(絶叫)(笑い声)(誘惑)
こめかみを抑えて疲労を滲ませる表情の藤原・天(彷徨えるモノの灯台・h02131)は、甘い缶コーヒーを飲んでから説明を始めた。
「新年あけましておめでとう、みんな。早速だが事件だ。場所は√汎神解剖機関の地方郊外にあるビルだ」
渡されたプリントに添付されているのは灰色のコンクリートが馴染む、やや古い廃れた雰囲気のビルだった。
「バブル時代の遺物だそうだ。そのビルの地下に怪異が封印されているんだが、近く解けて復活してしまうから倒すなり再封印なりして捕獲してくれ」
ちなみに地下に怪異がいることを知っててビルを建てたのか、知らなかったのか。理由も思惑も経緯も知る術は無いらしい。
「ビルの玄関付近や中のエントランスにはすでに下級怪異が集まりつつある。幸いにも郊外の離れた場所にあるためか被害者は今のところ0。最初の1人が出るまえに駆逐してくれ」
集まっている怪異は『さまよう眼球』と呼称される眼と牙と肉の集合体だ。知能は低く飢えている。だが懸念が1つあると天は告げた。
「俺が見た予知じゃこいつら共食いしてたんだ。おかげで数は思ったほど多くないはずだが、狂暴な獣は恐ろしい。気を付けろよ」
さまよう眼球を一掃した後は、封印が解けるまでの猶予をどうするかで変わる。地下に向かうか、上層に向かうかだ。
「地下室を調べれば、どうやって封印していたかヒントを得られるかもしれない。ボス怪異を弱体化させるのに役立つだろう。上層階には休眠状態の下級怪異が散らばっている。ボス怪異が干渉用に生み出した取り巻きだ、倒せば力を削れるはずだ」
どちらも注力して行動しなければ時間が足りず十分な効果は得られない。ゆえに2択。どちらもは選べない。
「封印が解けたボス怪異、呼称『ネームレス・スワン』は外を目指そうとする。こいつの特徴は『声』だ。脳髄にガンガン響くから精神を強く保てよ」
おかげで寝不足だ、と天はため息を吐いた。
「限界まで削れば活動を停止できる。あとは連絡を受けた汎神解剖機関が封印・回収して仕舞いってわけだ。説明はここまで。後は任せたぜ、みんな」
第1章 集団戦 『さまよう眼球』

日本の某地方郊外、人気の薄い緩やかな坂を上った先にそのビルはある。用途は何であったのか、コンクリートの外壁が寂しく晒された棄てられたはずの高層建築物は今、多くの|客《かいい》で賑わっていた。
無数の眼と牙と肉で構成された『さまよう眼球』は、エントランスや入口の前で共食いしている。それは狂乱と呼ぶに相応しい有様で、出鱈目に食い合っている。
まずはこいつらを片付けなければならない。
纏まりの無い異形の群れが互いを喰らう。無数の眼玉は四方八方を向いているがそれは警戒ではなく、ひたすらに狂乱であった。
一般人が近くにいないことは幸運であったと、少し離れたところから確認している|赫田・朱巳《かくた・あけみ》(昼行燈・h01842)は胸をなでおろす。ただの人がここにいた場合は凄惨な姿を晒すことになるのは想像に難くない。
「被害が出る前に、対処しませんと……?」
懐の袋に手を突っ込んで、明らかに体積以上の大きさの食べ物を取り出し、水を飲むかのように食す朱巳は視界の端に人影を捉えた。慌てて視線を向けると若干古風な少女が坂を上りきってキョロキョロ。
まさか一般人かと近づいた朱巳は、彼女が普通ではないと気づけたのはタコ足に似た髪のせいだけではないだろう。彼に憑いているモノと同様の人ならざる気配だ。
「えーと、『さまよう眼球』とやらは……いたいた!」
快活明朗、少女こと|アリス・グラブズ《繧ウ繝溘Η繝九こ繝シ繧キ繝ァ繝ウ繝?ヰ繧、繧ケ $B%"%j%9(B》(平凡な自称妖怪(悪の怪人見習い)・h03259)は蠢く異形を見つけて嬉しそうである。
「なかなか活きが良さそうね! 食材の補充にちょうどいいわ!」
語りも見た目も可憐な女子のそれであったが、唇を舐める仕草は怪物を想起させる悍ましさ。アリスは今気づいたとばかりに横を向き、朱巳を見た。
「あ、ごめんなさいね! 食材を見つけるのに夢中で気づかなかったわ。アナタも食事に?」
およそ真っ当な問いではない、が。
「ええ、私も食事です」
今ここにいるのは、大食いばかりなのだ。
目的は同じとなれば遠慮はあんまりいらない。朱巳とアリスは笑顔でさまよう眼球の群れに体を向けると、1歩、2歩と徐々に加速するよう踏み出して走り出す。
手入れされていたわけではないだろうが、地面は固く動きやすい。軽快にダッシュして接近する2人に遅れて気づくさまよう眼球は、気色の悪い声にもならぬ声を上げるが、怯むものはいなかった。
「推して参ります。根競べを始めましょうか」
敵の群れは疎らで隙間が多い。共食いで数が減ったためだろう。朱巳はスライディングで、アリスは上方を飛び越えることで玄関と群れを通り抜けてエントランスに侵入する。
かつてはホテルにでもする予定だったのか、無駄を感じるほど広いホール。今は無常にも名残があるばかりで殺風景。埃と塵が舞い上がり、日光で薄いヴェールを作るが、集る異形が欠き散らす。
「ぎゅぎゅがじゅ、るぁあアアア!!」
さまよう眼球の眼と牙が赤く染まった。出鱈目に生えた歯が擦れ合い不快な音を鳴らす。飢餓と狂気に支配された怪異はぶつかり合いながら肉を求めて押し寄せる。
「赤くなるなんて海老や蟹みたいね。いいわ、ワタシは赤身も好きなのよ!」
まばたき1つ、アリスの触腕が増える。2つすれば倍になる。3つすれば数え切れないほどに。
「|繧ェ繧ェ繧ェ繧ェ繧ゥ繧ゥ繧ゥ繧ゥ《オオオオォォォォ》!」
触腕を束ねて横薙ぎの一撃。多少牙が食い込むがかすり傷。狂暴性を増した代償に防御行為も取れず無防備に吹き飛ばされたさまよう眼球は、得体の知れない体液を零しながら床を転がる。
「がぎゅああああ!」
薙ぎ払いを避けた個体や今しがた室内に入ってきた個体は、朱巳を狙って牙を向ける。
「おっと危ないですね、ほらほらこっちですよ」
姿勢を傾けての反対方向へ跳び、大振りな動きで視線を誘導して異なる方へ避ける。フェイントと残像を駆使した回避にさまよう眼球はまんまと引っかかり服を掠めることすらできていない。
「いきますよポチ」
「あいよ」
神霊の波動が乗った右拳を怪異に打ち込む。被弾した緑の肉が弾け、目玉が落ち、牙が砕けて他を巻き込んで吹き飛ぶ。
「ナイスパス。そーれっ!」
待ち構えていたアリスが巨人の腕のように束ねた触腕でスマッシュ。さまよう眼球は肉塊と化す。
「ぎゅじゅ、じゅじゅ、ぎゅるる」
しかし、無残な姿となった同種を見ても怪異は気にも留めていない。顎を限界まで開いて襲いかかるだけだ。アリスは束ねた触腕を解いて迎撃する。
「よっほっはっせいっや!」
解いてなお怪力の触腕は柔軟に動いて異形を弾き飛ばし、あるいは捕らえて締めつける。骨があればきっとバキボキと音が無数に鳴っていたことだろう。
弾かれたさまよう眼球は1箇所に集められ積み上がっていく。朱巳の目の前に。
「貴方はどんな味がするんでしょうか」
左の腕を抱え込むような構えは、さながら今にも飛びかからんとする大蛇の如し。それに危険を感じたのかさまよう眼球は肉体全体を巨大な口に変異させる。無数の牙が並ぶ口腔の奥から鉄砲水のように強酸が放射され、跡形もなく溶解させんと朱巳に迫るが、彼は冷静に右手を突き出した。
全てを溶かすはずの強酸は、右手に触れたそばから消滅していく。それを信じられないとばかりに吐き続ける怪異は、けれどあっという間に限界が訪れて力無く口を閉じた。強酸は途上のコンクリートと他の眼球を溶かしただけで、朱巳には1滴も届いていない。
「さぁ、貴方の味を教えてください……|飢餓喰らい《ポチ・クラッシュ》」
構え続けた左手には神霊の力が限界まで溜められていた。解放を今か今かと待ち望むそれを、朱巳は勿体ぶらず楽しみで仕方ないという笑みで撃つ。遍くすべてを喰らう顎を幻視する力が、集められたさまよう眼球を丸呑みした。
ゆっくりと構えを解いた朱巳は、ふぅむとなにやら考え込むように呟く。
「酸っぱいですね」
トコトコと、触腕で捕らえて絞めたさまよう眼球を捕食しながらアリスが来る。
「量が多くて食べ応えはあるけど雑味がスゴイわ」
「おそらく雑食だからでしょうか」
「あ、でも目玉はクリーミーでなかなかイケるわよ!」
さまよう眼球の味の品評をしながら小休止を挟む2人。
一気に駆除はできたが外にはまだ存在しているし、すぐに集まってくるだろう。まあ、この2人にとってはおかわりにしかならないが。
蠢く肉は毒々しい緑色。伸縮を繰り返す体には鋸染みた無数の牙。ぎょろぎょろと回る眼球は正気を宿さない。子供の描いたラクガキに悪意をブレンドしたかのような存在は、√ウォーゾーンの戦闘機械群とはまったく異なる恐怖を呼び起こすものだと、クラウス・イーザリー(人間(√ウォーゾーン)の学徒動員兵・h05015)は眉をしかめた。
「怪異、か。俺には馴染みが薄いけど、すごい見た目だな……」
機械の製造には理由がある。効率や合理性を求めて作られるゆえに、どうあれそこには理解の及ぶ余地がある。しかし、怪異にはそれがない。見たところで理解できるものではない、あるいはするべきでないゆえに怪異なのか。
別の|地球《√》という可能性の幅に感心を覚えるクラウスに、後ろから女性が声をかける。
「おやおや、興味があるのかな? 解説しようか? どう?」
「いや……戦いの前だ。遠慮しておこう」
瞳を爛々と輝かせて早口に喋ろうとする|凶刃・揺《きょうが よう》(|似非常識人《マガイモノ》・h04373)を、クラウスはさらっと受け流す。彼女は気にした様子もなく「聞きたくなったら言ってね」と好奇心の対象をさまよう眼球に戻した。
「んー、強酸の使い手か……眼球には多少水分があるよね? 壊死させる|シリンジ《子》なら効くかな?」
|取扱注意《バイオハザード》のマークシールが主張する注射器の束を、ガトリングガン型のシリンジシューターに装填。無造作にすら見える手慣れた手腕。
「準備はできたか? 行こう」
男装の女性が声をかける。兎を引き連れ、自身も兎の耳を生やした彼女は山田・ヴァイス・ゴルト・シャネル三世(フィボナッチの兎・h00077)。人間災厄であり、引き連れた兎もまた普通のモノではない。
クラウスと揺は肯定を返し、シャネル三世は頷くと遠方のさまよう眼球の群れを指さし、告げる。
「行け」
兎の群れが跳ぶように駆け出す。彼女もそれに続く。走りながら増殖する。|彼女《かのじょたち》が分裂する。
「共食いとは気の毒なことだ、とても見ていられん。見ていられん故……|私《わたしたち》が喰ってやろう」
「ぐじゅじゅががが!」
理外災厄に人が解する道理無し。|フィボナッチの兎《カタストロフィックバニー》が狂える怪異を襲う。さまよう眼球が牙を擦り鳴らして顎を開く。
人のものでは無い血飛沫舞う様を観察しながら突っ込んでいく揺は、好奇心が踊って楽しそうだ。
「フィボナッチ数列かぁ。面白い! サンプル貰えないかな?」
フィボナッチ数列。1、1、2、3、5、8、13……と前2つの数字を足した数が続く法則のこと。揺はシャネル三世がこの法則に従って分裂・増殖していることを見抜き、愉快そうに口を歪ませていた。
その様をクラウスはスルーしてファミリアセントリーを起動、レーザー照射。怪異の肉体に焦げた穴が空き、鼻が腐りそうな異臭を漂わせる。兎の群れと食い合う乱戦の場から外れた対象を狙い撃ちながら、魂に着火。
「チャージ開始、カウント60」
握りしめた右の拳に火が灯る。秒を刻むごとに火は勢いを増し炎に変わっていく。それに脅威を感じたのか、数体のさまよう眼球が肉体を肥大させ大口を開く。無数の牙が不規則に並ぶ口腔の闇からは刺激臭が漏れていた。
だが、変異より無敵より速く。|Goodbye Sanity《シリンジシューター》を構えた揺が銃口を向けている。
「さあ実験だ!! まずは|Weird disease《我が子達》をその大きな瞳めがけてぶち込むよ!」
「じゅぎゅあああっ!?」
如何なる原理によってか射出された注射器が正確に眼に刺さる。満たされていた内容物は過不足なく注入され、その効果を遺憾なく発揮するだろう。発射を終えた揺は流れるように得体の知れない血液を纏い姿を消すと、距離を取って観察を始めている。
「ぎゅぎゅぎゅ」
「じゅががあ!」
「目の細胞が壊死して、そのまま壊疽が起こると痛いよねぇ。あ、痛覚はあるかな?」
さまよう眼球は痛みに悶えているように見えたが、すぐに敵を探して狂乱する。牙を振り回して暴れ、吐き出した強酸のブレスが射線上にいた別のさまよう眼球に直撃するも、無敵化して強酸を吐き返される。
「痛覚はありそうだけど、飢えと狂気が上書きしちゃうんだね、ふむふむ」
もとより共食いするほどだ。仲間意識など消え失せている怪異たちは戦闘中ですら巻き添えと食い合いを続けているが、彼女は|検体《サンプル》は多いほどよいと隠密を維持して観察しつつ、時折シリンジを放って群れをかき乱していた。
「修復はどれくらいかな? へー治すんじゃなくて新しいの生やしちゃうんだ」
もはやどっちが危険なのか。ともかく多方向から削られているさまよう眼球であったが、痛みを厭わぬ凶暴さと個体の強さが押し切られない状況を作っている。
その辺を漂う不運なインビジブルがさまよう眼球と入れ替わると、新たなさまよう眼球となって顎を開き兎を喰らう。兎の群れがアリやハチの如く集り牙を突き立て、眼を齧り、シャネル三世が怪異の牙を抉る。どちらとも分からぬ血が飛沫をあげ、乾いた地面を凄惨に彩った。兎の厄災は黒十字の瞳孔でさまよう眼球を見下ろし、怪物らしい笑みで挑発する。
「飢えているなら|私《わたしたち》はさぞいい餌に映るだろう。お前たちに喰いきれると言うのならやってみるがいい」
「ぎゅじゅるるぁああああ!!」
挑発を理解したわけではないだろう。けれど、さまよう眼球たちは我先にと襲いかかる。狂気を孕んだ低知能に思考能力は皆無だ。
だから、撒き餌に引っかかる。
「これで全部だ」
「カウント0、感謝する」
ごうごうと燃え盛る決して消えない魂の炎を宿した右手。多少の傷を負っているが平然としているクラウスは、シャネル三世と交代するように前へ出た。
「燃え尽きろッ!」
右手を叩きつける。飢える怪異よりも貪欲な炎は火砲の炸裂めいて爆発的に広がって飲み込み、灰すら残さずさまよう眼球を焼き滅ぼす。残心を取るクラウスは、静かに息を吐いて構えを解いた。
「終わりか……一先ずは」
疲労を抜くように呼吸を整える。先はまだあるのだ。余力と余裕は残しておかねば。
後ろの方ではいつのまにか眼球の一部を採取しておいた揺が保管用のシリンダーにサンプルを移していた。
「良いデータが取れそうだねぇ。そうだ! キミの細胞も」
「断る」
「えー」
素気無く断れて不満の声を上げる揺。シャネル三世は兎たちを集めて近づかないように距離をさりげなくとった。
ペースは三者三様ではあるが、それぞれに小休止の後ビルに入っていく。仕事は終わっていない、始まったばかりなのだ。
類は友を呼ぶ、という古い言い回しはあるが、怪異は怪異を誘うものなのだろうか。彼女、アメリ―・コノハナ(愛の匣・h03444)は一見すればただの人だが、その実態は人間災厄なる理外の存在である。無造作に歩を進めてさまよう眼球の群れに近づいていく。
「お腹が減っているのね」
心の底からの哀れみが言葉となって吐き出される。
「辛いでしょう。苦しいでしょう」
嘘でも演技でもなく彼女は悲しむ。それは普遍的な見た目でありながら慈母のように飾り立てた。
「楽にしてあげるわ」
彼女に気づいて食欲を向ける異形たちに、両手を開いて優しく告げる。まるで我が子にそうするように、どこまでも悍ましい。
さりとて既に狂気に塗れたさまよう眼球は意に介さない。無数の眼と牙を赤くして襲いかかる。飢餓の矛先がアメリ―に振るわれる。彼女はにこやかに笑む。
「ドロシー、あちらの方の足を止めてちょうだい」
そっと手で示す。すると野花の近くに居た赤いトランクが跳ねて、異形の顔面に衝突。カウンター気味に入った衝撃は相手を怯ませた。
「ショウスケ、えぇ、牙を折って差し上げましょう」
緑のトランクがやんちゃに跳ね上がり、落下急襲、乱雑に並ぶ牙を圧し折った。
「ニニ、そうね、あの怖い目玉を潰しましょうね」
小綺麗な青いトランクが跳び込んでぐちゃりとたくさんの目玉を潰した。
「嗚呼、フィーノ、あなただけ、あとはあなたがいれば……いないのは誰のせい?」
誰でもないものに問いかけて、アメリ―は髪を振り回して傾いていく。天秤が転がり落ちて、狂気の比重が増してゆく。
「この目玉?」
ぐちゃり。
「牙?」
ばきり。
「肉?」
ぶちぶち。
「これらのせい?」
こころの奥からへんじがする。
「きっとそうだわ。間違いないわ」
飢えたるモノを、飢えしモノが喰らう。喰い狂う怪異を、子に狂う怪物が。
「壊さなきゃ。怖いものを壊し切らなきゃ、きっとフィーノは帰ってこない」
ひとりでに動くトランクが彼女の周囲に集まり、ふらふらとさまよう眼球に近づいていく。ぼたぼたと体液を漏らす化け物に、手を振り上げて。
「壊れろ。壊れろ。壊れて。壊れなさい。返しなさい。返して。返せ。あの子を」
心胆凍らせる打撃音が鳴り響き、すぐに水音混じって鈍くなる。時を忘れるほどのあとに、汚れ1つないアメリ―はにこやかにほほ笑む。
「……あら、いつの間にか肉片が沢山。うふふ、元気ね、みんな」
愛しい想いでトランクを撫でる。
「さて、それじゃあ……他のゴミ掃除に、行きましょうか。子供達のためにね」
坂を上って目に入るビル。かつての隆盛の名残は今や怪異の巣窟。飢えたるモノが獲物を求めてひしめき互いを貪る有様。
「被害者がゼロの内に、収めたいところですね」
人間としては巨躯となる190の肉体を黒い喪服に包み、戦場に似つかわしくない革靴の男、|鬼哭寺・アガシ《 kikokuji.agashi》(不明居士・h04942)。丁寧な物腰はむしろ威圧感を増すようで、鋭い眼光が迫力を増長させている。
遠目に見やる、さまよう眼球の共食い。自らも頑健健啖であれと教えを受けてきたアガシではあるが、これはいささか暴食に過ぎるだろうと脳裏を過ぎり、切り替えて仕事を始める。
「あの視野の広さや狂乱を見るに。逆に、焦点を絞った反撃は難しい筈」
指が複雑に絡み合い奇妙な印を結ぶ。龍蛇の如く絹索が空中を泳ぎ、うねり、鎌首をもたげる。続いてすっと手を振れば、霊槍を作り替えて生まれたいくつもの解剖道具がふわりと浮き上がり並ぶ。
「多角的な同時攻撃を仕掛けましょう」
喪服の襟をわずかに緩める。屈んだ足は限界まで張られた弦のように力を溜めて、地を蹴って解放しアガシを前に素早く押し出す。
さまよう眼球は突っ込んでくる長身大男に気づき、耳障りな声を鳴らしながら顎を限界まで開く。
「じゅず、じゅがぁ……!」
「|鬼哭を奉ず《オンジア・ジア・ナルマン・サヴァ》」
|鬼哭式《ドゥラー》。『|閻院《えんいん》』と名付けられた絹索が空を飛翔して巻き付き怪異の視界を遮る。さまよう眼球は狂乱のまま出鱈目に強酸を吐きまわる。もちろん、そんな攻撃にアガシは当たらない。別の怪異を溶かすだけだ。
「失礼しますよ」
浮遊する解剖道具『|瞭印《りょういん》』が怯んでいるさまよう眼球をすれ違いざまに刻む。解体された肉がずり落ち、バランスを崩した怪物が倒れた。
常に動き回り、視界と注意を遮る彼を怪異たちは影を踏めず、霧を掴むように追えない。眼が切れて体液が漏れる。牙が落ちて砕ける。解体された肉からこの世ならざる異臭が溢れる。
「鬼哭式は怪異を敬う儀でもあります」
1体、2体と解体されて地に伏す。残った最後のさまよう眼球を閻院で縛り上げ、瞭印を突き刺し。
「自分が生きていたら。あなたの臓腑、謹んで馳走になります」
ぱん、と手を叩けば異形の血肉を細切れに分解せしめた。彼は黙して佇み、暫しの祈りの後、手元に戻ってきた解剖祭具を丁寧に見分するとビル内へ歩き出すのだった。
フリルの目立つロリータ服を着こなす、少女と幼女の狭間にありし|鳳・楸《おおとり・ひさぎ》(|源流滅壊者《ルートブレイカー》・h00145)。2尺7寸の身の丈に見合わぬ太刀を佩き、腰の後ろには大口径のリボルバーを吊るす。身形、所作ともに堂々と様になっていることが、むしろ違和感と言えた。
「解けた封印ですか……倒すのではなく封印したということは強力だという事でしょうか?」
倒せないほど強かったのか、倒しても復活したり、あるいは死なないなどのしぶとさがあったのか。封印という先送りにも思える手段を選んだということは、そうせざるをえない相手だったということだが、さて。
頭を振って雑念を消す。どのようなモノであれ、被害が出る前に事態を収束させる必要があることに変わりはない。刃を交えない択は無いのだ。
思考を切り上げた頃には、坂を上り切りさまよう眼球が視界に入ってきた。
「まずはこの怪異の掃討からですが、なかなか見た目のインパクトがありますね」
緑の肉に無数の眼、牙、口を持つ怪異。現地で直に見えれば、不快な臭いと音までする。
「絶対夜道に不意打ちでは出会いたくないビジュアルです」
言葉のわりに怯む様子は無く、彼女は太刀の柄に手を添えていた。柔らかな物腰から反する武威の発露。風を置き去る飛躍の踏み込み、多数の眼でも捉えられない疾風抜刀が閃く。悍ましい肉が断たれ、異臭のする体液が噴き出る。
次に踏み込んでいた楸は、返り血を1滴すら浴びない。
「ぎぎゃ」
「共食い、となれば蟲毒的な感じでやはり手ごわい個体が残っているようですね」
斬撃の手応えから個体の強さを理解し、太刀もとい合金鍛造刀«緋閃»を構える。
「ともあれまずは倒し切ってしまいましょう」
「じゅぎゃぁああ!」
一刀で死なぬなら幾重にも重ねて斬ればよい。網目を刻む如く刃が奔り、彼女を食おうとしたさまよう眼球が爆発のように血飛沫を散らす。返す太刀が無造作に並んだ牙を斬り飛ばし、切先が踊り眼を裂く。
踏み込んだ足を軸にくるりと回り込み、強酸を避けてあらぬ方向を見ている怪異を斬る。風に舞う木の葉よりもひらひらと、彼女は敵を翻弄して死傷を与えていく。
「では、そろそろ幕を引きましょう」
吸い込まれるように太刀が鞘に収まる。彼女は屈むように身を低くして、力みながらも力を抜く。
周囲のさまよう眼球は無数の傷と、抉られた眼、血飛沫によって楸を見つけられない。
静かに戦意を高めていく。弓の弦を張るように、刀身を研ぐように。短くも長い60秒。
そして、居合抜刀。
「|絶禍《ゼッカ》」
「……!?!?」
撃鉄が雷管を叩くように雷光めいた斬撃は、さまよう眼球を見事に両断。斬られたことに気づく間もなく怪異は死して肉塊を晒すこととなった。
「……ふぅ」
残心。太刀を振りぬいた姿勢のまま熱を吐く。刀身の汚れを見分し、音もなく納刀。ビルを見上げる。
「再封印よりかはできれば完全討伐しておきたいですが……」
倒し切ることができる相手なのか。確実な情報はない以上、接敵してから判断するしかない可能性も考慮しつつ、彼女は足を踏み入れるのだった。
風を切って振るわれた刀身が異形の肉半ばまで食い込む。手首を返し抉るように引き抜けば、生物のモノとは思えぬ体液が流れ落ちる。|久瀬・千影《くぜ・ちかげ》(退魔士・h04810)は刀の血糊を振って落とし、鞘に納めて居合を構えた。
さまよう眼球は傷から中身を零しながら、口内に落ちてきた牙や眼を咀嚼する。ぐしゃぐしゃと聞こえてくる音に千影は顔を顰める。
「チッ」
舌打ち。胸中に燻ぶる苛立ちに似た何かを吐いて捨てるように。それは喰われてるのが人間じゃないだけマシか、なんて考える余裕か、不快な咀嚼音に対してか。
狂気を孕んだ無数の瞳が彼を見る。同時、踏み込みながら抜刀。何度も繰り返して身に染み付いた技が、淀みなく行使され閃く。見事な居合術が怪異を断ち切り、追撃の振り下ろしがトドメを刺す。残心。
「地獄の手前一丁目、と言った所か」
散らばる肉片。地面を汚す体液。転がって潰れた目玉。人間の破片は見当たらないのは幸いか、さりとて凄惨なことに変わりない。下手を打てば、自分もここの仲間入りだろうかと愚考して、ヤバけりゃさっさとトンズラすればいいと振り払う。
「まぁ、多少強力な個体程度なら、そんな怪我もしねぇだろ……多分」
数だって多いわけではなく、連携しているわけでもない。小石でもぶつけてやればノコノコやってくる低知能だ。1匹ずつ処理すればいい。
千影は納刀しながら振り返る。すると、口を裂けるほど開けたさまよう眼球が。
「ッヤバ!」
「じゅじゃじゃああああ!!」
真横に跳ぶのと、強酸が後ろを通り過ぎるのはわずかな差だった。千影は跳び込みから前転して素早く立ち上がる。
「気が付いたらあっさり死んじまってる、なんて笑えないオチは勘弁だ」
上着を叩いて掠めてないか手早く確かめる。痛覚の無い体は気づかないうちに、なんてことがあり得るからだ。√能力者であれば死んでも復活するが、別に死にたいわけじゃない。なにより、人から外れる気がするのだ。
「がじゅ」
「シィ――!」
強酸ブレスの切れ目を狙って千影が踏み込む。消耗して反応できない怪異に居合迸り一刀切断。口を横一文字に断ち切り、2分割する。さらに勢いそのまま回転して袈裟斬り、切り上げと繋いで仕留める。
どちゃっと水の混じった肉の音を立ててさまよう眼球が倒れ伏す。安堵の息を吐いた千影は、刀の血糊を拭って納刀する。
「油断ならねぇな……」
要らぬ冷や汗をかいたな、と周囲を見て警戒。敵がいないことを確かめると、やや重々しい足取りでビル内へ進んでいった。
第2章 集団戦 『ヴィジョン・ストーカー』

ビルの階段を上がっていく。どの階層も作りに違いはほぼ無い。長い廊下といくつかの部屋、一部に応接室などの大部屋。内部には置き捨てられてボロボロになった家具類、板で塞がれた窓、光を灯さない電灯。
そして、窓のように壁にはめ込まれたテレビ。そこだけぽっかり空洞になったかのような強烈な違和感と、雑音がする赤い画面。なぜだろうか、『目が合った』気がするのは。
「gq! gq! g7fff!」
画面から黒い腕が生え、雑音のような笑い声とともにテレビ姿の怪異は襲いかかってきた!
真っ黒なブラウン管テレビ型のボディに血のように赤い画面、漆黒の手を生やして雑音を吐き出す。ヴィジョン・ストーカーは初めからそこにあったかのように壁から生えて、耳障りな|笑い声《ノイズ》を響かせる。
扉を少しだけそっと開いて中の様子を見たアリスは、音を立てないように閉じてそれはそれは深刻な表情で口を手で覆った。
「大変! あまり美味しそうじゃない!」
明らかに無機物的な見た目に影と言う不確かな存在の怪異。食せるようには見えない敵にショックを受けるアリス。
「家電ってあまり好きじゃないのよね!」
無論、それは使い方がわからないという機械音痴……などの意味ではなく、食材としての感想である。あるいは調理した気がしないとかそういうのかもしれないが。
それはともかく。
「影って食べられるのかしら?」
頬に手を添えて悩まし気に彼女は呟く。まるで屏風に描かれた虎は食えるのかという問い、頓智の如き言の葉は聞く人がいれば疑問符で脳を埋め尽くしたことだろう。しかし、影は怪異だ。物理現象の影は掴めずとも、理外にあるモノならば、あるいは。
ぺろり。真紅の舌が紅玉の唇を可愛く舐める。アリスは古風なエプロンドレスを揺らしながら壁に手を添えて廊下を歩く。
「えーと、この辺かしら?」
コンコン、壁をノックする。次は横にずれてもう1回ノック、トントン。うんうん、と彼女は頷いた。
そして、指をピンと立てて壁を指す。
「えい!」
指の関節が一瞬の膨張、即座に伸張。柔らかで滑らかな指先が廊下の壁を障子を破るかのように貫通。詰まることもなくそのまま部屋の壁内部を突き進み、ついにヴィジョン・ストーカーに到達。躊躇いなく頭部? を貫徹。
「f?」
何が起きたかわからない怪異。けれど考える余裕は無い。虫食いめいて内部を掘り進むアリスの指があるからだ。
「3t@t@t@!?」
画面から生えた影の手がもがき苦しむ。赤い映像が砂嵐を起こして点滅する。数秒だったか数分だったか、指がひっこめられた時には黒い手はだらんと地面に投げだされ、物言わぬ壊れた怪異の死体がそこにあった。
たたたっと足音が響き、バン! と扉が開かれアリスが部屋に入ってくる。ヴィジョン・ストーカーの状態を見た彼女は花咲くような笑みを浮かべて近づいた。
「どんな味か楽しみ! さあ、|殻を剥いて《テレビを壊して》食べてみましょうか!」
ニコニコと笑顔で宣う彼女は手始めにだらんと垂れた影の手を掴み、そのまま齧ってみる。影ゆえにか質量も触感も無いが、不思議と味はあった。なんとなく覚えがある、とうんうん唸って、アレだ! と閃き髪代わりの触腕がピンと立つ。
「イカ墨! っぽい味!」
喉に刺さった魚の小骨がとれた感じのスッキリさに満たされつつ、次はテレビに移る。ばきばきと甲殻類の外殻を剥ぐように壊す。露わになった中身は混沌とした部品の集合体で、なんというか血生臭い。アリスは試しに部品をむしり取って口に入れてみるが、テレビの血液漬けとでも言うような味であった。
ちなみに外殻も齧ってみたが。
「んー家電のテレビ味ね」
もいだ影の手を食しながらヴィジョン・ストーカーの品評を終えたアリスは、個体差を確かめるため次なる部屋へ向かうのだった。
まだ未探索の階層へ、と階段を上ってきたクラウスと楸。足を踏み入れたフロアは部屋数が少なく、広い部屋が配置されているようだった。
「テレビが襲ってくるのか……」
なまじ親しみのある家電だけに、クラウスは困惑と驚きを隠せない。√ウォーゾーン出身の彼は超常現象や神秘の類と馴染みが薄いのも要因だろう。
「そういうもの、と理解はできずとも納得しておくことをオススメしますよ」
対して楸は√EDENだ。ある程度の慣れもあって過度な緊張は見られない。
「さっきの目玉といい驚くことばかりだよ」
彼の戦闘経験は多くともそれは銃砲鉄火とのことであって、かような怪物は知識も含めて不足を感じる。幸いなことは撃てば死ぬということか。物理的に殺せるなら問題はない。
雑談を交えながら廊下を進み、奥の突き当りに着くと両開きの扉があった。かつては質の良い木材を用いて高級感を匂わせたのだろう扉は、埃が積もりカビで黒く汚れ、過去の面影は廃れている。回りすらしないドアノブを押すと、ボキりともげる。遅れて扉が倒れて、部屋が露わになった。
食堂か宴会場だったのか、それなりの大部屋である。がらんとした寂しい空間。訪問者無き今、利用しているのは何体もの怪異、ヴィジョン・ストーカーのみだ。
「とにかくこいつらを倒せば親玉の力を削げるんだね、頑張ろう」
「はい、力を削っておけば封印されていた者も倒せる可能性が上がるはずです」
窓のように壁に存在するヴィジョン・ストーカーの群れが2人に気づく。聞き取りにくい雑音言語で喚いた。
「q@;tgq!」
「5mk!」
「7zq!」
点滅する赤い画面から黒い手が生える。クラウスはダッシュで右へ、楸は左へと駆け出す。
影の手は横へ伸びて他の手と繋ぎ合い溶け合い怪異同士を1本の線で結ぶ。個別に稼働する思考を接続して並列し処理能力を上げたヴィジョン・ストーカーは、新たに生み出した影の手で襲いかかろうとする。
だが、楸の方がまだ速い。
「我が壱閃は|弐拾重《はたえ》となり、|参佰重《みおえ》とならん。無限の剣閃、避けるに能わず。遍く刻め霊光の刃」
塵舞うコンクリートの舞台でフリルが踊る。小柄に見合わぬ太刀がするりと鞘を抜けて刃を現す。風切る音すら微塵に切り刻む数多の閃き、是即ち斬撃結界。触れる尽くを断つ剣閃が影の手をバラバラにする。
ミキサーさながらに細切れにされる手を見た怪異は、影の記憶から手を再構築。再び生えた手は刃の嵐に触れても容易く斬られはしなかった。
「固くなっている……?」
超高速の斬撃は鋭利なれど威力に欠ける。重ねることで補うが、対象の硬度が増すごとに時間がかかってしまう。耐久力を強化された影の手は、押し込むように手を伸ばす。
その横っ面を、光線が焼き払った。
「雨に呑まれて散れ」
射線を確保したクラウスのレーザー射撃である。粒子状のレイン砲台が発する光が、舞い上がる埃を照らして幕のように白く染める。
「g73!?」
影を貫く光が無数に放たれる。閃光は黒い手で防げるような範囲ではない。テレビ型の体を削っていき、さらに照射されたレーザーが影同士の接続を断つ。その瞬間、ヴィジョン・ストーカーの反応速度が低下し被弾はさらに増える。
「その繋がりを切断すればいいのか。全て焼き切る」
白光の雨は影を照らし闇を掃う。次々に断たれていく接続、もがけどどうにもならない怪異。
そして、赤い画面に太刀の切先が突き刺さった。
「ハァッ!」
楸はぐりっと太刀を捻り刃を横に、気合一閃、斬り抜く。ヴィジョン・ストーカーは雑音の悲鳴を上げて死亡。
もはや趨勢は決した。両者に同時に対応する手段を失った怪異はどれほど抗おうとも無意味。太刀かレーザーか死に際を変える程度のことしか選べず、1体ずつ仕留められていった。
室内に存在する敵を殲滅し終えたクラウスと楸は、小休止をとる。
「これで親玉との戦いが少しでも楽になれば良いけど」
「根源を確実に仕留めきれればベストですが、上手くいくかどうか……」
封印されている存在がどのようなモノか、興味はあれど対峙してみるまで詳細は不明。獲れるかもわからぬ獣を追う如し。
不気味な怪異を倒し切れるか、どれだけいるのか定かではなく。そこは星詠みを信じる他ないのだ。
2人は休みを切り上げ、次の階層、別の部屋へ向かう。ともかく駆逐せねばならないことに、違いはないのだから。
コツ、コツ、革靴がコンクリートをノックする。背をピンと伸ばして胸を張り、常に一定の歩幅と速さで通路を進むアガシは窓の前で停止。後ろを振り返り、前を見て、横へ顔を向ける。いずれの窓も、全て塞がれていた。
「ふむ……」
疑問。腑に落ちない感覚。どうにも咀嚼し難いモノが引っかかり、アガシは窓から窓へ視線を移していく。
窓を板で塞ぐのは、おかしいことではない。暴漢や浮浪者、不法侵入への対策に出入口となる場所を閉じるのは当然のこと。だから、これはただの直観。このビルと人と怪異の|縁起《因縁》を解いて結ぼうとする愚考。
窓を塞ぐ板に手が触れる。光を通さぬよう板が打ち付けられているが、固定の仕方は荒い。とても急いでいたようで、何かを恐れていたのだろうか。仮に恐れいていたとして、それは何を恐れたのか。侵入、脱出、窓そのもの……しかし手がかりは少なく、朧げな考えは舞い上がった埃のように消えていった。
「知る由もないことを思う、悪癖が。つい。自分のような暗愚は、触れて知るよりほかはなく」
自らに言い聞かせるように。徒然と考えを巡らせたとて、星も針もなく夜の海を進むようなもの。
「赤々と。呼ばれるままに参りましょう」
百聞は一見に如かず。眼で見、手で触れねば真実は秘密の箱の中。歩みを再開して通路を進むのだ。
「まずはこちらの|部屋《空洞》から」
幸いにも扉は比較的無事、少なくとも稼働する。鍵はかかっていないので、ゆっくりと開いて室内に入った。
埃の積もった床には、元の柄がわからないほどボロボロになったカーペット、枯れた家具類。壁紙は剥がれて地肌が露わになっている。
そして、不気味な真っ黒のテレビ。鮮血の如し赤い画面はチカチカと点滅して不安を煽り、その存在感に反して空洞のような違和感を発する。気づけば、眼が引き寄せられるのだ。影の手が誘う先には何があるのか。
パン、と軽快な柏手。音は、場を祓う技法の1つだ。アガシはヴィジョン・ストーカーの誘惑を拒絶する。
「影を縄で縛ること能わず。……であれば、あなたを捕らう記憶を照らしましょう」
諸手を組んで瞑想する。己の内なる世界に沈む。瞼を閉じれば表裏は反転し泥中の如き堂に座す。
「|花脈現しみそなわす《ヴラマヤー・タリ・グン・ルゥヤー》」
|鬼哭蓮《ルゥヤー》。現実では10秒ほどの経過であった。アガシの眼前、虚空に『眼』が咲く。ぎょろり、ぎょろり、と眼球が並ぶ。|先程祀った怪異《さまよう眼球》の示現、胴体の代わりに黒い蓮が芽吹く。
「鬼哭寺における視とは呪であり。《破魔》の行にもございますれば」
見るとは原始的な呪の1つ。魔眼の伝承に代表される、視線という意思の伝達、あるいは発露。
黒い蓮の咲いた眼が赤い画面を見る。影の手を生やした怪異が眼を見る。目が合い見やる。奥に在るのは何者か、何奴か。怪異の、いや、『窓』の向こうには何がいる?
「おっと」
アガシが1歩下がる。直後、黒い蓮と影の手が散った。破裂というにはあまりに静かに、さまよう眼球とヴィジョン・ストーカーは崩壊したのだ。
興味深いと彼は思案する。
「やはり、このビルには“見る”、“目が合う”ことへの執着を感じます」
誰もいなくなった部屋を出て、次の怪異のいる部屋へ移動しながら確信を得た情報を記録していく。1歩ずつ、近づいている。封印されている怪異はこちらを見ている。
アガシは、粛々と深みへ歩みを進めていった。
小分けされたチョコレートをひょいと口の中に放り込み、部屋の中を確認しては次の部屋へ。
「目玉と牙の次は何が来るんでしょうかねぇ」
小腹の空きを菓子で埋めつつ朱巳はぼやく。階段や廊下の道中も見回ったが、ビルの構造そのものに変なところはなかった。
「耳障りな音がするから、きっと騒がしいやつだよ」
怪異の痕跡を探しつつ瑶は隣を歩き、奇襲や不意を警戒する。しかし、現状は何もない。やはり居る部屋に入らないと反応しないのか。
いくつかの扉を開けては閉じると繰り返し、2人はついに当たりを引く。わかりやすく発せられる強烈な違和感。室内は至って普通の、今までと同じ作り。異なるのは真っ黒なテレビが存在することだ。それも3台。
朱巳は最後の1ピースを口に放って飲み込み、すっと構える。
「今度はアレですか」
「目玉の次はテレビ? 変なものばっか集まってくるね!」
テレビの画面が赤く染まる。窓から這い出るように、影の手が枠を掴んで内から生えた。関節の存在しない軟体生物染みた動き。笑い声が雑音となって三重奏を響かせる。
「5mk!」
「gq? gq!」
「g7ff!」
木の根を張るように影の手を伸ばし、異なる個体同士で繋ぐ。その様子に瑶は興味深いと研究者の目を輝かせる。
朱巳は両手の|籠手《阿・吽》を顎のあたりまで持ち上げて敵の出方を伺っていた。ボロボロの家具は障害にはならないだろうが、大きく動き回るには室内はやや狭い。
先手はヴィジョン・ストーカー。接続しているものを除いた影の手が引っ込む。赤い画面の表面に無数の滴が現出し、炸裂。機関銃めいた影の雨。
「これはちょっと多いかな!?」
朱巳は幻惑の炎で残像を作り、|靴型推進装置《火竜の髭》の|アタッチメント《火竜の牙》で瞬発力を強化し回避する。
「おっと危ないね!」
逃げ足に自信のある瑶は跳び出して直撃を回避し、立ち上がりながら走って弾幕から逃げる。
捉えるのも難しい回避行動。しかし、怪異は驚くほどの反応速度で対応する。影の雨を放つ画面を機敏に動かして追い回す。朱巳は見切って跳び、壁を蹴り、体を捻ってかろうじて避け続けているが紙一重だ。
一方、彼女の方は追い詰められつつあった。室内で多方向から弾幕を張られては逃げ続けるのは難しいが、それでも目線は怪異から1瞬たりとも離れない。
「なるほどねぇっと、影の腕がっ! どんどん繋がってパワーアップしてるんだ! ってヤバ」
解明、したはいいがついに追い詰められる。断頭台のギロチンの如く迫る黒い弾幕。彼女の前にダンッと着地する朱巳は、両腕を盾にして庇う。嵐よりも苛烈な影弾の雨霰。1発の威力は塵の如しなれど無数に重ねれば山を叩きつけられるも同じ。目に見えぬほどの手捌き、籠手を巧みに使って弾き続けるが水が染み出るように抜けた粒が肌を裂き、肉を叩いて痣と流血を生む。
「d、!」
「何言ってるかわかんないけどお生憎様!」
あざ笑うヴィジョン・ストーカーに、瑶は不敵に吠え返す。
「私は|解体《バラ》すのが得意なんだ!」
白衣から抜いた|Blood Wet Scalpel《怪異用メス》を投擲。不意の一撃は怪異を繋ぐ影の手を射抜き、直後に切断した。
「g2!?」
接続が途切れた敵はがくんとパフォーマンスが落ちて影の雨が中断される。その隙を突いて朱巳は|暴食マーモット《gluttony》ことポチと融合。
「今度はこちらのターンです」
顕現したポチの爪を投擲、画面や影の手に刺し、空間ごと引き寄せる。固定されていたテレビの体がバキバキと剥がれて彼の元へ吸い込まれるように集まっていく。その最中に、空いた手は握りしめられ拳を作った。
「「お返しだ」です」
狂暴な顎の波動が乗った拳がヴィジョン・ストーカーに打ち込まれる。続いて体重を乗せた強力な殴打が上から押し付けように食い込み、怪異が床に叩きつけられ跳ねる。さらに波動を纏った正拳突きが追加で放たれ、画面を粉砕した。
静かになった弾痕だらけの室内で、朱巳はゆっくりと息を吐く。出血や打撲はあるが、見た目に反して軽傷であった。
瑶はヴィジョン・ストーカーの残骸を観察もとい死亡確認に行く。と、1体だけ微かに生きていた。ヒビだらけで痙攣しているが。
「うーん……急所はどこなんだろ?」
|Lethal Buddy《相棒》でつつきながらぼやく。えいえい、とチェーンソーの刃でヒビを抉ったり広げたり割ったり、死に体のテレビ怪異がビクンと暴れているが、瀕死では碌な抵抗もできず。死ぬまで実験された。
そして、朱巳のもとへ戻ってきた瑶はにこやかに切り取られた影の手を差し出した。
「さっきは助かったよ。お礼にはい、回復は大事だからね!」
「いえいえ、どういたしまして。いただきます」
「味の保証は出来ないけどね!」
実験としてならともかく、瑶は別に怪異食を好んでいるわけではない、らしい。それはともかく、朱巳は躊躇いなく影の手を口に入れる。
「どう?」
「影だからですかね、触感がほとんどありません。味は……魚介系、これは、たぶん……イカ墨?」
「イカ墨なんだ……」
傷は治ったが、疑問が増えるのだった。
第3章 ボス戦 『対処不能災厄『ネームレス・スワン』』

1階エントランス。がたがた、と窓を塞ぐ板が揺れる。風や地震ではない、まるで何者かが無理やり剝がそうとしているかのような、不自然な揺れ。みしり、釘が抜け始め。ばきり、と落ちる。
それは1か所だけではない。次々に窓が解放されていき、全ての封鎖が解かれてしまった。
「(絶叫)」
地の底から這い出て『窓』より現れる。集い、混ざり、束ね、形を成す。老若男女この世全ての声を混ぜたような、けれど聞いたこともないような声が響く。
「(笑い声)」
白い翼が羽ばたく様は天使のよう。無数に絡まる肉蔓はセフィロトの樹を想像させた。血涙を流す人の頭部は安らぎを得ているかのような錯覚を与える。
「(誘惑)」
かつて封印され、今蘇ったこの怪異こそ『ネームレス・スワン』窓より出で狂気を伝染する正体不明の災厄である。
※上層階の怪異を倒したことで、ネームレス・スワンのPOW能力『災厄拡大』が封印された!
幾度となく怪異と対峙してきた。|警視庁異能捜査官《カミガリ》となる前から、なってからも。アガシは怪異を捕縛し、解剖し、祀ってきた。
「……なるほど、規格が違いますね」
だからこそ、眼前の存在はまさに桁が違うと理解できるのだ。奥底を見出せぬ、見れども見えぬモノ。あるいは。
「正体不明ゆえに、やもしれませんね」
見ようとすれば見えなくなる、そういうもの。先程の怪異達の奇妙な崩れようは、此れの干渉によるものか、それとも別の要因かは断定できない。だが、確かなことは、あのテレビの画面は|窓《目》に見立てたもので、ネームレス・スワンがこちらを見ていたことは間違いない。
「(泣き声)(笑い声)」
狂気の誘いは麗しく。アガシの内なる獣鬼すら揺蕩うような心地になる。憑き者たる彼ですら揺さぶる|恐ろしき《甘美な》声だ。聴くべきではなく、振り払うべきモノ。
「……けれどここが、狂気の只中ならば」
無骨な手が喪服のネクタイを締め直す。襟を正し、軽く埃を祓う。背を伸ばし胸を張る。
「|祭儀《ディセクション》を執り行います――謹んで奉る」
パン、と両の掌を合わせる。アガシに憑く極彩色の泥が蠢く。触れられているなら触れることができるように、狂気が彼を侵すならこちらから蝕むことも不可能ではない。
怪異の声に耳を傾ける。脳を混ぜる如き揺す振りを齎すのは|正体不明《ネームレス・スワン》か、|極彩唱『不明』《アマルガム》なのか。
(己が蕩けていく|感触《不明》を)
(|感触《安堵》に――いえ。)
左手薬指の褪せた指輪に触れる。極彩色の視界、真っすぐ立っているのかわからない眩暈を抑え込む。
「呑まれないように」
アガシは合掌から流れるように印を組む。10の指が複雑に絡み合い常人には解読できない異能を成す。インビジブルを制御して解剖祭具が舞い踊る。
絹索、閻院がとぐろを巻く。金剛杵が蛇頭めいて鎌首をもたげ、災厄と称されし怪異へと飛びかかった。
ネームレス・スワンは反応しようとしたが浸食を受けていたため、1歩遅く。翼を貫かれ、肉蔓を締め上げられる。舞っては落ちる白い羽が美しく、悍ましい。
「クッ……」
アガシの口から笑い声が漏れた。閻院が己の正気の手綱に見えてしまって。我慢できずに声が出てしまった。それとも狂ってしまっているのだろうか。
指が動く。瞭印、霊槍を作り変えた解剖の刃が飛ぶ。縫い留めたなら次は解体だ。血飛沫が舞い、怪異の悲鳴が響く。
「拡げた翼を縫いとどめ。神経を喰らい。あなたを縛して、祀りましょう」
何物にも染まらない喪服の黒を纏い、アガシは語る。
「ただしく|不明の狂気《安らぎ》である。敬仰を示して」
心臓の上に手を置き、丁寧な礼を以て。怪異を、解剖するのだ。
それが彼の職務にして、あるいは業であるゆえに。
「……こりゃ、また。大物が釣れたみたいじゃないか」
余裕、に見せかけた強がりの類。指摘しても千影は認めないだろうが、ネームレス・スワンはわざわざ彼の眼で見なくてもわかるくらいには強大な怪異である。
他の√能力者がいることや弱体化していなければ|逃げていた《トンズラ》だろう。
「これをぶっ倒せば解剖機関からはたんまり報酬が貰えそうだ。勝ち馬には乗るしかねぇだろ?」
独り言が増える。緊張を鼻で笑う。刀を握る手が力むのを、意識して抜く。口元は皮肉気に笑みを象る。
怪異が彼に気づく。果実のように連なる頭部が揃って視線を向けて、血涙を流す様はまるで憐れんでいるかのようだ。
「血涙を流すアレに視覚があるのか、無いのか。耳で探るのか、気配で探るのか……」
不気味な光景とてそれがどうしたと吐き捨てて、『眼』を向ける。その右目が徐々に燃え上がり、炎を灯す。けれど熱くはない。なぜならこれは霊力の火なれば。
「怪異ってのは俺達、人間の常識で測れぬ異形さ。けど、この|右眼《龍眼》はそんな隙を暴き出す」
全身の霊力を右眼に集中しなければならないという制約はあるし、連続使用が長引けば脳が情報負荷で廃人になりかねないというリスクもある。問題なく使えるのは数秒だけ。
そして、それで十分だ。千影が駆け出す。
「(絶叫)」
ネームレス・スワンが狂気の叫びを響かせる。音と認識できない遍く全ての声が千影を襲うが、龍眼は見通す。示される道筋に沿って彼は疾走し、跳躍。怪異の眼前、刀の射程へと至る。
眼が見せる道。即ち、隙。空間にぽっかりと存在する空白。彼の鍛えた体と技は狂気の中でも正常に作動し、腰に添えた鞘を掴む手は刀の鯉口を押し上げた。
「技――だなんて呼ぶには烏滸がましいけどな」
居合術。閃きが弧を描く。一瞬遅れて、ネームレス・スワンの体から得体の知れない血が噴出する。
着地した千影は返り血を浴びないよう素早く離れた。デカい図体ごと両断できればよかったが、できなくても構わないと笑う。目的は活動停止まで追い込むことだ。無理する必要はどこにもない。
「疲れてへばってくれりゃ、それが一番楽なんだが。あの金切り声のライヴを心行く迄披露されたら、参っちまうのはこっちの方さ」
無銘の刀を鞘に納め、再び居合の構えを取る。
「っつーワケで。さっさとくたばってくれ。この後は報酬が俺を待ってるんでな」
にぃ、と不敵に笑みを刻む顔。狂気を撒き散らすというなら、狂気ごと切って捨てるまで。千影の眼に恐れはなく、刀握る手に震え無し。
いざ、怪異討伐。地を蹴り、彼は疾駆した。
ネームレス・スワンと同じ空間にいる。ただそれだけで、脳の裏側を引っ掻くような不快感が生じていた。√能力者ですら大なり小なり影響があるこの強大な怪異が街中に降りてしまえばどうなるか、想像に易いことである。
「こいつが……邪悪な感じが|犇々《ひしひし》と伝わってきますね。外に解き放っては地獄絵図となりましょう。我々で食い止めなければ」
『どろり濃厚! 10000キロカロリー!』とラベルされたエナジードリンクを飲み干して朱巳は呟く。悪意と害意をブレンドしてどろどろに混ぜた狂気の化身。正体不明と称されても邪悪さだけは確かだ。
「気を抜いたら精神が持っていかれそうだね……」
戦闘機械群を相手取るのとは異なる精神的苦痛、命の危機や死の恐怖とは異なる本能が鳴らす警鐘。今のは誰の声か? 死んだ家族か、学友か。クラウスは遺留品を握りしめて狂気に抗い振り払う。
「だけど、配下を倒して力を削いだし、きっと勝算はある筈だ」
手に持った機械のスイッチを入れる。光の刃が形成、漂う塵が焼かれて異音を発した。
まずは接近する必要がある、と駆け出そうとした2人だったが距離を詰めるよりも速くネームレス・スワンの無数の顔が蠢く。
「(絶叫)(歓声)(悲鳴)」
耳障りな不協和音。脳髄を侵す狂気の声は伝染病めいて空間を伝播する。耳を閉じても聞こえてしまう怪異の異能。
朱巳が前に出る。自身に憑依する暴食の神霊マーモットと意思を共有。
(やりますよ、ポチ)
(合点。やっちまえ)
「ここから先は、硬いですよ?」
全身の毛が逆立つようなエネルギーの励起。ポチの力が注がれて鎧の如く憑依者を守護し、溺れるような狂気の中でも正気を保護する。さらに朱巳は右手を盾のように突き出した。
「いただきます……!」
波が岩に割かれるように、彼の右手は狂気の声を喰らって後方への伝播を遮断。圧が下がったクラウスは額に浮いた汗を拭い、息を整える。
「助かる」
「いえいえ」
しかし、このままでは動きがとれない。じりじりとでも近づいていくか、リスクを承知で跳び込むか。されど時間をかけ過ぎれば敵を逃す可能性も生じる。
その時だった。エントランスの天井、つまり2階の床をぶち抜いて黄金の影が舞い降りる。右拳と右膝を地面に着いてカッコよく現れたのはアリスだ。ちょっと力加減をミスって1階の床にヒビが入ったが気にしない。
「ふっふっふ……」
狂気をものともしないSF系ホラークリーチャー肉食女子は不敵な笑みでゆらりと立ち上がる。あまりの登場インパクトに敵すら黙っていた。
「やはりパワー! パワー攻撃は全てを解決するわ!」
そうだろうか。そうかも。いやどうだろう。
「ワタシ達の行動でアナタのパワー攻撃は封じられたわ! つまり最初からこれを狙って上層で暴れていたのよ!」
自信と自慢に満ちた会心のドヤ顔であった。
(そうだったのか……)
(いえ、上に行ったのは食欲のようでしたが)
(言うな)
コソコソと会話しつつ、態勢を整えてアリスの近くに寄っていく2人と1体。
「そして! 今からあなたをワタシ達のパワーでぶちのめすわ!!」
ビシッと指先を突きつけてアリスは力強く宣言する。思わず拍手したくなるほど様になっているが、現状そんな余裕はなかった。
やる気に溢れている彼女に、クラウスは声をかける。
「あー……いいだろうか」
「あら、どうぞ?」
「奴の声に妨げられている」
「ふーん。ワタシに任せて。いい考えがあるわ!」
ネームレス・スワンが再起動する。あまり相談の時間は無いとみて、ここは彼女の考えに乗ると朱巳とクラウスは決断した。
ばさりと白い翼がはためき、巨大な怪異の肉蔓が血管のように脈動して白い頭部が揺れる。口を開き声を発するよりなお速く接敵する術とは如何なるものか。無論、アリスの回答は1つ。
「そう、パワーよ!」
「だろうと思いました」
彼女の手、正確には触腕の上に乗ったというか掴まれているという状態の朱巳。予想通りと笑う。
(本当に力技かよ……)
(準備はいいですか? ポチ)
呆れの混じった返答を聞きながら、彼は構える。
「せぇぇぇいッ!」
アリスが渾身の力で投げつけた。
「(驚愕)(驚嘆)(混乱)」
まさかの戦術にネームレス・スワンは驚くが狂気は止まらない。しかし、朱巳は右手で打ち消して道を開き、左手にポチの波動を収束させる。
「照準完了」
流星の如く左手を白い頭部に叩きつける。怪異が血涙を流して悲鳴を上げるが、その異能は波動に阻害されて発動しない。あくまで一時的な妨害ではあるが、今の状況では千金に匹敵するお膳立てだ。
ネームレス・スワンは闇雲に翼を振り回し、暴れて取り付いた朱巳を振り落とそうとするが離れない。それならば飛んで叩きつけようとするが、その前に第2射が飛来する。
「一気に行くよ!」
クラウスの拳が食い込むように打ち込まれる。
「(苦悶)(苦痛)(苦難)」
間髪入れずに光刃剣が閃いて肉蔓を断ち、追撃の拳が突き刺さり、さらに拳銃の抜き撃ちが全弾放たれる。
「この世界の人達に被害は出させない。復活して早々に悪いけど、また眠って貰うよ」
叫ぼうとする頭を殴って黙らせる。
そして、次の瞬間、怪異は全身が引っ張られる感覚。動く頭が下を見ると、触腕で肉蔓を束ねて掴み捕らえるアリスの姿。
「アナタが! 泣いてぇ!」
異形の怪力にて全力で引き落とし、コンクリートの床にネームレス・スワンの巨体を叩きつけた。跳躍して拳を構え、吼える。
「謝るまで! ぶつわよ! |ギャラクティック怪異殺し《スーパーアリスチャンナッコー》!」
肉と骨を纏めて潰す音。さらに1発では終わらない。連続殴打。やかましいと頭を潰して得体の知れない体液を撒き散らし、あるいは千切り取って潰す。
光の刃が白い翼を切り落とし、神霊の力が動きを止め、鉄拳の連打が嵐めいて空間を揺らす。
「グハハハハハ! 抵抗できない状態で攻撃を受け続けるがいいわ!」
「このまま眠ってくれ。二度と覚めないように」
「ポチ、まだいけますか?」
「余裕だ」
積み上げたものが意味を成す。重ねたダメージが限界までネームレス・スワンの力を削り取る。肉塊に等しいほど打ちのめされて、やっと狂気の発露は停止した。ここまでされてなお死んでいないことは、恐ろしいほどの耐久力である。
気づけば日は暮れそうになっていた。連絡を受けて、坂の下で待機していた汎神解剖機関の職員たちが怪異の封印処置や移送のために急行する。後は引き渡して終了だ。
かくして災厄は人知れず排除された。人々は何も気づかずいつもの日々を過ごしている。また異なる怪異がいずこかに現れるだろうが……それまでは、暫しの休息あれ。