これがウワサの現代ダンジョン
静かな日曜の午後、新宿東口の雑踏に、違和感が忍び寄った。
最初に気づいたのは、地下街へと続くエスカレーターを降りようとしていた女子高生だった。
「あれ? 看板は……えっ?」
階段の先に広がるはずの地下通路が、どこまでも続く石造りの廊下に変わっていく様子を目の当たりにし、彼女は凍りついた。
薄暗い廊下の壁には、青白く輝く水晶が等間隔に埋め込まれ、不気味な明かりを放っている。
「なに、これって……は!?」
振り返った彼女の言葉は、悲鳴に変わった。
エスカレーターの上部はすでに消失し、同じ石造りの天井に置き換わっていたのだ。
周囲の人々も異変に気づき始め、パニックが広がっていく。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ声に反応し、人々は我先にと地上への階段を駆け上がろうとした。
しかし、それはすでに遅すぎた。
地下街全体が急速にダンジョン化していく。
近くのコンビニエンスストアは中世の倉庫のような外観に変貌し、ファストフード店は錆びた鉄格子の生えた牢獄じみた空間となっていく。
さらにその時、最悪の事態が起きた。
地下街の警備員が、突如として身をよじり始めたのだ。
彼の制服が引き裂かれ、皮膚は灰色の毛皮に覆われていく。
「た、たすけ……」という彼の最後の人としての言葉は、獣じみた咆哮に変わった。
「――グオオオオアアッ!!」
警備員は猪のような顔を持つ魔物「ボーグル」と化し、パニックに陥った群衆に向かって毒の棘を撒き散らし始めた。
悲鳴と混乱が地下街を埋め尽くす中、天井から降り注ぐ青い結晶の粉は、触れた人々の体に徐々に変化をもたらしていく。
ある者は獣の特徴を帯び始め、またある者は石のようになり始めた。
そして最も恐ろしいことに、変異した人々は正気を失っていく。
友人を襲う者、壁に向かって叫び続ける者、四つん這いで這いずり回る者……。
「おい、何だ。何なんだ」
「さぁ。地下でなんか騒ぎが起きてるらしいぜ」
地上では、地下街の入り口付近に集まった野次馬たちが、スマートフォンで動画を撮影していた。
しかし、不思議なことに、彼らの画面には何も映っていない。
あるいは、映っていたとしても、すぐに忘れてしまうのかもしれない。
この世界の人々は、目の前で起きている異変を認識することすらままならない。
だが、それは決して安全を意味するわけではない。
地下街の変容は、着実に地上へと広がりつつあった。
古びた石造りの壁が、近代的なビルの外壁を蝕んでいく。
そして、新たな犠牲者たちの悲鳴が、日曜の午後の雑踏に混ざっていくのだった――。
●
「いやぁ、大変なことが起きちゃいそうだねぇ」
緊急招集された√能力者たちの前で、天草・カグヤ(成長欠落少女・h00581)は小さな足をぶらぶらさせながら話し始めた。
幼い容姿に似合わず、彼女の瞳は√能力者たちを見つめる度に、古い魂の輝きを湛えていた。
「新宿東口で、すっごく大きな事件が起きちゃうっぽいよ。
地下街がまるごとダンジョンになっちゃって、中にいた人たちがモンスター化し始めちゃうんだ」
しかしそれは、あくまで彼女の見た予知の光景。
素早くダンジョン化を解決できれば、そうした住人のモンスター化も防げるだろう。
「ただ、ダンジョンには結構やっかいな罠がいっぱい仕掛けられてるね。例えばぁ……」
カグヤは指を折りながら数え始めた。
「改札機が『アイテム没収の魔法陣』になってて、通るとスマホとかお財布とか全部消えちゃう罠とか。
エスカレーターが『永久階段』になってて、延々と同じ場所をぐるぐる回っちゃう罠とか。
自販機が『モンスター召喚装置』になってて、近くを通るとスライムが出てくる罠とか。
あとは駅の防犯カメラが『石化の邪眼』になってるところとか? なんかすごいよね」
彼女は一息つくと、少し表情を曇らせた。
「でも一番気になるのは、このダンジョンの出現理由だね。
ダンジョン化の原因は、√ドラゴンファンタジーの遺産なんだけど。これ、誰かが意図的に持ち込んだ可能性が高いみたい」
カグヤは一瞬、妙に大人びた表情を見せる。その手の指を組み、能力者たちを見つめる。
「黒幕のことはよくわかんないけど、かなり危険な相手かも。だからこの黒幕を追跡してみるかどうか、現場での対応は皆に任せるねぇ。
とりあえず、ダンジョンの最奥にいるボスを倒せば、ダンジョン化は解除できるはずだからさ。それだけはきっちり完璧にね!」
彼女は最後に、微笑みながら何かを取り出した。それは、新宿東口のマップである。
「あ、そうそう。この『迷宮マップ』を持っていくがよい……!
元の施設の構造を利用してダンジョンが形成されたから、何かの役に立つと思うよ。
それじゃあ、皆がんばってねー!」
第1章 冒険 『トラップ! トラップ! トラップ!』

「よし……これで最後だな」
平・和孝(|鶸鼠《ひわねずみ》色の|二重仮面《ハイブリッド》・h01883)は最後の立ち入り禁止テープを張り終え、一歩後ずさって自身の作業を確認した。
規制線の向こうでは、異変に気付かない人々の日常が続いている。
買い物帰りの主婦、スマートフォンを見つめながら歩く学生、観光客らしき外国人グループ。
彼らを守るため、少なくともこれだけはやっておかねばならなかった。
地下街の入り口を取り囲むように設置された黄色いテープと立ち入り禁止の札が、風に揺られている。
夕暮れ時の風は冷たく、異世界の気配を運んでくるようだ。
「都市部での事案か……厄介だな」
装甲兵器「90式」の装甲越しに周囲を見渡しながら、和孝は状況を見極めていた。
装甲のセンサーが周辺の温度変化や空気の振動を感知し、わずかな異常も見逃さないよう補助している。
だが、それは却って不可解な状況を浮き彫りにした。
通行人たちはダンジョン化した地下街を特に気にする様子もなく、むしろ規制線の方に不満げな視線を向けている。
それでも、この程度の規制は最低限必要な対応だった。
たとえ理解されなくとも、守るべきものは守らねばならない。それは和孝の矜持とも言えた。
「これで少しでも被害を抑えられれば、だな。さて、行くか」
装甲の肩口に担いだライフルを構えながら、和孝は慎重に地下への階段を降り始めた。
一歩進むごとに、現実世界の喧騒は遠ざかっていく。
代わりに聞こえてきたのは、石造りの通路を這うような風の音と、どこか遠くで響く金属的な震動音だった。
かつての地下街は完全に様相を変え、中世の城塞を思わせる石造りの廊下が続いている。
壁面には苔が生え、床には細かな砂利が散らばっている。
まるで何百年も人の手が入っていないかのような古びた雰囲気だ。
特に警戒すべきは、元々あった設備が変質して罠と化している箇所。
90式の各種センサーが警告を発しているが、その反応は通常の機械類とは明らかに異なっていた。
自動ドアだった場所には今や巨大な鉄製の落とし格子が設置され、防犯カメラのレンズは青く輝く魔法の水晶に変わっていた。
それらは単なる無機物ではない。まるで生きているかのように、微かに脈動している。
「接触は極力避けるとするか。遠距離から――」
和孝は立ち止まり、前方の黒く怪しげな扉に照準を合わせた。
90式の照準システムが目標を捕捉し、最適な射撃位置を示している。
一発。
二発。
ライフルの銃声が廊下に響き、扉は大きく揺らめいたが、まだ健在だった。
弾痕が刻まれた箇所から、青白い光が漏れ出している。
この扉もまた、異世界の魔力に侵されているようだ。
「通常火器では無理か。なら……」
彼は静かに瞳を閉じ、√能力を発動させた。
体内に宿るインビジブルのエネルギーが全身を駆け巡り、現実を書き換えていく。
刹那、和孝の周囲に10基のブラスターキャノンが具現化する。
青色のホログラムが晴れ、無骨な砲塔が浮かび上がる。
それぞれの砲身から放たれるターゲットレーザーが一点に収束し、魔力を帯びた扉を捕捉した。そして――。
「ブラスターキャノン・フルバースト!」
眩い光が廊下を埋め尽くし、轟音が響き渡る。
一瞬、現実と非現実の境界が曖昧になったかのような感覚。
その閃光は、この空間に侵食した異世界の魔力と激しく反応し合っていた。
煙が晴れると、扉は跡形もなく消し飛んでいた。
破壊された箇所の周囲で、石壁が徐々に元の近代的な壁材へと戻りつつある。
√能力が、歪められた現実を正常に引き戻したらしい。
その先の廊下は広大な空間へと開けており、天井では無数の水晶が青白い光を放っている。
まるで地下洞窟のような空間に、かつての地下街の面影はない。
そして、数台の監視カメラ。やはり、怪しげな光をレンズから放っている。
それらは明らかに、和孝の動きを追跡するように首を動かしていた。
「あれも、破壊しておくとするか」
90式の全システムを警戒モードに切り替えながら、和孝は静かにライフルを構える。
装甲のセンサーが、周囲の魔力濃度の上昇を警告している。
再び、数発の銃声。
その音に呼応するように、何かが近寄りつつあった。
重く、不規則な足音。そして低く唸るような声。
監視カメラの破壊が、この空間の魔物を呼び寄せたらしい――。
「ここが入り口だね」
霧島・光希(ひとりと一騎の冒険少年・h01623)は黄色いテープで囲われた地下街の入り口を見上げながら、すぐ近くの看板を確認した。
地下街の入り口を示す、左下への矢印。
そしてその表面にうっすらと映る影は、まるで騎士のような姿をしていた。
「うん、間違いないね。|影の騎士《シャドウナイト》、この地図の通りに行けばいいんだよね?」
彼の隣には誰の目にも映らない騎士の姿。しかし光希には見えていた。
漆黒の装甲に身を包んだ騎士が、まるで守護者のように佇んでいる。その静かな頷きに、光希は確信を得た。
「よし……」
光希は深く息を吸い込み、錬金騎士の装備を確認する。
特殊な合金で作られた血液貯蔵管は鈍く輝き、腰に下げた剣も微かに共鳴している。
すでに数人の√能力者が先行して地下に向かっているようだ。急がねばならない。
「|見えざる従者《インビジブル・サーヴァント》よ」
囁くように呟いた言葉とともに、光希の周囲に小さな風が渦を巻く。
それは次第に形を成し、目に見えない小さな精霊たちとなった。
かすかな鈴の音のような気配とともに、彼らは即座に周囲に散開し、警戒を始める。
「ありがとう。みんな、安全な道を探してね」
光希は受け取った地図を広げる。通常の地下街の地図だが、現実の姿は大きく異なっているだろう。
地図上に描かれた店舗や通路は、今やどんな姿に変貌しているのか。
「これは……」
地下を進んで数分、見えざる従者の一人が警告を発した。
かつての明るい照明に代わって、床に埋め込まれた水晶が不吉な青白い輝きを放っている。
光希はすぐさま立ち止まり、右手を突き出した。
「撃て!」
見えざる従者から放たれた青白い光の矢が、精確に水晶を直撃する。
美しい音を立てて粉々に砕け散る水晶とともに、床に仕掛けられていた罠──鋭い刃を持つ落とし穴の機構が露わになった。
「やっぱり罠だらけか……ごめんね。壊しちゃうけど」
光希は申し訳なさそうに呟きながら、慎重に前進を続けた。
遠くでは何か大きな爆発音が響いている。
轟音は地下街の壁を震わせ、天井から細かな石粉を降らせた。
他の√能力者たちも、それぞれの方法でダンジョンに挑んでいるのだろう。
「ん?」
突如、影の騎士が身構える素振りを見せた。漆黒の装甲が軋むような音を立て、警戒の姿勢をとる。
同時に、見えざる従者たちからも警告が届く。
前方の広間から、ただならぬ気配が漂ってきていた。
(誰か他の√能力者かな? それとも……)
光希は柄から光の剣を放つ特殊な剣を構えながら、そっと前進する。
剣の柄からは淡い光が漏れ出し、周囲の闇を僅かに照らしている。
危険な気配が、確実に近づき始めていた。
「まぁ、なんて醜悪な構造物かしら」
アルティア・パンドルフィーニ(Signora-Dragonea・h00291)は優美な身のこなしで階段を降りながら、嫌悪感を露わにした。
ドレスの裾が、石段を滑るように流れていく。
その一歩一歩には気品が漂うが、その表情には明確な怒りの色が浮かんでいた。
その背後では、双子の兄オルテール・パンドルフィーニ(Signore-Dragonica・h00214)が地図を手に持ち、苦笑を浮かべている。
彼の整った顔立ちは妹と瓜二つだが、纏う空気は対照的だった。
「そう目くじらを立てなくてもいいじゃないか」
「人間がせっかく作ったものを、こんな意味のわからない構造にされたのよ! まったく、許しがたいわ」
アルティアは鋭く言い放つと、廊下に足を踏み入れた。
その瞬間、周囲の景色が一変する。かつての地下街は完全に様相を変え、青い水晶が不気味な光を放つ洞窟と化していた。
壁面には苔のような物質が這い、天井からは細い鎖が不規則に垂れ下がっている。
「焦るな、アルティア。今の君の状態じゃ、動けなくなったら俺が運ぶことになるんだぞ?」
「あら、元々そのつもりよ。それより、お兄様こそ今の状態じゃ、大半のトラップに対応できないでしょう」
アルティアは立ち止まり、詠唱を始めた。 青白い炎のような魔法の光が、彼女の周りに幾何学模様を描きながら浮かび上がる。
その光は彼女のドレスに反射し、幻想的な輝きを放っていた。
「ふむ、では俺が前を行こう。盾くらいにはなれるさ」
オルテールが前に立ち、長剣を構える。
その姿は優雅でありながら、確かな力強さを感じさせた。その時、彼の鋭い視線が一点に注がれる。
「アルティア、あれを見ろ」
廊下の突き当たりの自動販売機が、不自然に蠢いているように見える。
鈍い金属の表面が波打ち、徐々に粘液質な物質に覆われ始めていた。
蛍光灯のような青い光を放つディスプレイは、まるで生き物の目のように明滅している。
「ちっ、厄介ね」
アルティアの詠唱が完了し、ウィザード・フレイムが一つ具現化する。
青白い炎は彼女の意思に従うように宙を舞い、まるで生命を持つかのように揺らめいていた。
その瞬間、自動販売機から青緑色のスライムが湧き出してきた。
「■■■■■■■!」
最初は小さな水滴のような形だったものが、みるみるうちに人の頭ほどの大きさに膨れ上がる。
粘液質の表面は不規則に波打ち、その中には飲料缶やコインが沈んでいるのが見えた。
「劣等種か。この程度なら……」
オルテールが剣を構えスライムを受け止めた時、既に彼の動きは始まっていた。
「葬る」
屠竜宣誓撃――流麗な一撃が放たれ、スライムの群れを両断した。
無数のスライムの欠片が降り注ぐ。大剣による薙ぎ払いはスライムだけでなく、その奥の自動販売機も、壁も切り刻んだ。
その切れ味の鋭さは、かつて彼がドラゴンだった頃を思わせる。
「お兄様、後ろ!」
アルティアの警告と共に、彼の背後に飛来したスライムを炎が焼き払った。
青白い炎に包まれたスライムは、悲鳴のような音を立てながら蒸発していく。
「おお。危ないところだったな」
「だから言ったでしょう? 今のお兄様では対応できないって」
「……そうらしいな。君の言う通りだ」
オルテールは肩をすくめ、素直に頷く。彼らは互いの弱点を補い合いながら、ゆっくりと、しかし確実に前進していく。
アルティアは3秒ごとに新たなウィザード・フレイムを生成し、その度に青白い光が通路を照らす。
オルテールは妹を守りながら、現れる敵を薙ぎ払っていった。
遠くでは他の√能力者たちの戦闘音が響いている。
時折、大きな爆発音が地下街全体を揺るがせた。
「なあ、そろそろ走って一気に進まないか? この程度の罠なら多少食らっても……」
「却下よ」
即座に切り捨てられ、オルテールは苦笑する。二人の竜の足取りは遅いが、その分確実だった。
「ダンジョンの探索、ですか……興味深いですね」
ノア・レムナント(方舟の残滓・h01678)は受け取った地図を丁寧に確認しながら、銀色に輝くブラスター・ライフルを構えた。
艶のある白い髪と凛とした立ち姿は、まさに人間の女性そのもの。
その外見からは、彼女が高性能AIだとは誰も想像できないだろう。
むしろ、彼女の仕草の一つ一つには奇妙なまでの人間らしさが宿っていた。
その横で、クリアブルーのサンバイザーを光らせながら、犬獣人のエイル・イアハッター(陽晴犬・h00078)が首を傾げて地図を覗き込んでいた。
彼の尻尾は、やや緊張した様子で小刻みに揺れている。
「なぁノアねえちゃん。この奥で人がモンスター化してるんだよね? なんとかしなきゃ」
サンバイザーの下から覗く緑の瞳には、純粋な心配の色が浮かんでいた。
「ええ。だからこそ慎重に、かつ迅速にです」
ノアは地図に記された危険個所を再度確認しながら、静かに頷いた。
二人は地下街の入り口から階段を降りていく。
その途端、周囲の景色は一変した。
現代的な照明は古めかしいトーチに、清潔なタイル張りの壁は粗い石組みに変わっていた。
エイルは四足での姿勢を取り、√能力「Silent Run」を発動。
その姿は肉眼で見える以外、あらゆる探知から完全に消え去った。
「探知システムからエイルさんの反応が……消えました。面白い能力です」
「あれっ、マジ? 俺のこと見えてる?」
「一応、辛うじてですが……」
ノアは前を行くエイルの背中を細目で見つめながら、自身のセンサーで周囲を警戒していた。
通路の壁に埋め込まれた青い水晶が、まるで息づくかのように不規則な光を放っている。
「あの水晶、調べてみていいか?」
エイルは言うが早いか、ポケットから小石を取り出し、水晶めがけて投げつけた。
石は水晶に命中し、軽い音を立てる。
何も起こらないのを見届けてから、エイルは慎重に近づいた。
「反応解析中です……魔力反応、確認。しかし、これは……?」
ノアの声が途切れた瞬間、水晶が突如として眩い光を放ち始めた。
まるで目覚めたかのような輝きに、エイルは即座に後方に跳躍して距離を取る。
「おわっ!」
「下がってください」
ノアのブラスター・ライフルが火を噴き、水晶は粉々に砕け散った。
破片の中から、複雑な魔法陣が刻まれた金属片が転がり出る。どうやら地雷のようなものだったらしい。
「ふぅ……危なかったぁ。でも、こうやって二人で進めば安全だよな!」
エイルが明るく笑いかける。その楽観的な笑みが、地下街に満ちていた緊張した空気を確実に和らげていく。
二人は地図を頼りに、さらに地下へと進んでいった。
かつての店舗は中世の倉庫に、ロッカールームは古めかしい収納庫に変貌していた。
モダンな自動販売機は謎めいた魔物を吐き出す罠となり、コンビニエンスストアは石造りの武器庫へと姿を変えている。
エイルの探索本能とノアの精密なスキャンによって、着実に調査は進んでいく。
四足で進むエイルの動きは驚くほど静かで、サンバイザーの下から放つ視線は鋭く周囲を観察していた。
「この辺りの変化の仕方が、なんていうか……規則的すぎないか?」
「はい。私も気になっていました。まるで……」
「なにかの目的があるみたいだよな」
エイルの言葉に、ノアは無言で頷く。
不規則なダンジョン化現象にしては、あまりにも整然とした通路がそこにあった。
「ん? ちょっと待って」
古い収納庫を調べていたエイルが、突然立ち止まった。
尻尾が警戒するように真っ直ぐに伸びている。
「ここの壁、なんか変じゃないか?」
そんなエイルの直感に、ノアのスキャナーが即座に反応する。
彼女の瞳が一瞬、データを処理する光を放った。
「異常を検知。確かに、この壁の向こうに、地図にない空間があるようです……」
二人は顔を見合わせた。他の√能力者たちの戦闘音が遠くで響く中、彼らは思いがけない発見をしたのだ。
どこかで大きな爆発音が鳴り響き、床が僅かに震動する。
「隠し部屋……かな?」
「その可能性が高いですね」
ノアは無感情に言い放つと、躊躇なくライフルを向けた。その動きは、人間離れした正確さで。
「デストロイです」
「ちょ、いきなり!? うわーっ!」
エイルが驚きの声を上げる中、ブラスター・ライフルが青白い光を放った。
轟音と共に壁が崩れ落ち、向こう側の空間が露わになる。
そこには――人の気配があった。
埃が晴れゆく中、二人は緊張した面持ちで前を見据えていた……。
第2章 ボス戦 『剣聖『比良坂・源信』』

淡い光を放つ水晶の間で、禿頭の男が正座していた。
そこは隠し部屋。星詠みの力によっても見抜けなかった空間である。
その装束は戦国時代の侍のそれに似ているが、どこか現代的な要素も混ざっている。
刀は鞘に収められ、畳の上に置かれていた。
その姿は、まるで古い水墨画から抜け出してきたかのようだ。
比良坂・源信。その名を名乗る剣聖は、静かに目を開いた。
「ほう。ここに来るとは……想定外だ。だが面白い」
低く響く声。その瞳には、狂気とも悟りともつかない光が宿っている。
彼の周りには無数の青い水晶が浮かんでおり、それらは不規則なリズムで明滅を繰り返していた。
「この世界は……実に退屈だ」
源信は緩やかに立ち上がる。その動作には無駄が一切ない。
「剣も、魔法も、怪物も、英雄も。何もかもが不在の世界など、この上なく退屈ではないか」
彼は壁に掛けられた鏡に近づき、その中に映る自分の姿を見つめる。
彼こそが、√エデンに√ドラゴンファンタジーの遺産を持ち込んだ張本人。平和な東京に混沌をもたらした人物であった。
「私が望むのは……」
源信は刀を手に取り、鞘から僅かに刃を覗かせた。刃の輝きが、部屋の青い光を鋭く反射する。
「真の戦いだ。魂を震わせる激突。命を賭した一瞬の煌めき」
鞘に収められた刀が、カチリと微かな音を立てた。
「それがダンジョンがもたらす魔物であれ、√能力者であれ同じこと。さぁ、来るがよい」
彼は静かに立ち上がり、部屋の中央へと歩み寄った。周囲の水晶が、より激しく明滅を始める。
「この剣で――全てを、理想の戦場へと変えてやろう」
青い水晶の光が揺らめく中、霧島光希は剣聖と向き合っていた。
「退屈だから……か」
光希の声には、年齢以上の冷たさが滲んでいる。
影の騎士が彼の背後で身構える中、少年は竜漿兵器の剣を、まるで銃のように持ち替えた。
「そんなつまらない理由で人々を危険に晒すなんて……」
「小僧っ子には、私の求道は理解できまい」
「理解なんてする必要ないよ」
光希は挑発的に笑みを浮かべた。その瞳には、強い意志が宿っている。
「お前とは絶対に相容れない。だから――ここで叩きのめしてやる!」
剣の切っ先が青く輝き始める。|謎めいた《エニグマティック》エネルギーが、渦を巻くように集束していく。
「|謎めいた弾丸《エニグマティック・バレット》!」
放たれた青い光弾が、空間を切り裂いていく。
源信は驚くべき速度でそれを躱し、一瞬で間合いを詰めた。
その日本刀が、冷たい光を放っている。
「無明無限刃――」
しかし光希は、まるでそれを予測していたかのように、自身の足元にエネルギー弾を撃ち込む。
爆発と共に広がる青い光が、源信の斬撃を阻んだ。
「むッ!」
光希は間合いを取り直しながら、次々とエネルギー弾を放っていく。
青い光弾が空間を埋め尽くし、源信の動きを制限していく。
「貴様……」
源信の刀が閃く。一撃で複数の光弾を両断するが、それでも新たな弾丸が次々と襲い掛かる。
床や壁に着弾した光弾は、源信には有害なエネルギーの渦を生み出し、一方で光希自身の力を増強していく。
「フン、どうだ? その自慢の剣も、思うように振るえないだろ?」
「どうかな」
瞬間、源信の姿が消えた。光希の背後から斬撃が迫る。しかし――。
「甘い!」
光希は即座に後方にエネルギー弾を撃ち込み、爆発の衝撃で身を躱す。
青い光の渦が源信を包み込み、彼の装束を焦がしていく。
「ふむ……なかなかやるな」
源信は一歩後退しながら、焼けた装束の裾を見つめた。
その目には、戦意の炎が燃えている。改めて、光希を強敵と見なした眼差し。
「しかし、まだだ。まだ楽しませてもらうぞ!」
彼の体から、異様な気配が立ち昇り始めた。周囲の水晶が、より激しく明滅を始める。
(……次は何をする気だ? 何をするにしても、対処してみせる)
光希は警戒を強めながら、次の手を考え始める。影の騎士は、それを見守るように傍らに佇んでいた。
「想定外のゲストが現れましたね」
源信の戦いの最中、部屋の入り口から新たな来訪者が姿を現した。
「宝物庫かと思いましたが……まさか、こんな方とお会いすることになるとは」
ノアは人間の女性そのものの佇まいで、穏やかに歩み寄る。
しかし、その手のブラスター・ライフルは確実に源信を捉えている。
「あなたは、この世界が退屈だと?」
「無論だ。磨き上げた我が力、こんな世界でどう使えと言うのだ?」
ノアの声音に、かすかな憐れみが混じる。
「全人類が恐れるような脅威も、終わりの見えない争いもない。私が心から恋い焦がれた、この世界を……」
「貴様も、この平穏を良しとする愚か者か」
「ええ、その通りです」
ノアの全身から、戦闘用プログラムが起動する音が微かに漏れ出す。
「望むような戦いは提供できませんが――敵は確実に殲滅させていただきます」
瞬間、ブラスター・ライフルが火を噴く。
正確な弾道計算に基づいた射撃が、源信の周囲を埋め尽くしていく。
「なるほど、機械か」
源信は信じがたい速度で弾丸を躱しながら、次第にノアへと近づいていく。
狭い空間では、遠距離戦には限界がある。
「仕方ありませんね……」
ノアの体が真紅に輝き始める。プロジェクトカリギュラ――決戦モードへの変形が始まった。
「では、打ち合いでいきましょうか」
変形を終えたノアの姿は、まるで血に染まった騎士のようだった。
その動きは通常の4倍の速度で、源信の斬撃に対して的確な打撃で応戦する。
「面白い……!」
ノアの赤色の変形に呼応するように、源信の体が青く輝き始める。
阿修羅の剣気が彼を包み込み、その動きをさらに加速させる。
剣と拳が交錯する。
源信の阿修羅突きがノアの装甲を貫こうとするが、決戦モードの強化された行動速度が何とかそれを回避。
しかし、限界を越えた駆動の度に、ノアの装甲や関節にヒビが入っていく。
「この平穏な世界が、あなたには退屈なのですか?」
ノアは防戦一方になりながらも、冷静に問いかける。
「ならば――早々にお引き取りください」
真紅の光が閃く。ノアの拳が源信の顎を捉え、彼を壁に叩きつける。
「ぐはっ……!」
その攻撃を受け、源信の口元が歪む。軋む身体と痛みさえ、彼にとっては愉悦のようだ。
「これは……予想以上に愉快だ。√能力者よ、その力、愉しいぞ!」
周囲の水晶が狂ったように明滅を始め、部屋全体が歪んでいく。
源信は口から垂れる一筋の血を拭い、笑った。
水晶の明滅が激しさを増す中、新たな足音が響いた。
「随分と派手な暴れっぷりだな」
90式の装甲を身にまとった和孝が、冷静な声とともに部屋に入ってきた。
その手にはライフルが構えられ、肩には迷彩のジャケットが掛けられている。
「暇を持て余した御老体が、世界を変えようなどと……」
和孝の言葉に、源信は刀を構え直した。
既に数名との戦闘を経て、その装束には僅かな乱れが見える。
「貴様も、この退屈な世界を守ろうと言うのか?」
「ああ。それに、わざわざ世界の方を変えずとも」
和孝は慎重に間合いを取りながら、ジャケットを肩から外した。
「その二本の脚で、好きな|遊び場《戦場》に行けば良いだろうに」
一瞬の沈黙。
「ともあれ。迷惑行為は取り締まらせてもらうぞ」
「やってみよ」
源信の姿が消える。阿修羅の剣気を纏った斬撃が、閃光のように和孝を襲う。しかし――!
「甘い!」
和孝の引き撃ちが空間を裂く。
源信は僅かな隙間を縫って躱し、刃を構えて突撃してくる。……その動きは和孝の読み通りだった。
「なに!?」
装甲を貫こうとする源信の刀が、突如として宙を舞ったジャケットに絡まる。
布地が刀身に巻き付き、一瞬その動きを阻害した。
装甲を貫く刃であろうと、幾重に重なった布をゼロ距離で切り裂くことは難しい。
和孝が手で操る先端の動きで刃は逸れ、絡め取られかける。
「警察も自衛隊も、刃物男の制圧くらいお手の物でないとな!」
拳銃の抜き打ちよりも速く、和孝の指が√能力を発動させる。
「|報復の魔弾《アンサラー》!」
13発の魔弾が具現化する。
それは源信が振るっていた阿修羅の剣気を帯びており、装甲さえ貫く威力を持っていた。
「くっ!」
源信が身を翻そうとする前に、魔弾が火を噴く。
三倍速のフルオート射撃が、ゼロ距離から源信を襲った。
「ぐあぁっ……!」
爆発的な衝撃と共に、源信の体が壁に叩きつけられる。
しかし、彼の口元には薄い笑みが浮かんでいた。
「存外……やるではないか」
周囲の水晶が狂ったように輝き始め、部屋全体が歪んでいく。
源信の体から放たれる剣気が、これまでとは比べものにならないほどの強度で満ちていく。
「だが、これこそが私の求めていたもの……!」
和孝は90式の出力を最大限まで上げながら身構えた。本当の戦いは、ここからだ。
歪んでいく空間の中に、新たな足音が響いた。
水晶の明滅が作る青い光の中、それは優雅な舞踏のような、完璧な調和を持った二人分の足音。
まるで練習を重ねた舞台の上のように、息の合った足運びだった。
「全く、穏やかでない思想のシニョールだ」
気品溢れる男性が、ゆったりとした仕草で一歩前に出る。
オルテールは、芝居がかった微笑みを浮かべながら源信を見据えていた。
その表情には、人見知りを隠すための計算された余裕が滲む。
「野蛮でしてよ。人では満足できないのなら――」
その背後から、兄とよく似た容姿の女性が冷たい視線を投げかける。
ヒステリックとも取れる声音には、しかし確かな覚悟が宿っていた。
「ドラゴンが相手になってさしあげましょう」
源信の眉が僅かに動く。その一瞬の変化を、双子は見逃さなかった。
「ドラゴン、か」
「さて、剣と魔法と――」
オルテールは銃を抜き放つ。
放たれた魔力弾が閃光となって源信を襲うが、彼は足を止め、阿修羅の剣気でそれを払う。
それはかつての彼のように魔術が扱えれば、本来無用の長物。
しかしながら、魔力を欠落した今であれば有用な牽制道具と言えた。
青い光の残像が空間に残る中、オルテールは薄く笑みを浮かべる。
「――ついでに怪物がお望みならば、喜んで相手を」
続く源信の突進を、オルテールは最小限の動きで躱す。
その背後でアルティアが手にしたペンが輝き、形を変えていく。
魔力が渦を巻き、金属が形を変える音が響く。
「お兄様!」
そうして投げられたツヴァイヘンダーを、オルテールが颯爽と受け止める。
巨大な両手剣が、水晶の光を鈍く反射した。
錬金術によって作られた刃には、既に竜の力が宿っている。
「これは……竜の魔力か」
源信の剣が閃く。オルテールは動かず、その一撃を真正面から剣で受け止めた。
衝撃が走るが、元ドラゴンの頑健さがそれに耐える。
鋼と鋼がぶつかる轟音が、部屋中に響き渡る。
「無駄に動く必要はないな。この程度なら」
源信の動きが一瞬止まる。
アルティアの魔術が、彼の周囲に炎の壁を築き上げていた。
赤い炎が青い水晶の光と混ざり、幻想的な色彩を作り出す。
さらにその外側には、巨大な蔦が這い上がっていく。
緑の壁が、更なる包囲網を形成していく。
「退路は差し上げないわ。さあ、どうなさいます?」
炎と植物に囲まれ、源信の選択肢は限られる。
彼は一瞬の躊躇の後、オルテールに向かって突進した。その眼には、戦いへの渇望が燃えている。
「来たか……」
「退路など、絶たれるまでもなし。私は戦いの為に進むのみ!」
迫り来る老人の剣閃。オルテールの手にしたツヴァイヘンダーが、大きく弧を描く。
その一撃には、ドラゴンとしての過去から受け継いだ力が込められていた。
「そこだ!」
源信の阿修羅突きと、オルテールの一撃が交錯する。
激しい衝撃波が部屋中を揺らし、床に巨大なクレーターが出現した。
水晶が砕け散り、青い光の雨が降り注ぐ。そして――
「くっ!」
雨が止むとき、源信の腕から血が滴った。
両手剣と刀の衝突は、ドラゴンの膂力に軍配が上がったのだ。
その傷口から、ツヴァイヘンダーに込められた錬金毒が侵食を始めていく。
紫がかった筋が、源信の腕を這い上がっていくのが見える。
「やはり……お前たちは」
彼の体から、さらに強大な剣気が放たれ始める。
それは単なる気迫ではなく、確かな殺意を帯びていた。
「本物の戦士だ……! 善い。実に好いぞ!」
「あら、そう。まだ踊りたいのならば、お相手しますわよ」
アルティアの声には、かすかな嘲りが混じっている。しかし、その眼は真剣そのものだ。
「あぁ。幸い、まだまだ余裕はある」
オルテールとアルティアは背中合わせの陣形を取りながら、化物じみた剣豪との継戦に備えていた。
源信と√能力者たちの戦いが白熱し続ける頃――暗い通路の奥から、新たな足音が響いた。
その足音は確かなものでありながら、どこか迷いを帯びているようにも聞こえた。
「ここか……いや、違うな。また迷ったか」
ブラウンの三つ編みを揺らしながら、一房の黒髪が印象的な青年が姿を現す。
録・メイクメモリア(LOST LOG・h00088)は、既に激戦の痕跡が残る空間を静かに見渡した。
床には無数の亀裂が走り、壁には斬撃の跡が刻まれている。
「随分と遠回りをしたようだな」
源信は青年を見据えながら、剣を構え直す。
その腕には未だ、先ほどの戦いの傷跡が残っている。
傷は紫がかった色を帯び、確実に毒が回っているのが見て取れた。
「ああ、迷ってな。でも――」
録は方位磁針を取り出した。その動作には迷いがない。
欠落した「航路」を持つ者の確かな意思が、そこにはあった。
「多分、間に合った。迷い出た先。目の前にある貴方を倒せばいいんだろう」
方位磁針。その形をしたアクセプターが青い光を放つ。
それは水晶の放つ光とは異なる、より知的な輝きを持っていた。
「|演算証明《アルゴナイズ》、|開始《イグニッション》」
光が録の体を包み込んでいく。
まず両腕に装甲が形成され、続いて胸部に防護プレートが展開する。
脚部にはブースターユニットが装着され、最後に兜が頭部を覆っていく。
その過程は、幾何学的な美しさすら感じさせた。
「アルゴノート・ローグ、装着完了」
戦闘鎧に身を包んだ録が、山刀「雷花」を構える。
同時に、熱線銃「Kastor」が宙に浮かび、狙撃態勢を取った。
銃身からは既に待機時の熱が放出されている。
「探知覚『海響』、フルブースト」
源信の剣が閃く。複数の斬撃が、まるで牽制するかのように録を襲う。
しかし強化された探知能力により、それらは全て回避可能な軌道として録の脳裏に描き出される。
青い線が幾重にも重なり、最適な回避経路を示していく。
しかし、それでも回避不可能なパターンが存在した。
直撃を避けるべく、その軌道に雷花を滑り込ます。
「なるほど……手数勝負は避けるべきか」
山刀が斬撃を受け止める。火花が散る中、録は冷静に状況を分析していく。
相手の動きには確かな技術と経験が宿っている。
それは長年の修練によって得られた、紛れもない実力だった。
「技を重ねて戦う剣士。なら、その研鑽の記録を消してやればいい」
宙に浮かぶKastorが、青い光を帯びて形を変える。
それは源信の死角から彼を狙い――
「WHITE OUT!」
眩い光線が源信を貫く。
彼の動きが一瞬止まる。
その瞳に、かつて味わったことのない混乱の色が浮かぶ。
「何……!」
「記録損傷。貴方の技、少しの間忘れてもらおう」
「くっ……!?」
源信が技を繰り出そうとするが、その動きに僅かな混乱が見える。
刀を握る手、その踏み込み、構え。
いずれも淀み、先ほどまでのキレを失っていた。
かつての研鑽の記憶が、まるで霧に覆われたかのように曖昧になっていく。
記憶を奪われた技は、もはや使用できない!
「そこだ!」
録の山刀が炎を纏って閃く。刃を包む炎は次第に強さを増し、まるで小さな太陽のような輝きを放つ。
源信の動きが鈍った一瞬の隙を突いて、灼熱の一撃が放たれる。
鋭い斬撃が源信の胸を貫く。
老獪な剣士の体が、大きく後ろに弾き飛ばされた。
衝撃で周囲の水晶が振動し、青い光が不規則に明滅する。
彼が失ったのは、戦いの研鑽。
長年の修練によって得た技の数々が、その精確な動きを支える筋肉の記憶が、一瞬にして霧散した。
それ故に防御の技も失われ、彼はこの戦いにおいて最も、「マトモに攻撃を食らった」。
それが、彼の敗因だった。
「が……はっ」
「終わりか……」
源信の心臓部に、巨大な傷跡が残る。
その傷は未だ炎を噴き出し続け、邪悪なる√能力者の体を灼いていく。
致命傷。誰の目にもそう映った。
――しかし。
「……まだだッ!」
源信の体が、青く輝き始める。壁と天井に埋め込まれた無数の水晶が狂ったように明滅し、その光が源信の傷を癒していく。
傷口が急速に塞がり、焼け焦げた肉が再生し、骨さえも元通りとなっていく。
「何っ!?」
「よもや、これほどの戦いが味わえるとは……!」
完全に治癒した源信が、新たな剣気を纏いながら立ち上がる。
その姿は、まるで不死の存在のようだった。
周囲の水晶が放つ光は、彼の体の一部となったかのように脈動している。
「貴様らこそ、私が求めていた相手。いざ、ここで永劫死合おうではないか!」
その声には狂気じみた歓びが満ちていた。
戦いへの渇望が、ついに究極の形を見出したかのように――。
「ええー、隠し部屋っていうからお宝と思ったのに、隠しボスの方かよ!」
エイルは不満げな声を上げながらも、手際よく周囲の状況を確認していた。
天井から床まで、無数の青い水晶が不気味な輝きを放っている。
「せっかちなおじいちゃんだなぁ。ラスボスとして、奥に陣取ってりゃいいのにさ!」
源信の体から放たれる青い光が、周囲の水晶と呼応するように明滅を繰り返す。
エイルは他の√能力者たちの戦いの最中、その関連性を察知していたのだ。
「あのビカビカ光ってる水晶、怪しいよな。だったら――」
魔導バイク「エアハート」のエンジンが唸りを上げる。
エイルは軽やかにハンドルを捻り、壁際へと駆け出した。
「かっとぶぜ、エアハート!」
エイルの手から放たれた魔法が、花火のように四散する。
それは源信への攻撃というよりも、むしろ注意を逸らすための演出だった。
「貴様も戦場に躍り出たか! ならば容赦はせぬ!」
源信の刀が閃くが、エイルの魔導バイクは既に別の位置へと移動していた。
高速で室内を駆け回りながら、次々と魔法の花火を放っていく。
「へへっ、当たんねーよ!」
しかし、それは全て囮だった。エイルの本当の狙いは――!
「Sun Heart! いっくぜぇー!」
魔導バイクのエンジンが轟音を上げ、突如として跳躍する。
その軌道は、まるで太陽に向かって飛び立つかのように。
「なに!?」
「魔導エンジン、オーバーロード!」
エイルと魔導バイクが一体となって、眩い光を放ちながら部屋の中心へと突っ込んでいく。
その光は次第に大きくなり、太陽のような輝きとなった。
「喰らえっ!」
轟音と共に、巨大な衝撃波が部屋中を襲う。
壁に埋め込まれた水晶が次々と砕け散り、天井の水晶も粉々になっていく。
「こ、この――! 貴様、まさか……ヌウゥッ!」
源信の体から青い光が消えていく。
力の源でもあった水晶を失い、彼の不死性が急速に薄れていった。
「あいにく、宝物は見つからなかったけど」
エイルは振り返り、サンバイザー越しに源信を見た。
「でも、これで終わりだ。おじいちゃん、お疲れ!」
倒壊していく水晶の欠片の中、源信の体が力なく横たわる。
彼の求めた永遠の戦いは、こうして幕を閉じたのだった。
第3章 ボス戦 『『アンドロスフィンクス』』

――しかし。
比良坂源信が倒れた後も、|ダンジョンは消えなかった《・・・・・・・・・・・・》。
むしろ、地下街の最深部では何かが目覚めつつあった。
天上界の遺物は、新たな主を得て形を変えようとしていたのだ。
√能力者は、強いプレッシャーに導かれるように広場を訪れる。
整えられた通路、光をなくしたサイネージ広告。
そこに、最初に現れたのは赤い蜘蛛の脚だった。
宝石のように透き通った深紅の八本の脚が、闇の中で優雅に舞い始める。
続いて、黄金の糸で織られたヴェールが闇を払うように広がっていく。
その下から現れたのは、祈りを捧げるように両手を胸の前で組み合わせた女性の姿。
アンドロスフィンクス。
彼女の全身は金色の装飾で彩られ、その姿はまるで古代エジプトの彫像を思わせた。
天上界の遺物と融合した結果、彼女はこの迷宮の核と化していたのだ。
「お告げを……」
彼女の声は、まるで古い寺院の鐘のように響く。
「お告げを授かりました」
赤い蜘蛛の脚が静かに床を叩く。その度に、地面が揺れ動く。
「この世界に……試練を」
黄金のヴェールが風もないのに揺れ動く。
その動きに合わせて、周囲の空間が歪み始めた。
まるで現実そのものが、彼女の意思に従うかのように。
「迷える魂たちよ……」
アンドロスフィンクスの両手が、さらに強く組み合わされる。
「私の謎を解きなさい」
その言葉とともに、地下街全体が大きく震動した。
天井からはコンクリートの粉が降り注ぎ、床からは赤い蜘蛛の巣が這い上がってくる。
ダンジョンは、新たな主を得て真の姿を現し始めていた。
黄金のヴェールの下から、微かな笑みが漏れる。
「さあ……」
アンドロスフィンクスの声が、地下街全体に響き渡った。
「あなたたちの答えを……聞かせなさい」
その言葉に、問いに意味はない。ただ機械的に、同じようなことを繰り返しているだけだ。
モンスターに「死」という答えを叩きつけ、地下街に平穏を取り戻せ!
「あら……後片付けのつもりが、タイミング悪く本番に間に合っちゃったわね」
柘榴石・二歩(ブラインドミー・h02524)は、地下街に広がる蜘蛛の糸を見上げながら、自嘲気味に呟いた。
周囲には既に戦いの痕跡が散らばっており、先行した√能力者たちの激しい戦いを物語っていた。
アンドロスフィンクスの赤い蜘蛛脚が、優雅に床を叩く。その度に、空間が歪んでいく。
「継戦は無理ね……だから、ごめんなさい。私にできるのはこれだけ」
二歩の周りで、インビジブルたちが徐々に形を現し始めた。
彼女の言葉に呼応するように、透明な存在たちが渦を巻いていく。
「みんな、壁にでも何でも使ってね。……ちょっぴりグロいから、あんまり見ちゃだめよ?」
二歩の体が、インビジブルの群れに包まれていく。
その光景は美しくも残酷で、彼女の体は血肉とともに、次第に霧散していった。
そして――。
「■■■■■■■!!」
轟音とともに現れたのは、片翼が引き裂かれた巨大な鳥。
首の根本から翼にかけて大きく裂かれた傷から、絶え間なく血が滴り落ちている。
片翼を喪った二歩の心を表したようなその姿は、痛々しくも威厳があった。
「なるほど……」
アンドロスフィンクスの声が響く。
「死して尚、戦うというのですね」
無敵獣が大きく翼を広げる。その動きに合わせ、血の混じった風の刃が放たれた。
アンドロスフィンクスは優雅に蜘蛛脚を動かし、それを避ける。
「では――」
彼女の手から赤い光が放たれる。瞬間、空間に無数の蜘蛛糸が張り巡らされた。
それらは鋭い刃となって、無敵獣に向かって襲いかかる。
しかし、全ての攻撃は無敵獣の体を素通りしていく。
まさに文字通りの無敵。その代わり、動きは鈍重だった。
「何ですって……」
「■■■■■!!」
無敵獣は再び翼を羽ばたかせ、より強力な風の刃を放つ。
今度こそ、アンドロスフィンクスの黄金のヴェールが裂けた。その奥の肉体が血を放つ。
「よもや……」
スフィンクスの声に、初めて驚きの色が混じった。
「戦闘状況、分析開始」
ノアは冷静な目でアンドロスフィンクスを観察していた。
先の戦闘で無敵獣の攻撃により、スフィンクスのヴェールには確かな傷が付いている。
「蜘蛛の脚を持つスフィンクス……興味深い形態です。ですが、とりあえず完膚なきまでに叩きのめしますよ」
高威力の電磁砲――チャージランスライフルを構えながら、ノアは静かに前進する。
彼女の瞳の奥で、戦術分析プログラムが高速で作動していた。
「まずは、通常攻撃での反応を確認……ファイア」
ライフルが火を噴く。
青白い光線がスフィンクスに向かって放たれるが、赤い蜘蛛脚が素早く動き、攻撃を払いのける。
「……予想通り、通常兵器では効果が低いようですね」
「この私に攻撃をする……その罪、極めて重い……」
その時、スフィンクスの八本の脚の一本が、稲妻のような速さでノアに向かって突き出された。
「っ!」
かろうじて回避したノアだが、脚の切っ先が彼女の頬をかすめ、人工皮膚に浅い傷を付けた。
「……なるほど。予想以上の反応速度。では、こちらも本気で行かせていただきます」
ノアの背後に、八基のヘビー・ブラスター・キャノンが具現化する。
それぞれが、スフィンクスの脚を狙って照準を合わせていく。
「対価は機動力と命中精度……しかし、この距離なら」
ヘビー・ブラスター・キャノンは取り回しの難しい武器である。
出せば出すほど、その制御にメモリを割かねばならない。だが、今、この距離ならば――!
「ブラスターキャノン・フルバースト!」
八条の光線が一斉に放たれ、地下空間を眩い光で満たした。
スフィンクスは六本の脚で防御を試みたが、残りの二本に直撃を受ける。
金属的な軋む音とともに、二本の脚が大きく歪んだ。
「ぐっ……!」
黄金のヴェールの下から、初めて苦痛の色が滲んだように見えた。
しかし、スフィンクスの声は相変わらず冷静さを保っている。
「これはこれは……実に無粋な答え方ですね」
残りの六本の脚が、より攻撃的な態勢を取る。
対するノアは、涼しげな顔でその蜘蛛を見つめていた。
「ええ。早いところダンジョンをクリアして引き上げたいので。問答よりも、大人しく倒されてください」
スフィンクスの威嚇するような声が、わずかに強さを増す。
戦いは、まだ終わりそうになかった。
「上から目線でやんのー。こういうの、大っ嫌いなんだよなぁ」
エイルは、クリアブルーのサンバイザーの下で鋭く笑った。無敵獣の放つ血染めの風は、アンドロスフィンクスを翻弄し続けている。
「年下には優しくするもんでしょ? おばさん!」
挑発的な言葉を投げかけながら、エイルは素早く物陰に身を隠した。
そして、静かに√能力のチャージを開始する。その全身に、太陽のような魔力が少しずつ溜まっていく。
アンドロスフィンクスの赤い蜘蛛脚が、不規則なリズムで床を叩く。エイルの言葉に対し、苛立っている様子だった。
「迷える者よ……その不敬、後悔することになりますよ」
「へぇ、そう? なら探してみなよ!」
エイルの姿を捉えたスフィンクスの蜘蛛脚が、瞬時に襲いかかる。
しかし、その直前――。
「そりゃあっ!」
エイルの手から放たれた派手な魔法の光が、スフィンクスの視界を奪う。そこから、流れるように魔導バイクを跨いだエイルは、空中へと飛び上がった!
「チャージ、あと30秒!」
空中のバイクに、スフィンクスの蜘蛛脚が再び襲いかかる。
しかし今度は無敵獣が風の刃で牽制し、エイルを守る形となった。
「ありがと、ねぇちゃん!」
魔導バイクで宙を舞いながら、エイルは更なるチャージを続ける。
体の内側から、灼熱の魔力が溢れ出そうとしていた。
「20秒!」
アンドロスフィンクスの赤い蜘蛛脚が、エイルを捕らえようと伸びる。しかし、避けられた。バイクの速度に対し、蜘蛛脚は追いつかない。追いつけない。
「遅いよ、おばさん!」
エイルの体を包む光が、太陽のように輝き始めた。
「10秒!」
「――そこです」
スフィンクスの蜘蛛脚が、ついにエイルのバイクを捉えた。
鋭い一撃がエンジンに激突し、その衝撃でエイルの体が宙に投げ出される。
しかし、彼の表情はすでに、勝利への確信に満ちていた。
「これでチャージ完了!」
魔導バイクから飛び降りたエイルは、回転しながらスフィンクスの頭上へ。その輝きが、スフィンクスの全身を照らし出す。
「喰らえよ! |Prominence Kick《プロミネンスキック》!」
燃え盛る蹴りが、スフィンクスのヴェールを直撃する。
衝撃波が地下街全体を揺るがし、黄金のヴェールが大きく裂けた。その奥の人型の顔面が、石のようにひび割れ、壊れる。
しかし――。
「まだ……ですよ……」
揺らめく炎の中から、スフィンクスの声が響く。その姿は確かに傷ついていたが、まだ健在だった。
アンドロスフィンクスの両手が、再び祈るように組み合わされる。砕けた眼窩から、鋭い光が覗いていた。
「迷える魂、か」
録の声が装甲の中から響く。銀色に輝くフルアーマーの姿は、地下街の青い光を反射して神々しくも見えた。
「航路のない僕には、相応しい呼ばれ方かもしれないね」
彼は低く身を屈め、まるで獣が獲物を狙うような姿勢を取った。
手には山刀が握られており、その刃が地面すれすれの高さで構えられている。
「しかし、試練はシンプルだ。通らせてもらう――『ミッションを開始する』」
頭に浮かぶのは、朧げな父の姿。
彼から教わった言葉を呟きながら、録は一気に距離を詰めた。
スフィンクスの赤い蜘蛛脚がその鎧を迎撃しようとするが、その強固さに反し、録の動きは獣のように機敏だった。
刃が地面を抉る音が響く。そして切り裂かれた地面から、突如として苗が生え始め、それは成長して木になっていく。
それは幻想的な光景だったが、現実である。確かな実体を持つ森が、地下街に出現していく。
「さあ。ここはもう、僕の庭だ」
「面妖な……!」
アンドロスフィンクスの蜘蛛脚が、生え出した木々に阻まれる。その巨体ゆえに、機敏に動くことはできない。
蜘蛛でありながら、彼女は森の中で動きが鈍くなっていく。それはその魔物が、生命として異端であることの証のようだった。
「この程度の足止めで……ッ!?」
スフィンクスの言葉が途切れる。録の銃から放たれた熱線の一撃が、彼女の脚を直撃。赤い蜘蛛脚の一本が、大きく歪んだ。
「はっ!」
続けて山刀が閃く。しかし、その一撃は僅かにずれ、新たな森を生み出すことになった。
地下街の一角が、次々と鬱蒼とした森へと変貌していく。その森の中に、鎧が隠れる。
「これは……幻ではないのですね」
スフィンクスの声には、僅かな驚きが混じっていた。
「ああ。これが僕の戦場」
録は木々の間を縫うように動き、スフィンクスの死角へと回り込んでいく。装甲の手が握る銃身が、再度静かに標的を捉えた。
「全ては――」
引き金が引かれる。雷のような閃光が放たれ、スフィンクスの体を貫いた。
「森の掟に従う」
轟音が地下街に響き渡る。スフィンクスの体には、熱による歪みとダメージが色濃く残っていた。
「さて、シニョーラ」
オルテールが舞台の俳優めいたステップを踏みながら前に出る。
踵を鳴らし、腰に手を当て、まるで古典劇の一場面のように優雅に。
その仕草は芝居がかっているが、手に握られた剣には確かな殺気が宿っていた。
刀身は青く輝き、その先端は迷いなくスフィンクスを指している。
「生憎と、私たちは神など信じないたちでね」
その隣には双子の妹、アルティアが立っていた。
揺れる緑の髪が、地下街の青い光を反射してどこか幻想的な輝きを放っている。
兄とよく似た気品のある容姿だが、その眼光から、魔力が光となって漏れ出していた。
「お告げとやらに頼る前に、私たちと武器を交えていただきますわ」
アンドロスフィンクスの体には既に多くの傷が刻まれていた。先行した戦士たちの攻撃が、確かな傷跡を残している。
黄金のヴェールは裂け、片目には深いヒビが入り、至る所に熱線による火傷の跡が残されている。
石のような肌は所々で崩れ、その下から金属的な光沢を持つ異質な素材が覗いていた。
しかし、それでもその姿勢は依然として優美そのものだった。
まるで年季の入った舞台の大道具のように。その存在感は、まさに古代の彫像を思わせる。
「では、物語の幕を上げようか」
オルテールが剣を掲げる。その声が、広場に響き渡っていく。金属質の反響音が、独特の余韻を生む。
『この物語は、迷宮の最奥部にあるという宝に、或る男が手を伸ばすところから始まる――』
その言葉とともに、周囲の空間が変容を始めた。
青い結晶の光が徐々に暖かみを帯び、舞台照明のような輝きに変わっていく。
地下街は徐々に劇場の舞台へと姿を変え、オルテールはその主役として中央に立つ。
その姿もまた、どこか雄々しく勇壮なものに変わっていた。
「お兄様だけが主役というのも可哀想ですわ。私も、貴女を題材にして差し上げましょう」
スポットライトが光を放つ。そこには、いつの間にかアンドロスフィンクスの姿があった。
舞台の上ではすべてが予定調和。彼女は今、その空間に転移したのだ。
劇場の主が用意した舞台に、否応なく引き込まれたのである。
「おかしな技を。切り裂いて差し上げます」
スフィンクスの蜘蛛脚が一斉に動き、無数の糸を放つ。銀色の光を帯びた糸が、空間を埋め尽くしていく。
――しかし。舞台の上では、その動きすら予測可能なものとなっていた。
糸の軌道も、スフィンクスの動きもすべて。オルテールが記した喜劇の台本に、ト書きとして書き込まれていたのだから。
「malaugu̱rio!」
アルティアの呪文と共に、床から無数の蔦が這い上がる。
緑の蔓が一瞬で成長し、まるで生きた縄のように蜘蛛糸に絡みつく。
それらは即座に炎に包まれ、スフィンクスの放った蜘蛛糸を焼き払っていく。
「見事な援護だ、妹よ」
オルテールは燃える蔦に魔力弾を放ち、炎に更なる力を与えていく。
青白い魔力の光が赤い炎と混ざり合い、紫がかった業火となって広がる。
炎は舞台全体に広がり、スフィンクスの退路を塞いでいった。
「お兄様、今です!」
「ああ。しかし、もう少し待とうじゃないか。問答無用の斬り捨てなんて、喜劇にあってはならないからね」
「まったくもう……!」
「――旅人よ。果たしてあなたに、宝を手に入れる資格はありますか?」
台本に記されたセリフを、アンドロスフィンクスがなぞる。
それを聞き、オルテールは満足げに口角を上げた。まるで、物語の完成を見届けるかのように。
「その答えは、君の死を以て示されるだろう!」
決め台詞とともにオルテールの剣が閃く。
舞台の主役として、その一撃は絶対の軌道を描く。台本に記されたとおりに。
燃えるスフィンクスの体を、剣が一閃。新たな亀裂が走り、黄金のヴェールがさらに大きく裂けた。
石のような体が、まるでガラスのように砕けていく。
それでも、血しぶきが舞い、臓腑が飛び散ることはない。
何故ならこれは、『喜劇』であるがゆえに。観客を楽しませる物語として、過度の暴力は避けられねばならない。
邪悪な敵、魔物を倒し、幕が下りる。――だが。
「ふふ……」
そうして揺らめく炎の中で、アンドロスフィンクスが静かに微笑む。
砕けた仮面の下から、新たな表情が覗いていた。
「まだ……幕は下りません。下ろさせはしません」
彼女の両手が再び組み合わされる。組み上げられた蜘蛛の糸が、幕の動きを妨げているのだ。
劇場の天井から垂れ下がった幕は、その途中で停止したまま動かない。
それが原因か、その傷は致命傷であるにもかかわらず、まだスフィンクスは動き続けていた――!
劇場と化した地下空間に、新たな影が落ちる。
「強敵との連戦、か。これも冒険だよね……!」
光希が一歩、前に踏み出す。
その姿は小柄ながらも、錬金騎士の装備に身を包み、凛々しい佇まいを見せていた。
劇場の舞台では、まだ幕は下りない。蜘蛛の糸が、その結末を拒んでいるのだ。
「|召喚、影の騎士《サモン、シャドウナイト》!」
光希の声が響き渡る。彼の傍らに、漆黒の鎧に身を包んだ騎士が現れる。
誰の目にも見えない存在が、この瞬間だけ、確かな姿を現したのだ。
「皆の戦いぶり、驚きました。でも――」
彼は錬金剣を構える。影の騎士も同様に剣を抜く。
「ここで終わらせよう」
「――アアアァァッ!」
アンドロスフィンクスの残された蜘蛛脚が一斉に襲いかかる。
その動きは以前より鈍いものの、まだ致命的な威力を秘めていた。
「影の騎士、【鎮静の癒し】を!」
漆黒の騎士が剣を掲げると、淡い光が周囲を包み込む。
蜘蛛脚の一撃が光希の肩を掠めるが、傷は瞬く間に癒されていく。
「これなら!」
光希は蜘蛛脚の間を縫うように接近する。
一撃、また一撃。
アンドロスフィンクスの体に新たな傷が刻まれていく。
「まだ……まだですよ……!」
スフィンクスの声が震える。残された蜘蛛脚が一斉に光希を狙うが、その瞬間。
「影の騎士!」
黒き剣が閃く。
蜘蛛脚が空を切る中、影の騎士がスフィンクスの背後に回り込んでいた。
「これが、僕たちの答えだ……!」
光希と影の騎士の剣が、同時にスフィンクスを貫く。
刹那、劇場全体が光に包まれる。砕け散る黄金のヴェール。折れた蜘蛛脚。そして。
「ああ……これが……答え、の……」
アンドロスフィンクスの体が、青い結晶となって崩れ落ちていく。
劇場の幕が、ようやくゆっくりと下りていった。同時に周囲の空間が正常化し、ダンジョン化が消え始める……。
「ありがとう、影の騎士」
光希は静かに呟いた。今回の戦いを支えてくれた仲間に。
「また、力を貸してくれるよね?」
そんな彼の言葉に、漆黒の騎士は無言で頷き、そして姿を消した。新たな戦いに備えて――。