雪桜奇譚
いつもと同じ、見慣れた街、見慣れた通りの曲がり角。
ふらりと散歩に出掛けたその先で。
「あ……」
降葩・璃緒(花ひらり・h07233)は、何かに気づいて足を止める。
頬を掠める小さなひとひら。
白くて冷たくて……。
それって、もしかして──。
「……雪?」
ついさっきまでとってもいいお天気で、おひさまだってぽかぽかとあったかかったはずなのに。
見上げた空には、灰色の雲が低く垂れ込めている。
ふと周囲に目をやれば、先ほどまでとはまるで違う寒々とした景色が広がっていた。
知らない空。
知らない……場所?
だが、さして驚くことでもない。
√能力者である璃緒にとっては、日常茶飯事。
こんなのはもうすっかり慣れっこになってしまった。
「今日はどこの√に出たのかな?」
興味津々といった様子で、もう一度辺りを見回してみる。
人や動物たちの姿はどこにもなく、緑に囲まれた静かな山あいといった印象。
山から吹き下ろす風が璃緒の長い金の髪を踊らせ、玻璃のように薄いスミレ色の翼を小刻みに震わせた。
「う、さむっ!」
ぶるりと首を竦め、堪らず両手で肩を抱きしめる。
いつまでもここにいたら、身体の芯まで冷え切ってしまうに違いない。
どこかへ──。
行かなくてはと、歩き出す。
とりあえず、ここがどこなのかだけでも確かめたい。
せめて何か道しるべのようなものでもあればいいのだけれど。
そんなことを考えながら進むうち──。
「あ、看板があるんだよ!」
鬱蒼と生い茂った草むらの中に、ぽつんと木の看板が立っているのを璃緒は見つけた。
考える間もなく、近くまで急いで駆け寄る。
古びた看板はいくつもひび割れ、今にも朽ちてしまいそう。
「どれどれ……うーん、〇〇村とは読めるけど」
この先にある……もしくは、そこにあった村への案内板か何かだろうか。
指先で文字をなぞってみたものの、肝心の名前の部分が掠れて読めない。
璃緒の膝の辺りまで伸びた雑草の間に辛うじて残る小道は、看板の向こう側のさらにずっと先まで続いている。
この道を辿ればきっと……。
「立ち入り禁止とかにはなってなさそうだし、行ってみちゃおうかな!」
時間が掛かりそうなら引き返せば良いしっ! と、軽い気持ちで歩を進める。
その間にも雪は絶え間なく降り続け、足下が徐々に白くなってゆく。
さらさらの粉雪を踏み締め、いくらも進まないうちに辿り着いた先に、確かに村らしき集落は存在した。
随分と昔に廃村になったのだろう。
ここにも人の姿はもちろん、気配すら感じられない。
しんしんと降りしきる雪の中、すっかり静まり返った村の入り口で璃緒が見たものは──。
……今は何月だったっけ?
思わずそう呟かずにいられなかった。
ふわりと舞う雪は、確かに今が冬であることを告げているはずなのに。
どういう訳か、村のそこらかしこに満開の桜が咲いている。
幻想的なその風景に、璃緒は目も心も奪われる。
一瞬、何もかも忘れて見入ってしまうほどに──。
「すごーい、雪見桜なんだよっ!」
アガるテンションそのままに足を弾ませ、木々の間を巡る。
むせ返るような花の匂い。
本来、桜の花はあまり香りが強くないのだが、ここの桜は特に強く香る品種のようだ。
花弁の色は薄く、雪とほとんど区別がつかない。
そのせいか、不思議とあまり違和感は感じられなかった。
「新種、なのかな?」
それとも、本当にこの村だけに咲く希少種なのかも。
花好きのひとりとして。
師匠である老婆から引き継いだ温室の管理人として、興味をそそられる。
「あ、忘れない内に写真撮っておこっと」
いそいそとスマホを取り出し、カメラを構える。
帰ったら、撮った写真を師匠にも見てもらっていろいろ聞いてみよう。
璃緒にとって、師匠は誰よりも尊敬する大切な人。
幼かったあの日──。
花畑の中で眠っていた璃緒を保護し、養女として迎え入れてくれた恩人でもある。
璃緒には、師匠と出会う以前の記憶は何ひとつない。
一般常識から魔法の使い方まで、知識のすべては師匠から教わった。
そればかりか、名前すら持たぬ彼女に『降葩・璃緒』という宝物を授けてくれたのも師匠その人であった。
大好きなおばあちゃん。
師匠のことを想うだけで、胸の中がほっこりあったかくなる。
スマホを構える手はかじかんでいるけど、それすら今は気にならない。
璃緒は、夢中でシャッターを切り続けた。
「わ……」
ふいにまたはらりと落ちてきた小さな雪片が、璃緒の白い頬に触れる。
空に向かって腕を伸ばせば、手のひらの上にもひらりはらり。
雪と一緒に、桜の花びらも落ちてくる。
ひらりはらり、ひらり──。
「へへ、綺麗だねぇ」
薄紅色の花弁をいろどる雪ごろも。
それは、あまりに淡くて儚い。
けれど……否、だからこそ。
一瞬のきらめきを慈しむよう、璃緒はそっと優しく愛でた。
「ここまでずっと歩いてきたから……」
さすがにちょっと疲れたかも。
少し休憩しようと、近くの民家の軒下に身を寄せる。
そこには、ちょうどお誂え向きに椅子と小机が置かれていた。
この家に住んでいた人たちも、ここで桜の花を眺めていたのだろうか。
でも今は……。
「こんなに綺麗なのにボクしか見てないの、勿体無いなぁ」
想いを巡らせながら、椅子に腰掛けてみたところではたと気づく。
思ったよりあんまり古くない、かも……?
椅子も机も。
よく見れば、このおうちだって。
朽ちかけた看板から想像していたよりも、ずっと新しい。
ここで何があったかは分からない。
恐らくは、狂い咲く桜の花たちだけが知っているのだろう。
もっと知りたい。
桜のこと、この村のこと。
なぜだか璃緒はそんな気持ちに駆られる。
「せめて村の名前が分かれば良いんだけど……」
ひょっとして、どこかに書かれていたりしないだろうか。
そう考えてあちこち調べてみるが、手掛かりらしきものは見当たらない。
名前をなくした村。
まるで、あの日のボクみたい。
そう言ったら、師匠はどんな顔をするだろう。
「多分……うんそう、優しくふっと目を和ませてこう言うの」
呼ぶ名が無ければ、貴方が付ければ良いのですよ。
璃緒、私が貴方にそうした様に。
「そっか……」
心に浮かんだ名前を口の中で呟いてみる。
この名があれば、またいつかここに来られる気がした。
「今度はしっかりお花見の準備をしてまた来たいんだよ」
出来ることなら、月の綺麗な夜に。
だって──。
「夜に来れたら雪月花が揃うもん!」
想像するだけでワクワクしちゃう……!
その日までまたね、と桜の木に手を振って。
璃緒はゆっくりとした足どりで、名残惜しそうに雪桜の村を後にした。