…すっごく悲しいんだ。
だからね、あの古妖が来ちゃうみたいなの。『全部壊してあげる』って、あの子の耳元でささやくんだ。そしたら、きっとあの子は、もう戻れなくなっちゃう」
白い毛並みがそっと震える。金色のつぶらな瞳があなたを見上げた。
「みんななら、なんとかできるって、信じてる!」
まずは――図書館に居るあの子にどうやって関わるか。それを考えて、話にいこう。
そこからが、きっと始まりだ。
第1章 日常 『図書館へ行こう』
昼下がりの図書館には、まるで息を潜めるような静寂が漂っていた。
高い天井まで届く書架が整然と並び、光を受けた木のテーブルには、ほとんど人影がない。
その一番奥、観葉植物に囲まれた窓際の席に、ひとりの少女が座っている。
白鷺沙耶。高校二年生。
演劇部では主役候補と期待されていたが、今は誰も彼女に声をかけない。
黒髪は頬に張り付き、肩はわずかに震えている。
彼女の前には開かれたノートと参考書、そしてスマートフォンが置かれているが、目はそのどれにも向けられていない。
スマホを手に取り、画面を開いては閉じる。そのたびにわずかに口角が引きつり、胸元に小さな呼吸が溜まっていく。
「どうして、誰も信じてくれないの……」
声にはならない小さな言葉が、唇の裏側に消えていく。
彼女の通知欄には、痛々しい言葉が溢れていた。
「裏切り者」「自業自得」「消えろ」
演劇部で築いたはずの友情は、歪んだ証拠一つで粉々に砕かれた。
友達も、顧問も、家族さえも、誰も彼女を守ってくれなかった。
無意識にノートの端をちぎり、小さな紙屑を丸めては指先で押し潰す。
その仕草は、消えない苦しさを小さく閉じ込めるようでもあった。
席の周りには人の気配がなく、観葉植物がちょうど目隠しのように視界を遮っている。
ここだけが、世界から切り離された檻のようだ。
それでも沙耶の心には、かすかな願いが残っている。
「誰か、気づいて」
「本当の私を、信じて」
そんな祈りにも似た想いが、かすかな熱として胸の奥にくすぶっていた。
君は、彼女にどう声をかけるだろう。
隣に座り、そっと参考書を覗き込んでみるか。
観葉植物越しに話しかけ、気づかせるか。
あるいは、スマホを覗き込み、同じ世界の痛みを共有するかもしれない。
──今、沙耶はページの上で止まったままの物語を抱えている。
君の一歩が、その物語を次の頁へと進める鍵になるだろう。
この静かな図書館から、すべてが始まる。
図書館の静寂を、死霊たちが音もなく巡る。
目立たぬように姿を隠しながら、誰かが彼女を見ている――その予感だけを沙耶は感じ取ったかもしれない。だが、それが敵意でないと本能は知っていた。
死霊の一体が、彼女の机にそっと一枚の紙片を置いていく。
そこに記された言葉は、優しさでも慰めでもない。
《悲しむより先に怒れ、己の復讐を他者に委ねるな。己の復讐は己にのみ成しえる。》
離れた書架の陰から、神部・明日未は沙耶を見つめる。
似ている。かつての自分と。
愛する者の手を掴めたからこそ今の自分がある。だが、それを失ってしまった今、自らが「人間災厄」となった道を、彼女には辿ってほしくはなかった。
「あなたは讒言で揺らぐ程度の関係『しか』築いてこなかった。足元が見えてなかったのよ、お星さま。ま、若人に言っても多分分からないでしょうね。」
それは一方的な呟き。だが、沙耶のまぶたがわずかに動いた。
気づいていないふりをして、それでも言葉の破片を胸に残すように。
死霊たちは散り、館内の風はふっと音もなく流れた。沙耶が、ページをめくった。
彼女の中で、何かが少しだけ動いた気がする。
悲しみの底に沈みながらも、たった一言で人は変われる。
その重みを知るからこそ、明日未は今日もただ、誰かを見守るのだ。
窓際の机、観葉植物の影。
そこにそっと腰を下ろすもう一人の少女がいた。手には開きかけた教科書。動作は自然、表情は穏やか。けれど彼女の視線は、斜め前に座る黒髪の少女に寄り添っていた。
白鷺沙耶。ノートは開かれているのに、筆は進まない。スマホを見ては俯き、ページをめくるふりだけが続く。
「ねえ、具合でも悪いのかしら?」
結の声は小さく、けれど机に落ちる沈黙を優しく破る。
沙耶が少しだけ目を見開いた。言葉を返す代わりに、視線が揺れる。疑いと戸惑い、そしてどこかにある希望が滲んでいた。
「何かあったなら、話くらいは聞けるわ。無理にとは言わないけれど」
そう言いながら、結は自分の鞄をごそごそと探り、ひとつの袋を取り出した。
「クッキーよ。自分で焼いたの。よかったらどうぞ」
それはただの焼き菓子かもしれない。けれど、それ以上に、結の心のこもった橋渡しだった。
少女はしばらく動かなかったが、やがておそるおそる手を伸ばした。
受け取ったそれは、小さく温かかった。少なくとも、誰にも必要とされていないと思っていた指先にとっては。
彼女の目にはまだ涙が浮かばない。けれど、結にはわかる。今ここで信じてあげなければ、きっと、二度と彼女は誰も信じられなくなる。
「……私は、あなたを信じたいの」
囁くようにそう言って、結はそっと沙耶の手を取った。
掌から伝う魔力は、記憶を奪うものではない。
けれど、傷つきすぎた記憶の棘を少しだけ丸めて、ほんのわずかな休息を与える。
それは、ほんのささやかな「忘れようとする力」。
癒えないものはある。それでも、前に進むための一歩に寄り添うために。
窓の外では風がそっと葉を揺らしていた。少女の時間が、少しだけ柔らかく流れ出す。
スマホの画面に視線を落としたまま、少女は微動だにしなかった。
その沈黙を破ったのは、反射するガラス越しに映った赤い色――図書館の静寂に似つかわしくないほど鮮やかな、赤銅・雪瀾の瞳だった。
「誰も助けてくれない……上等よ。だったら私が聞く」
静かに椅子を引き、沙耶の隣に腰掛ける。
彼女の反応はない。けれど、鼓動が揺れているのがわかった。警戒ではなく、迷いの予感。
雪瀾は自らの記憶を語る。
「愛されてると思ってた。信じてた。でもそれは、捧げるための育て方だった。
私は護られる存在じゃなくて、贄として育てられたの。信仰のために。嘘の中で、ずっと」
声に熱はない。ただ、深く、静かに沈んでいく。
不幸を競うためじゃない。ただ、「それでも生きている」という証を、今ここに示すための言葉だった。
「本当に悪い人間は、悩まないし、苦しまないし、泣かない。
君が今こうして震えてるなら、それはまだ終わってないってことだよ。
君は、きっと誰かの力になれる。優しくて、まっすぐだから」
雪瀾は沙耶のスマホへと視線を移す。
「その小さな画面じゃなくて、こっちを見て」
赤い瞳が、真正面から彼女を見つめる。拒絶も、脅しもない。ただ真剣に、静かに。
「くだんの子は、生きてるよ。そして、君にも生きて欲しいの」
沙耶のまつ毛がわずかに震えた。言葉にできない何かが、確かにその胸に届いている。
今、声にならなくてもいい。
それでもこのままじゃいけないと、少女はほんの少しだけ、画面から目を離した。
それは、音のない着信だった。
スマートフォンの画面に、誰のものとも知れぬ通知がふっと浮かぶ。
“誰かが こちらを見ている”
白鷺沙耶は小さく息を呑む。けれど、それは嘲笑でも罵声でもない。ただ、静かな観測者のような、そんな気配だった。
『この宇宙に、安定しているものなど何もありません』
届いた文字列は、あまりにも唐突で、そして妙に落ち着いていた。
『人の心など最たるもの。あなたの心も、他人の心も。常に移り変わることが当然ですから』
『人間関係が、同じように続くなんて思える方が不思議です』
言葉は平坦で、どこか感情の温度が欠けているようにも見えた。けれど、それはまるで深海の底でささやかれる祈りのようでもあった。
『あなたと他人の間に生まれた幻想ではなく、今あなたが抱いている不安こそ、あなただけのもの』
『あなたを作る、大切なものです』
沙耶の指がスマホの上で止まる。
これは、なぐさめではない。理解を強要するものでもない。
ただ、彼女の今の“存在”を、そのまま肯定している。
『……わかりませんか。わからなくて構いません』
『この世界は、あなたの理解を超えて広いということが伝われば』
メッセージの流れが止まり、しばらくして一言だけ、唐突な文が送られてくる。
『ええと、とにかく、あなたの感情狂気を利用しようとしている、悪ーい存在がいるものですから』
『今は、自棄にならないでください』
画面越しに感じる気配は、どこまでも弱々しく、それでも確かに“真剣”だった。
沙耶は小さく震えた指で、スマホを伏せる。ほんの少しだけ、目を閉じて。
彼女の心に、わずかながら“自分のために語られた言葉”が灯っていた。
第2章 ボス戦 『紅涙』
夜の図書館は、ひっそりと冷えていた。
窓の外では風が吹き、カーテンの隙間を揺らす。館内の明かりは落ち、人気もない。けれど、そこに彼女はいた。
白鷺沙耶。
昼間と同じ席に座り、掌の中のスマートフォンをじっと見つめている。画面は暗い。通知も、光も、もう何も来ない。
誰かの言葉が、確かに温かかった。
けれど――それだけで、この痛みは消えてくれるのか。
彼女の瞳は揺れていた。
そのとき、足元を過ぎる風が変わる。
音もなく、まるで反響のように。気配がひとつ、図書館に降り立つ。
白無垢の裾が、床を這っていた。
顔を布で覆った女。身体の至るところに、紅の刺繍と、乾ききらない血の痕が垂れている。
「……嗚呼。貴女も、選ばれなかったのだな」
低く、柔らかな声だった。けれど、その響きはどこか――空虚だった。
「愛されたと、信じていたのだろう。護られると、思っていたのだろう」
「だが、違った。笑われ、嘲られ、裏切られた」
紅涙はそっと手を伸ばす。まるで自分のかつての幻を、目の前に見ているかのように。
「その痛哭が『私』を呼ぶ」
「千切り捨てられた誓詞。裏切りへの憤り。全て――全てを『私』の痛哭として写し取ろう」
図書館の空間が、少しずつ変質していく。空気が重く、視界が赤く染まり始める。
それでも、沙耶は動けない。その言葉が、あまりに優しかったから。
「その復讐を請け負おう。地の果てまでも決して逃さず、嘗てお前が愛した人を血溜まりに変えよう」
その声は、悲しみに満ちていた。
そして――狂気に満ちていた。
「貴女なら『私』の行いを赦してくれよう」
「『私』を否定したあの人とは違う。そうでない筈はない。そうでない筈がない……」
手が伸びる。沙耶の頬へ。
その指先が触れようとした瞬間、空間が割れる。
君が立っていた。
紅涙の眼差しが、覆面の下から君へと向けられる。
「……邪魔を、するのだな」
儀式は始まってしまった。少女を呪いの契りから引き離すには、今、戦うしかない。
白無垢の裾が揺れ、紅涙が腕を広げる。館内に浮かび上がるは、かつて交わされた祝言の契。血文字で綴られた誓詞が空を裂き、怒りに濡れた嫁入り道具たちが次々と命を得て宙を舞う。
「……ああ、また、否定されるのか。悲しきことだ」
紅涙の声が滲むたび、紙灯篭が爆ぜ、刺繍入りの襦袢が猛る蛇のごとく明日未に襲いかかる。
だが、恐れも退かぬ。彼女はただ、一歩、足を踏み出す。
「ならば、私が否定しよう。その復讐が、誰のためにもならないと」
その瞬間、空気が爆ぜた。
彼女の周囲に死霊が旋回し、霧のように吹き上がる。
明日未の袖が翻り、手には――橋姫の鉄輪。
「この炎で、呪いごと焼き払うわ」
振り下ろされたそれは、一条の火輪となった。
赤黒く軌道を描く鉄輪が唸り、祝言の幻を断ち割る。
火の粉が舞い、誓詞を喰らう嫁入り道具たちは次々と引き裂かれ、炎の中に崩れ落ちていった。
紅涙がその体を傾ける。顔の見えない面越しに、確かに呻くような嗚咽が漏れた。
「あなたの花嫁は、もう終わっていたのよ。とっくに」
明日未が、空中に印を描く。
召喚陣が瞬き、瀬織津姫が現れる。静やかな水音が響き、波紋が床を這う。
「瀬織津姫、『厄災流し』」
濁流が解き放たれる。冷たく、穢れを穿つ流れが紅涙を飲み込み、未練の化身たちを清めながら押し流していく。
赤と白が混ざり合い、蒸気となって消える。
「あなたは、復讐を果たしたはずの過去に囚われている。けれど」
沙耶を守る死霊たちの後ろで、明日未は少女に目を向ける。
「あなたはまだ、“これから”を選べるの。だから、お星さま――」
「あなたは、ああなっちゃダメよ」
その声が、少女の胸の奥に灯を落とす。
スマホを伏せ、沙耶が初めて、正面から世界を見つめた。
白無垢の裾が舞い上がり、紅涙の声が響いた。
「これは祝言のこと――千切り捨てられた誓詞、踏み潰された嫁入り道具。すべてが私の痛哭だ。ならば、これで汝を裂いてくれよう」
瞬間、館内の家具が悲鳴を上げて暴れ出す。花嫁道具が凶器に変わり、誓詞が蛇のように巻きついてくる。椅子、文鎮、切り出しナイフ、殺傷力を持つ“物”がすべて、星越・イサ (狂者の確信・h06387)へと襲いかかる。
彼女の周囲の空間が震えた。周囲の物理座標にズレが生じ、攻撃の全てが“届かない”。イサの【第六感】だ。代わりに、彼女の銀の瞳がじっと紅涙を射抜く。
「望んでいなくても、選択の結末はあなたが受け容れなければいけないんですよ」
響いた声と同時に、イサの精神が紅涙の脳に流し込まれた。
「彼方の呼び声」
脳が揺れる。紅涙が僅かによろめく。耳に届いたのは、耐えがたい周波数の記憶の残響。幾万の声が同時に泣き叫ぶ、イサ自身の“うるささ”。
紅涙は喉奥で呻き、しかし視界を遮るほどに濃い、花嫁衣装の裾を翻した。
「契を結ぼう。あの日の幸せを、再現するだけだ」
途端、空間が変質する。
図書館の内装は、打掛の色に染まり、赤いカーネーションが床を埋め尽くす。館内が物語の一場面へと転じた。虚しき花嫁道中奇譚――彼女の紡ぐ幻の劇場。
「この中では、私が主人公。攻撃は、必中と決まっている」
物語に飲まれる前に、小明見・結(もう一度その手を掴むまで・h00177)は前へ出る。
「お願い、やめて、紅涙さん。白鷺さんの幸せは、こんなところにはないわ」
言葉とともに、彼女の手が魔力を編み上げる。広がったフィールドを打ち消すように、白い光があふれた。
「忘れようとする力」
空間の端が崩れる。花嫁の幻影がほころび、衣擦れの音が一瞬止まる。苦しみに満ちた記憶に、“忘却”という静寂が浸透していく。
「誰かを赦すことも、きっと選べる。私は詳しい事情なんて知らない。でも……」
結の目が、真っ直ぐ紅涙を見た。
「あなたを苦しめた人も、あなた自身も、変わる可能性がある。だから、こんなことで終わってほしくないのよ」
紅涙が睨む。苦痛と、怒りと、哀しみを乗せた叫びが迸った。
「ならば、貴様らがその結末を受け容れるがいい!」
再び誓詞が巻き起こり、結へと殺到する。
しかし――。
「うるさい、って言ったでしょう」
イサが、彼方の呼び声を再発動させた。
幻の空間の中、紅涙の足元が崩れる。物語の中心が、主人公の座を拒絶した。
「選ばれなければならない。それが、あなただとしても」
紅涙が、花嫁の姿のまま、ぐらりと倒れかける。
その時、結が一歩踏み出し、その手を――迷いなく、掴んだ。
「あなたの復讐を、終わらせましょう」
静かに、空間が元に戻る。
白鷺沙耶は震えながらも、ずっと見ていた。
選択の余地を、誰かが与えてくれたということを。
白無垢の裾が擦れる音が、静まり返った図書館に落ちていく。崩れた書架の隙間から灯りが滲み、紅涙が面越しに囁いた。
「契を語ろう。幸福は奪うもの。血で濡れた道行こそ花嫁の行列」
紙片は宙を舞い、頁が牙を生やす。次の瞬間、虚ろな空間は祝言の花道へと変貌し、息を呑むほどの圧が広がった。
ユーフィリア・ユーベルメンシュ・ユニタリア(▓▓▓▓▓▓・h03120)は漆黒の髪をかき上げ、赤い瞳を細める。掌には「|象牙座の感触《フラグメント》」。知れば知るほど身を削る攻略情報、それでも笑みを歪めた。
「必中か…。逃げ道は薄いな。けど、弱点は面の奥…か。深追いすれば命取りだろうけど、やるしかないね」
その声に応じるように、白髪の幼い少女が一歩踏み出す。紫の瞳が怯えずに紅涙を見据えていた。
「だったら、わたしが歌います」
胸いっぱいに息を吸い込んだウィスカ・グレイシア(さくらもち・h00847)は、細い喉から力強い声を放つ。
「【世界を変える歌】!」
透明な旋律が花道を満たし、幻影の歌い手たちが現れて仲間の背を押す。虚ろな空気が震え、必中の幕が一瞬揺らいだ。
哘・廓(射干玉の夜の夢・h00090)はその光景を見据え、短く息を吐いた。
「援護は十分ですね。次は私の番です」
紙片の刃が迫るのを腕で払い、そのまま紅涙にタックルで突撃する。
「乾坤一擲ナックルレイン!」
拳の連打が白無垢を揺らし、面の奥から嗚咽が漏れた。だが紅涙は怯まず、紙吹雪を巻き上げる。
「愛した人を血溜まりに変えてやろう!」
空間そのものが槍と化し、必中の幕が再び張り直される。ユーフィリアは瞬時に見切り、声を張った。
「フェイクだ! 右の幕は囮、実際の刃は左だよ!」
哘は助言を信じ、身を翻して紙槍をかわす。鋭い風切り音が頬を掠めるが、怯まず拳を振り抜き、逆に紙片を叩き折った。
その間もウィスカは声を振り絞って歌い続けていた。幼い身体は震え、指先には血が滲む。だが歌を止めず、幻影の歌い手たちが紅涙を取り囲む。
「わたしは…あなたたちを絶対に支えます!」
澄んだ旋律に導かれ、仲間の動きはさらに研ぎ澄まされる。攻撃の軌道が自然と合い、三人の呼吸が揃った。
「今が好機だね」
ユーフィリアは息を整え、攻略の断片を強く握り締める。脳裏に走る痛みに顔をしかめながらも言葉を吐いた。
「面の奥を狙え! 今しかない!」
紅涙の面にひびが走り、呪詛の千切が黒煙を噴き上げる。哘はその声に応じて拳を振り抜いた。
「これで…終わりです!」
重い音と共に面が割れ、花道を覆っていた虚飾が崩れ去る。紅涙は膝をつき、掠れた声で呟いた。
「否を選ぶか…。哀れな花嫁の代行も、ここで終いだ」
白無垢は灰となり、千切は虚空に散っていく。
静寂が戻った図書館で、余韻のようにウィスカの歌声だけが響いていた。彼女は小さく肩で息をし、微笑む。
「…終わった、のよね?」
ユーフィリアは肩をすくめた。
「ま、死に損なったわけじゃないし。あんたの歌がなきゃ無理だったよ」
哘は血に濡れた拳を握り直し、淡々と頷いた。
「支え合えば、どんな敵も倒せる…それを信じられる戦いでした」
三人の影が並び立つ。崩れた書架の奥にまだ続く闇を見据えながらも、それぞれの胸に確かな手応えがあった。虚しき花嫁の幕は閉じ、物語は次の頁へと進み出す。
第3章 日常 『ショッピングに行こう』
戦いの幕が下り、白鷺沙耶が図書館の奥から姿を見せた。蒼ざめた頬にはまだ緊張の影が残っているが、吐き出す息は先ほどよりも軽い。胸元でぎゅっと握っていた手を緩め、そっと言葉を零す。
「……助かったんですね」
安堵の響きに場の空気がほどける。そのとき、不意に明るい声があがった。
「ねえ、せっかくだし買い物でも行こうよ! 近くにショッピングモールがあるんだって。夏フェアやフリーマーケットもやってるらしいし!」
思わぬ提案に沙耶は驚いたように瞬きをし、やがて安堵と共に笑みを浮かべる。
「ショッピング……楽しそう。少し、歩いてみたいです」
扉を抜ければ、街の中心に広がる大きなショッピングモール。ガラス張りの吹き抜けから光が差し、通りには色とりどりの旗が揺れている。夏限定のスイーツを並べた屋台や、雑貨や古着が所狭しと並ぶフリーマーケットのテント。屋外ステージからは軽やかな音楽も響いていた。
甘い匂い、賑やかな呼び声、きらびやかな看板。戦いの緊張を忘れさせる日常の喧噪がそこにあった。
少女たちの足取りは自然と軽くなり、それぞれの視線は思い思いの店先へと向かっていく。
ショッピングモールの通路を、紫は弾むような足取りで進んでいた。吹き抜けから差し込む光が床に反射してきらめき、夏フェアの屋台からは甘酸っぱいフルーツジュースや焼き菓子の匂いが漂ってくる。フリーマーケットのテントには古着や雑貨が所狭しと並び、ステージでは軽快な音楽が響いていた。
「むらさきでもしそでもないんだからね!」
胸を張って宣言する声は、誰かに向けたものではなく、むしろ自分の中の合言葉のようなもの。言葉にすれば自然と気持ちが高ぶり、世界が紫色に染まったような気さえする。
通りを歩く人々の会話や、子ども達の笑い声に耳を澄ましながら、紫はきょろきょろと視線を巡らせる。どこかで事件の匂いはしないか、胸の奥がそわそわと熱を帯びる。情報を集めるなら人伝やネットでも十分だろう。けれど、自分の足で歩いて拾う小さな発見こそが一番の宝物だと、彼女は思っていた。
「ほら、某少年に戻った高校生探偵だって、こうやって歩き回って事件を見つけるんじゃない?」
独りごちた声に、自分でくすりと笑う。大人びた瞳に探偵気分の輝きを宿し、あえてノープランで歩き回るのが今日の楽しみ方。偶然の出会いこそ最高のスパイスだから。
まだ見ぬ出来事に期待を込めて、紫はさらに一歩を踏み出す。モールの賑やかさとざわめきに包まれながら、きっと今日も面白いことが待っていると信じて。
夏の賑わいに包まれたショッピングモール。フリーマーケットのテントの間を、人々の声と音楽が絶え間なく流れていく。アメリアは小さく頷き、緑の瞳を細めた。
「お手伝いですか? 承知いたしましたわ」
そう言って彼女は手にした小型ドローンを起動させる。機体は軽やかに浮かび、周囲の混雑を上空から見渡した。混み合う人波に迷子の子どもはいないか、転びそうになっている人はいないか。義体化された身体の動きは正確で、すぐに気配を察して駆け寄ることができる。
「大丈夫ですの? こちらにおいでになって」
小さな子どもを立たせてやり、母親の元へと送り届ける。感謝の言葉に微笑みを返しながらも、アメリアの耳は次の異変を拾っていた。人混みの奥で誰かが荷物を落とし、紙袋の中身が散乱する。彼女は反射的に滑り込み、素早く拾い集めた。
「落とし物は危険ですわ。踏まれたら怪我をなさいますもの」
義体の補助により素早く動ける彼女にとって、こうした小さな助けは日常の延長線。戦場とは違うけれど、誰かの役に立てること自体が彼女の誇りでもあった。
賑やかなフロアを見渡し、アメリアは小さく深呼吸する。屋台の甘い香りや、フリーマーケットの雑貨が並ぶ光景。戦闘の緊張を忘れ、穏やかに過ごす時間がここにはある。
「せっかくですもの、皆さまにも楽しんでいただきたいですわね」
その声は、人混みのざわめきに溶けながらも、少女の心に確かな温かさを残していた。
戦いの緊張が解け、街に出た明日未は久しぶりに最寄りのスーパーへと足を運んでいた。通路に並ぶ色とりどりの食品や日用品を眺めながら、籠に品を入れていく。
「週二で移動販売も来てくれるけど、どうしても品揃えがね……街まで出ないと手に入らない物もあるし」
手際よく選んだのは保存の利く缶詰や調味料、生活必需品の数々。山奥で半ば自給自足に近い暮らしを続ける彼女にとって、この機会は貴重だった。いつもより慎重に品を吟味しつつも、気づけば籠はずっしりと重みを増している。
会計を済ませ、駐車場に停めていた軽自動車へ向かう。透明な影――インビジブルたちが自然と荷物を持ち、明日未の後をついていく姿は、通りすがりの人には見えない光景だ。
「これだけあれば暫くは持つかな」
安堵の吐息と共に荷物を車に積み込む。けれど、ふと溜息まじりに笑みがこぼれた。
「はぁ、また『一人分』多く買っちゃった。直りそうにないわね、この癖」
失った誰かのために、無意識のうちに余分に品を手に取ってしまう。それでも、買いすぎた分は山の冷たい空気の中で、やがて誰かの訪れを迎える備えにもなるのだろう。
赤茶色の瞳がふと遠くを見やり、そして静かに瞬いた。日常の買い物、それは彼女にとって過去を抱えながらも生きるための大切な習慣だった。
戦いの気配が遠ざかり、街のざわめきが耳に戻ってきた。けれど心の奥にはまだ、不安の影が燻っている。白鷺沙耶の肩もどこか力が入ったままで、目を伏せるその姿は痛ましく映った。
だから、結は静かに口を開いた。
「白鷺さん。もしよかったら…甘いものでも食べに行きませんか?」
顔を上げた沙耶の瞳が、驚いたように揺れる。少し戸惑ったあとに小さく頷いたのを見て、結は安堵の息をついた。
二人で足を運んだのは、モールの一角にあるスイーツショップ。ショーケースには色とりどりのケーキが並び、鮮やかなフルーツや可愛らしいデコレーションが目を引く。席につくと、甘い香りが心をほどいてくれるようだった。
「私、お菓子が好きなの。綺麗で可愛くて、食べると甘くて美味しくて…時々、自分でも作ったりするの」
言葉を紡ぎながら、結はメニューを広げる。
「白鷺さんは、何か好きなものってあるかしら?」
沙耶は少し考え込んでから、控えめに微笑んだ。
「……まだ、わかりません。でも、こうして一緒に過ごせるのは…嫌じゃないです」
その答えに、結の胸は静かに温かくなった。追い込まれれば復讐を願ってしまうかもしれない。けれど、今なら違う選択肢を見つけられるかもしれない。彼女の本心に寄り添い、導くことができれば――。
運ばれてきたケーキを前に、結は微笑んで言った。
「じゃあ、これから一緒に探していきましょう。白鷺さんが本当に好きなものを」