【楽園怪談】黄昏の影
晩夏に至ってようやく蝉の声が聞こえるようになって来た。
連日の如く殺人級を謳われていた外気温もようやく多少の落ち着きを見せ、息を潜めていた生物の気配が世に戻り来る。
四季宮・昴生(蛇神憑きの|警視庁異能捜査官《カミガリ》・h02517)の硬い足取りは舗装のされていない畦道を踏んだ。遮蔽物のない一面の田園風景が、傾きかけてなお熱気を伝える赤い陽の温度で男を焼く。
いかに上着を脱げども暑い。何度目になるか分からぬ溜息で熱を逃がしながら、彼は我知らず冷房の利いた室内を思う。仕事柄現場に向かわざるを得ないことは多いが、昼の裡に終わるはずだった案件が長引いたのは不幸だった。
ようやく解放されたときには空は赤く染まっていた。指示を仰げば今日の業務には差し障りないから直帰せよとの命が下ったが、時間は中途半端で定時には些か足りぬ。さりとて時間を潰すような上等な場所があるような土地柄でもなく、昴生はやることを失くして畦道に放り出された。
それで――。
結局、どこぞの軒先を占拠するよりはましだと、田園の方に足を向けたのである。
集落と村の境のような土地柄だ。唯一の個人商店で買った水に口をつける。怪異に関する情報は遍く全ての世界に広がっているが、殊にこうした秘境じみた土地にこそ根付くものも未だ主流だ。都市伝説やインターネットを媒介して広がる噂は出所の特定も捜査も容易な分、厄介なものは限界集落やごく小さな村落に集中する。
扱う存在の性質上、昴生とて斯様な状況に親しんでいないわけではない。しかし異常気象の煽りはいかに自然の多い土地にも侵食するものである。暑さが幾分和らいでいたことだけは不幸中の幸いといえよう。
ふと影がかかった気がして、昴生は顔を上げた。
ここに木々はない。少なくとも彼に目視出来る範囲にはなかったはずである。それなのに。
|影だけ《・・・》が――。
長身の男より遥かに巨大な影だけが地に落ちていた。見上げる先に遮蔽物はない。何の変哲もない拓けた畦道に、ただ昴生を囲うようにして、何かも分からぬ黒ぐろとした輪郭が投影されている。
僅かに息を噛む。斜陽に色濃く伸びる彼自身の影すらも呑み込んで、ぼやける影法師が海の如く広がっていく。
沈んでいる――。
ということに気付いたのは、認識の数瞬ののちだった。革靴が泥濘に囚われたような粘ついた感触に包まれている。持ち上げるにも労するであろう感覚を、更に意志を持って伸びる漆黒が掴まんとする。
呑み込むつもりなのか。
考えている暇はなかった。不意打ちを喰らって幽かに生まれた心の間隙はすぐにも埋まる。状況を把握すると同時に込み上げる、煮え立つような怪異への嫌悪に任せるまま、昴生の掌は今にも己の足を掴もうとしていた黒い掌の群れに向けられた。
蛇の牙が唸る。
彼を今にも引き摺り込むべく伸ばされていた手を起点に、周辺だけが大きく欠けた。斜陽の光が俄かに昴生を照らす。思わず眩む視界に目を眇める彼の前で、苦悶するように蠢いた影が収斂していった。
後には静謐だけが残る。思い出したように鳴き始めた蝉の合唱に小さく息を吐いた昴生の眉間には、窮地を脱してなお皺が寄る。
「逃がしたか――?」
|殺せた《・・・》ような手応えはなかった。少なからず大きな傷を与えることには成功したようだが、どこから現れたのかもどこへ消えたのかも分からぬそれは、目の前から消えただけで未だ潜んでいるのだろう。
痕跡を探ろうにも、半分近くが土に近しい、辛うじて整備されただけの道には名にも残されていなかった。においや温度のあるものでもない。それらしきものを強いて一つ上げるなら、ようやく斜陽が照らし出した眼前の道が、彼の立っている場所より僅かに低い温度を保っていることくらいである。
完全な消滅をしていないとあれば未だ危機は去っていない可能性を考慮すべきだ。可能であればこの場で仕留めた方が良いだろうし、何よりまたぞろ不意打ちを喰らうことなど許容は出来ない。
いかめしい双眸で油断なく周囲を見渡して――。
昴生は今日一番に深々と溜息を吐いた。
いつの間にそこにいたのか、音もなく現れた柳・依月(ただのオカルト好きの大学生・h00126)が、さも面白げな表情で彼を見詰めている。
「よ、相棒」
「――監視役だ」
眼前の青年が悠々と和傘を差して日差しを遮ることも業腹だったが、常のやり取りに大声で返せば人目を惹く。全ての感情を噛み潰す昴生の声は、自然低く唸るような色を帯びた。
汗の浮いた額を押さえる彼をしげしげと見る依月が、喉の奥で笑う。
「油断しすぎなんじゃねえの?」
「貴様に言われたくはない」
即座の切り返しを受けて尚も楽しげな笑声が戻るのを、男は忌々しげに一瞥する。
監視役と銘打たれているからには訊かねばならぬことがある。あくまでも依月は異能捜査官たちに|保護《かんし》を受けるべき存在だと定義された者だ。そうそう簡単に人の世に放逐すべきでないし、日頃テリトリーとしている場所から抜け出しているのであれば、正当な事由を問うべきだ。
「こんなところで何をしている?」
「次の小レポートの情報収集。普段は普通の大学生やってんだから」
「どうだかな」
鼻を鳴らした昴生の言葉にも動じぬ姿は一見すれば真偽を確かめにくい。しかし不本意ながら長くなりつつある付き合いによって、男にも依月の言っていることの真贋程度は見抜けるようになっていた。
本当のことだ。恐らくは。
手にしたバインダーと筆記用具からして、少なくとも何らかの情報を集めているのは事実だろう。中を検めるのは後として、今はその言をひとまず信じてやらぬこともない。
それよりも――今しがた打ち払った存在について、報告を上げておかねばなるまい。
無言で踵を返す背の後ろを歩みながら、依月の声が笑う。
「俺が証言してやろっか?」
「断る。余計に厄介なことになる」
にべもない返答も想定済みである。青年を振り切るように足早に去っていく背が斜陽に落とす、長く伸びる影も映らなくなった頃――。
依月は振り返った。
蟠る怪異の影が揺れている。蛇霊に食い破られた部分は未だ再生していない。そのさまに眇められた青い眸が、逆光に沈んで見えなくなる。
「ここら辺のボスがいなくなったからって調子乗ったんだろ? だけど」
黄昏に伸びる怪異へ音もなく歩み寄る人妖の、濃く長く伸びる足許の漆黒が揺らぐ。和傘の下で双眸だけが煌々と光った。
「俺の相棒にちょっかいかけるなんていい度胸してんな?」
――影は宵闇に呑まれる。
その後のことは、誰も知らない。