シナリオ

燃して薄ら氷

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 #√妖怪百鬼夜行
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●氷雨の宿り
 雨が一粒、鼻先を叩いた。
 肺腑が凍るほどに寒い日のことだった。人々は防寒具を体の近くに寄せながら足早に街を行く。雪になってくれた方がまだマシだった。濡れて重たい冬の衣類がどれほど体力を奪うものか、知らないまま生きるのは難しい。誰かの漏らしたため息が、ぽつぽつと勢いを増す雨の糸に織り込まれてゆく。
 予報にはない雨降りだった。ただそれだけで、異常だとまで思った者はいないだろう。
 黒雲のない|天《そら》だった。だとしても、訝しむ者はいないだろう。
 人々はビル風の隙間を縫って行き交う。この忙しない世界において、ほんの僅かの違和感のために足を止めて周囲を見渡す者はそう多くない。通勤の人々が歩を進める交差点の真ん中。そこに立ちはだかる明確な異様にさえ、ぎょっと瞠目する一瞬ののち、見て見ぬ振りで自らの進路を守る。
 だからこそこの世界には、簒奪すべき価値がある。
 嫋やかな笑みを浮かべたその妖は、掲げた番傘の先でついと空を煽ってみせた。

●何処にか
 √EDENの冬の朝はしんしんと冷たい。今はまだ平穏を保つ早朝の街を一瞥して、五槌・惑(大火・h01780)は口を開いた。
「じきに、妖どもの世界から此処へ道が繋がる。迷惑なことに連中が捌ける前にな」
 この世界の、とりわけ都市部ですっかりヒトが姿を消してしまうなんてことはそもそも滅多にないが、文句のひとつも言いたくなる状況だった。翻って、侵略者としては都合が良いと言う解釈になる。
 街に人が溢れる朝の時間の路上での大量虐殺。暴れる分だけこの世界にはインビジブルが満ちて行くのだから、殺戮の欲望を抑える気など欠片もない。手始めにと、√妖怪百鬼夜行の尖兵は己が降らせる氷雨にて人間たちを凍てつかせ始める。
「アンタたちが暴れたところで、連中は旋風とでも解釈するだろうさ。人目を気にする必要はない――が、動けなくなった非能力者への働きかけは要る。迅速に片を付ける方を優先するかどうかは現場で判断でしてくれ。どんな形であっても、死人が出た段階で|敵《あちら》を喜ばせることになるからな」
 幸いと言うべきかどうか、此度見えることになる傘の妖――カラクリコガサはヒトの精気を奪うことを最優先する。並べた首を狩る悦楽は主にこそ捧げよう、と言うつもりか、単にヒトの痛苦を好む性質なのかは知れたことではないが、早いうちに叩いてしまえば被害は最小限に留められるはずだ。
 ただし、その冷たい雨は√能力者の体力をも削っていくだろう。重く、鈍くなっていく感覚の中で長時間戦い続けるのは得策ではない。速攻の技にて退けるか、雨を遮る小手先を弄するか、対応は各々に委ねられる。
「屋外で、見晴らしが良い、群衆の中。妖はこの条件を満たす場所に複数現れ、非能力者を甚振って回る。倒したあとも雨が降り止まないのが難儀でな、状況によっては戦闘後にも追加で連中の避難や回復が必要になるかもしれねえ。序で、妖怪どもの通り道についての情報収集も出来るなら済ませてしまえ」
 星の示す先を詠んでも、正確なところは分からない。退けたところで、あとに控える本命との連戦になる可能性もある。その場合はこれ以上氷雨の中で戦うより、『道』の向こうに押し込んでしまった方が有利に運べるだろう。世界の別れ道さえ踏み越えてしまえば、雨はもう追って来ない。すれば、あとは簡単だ。侵攻の首魁たる古妖は長らく祠に封じられていたと言う。存分に弱らせてやれば元の塒に引き下がって行くはずである。
 話を途切れさせ、それでは行くか、と星詠みは言う。
 降り出した雨滴が異形の齎すそれか、天の恵みか、知れる者はいない。

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第1章 集団戦 『カラクリコガサ』


 冬の街に、悲鳴が響くことはない。助けを呼び合う声もない。降る雨を見上げていた人々は、胸を押さえて喘鳴し、進む足取りを止めてゆく。急に強まった雨脚を鬱陶し気に睨むうち、その膝は道路へと頽れ、屋根のある場所へ逃げ込むことも叶わない。
 冷たい雨はきらきらと透き通っていた。降り頻る中でさえ視界の遮られるところのない、うつくしい景色だった。
 開いた傘に意味はない。跳ね上げられた飛沫は人々の足を曳くからだ。
 軒への宿りに意味はない。幾ら待ったところで、雨止みはないからだ。

 傘を揺らして、あやかしは笑う。
 自らの足元へ縋るように倒れ込んだにんげんの姿を、愛おしげに見つめている。
シルフィカ・フィリアーヌ

 シルフィカ・フィリアーヌ(夜明けのミルフィオリ・h01194)はぎゅっと目を瞑って天を仰ぐ。未だ大人になりきらない少女のまるい頬に雨粒が弾み、撫でるように滑り落ちてゆく。精霊も宿れぬ無慈悲の雨が、シルフィカの頭から爪先まで、余すことなくしとどに濡らす。
「厄介な雨ね」
 倒れ、呻く人々をいっぺんに助け上げるには、|ヒト《いま》の姿じゃとても足りない。薄く開いたターコイズブルーのひとみが、掲げた精霊銃を誓うように見つめた。足りないなら、足りるまで。まずは目の前の脅威を退けるほかにない。
 頽れた人間の垣根の向こうで笑う妖へ、シルフィカの銃口が定まる。放たれるのは目を焼くほどの迅雷だ。あたり一帯を雷光がカッと照らしたところで、恐慌の中逃げ出して巻き込まれる民間人はいない。最早それほどの体力は、彼らには残っていない。
 そして、それはこのまま時が経てば、シルフィカにとっても同じことだ。
「(なるべく早く、わたしが倒れてしまう前に)」
 一発目の衝撃に大きく傾いだカラクリコガサは、しかし危なげなく体勢を取り戻す。傘を庇に目元を隠したその瞬間、雨粒に紛れてぱっと青白い光が漂った。有機的に揺らぎながらシルフィカへ振りかかろうとするそれを、次いでの|一撃《雷霆》が千々に散らす。
 距離を十分に取っていれば対処に問題はない相手だった。戦場の行く末よりずっとシルフィカを蝕むのは、心の芯を凍てつかすこの雨だ。
 繰り返し、精霊銃が爆ぜる。妖の放つ毒の粒子が街へ流れ出しそうになればそれを阻み、傘に弾かれたなら稲光を盾に駆け、新たな射線から。繰り返し、時が経つごと、己の吐息が冷えていくことに気付いている。引き金にかけた指先が少しずつ感覚を失くしていく。胸が軋み、体が重くなって、その場に膝をついてしまいそうになる。
 ――でも、まだ倒れるわけにはいかないわ。
「雨は命を奪うものではなくて、実りと恵みを齎すもの」
 狭まった喉から絞り出されたシルフィカの声は小さかった。それでも、幾度目かの雷撃の余波が収束しようとする戦場に凛と響いた。
「そして、いつか花を咲かせるものなのよ」
 意志に応えて精霊たちの力が集う。仄かなぬくもりが少女の握り締めた銃に宿る。悴む指を離すなと、シルフィカの背中を押している。
 雨の中を、特大の雷撃が走る。

焦香・飴
僥・楡

「ヤダァ、冬の雨なんて冷えちゃうじゃない。雪の方が濡れない分いいのに」
 現場に飛び出した僥・楡(Ulmus・h01494)のましろい髪がしとしとと濡れる。氷よりなお冷えた水滴が、白糸の一筋ごとに、ガラス質の透きとおる光を与える。額のそれを憂鬱げに指先で払う彼に、応じるのは一歩遅れて続いた焦香・飴(星喰・h01609)だ。
「うわ、寒いですね。楡さん大丈夫ですか? カイロならありますけど」
「飴ちゃんは寒いの平気な方?」
「ああ、俺は寒いの好きですよ。暑いのも好きですし、大体のものは好きになれるほうなんです」
 言葉に嘘や強がりはないのだろう。見た目には楡と同じ濡れ鼠である飴は、今なお穏やかな笑みを崩さない。
「やだ、良いメンタルしてるわね。アタシ極端な季節は苦手よ」
「お褒め頂き光栄です。ですが――弱いものいじめは嫌いですよ」
 同感ね、と楡が応じる。その瞳は既に飴ではなく、まだ遠く、こちらを見つめて笑う傘の妖に向いている。言葉もなく、ふたりは其々の目指す先へ駆け出した。
 ――楡が一歩近づくごと、降り頻る雨は標的を定めたかのように彼の身へ集中していく。頭の芯まで白くなりそうな寒さの中、倒れる人々の群れを駆け、跳んで、敵の眼前に躍り出る。
「自分達だけ傘を持ってちゃズルいわよ」
 何でもない風に嘯いて、楡は指揮の真似でもするように腕を宙空に横薙いだ。応じるのはオーケストラでも、控えた歩兵の一斉突撃でもない。街並みを彩っていた立て看板や放置自転車がふわりと浮き上がる――ひとびとが地に伏せた今、なんの意味も持たなかったそれに、楡が武器としての役割を与える。
 楡の制御に下った重量物らがかるがると飛び交い、カラクリコガサどもを殴打する。古びた唐傘を構えて凌ぎ切ろうと禍つ赤を瞳に浮かべる妖を、けれど飴が許さない。
「ちょっと失礼しますね、縋るならこちらになさい」
 何気ない響きの言葉は倒れ伏す民衆へ。みどりの眸の焦点は非道のあやかしへ。
 傍目には誰も分からなかっただろう。楡へ、飴へ、街角の人々へ、追撃の構えを取った敵が唐突にバランスを崩し膝を折る。ヒトがましくも眩暈を宥めようと頭を押さえ、立とうとしてはたたらを踏む。|震動波《クエイク》に中てられて不覚に陥った敵の足元、蹲る青年を抱えあげた飴は、ぐるりと周囲の状況を眺め渡す。ラッシュの時間帯の襲撃にあって、被害者は多い。存分に暴れるため場を整えるには、もう少し時間稼ぎが要る。
「楡さん、その傘奪えませんか? 案外頑丈そうだ。あなたが使うには少し飾り気が足りませんが」
「へえ。そうね、さすにはちょっとボロかもだけれど無いよりはマシかも」
 街中の配置を狂わせ切ってしまうのも、のちの復旧が一苦労だろうし。『ズル』の傘こそ良い意趣返しだ。
 飴の与えた震動から立ち直り切れずにいる敵へ向けて、楡が手を翳す。カラクリコガサの細指が咄嗟に握り込もうとした傘の柄はするりと滑り、あるじを残して宙に浮かんだ。
「飴ちゃん一度に三人ぐらい運べたりしない?」
「三人はさすがにどうかな」
 飴にも腕が二本しかない以上、体力や膂力の面がどうにかなっても支え方が問題だ。症状の程度にも軽重がある、ただでさえ弱っている人間に移動で負担を掛けるのは――そこまで考えて飴は首を横に振った。睫毛まで滴り、視界をぼやけさせ始めた雨を払う意味もあったし、悩んでいても仕方ない、と割り切る意味でもあった。
 先に助けた青年を肩にしっかりと安定させ、もう片方には真っ青な顔で震える制服姿の少女を担ぐ。迷うくらいなら出来る限りのことをした方が早い。
「立てる子には自力で避難して貰いましょう。声掛けぐらいは戦いながらでも出来るもの。それともアタシも手伝った方が良いかしら?」
「ああ、楡さんはそのままいい殴りを繰り出してて貰えると。それ、見てて気持ちいいので好きですよ」
「あらおだてるのがお上手!」
「寒くなったら言ってください、代わりにちょっと暴れるので」
 それでは、と会釈して駆け出した飴の背中を立ち塞ぐように、楡は妖と相対する。傘を失い、己自身を氷雨に晒されてもなお、打てる手はあるらしい。掬うように形作った掌に古びた色の鈴が形作られてゆく。
「邪魔はさせないわよ」
 楡が指さす頭上で、唐傘は妖へと切っ先を向けた。

クラウス・イーザリー

 戦場に立ち入ったクラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)があたりを眺め渡した時、既に惨憺たる有様が広がっていた。事の始めから√能力者たちが辿り着くまでにそう時間のロスもなかったろうに、被害者は視界の中のそれをざっと数えることすら難しいほどに増加している。
「冷たいな……」
 零した呟きは雨音に吸い込まれ、どこにも届かない。倒れる人々が弱りながら助けを求めたとて同じ状態だろう。僅かな手勢を救助に割くより、まずは脅威を取り除いた方が良さそうだ。判じたのち、雨粒に視界を遮蔽されないよう、ゴーグルを下ろそうとした指の感覚は半ば麻痺している。
「(……俺自身も長引くと動けなくなりそうだ)」
 となれば、何よりも迅速な制圧を。決断は一瞬。
 身を低め、地を蹴ったクラウスの周囲にきらきらと光りの礫が舞い飛んだ。跳ねた雨粒に光が歪んだかと、この世界にはない兵器の存在を、きっと誰しもそうとしか思えない。
 クラウスの意のままに包囲を広げた|自在の兵器《レイン砲台》から一斉に放たれたレーザーは、あるじが敵の只中に辿り着いたその瞬間、群がる妖どもを撃ち抜いた。愚直にも走り寄って来た人間を歓迎しようとカラクリコガサの手に生み出され始めていた古鈴が打ったのは、地面に叩き落とされ割れた甲高い響き、それきりだ。
 射手が長らく体を晒しているわけにはいかない。けれど、クラウスがすべきは敵の殲滅だけではない。映る限りの妖怪たちへ次々にレーザーの射撃を浴びせかけながら、古いビル壁を背にした方向へとジリジリと後退する。
 隙を見て逃げ出そうとしたのだろう、車から身を這い出し、喘鳴しながら前へ進む男を視界の隅に捉える。なあ、と掛けられた静かな声に短い悲鳴を上げた男へ、クラウスは淡々と続けた。
「車の中へ戻ってくれ。出来ることなら、近くの人へも同じ呼び掛けを。怖くとも動くな。――決して攻撃を通させはしない」
 ほとんど錯乱の直前にある男が、どれほど理性的にクラウスの言葉を聞いたかは分からない。彼がなにか物を言う前に、大きく跳躍したカラクリコガサが、その鋭い足先で以てクラウスへ急降下を仕掛けたからだ。避けるつもりはない。タイミングを合わせ、携えたバトルアックスにて力任せに叩き落された妖の傘がぐしゃりとひしゃげる。
 さあ、来ると良い。遠距離だけだと思ったら大間違いだ。

天國・巽

 からんと鳴る下駄の音が、跳ね上げられた雨水の音と重なって場違いなほど清涼に響く。着流し姿に打掛と、肩に引っかけるのは変哲もない雨傘ひとつ。旅路の寄り道を思わせる洒脱な若者の姿で以て、天國・巽(同族殺し・h02437)は交差点へと歩み寄る。
 巽が辿り着いた場所に、人の姿はそう多くなかった。そこにはただ静かに佇む唐傘の妖がひとりきり。
「お前さん、ひでェことをするねェ。こんな雨を降らせられちゃあ、どなたさんも参っちまうヨ」
 茶化した声音で戯言を語り、巽は掲げた傘の先をちょいと相手に手向けてみせた。カラクリコガサが不思議そうに首を傾ける。双方に敵意があるようにはとても見えない光景だった。√EDENを襲うべしと徒党を成して指示を受け、それでもなお群れから外れた逸れ者だ。巽がからりと笑ってみせてやるには十分過ぎる相手に思えた。
「憎い雨だと小言を言えど好いた同志のもやい傘ってな。どうだい、ここらで雨なんざ止ませてヨ、おいちゃんとしっぽり温泉なんざ」
 あやかしもまた口元を緩める。その右目が真紅を帯び、瞳孔が引き絞られる。そう、弱い者虐めより、わたしはこちらの方がすき。言葉が聞こえたわけではないとしても、この場に合って意思を通じ合うには上等な素振りだった。
 からん、と、下駄の音。とん、と、木質の鋭い足が地面を叩く音。
 響いた瞬間、巽の体は後ろへ跳んだ。追って、カラクリコガサが身を翻し、ヒトの身には非ざる跳躍で巽へと鋭い蹴りを放つ――避けるつもりはない。巽の翳した掌が、その切っ先を受け止める。常人のそれならば容易に貫き通っていただろうその肌から、硬化した龍の鱗が花びらのように舞って散る。
 深追いを避ける知恵があるらしい、巽が大太刀の柄に手を掛けた瞬間、妖は再び跳び退る。その速さ。ヘエ、と思わずに感嘆の声を上げる。誘い込むように半身に構えた巽へ、間を置かず放たれる突撃は尋常の速度ではないが、しかし。
「確かに速ェ。だが、守りが薄ィぞ」
 一撃必殺の立ち合いなら、よほどこちらの得意分野だ。
 ――御之破一刀流極意 切落。
 告げる。一辺倒に繰り返される蹴撃を、磨き上げられた刀身が弾き飛ばす。息吐く間もなく、龍の身の剛力で以て掲げられたそれは、災いの雨粒さえ両断してカラクリコガサの頭上に落ちた。
「よォ、最後によけりゃあ聞かせてくんな。お前さんたち、ドコ通って来たィ?」
 当然本命はそちらなのだと、巽は深く笑う。

第2章 冒険 『一般人を救え』


 雨は未だ続いている。魔性の雨は、ただ静かに冬の朝を濡らし続ける。
 世界の狭間を渡って来たあやかしは劣勢を知ったか、ふいと傘を翻し踵を返した。元のねぐらへ戻り、体勢を立て直そうとする敵たちを逃がす手はない。彼らが向かう先にこそ、侵攻の|径《みち》があるはずだ。
 まさにその唐傘を追おうとしたところで、すぐにその手段を選べる者ばかりではないだろう。せめて自らを庇おうと丸まり、青褪めた顔で震え続けるひとびとが、先にも後にも並んでいるからだ。ひどい寒さに怯えている。苦しみに耐えがたく泣いている。心を蝕まれ、悪夢へ落ちて呻いている。
 なにを優先すべきか。迷う足に雨粒が跳ね飛ぶ。水の沁みた靴の中で指先が痺れる。容赦なく、此処ではすべてが冷えてゆく。
クラウス・イーザリー
シルフィカ・フィリアーヌ

「傘のお化けさん達は何とか倒せたけれど、まだ雨は止まないのね……」
 シルフィカ・フィリアーヌ(夜明けのミルフィオリ・h01194)の零した声音に、クラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)の周囲で|次弾の用意《チャージ》を進めていたレイン兵器は動きを止める。敵へと照準を合わせていた腕はやがて下ろされ、クラウスは自らを宥めるように息を吐く。
「(今は……敵を追っている場合じゃないな)」
 この状況下にあって然程の会話は必要ない。クラウスがくれた視線に、シルフィカもしっかりと頷いた。
「救助を」
「わかっているわ、時間との勝負ね」
 互い、異なる方向に走り出す。シルフィカのライラックの|長髪《ながかみ》が、雨の糸に櫛梳かれるように流れて行く。
「この雨は危ないわ。みんな、屋根のある場所へ――動けない人が近くにいたらすぐに教えて! 助けが行くわ!」
 雨音の静かのなか、竜の少女の声は透き通って響いた。倒れる人々を助け起こしながら視線を巡らし、逃げ込む先を指示していく。力ない足取りが躓きかけるのを支え、助け合うよう励ましの言葉を掛ける。遮るもののない天からの毒に被害は甚大だ。それでも、必ず助けると。
 ――朝の時間を共にしていたのだろうか、力失くした母に庇われるよう、半ば泣きながら呼び掛け続ける子どもに、クラウスは駆け寄っていく。言葉よりも行動の方が先行した。クラウスが片手に女性を担ぎ上げた瞬間、あどけない目つきが大きく見開かれた。今すぐに目の前で回復させてみせることの出来ない自分がもどかしくさえありながら、慣れない笑みを作ろうと努めてみせる。
「一緒について来て。風邪を引いてしまう」
 敵か、味方か。子どもが躊躇ったのはほんの数秒だ。濡れた目元を拭い、母親の落とした荷物を抱えた小さな体は、クラウスの後を小走りに追い始めた。

 雨を凌ぐための場所なら街の中に幾らでもある。それだけは幸いだった。外の騒動を恐れて強く鍵を鎖していた店舗たちも、シルフィカの声掛けによって徐々に扉を開き始める。
「出来るだけ体を拭いて、落ち着いたらこの薬を飲んでね。もう怖いものはいないの。平気よ」
 少しでも効けば良いのだけれど――内心は言葉にしないまま、シルフィカは疲れた顔の女性の手をぎゅっと握った。まだ客を迎えるつもりのなかったブティックの店内は、急ぎ空調が入れられたと言えど冷えたままだ。どうか、心折れないで。ひとみに虚ろの光を浮かべたままの女性は、祈りを前に手渡された小瓶をのろのろと口元へ運ぶ。爽やかな香気を呈す|マジックポーション《花の雫》がゆっくり喉へと落ちてゆく。
 見守るシルフィカの背後から外の風が吹き込んだ。子ども連れの姿が近付いて来たのを認めてすぐさま扉に近付いた男性が、両手の塞がったクラウスの代わりに内からドアを引き開けたのだ。俺がその人たちを預かるから、あんたも早く体を拭いて。配布された店の備品であるタオルを手渡す青年は、クラウスが傘の妖から庇ったあの男だ。
 少年兵は虚を突かれたように一時動きを止め、けれどすぐに母子を預けることを決めた。被害者らの協力が始まったのを確認し、クラウスはシルフィカへと向き直る。
「この辺りの被害者はみんな避難を終えたと思うよ。こっちの状況は?」
「ありがとう。ひとまずの応急手当は済ませたわ。これからのために、わたしたち自身も体力の回復をしておきましょう」
「……あなたたち、どこかへ行くつもりなの? あんな、怖いのが、外にいるのに」
 薬を飲んでいた女性が、ふたりの会話に口を挟む。その声はまだ恐怖を覚えている――√EDENの忘却の力は、未だ彼女から襲撃者の記憶を奪い取ってはいない。
「雨が降る前のことを思い出せる? あなた達が見たはずの妖怪のようなものがどこから来たのか、覚えているなら教えてほしいの」
「些細なことでもいい。この雨を止めるために、知っていることを教えて欲しい」
 のろのろと、女性の指先が街の一方向を指差す。怯え、震える体は目にも明らかだった。これ以上のことを訊くのは酷だろう。ありがとう、と言葉を遮って、クラウスは続ける。
「大丈夫、悪い夢を見ただけだよ」
 辛い目に遭ったことなど、忘れてしまえばいい。クラウスたちが守る限り、災いはすぐに過ぎ去り、あなたの毎日は何事もなく続いてゆくのだから。
 でも、と彼女は言い募ろうとする。若いふたりが危険な場所へ向かおうとすることを案じているのだろうとすぐに分かった。だからシルフィカははっきりと告げる。わたしたちは、為すべきことを為しにゆく。
「雨が止むまで、決して外には出ないでね。わたしたちは行くわ、――|あなたの知らないところ《世界の境界》へ」

焦香・飴
僥・楡

「へえ、引き際を弁えているとは意外だな。ですがある意味こちらにとっても好都合ですね、普通の人間は脆弱ですから」
 焦香・飴(星喰・h01609)の口振りはまるで大したことがなさそうだった。被害を軽く見ているわけではないのだろうけれど――|彼の身の上《人間災厄の名》を思えば僥・楡(Ulmus・h01494)も今更さして気にはしない。魔性の力に惑わされて主に仇為した傘は、撤退と共に楡の手に落ちて来る。
「意外と根性の無い子達だったわね。でもすぐに戻ってこれないようにしてあげなきゃ。お家はどこかしら?」
「探すしかありませんね。楡さんはまだ大丈夫ですか?」
「目いっぱい暴れさせて貰ったからアタシは平気よ。傘も|貰った《奪った》しねぇ」
 試しに頭上へ広げてみるが、全身ずぶ濡れでは滑稽なぐらいだ。飴ちゃんも入る? と冗談で傾けた。今でなければ相合傘も悪くないですね、と軽口で返す笑顔は変わらない。
「さすがに少し冷えますが、まあ大体は気の持ちようですよ」
「そんなこと言って飴ちゃん風邪を引かないように……」
「ああ、風邪ってそういえば引いたことがないですね」
「(見た目によらず頑丈な脳筋だわこの子)」
 まあ、それなら楡が頂いておくことにしよう。ないよりマシだ。事を済ませる前に自分たちが倒れていては洒落にもならない。
「楡さん、情報収集は任せました。あなたは話を聞くのが上手そうだ」
「はぁい。そうね、先に逃げ切れた子たちを探して宥めて来るわ」
 ――青銅色の襤褸傘と別れて、飴は呻く人々の合間を悠々と歩いていく。踵が雨を跳ね上げる。交差点の中央まで続いた飴の足音を、助けを求める視線が追う。十分な注目の元で、飴は甘やかに笑った。昏い|光《フラッシュ》が彼を中心に瞬く刹那、瞼を下ろせた者もいなかったろう。
「少しの間目を開けていなさい、氷雨に奪われるよりは良いはずだ」
 大丈夫、寒くありません。
 悪い夢は終わりますよ、ほんの一時。
 優しく、穏やかに。『星喰』の名を冠した男の声は語り聞かせる。本能的な恐怖に痺れた心へ、沁みるように滑り込む。
「あの傘を追いなさい。最早あの持ち主はあなた方のことを脅かしません」
 ついと伸びた飴の指先の元、洗脳下に落ちた人々は従順だった。意識の外の指令が昏迷状態の体を勝手に動かし始める。空虚な顔の行進は、楡の翳した傘へと続いてゆく。あとは行列に加わる人間たちを増やし続けるだけで道案内には事足りるだろう。
 次の仕込みへ向かおうとする飴の足音がぱしゃりと響く。繰り返し、ひとびとはその音に惹かれて首を擡げる。何度忘れようとしたところで、彼らはその|災い《凶星》の気配を見過ごせない。

 飴の能力があれば動かせる被害者の数は相当なものになるはずだ。信頼の元、楡が選んだ案内先は駅ビルの中だった。どこにも逃げられずに籠城を決め込んだ大型商業施設の内部は、転がり込んできた避難民たちに対する手当を始めている。
 通路の脇、毛布に包まって俯く制服姿の少女に、あら、と楡は声を上げる。先んじての戦闘の折、飴に運ばれていた顔だ。朦朧の中、こちらのことをそう注視する隙はなかっただろうけれど。
「酷い雨だったわね、大丈夫? ただでさえ寒いのに困っちゃうわよねぇ」
 少女の目の前で屈んだ楡は、強気な顔立ちをニッと明るく緩めてみせた。
「アタシたち原因を調べて対策をとるお仕事してるんだけど、さっき雨が降り出した時の事って思い出せるかしら? 些細な事でも構わないわ。変な事があったとか、どの辺りから降り出したとか」
「……大通りの方が、変に静かだなって思いました。いつも、朝でも歩いてる人、結構いるのに」
「大通りね。具体的な方向を教えてくれる?」
 被害がそちらから広まって来た可能性がある。スマートフォン上の地図を覗き込む楡の元に、飴が追い付いたのはちょうど一通りの話を終えたあとだった。呼び掛けられて首尾を察した楡が立ち上がると同時、少女はふたりを見上げ、絞り出すような声を上げる。
「あの、助けてくれてありがとうございました。気を付けて」
「――こちらこそ、ありがとう。ゆっくり休むのよ」
 ぱち、と目を瞬いた彼らの隙は、敵を相手には決して生まれないものだと、少女も思いはしないだろう。ふたり連れ立ちビル内を見回って、飴の認識通りの数の民間人が避難を完了していることを確かめる。あとの救助は任せられそうだ。
「覚えられているものね?」
「あまり時間が経っていないからかもしれませんよ」
 じきに忘れるのかもしれない。忘れた方が少女にとっては良いことなのだろう。異常気象による災害の中で、運良く助かった。化け物に襲われた記憶はいずれ失くなって――もしかしたら、曖昧な寒さの手触りのなか、命の恩人としてふたりの輪郭だけが残る。いずれ、未来の話だ。
 決断は同時だった。飴が口にするのが、楡より少し早かっただけだ。
「では、逃げた悪い子に灸を据えに行きましょう」

天國・巽

 天國・巽(同族殺し・h02437)が宙を薙げば、大太刀から雨のしずくが払い落とされる。束ねた傘でも胴切りにしたかのように、妖を切り伏せる感覚は乾いていた。どうも物足りない――短く息を吐いて、巽は表情を武人のそれから切り替える。
「まずは上々。さて、雨を凌げる場所だな」
 出来れば体を温め、雨水が流せる場所。スマートフォンで手早く当たりをつけたのち、まずは一人、苦し気に胸を押さえる大柄な男性を抱え上げた。駆け込む先は現場から少し離れたスーパー銭湯だ。深夜から朝にかけての営業を畳むところだったのだろう、眠たげな番頭は、突然開いた扉に思い切り肩を跳ねさせた。
「な、なんですか、次の営業は昼から――」
「ヲイ! 冷え切って倒れてる人間がそこかしこだ。悪ィがここに運ばせて貰うぜ! あと、救急車だ、早ェとこ頼む!」
 次々来るからな、と巽が畳み掛けて意識を失った男を押し付けると、番頭はその冷たさに悲鳴を上げた。返事も聞かず、再度街へ飛び出す。否応を待っている暇はない。人の命がかかっていることぐらい、被害者の様子を見れば分かるだろう。迅速果断にいかせてもらう。
 同じような手で以て、巽は店々の扉を開いていく。公共施設やカフェ、ファストフード店、目に付いた場所なら手当たり次第だ。
「(人手があった方がいいやな。いや妖手か)」
 未だ止まない雨に濡れる地面へ、つい、と巽の掌が翳される。竜漿の齎す魔力が空気と摩擦し合って、チリチリと放電するような金の光を放つ。此処へ来い、我が九子。巽の呼び声に応じるよう、その場に沸き立ったのは九氏の妖ども――
 不意に、引き攣るような声が巽の耳へ届いた。アん? と怪訝の声を上げて振り返れば、へたりこんだ人間が顔を真っ青にしているのだから察しもする。
「ああ、いつもの姿じゃ拙ィなお前ら。人に化けてな……そーそー、なるべくでイイから」
 常とは異なる要望に困り果てた妖たちが姿を整え切るまでに、掛かる時間はもうしばし。

「よぅし、よく頑張った。もう大丈夫だ」
 角やら尻尾やらが隠し切れないままでいる配下たちに搬送を任せ、巽は軒先の少年へ声を掛ける。制服姿の彼が浅い呼吸を繰り返しながら物言いたげに何度も口を開閉する姿に、ゆっくりで良い、と声を掛ける。
「傘を持った奴らが出て来たところ、見たんだ。あの路地の奥。行き止まりなのに変なのって、気になって」
 大通りからひとつ折れた影。少年が指さす先には、何の変哲もない小路があった。

第3章 ボス戦 『大妖『荒覇吐童子』』


 その路地を曲がった瞬間、景色が変わった。
 踏みつける足裏は地面に緻密に詰まった土の感触を捉えた。恐らく野外だ。それ以上の情報を、目が慣れるまではとても理解出来なかった。あまりにも眩しかったからだ。
 しとどに濡れて重さを増していた衣服が、肌に纏わりついて生ぬるい感覚を生んでいた髪が、瞬きのうちに乾いてゆく。氷雨に晒された身体がみるみるうちに温度を取り戻す――どころか、常のそれ以上に精気が満ち、武器を持つ手が軽くなる。
 次第に視界を取り戻す。冬の澄んだ朝よりなお明るく訪問者を迎えたのは、地面のあちこちから立ち上る白い炎だった。ぐるりを見渡せば、木々は火に燃やされることもなく、このぽっかりと開いた空間を取り囲むように立ち並んでいる。√妖怪百鬼夜行の山奥深く、古妖を封じた人々の祈りは、破られてなおその力を失わず、抗する者へ力を与える。
 踏み入って来た√能力者を認め、大妖・荒覇吐童子が吠えた。火に撫でられては崩れる肌へ爪を立てながら、血走った目で敵を睨み付ける。
 封じの火傷を癒すため、敷かれた氷雨はついに止んだ。であればあとは、斃すのみだ。
天國・巽

「いよいよ御大将のご登場かイ。こりゃまた屈強そうな御仁だ」
 軽い調子で嘯く天國・巽(同族殺し・h02437)は大太刀の柄に軽く手を掛ける。街歩きの休憩に体重を預けるようなその力の抜けた仕草の実、軽く開いた自らの歩幅と比して、相対する古妖との間合いを測る。封印の間に襤褸と化した衣類のみすぼらしさとまるで釣り合わない、筋骨隆々としたその巨体。わなわなと震える指先は、己を封じた者ら、そしてその意志を継いで此処に立つ巽への憎悪のためか。
「(荒覇吐童子か――)」
 百戦錬磨の戦士でさえ身を引き絞るだろうその姿を前にしてなお、巽は旧友を見掛けたかのような緩い態度を崩さない。|√妖怪百鬼夜行《この世界》がこうして人妖入り混じる以前より戦いを経て来た巽にとって、目覚めたばかりの古妖らの悪逆に満ちた態度は最早見慣れたものでさえあった。さテ、どこかで遣り合ったこたァあったか――あっちはきっと長い眠りの間に憶えてもいないだろうし、戦いの記憶を掘り起こしたところでさしたる意味はない。
 眼鏡をついと外すのは、強者と認めた相手と立ち合うが故。狂暴なまでに深く笑んだ巽の白い長髪が、噴き上がる炎の生んだ風にゆらゆらと揺れている。
「さあて、我と貴様。潰されるのはどちらになるか……力比べといこうか」
 ゆらゆらと。揺れていたそれが、開戦を告げるかのごとく、巽を中心に吹き荒れた風にぶわりと広がる。
 それを気迫の破裂と呼ぶか、浄化の炎の後押しと呼ぶか。名付ける暇はない。尋常ならざる速度で踏み込んだ巽の腕が、朱塗り鞘から大太刀を一閃に引き抜く。片腕で切り上げた刃先があやかしの翳した掌に触れた瞬間、その皮膚の硬さを悟り、もう片手で反りの側から力任せに押し込んだ。
 相手を侮る気がないのは荒覇吐童子とて同じだ。巽の大刀が骨まで届くその直前、ぐるりと返された掌は刃を強引に抜いて、そのまま貫手の形を作る。大太刀の間合いの利も、古妖の巨躯の元であれば互角に近い。鋭く、正確に巽の喉を突いたその指先で、硬質な音が響く。
「たかだか鬼の爪如きで、龍の鱗が剥がせるとでも思ったか?」
 『龍鱗自在』。巽の意志ひとつで喉元に現れた鉄壁の守護は、古妖の格闘術を正確無比に受け切ってみせた。
 見た目には年若い只人が老獪に笑うさまに、荒覇吐童子が何を思ったか。次いで振るわれた拳に向けて、ふ、と一息の呼吸ののち、巽は後の先を揃える。御之破一刀流極意 切落――脳天に落ちようとした腕へ、鏡写しに添わせるように。突き上げられた切っ先は風を断つほどに速度を上げ、古妖の魔手が巽に届くより先に相手の鼻先へひたりと当てられた。
 それが巽の挑発でも、情けでも。敵の怒髪天を衝くには十分過ぎた。地響きのような咆哮が轟く。傷付けられた掌を、膿を出すかのように握り潰さんとする荒覇吐童子の禍々しい気配がより一層色濃くなってゆく。
「いかんな? それは確実に倒せる時に使う技。今の貴様では己が尻に火をつけるようなものぞ」
 己に犠牲を科すことで力を底上げする儀式はありふれたものだ。察した巽は軽口を飛ばす。綽々の態度を崩さない相手を踏み付けよう、殴りつけよう、押し潰そうと、途断なく繰り出される連撃は勢いを増して行くが、巽はその悉くを見切ってみせる。最小限の動きで身を躱し、大太刀で打ち払う。冷静さを欠いた者が強大な力を扱い切ることなど出来ない。これもまた、ありふれた話だ。
 そのさなか、鬼の爪に妖しく血が通う。獣が子兎を引き裂くような荒々しさで向かって来たそれを、巽が大太刀でいなした瞬間、手の中の重みがばらりと瓦解した。足元にカラカラと大太刀だったものの残骸が転がってゆく。見開かれた金のひとみは、目元を隠すレンズのない今、荒覇吐童子にもよく見えたことだろう。
「おや。見た目と違いなかなか器用ではないか」
 妖術のたぐいだとして、既に為されたあとでは対抗の策がない。軽くなった両手を見せ、文字通りお手上げのポーズをした――こんな諧謔で、騙し切れるとも思ってないとも。だからこそ、巽は即座に動く。巽の体を捻り潰そうと向けられた荒覇吐童子の手に、己の両手でがっつりと組み合ってみせる。
 怪力と怪力で以て組み合うその二対の手の片方。巽のそれが変化してゆくと共に、ひとの姿にはあり得ない特長が、白炎に照らされて光る。緑青の鱗に黄金の爪。やがて、押し合いの天秤は巽の力に傾いた。古妖が地面に倒れる音が低く響く。見上げた彼の目に、巽が振り下ろさんと掲げた龍の爪がしかと輝く。互い、何度となく蘇るとしても、此処でまた一度の別れを。
「龍の爪の味覚えたか? ではまた眠れ――…再びの封印の淵へ」
 ――荒覇吐童子。天晴な強さであった。
 呟くような賞賛と共に、白い炎の海へと古妖の姿が崩れ落ちる。

クラウス・イーザリー
シルフィカ・フィリアーヌ

 優しく、あたたかな白い炎がシルフィカ・フィリアーヌ(夜明けのミルフィオリ・h01194)に力を齎す。強張った指先はほどけ、繰り返すごとに突き刺すようだった呼吸はゆるやかに快いものへと変わってゆく。
「(でも、あなたにとっては――聞くまでもなく、そうではないみたいね)」
 シルフィカの見つめる先、世界を囲む白の中心にいる古妖はまたひとつ、獣の吠声を上げた。己を縛る封印も、それを為した古き人々も、今まさに目の前に立ちはだかるおまえたちも、すべてが憎いと辺りを震わす怨嗟の響き。悍ましい気配に竦みそうになるシルフィカに、クラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)の声が掛かる。
「頑張ろう」
 破られた封印がクラウスに力を与える。四肢に温度が巡ってゆくのを感じる。今すぐに万全の動きが出来るか確証はなくとも、やるしかない。傍に立つシルフィカの機微を察したわけでは決してなかった。己自身に言い聞かせるよう、クラウスは言葉を繋ぐ。
「妖怪を封じた人々の願いに応えられるように。俺たちが」
「――ええ。ここで引き返すなんて選択肢はないわ」
 シルフィカも応じた。精霊銃のトリガーに白い指が掛かる。倒すべき敵がいて、共に戦う仲間がいて、過去の誰かが力を貸してくれている。暗い顔なんてしている暇はない。翼持つ少女は柔らかに笑んで、銃口を荒覇吐童子へと据えてみせた。
「折角お目覚めのところ、ごめんなさいね。あなたにはもう一度眠って頂くわ」
 あやかしはひとの言葉を理解出来たろうか。それが、開戦の合図だった。

「(ここは寒くないな……助かる)」
 駆ければなお、踏み出す足は芯を熱されたようにクラウスの速度を増してゆく。常を越えた速さに臆することなく、手元で展開した光の刃は、居合に振り抜いたその動作とちょうど揃ってあやかしの肩口を切り裂いた。無手にも見えたクラウスの攻撃に目を瞠った荒覇吐童子は、元より崩れた体に頓着もせず、矮小な人間の体へと拳を振るう。空気が歪むほどの殴打へ向けて、けれどクラウスは一段と身を低く、真正面から飛び込んだ。頭上ギリギリを掠めた拳が黒い結髪を薙ぐ。それだけだ。巨体の荒覇吐童子の間合いの内の内、無理矢理に体を捻ったクラウスは、もう片手に引き抜いたバトルアックスで以てその拳を跳ね上げた。
「相手はひとりじゃないのよ」
 光学迷彩に薄らいでいくクラウスの姿を追って伸ばされようとする古妖の意識を、引き付けるのはシルフィカの役目だ。銃口に雷光が集う。白い炎と混ざり合った閃電は既に弾丸として大人しく収まることすらせず、精霊銃それ自体を震わせた。トリガーに掛かったシルフィカの指先すら痺れるほどの力を、制御出来ているのが不思議なぐらいだ。
 |雷霆万鈞《弾丸》が弾ける。
 爆炎と衝撃が、荒覇吐童子の体を大きく揺るがす。
 最早あちらにまともな戦法もなかった。己の体の灼ける匂いと怒りに狂乱した古妖が振り回す我武者羅な攻撃の隙を縫い、科学の粋の力で以て景色に姿を隠したクラウスが刃を走らせる。√EDENにては雨に濡れて切れ味すら鈍ったかに思えたナイフは、今や|シルフィカの力《雷の精霊の加護》を帯びてやすやすと敵の体を突き通した。
 それでも、相手の力は侮れるものではない。ただ乱暴に振るわれるだけの格闘術とも呼べない拳も蹴りも、隠密に潜んだクラウスを巻き込み、シルフィカの立つ地面を震わせる。何度目かの追撃の末、いよいよ荒覇吐童子の体が傾いだその瞬間、勢いそのままにあやかしは視界のうちにあるシルフィカの元へ突撃する。覚悟の上で迎え撃とうと身構えた少女は、目の前に滑り込んだ姿へ瞠目した。
「あなた――!」
「構わない!」
 この古妖を、もう一度封印するために。
 クラウスが請け負った直撃は、エネルギーバリアによって逸らされる。だからと言って完全に凌げたわけではない。隠密を解除せざるを得なくなったその背中を越え、シルフィカは荒覇吐童子を見据えた。そう、わたしたちはひとつの目的を果たすため、同じ立場で此処にいる。怪我も、助けも、そのためだ。
「(妖のあなたを封じていたのが人々の祈りだというのなら、わたしも祈りを込めて引き金を引きましょう)」
 シルフィカの精霊銃が充填を始める。背後で雷撃の膨れ上がる気配を感じたクラウスが、バトルアックスに掛けた力を不意に抜いたその瞬間――バランスを崩したあやかしの爛々とした双眸へと、至近の距離で雷の弾丸が迸る。

焦香・飴
僥・楡

 浮遊感にさえ届く体の軽さを感じる。白灼けた大地を一歩踏んだ焦香・飴(星喰・h01609)は新しい景色を面白がる子どものように瞳を眇める。爪先でコツンと地面を鳴らす仕草もまた、なにも知らずに見る者からすれば無邪気なそれに映るのだろう。やっと全力で動けそうだ。
「あら、急に快適になって助かるわぁ」
 僥・楡(Ulmus・h01494)の物言いもまた明るさを失わない。何度死の淵から再生しようとも立ち塞がる√能力者に怒りを漲らせ、牙を向く大妖を目前にしても、ふたりの態度に何の強がりもない。それは心地の良い温かさと癒しの炎のためでもあるし、自らの力への自負でもあるし――他にもひとつ。
「さっきお礼も貰ったことだしお仕事頑張らなくっちゃよね」
「ええ、既に報酬は貰ったようなものだ」
 不遜なまでの微笑を保った楡が荒覇吐童子に視線を移す。あやかしにも呼吸が要るのだろうか、ヒトの姿を真似ているからと縛られているのだろうか、肩で息をする姿へ向け、大袈裟に問い掛ける。
「随分怖い顔をしているけれど起きたばかりでご機嫌斜めかしら。大丈夫? もう一度眠っていた方が良いと思うのだけれど、どう?」
「あはは、子守がお上手ですね楡さん」
 飴の合いの手も加えれば、完全な挑発だ。古妖が叫ぶ――先手を与えさせはしない。楡が大足に相手の至近へと距離を詰める。一気に身を低めた足払いが荒覇吐童子を巻き込むその一方、飴は未だ戦闘態勢さえ取らず、後ろ足に数歩退いた。
「(……お優しいというわけではなさそうだが)」
 ふたりの立ち合いのなか、楡の隙を埋める必要があれば気を引く用意は一応あるが、そんな状況にはならないだろうと言う無根拠な確信もあった。全景を眺められる位置まで退いた飴は、すっかり観客を決め込んで木々に背中を預ける。
 ――荒覇吐童子の右腕が禍々しく赤黒い血炎を帯びる。格闘の域を越えた力を以て打ち出された掌底を、楡が翳した煙管に繋がる組紐がしなやかに巻き取って動きを封じる。組紐の触れた肌から、古妖の腕に痛苦の呪詛が流し込まれる。その一瞬の力の弛みにタイミングを合わせ、楡は思い切り組紐を引っ張った。荒覇吐童子が倒れかかるその勢いに、拳の一打を乗せて突き上げる。
「生憎図体の大きな子にはスパルタ子守しかできなくって、ごめんなさいね」
 言葉はきっと届かなかっただろう。離れてなお右腕に痕を残す呪毒は荒覇吐童子を蝕み続けているからだ。何度となく哮ける相手へ、楡の攻勢は止まらない。鬼の血滾る右腕に捕まらないよう弾き、躱し、大振りの隙を見つけては拳を撃ち込む。
「ああ、やはり見た目によらず力押しでいいですね」
「ありがと! 『見てて気持ちいいから好き』?」
「ええ。おだててるんじゃなくて、本心で」
 遠巻きに投げ掛けられる飴の声とやり取りしながら、楡は古妖の巨躯の横をするりと抜ける。振り向きざま、その背中へ繰り出された裏拳が敵を飴の方へと吹き飛ばした。
「お仕置きの続きはお願いするわ」
 にっこりと笑う楡の表情に、飴は見物気分を咎められたことを察する。仕方ないですね、と言わんばかりの動き出しは、やはり玩具を貸し合うようですらあった。
「こんにちは、拳の次は足蹴をいかがですか」
 幹から背を離した飴の一歩が|昏《くろ》く輝く。局地的に重力を増したかのように、飴の細身の元、大地に亀裂が走る。祠を守る白い炎と決して混ざり合わないその輝きが、バランスを崩して倒れ込んだ荒覇吐童子の胴をガツンと踏みつけた。鍛え上げた体の頑強さも無為にするように、全身をバラバラに引き千切るほどの痛みがどれほどか。
 叫ぶ古妖は地に伏したまま、まさしく赤子の駄々のように四肢をのたうつ。飴の体を薙ごうとした腕は軽いステップで交わされて、また爪先で戯れるように触れられる。それだけで、あやかしの体は重量物に撥ねられたかのように他愛なく向きを変えた。
 封印の炎が、地に縫い留められた荒覇吐童子の周囲で密度を増す。今こそがその時だと、飴の前に無言の声を送る。
「では、お仕置きの仕上げと行きましょう」
 斬り捨てる必要もない。この|√《世界》には、余所から持ち込まれた異能より余程立派な願いが揃っている。鞘からも抜かれぬままに振り上げられた霊剣と飴の姿は、大妖にとっては絶望の景色でしかなかっただろう。
「ひとりも殺せず、なにも成せぬまま帰りなさい」
 一撃が、炎の封印の中心に荒覇吐童子を沈める。それで仕舞いだ。妖の巨体をぶわりと広がった白い炎が取り巻けば、あとにはただ清涼な深森の景色だけがそこに残った。
 息を吐いた飴に向けて、賛辞の拍手が贈られる。振り返れば当然、そこには仕上げを見届けた楡がいる。
「なかなか素敵な足癖の悪さねぇ」
「そちらこそ」
 あれだけ濡れて寒かったと言うのに、その音が軽やかに澄み切っているのがおかしくて、ふたり、少し笑い合った。

 白く燃して。最後に残る薄氷の、欠片までも焼き切って。
 連綿と、繋がれる祈りの尖端に、この世界の平穏は或る。

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