眼窩を埋める
●ひとり百鬼夜行
男はひどく疲弊していた。
いや、より正確に描写をするのであれば、
男はひどく肚を空かせていたのだ。
更に、言の葉を付け加えるとしたならば、
男の体内は現――如何しても、|邪悪《インビジブル》を集めねばならなくなった。勿論、この動きが『星詠み』されている事くらいは|理解《●●》している。しかし、嗚呼、男にとって|星詠み《それ》は好都合でもあったのだ。つまりは――私は、腹を満たすと同時に、彼等を|消耗《●●》させられる可能性にも、恵まれているというワケだ。やるからには徹底的に、戯れを仕掛けなければならない。だが……その前に……。
男が目指していたのは、さて、何処だったのか。
答えはまったく簡単で、おそろしいほどに人間的だ。
……この、期間限定のドーナツをひとつ頼む。
強者にも休息は必要なのだ、君達も如何かな……?
●非日常に潜む
「やあやあ! 君達ぃ! 前哨戦のことは聞いたかね? 早速、星を詠んでみたら『例の紳士』にぶち当たったのさ! ちょっと前にあったあれこれで、彼も如何やら消耗している様子でねぇ。今は√EDENに出張中らしい。邪悪なインビジブルを簒奪するには、この√が一番って謂うワケさ。アッハッハ!」
暗明・一五六は普段通り、アハアハと楽しそうだ。
「なんでも√EDENでは『ハロウィンイベント』ってのが盛んらしいぜ。所謂『Trick or Treat!!』ってやつさ。あの紳士も紛れ込んでいるだろうからサッサと捕まえた方が良いぜ? 君達が望むなら『会話を試みる』ってのも悪くないだろうさ。アッハッハ!」
「そうそう、紳士は如何やら『収容局』の研究者と一緒に行動している可能性が高い。其方にも十分気を付け給え」
第1章 日常 『Trick or Treat!!』

√妖怪百鬼夜行の連中がひっくり返ってしまうほどの光景だ。|怪物《モンスター》のフリをした人間サマが数多、街中とやらを跋扈していく。異様とも呼べる現だって、嗚呼、イベントのひとつとしたならばEDENらしさの象徴とも謂えよう。10月31日まで、まだまだ時間があると謂うのにこの賑わい。まさしく、忘却の力が成す仮初と考えられた。
兎にも角にも『Trick or Treat!』、お菓子なのか、悪戯なのかと、子供達が騒いでいる。それに乗せられた大人達も、愈々、用意していたクッキーなどを配り続けるか。しかし、√能力者、君達の視線はひとつの店に集中していた。あの、まったく見慣れた『男の姿』、消えて行ったのはドーナツ屋か。……期間限定のドーナツを……。そんな声が聞こえてきた。全てはオマエの幻聴なのだろうが……。
いいや、幻聴な筈がない。
確かめてやるのが人間精神というものである。
|楽園《EDEN》が楽園で在る所以――それ即ち、森に木を隠すかの如く。服装や外見にさえ気を付ければ如何様な簒奪者も紛れる事が容易なのだ。加えて、もしも、一般人に見られたとしても、全ては忘却の彼方だから、猶更、楽園らしい。√EDENで、しかも、街中とは……シンプルに厄介ですね。厄介なついでに面倒だ。今回、僥倖であったのは『星詠み』で誰が来るのか『わかっている』事であった。挨拶代わりに掌握してやった世界観。かつて、隠れ家として使用されていた|√《世界》の法則とやらを、馴染ませるかのように、再現し、広げていく。……こういう時、簒奪者側にも……僕たちの側にも、忘却は有利に……働くのでしょう。塵のように、埃のように、人々が一斉に遠退いていく。不自然さは欠片として|無《あらず》、無意識の儘に――ボツボツ、帰路へと。多少時間は掛かる方法ですが……貴方にも、不都合はないでしょう。常の御題目を……人間への姿勢を……忘れていなければ、ですが。気がつけば二人、並んで歩を進めていた。ドラゴンプロトコルの隣で溜息を吐いたのは――人間で在ろうか、或いは、魔物で在ろうか。
まったく、君という奴は……慎重なのか、大胆なのか、判らない男だ。相手は練達な怪異の使い手だ。相手は喰えない|簒奪者《おとこ》なのだ。星詠みが口にしていた通り、一人で余暇を楽しむような『人物』ではない。いや、何方も並行できるほどには欲張りな魔物なのだ。警戒を欠かさず、暗躍の類が――尻尾が――見つかれば。即座に|対処《●●》出来るように、気迫とやらを掴んでおくと宜しい。……貴方は……何処まで、蛇のような……男を演じているつもりなのでしょう。やはり、私の尾を踏むつもりか。残念だが、休みを貰ったというのは本当でね。これは、所謂、単独での、勝手と謂うものだ。
まるで死を覚悟した……いえ、"しようとしている"ような顔ですね。顔色が怪異となった瞬間、オマエは『それ』の狡猾さにぶち当たった。ええ……僕も、今、貴方に退場されるのは些か惜しいので……。ああ、君は本当に、勘のいい……いや、敵をするのが上手と謂っておくべきだろうか。魔王をするのは、実は、其処まで難しくはない。だからこそ、紳士は――魔王をするつもりは、今のところ『ない』のだろう。
御節介を焼くのも良いでしょう。
……御節介と謂えば……気付けの香辛料など、如何ですか?
お互いに、隙を見つけようとするのが得意らしい。
覚えてはいるのだが、何も知らない。されど、男は精悍であった。
耕すべきなのか、刻むべきなのか、思考を巡らせたとしても、最果て、両方を取るのが|人間《クロノス》である。怪しげな仮面の裏側には、しっかりと『ひと』の精神が宿っているのだ。私は、エンターテインメント系大企業、PR会社『オリュンポス』のCEO、プレジデントです。誰に自己紹介をしたのかと問われれば『皆様』だ。世間を賑やかにさせているのはカボチャの頭で、それの刳り貫き方をキャストとしても理解しなければならない。巷では……ハロウィンイベントなるものが多く見受けられる。我が系列会社も、この季節の行事には――もちろん、他の季節についてもだが――積極的に参加しているようだ。彼ら、彼女らの働きぶりをこっそりと視察に来たわけだが……。しまった、菓子類を用意するのを忘れていた。仮装をしている大人と思われたのか。子供達に囲まれている。お菓子の代わりに悪戯をされてしまい。トイレットペーパーの木乃伊とされたのか。……子供は、これくらい元気でなければな。ふむ……それにしても、小腹が空いたな……。トイレットペーパーを片付けた後、ぐるりと、楽園を眺めてみる。あのドーナツ店は……我が社との関係があったかな……? 最高経営責任者、それを忘れてしまって如何するのか。しかし、ドーナツの眼窩、埋めてやるには丁度いい機会なのかもしれない。とりあえず、ドーナツで腹を満たすとしよう。期間限定のドーナツを、ひとつ。それと珈琲を頼む。
どれ、空いている席は……? お店は大繁盛らしい。子供連れやカップルが多い中、店の片隅、ひとりでドーナツを齧っている、異邦の紳士の姿。カウンターのない店の為、二人席を選んだ様子。ミスター、相席よろしいかな? 構わないとも。すっと、身体を滑らせるようにして着席。珈琲を一口味わってから、ちょっとした世間話でも仕掛けてやると宜しい。見たところ、ハロウィンの衣装という訳でもなさそうだし、公務員か何かなのだろうか? ……似たようなものさ、君。それにしても、巻き込まれるのが随分と好きなようだ。私は、君のような強い者に、興味があるのだよ。
何……それは、いったい、どういう……?
狂気を隣人としてどれほど経ったのか。
狂いというものにも、ベクトルとやらは存在している。
摩天楼ほどに混沌としていて――未曾有なほどに混濁して――意識を掻っ攫われるかのような、病的なまでの心地良さ。幻聴、あるいはノイズを掻き分けて、草の根を探し当てるのがオマエの興味の経緯と考えられよう。そのような類の音声情報から、無秩序から、真実を見出すのは私の役割ですから……ええ、お話を伺いにいきます。自分自身の脳髄を骰子と見做したのであれば、百面相、眩暈がするほどには振り回されっぱなしか。単なる接触が、単なる好奇心が、笑ってしまうほどの『運命の悪戯』……なんてこともあるでしょう。カラカラ、来店を報せるベルとやらに感謝をしつつ、カウンター向こうの誰かさんにお声掛け。限定ドーナツをお一つと、紅茶を一杯くださいな。砂糖とミルクは……お願いします。味覚と嗅覚は私に残された数少ない|正気《●●》です。ドーナツに共感できるほど人間を辞めるつもりはない。しかし、如何してなのだろうか。刳り貫かれてしまったカボチャの虚無感、ドーナツのような脳味噌にひどく似ている。……覗いてみた。深淵ではなく、紳士の貌を。虚ろな儘に覗き込んでみせた。……紳士の仮装がよくお似合いですね。
誰かと思えば……顔色が悪い。本当に、無理をしているようにも見える。見当違いだ。間違いだ。きっと紳士はオマエの動揺が見たくなったに違いない。……私やあなたに限らず、人は皆、正気の仮装を施した怪物にすぎないのですから、私は戦いたくないんですよ、心の底から。星越・イサは本気である。常に確信を友としてきたのだから、何もかもは真である。お話ししましょう。……仮装をできない人間など、それは怪物ではなく、獣だと、私は思うのだがね。まあ、今日は無礼講だ。君が、私を振り回したいと謂うのなら、好きにしてくれ。では、お言葉に甘えて――私は、あなたの、仮初の思考を演じましょう。
丸くなった微笑みに紫色が嵌め込まれる。
変質しているのだから、最早、怪物である事を誤魔化せない。
宇宙空間――深海魚のように――ぷかぷか、くるくる、浮かんでいる。SF小説の主人公か、コズミックホラーに類似して、人間の渦の中をさまよっている。
土星に棲み憑いている猫なのだから、地に足はつけておいた方が良い。
おどる水母に囲まれたのか、まわる海月に囲まれたのか、何方にしても、四之宮・榴にとって|百鬼夜行《ハロウィーン》は辺獄であった。洗礼を受けていないのではないかと、神を知らないのではないかと、そのように、影で囁かれているような気がして、仕方がない。……何故、こんな|日《●》が……取り上げられるの、でしょうか……。面倒臭いと、厄介なものだと、仮装に対して駄々をこねるのは結構だが、そのような格好だから目立つのだ。寂しがりやな兎なのか、ひとりでいたい猫なのか、愈々、ハッキリとさせなければならない。……うぅ……先輩様に……ぐるぐる、されていないのに……。そろそろ、立ち上がって人探しを遂行しなければ危ういか。しかし、如何してなのだろうか。ひどく注目されているような気がした。……は、はい!? 写真を撮っても良いですか? かわいい、かわいい、子猫に逃げ場などない。半身を……レギオンを展開するのには成功したのだが、それすらも、EDENの人々にとっては仮装の域なのか。……あ、あの……写真は……い、厭……っ……。カシャリ。カシャリ。カシャリ。フラッシュの光にやられてしまった。くらくら、脳味噌が悲鳴をあげている。……うぅ……あ、あの、勝手に……撮らないで……っ……!?
生身の目玉は大忙し。半身の方の目玉も大忙し。これじゃあ、探し物もロクに出来ないか。……もし……かして……僕は……Mr.と……顔を、合わせたくないから……無意識に……? 恥ずかしさと同時にやってきた不安の気配。インビジブルの群れが空気を読んで『おあずけ』を承諾したのか。……た、立って、歩いて……進まないと……。現実、紳士とは会えなかった。動かなければ遭遇する事も『ない』だろう。……僕は……僕は、何を……期待して……。ドーナツの穴の化身になりたいのか。蹲って、只、ゆれる頭の中に耳を傾ける。気分があまり宜しくない。
ある種の衝動というものは刹那の内に、膨らみ、爆ぜる。爆ぜ、鎮まり、されど、一度でも味わってしまえば――欠落からは逃れられない。いったい、何を落としたのか。いったい、何を欠いたのか。それを把握する為にも、まずは覚醒をせねばならない。
キムラヌートとは即ち、失くして初めて芽生えるものだ。
巡っているのは血潮なのか、或いは廻り始めた眼球なのか。何方にしても一ノ瀬・エミ、彼女はひどく沈痛していた。リツ君が少しでも元気になるように、いつも通りを出来るように、そう思って……美味しいスイーツを買いに外に出たけど……。ぐるぐる、ぐるぐる、頑張ろうと思えば思うほど、思いが絡まっていく。まるで、薔薇の茨だけを摂取するかのような、強烈なイメージ。元気のないリツ君の顔ばかり思い出しちゃうな。よろよろ、ふらふら、貧血でも起こしたのかと、心配されてしまいそうな足取り。収容されたばかりの頃のリツ君も、あんな感じだったし……。それで、余計に……。どくん、どくんと、熱を孕んでいるのは心臓なのか頭の中なのか。あ……あれ? 考え事して歩いてたら、何か、変な感じ……? 期間限定のカボチャ・パイ。購入しようかと試みていたところで奇怪な不安。お店に向かってた筈なのに、知らないところに来ちゃった? 身体を支えようとした瞬間、ポケットから飛び出してきたワッフル君。ぐいぐい、ぐいぐい、まるで、花咲爺さんのように。へ? え……? わ、ワッフル君? なんで、そんなに、慌てて……。頭を押さえつけられて鞠のように。物陰からそっと視線を投げてやれば――見覚えのある、貌。
向こうに見えるのは……おじさま? わからない。連邦怪異収容局員『リンドー・スミス』が|堂々と《●●●》、街中を歩いている。手にしているのは果たして『期間限定のドーナツ』か。……カボチャ・パイじゃない……? いったい、どうなってるの。どうしよう。わからない。理解ができない。逆だ。理解しようと、脳味噌が活性されつつある。身体が、なんだか、あつい……? つめたくて、火傷しそう……? まさか……? 天使だ。天使なのだ。楽園に天使が存在していること自体は、まったく、問題ではない。とても大きなイチゴは甘いのか酸っぱいのか。
少年――そう、少年だ。男とは、いつまで経っても少年なのだ。
……呼んでやってもいいぜ、望むなら。
銭の代わりにドングリを転がしておく。没収されるのは知っているのだから、ならば、いっそ此処で消費して終おうかと考えたのか。いやいや、もちろん冗談さ。そんなことよりも『例の紳士』、それはそれは奇遇なことで……。運命なのか偶然なのか、何方にしても『悪戯』をされたかのような気分だと、紳士の側は笑ってみせた。まったく、初対面の相手にその距離感、君は如何やら『人間のフリ』にご執心をしているのかもしれない。人間のフリ……? 確かに僕は『半分』だけど、けれども、わかるよ。ドーナツは美味しいからね。とりあえず僕も10個ほどいただこう。個数からして人ではない。少女めいたお身体の何処に十個が収まるのか。まあ、ということで、|紳士《スミス》。ここで会うのも縁という事で、相席ついで、少し|御伽噺《おはなし》でもどうですか。……また、随分と『濃い』キャラクターだ。君は、もう少し人間に近づいた方がいい。物理的な意味ではなくてね。……ほら、そんな顔をしないで、お好きなドーナツをひとつどうぞ。僕の奢りですよ。振り回されそうな予感に苛まれつつも、紳士、言の葉に甘えてしまったのか。
リンドー・スミスの事は――簒奪者の存在は――一方的だが、存じ上げている。彼方、紳士の方は|不明《●●》である為、まずは自己紹介から如何だろうか。いいや、いいや、自己紹介だなんて、もったいない。此処は、ドーナツついで、至ってプライベートな話はどうですか。たとえば、期間限定の芋や栗、カボチャ……どれが好き、だとか。紳士が指差したのはクリーム入りだ。へえ……かわいい……。こぼれてしまった言の葉を呑む事はできない。こほん。ちなみに僕はプレーンが一番かな。何事もシンプルに、人間もシンプルに、『限定』でもなんでもない普遍的なものが、一番偉いと思いませんか……君……。
それは間違いないが、しかし、私は、上を見ていたいものだ。
ポチ太郎、紳士の足を、掬おうとはするんじゃないぜ。
おのれ怪異、と、意気込んでくれ。
王子様の優しさに目眩を覚えてくれ。
これを僥倖としたならば、眼窩、この数について考えてくれ。
解せぬ文句を散らかした死神の頭、枕の位置については一言も語らなかった。溜め込んでいた不満とやらを、散らかしていた疲弊の数々を、ようやく、発散できると『した』ところでご挨拶か。ゴーストトーカーなんてしているから、年から年中、日本のハロウィンみたいなものだわ。セルマ・ジェファーソン、フリーランスなオマエにとって幽霊との会話は必要不可欠な『もの』である。子供の霊が証言してくれる際は、成程、お菓子をたっぷり供えるのか。……ジャックオランタンは「ランタンを持つ男」という意味だそうね。ジャックというのは名前も知らない男性を表すらしいわ。ところで……。視線の先には『見知った』名無し。怪異の気配をほんのり漂わせている、いつもの彼だ。……今度こそ、私の|勧誘《●●》に、頷いてくれる気になったのかい。|名前も知らない紳士《ジャック》、誘い方が雑になってないかしら。お隣、座っても? 御伽噺を始めてくれ。この|寄席《●●》は誰を主人公にしてくれた。話を戻すとジャックオランタンは、地獄行きを逃れるために、悪魔を二回も騙したのよ。……この場合、君は、悪魔を演じるつもりなのか? まさか。天国にも地獄にも行かせないなんて、私の方が、簒奪者みたいじゃないの。ことり、カップの中身はカボチャのスープ。浮かび上がっている火の玉は、さて、誰の悪戯の所為なのか。
ともかく、そんなジャックは鍛冶屋だったらしいけど、鍛冶屋の意味を持つ苗字……スミスというのよね。まったく、君はどこまで『話したがり』なんだ。私は、十分に愉しませてもらっているとも。……どこかのミスター・スミス。あなた、ジャックオランタンにならないか心配だわ。勘弁してくれないか、君、私はとっくの昔に『そう』なのだが……。あら、まさか。あなたは……「彼ではない筈よ」
ケタケタケタ、ケタケタケタ、ケタケタケタ。
ごろごろ、眼球、たのしそうに、おもしろそうに。
限定のドーナツを齧りながら。
……天使の輪とかいうジョーク。
今なら笑えそうね。
第2章 集団戦 『覗き視る邪眼』

記憶した。いいや、記憶を暴かれた。
ドーナツの穴――虚――覗き込むと同時に、嗚呼、容赦のない観察に遭遇したのか。穴の……虚の向こう側、ある種、彼方と謂ってもいい『空間』。罅割れの中に有ったのは目玉である。いや、果たして『それ』は目玉なのだろうか。邪な眼は、見よ、本当に球体をしているのか。大切な誰か、憎むべき宿敵、自分自身――そのような、姿見として振る舞っているのではないか。研究者のような姿形はおそらく、これが『見せていた』現象のようなものなのだろう。兎も角、リンドー・スミスの気配はない。
この『眼』を潰してから、じっくりと、探してみると宜しい。
詩の内容を記憶しているのか、歌い方を記憶できているのか。たとえ、それが無かったのだとしても、今から、作っていけば良い。燦然と輝く星空からの贈物――ひどく毒々しいものが、目を腐らせていく。骨と肉と血のように。
目の色を変えてやれ、この言の葉については、むしろ、四之宮・榴、得意なのではなかったのか。くるくる、ぐるぐる、自分の眩暈程度であれば耐えること容易いと謂うのに、嗚呼、他人の眩暈については別であった。いやいや、そもそも、他の『もの』がないのであれば、それは|眩暈《●●》などとは描写できない。……ひっ゛! 硬直したのか、脱力したのか、自分がどのような状況に陥っているのかすらも曖昧な儘、じっと、見つめられている。……い……いや……こっちを……見ないで……覗こうと、しないで……。暴かれる寸前か、暴かれた後なのか。兎にも角にも、このような不愉快、このような不快、誰の姿を彷彿とさせる。……み……Mr.……なぜ、僕なんか……気にして……。粘着されているかのような思いに、追跡されているかのような|妄想《おも》いに囚われる。嗚呼、まるでキメラのようだ。キメラめいた片目が、余計に、気分の悪さを増幅させていく。……こないで、ください……。何を思い出したのか。何を、強く思ったのか。成程、テーマパーク。ありとあらゆるアトラクションが怪異となって進軍していた。……はぁ……こんな、置き土産……ビニール袋もなしに……要りません。すっかり『いらない』を口にできるようになっていた。これには、嗚々、邪な眼差し共も丸くなる。……|半身《貴方様》、力を……お借り、します。
タロット・カードを魔術師として、或いは、隠者として、主人公は如何様に振る舞うのか。目玉のひとつひとつを潰してやれば、いつかは正気に戻れる筈なのだ。……僕が、狂っていると……謂うのでしたら……それは、間違いでは……ないのでしょう。遊泳する捕食者曰く、この程度のゼリー状で「目を回している」場合ではない。……痛くも、痒くも……苦しくも……ない、筈です……僕は、今……前に向かって、歩こうと……?
人間をしなければならない。
人間をすることで、ようやく、決意が出来るのではないか、と。
引き締まったミサンガ。
目玉の位置を把握できない。
模様なのか、本物なのか、つついてやらねば判らない。
宇宙の彼方――楽園の最果て――遥か遠くよりも|遠い《●●》――虚空。それを穿つかのように、それを貫くかのように、ぽっかりと、眼窩は広がっていた。眼窩に嵌め込まれたものは、埋め込まれたものは、さて、観測の為の|光《●》であったのだろうか。うふふふ……ふへへへ……。遠いものが近くにある。近くにあるものがひどく遠い。何を今更、そのような事をと、星越・イサは目玉を回してみせた。宇宙のどこかに在る私のAnker……。逢いたかったです。遭いたかったです。それが、たとえ、簒奪者のお友達で、彼等の仮装だとわかっていても。……怪異なら、目玉なら、あれを理解できるのでしょうか。そもそも、脳味噌がないというのに、人間の真似事をできるのでしょうか。あるいは……。理解できない、理解不能、そのような演技の気配。何方にしても、折角の『接触』なのだ。試してみなければ勿体ないし、面白くない。……私も、協力者の演技で、簒奪者めいた演技で、応じて、|私《●》をしてみましょう。とても、まぶしい。とても、やわらかい。絶対的に解せぬ|精神感応《テレパシー》は、嗚呼、邪な眼とやらに何を齎すのか。
少なくとも、目薬のような潤いではない。
姿形だけの真似だなんて、姿見をする程度だなんて、おもしろくありません。おもしろくありませんし、何より、なんだか、寂しいような気もします。彼方の光景の共有こそが――コズミックな共鳴こそが――唯一、人に残されたコミュニケーションの手段とも考えられた。観測力の限界、理解力の限界、思考力の限界まで……お互いに、見つめ合いましょう。ぐりんと、白目をむいたのはあっちだ。いや、もしかしたら、こっちなのかもしれない。……ふへ……へへへ……私、まだ、考えていますよ。どちらかが、おかしくなっても、これを止めることなんて、出来ないです。恐怖も、洗脳も、今は雑音だ。或いは、雑音こそを愉しまなければ、先に進めないのかもしれない。
素敵です。私は、地を這う幼虫みたいに、なっているような……。
巨大なだけの情報に押し潰されたい。
凪いでいる。凪いでいる。凪いでいる。
ひとつなのか、未曾有なのか、ひどく極端なものをイメージさせたのだが、しかし、ある意味では正解なのかもしれない。……わ、私に……興味があるだと……? わからない。プレジデント・クロノスには『紳士』の思いなどわからない。それは、いったいどういう意味……ハッ!? ま、まさか……。脳裡、ろくでもない光景が、一枚が、滑り込んできた。詳しく描写は出来そうにないが、成程、ひとつの悪夢なのかもしれない。ソッチの気なのか!? どうりで、私の内を覗き込むかのように見ているとは思ってたが……これは……私のドーナツの穴がピンチなのでは!? もしも、この場に紳士が存在していて、尚且つ、心を読めたのならば、今頃オマエは引っ叩かれているに違いない。……む……? 先程の紳士は何処へ行った? オマエのドーナツの穴は一時的にだが守られた。しかし、おそろしくも、今度は別の何かしらに『覗き』とやらを仕掛けられていた。ところで……なんだ、この目玉のオブジェクトは……? やけにリアルだが、新しい撮影のセットだろうか? 我が社の誰かがホラー映画か、お化け屋敷の企画でも……? ぎょろり、と、邪が此方を睨んでくる。されど、如何だ。男はまったく、怯えすらも見せない。お、無数の目玉が蠢くのか……瞼がないのは少々、気になるところだが……ハハハ、中々、ハロウィンっぽさ溢れるな! 古の大災厄を妻としているだけはあった。もっとも、オマエにとっては『可愛らしいひと』でしかないのだが。どれ……素材はどのような感じなのだろうか。|冥土《メイド》への土産とするが良い。
触れようとした。触れようとした瞬間、指が這入りこんだ。
ぶち、と、柔らかな感触。なるほど、リアルだ。
あ……力を入れすぎたかな……こ、これは大丈夫なのだろうか!?
今すぐ社員に確認しなければ。いや……お化け屋敷の道具であるなら、この『脆さ』も演出のひとつなのか……? 悲鳴はない。何故なら、口が無いのだから。それにしてもCEO、吃驚するほどの逸般人である。……ドッキリなんてことはないだろうな?
手を伸ばしても、手を伸ばしても、届かない。
中途半端に開いてしまったお花ひとつ、唯一、見なくとも判るのは色であろうか。黄々にして枯れる寸前な有り様は、果たして、誰に対しての贈物と謂えよう。ネエネエセルマ! オジサンハイナクナッタケド、今度ハドーナツジャナクテキャンディヲ、出シテクレタミタイダネ! 幼い頃からいつも一緒な|死霊《ジョン》の言の葉通り、いっそ、水飴みたいにしてくれたなら食べやすかったかしらね、なんて、返してやれ。……そうね、相変わらず、いい趣味をしているわ。甘いものは、揚げ物は、胃が凭れるとか言ってなかった? 簒奪者の言の葉なのだ。簒奪者の輪郭なのだ。会う度、遭う度、ころころ、変わっていたとしても不可思議ではない。ソレニ、セルマ! ガイコクジンッテ日本ノ文化、ワリト好キダカラネ! トコロデセルマ、アノ目玉キャンディ食べテモイイ? 目玉は最早|目玉《キャンディ》だけではない。ひどく早いが砂糖菓子めいたサンタクロース。いいや、サンタクロースではなく、セルマ・ジェファーソンの似姿か。目玉じゃなくて私の姿になっているけれど、いいわよ。ほら、出されたものは全部食べてあげないと、ムシューが泣くかもしれないし。……ソウカモネ。デモ、アッチノセルマの隣ニハ『ボク』ガイナイ!!! ボクガイナイセルマナンテアリエナイデショ。疑問符は不要だ。いつか美味しく『いただく』為に育んできたのだ。その、過程とやらを冒涜されては、たまったものではない。
そうね……なんだか、落ち着かないけれど。御許しを得た。ぐぅ、とヤカマシイ肚を慰める為にも『あいさつ』してやるといい。ソレジャ、イタダキマース! 最初に口腔を満たしたのは邪気であろうか。しかし、馥郁を愉しめるのであれば、悪くはないのかもしれない。……食べ易いように、私は御伽使いらしく『皿屋敷』でも語りましょうか。一枚、二枚、三枚と、化けの皮を剥がしてやれ。肉諸共に削いだなら、咀嚼の助けにもなる筈だ。大いに自由を満喫してくれ、それが|彼女《キャンディ》に無いものだ。
そこの『私』、あなたに足りないのは何?
一枚どころではなさそうだけれど。
……もっと、友達が、欲しかった……。
白黒、強制させられた。ふるふる、眼球が感染するかのように。
いっそ悪夢なのだと、いっそ本物なのだと、理解をさせられたなら、幸せだったのかもしれない。これが|真実《●●》なのだと、間違える事が出来たなら、今頃、誰かに救われていた筈なのだ。此処が楽園なんだ。だからお前は、もう何処にも逃げられない。何かの視線を感じる。無数の怪異にでも睨まれたのかと錯覚するほどの――う……嘘……でしょ……? 無数だったのも束の間、最早、一ノ瀬・エミの目の前には双眸だけが湛えられていた。なんで……また、あの怪異が……。近づいてくる。ゆっくりと、あの人が近寄ってくる。餓えているのか、渇いているのか、ダラダラと、涎を散らかしながら。……そんな、顔、しないで……。一歩、一歩、後退していく。後退すればするほど、何故か距離は縮まって。愈々、接吻をされて終いそう。……ううん、ちがう。だって、あの怪異は色んな人が戦ってくれて……最後に、私がトドメを刺して終わったはず。脳味噌がひどく重たかった。まるで、頭蓋の中身がドロドロとした物質に支配されていくかのようだ。しっかりしなきゃ、このままだとやられちゃう……! 覚悟は人一倍。いや、オマエの場合は、果たして、超人の域とも考えられよう。幻なのか、化けているのか、わかんないけど、怖がっちゃダメ。怖くても、恐ろしくても、ちゃんと、立ち向かわなきゃ……! ワッフル君、お願い……力を貸して!
怪異と、インビジブルと、会話をしているのか。流れるように応えてくれた|彼《シーズー》は、もこもこと、人間ほどの大きさに膨れ上がった。距離は取れた。あとは、反芻だ。あの時と同じように――舌の根が千切れる前に――急所へと狙いを定めて、形見を揮う。大丈夫……私なら、絶対に、できる……。枯れ尾花を穿つように。
目玉だ。無数の目玉の死体が転がっている。……あつい……つめたい……? 意識を失う事はない。されど、この『おかしな』状態はいつまで続くのか。……わからないって、ちょっと、怖いけれど……でも……。勇気は既に萌えている。水をやり、肥料をやり、時間をかけて確実に。ワッフル君、心配かけてごめんね。こうして立ってられるから、問題ないよ。人間サイズのぬくもりが、もふもふ、頬ずりをしてくる。
人間の精神を忘れない。これが、ひとつの強さと謂えよう。
致死量の痛みを目薬にしてやった。
歪んでいるのは世界のひとつ。
簒奪者ではない、最早、侵略者だ。いいや、侵略者という三文字も、正確な言の葉とは謂い難い。ディラン・ヴァルフリート、彼の存在を一言で表現するならば、やはり|坐《●》であった。魔王と勇者、両者とも世界に与える影響はおそろしいものなのだから。ふむ……分かり切った自分の|記憶《過去》より、寧ろ、彼の過去の方が興味を惹かれるものですが……。魔王であれ、勇者であれ、人に対して好奇を持つべきか。紳士からしてみれば、リンドー・スミス本人からしてみれば、この『視線』、厄介を極めたものに違いない。……ええ、ですが……今は引きずり出す程に、執心の類が有るでもなし。悪性のいずれかを封じた弊害だとすれば――大罪を押し殺そうとした弊害だとすれば――甘んじて、気長に進めるとしましょう。まさか、オマエが『甘んじる』と、言の葉を紡ぐとは。しかし、オマエ、いったい何を発揮させようと構えている。……構える必要も、挑むかのような気持ちも、今は……拭い取ってしまいましょう。人払いは済ませた。ここら一帯に『影』もなし。前座は、素早く片付けたいものですが……些か、蟻のようですね……トリックオアトリート、でしたか。目玉の群れが菓子類を望んでいる。口腔ひとつ有していないと謂うのに、随分と貪欲ではなかろうか。……倣うのも嗜みというものかと……それに、僕は、あまりにも悪戯を好いています。|今だけ《●●●》、だけれども……。巨大な、巨大な、オキュロフィリア、ヤケに多くしているのはきっと、認められたいから。……肌でも味わえるのが、辛みの妙というもの。
殴られる前に、蹴られる前に、折角、挨拶を返してやったのだ。どうして眼球は『悪戯』を強行しようとしている。……ルールを守れない貴方には……とびきり、振る舞ってあげましょう。取りこぼすなど勿体ない。一滴、溢させるわけにはいかない。……そうそう、口から火が出るほど辛い、なんて……よく、耳にしたものです。視よ、邪な竜の体内を! 体内に溜め込まれた、蓄えられた、超絶冠するスコヴィルを! 焼き払っておきましょうか、記憶を塗り潰すほど、念入りに……。料理にしなかったのは他者への慈しみ。人々まで誘引してしまったら、最後の晩餐が台無しですので……。
目玉が赤くなった。目玉が、潰れた。
第3章 ボス戦 『連邦怪異収容局員『リンドー・スミス』』

君達は本当に、私の『やり方』を理解してくれている。
だから、私は今、君達の前に存在しているのだが。
さて……今日の私は心の底から、争うつもりはないのだ。
もっとも、君達が争いたいのであれば、付き合うがね。
テイクアウト、最後のひとつを嚥下して|男《それ》は言の葉を紡いだ。成程、彼は現在『連邦怪異収容局員』リンドー・スミスではなく、Mr.スミスなのだろう。ごくりと、咽喉を鳴らしたのか、怪異が啼いたのか。その、何方とも考えられる音だが――果たして、真意や如何に。ぐしゃぐしゃ、ドーナツの包み紙を|怪異《ポケット》に入れた。
聞いての通りだ。
君達が『やりたい事』を『やる』と良い。
応えられる範囲で、応えよう。
√能力者と――|Endless Desire for Essential Nexus《EDEN》と――簒奪者の違いについて、徐々に、徐々に、理解が深まってきたのか。或いは、深淵へと身投げするかの如くに、より理解が出来なくなったのか。何方にしても、嗚呼、欲望が絡んでいる事には違いない。……√EDENの能力者としては……楽園の民の一人としては……こんな事を謂うのは……良くないのですが……。これは個人的な感情だ。情念と謂うには些か、真っ直ぐな為に『感情』と捉えておくのが宜しい。……今の貴方様と、戦いたくは、ありません。嘘偽りがない、故に、質が悪い。まるで、インビジブルを相手にしているようだと、不可視の彼等彼女等を相手にしているようだと、紳士は苦笑してみせた。それが君の意見だと謂うのであれば、嗚呼、私と同じように、堂々と、口にすれば良いものを。いや、ようやく、私と君の狭間、亀裂のような『もの』の正体が判明したようだ。嗤う鵺のように、まわる渾沌のように、目と鼻と口を描いてやるかのような――ガーゴイルめいた、微動だにしない、平行線。
……貴方様は、弱者の為に力を揮いたいと、其の為……力だと……謂ったのは……嘘だったんですか。知っている。オマエは紳士が|簒奪者《●●●》だと知っている。加えて、この会話というものが水掛け論の延長線上だという事も理解している。しかし、如何しても、言の葉にしなければ気が済まないのだ。冷静であれ。呼吸を整えろ。たとえ、相手が裏切り者の地獄の住民だったとしても……。……でも、もし……本当に……貴方様が、弱者を救う為、貴方の國のシステムで……可能なのであれば……この世界が、黄昏では……。何故だろうか。ひどい頭痛に苛まれている。いいや、億劫めいて、脳髄が、削られていくかのような。……ねぇ、Mr.……僕に是非、教えてください。
君は如何やら、幻想に縋りついているようだ。
「汎神解剖機関の発見したクヴァリフ器官は見事な|新物質《ニューパワー》であったが、それ故に私達√能力者は、無辜の民衆を『教育』する機会を喪失したとも言えよう。弱者を守るのではない。弱者を強くするのだ。もっとも、この発言も、私の|本心《●●》なのかは不明だがね」
……つまり、貴方様は……その為なら……荒療治でも、良いと……。
ドーナツの穴を無理やり埋める所業だ。
眼窩を無理やり作ろうとしている。
捩れに捩れた揚げ物だ。
粉砂糖にまみれて、穴を失くす。
怪異の群れが――収容されていた彼等、彼女等が――すっかり、機能をしていない。機能させるつもりは最初から『ない』のだが、しかし、この本能すらも硬直させる|情報量《ノイズ》は悦ばしいものだ。つまり、簡潔に描写をしてしまえば、紳士はひどく魅了をされているのであった。聞こえますか、Mr.スミス。私も、あなたも、殺意のようなものには触れていません。星越・イサの言の葉は|音《●》ではない。まさしく|精神感応《テレパシー》の妙、凍り付いた脳髄を溶かすかのような、融かすかのような、異能か。ただ、簒奪者とはいかなるものか。あなたが、どのようなものなのか。知る必要性が、理解する必要性が、あるものですから……。椅子も机もないというのに随分な勝手ではなかろうか。おかわりに手を伸ばした後に、咀嚼。食事をしながらのお喋りは如何なものかと、紳士は囀ってみせた。あなたの行動と思考、肉体と精神、その全てを、私に観測させてください。いいえ、します。最早、抗ってはいけない。この情念に、一切の濁りなど無いのだから。
私がここにいるだけで、存在しているだけで、運命の捩れが起きてしまいますので、それが、邪魔する意思だとどうか勘違いしないで、いただきたいのです。紳士は容赦を知らないものだが、頑固者というワケではない。まったく、君は私とお喋りがしたいのか、一方的に覗き込みたいのか、ハッキリとさせた方が良い。運命だ。運命だけが勝者なのかもしれない。リンドー・スミスは頭痛でも覚えたのか、さて、頭を押さえながらも笑ってみせた。そう、笑いなのだ。嗤いではない。……ところで、無性に気になってきたのですが。ドーナツの穴を食べたことになるのはどのタイミングでしょうか。卵と、鶏に近い疑問ですが。見解をお聞かせ願います。
君はドーナツに穴が存在していると?
……ええ、私は|ドーナツ《●●●●》を何度も、目にしてきました。
この目が節穴なのでしたら、私は、熾烈に回してみせましょう。
掌握しているのだ。理解をしているのだ。勘違いこそしているが、プレジデント・クロノスの脳髄は並の√能力者よりも寛容なのである。広大無辺な灰色は様々なものを吸収し、その一切を損なうことなく引き出す事に成功している。エンターテインメント会社『オリュンポス』は文字通り、山のように大きく在れ。
影よりも濃い光が――光よりも鮮烈な仮面が――ひとつの眼、覗かせるサマは強さの証か。姿見に映った魑魅魍魎すらも現実とする、引き摺り落とす、その|一般人《ひと》は、成程、紳士にとっては垂涎の的とも考えられた。む……あれは、先程の紳士。なにやら色々と着飾っているが、やはり、ハロウィンの仮装だったのだろう。ハハハ、つまり先程のドーナツ穴の件も粋なアメリカンジョーク。笑わせる為の言動ということだろう! どれ、ハリウッド仕様の仮装とやらを見せてもらえないだろうか? マシンガンにでも撃たれたのか、鉛玉でも喰ってしまったのか。紳士は最早、笑う事しか出来そうにない。そうか、君は|忘却《●●》して尚、見ようとしてくるのか。……忘却? なんのことだ。私は、まったく、忘れてなどいないのだが……ともかく、それにしても、本場らしく生々しいな……少なくとも公共の場では、子供達には見せられない不適切な気もするが……異文化の違いなのだろう。いや、まるで……世界が違うかのようだ。ぴくりと、紳士の身体が蠢いた。君、まさか、本当に……? それぞれのお化けたちにも自律性があり、悪戯心満載だ。おっと、こいつは活きがいいな。蠢き、這い寄ってきた一部を拳だけで退けてやる。まさしく、CEO的な――上位としての、振る舞いと謂えよう。感嘆とした思いが両者に蔓延していく。米国の拘りとは、リアルに追及と云うし、最新のAIや技術は此処まで来たという事か。ぎゅう、と、握手をせよ。たとえ、それが人の身ではなくとも。
蒟蒻を使うつもりはないのだ、勿体ないからな。
連邦怪異収容局が『管理』しているもの、その幾つか、貸してあげようか?
む……いや、それは断っておこう。
我が社は『お子さんも楽しめるお化け屋敷』を作るのだ。
苦味の強い珈琲を飲み干す、そんな顔。
|眼球《キャンディ》の甘ったるさに目を丸くしてみせた|死霊《ジョン》、後ろに名無し、付けたならば、ジョン・ドゥ、スミスに近しい音色だろうか。兎にも角にもドーナツ屋、粉砂糖を狂ったように使用してカロリーの爆弾を讃えたのだ。ハロー、ムシュー。私、案外あなたのこと嫌いではないのよ。セルマ・ジェファーソンはフリーランスだ。フリーランスのゴーストトーカーだ。ならば、言の葉で意思の疎通が可能な輩こそ商売の相手なのかもしれない。なんだかんだムシューは私の「おはなし」を聞いてくれるでしょう? 寄席に新参客が来るのも嬉しいけれど、常連客がいるのもまた違った感動があるのよ。……私は、君のような死に神と出遭うのであれば、まったく、呪文を覚えようとはしないだろうね。まるで滅茶苦茶だ。蝋燭の火に何を見出したのかと問われれば、成程、進化する為の大きさに違いない。……吹き消すには、君、人間の肺では足りないのだ。私も君も、眩暈にやられるオチとも謂える。……あら? まさか、私が|また《●●》、貧血になると思っているのかしら。あの子が欲しくて、その子も欲しい。欲しくて、欲しくて、欲しくて、仕方がないのか。きちんと「おはなし」することで、あなたは簒奪者でも、まだ「人間」として理性的であると示そうとしているのかしら? 教育の賜物だとも、私は、私に対して教えるのが上手だっただけなのだ。……かなり、いじらしくて、ほほえましいことだわ。なかなか、できることではなくてよ。フリーランスの言の葉が紳士の脳髄へと染み込んでいく。文字通り、誘う神の模倣として、機械仕掛けの神として、化身をするかの如く。私は、君のように、上手に『誘う』事が出来ないらしい。……褒めているの。
籠の中の鳥を無理やり引っ張り出すかのようなヘッドハンティング。魅力的な提案すらも、最早、ナンセンスの塊だ。あぁ、あと……折角、おはなしできるのだから、あなたが、いつか力を失くして、命も失くして、透明になったとき。きっと、強大な死霊になるでしょうから、透明で、凄まじい、あなたを私の子達に加えたら、楽しいかもしれないと考えていたの。リンドー・スミスはがしがしと、頭を掻いてみせた。まるで、無邪気な子供にオネダリをされた、おじさんみたいに。……あなたが王劔なんて握った日には、この絵空事も|蝋燭《●●》みたいに、露と消えるでしょうね。君は其処まで理解しておきながら、私を仲間にしたいのか? ええ、たまには私からお誘いをするのも面白いと思って。笑ってちょうだい、ムシュー。微笑みはない。紳士には、一種の、覚悟のようなものが備わっていた。……今回は私の負けだ。いいや、私は常に、君にやられていたか。
あなたのお誘いを袖にするのも、けっこう、楽しいと思っていたの。まるで情念だ。焦がれている乙女のような瞳ではないかと、紳士は、勝手なイメージを抱いてみる。オイ、セルマハボクノダゾ、コノ馬ノ骨! 死霊の訴えも今や泡沫、輪舞をするかのように。こんな独りよがりを抱いているから、あなたに「生き急ぐな」なんて言うの。笑ってちょうだい、リンドー・スミス。苦笑いでかまわないわ。
それで、私が笑えると、本気で思っているのか、セルマ・ジェファーソン。
天使は一歩、前に進んだ。戻る事は、もう、できない。
ずきずきと、頭の中が啼いている。
……おじさま、私は、知る覚悟だってできています。
赤べこ、激しく頭を振るサマは渾沌に近しく思えた。ぐるぐる、ぐるぐる、真下を向いて、世界の真ん中で渦を描くサマは無邪気な乙女のようにも見えた。こんなに、目が回るなんていつ以来だろう。ぐしぐしと、忙しない目の玉をこするように拭ったならば、改めて、殺してしまった彼等、或いは彼女に祈りを――ほんの少し、ああ、ズラすようにして、思考を巡らせてみたりする。きっと、ここは私達が暮らしている世界じゃないよね。女神クヴァリフとぐるぐるバットをした時と……勝負をした時と、同じ世界、だと思う。だったら、私は……。覚悟をしたのだ。覚悟をしたのだから、この喪失は、この欠落は、むしろ、喜ばしいものではないのだろうか。おじさま、また、お会いできたのに……こんな状態でごめんなさい。私はいつの間にか……何かに、つまずいて、バランスが、取れていないみたいです。壁なのか、誰かなのか、凭れかかるようにして、肺へと訴えてみる。ちょっと気持ちを落ち着けたいので、深呼吸をさせてください。必要なのは静けさだ。ああ、あつい。今度は|おでこ《●●●》があつい。冷たくしないと、冷やさないと、取り込まないと……。
リンドー・スミスは待ってくれた。紳士は紳士をしてくれたのだ。お待たせして、すみません。ちょっと、色々とあって、びっくりして……おじさまは、今は、争うつもりはないのですね。なら……よかった……。言葉はない。おそらく、リンドー・スミスは現、かける言葉を持ち合わせていないのだ。いや、内心では何かを想っているのかもしれない。敵だ。強大な敵がひとつ、生じたのだ。或いは、もしかしたら、その程度とは考えていないのかもしれない。……な、なに……わからないけど、後ろから……? 世界が歪んでいるのか。もしくは、歪みが取り払われたのか。くるりと、熱っぽさと共に、冷たさと共に、振り返ったのならば――見た事のない女性が浮かんでいる。この雰囲気……夢で……見守ってくれた、あの人……。一ノ瀬・エミを守ろうとしている。まるで、抱擁をしてくれる、●●のような。
大丈夫、おじさまに敵意はないから。
……君は何処までも、人間性を大切にしているようだ。
後ろの女性は発声できていない。その代わりに、身振り手振り、何かを伝えようとした。あ……お腹をさすってる……えっと……おじさま、お腹はいっぱいですか? って聞きたいのかも。リンドー・スミスはため息を吐いた。いいや、空腹だ。文字通りの別腹、君なら、君達なら、わかる筈だ。おどれ、おどれ、怪異の如くに。
精霊『ルティルス』、撫でるように。
一ノ瀬・エミ、君に√能力者について、私の知っている限りの事を、
教育しよう。
楽園の中で味わった幾つかの思い。
一切を落とすことなく、男は抱えてみせた。
お互いに坐しているのだから、最早、肚を探るかのような行為はナンセンスなのかもしれない。されど、何処かの星詠みの言の葉通り、ナンセンスこそが肝なのであれば、悪魔のように、魔王のように、弄ろうとするのも間違いではない。信頼? 人間が、知的生命体が、思考停止する時によく使う……ゴホン……。ディラン・ヴァルフリートの脳内には果たして蛇のような大罪がのたうち回っているのか。眼球が正常を決め込んでいるのならば、愈々、飼い慣らしていると謂っても宜しい。まだ、実装前の概念ですね……で、あれば……。口腔の奥、咽喉の奥、臓腑から来たりし苦悶については、さて、今更なのだと一蹴すると良い。邪眼討伐を手伝うフリくらいは、しても良かったと思いますが。いやいや、まったく。私が敵であることを前提としてのお話だ。君なら、その程度、呑み込む事など容易だと思うがね。紳士はわらう。それこそ、魔王に向けて剣を向けるかの如くに。たとえば、僕が今、貴方の言い分を信じるように。小粋なアイスブレイク……額を冷やしてやるべきは、もっと『いる』だろうと謂うのに。……それで、君は私と何をしたいのか。簡単なことです。仮に、僕が簒奪者だとして、情報こそが、最も大切なものだと、わかっていますので。
虎穴に入らずんば虎子を得ず――諺にしてみればおそろしいものだが、視よ、虎はいない。さて……偶にはゲームの趣向を変えるのも良いでしょう。ちょうど此処にトランプがあります。私は君の事を常にジョーカーだと思っているのだが、君自身は如何かな? 紳士のジョークを流しつつドラゴンプロトコル、配るのか、配らないかの瀬戸際。……フェアにします。勝負の内容と、相手に訊きたい事を宣言し、敗ければ答えなくてはならない……宣言する側は、交代制で、繰り返すのです。……つまりは、勝てばいいと、そう宣うつもりか。莫迦げている。あまりにも、莫迦げている。こんなもの、イカサマを仕掛けると口にしている沙汰ではないか。……成程、君は何処までも、罪深いらしい。
貴方が今まで為した仕事の中で、最も誇れるものは?
まさか、今まで、私が君達に勝利をしたとでも?
為した仕事の中で、最も……所謂、一般受けしそうな功績は?
ドーナツの早食い競争で優勝した事くらいだ。
局員である貴方の上司……いつぞやの視察団とは別に、差し詰め局長の当たる人物像について……? ここで『仕掛けた』と謂うのに、如何やら、オマエは負けたらしい。成程、敗けたと謂うよりも、世界に阻まれたと思うべきか。
彼方からの質問は如何やら、ありきたりなものであった。深く、深く、突っ込んだものはなく。それこそ、総てが遊びだったと思わせるかのような。……あなたは……僕に、興味がないのですか? 君も、君にはあまり、興味が無さそうだ。
……そろそろ頃合いですね。
ドーナツの穴は埋め尽くされた。空虚が薄れるかのように。折角です。お土産に香辛料でも如何でしょう。手渡ししてやったのはスコヴィル100万のスーパーホット。これには紳士も苦笑いで、汗ばむ様子。触れるだけで炎症を起こすと謂うのに、まさか、素手でいくとは驚きだが。……お好きなように、してください。
リンドー・スミスは√汎神解剖機関へと帰っていった。
束の間の休息は終わりを迎え、再び、争う日がやってくるのだ。