月にわかれうた
●誰そ彼時の|誘《いざな》い
ただそこに居てくれるだけで良かった。
貴方の歌や声、その微笑みに……何度も元気を貰っていたから。
一部のファンのように本気で恋してるわけでもない。
それでもあの月のように、いつもそこにいて欲しかった。
——ただ、それだけだったのに。
「嘘でしょ……こ、こんなことが……こんなことが、許されていいの……?」
涙と共にぽろぽろと。彼女の唇から漏れ出たのは悲嘆か、それとも。
『嗚呼……貴方の悲しみが、憤りが伝わってくる。私はそれを全て肯定しよう……』
「え……?」
そんな女の痛哭に呼び寄せられた影が誘う。——復讐を、と。
●推し活、それは生き甲斐
「集まってくれて、ありがとう、ね。……古妖【紅涙】が、ここ√妖怪百鬼夜行に現れると、星が告げた、よ」
『ぷいっきゅ!』
とある妖怪横丁のはずれ、古書店の奥座敷にて。
星詠み内容を話し始めた坂堂・一の肩で、チンチラ型精霊が元気に相槌を打った。どうも少年の手伝いをするつもりらしく、机に降りてくるとスケッチブックをいそいそ立てて待機している。
「ありがとう、ぷいぷい。それじゃあまず……今回紅涙が接触したのは、明美さんという女性、だよ」
ぺらり、スケブが一枚捲られる。そこにはややふっくらとした中年女性の似顔絵と名前が描かれていた。『明美さん(52)』……おい待て年齢はやめて差し上げろ。
重要な情報? ならば仕方なし。
少年の言によると明美は|夜のカフェー《キャバクラ》で働く女給で、昔は人気女給だった彼女も女盛りをとうに過ぎ、雑用や裏方へ回されることが多かったらしい。それを屈辱に思いながらも、彼女が辞めずにいられたのは——。
「推しの存在があったから、なんだ」
また一枚、精霊の小さな手がスケブを捲った。
今度は若い男性の似顔絵でやたらキラキラしている……名前は『月形まもる』、職業は歌手。なるほどこれが明美さんの推し。
「彼が駆け出しの頃、明美さんの勤めるカフェーで歌ったことがあって、その時に、ね。ちょうど裏方仕事が多くなりだして、ささくれ立ってた明美さんの心を、癒したっていうか……浄化した感じ、かな? 尊い、って」
そんな出会いがあって『推しを多くの人に知ってもらいたい、彼の歌を全国のお茶の間に流したい』という希望を持った彼女は、それはもう精力的に推し活に励んだそうだ。
レコードやCDといった曲の媒体を複数買い求め、あらゆるグッズも全て押さえ。時には女給仲間に配布し、地方ステヱジにだって赴いて。
そうやって長年応援し続けたある日。
「ファンクラブの会報に、『まもる、故郷で凱旋ステヱジ決定! 重大発表も有り、ついに全国デビューか?』の文字と、当日スタッフ募集の項目があるのを見た明美さんは、一大決心したんだ」
——全国という舞台に立つ推しに相応しい清い心でいなければ、と。
手始めに夜のカフェーに退職届を出し、当日スタッフ募集の面接を受けて。
これからは推しに清いお金で貢いでいこう、彼があの月のように輝いてる限り私は頑張れる……そう思って参加した当日の朝。
出演者と全スタッフの打ち合わせで知った事実に、彼女は理解が追い付かなかった。
「マネージャーさんと結婚するから、これが引退ステヱジのつもりだって。だから故郷でサプライズ発表企画、だそうだよ」
……うわぁ、と誰かの口から漏れた感想が全てだろう。ファンに応援される身として一番やってはならない結婚・引退発表の見本を、彼はやってしまったのだ。
「明美さん、お仕事辞めて今は求職中で……もう後がないのに希望まで奪われた、って。裏切られた気持ちになっちゃったん、だろうね」
そこに紅涙が接触し、復讐のためにステヱジを襲撃した……それが事件の顛末だ。
「そんなわけで、皆には明美さんと紅涙が接触する前に、彼女が復讐を考えないよう働きかけてほしいん、だ。ただ……直接訴えかけるのは、あまりお勧めしない、かな」
ぷいぷい、と声をかけると精霊がまた一枚スケブを捲る。
そこには怒った顔の明美さん(52)の他に涙目の……これは、紅涙……?
『何よどうせ同情したフリで何か買わせようってんでしょ私は詳しいのよ』
『いいわよね美人は、私だって若い頃は』
『まさか泣いてるの? これだから若い子は、泣けばいいと思ってるでしょ』
以上が明美さんの周りに書き込まれた台詞である。
「ええと……難しいお年頃の女性って、とても繊細、だよね」
言葉を濁してはいるが、これが年齢公開の理由だろう。通称『おばちゃん人の話聞かない問題』だ……ネガってるせいで僻みまで上乗せされている。無敵か。
「紅涙も、明美さんを説得するのに苦労した、みたい。だから、これ使お?」
そう言って少年が取り出したのは月の形をした一筆箋。
「ステヱジが行われる町は、月が綺麗に見えると評判の地域で、毎年十五夜から十三夜までお月見祭りが行われてるそう、だよ。これは、そのお祭りの企画の一つ。『あなたの【好き】を語ろう』っていう、多分ステヱジを意識したテーマなんだろう、ね」
夕刻時、明美さんはステヱジ前の掲示板にこれを貼る作業をしているそうだ。
「素直に受け取れない時でも、思いを籠めた『好き』を間接的に見れば、明美さんも楽しかった推し活を思い出せると思うん、だ」
そうして復讐を拒絶した彼女を紅涙から守ってあげて、と少年は締めくくった。
お祭りでは『ハイカラお月見グルメ』も企画されており、人間・妖怪問わず様々な料理人が腕を振るった屋台も並んでいる。夕刻まではゆっくり屋台を見て回るのも良いだろう。
また、夜は夜で赤提灯の屋台や足湯のコーナーも追加されるとのこと。ほんのり冷える秋の夜長、温もりながら月見を楽しむのも乙なものだ。何せ十三夜の月は十五夜に次いで美しいとされているのだから。
「それじゃあ、気を付けて。いってらっしゃい」
『ぷーいっ!』
いつの間にか肩に戻った精霊と共に、少年は手を振り能力者達を見送ったのだった。
第1章 日常 『召しませ、ハイカラ妖怪グルメ!』
●お月見祭りパンフレット
【月の美しいまちへ ようこそ】
古来より、我が国では十三夜を祝う文化がありました。それは中国から十五夜の文化が伝わり、中秋の名月として根付いた後もなお愛され続けています。
月が綺麗に見えると評判のこのまちでも、伝統行事として毎年両方を祝う祭りを催しております。どなた様も是非楽しみながら秋の名月を愛でてくださいませ。
■日時(祭りの期間):10/6〜11/2
十五夜(芋名月)から十三夜(栗名月・豆名月)まで。
■場所:銀座通り〜町役場前広場まで
期間中、役場の講堂は関係者以外立ち入り禁止となっております。
■企画その1【ハイカラお月見グルメ】
名月にちなんだハイカラなスイーツや軽食の屋台が出店!(裏面に詳細あり)
広場には食事用の場所もございます。
■企画その2【あなたの『好き』を語ろう】
美しい月の下、あなたの『好き』を誰かと一筆箋で共有しましょう!
■ゲストによる特別ステヱジ ○月○日 夜19:00~20:00予定
我が町出身の歌手、あの月形まもるが帰ってきた!
空の月とステヱジの月が町役場の講堂にて共演します。お楽しみに。
【ハイカラお月見グルメ 出店一覧と場所について】
①カフェー 『月のうさぎ』
・五色豆のビスコッティ(五種のかのこ豆入りザクザク触感の固いクッキー)
・栗と薩摩芋のブラウニー(栗と薩摩芋の甘露煮入りチョコレートケーキ)
②ベーカリー 『おーたむりぃふ』
・チリドッグ(通常のチリドッグにチリコンカンソースをかけたもの)
・ダルカレーパン(緑豆のカレー入り)
・揚げたてコロッケ(さつまいも・じゃが栗・おからの三種)
③洋菓子 『花蓮』
・白花豆のティラミス(チーズと白花豆のクリームにきな粉を降らして)
・名月食べ比べセット(紫芋・和栗・黒豆の小さいモンブラン三個セット)
④茶寮 『常磐』
・お祭り限定 常磐らて(小豆餡とミルクと抹茶orほうじ茶の三層仕立て)
他、通常の飲み物メニューあり
(以下、夜の部紹介へと続く)
●町役場 広場前にて
「はーい一筆箋の回収はこちらですー。ゴミは向こうにお願いしますねー」
祭りの喧騒の中、若い女性達が嬉しそうに一筆箋を箱に入れている。
そんな彼女達とは対照的に、回収箱を持つ女性スタッフは死んだ魚のような目でその様子を眺めているのだった……。
●月を食す
「広場に食事用の場所……あ、あそこね」
お祭りのパンフレット片手にニコニコぽやぽやと。
目的のテーブルを見つけ、オフィーリア・ヴェルデ(新緑の歌姫・h01098)が指さしながらそう声を上げた。クレス・ギルバート(晧霄・h01091)もつられて視線を向ければ、屋台で購入したグルメをテーブルに広げ、楽しそうに飲食する者たちの姿が見える。
「じゃあ買ったらここに集合な。迷子になんなよ?」
「ならないもん!」
幼馴染の反応が楽しいからと、ついつい揶揄ってしまうのだが……分かっていてか無自覚か、小さく舌を出して「べーっ」とする姿にまた笑って。
先に戻ったほうが席を確保と取り決めしたら、それぞれ好みのグルメ探しの旅へ出発!
スパイスの香りに誘われ、クレスがやってきたのは『おーたむりぃふ』の屋台。
(「お、これ美味そ……いや駄目だ、|アレ《・・》が入ってる」)
辛いのは好きだがチリドッグのこの赤いのは……ならばと他のメニューを見れば、揚げたてコロッケとダルカレーパンの文字が目に入る。
「へぇ、緑豆のカレーか。いいな」
どうやらお目に叶うものが見つかったようだ。
一方その頃オフィーリアはというと。
(「どれも美味しそうで目移りしちゃう……でも、今日はこれって決めてるの」)
そう決意しながら向かった先は『洋菓子 花蓮』の屋台。
ショーケースには他にもいろいろ並んでいて、ほんの少し揺らぎそうになったけれど。
今日はハイカラお月見グルメを堪能するのだと、もう一度その常緑の双眸に決意を宿して——慎重に、丁寧に。無事買えたそれを崩さぬよう、オフィーリアはゆっくり広場へ歩いていく。
「リア、こっちだ」
軽く手を挙げ呼ぶ声に、お待たせと応えながらオフィーリアもテーブルについた。
彼女が買ったのは名月食べ比べセットで、かわいらしい三つの紙カップの中でそれぞれ紫芋・和栗・黒豆のミニモンブランが鎮座している。頂点にはそれぞれのグラッセが乗っているので間違うこともないだろう。
「リアはそれにしたのか」
「うん。月の名に芋や栗や豆の名前を付けちゃうなんて面白いと思って」
「豊作祈願の供物の名で呼ぶなんて日本らしいよな」
「もし日本が私たちの故郷と同じ風土だと何になったのかしら。ベリー名月?」
くすくすと笑いながら、オフィーリアは木匙で三つの名月を半月に割っていく。
そのうちの一つを匙に掬うと、落とさないようそっとクレスの口元へ運んで。
「はい、クレスも食べて」
「ん」
差し出された一匙をクレスはごく自然に受け入れ、素直にぱくり。
それを満足げに見遣ると、今度は自分もとオフィーリアも順に掬って味わう。
紫芋のさっぱりとした甘さ、甘みの強い和栗の上品な香り、黒豆の香ばしさ……それを優しく受け止めるのはふわふわスポンジと生クリーム。
「んんーっ、三つとも風味が全然違って面白いわ。美味しい!」
「ん、美味い。俺は和栗が好きだな」
「私はどれかしら……やだ、悩んじゃう」
こっち……でもこっちも……と真剣に悩む幼馴染の様子に顔を綻ばせながら、クレスも買ってきたカレーパンを手に取った。
揚げたてカリカリの衣からは香ばしい香りが未だ立ちのぼっており、それが一息に頬張れと誘惑してくるようで——素直に従い齧りつけば、ザクザクの食感と共に香辛料の複雑な香りが鼻腔いっぱいに広がっていく。
「美味ぇ……」
「クレスのパンも美味しそうな香り……」
目を閉じ咀嚼していると前から熱視線を感じる。薄く片目を開ければ、オフィーリアが物欲しそうな表情でクレスとパンをじっと見つめていて。
ふは、と笑って眦を緩めると、クレスはパンを半分に割って差し出した。
「ほらリア、これも美味いぞ」
「え、いいの?」
「ああ。辛くないからリアでも大丈夫だぜ」
辛さに耐性はないけれど、クレスと同じものを食べたい。
そんな気持ちを汲んでくれた彼に礼を告げ、オフィーリアもはむっと一口。するとスパイシーな香りの後に優しい豆の甘さが感じられて。
「本当ね、美味しいわ」
——きっとその『美味しい』は、同じ味を分け合い共有した嬉しい気持ちが隠し味。
●月に祈る
お月見グルメを堪能したその後は、広場入口脇にある一筆箋コーナーへ。
「リアは推しが居るのか?」
「うーん、居ない……というか実はよくわかっていないの」
「俺も違いは分からねぇけど、繊細なお姉さんの心を霽らしてやらねぇとな」
「そうよね。違ったら申し訳ないけど、思いが届くように書かせてもらうわ」
そんな風に話しながら、二人は月を象った一筆箋に視線を落とす。
——自分の好きなもの、と考えたとき。
二人の脳裏に真っ先に思い浮かんだのは、やはり隣にいる存在だった。
『クレスへ
いつも私に元気と勇気と安心をくれてありがとう
貴方が幸せで居てくれる事が私の幸せです』
『満ち欠けする月の如く
くるくる変わる表情が愛らしい君へ
たとえ往く途が分かたれても
大切な君が幸せで在る事を唯願う』
大切に大切に、『好き』という思いを籠めて。
初夏の折にも祈ったそれを、今度は未だ見ぬ誰かにではなく月へと向けて。
この思いが必要な誰かの心に届きますように——。
「お前、俺の事大好きじゃん」
自分のことは棚に上げ、隣の一筆箋を見たクレスがそう軽く笑う。
揶揄い混じりのその言葉に、幼馴染はどんな反応を見せるかと思えば。
「そうよ、知らなかったの?」
……常ならその愚直なまでにまっすぐな言の葉を、ついと逸らした視線で躱したものだけど。
そう応えるオフィーリアがあんまり綺麗に笑うものだから。
「……知ってるさ」
眩しいものを見るような瞳で改めて願う——どうかこの先も幸せに咲んでいて、と。
●月よ伝えて
祭り会場である商店街——通称『銀座通り』。
本日は月見日和との天気予報を受けてか、はたまた夜のステヱジ目当てか。ここ数日より人が多い、と屋台の主たちも夜を楽しみに張り切っている。
|小明見《こあすみ》・|結《ゆい》(もう一度その手を掴むまで・h00177)もまた、そんな雰囲気に浮かされるように楽しげに通りを歩いていた。
どうやらパンフレットに書かれた企画以外にも、縁日でよく見るヨーヨー釣りや型抜きなどの催しもあるようだ。
(「あ、あの人もしかして付喪神かしら……?」)
この√妖怪百鬼夜行は妖怪と人間が共存する世界。
そこの可愛らしい人形とリンクコーデしたくじ引き屋の店主も、お揃いではなく人形が本体かもしれない。
(「やっぱり見た目だけじゃ分からないわね」)
先日の傘の勘違いを思い出してしまい、結はほんのり頬を紅潮させていく。
ちなみに星詠みの少年も簪の付喪神だったりするのだが、これが巷で騒がれている『他種族と人間、区別つかない』問題であるとかないとか。
そんなことを思いながら歩いていると、通りの至る所に月形まもるのステヱジ告知用ポスターが貼られていることに気付くいた。
「この人が明美さんの推しなのね」
【推し】。
一言で表すなら『好きなもの』だが、その実ニュアンスはもっと複雑で。
(「好きなアイドルとかはいるけど、推しとは違う気がするし……」)
結も普段は女子高生らしく、友達と好きなアイドルやグループの話で盛り上がことはある。例えば歌詞が泣けるだとか、明るいイントロがアガるとか、ボーカルの顔が良いだとか……しかし他人に熱烈に勧めるほどかと問われれば答えはNOだ。
(「明美さんの気持ちは私には想像することしかできないけど、好きな歌手が引退するのは悲しいわよね」)
——そう考えた時だった。
視界の端をひらりと何かが横切っていく。
「……蝶々さん?」
つい先日見た夢が心の深層部に残っていたのだろうか。
何故だかそう思い、目で追った先にいたのは仲の良さそうな親子連れで。
お菓子をねだるその女児の髪に、ひらひら揺れるレースのリボンが結ばれていた。
(「あ……あの子のリボンがそう見えたんだ」)
そのまま親子連れを見送りながら、結はゆっくりと目を閉じる。
(「……そうね、大事な人に会えない悲しさなら私も知ってる。だけどその結果が復讐なんて、そんなの誰も救われないし。止めなくちゃ」)
そう決意を新たに目を開けると、結は広場へと歩んでいくのだった。
「うーん、『好き』を……ね」
貰ってきた一筆箋を前にして、お気に入りのペンを片手に結は少し悩んでいた。
そんな少女の傍らには『洋菓子 花蓮』の白花豆のティラミスが完食された状態で置かれている。……何となく『白花』という文字に惹かれたのだ。
それをちらりと一瞥し、結はうん、と一つ頷く。
「やっぱり私の一番の『好き』はお菓子かしら」
かわいかったり、綺麗だったり。見た目は地味でも味が華やかだったり。
甘くて美味しいお菓子はいつだって結を幸せにしてくれる。
食べるのももちろん好きだけど、自分で作るのもまた楽しくて。
自分好みにアレンジして上手くいった時の達成感も、「美味しい」って喜ぶ誰かの笑顔も何物にも代え難くて。
だから結は思うがままにペンを走らせる。
「明美さんに届くよう、私なりに思いを込めて……」
そんな幸せなときめきが、きっと彼女にもあったはずだから——。
第2章 ボス戦 『紅涙』
●月にわかれうた
秋はつるべ落とし。
一気に傾く夕陽が長い影を講堂に落とし込む中、一人作業に勤しむ女性がいた。
「……♪忘れないで いつもそばにいるよ 嬉しいときも 悲しいときも」
月を象った一筆箋を一つ一つ、ステージ正面の壁に掛けられた掲示板へと貼っていくその女性——明美の口から零れるのは、彼女が推し活を始める切っ掛けとなった歌で。
「♪忘れないで いつも見守ってるよ 夜空に浮かぶあの月のように……」
明美以外誰もいない講堂で、歌声だけが寂しく響いている。
……いや、もう|一体《ひとり》。
長い影がゆらゆらと揺れ、長い黒髪の古妖【紅涙】がぬるりとそこから現れる。
『嗚呼……貴方の悲しみが、憤りが伝わってくる。私はそれを全て肯定しよう』
「ビッ……クリした。ここはまだ一般の人は入れないはずよ、貴方どこから……」
突如かけられた声に驚きながらも、明美はスタッフとして退去させるべく振り向いて……その血に染まった花嫁衣装に。流す血涙に。般若の面持つ鬼女の姿に息を呑む。
『愛する者に全てを捧げ、裏切られた悲しき貴方に代わり。私が復讐を請け負おう』
「裏切り……復讐……」
『職を失ってまで彼を支えようとした貴方。そこへ何の前触れもなく切り出された|別れ《引退》に、こんなことが許されていいのか……そう思うのも当然の帰結』
それまで抱いていた感情を言い当てられ、動揺した明美は視線から逃げるよう俯く。
『悲しき女性よ、復讐を。貴方なら私の行いを赦してくれるだろう』
「……確かに私は裏切られた。あの発表の仕方は最悪だったわ、けれどね」
震える声でそう言いながら、明美はゆっくり掲示板へと振り返る。そこにあるのは祭りの一般客が書いた『好きについての思い』たち。
「不思議よね……最初は『【好き】を語るぅ? 私の好きは今日突然終わりを告げられましたが何か?』なんて思いながら貼ってたコレが、大事なことを思い出させてくれたの」
まもるの歌に元気を。彼の微笑みに安心を。
いつも何かを貰っていた、いつだって明美を幸せにしてくれたことを。
自作のファンサうちわを掲げると、嬉しそうに笑みを返してもらった時の気持ちを。
あの推し活中の胸の高鳴りを、世界が煌めいて見えたあの日々を、復讐には不要と切り捨てるにはあまりにも大きすぎて——。
「今でもあのサプライズは許せないわ。それでも推しが幸せであることを願って最後の瞬間まで推す……それが私の|月《推し》に捧げる別れ歌よ!」
力強く、推しの声量にも負けぬほど声を張り上げて。
紅涙の誘いを拒むよう、明美は毅然とした態度で古妖へと向き直った。
『嗚呼、嗚呼、貴方も私を否定するのか……! ならば私もお前を否定しよう、お前を裏切る者と共に血霧の中へと消えゆくがいい!!』
射干玉の髪を掻き毟るように後退りながら鬼女が咆哮する。
明美の元へと駆けつける能力者たちの足音を伴奏代わりにして——。
**********
●マスターより
時刻はステヱジ準備前、講堂内に人が来ることも障害物もありません。また、講堂は妖怪同士で喧嘩してもある程度は耐える造りになっています。
戦闘は紅涙から明美を庇うように能力者が割って入ったところから描写開始です。
紅涙は明美を狙っていますが、邪魔だと判断すれば能力者を攻撃対象にするでしょう。なお、明美は邪魔にならないよう隅で震えていると思われます。ほっといて大丈夫。
もはや紅涙に会話は成立しません、哀しき付喪崩れに引導を渡してやってください。
●
「……あらあら。否定されたからといって、短絡的に攻撃するのは良くないですよ」
そこへ柔和な声と共にひょっこりと現れたのは、淡紅藤色のストールがお洒落な老婦人だった。
眼鏡をかけた品の良いその女性、名を|古衛《ふるえ》・|早希《さき》(重甲老兵・h00480)という。たまたま月を愛でにこの祭りに来ていたところ、不穏な気配を感じてここへやってきたのだ。
早希は何が起きたのかを察すると、そっと明美を庇うよう背後へ隠して。
「あなたが夏至頃から色んな√世界を騒がせている子ですね? いけませんよ、こんな若い子の命を断とうだなんて……」
「わ、若……っ!?」
明美(52)を『若い子』呼ばわりする早希に、当の明美本人も目を剝いた。だが早希は来月で101歳。彼女からすれば、明美もまだまだ『酸いも甘いも嚙み分けられる年齢』ではないということだろう。
「ふふふ。ここはこのお婆ちゃんがなんとかしましょうね」
後ろを振り返りお茶目にウインクすると、早希はスッと腕を伸ばしてポーズを決め。
——変身っ!
早希の体から眩い光が放出され、紅涙の視界を白く染めていく。
光が集束したその先には——対怪人装甲兵器である『重甲』を纏い、可愛いらしいハートが描かれたヒーローマスクで武装した早希の姿があった。
『あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!! おのれ、邪魔をするな!!』
未だ完全には戻らぬ視界の中、紅涙が髪を振り乱し早希を狙った。
しかし怨嗟を込めた花嫁道具をどれだけ投擲されようが、早希は最小限の動きで躱していく……衰えを感じていても流石はベテラン、安定感すら感じさせた。
「おやまあ。遠距離攻撃は数を撃てばいいってもんじゃありませんよ? こうやって……」
そう言って彼女は幾つもの『ヘビー・ブラスター・キャノン』を召喚すると、紅涙の足元へ集中砲火して牽制する。
「相手の出鼻を挫く使い方も出来るんですよ。ね?」
早希の言葉通り、紅涙はそれまでの勢いを削がれたらしく少し距離を取った。その様子に一つ頷くと、振り返らぬまま彼女は講堂入口へと手を挙げて。
「それじゃ、後は若い子にお任せしましょうか……お願いね?」
マスクの下でそう笑いながら、早希はかけつけた人物を穏やかな声で招き入れたのだった。
●
『何故だ……何故、お前たちは私を否定する!! 私はただ、花嫁の痛哭を……!!』
夕暮れの講堂で鬼女が叫ぶ。
裏切った男が憎い。
花嫁を守れぬ周囲の人間が憎い。
|貴方《・・》の代弁者である自分を裏切った|お前《・・》が憎い、と。
「精霊さん、お願い。行って!」
その叫喚を断ち切るかのように、凛とした声が夕暮れの講堂内に響いた。それと同時、美しい浅緑の精霊が紅涙のその血のように赤い瞳めがけ強襲する!
『ええい、忌々しい羽虫めが!!』
だが苛立たし気に袖で振り払う紅涙を傷つけるには至らず、精霊は袖から逃れ戻ってくる。
(「それでいいわ。明美さんから注意を逸らすのが目的だもの」)
そうは思うもののこちらを睨みつける鬼女の迫力に、小明見・結は退がりそうになる足を必死に踏ん張り続けていた。
本当は怖いだろう、恐ろしいだろう。結は元々ただの女子高生だったのだ。
傷つくのは怖い。自分が他人を傷つけるのも怖い。それが普通だ。
力を得たとてその意識が簡単に変わるわけではない。
それでも——。
「ねぇ、紅涙さん。どうか、ここで大人しく退いてもらえないかしら」
『……?』
まっすぐ目を見ながらそう話す結に、紅涙は訝しげに眉を顰める。
「明美さんはあなたを否定したわけじゃないわ。彼女は彼女なりに別れに向き合った、ただそれだけのこと。悲しみがなくなったわけじゃないだろうけれど、それでも進むべき道を決めた……復讐なんて方法を選ばずに」
結の言葉に堪え切れなくなったのだろうか。後方から小さな嗚咽音が聞こえてきて……今すぐ背中を擦ってあげたい気持ちを抑え、結は思いを届け続けた。
「だから紅涙さん、あなたが為すべきことなんて何もない。彼女の気持ちに寄り添うなら、ここで……」
『花嫁は笑んでいた』
突如。
結の言葉を遮るように、紅涙がこてりと首を直角に傾けながら嗤う。
『もうすぐ愛しい方の元へ嫁ぐのだと。幾つもの山を越え、花嫁道中は続いていた』
紅涙は語り続ける、遠い遠い昔の花嫁との記憶を。
全てが満ち足りていた幸せの断片を。
今までの会話を無視したような脈絡のなさに、結は悲しげに下唇を嚙み締めるしかなかった。
——嗚呼、この付喪崩れはとうに歪んでいたのだ!
ざわり、ざわりと影が蠢く。
その影に一瞬見えた花嫁行列に能力発動の前兆を感じ、結は戦う覚悟を決める。
「戦いたくなんてないけれど、守るためなら迷ってなんかいられない!」
傷つくのは怖い、自分が誰かを傷つけるのも怖い。
それでも力があるのに守れないことのほうが、結には余程恐ろしい!
「精霊さん、思いっきりやって!」
結が風の精霊の力を解放すると、紅涙の足元からヒュルル……と風の音がして。
瞬きのうちにゴゥッと激しい竜巻が鬼女を中心に発生した。
手加減のないそれは範囲内の全てを飲み込んでいく。
紅涙も、嫁入り道具も、——悲しみも狂気もすべて。
(「力尽くになってしまったのは悲しいけれど、これ以上傷つけさせないために全力を尽くすわ」)
『ぐ……あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!! 風を、この風を止めろぉおおおお!!』
風が巻き上げた花嫁道具が、そのまま紅涙を傷つける刃となり血飛沫をあげていく。
それはまるで狂い堕ち、守るべき女性たちを手にかけてきた紅涙自身を暗喩するかのようだった。
●
『——|永遠《とわ》の愛の契りは果たされず』
一歩。
『誓詞は無残にも千切り捨てられ』
また一歩と。
『悲劇のなか血霧に塗れた、哀しくも愛しい花嫁たち』
じわり、じわりと紅涙が明美へと近付いてくる。
その鬼女の見開いた紅瞳は、氾濫しそうなほどの狂気を宿していた。
『花嫁が私の行いを赦さぬ筈はない。赦さぬ筈がない』
口に銜えた懐剣をその手に持ち替えて、紅涙が更に詰め寄ろうとしたその時。
「おっと、そうはいくかよ」
「折角立ち直り掛けてる明美さんを害するのは絶対許さないんだからっ」
そこに呼吸をぴったり合わせ、明美の前に躍り出る二人の冒険者の姿があった。
「古妖に啖呵を切る声、格好良かったぜ。こっから先は俺達に任せてくれ」
皎月の如き白外套を翻し、クレス・ギルバートは明美へと短く告げ。
オフィーリア・ヴェルデもまた空翔ける翼持つ靴を鳴らし、その隣りへ並ぶと。
(「明美さんへの攻撃を邪魔する存在だとアピールしなくちゃ!」)
そう意気込んだ勢いのまま、両手を上げて威嚇する羆のポーズ!!
『……いや、何をしている?』
「私たちを狙うように威嚇してるのよ、ガオー!」
流石の紅涙も困惑しきった声を上げるが、彼女は至って真面目であった。
「それに、紅涙さんってこの前行ったお化け屋敷のお化けに似てるわ。だからかしら、1度経験してるから怖くないの。本当よ?」
「あー、あれか。でもお化け役のお姉さんよりは怖いと思うぜ?」
そんな軽口を叩く間に二人は明美をそっと後方へと逃がしており。それを目で追いながらも、立ち塞がる男女へ鬼女は殺意を言の葉に乗せる。
『私が請け負わねば、誰が果たしてくれようか。邪魔をするなら容赦せぬ』
——さぁ、哀しき付喪崩れに引導を。
●
「サポートは任せて!」
クレスが抜刀し構えると同時、オフィーリアがスゥッと呼吸を整え。
「響け、心の調べ」
——貴方の刃が、その心根と同じく真っ直ぐ敵に届きますように。悪しき敵の凶刃から軽やかに逃れられますように。
揺るぎなく狂いなく、クレスが彼らしく戦えるように導く旋律となれと願い込め。
オフィーリアという花は|響き合う五線譜《イル・ペンタグラマ・ケ・ウニシェ》を歌い紡ぐ。
『聞くに堪えぬ……耳障りなその音、元から断ってくれよう」
先程の羆のポーズが効いたわけではないだろうが、紅涙はまずはオフィーリアへと跳躍し、その喉を引き裂こうと爪を光らせる。
「させるか、よ!」
ガギィッ!! と音を立て、クレスの刀が真っ向からそれを受け止めた。
鍔迫り合いにも似た拮抗の後、互いに弾きあい距離を取って。再び迫り来る紅涙目掛け、|背《せな》に響く花の祷り歌を乗せ上段から斬りつける。
『っ!! おのれ!』
秋の夜に冴え冴えと輝く繊月の軌跡を描く一閃に、紅涙の肩からパッと鮮血が飛び散った。
だがその痛みに顔を顰めながらも、紅涙はなおオフィーリアを凝視し。
『……あの時もそうであった』
「え?」
『花嫁を守るはずの男衆の少なさに|父様《ととさま》は早く気付くべきだった』
ゆらゆらと。
目を伏せ瞑想を始める紅涙の傍らに、血霧に霞む花嫁衣裳の女の姿が蜃気楼のように映し出される。それを何らかの術だと気付いたオフィーリアはディヴァインブレイドを動かして。
「クレス、あれを止めて!」
「分かった!」
祈り込めたディヴァインブレイドが足を払えば、避けた先をクレスの刃が追い。
阿吽の呼吸で繰り広げられる集中攻撃に瞑想を中断させられ、苛立たしげに紅涙が歯噛みする。
そうして二人を睨めつけていた瞳が、やがて懐かしそうに細められると。
『お前たちを見ているとあの日を思い出す……』
紅涙は再び語りだす、自身が見てきた幸せな頃の断片を。
『あれは美しい月の夜だった。筒井筒とも称されるほど、仲の良い男女がいた。生まれた時から共にいた二人は……』
筒井筒。
古い物語の題材の一つであり、互いに惹かれ合う幼馴染の男女の話である。恐らく紅涙は二人の様子から関係性を感じ取ったのだろう。クレスもオフィーリアも『幼馴染』という言葉に思わず続きを聞いてしまい——そうして術は完成する。
『……筒井筒の二人とは比べるべくもない。哀れ花嫁は嫁ぐことなく、峠の花嫁道中は虚しくも血に染まったのだ!!』
世界が赤く染まっていく——静かな講堂は虚無の峠道に、黄昏時は紅い月夜にと。
(「一つ防いで油断しちまった……!」)
先程よりも紅涙の妖力が増しているのが感じ取れる。そのことにクレスは思わず舌打ちした。
『さぁ、花嫁の無念を私が晴らそう』
うっとりと、恍惚とした表情で嗤う花嫁衣裳の鬼女……その攻撃は熾烈を極め、爪や懐剣が届く限りは全て的確に急所を狙われた。
そして狙われたのはクレスだけではない。
防戦一方となったクレスの隙を突き、紅涙はオフィーリアへもその凶刃を向けて。
「リア!!」
迫る刃に追い縋るよう、必死に庇おうとする幼馴染を視界に入れながらも、オフィーリアはそれに微笑んでみせた。
(「私が大丈夫って所をみせないと、大切な人が集中して戦えないもの。……っ! もしかしてこれが『推し活』という物なのかしら」)
いつも守ってくれる貴方。そんな貴方が傷つくのは嫌だと何度告げただろう。きっと自分が庇えば彼の矜持を傷つける。ならばせめて、自分はもう戦えるのだと示したい——!
そんな強い思いでディヴァインブレイドを操り、紅涙の懐剣をギャリリリ……ッと音を立て弾き返した幼馴染を、クレスは刹那、驚愕の表情で見つめ。
『馬鹿な……っ!!』
弾かれ体勢を崩した紅涙の呻きに、彼女がくれたこの機を逃さぬよう一度納刀し。
「——悉く、灼き尽くせ」
白光する刃に赫灼たる焔を燈し、電光石火の早業で幾度も居合を放てば、その軌跡に猛り爆ぜ咲く朱き熱の花が花開く——鬼女の怨嗟を灼き祓わんと。
『おのれおのれぇえええ!! お前たちもいつか裏切るだろう、愛しいものを!! ……嗚呼、嗚呼、口惜しい……』
「……ヒトが言う愛って感情は分からねぇけど、大切なものと別たれる痛みは識っている」
赫く燃え盛る焔の中、鬼女は怨嗟の声と共に手を伸ばす。
そこに救いがあるかのように。
「だからこそ、復讐を咲かせない為に……紅涙、お前は此処で散り逝け」
音を立て、焔の渦が更に勢いを増して紅涙を吞み込んでいく。
悲憤も狂気も何もかも、花嫁の全てを供にして。
そうして世界が夕暮れの講堂に戻る頃。
哀しき付喪崩れは灰燼に帰したのだった——。
第3章 日常 『お月見フェスティバル』
●月を愛でる
唐紅の空が瞑色へと染まっていき、僅かに欠けた月が昇りゆく頃。
お月見祭りは夜が本番。昼とは客層も変わり、しっとり月を愛でようと恋人たちや夫婦らの姿があちこちで見受けられた。
町役場前の広場では【洋菓子『花蓮』】が夕刻には店仕舞いしており、入れ替わるように【居酒屋『月見虎』】が赤提灯をぶら下げて。温かいおでんをつつきながらの月見酒に、既に気分良く酔っている客もいるようだ。
そして広場奥にある講堂からは、伸びやかな男性の歌声が聞こえてくる。
きっと今頃、明美はスタッフとして立つ傍ら、心で別れを告げている頃だろう。
——推しがくれた思い出をしかと胸に|抱《いだ》いて。
また銀座通りの中ほどを曲がった所にある旅館では、この時期の夜の肌寒さを慮って、庭にある足湯が夜間も一般開放されている。利用客にはカップに入った月見団子が振舞われ、ゆったり温まりながら月を眺めることが出来るようだ。
思い思いに過ごしながら、今宵の月を眺めては如何だろうか。
●お月見祭りパンフレット
(昼の部の紹介の下部に続きが記されている)
■ハイカラお月見グルメ 夜の部について
昼の部の③洋菓子『花蓮』を除いた三店舗は夜も利用できます。
夜の部では新たに居酒屋が加わりますので、節度を持って月見酒をお楽しみください。
⑤居酒屋『月見虎』
・さつまいもご飯のオムライス風(鶏そぼろ入りおにぎりを薄焼き卵で茶巾包み)
・栗のニョッキ チーズソースがけ(刻んだ和栗と栗粉を使ったニョッキ)
※こちらはベーカリー『おーたむりぃふ』とのコラボ商品の為、数量限定!
・お月見おでん 五種盛(お好きなもの四種と卵入りの月見巾着)
●
夕刻には低い位置にあった黄檗色の月も、その色を白く変えながら徐々に高さを上げていく。
今宵は雲一つない、絶好の月見日和。
広場の奥にある講堂でも、月の光が差し込む様を楽しめるよう天窓が開けられているようだ。
そこから小さく漏れ聞こえてくるのは、そっと見守るような優しい歌声で。
(「明美さん泣いていないかな……」)
オフィーリア・ヴェルデは料理を並べていた手を止め、気遣わしげな視線を講堂に向けるが……程なくしてゆるゆる|頭《かぶり》を振ると、唇をやわく綻ばせた。
(「……ううん、きっと大丈夫」)
紅涙から守ってくれた二人に礼を告げたあと、掲示板に貼られた一筆箋を見つめていた明美の姿を思い出す……うっすら涙ぐんではいたものの、何度も『幸せを願う』文面をなぞる彼女の瞳は愛しさと感謝に満ちていて。
もし今泣いていたとしても、きっとそれは悲しい惜別の涙ではないだろう。
「急に笑ってどうしたんだ?」
「やだ、顔に出てた? ……明美さん、もう大丈夫って思ったら嬉しくて」
「ああ……そうだな」
そう言ってクレス・ギルバートもまた講堂を見遣ると、その菫色の双眸を緩ませた。
「それじゃ俺たちも月を見ながらいただくとしますか」
並べ終わった料理を前に、向かい合わせで二人揃って『いただきます』。
二人がまず口をつけたのは、湯気立ちのぼる熱々のお月見おでんだ。
五種類の具材をそれぞれ半分に分け、同じものを仲良くはふはふ頬張る。飴色に染まった大根は出汁がしっかり染みているし、月見巾着もいっぱい吸い上げた出汁が滴り落ちるほどジューシーで。食べた断面から覗く黄身が月のようにまんまるなのが愛らしい。
最後に残ったお出汁を飲めば、お腹からぽかぽか温まっていくのが分かる。
「このおにぎりも優しい味でほっとするわ」
そう言ってオフィーリアはオムライス風おにぎりをまた一口。
ぱくりと小さな口いっぱいに頬張れば、ごろっと入ったさつまいもの甘みをご飯の塩気が引き立てていて。中の鶏そぼろは甘辛で少し生姜がきいているけど、それを薄焼き卵がふわりとやさしく包んでくれている。
対面に座るクレスはというと、茶色がかったニョッキにたっぷりソースを絡めていた。フォークで掬って口に運べば濃厚なチーズ臭の中にも栗の香りが感じられ、モチモチしたその食感にも舌鼓を打った。ソテーしたベーコンの塩気とチーズと栗の相性も良く、それぞれが舌で溶け合い自然な甘さを演出していた。
「お、美味いなこれ。多分リアが好きな味だぜ」
幼馴染が好むだろうと勧めつつ顔を見れば、何故かしょんぼりとした顔で視線をテーブルへと落としているではないか。
「どうした? なんか嫌なもんでも入ってたか?」
「そんなに子供じゃないもん……」
ぷぅ、とむくれる素振りはすれど、やはり常より元気がない——というより膨らみが足りない。
「……安心したら急に思い出してきちゃったの」
「うん?」
「紅涙さんに『聞くに堪えない耳障りな音』って言われたこと……」
——それは歌い手の技量の問題ではない、とクレスは胸中でそう断じた。
堕ちた付喪崩れである紅涙にとって、オフィーリアの純なる祷り歌は毒のようなものだったのだ。もし仮に彼女の歌自体が聞くに堪えないものならば、この世には耳障りな音がそこかしこに溢れかえっていることになる。
だがこれまで歌を悪く言われたことがなかった彼女には痛烈な批判として心に残ってしまったのだろう。歌が大好きで、故郷の祭りでも歌い手を担ってきたという自負だってあったはずだ。
「それはレッサーパン……羆の威嚇が効いたんじゃねぇの?」
「レッサーパンダじゃないもん!」
すっかり落ち込んでいる幼馴染を励まそうと、クレスはわざと茶化してみせる。
——はたして、それは功を奏し。
先程よりもしっかりと頬袋を作ったことにまずは安堵した。
「ま、リアの唄は優しくてあたたかいからな。怨嗟に呑まれた紅涙には合わなかっただけだろ……俺はお前の唄声に十分鼓舞されたよ」
あれほど熾烈に攻めたてられても、クレスは全てを躱し、受け流し、弾いて傷一つ負わずに凌いでみせたのだ。それは彼の技量はもちろんのことだが、|偏《ひとえ》にクレスの無事を願う歌姫の援護があったからで。
そんな思いを乗せた指でオフィーリアの|はんぺん《・・・・》みたいに膨れた頬をちょんちょんと突けば、瞬きと共に少女も視線を上げ。
「……ほんと?」
「ほんと。ありがとな」
(「クレスが私の歌で元気出たなら、万人に受け入れられなくてもいいのかも」)
目の前で柔く笑む少年の姿に、胸に渦巻いていたものがほどけていく。
誰が為、何の為に歌うのか——きっとそれが大事なのだと。
「私も、いつもありがとう」
そう言ってようやく見せた花咲く|顔《かんばせ》に、クレスも更にその眦を緩めて。
そのまま二人で示し合わせたように夜空を見上げれば、欠けたる月は南南東の空を照らしていた。
「……十三夜だけど、いいわよね」
くすっと小さな笑い声の後、オフィーリアは日本のわらべうたを口遊み始める。
うさぎ、うさぎとゆるやかに繰り返すその唄声に、静かに耳を傾けながら。
(「ああ……やっぱりリアの唄はやさしくて、あたたかい」)
その思いを知らずとも、籠められた優しさに触れながらクレスは月に願う。
彼女のその心がいつまでも翳ることがないようにと。
(「クレスは私にとって暗闇を優しく照らす月の様だわ」)
いつも傍にいて見守り、欲しい言葉をくれる彼が月ならば。
自分は月を見て跳ねる兎だろうか。
彼が自分を照らしてくれるなら、どこまでも高く飛び跳ねられるだろう——そう思いながら紡ぐ唄声はやわらかく。
秋深き、隣は何を思ふ人ぞ。
●
「寒くなってくる時期だけど、暖まりながら月を眺められるのは良いわね」
夜の帳が下りるにつれ、頬に感じる温度が気になって。
小明見・結が向かったのは町の旅館の庭にある、この時期限定で開放されている半屋外の足湯施設だ。綺麗に整えられた庭には透かし彫りされた竹灯籠が等間隔に置かれていて、その淡い光を辿ると迷わず足湯へ到着できた。
屋根と柱だけで雨除けされたその施設は横長の浅い岩風呂になっており、先客に倣って結も適当な岩に腰掛ける。そうしてふと視線を上げれば——。
「素敵だわ……」
辺りには高い建物もなく、遮るもののない夜空には月と共に星が瞬いている。少し視線を下げれば、柔らかな竹灯籠の光で庭の紅葉も楽しめるようになっているようだ。
そこに仲居が盆を手にやってきて。
下に三つ、上に一つ。二段の月見団子と温かい緑茶のセットに、結の瞳が嬉しそうに弧を描いた。
まずはふぅふぅと緑茶を一口。
その温かさに思わず安堵のため息が漏れる……自分が思うより冷えていたようだ。
そろそろと素足を湯に浸け、その温かさに全身を弛緩させつつ空を見上げる。
(「そういえば、こういうふうに外でじっくりお月見するのって久しぶりかも」)
大体いつも家の中から窓の外を覗くくらいで、意識して外で『お月見』というのは案外難しいもので。そう思えば紅涙の襲撃を阻止するためとはいえ、今日は良い機会だったかもしれない。
(「いくつもの星が輝く夜空も好きだけれど、月が一際明るく輝く夜空も綺麗ね」)
——十三夜に曇りなし。
昔からこの時期は秋雨前線も落ち着き、好天となることが多いそうだ。そこに日本の美的感覚である『不足の美』もあって、少し欠けた十三夜の月が好まれたらしい……そう先客たちが小声で話すのを、聞くとはなしに聞きながら緑茶をまた一口。
(「月……。人類が到達した最も遠い場所、なのよね」)
再び視線を夜空へ戻すと、結は月に思いを馳せていく。
(「地球から一番近くて、でも遠い。これだけはっきり見えているのに、そこまで行くのは簡単じゃない。……なんだか切ないわね」)
今も昔も月に関する物語は数知れず。
月が追いかけてくるだとか、容器内の水面に浮かぶ月を『捕まえた』と称したりとか……それほど身近であるのにどこまでも遠い。
同じようにインターネットなどで身近に感じるようになった外国も、実際はとても遠くて。春の終わりに決意した言語習得や進路も、きっと知れば知るほどその道のりの遠さを感じるのだろう。
目的は変わらない、必ず見つけ出す。
そうはっきり心に決めているのに、まだこの手は届かなくて——。
ちゃぷり。
「……はっ」
別の客が立てた水音で、結は自分が深く物思いに耽っていたことに気付いた。
(「普段はこんなこと考えないんだけど……月の不思議な力にあてられちゃったのかしら」)
時として月は人の不安を掻き立てることがある。
ひたむきに前を見据え走ってきた結にだって、焦りや不安、寂しい気持ちも少なからず存在していて——だからこれは、きっと月の魔力に中てられたせい。
(「折角の綺麗な月なんだし、余計なこと考えずに、ただ眺めるとしましょう」)
ゆるりと伸びをすると、月見団子を口にしながら結は穏やかに月を見上げて。
月にわかれを告げる者も、月に願う者も、月を愛でる者もすべて等しく。
十三夜の月はただやさしく寄り添うように、地上を照らしているのだった。