君想う夢の跡
●Accident
鉄の匂いがする。
無意識にかたく握りしめていた拳をゆっくりとこじ開けると、花を模した真鍮のブローチが掌の皮膚に刺さっていた。つぷりと引き抜くと、珠のように丸く膨らんだ血が掌から零れて、乾いた地面に赤い染みを作る。
虚ろな瞳で血の跡を見つめていた男は、緩慢な動きで己の右足を持ち上げる。
――ジャリ、ジャリ。
地面に靴裏を擦り付けるように踏み潰すと、小さな赤き模様は土と砂利に紛れて掻き消える。
――きっと、彼女もこんな風に忘れられていく。
雑踏に飲まれ、談笑に跳ねのけられ、数多の悲しみに上書きされ。そして季節の移ろいとともに過去になっていく。
『なんと惨い』
脳裏に蘇る女の言葉に、総身が震えあがった。
背筋を爪で、つつとなぞられたような、耳朶に息を吹きかけられるような蠱惑的な女の声。
思い出すだけで唇がわななく。
震えを押さえるように手の甲で口元を抑え、かたく目を閉じる。それでも瞼の裏に、はっきりと映るは血を吸い上げたような赤、赤、赤――。鮮烈に艶やかに、畏れすら抱かせる色をした椿の花。それを纏う太夫の笑い顔。
その社へは、どうしようもできぬ感情を抑えたくて慰めに、あるいは縋る思いで立ち寄った。己の内からせり上がってくる悲しみと憎しみを浄化してほしいと思っていた――そのはず、だったのだ。
『わっちが力を貸してあげましょう。だから――わっちを助けておくんなんし』
ゾクッと悪寒が走った瞬間、両目を開く。
太陽のあたたかな陽射しが瞼を刺し、冬らしい冷たい風が頬を撫でてはひゅるりとどこぞへ抜けてゆく。耳鳴りがおさまると次第に喧騒が戻ってきて、自分がいま蚤の市に居ることを思い出す。彼女が好きだった市は自分を置いてけぼりにするほどの盛況ぶりだ。
男は彷徨う亡霊のようにゆっくりと歩き出した。
亡き恋人が味わえなかった雰囲気を、せめて代わりに感じてあげたいから。あるいは、自分がしでかした事から目を背けるように。
●Caution
「人の弱さにつけ込んだ古妖の卑劣な行い。……許せません」
物部・真宵(憂宵・h02423)は、噛み締めるようにそう零した。
しかし、気を取り直して革の手帳をはらりと捲ると、指先で文字をなぞるように、ある一つの事件を語りはじめる。
「先日、一人の女性が亡くなりました。被害者は二十代前半の女性、カスミさん。帰宅途中、背後から襲われ荷物を奪われた際に転倒。……打ち所が悪かった、ということです」
カスミの恋人である青年キリシマが駆けつけた際にはすでに死亡が確認され、死に目に会うことはかなわなかった。犯人はすぐに特定され捕らえられているが、だからといってキリシマの気持ちが晴れるわけではない。
「犯人を裁くのは自分ではないのだとわかっている。それでも」
許せないと思うのも、また人間だ。
「椿太夫は己が復讐の肩代わりをしてあげると言って、キリシマさんに自身の封印を解かせたのです。自分もまた、人の強欲によって命を落としたのだと、彼の心を揺さぶって」
それが嘘かまことかなどキリシマには分からない。けれど彼は信じてしまった。太夫の手練手管に見事騙されてしまったのだ。
「古妖の再封印はもちろんなのですが、まず皆さんにはキリシマさんに接触してもらいたいのです」
椿太夫を解き放ってしまったことは、キリシマにとっても善くないことだと薄々分かっている。けれど、それでも内に渦巻くどろりとした憎しみは消えやしない。だが、とてつもない間違いを犯した罪悪感が心臓を締め付ける。
「彼の強い情念もまた、何かしらのフォローが必要です。同じ過ちを繰り返してしまうかもしれませんから……」
悲し気に睫毛を伏せた真宵は、か細い吐息を漏らした。
それからほどなく、顔を上げた彼女は目じりを柔和に下げて笑う。
「カスミさんの夢は小さなお店を持つことだったそうですよ。自身も手先が器用なため、縫いものやアクセサリーを作っていたそうです」
いつか、蚤の市で自分の雑貨を売ることが出来ればいい、とそんな風に考えていたかもしれない。彼女の夢がキリシマを繋ぐ糸口にならないだろうか。
「蚤の市に出店しているお店のいくつかに知り合いがいます。彼らに協力を仰ぎますので、買い物客だけでなくお店側の人物としてもうまく立ち回ってみてください」
恋人を喪った悲しみははかり知れない。けれど椿太夫が起こす災厄もまた、新たな悲しみを生んでしまう。これ以上の悲劇を生まないためにも力を貸してほしい。
「皆さんならきっと、キリシマさんのお心を軽くしてあげられると信じています。どうか、よろしくお願いいたします」
真宵は深く深く、頭を下げた。
第1章 日常 『蚤の市をブラブラと』

●
(「ごめん。汚しちまったな」)
血で汚れたブローチを水で洗い流しながら、キリシマはもう何度目か分からない溜め息を吐いた。流水は掌の傷に滲みて痛いはずなのに、痛覚が鈍くなっているのか己の傷には目もくれず、ただ形見のブローチしか見えていない様子だった。
ハンカチで丁寧に水分を拭き取ったブローチを、まるで恋人と手を繋いで町に出るような思いで手に握ったまま、キリシマは人の流れに身を投じる。
目的もなく歩くのは苦手だ。思考が脳内を埋め尽くして頭痛がするし、見えないゴールを捜して永遠と歩き続けなくてはならない心地がして気が滅入る。
「よー、兄さん。どしたん? そんなゾンビみてーにフラフラしちゃってさ」
視界の端を、ちらちらと何か青い炎のような揺らめきが掠めたと思った矢庭に、そんな風に声を掛けられた。歩みを止めて声がしたほうを振り返ると、赤い毛氈が敷かれた床几台に猫が一匹、ゆるりと座っている。
「なんかあったん? 猫のおにーさんに話してみ?」
黒い艶やかな毛並みをした七々手・七々口(堕落魔猫と7本の魔手・h00560)は、目の下に濃いくまをこしらえたキリシマと目が合うと、金色の双眸を細めてにやりと笑った。
(「堕落魔猫のオレとしちゃあ、この結果もまた是とすべきことなんだがなー。この蚤の市で欲しいものも見つけちゃったしなぁ。まあ、仕事しますかねぇ」)
七々口はキリシマに気付かれぬ内に『嫉妬な魔手』による極少量の精神汚染を引き起こしてみせた。楽しそうな周囲に対する嫉妬心を少しだけ増幅させ、溜め込んだものを全部吐き出してスッキリしてもらおうという寸法だ。
(「知らねー猫になら、知り合いに言えなかった事も言えるだろうさー」)
キリシマの喉が震える。
彼はブローチを持っている手とは反対の掌で顔を覆い、少し俯いて、肩を大きく上下させた。
その背後では、あたたかな笑みを浮かべた人々が行き交っている。ここに、恋人を喪って失意の底に落ち、這い上がることも出来ず暗闇の中に蹲る憐れな男がいることも知らずに。
「カスミのいない世界は、今日も眩しい」
蒼穹も、雑踏も、談笑も、吹き抜ける風や葉擦れの音すら沁みるほどに美しくて。
「――ひどく憎たらしい」
当たり前が、当たり前でなくなった瞬間。何もかもが憎悪の対象となった。そう感じてしまう己にさえ、心底吐き気がする。
誰に宛てるでもなく、独語のようにキリシマは胸の内を吐き出した。七々口はその恨み言を、ふんふんと軽い態度で聞き流す。もっとどろどろしたものを吐き出せるように。
不意に、キリシマが夢から覚めたような様子で両目を大きく見開いた。
言葉を飲み込むように慌てて口を塞ぎ、嚥下する。
「余計なもん出したら、後に残るのは本当に大切なものなんじゃねーかと思うんですよ、オレはね」
生気のない顔色に少しばかりの赤みが差したのを見た七々口は、欠伸交じりにそう言うと、呆気に取られたキリシマをよそに床几台の上でぐぐっと伸びをして、それからひだまりの中で丸くなってしまった。
キリシマは声をかけようとして口を開いたが、うまく言葉が出てこなくて、やがて諦めたようにその口をゆっくりと閉じた。
「お前さん、キリシマにゃ?」
踵を返すか否か悩んでいると、床几台の隣で露店を出している店主に声を掛けられた。名を言い当てられ、どきりとしながら背後を窺うと、軍服の上から黒衣を羽織ったチーターの獣人が、燻らせた紫煙越しに己を真っ直ぐと捉えている。
不思議煙草店『四叉椿』出張販売と書かれた幕の下には、煙草はもちろん『特産』と札の置かれたサンソルトがずらりと並んでいて壮観だ。自慢の商品の奥で古い煙管を片手に、ゆるりとした居住まいで紫煙を喫む店主――神喰・蛙蟋(紫煙の売人🚬・h01810)が、おいでおいでする。
恐る恐る露店に近付き陰の内に入ると、彼は「ここも懐かしいにゃあ」とおおらかに笑ってみせた。
「ちょっと一服付き合うにゃ。いるにゃ?」
「あ、いや……自分は煙草は嗜まないので」
頷いて、納得した蛙蟋は、差し出していた煙草を机上に置くと、ふうっと紫煙を天へと昇らせる。キリシマがその仕草を何となく目で追いかけて――それから、手元の煙管にあしらわれた椿の花に気付き、小さく肩を震わせたのを、蛙蟋は見た。
(「蛙蟋に気持ちの機微はよく分からねぇにゃ。なんならどうでもいいにゃ。だからこそ聞ける話もあると蛙蟋は考えるにゃ」)
吐く息が細く震えている。
しかし蛙蟋はそれを宥めることも咎めることもなく、ただ静かな口調で、他には聞こえぬ小ささで言った。
「蛙蟋は復讐肯定派にゃ」
虚ろだった瞳が、石を投げられた水面のごとく揺らいだ。
●
(「全然わからないんだ。大事なものを失ったことが、まだないから」)
親子、夫婦、兄妹、友人――それから恋人同士。蚤の市には一見して様々な客で溢れかえっていた。最も大切な人を喪ったキリシマは、往来の人々の中に在って、一体どれほどの苦しみを感じているのだろうか。
(「とっても悲しいことなのはわかる。辛いことなのはわかる」)
だから、できるだけ話を聞いてあげたい。気持ちを聞いてあげたい。
一生懸命聞いて肯いて、寄り添ってあげたい。
いま永雲・以早道(明日に手を伸ばす・h00788)が出来るのは、きっとそんな簡単なことだ。
長い通りに沿うように開かれた蚤の市は、すれ違う人の顔を見るのがやっとなくらい賑わっている。以早道はキリシマの姿を捜しながら、時折ハンドメイドの細工物を扱っている露店を見つけては、真鍮の置き物かアクセサリーがないかあちらこちらに視線を走らせていた。
(「カスミさんが作っていたのがそれなら、キリシマさんに何か伝わるかもしれない」)
逸る気持ちを抑えながら大きく一歩を踏み出したとき、人波の隙間からぼんやりと店の前に佇む一人の男を見つけて、以早道はそれがキリシマだと直感した。
不自然にならぬように、商品を品定めするていでキリシマの隣に立つ。彼は、右手に花のブローチを握ったまま、白いレースの上に並べられた可愛らしい花飾りを眺めていた。その眼差しは、商品を見ているというより、花飾りを通して別の何かを見つめているように思えるほど、ひどく寂しいものだった。
心の中で「よし」と小さく意気込んだ以早道は、ぼんやりと眺めている彼の視界に己の手が映り込むように腕を伸ばし、一つの商品を手に取った。奮発して買ったのは、桜結びの赤い組紐に、真鍮の小鳥が添えられた根付けであった。
キリシマの瞳が、ゆるりとこちらを向く。
その視線の奥にどろりとした昏いものを感じた以早道は、彼の意識が自分から逸れる前に「それ」とブローチを指差す。
「なんか落ち着く感じでいいですね」
キリシマの視線が落ちる。
かじかんた指先を開くようなゆるやかさで右手を開くと、現れたのは小さな花が幾つも重なって丸い円を描くブローチだった。円に沿うように葉があしらわれており、バランスがよくとれている。
「俺、手作りとかそういうの、好きなんです」
毎日雲の形が違うように、同じ空が見られないのと同じように、同じものを作っても全く同じものはなく、一つひとつに個性が表れるものだ。この店の商品だって、よく見れば円の形に多少の違いがあるし、花びらの一枚だって形が違う。
「……まあ! そのブローチ、どちらのお店で?」
やさしく寄り添うように繋がれる以早道の言葉を、噛み締めるように耳にしていたキリシマに、横から声を掛けるものが在った。喜色と少しの興奮を交えた女の言葉に、驚いて顔を上げると、やわらかな朽葉色の髪を首裏で一つに結わえた若い年頃の女性――朽葉・日菜和(朽ちぬ想い・h05033)が己を窺っている。
「これ、は……買ったものじゃなくて……」
後ずさりするようにわずかに身をのけ反らせ、日菜和とブローチを交互に見るキリシマに対して、両手の指先を重ねて柔和に微笑んでみせた日菜和は、ずずいと彼に一歩近付く。
「せめて作家様のお名前を……! 直接、制作を依頼したいんですの」
キリシマは口ごもった。
ブローチを作ったのが恋人のカスミだとは名を告げることは出来ても、『死んだ』と口にすることを恐れているかのようであった。事情を知っている日菜和は、心の傷を抉ってしまわぬよう気をつけながら、彼が直接その言葉を言わずに済むように察した様子で睫毛を伏せる。
「みなまで言わずとも宜しいのですよ。……お辛いことがあったのですね」
詰めていた息を吐き出すような、か細い空気が漏れるのが聞こえた。
しゃんと背筋を伸ばせばそれなりに背が高いであろうキリシマが、今や小さくなって病人のような顔色で蚤の市を彷徨っているなど、亡くなったカスミもきっと悲しんでいるに違いない。
(「悲恋も含めて、人の恋路は好きよ。でも、此度の顛末はあんまりだわ。……古妖に利用されることも含めて」)
二人で結んで開いていく恋を、誰かが邪魔するものではない。
(「せめて、恋人達の思い出を食い物にされぬよう、解決に尽力致しましょう」)
俯き、微かに震えるキリシマにそっと近づいた日菜和は、やわらかく握りしめられたブローチを慈しむような眼差しで見守りながら、やさしげに言った。
「深い想いが込められていなければ、これ程の作品は作れない。……素敵な方だったのね」
――これ、紫陽花じゃないのか。
――ちがいまーす。シマくんは初デートで見に行ったハナミズキ、もう忘れちゃったの?
(「お願い、思い出してキリシマ様。カスミ様のことを。――彼女が本当は何を望むような人間かを」)
●
青々とした澄んだ大空を、じとりとした眼差しで睨むように見上げていた井碕・靜眞(蛙鳴・h03451)は、仰ぐのも厭いたといった風に頤を引く。
(「……ありきたりな悲劇だ。どこにでもある、よくある痛み。だからこそ、放っておく訳にはいかないってことも、知ってるんだ」
アンティークを取り扱う露店の前から、一人の男がふらりと表に出てくるのが分かり、靜眞はそっと己のつま先を男の方に向けて静かに歩き出した。一歩、二歩、男の歩幅を計算して、行き交う際にちょうど己の肩と男の肩が軽くぶつかる素振りをしてみせる。
「……あぁ、すみません。お怪我はないですか、自分がうっかりしてて」
「いえ……こちらこそすみません。自分も前をよく、見ていませんでした」
靜眞の丁寧な謝罪に頭を下げた男――キリシマは、どこか弱々しくもあり、ひどく動揺している風でもあった。ちらと視線をキリシマの肩越しに走らせると、少し先に以早道と日菜和の姿がある。
キリシマに視線を戻した靜眞は軽く周囲を見渡して、我ながら胡散臭いと思いながら「蚤の市の賑やかさに見惚れて」なんて嘯いた。
キリシマは、そこでなぜだか、小さく笑った。ふっと息を吐き出すような微かな笑み。目の下に濃いクマがあっても、やつれて輪郭が細くなっていても、春の陽射しを浴びてまどろむような笑みはきっと彼本来の人柄の表れに違いない。
「……すみません。恋人も、よく立ち止まってはよそ様にぶつかっていたもので」
その言葉に、靜眞は小さく頷いた。
「あなたも何かを見繕いに? 旧い雑貨は、味わいがあって落ち着きますよね。かつての持ち主の想いが遺ってるようで」
束の間、沈黙が落ちる。
キリシマを横目で盗み見ると、彼は掌のブローチに視線を落としたまま「そうですね」とまるで自分に言い聞かせるように言葉を返す。それからゆっくりと顔を上げて、周囲のきらきらした世界を直視して、目を眇めた。眩しさのせいか、それとも別の理由か。眦がうっすらと濡れている。
「……不躾なことを聞いてしまったなら、すみません」
キリシマの傍らに立ち、彼と同じ世界を眺めながら問う。
「ここに来たのは、大切なものを探しに来たんじゃないですか?」
キリシマの肩が跳ねる。
彼は目を眇めたまま、唇を引き結んだ。
「自分も、似たようなことをするんですよ」
――もしかしたら、会えるんじゃないかって。
●
(「うんうん、買い物もせずに市を歩くなんてきっと目立つよねー。市で生気もなく彷徨ってたら割とすぐに見つかりそうな気がするんだけれど」)
りんご飴を握り締めて駆ける子どもをひらりとかわし、鏡の前でネックレスを試着させてもらってはにかむご婦人方を横目に見やりながら、彩音・レント(響奏絢爛・h00166)は、ごった返す市の波の中を流れるように歩いていた。
「失礼します」
姦しい市の賑やかさの中で、そのたった一言がやけに耳についた。
レントは頸だけで振り返り、往来する人々の波を掻き分けるように視線を走らせると、無造作といって良いのか判別の難しい黒髪の男が一人、細い路地にふらりと入り込むのが見えた。
地を蹴り、彼のあとを追うように路地に入ると、男――キリシマは建物に背を預けるようにして寄りかかり、掌で顔を覆い隠したまま天を仰いでいた。少し考えたあと、レントはキリシマの方へ近づき、彼の隣にしゃがみ込む。
気配に気づいたキリシマが掌の隙間からレントを見た。
「市って人多いよねー。楽しいけど、ちょっと疲れるよね」
路地は日陰になっていて、ひなかにあっても薄暗い。細長く切り取られた表の通りを見やれば、そこだけが別世界のように明るくて、目の奥がちかちかする。
(「彼に会えたら伝えたいことがあるんだ」)
レントはしゃがみ込んだまま、両膝の上に伸ばした腕を乗せて、己の指先をいじりながら口を開いた。
「人間の生は短いけれど僕が出会った人たちは、それでも何かを残そうと必死に生きてた」
突然の独白に、キリシマは顔を覆っていた手を放す。
不思議そうな眼差しに問われた気がして、レントは路地の隙間から輝かしい表の世界を眩しそうに見つめたまま続ける。
「短い時間では成し遂げられなかったことを次の人間に託す、それができた人は安心して眠っていく」
一拍、そののち。
「キリシマさんは彼女のやり残したこと、やりたかったこと何か聞いていないかな?」
小さく、息を呑むのが分かった。
レントは立ち上がり、キリシマと正面から向き合う。
「きちんと託すことができなかった彼女の意思を誰か引き継いでくれたら、別の意味で彼女が生きていけるんじゃないかなって、僕は思うんだよ。僕は音楽で……歌でその想いを紡いでいる」
彼にも届くといいな。
少し冷たくなった自分の指先をかたく握り締めながら、レントはキリシマの心を包む氷が解けていくことを願った。
路地から一人の男が出てきたのを見止めた爾縫・恢麓(博愛面皮・h02508)は、その背中を追う。
(「俺は椿太夫さんに思うところはあんまりないんですけど、彼女がたくさん命を奪うというなら、止めますよ。命は大事ですから」)
ふらりふらりと危うい背中だが、その足取りはしっかりしているように思えた。ある程度腹が据わったのか、はたまた別の『目的』が生まれたのかはわからないが、とにかくも何かを目指しているのが分かる。
南北に伸びる通りを南に歩いてしばし。
キリシマは女性客の多い一角で歩みを止めた。若い女性が多いことなど気にも留めず、木製の飾り棚に並べられたアクセサリーや真鍮製のアンティーク雑貨を見つめている。
「あ、いいなぁあの指輪」
恢麓は、キリシマが見ていた品を横からさらうように手に取った。
「蚤の市って、いいアクセ屋さん結構ありますよね」
わざとらしく唇の端をわずかに持ち上げた恢麓の言葉に、キリシマはぽかんとした。
恢麓はキリシマに身を寄せると、彼にだけ聞こえるように囁く。
「キリシマさんでしょ? 俺、警視庁の爾縫って言います」
「……警視庁?」
戸惑いの眼差しを受けた恢麓は冗談を言うように「ほんとに警察ですって」と肩をすくめてみせた。けれど、すぐに表情を引き締める。
「いやね、なんかヤバげな封印が解かれたとか聞きまして。まあ、やっぱり再封印したいなーって」
キリシマの身体が、緊張で強張るのが肌で分かった。
すぅっと黒い両目を細めた恢麓は、喉を震わせるキリシマを真っ直ぐに射抜いたまま、
「だってキリシマさん。貴方が大切な過去に触れる度、とんでもない古妖を解き放ったという意識が必ず固着する。そして関係ない人が死ねば、貴方は、その事実を考えずにはいられませんよ」
そう、断言した。
●
頬を濡らすのは、晴れた空から降りしきる雨だった。細い雨は小さな宝石のように連なっては煌めき、世界を一層輝かせる。
買い物客は庇の下に駆け込み、露店の主は店先に出した商品をかき集める。世界が少しだけ騒然として、それから静まり返る。雨で洗い流された空気が、ひやりと肌を噛んでいくのが、なぜだか心地良い
(「なんて言うんだっけ、こういうの」)
天気雨でも、狐の嫁入りでもなく、確か――。
「……天泣」
水気を含んだ足音と共に訪れた声は、かつてカスミに聞いた雨の言葉を導いた。キリシマがゆっくりと面を上げるのと、ベンチに座った彼の隣に雨夜・憂(百鬼斬り・h00096)が腰かけるのはほぼ同時だった。
「話は聞いてるよ……心中お察しする」
憂は警察手帳を開いて見せ、そっと懐に仕舞いながらどこからともなく降りそそぐ雨を仰ぐ。あまり感情を窺えないのに、綺麗な横顔だった。
「警察官ってさ、何の為に力を持ってると思う?」
キリシマは逡巡した。
実際に事件と事故の両方を味わった身としては、いくつかの答えが内にあったのだろう。それを警察相手に素直に吐露できるほど、自我を強くは出せなかったのか、あるいは彼の中で何かが変わりはじめているのかもしれない。
「被害者の無念を晴らす為だ」
被害者、と小さく言葉を繰り返すキリシマが、そっと掌に視線を落とす。濡れないようにハンカチで包んだブローチが、開いた途端いくつかの雨粒を浴びてしまう。けれど、それがなぜだか美しくて、視線が縫い止められたように動かない。
「……同じ目に合わせてやりたい、直接報いを受けさせたい……その気持ちは痛い程わかる。でも、それを成したとしても君が失った者が戻る訳じゃない。生まれるのは悪しき報復のミームだけだ」
空から視線を落とした憂が、今度はキリシマの横顔を見る。
肌艶を喪い、指先までぼろぼろになった男は、己よりも歳が上とは感じられぬほどに弱く、虚ろで、儚げだ。
「今の君に、そして亡くなった君の大切な人に必要なのは公平な裁きだ。|報復《リベンジ》じゃない。その為に|警察《おれたち》が居る。信じてくれ。今持てる最大限の法で奴に報いを受けさせる」
そして今、彼を闇の誘惑で靡かせようとする奴も許さない。
濡れた黒髪の隙間から覗く本気の強い眼差しを見て、キリシマは一度、両目を閉じた。
脳裏に蘇るは数々の心に寄り添う優しさと、想いの温かさ。
――シマくん。
天が泣いている。
だったらきっと、これは彼女の涙なのかもしれない。
深く深く、腹の底から何もかもさらけ出すように大きく息を吐いたキリシマが顔を上げる。そこにいるのは、己の罪から目を逸らすことをやめて、喪うことも向き合うことも全ての覚悟を決めた一人の男だった。
第2章 冒険 『白い闇を越えて……』

●
その表情は、どこかすっきりとしていた。
別に目の下の濃いクマが消えたわけでもないし、生気が見る見る満ちていくわけでもないし、ましてや己に降り注いだ悲劇が消えたわけでもない。
それでも彼を一目見たときより、うんと顔色が良くなったことには違いなかった。
こちらに向かって会釈したキリシマは、いちど蚤の市の往来に視線を向けて――それからしっかりと今を生きる人間の表情で語り始めた。
「社の裏手には林が広がっていて、ずいぶんと奥まったところに、しめ縄が巻かれた岩がありました」
しめ縄は一番太いものが楠の大樹に繋がれており、細いものが数本他の木に結ばれていたという。まるで、周囲の四方八方を取り囲む木々が岩を抑え込んでいるように見えたと彼は言う。
キリシマは全てのしめ縄を外し、岩を動かした。
「地元の人に聞いたんですが、必ず太いしめ縄は楠に結ぶ必要があるそうです。この土地で最も大きくて古い木だそうで。あとの細いしめ縄は、できる限りでいい、と」
本来、しめ縄には縄目に紙垂という白い紙を差しこむのだが、用意が出来るのであればこれは邪を祓う札でもよい。また、場を塩や酒で清めるのもいいかもしれない。
「……自分の気のせいかもしれないんですが」
林を後にして、社から抜け出し蚤の市に出るまでの間、ずっと霧が立ち込めていた気がする、と言った。キリシマは己の腕をさするような仕草をして、それから東の空を振り返った。少し日が傾いたのか、陽射しの色が変わっている。
「岩が安置されているまでの林は鬱蒼としていました。かろうじて小路はあったのですが……。そういえば、社には誰もいなかった、ような……」
思い出せば出すほど、不可思議な話だ。キリシマ自身も、夢の中に居たような心地なのか、今さら震えが蘇ってきたらしい。
「遠くから、鈴のような音が聞こえてきたんです。以前、恋人に聞いたことがあって……あの社には悩める人を救いに導く音色が聞こえることがある、って」
それが本当の救いの音であったのか、はたまた古妖が真似た偽りの音色だったのかはわからない。だがこの結果を見れば、後者であったのだろう。
「あの朱い大きな鳥居が見えますか? あの鳥居をくぐってすぐ右手にある路地が、社へと通じる道になります」
キリシマが指差す方を見る。
通りを跨ぐように大きな朱い鳥居、その少し奥から白い霧が路地から滲んでいるのが見て取れた。あの路地裏に入ればひとたび、白い闇が自身を襲うだろう。方向感覚を失う恐れがある。救いの音色とやらが聞こえれば吉なのだが、どうにか霧の中を進み、封印のための準備を行わなければ。
●
「うわー、マジで真っ白じゃん」
冷気が這うように石畳を舐める霧は濃く、ほんの一メートル先すら見通せぬ白き闇が立ち込めている。
ゆるりゆらりと尻尾――ではなく魔手をうねらせた七々手・七々口(堕落魔猫と7本の魔手・h00560)は「めんどーだなぁ……」という言葉を飲み込んだ。傍らで不安そうに路地と七々口を窺っているキリシマに配慮して、という訳ではないけれど。
「とりま√能力で魔手達の長さを自在に変えられる様にしてっと」
七々口が身動ぎすると、一体の魔手が路地の入口に掲げられた電灯にするりと絡みついた。風にそよぐ草花のように左右に揺れて、いい目印になってみせた。
方向感覚を失って戻れなくなってしまわぬように、路地裏の入り口に魔手を一体置いておけば、場所がわからなくなってもスタート地点にはすぐ戻れるだろうという算段である。
石畳はひやりとしていて、己の全身が霧でしっとりしていくのがわかった。
路地裏は変に左右へ折れたりせず真っ直ぐに進み、西の方に広がっていた木々のあたりに目途をつけてひたすら歩む。あまりに視界が白いせいで、時おり自分が立っているのかすら、ふっと立ち眩みにも似た感覚に襲われる。
空気が変わり、温度が一、二度ほど下がったのが分かった。境内に入ったのだ。
「さてと、進む時は小路があるらしいし、それを手掛かりに進んで行こうかね」
大きな鳥居をくぐり、本殿のあたりを迂回する形で進んでいく。はじめに強く惑わせるつもりであったのか、路地に立ち込めていた濃霧より幾分か目が慣れてきたように思う。
「人間にゃあ小路でもオレにとっちゃ普通の道だしねぇ」と七々口がのんびり口にしたように、すれ違うのもやっとな小路は、猫の姿をした七々口にとっては何の障害にもならない。
ゆえにか、風に運ばれたか何かの悪戯か、人の目には低すぎる垣根や涼み台といった足元に近い場所に隠れていた細いしめ縄を発見することができた。強欲な魔手で引き寄せたそれらは、霧のせいで根本から破れたのか紙垂はなく、一見するとただの縄にしか見えない。事情を知らなければゴミとして扱われたことだろう。
「出来るだけ回収しとこ。いっぱいあった方がなんか良さそうじゃん?」
てくてく歩きながら背後をちらりと尻目に見やると、まるで何重にも飾り付けられたネックレスのようにしめ縄を手首にかけた強欲な魔手と、残りの魔手たちが道中に宝物庫から拝借した酒をせっせと運んでいる。これで最低限の清めとやらは可能だろう。
土をえぐるような大きな足跡と思しきものを辿り、林を奥へ奥へと歩いてしばし。
歩くのも厭いてきた頃、変化のないシルエットが続いていた霧の奥に薄っすらと見え隠れする大木を見止めて、七々口は月のように輝く双眸をにんまりと細めて笑った。
「見ぃつけた」
●
己の背後で行き交う人々の楽し気な談笑を耳にしながら、永雲・以早道(明日に手を伸ばす・h00788)は真剣な眼差しで細い路地の入口を見つめていた。笑い声が、まるで薄い膜越しに聞こえてくるようで、自分だけ外界に取り残されたような気分になる。
しかし、冷たくなった指先を握り込むように拳を作ると、迷うことなく霧の壁に突っ込んで行った。
(「何かが行く手を阻むなら勇気を持って進むのがいい。誰かが脅す行く先なら強い意志で進めばいい」)
肌を舐める細かな霧は、まるで氷片のように冷たく、得も言われぬ不気味さがあった。
伸ばした己の指先すら見通せぬほどの濃密な霧に臆することなく、黙々と足を動かし、ただひたすら路地を往く。
(「信じることも、勇気を持つことも、いつも出来るわけじゃない」)
足元を何かがすり抜けて行った。布越しに触れた感触に、どきりと心臓が跳ねる。
己の胸を押さえて、深く深く、それでいて己がここにいることを秘すように細く吐息する。
見えない道は怖い。踏み出した先に穴が開いていても、きっと今の状況では浮遊感を覚えてから気付くことだろう。本当は己の真横に何者かが添って付いてきているのではないか、などと想像をしてはかぶりを振って払いのける。それほどまでに白い霧は以早道の心に緊張感と恐怖心を植え付けた。
(「それでも進まなきゃならないんだ」)
ブローチについて触れたとき、彼が何を思って掌の遺品を見つめていたのか分からない。憎しみや悲しみに濡れたあの眼差しを思い出すと胸が痛くなる。誰かを喪うという事実は、一人の人間をここまで追い詰めてしまうものなのかと戦慄すら覚えた。
(「勇気とか、覚悟とかそう言うものじゃなくても、キリシマさんのように受け入れることが必要なんだ」)
――自分の弱さを。
己が犯した過ちを告白してくれた彼の表情を思い出すと、踏み出す一歩が確かなものになる。自分の罪を打ち明けるのは怖かろう。けれど、彼は間違いながらも最悪の結果を生む前に踏みとどまった。彼のためにも、こんな霧に負けてはいられない。
靴越しにでもわかる、石畳の硬さ。いま自分が地面の上に立っていること、そして一歩ずつ足を前に運び歩いていること。その事実を実感しながら、以早道は進んでいく。
建物の手触りやマンホールの形。街灯から垂れ下がる看板を念入りに注視しながら、霧立ち込める路地を突き進む。何度道を違えたとしても、正しい道に辿り着くまで、何度も、何度も、何回だってやり直す。
悲痛に項垂れた小さな背中、雨上がりの空の下で少しだけ目元が優しくなった淡い笑みが脳裏をよぎる。
――人はやり直すことが出来るのだから。
「俺は人の何倍も間違うから、たどり着くまで歩くだけ」
なけなしの勇気を握り締めたまま、以早道は歩く、歩く。
●
(「キリシマ様……いいお顔になられたわ」)
憑き物が落ちたように、すっきりとした表情で現れたキリシマを見て、安堵の吐息を漏らした朽葉・日菜和(朽ちぬ想い・h05033)は、眦を和らげてやさしく笑んだ。
雨で洗い流された世界はきらきらと眩しくて、彼の瞳にもそのひとかけらが灯ったようだ。
(「彼に幸あれ」)
己に深く頭を下げて見送るキリシマを祈りつつも、日菜和は目的を果たすために早速『語ラヒ』を使用。視界内のインビジブルたちが生前の姿に変わり、日菜和のもとにそろそろと近付いてくる。
(「キリシマ様が封印を解いてしまってから、そう時間は経っていない様子」)
よって、インビジブルたちにキリシマの特徴を端的に挙げていき、今にも倒れそうな満身創痍の男か、あるいは何もかも恨んで今にも闇に溶け入りそうな男を見なかったか、と問うた。
「皆様、どうか教えて。悲劇は終わらせねばならないから」
懇願にも似た願いの仕草をする日菜和を前に、少したじろいだ様子を見せたインビジブルたちは互いの顔を見合わせあう。
束の間の沈黙、のちに。
一歩前に踏み出して、ちいさな手のひらで挙手をした子どもの幽霊が言った。
「あたし、見た。ふらふらしてるのに、お顔はすっごく、怖いお兄さん」
そっとしゃがみ込み目線を等しくすると、幽霊は「あっち」とでもいうかのように白い霧の奥を指差す。
「あたし、簪屋さんの前を泳いでたの。お兄さんは、奥の道からやってきて……」
「お社に繋がってる道さね」
「ああ、参道への近道の路地だな。それならこっちだ」
一人が動くと二人がつられ、三人目が動き出すとインビジブルたちは途端に姦しくなった。日菜和はほっと安心した風に胸を撫でおろした傍ら、キリシマの姿は見る人によっては強烈だったのだと、改めて実感する。
右も左も分からない白い世界を案内してもらいながら、日菜和は彼の言葉を思い出していた。
――社には悩める人を救いに導く音色が聞こえることがある。
鈴の音色については期待していない。何かの伝承が口頭で伝わるうちに変質したのかもしれないし、若い子の間で流行っている噂話なのかもしれない。存在があやふやだからこそ、そんなものに縋るしか道が無かったキリシマを思うと莫迦にはできなかった。
けれど、もしも聞こえるとするならば。
日菜和は一瞬、目を閉じる。
――大切な相手の記憶を取り戻すべきか、否か。
眼裏に映るその人を思う。
(「私が悩み、救いを求めているとすれば、そのことに関してでしょうね」)
そろりと睫毛を持ち上げると、霧の中に在る己の姿に、キリシマが重なって見えた気がして「なるほど」と思う。迷子になった幼子のように、彼は鈴の音に導きを見出したのか。
(「古妖の仕業かもとわかっていなければ、私だって引き寄せられてしまうかも」)
一縷の望みに手を伸ばしたキリシマを笑わない。
(「けれど、答えは自分で出すわ」)
妖怪の時間は、とても長いのだから。
空気が凍ててゆく。肌に触れる冷涼な風に鋭さが混じった気がして、頤を持ち上げると、大きな鳥居が己の頭上に屹立していた。
その奥から、りぃん、りぃんと、細く高い澄んだ音色が幽かに鳴っている――。
●
「霧、にゃ。どうにかできるにゃ?」
這うように路地から漏れ出てくる白い霧を前にして、神喰・蛙蟋(紫煙の売人🚬・h01810)は煙管を片手に首を傾げていた。
手を伸ばせば爪先が濃密な霧を引っ掻き、わずかばかりの引っかき傷を残すが、それもほんの一時のこと。瞬きする間に掻き消え、そして新たな霧が生まれ出づる。まるで生きているかのようだ。
少し考える素振りをしてみせたあと、蛙蟋は伏し目がちに椿柄の煙管を咥えて紫煙を吐きそれから――手持ちのメスで己の手を切った。皮膚が裂け、たちまち血の珠が膨れあがり、重力に沿って流れ落ちる。
だが、それに動じることなく滴る血液と共に竜漿を周囲の霧になじませ、それらを纏う。
「我らが猫よ。遠く離れた地だけど、なんかいい感じにしてくれにゃ」
蛙蟋がいう猫とは上位存在をさす場合の神と同義。けれど、そこに敬う気持ちはなく、まるで友人にでも語り掛けるように祈りながら、蛙蟋は跳ね上がった移動速度で路地へと突っ込み、白い霧の中を駆け抜ける。
冷たい霧が身を抱くように蛙蟋の全身を覆い尽くすが、彼はそれらを物ともせず硬い石畳をしなやかな身のこなしでぐんぐん突っ切ってゆく。途中、頭上を何か大きな物が通り過ぎて行った気がしたが、その時にはすでに境内の裏手、林の小道にまで辿り着いていた。
路地とは違う閉塞感のある、それでいて静謐な空気に気が付いた蛙蟋は、手持ちのサンソルトを取り出すと、辺りに撒き散らしながら件の岩がある封印場所を探索する。
途中、千切れた紙垂や細いしめ縄を見つければ、せっせと拾い集めていたものだから、気がつけば何重にも輪を描くように巻かれた細い縄が重さを感じるほどに集まってきた。すでに回収された物とつなぎ合わせれば、それなりの形にはなるだろう。
「儀式は他の奴に任せるにゃあ」
木の枝に引っかかっていた紙垂をつまみ、一息つく。
ふうっと紫煙を吐くと、それまでゆるやかに昇っていた煙が、ふわりと動きを変えた。細く棚引く紫煙の先に目を凝らしながら、歩みを進めてしばし。
突如として開けたその奥に、天を覆うように大きな楠が見えて、蛙蟋は「やれやれ」と言った風に、煙管を咥える。
(「再封印が上手く行けば弱るにゃ? 話す余裕でも生まれれば一服付き合ってくれねぇかにゃあ」)
そんなことを思いながら、蛙蟋は先に到着していた皆のもとに近付いて行った。
●
「皆聞いた? 仕事は早い方が良い。さぁ行け」
雨夜・憂(百鬼斬り・h00096)がそう言うなり、裏地に矢絣模様が描かれた外套がひらりと大きく翻った。かと思うと、犬型のロボが四体も飛び出してきたものだから、キリシマは腰を抜かしそうになるほど驚いている。
「え、今……マントの中から犬が……犬?」
霧の奥へと突っ込み、颯爽と走り去っていったのは三体。残りの一体は、混乱するキリシマの手元に鼻先を近付けて「ちょっと確認させてください」とばかりにふんふん匂いを嗅いでいる。だがそれもほんの数秒のことで、キリシマが我に返るより早く、四体目のロボは霧に飛び込んでいった。
キリシマが触れている物ならば匂いで辿れるはずだ。それにロボの感覚は普通の犬より遥かに上。
「安心して良いよ。アイツらが何故動物の形を模しているのか。すぐに分かる」
ぽかんとしているキリシマにそう笑いかけた憂は、犬ロボたちのあとを追うように己も白い霧の中へと身を投じた。
チャッチャッチャと石畳を掻いて霧の中を走ってゆく犬ロボのあとを、憂について行く形でキリシマも追いかける。すぐそばに居るはずの互いが、時おり全く見えなくなるほどの濃い霧に、背筋にぞっと怖気が走る。ここではぐれたら、二度と陽の射す世界に戻れなくなるような、そんな気がするのだ。
怖いと頭を抱えて蹲るのは簡単だ。
全てを誰かのせいにして恨むのはもっと簡単だった。
「でも、恨み続けるのはとても疲れる」
ぽつりと零したキリシマの言葉に、憂は一瞥を寄こしただけで、肯定も否定もしなかった。
――そう、感情を持続させるのはとても体力が要る。
ここで止められなかったら、キリシマの命もきっと儚く散っていったのではないだろうか。そんなことを考えた矢先のことだった。
「あっ」
キリシマが駆けながら背後を振り返った。
鳥居をくぐったのだ。そのことに憂も気がついたので、社の裏手に回った辺りから、周辺を意識して注視する。小路は狭く、時々垣根を越えて伸びた枝葉が頬をくすぐった。霧に濡れた葉はひやりと冷たくて、血の通わない指先のようでもある。
――ちなみに、犬ロボはバイクモードにもなれる。
だが、もし泥棒が建物や森に逃げた時にはバイクでは追うことはできない。故に動物の形態となって追ってもらう。鬱蒼とした森であっても、その特性を生かせる訳だ。
例えば、ひらりはらりと飛んで行った紙垂をかき集めることなぞ、造作もない。
「真ん中で破れた紙垂を使い回すより、少なくても形が保たれているものを再利用するほうが良さそうだな」
犬ロボが集めてきた紙垂を回収しながら吟味する憂の横で、太いしめ縄を二匹がかりで咥えて運んできた犬ロボにキリシマがぺこぺこ頭を下げてお礼を言っている。
紙垂の中に封印の際に使用したと思しき古い札を見つけて、憂が指先で摘まみあげると、キリシマが「ぐ」と殴られたような声を出した。どうやらこれが岩に張り付けてあったらしい。
「まっ、心配するな。言ったろ? |警察《おれたち》に任せておけって」
顔のそば近くで札をひらめかせる仕草をした憂は、自分の責だと感じているキリシマを見て、クスッと笑ってみせた。
第3章 ボス戦 『星詠みの悪妖『椿太夫』』

●
ちくりと鋭い痛みが走り、熱いものに触れたときのように思わず手を引っ込める。土で汚れた指先を開くと、手のひらに細かい擦り傷が出来ていて、皮膚には薄っすらと血が滲んでいた。
「……ああ、そういえば」
ブローチが突き刺さってできた傷口が、ざらざらしたしめ縄を引っ張るうちに刺激されて開いたらしい。しめ縄は汚れていないだろうか。今しがた楠に巻き終えたばかりのそれを念入りに確認して、穢れが付着していないことがわかると安堵から吐息が漏れる。
何かあったか、との疑問には首を振って答えた。
――これくらい『何か』の内に入らない。
露出した楠の根を跨いで、緩やかな傾斜を下ったキリシマは、開けた林の中央に鎮座する岩のほうへと近付いて行った。すでに正位置に戻された岩には封印のしめ縄が結び付けられ、あとは札を張り付けるだけといったところまできた。
作業に終わりが見えてくると、途端に恐怖が蘇ってくる。
なぜならば、最大の問題がまだ何も解決できていないのだから。
――リン。
ふるり、と身を震わせた刹那、耳朶に触れたは力強く鳴る鈴の音色。雨のように天上から降りしきっているようにも、己のすぐそばで鳴っているようにも聞こえる不思議な、それでいて強烈な存在感。
――リン、リン、リンリンリン。
四方八方を取り囲む木々を振り返り、仰ぎ、周囲を警戒する√能力者たちの一方、心臓が早鐘を打ち、血の気が引くようなおぞましさを覚え、キリシマの顔面は見る間に蒼白になっていく。この音を、知っている。
「ひぃ、ふぅ、み……」
肌をやわく撫ぜるような、艶やかな女の言葉。
布擦れの音に気付き背後を振り返ると、波のように引いていく霧の奥から赤い椿をぽとり、ぽとりと地に落としながら歩いてくる花魁が姿があった。白魚のような指先が煙管を口元に運び、色っぽく咥えてみせる。
ふう、と吐く紫煙すら、色香が孕んでいるようにすら思えた。
現れた古妖改め星詠みの悪妖『椿太夫』は、集まった√能力者たちを見渡して、それから背に庇われる形で後方に在るキリシマを見止めて、唇の端をわずかに持ち上げた。
「わっちのために、こんなにたくさん供物を運んできてくれたんでありんすか」
「違う!」
反射的に叫んだ己の声の大きさに自身で驚きながらも、キリシマはもう一度強く否定した。拳を握り締める。手のひらの傷が今になってじくじく痛む。心臓を耳に押し当てたかのように、鼓動が煩い。
それでも。
「終わらせるために来た」
現実と、向き合うために。
つまならなさそうに睫毛を伏せた椿太夫が婀娜っぽく吐息した、瞬間。
殺気が奔る。
「あまり焦らすのも可哀想でありんすね。それじゃあたっぷりと」
遊んであげましょう。
●
椿は花に顔を近付けなければ、ほとんど匂いを感じない。
それなのに鼻腔を突き抜けていく、この噎せ返るような強い香りは古妖の気配がそうさせるのだろうか。永雲・以早道は腕で鼻を覆い隠し、しゃなりしゃなりとこちらへ近づいてくる椿太夫の挙措を見つめていた。下手に動けば足元から絡め取られそうな殺気が肌を刺して、本能が警告する。
「遊び? ……そうなの」
その時ふと、視界の端でゆらりと動く影がひとつ。
視線のみで見やれば、己の得物を片手に握り締めた朽葉・日菜和が椿太夫を真っ直ぐと見据えており、その犀利の眼光が古妖のおぞましくも享楽的な本性を捉えて侮蔑を抱いているのだと分かった。
(「|彼女《古妖》にとっては所詮、遊びに過ぎないのね。私達と相見え、戦うことも、|キリシマ様《人間》達を弄ぶことも」)
吐息を噛み殺し、日菜和はただ卒塔婆を握る五指に力をこめる。
「……痴れ者が。封じる前に叩きのめして差し上げるわ」
「おぉ怖い」
おどけたように肩を小さくして、くすくすと少女のように笑う古妖がどのように動いてくるのか観察するために、日菜和は一定の距離を保ったまま睨み合う。
歩むごとに椿が揺れ、体内に花が咲いたように芳香が匂い立ち、紫煙が肌を舐める。
「まどろっこしいのは嫌いでありんす」
椿太夫が嗤う。
第六感が働き、その仕草でなにか仕掛けてくると察知した日菜和がオーラ防御を展開するのとほぼ同じくして、着物の裾に広がる椿の花が礫のように飛んできた。息つく暇もなく続々と飛んでくるそれを、さらに卒塔婆で受け流して身を守る。戯れなのか、露とも本気を見せぬ姿に心がささくれ立つ。
目を眇め、それでも日菜和は椿雨のなか地を蹴った。わずかな隙間を突いて、下から斬り上げるような形で殴りかかったものの、卒塔婆の切っ先は容易く空を切る。
まるで脳内を読まれていたかと思うほどの、げにもあざやかな回避。まるで稚児をあやす舞のような挙措だった。
(「……おそらく失敗するとは思っていたけれど」)
至近で交えた視線がゆっくりと絡み合う。
煙管を咥え、それからゆっくりとわざとらしく紫煙を細く燻らせた椿太夫は「ああ」と何か得心が言ったような声を出して、頷いてみせた。
「自己紹介がまだでありんしたね。わっちは『椿太夫』、星詠みでありんす」
暗に、その行動はすでに解っていたのだと言っているのだ。現に日菜和が動けば、先んじて妨害の一手が飛んでくる。己の何もかもを見透かしたようなまなこに、唇を噛む。
あえて返答しなかった。せいぜい己の強さを慢心していればいい。そうして敵が余裕を見せた時が、本命の攻撃を行う好機となる。
気がつけば弾かれ堕とされた椿の花が、霧で薄っすらと濡れた地面に点々と転がっている。剥がれた花びらが足元に広がっていて、まるで血の海のようだ。泡沫のいのちに哀愁を感じていた、そのとき。
紅を差した唇から、悠々と煙管が外れるのを見、卒塔婆に封じられし剣士の死霊『雪』を纏う。矢庭に、天に向かって紫煙が吐き出されようとする刹那を狙い、力強くそれでいて軽やかな蹴りで地を駆けた日菜和が間合いを一気に詰める。矢のように椿太夫の懐へと飛び込んだ日菜和は、瞠目する古妖へ無念の一撃を叩き込んだ。
凄まじい威力で躯体を斬られた太夫が、苦しみから腹を抱えて吐血。唇の端から漏れる紫煙が、血に濡れて禍々しい霞となって消えてゆく。
「人間は儚くとも、強いものよ。その命の尊さを理解できないなんて……哀れね」
吐き捨てられた古妖は、これが想いの違いだとばかりに涼し気な目元で見下ろされ、眉間に皺を寄せた。
その時ふと、日菜和を隔てた後方からこちらを窺っている以早道の姿を見つけ、古妖の瞳がゆるめられた。瞬間、以早道は標的が己に変わったことに気付き、咄嗟に太刀『黒鉄丸』を構える。
「いくぞ!」
それが最善かどうかなど考えず、以早道は向かってくる椿太夫に対し愚直に攻撃を仕掛ける。その姿には失敗することを恐れずに、そして間違うことすらも恐れぬ果敢さが溢れており、卑劣な古妖とは対称的な眩しさがある。
(「何回だってやり直す。何度だって立ち直る。無理な話だ、そんなにタフでもなければ傷つかないわけもない」)
それでも、いつかは立ち上がる。時間が、誰かの心が、理不尽に憤る心が。
きっと心に火を灯してくれる。
(「俺は強いわけでも鋼のような心があるわけでもない。だから、そうでもない、弱さがある、そう言う人間だってまた立ち上がれることを伝えたい」)
以早道が胸の内で考えていることなぞ知らぬ椿太夫は、頭上に掲げられた太刀が己に振り下ろされるのを見、その鋭い剣先を煙管の雁首で受け止め、そのままねじるようにいなしてしまう。振り払われた勢いで以早道は地面に転んでしまったが、彼はすぐさま立ち上がり、太刀を構える。
ただ真っ直ぐに眼前に聳える巨悪を見据え、己が持てる力と技を最大限に揮って戦いに挑む。その姿はまるで、自分の弱い心を励ますようでもあり、背中で誰かの心を勇気づけるようにも見えた。
いま自分が出来ること。
それだけを考え、後ろは決して振り返らず。転んでも傷ついても、今だけは前を向く。
至近で相対する古妖は、気を緩めればひとたび、一口で頭から喰らい尽くしてしまうのではないかと思うほどの威圧感がある。どこまで己の行動が詠まれているのかわからなくて、想像できない恐怖が背中から抱きしめてくる。
(「痛いし、苦しいし、怖い」)
それでも、また立ち上がる。
「何度だって、もう一度、だ」
駆ける。
両手で握り締めた黒鉄丸は一度折れた刀を打ち直してできた太刀。何度でも立ち直れと言う願いを込められたこの太刀に恥じぬ生き方をしてみせる。
真っ直ぐ、純粋に己に向かってくる以早道を見て、面白そうに唇を吊り上げた椿太夫が、ゆるりとした動きで閉じた扇子を用いて攻撃を受け止めようとした、瞬間。
は、と短く呼気が漏れる。
それは、瞬きよりも早く己の柔肌を斬り付けていた。
まるで空間を切り取ったかのように、一気に射程が縮まり、その刃が身を傷つけたのだ。共に斬りつけられた椿が、音を立てて落ちてゆく。
「おのれ……」
古妖は小さく、悔し気に唇を噛んだ。
●
マッチを擦ると硫黄が燃焼してガスが発生するため、ほんの一瞬だけ強い花の香りがやわらいだ。
椿の掘られた煙管に火を寄せながら|煙草を喫む。そして至る。《メイク・アップ・ジャンキー》を使用する神喰・蛙蟋は、何を思ったのかゆるりと立ち上がった椿太夫に、そのちいさな火を差し出してみせたのだ。「おや」といった具合に椿太夫の柳眉が器用に片方だけ持ちあがる。
「お前さんが椿太夫にゃ? まずは一服どうにゃ? 蛙蟋はお前さんがずっと気になってたにゃ」
軽い口調で話しかけてくる蛙蟋を怪訝そうに窺っていた古妖は、彼が持つ煙管に立派な椿があしらわれていることに気を良くしたのか、
「気が利くでありんすね」
と笑みを唇に乗せて近付いてきた。
能力の無敵を利用して少しばかりの余裕を作った蛙蟋が椿太夫の煙管に火を貸してやりながら、ちらと女の絢爛な容貌を盗み見る。赤い玉簪に大きな芳丁、雪景色を思わせる白い髪と肌によく映える椿の飾り。花のまま落つる椿をあちらこちらに撒いて歩む姿は、皮肉なくらい美しい。
「蛙蟋はお前さんを気に入ったにゃ。一目惚れと言っても過言にゃあ」
とつぜん。
ふいに蛙蟋がそんなことを言った。
火を借りて、煙管の吸い口に唇を寄せていた椿太夫は、口元に構えた格好のまま、静止する。
「はて。わっち、耳が遠うなっちまいましたかえ?」
視線を虚空へ向けて、とぼける面立ちすら美しい。椿太夫は蛙蟋から半身を引き、扇子で口元を秘しながら言った。
「花魁に一目惚れなどと、悪い人」
くすくすと笑う声につられて蛙蟋も嬉しそうに破顔する。
――何だか変な空気になってきた。
「なんか知ってる顔が敵を口説いてる……」
再封印の準備を終えて、今の今まで木の上に登って様子を窺っていた七々手・七々口 は、ずいぶんと様子のおかしくなった煙草屋の店主を「なんか面白そうだし」と言った理由だけでにやにや見下ろしている。
滅多に見られない場面であろうし、しばらくこっそりと見ていたものの、さすがの七々口も飽きてきた。
「……もう良いかな?」
ぐぐ、と伸びをして、いっそ面妖なくらいの笑みを浮かべた馴染みに向かって呼びかける。
「へーい、店長じゃーん元気ー?」
だなんて軽口をたたくような口調で大地に降り立った七々口は、その傍ら|傲慢特権《レガリア》を発動。しなやかな曲線を描いて地に四つ足をついた七々口が顔を上げ、にんまりと笑ったとき。椿太夫の身体が、ぎしりと軋むような音を立てて硬直する。まるで、押さえつけられているかのように、全身が重たい。膝を突く。
「何をしたでありんすか」
古妖が噛みつくように問うと、七々口は傲慢特権モードに変身させた傲慢な魔手を見せびらかすように振ってみせた。
「これで終わりじゃないぜー」
よく見れば、傲慢な魔手の手には、先ほどまでにはなかった重力操作の力を持つ魔剣が握られている。すなわち、斬られることを理解した椿太夫であったが、重力を跳ね飛ばすことも押しのけることも出来ず、さらには真正面からぶった斬られる運命からも逃れられなかった。
パッと赤が散る。
斬られた椿と共に赤い血が舞って、大地をより一層染めていく。
足元に跳ねたその鮮血を見ながら、蛙蟋は残念そうに瞼を閉じて深く溜め息を吐いた。たまさかの好機に邪魔が入ってしまった。
「……お前さん次きたら煙草倍付にゃ」
「何でさ店長ー。一応面白そうだから空気読んだのにさー」
きゃらきゃらと笑う黒猫であったが古妖からの反撃を察知して、怠惰な魔手で自分を無気力にする。とたん、椿太夫の手のひらの香箱から、妖しげな惑わしの香が広がるのを見た。疑心暗鬼を懸念して、フラットな精神を保つように動く一方、能力が発動した際に現れた下僕たちは自身の精神汚染で無気力にさせて、どこか適当なすみっこにでもいてもらうことにした。邪魔だったので。
心に手を突っ込んでぐちゃぐちゃに搔き乱すような攻撃に胸が悪くなったのか、少し様子を違えた七々口を横目に見やりながらも蛙蟋は煙管を寄せる。
「旦那、おさらばえ」
椿太夫がきれいに微笑うと、笑みの向こう側から波のように高く翻った椿の花々が蛙蟋に向かって襲い掛かる。惑わしの妖気を宿す椿花は、数百にも及ぶ攻撃を蛙蟋に差し向けたのだ。威力が大幅に落ちているとはいえ、桁違いの回数は生半可ではない。ばちばちと身が穿たれるような迫力に息をすることすら難しい。
しかし。
「……にゃはぁ」
笑い声がした。
かと思えば次の瞬間、椿の花をひとからげに腐すような禍々しい猛毒のブレスが放たれた。空中で毒気にあてられ無残に枯れた椿が、ぼとぼと雨のごとく大地に降り注ぐ。
最後のひとつが地に落ちたとき、椿太夫ははじめてその顔に本当の焦りを滲ませた。
●
白い頬に落ちた乱れ髪を耳にかけようとした椿太夫は、つと持ち上げた視線の果てに、楠に身を隠すようにしてこちらを窺っているキリシマの姿を見つけて、ふっと吐息が漏れるような笑みをこぼした。
「好いた女の仇討ちは、もういいんでありんすか?」
場が水を打ったようになり、扇子で口元を秘した古妖の窃笑が耳朶にまとわりつく。死人のような顔で佇立するキリシマを、嘲りを孕んだ眼差しで射抜いた椿太夫は一言、
「――薄情な人」
そう吐き捨てた。
「ふざけるな!」
瞬間、雨夜・憂は強く声を張り上げた。
憂はキリシマが古妖の視界に入らぬようにその眼前に立ちふさがると、鋭い眼差しで敵と対峙する。
古妖の言葉を耳にした今、彼がどのような思いを新たに抱えてしまったのかは分からないが、それでもさきほどの言葉に嘘はないと信じたい。
(「キリシマには思う所があるのだろう」)
憂自身も過去に大切な人を失っている。古妖の言葉たちは、そんな憂の逆鱗に触れたのだ。
「大切な人を亡くして……怒るのは当然、悲しむも当然だ! そんな人として大切な感情を利用し、弄んでいる貴様を許すわけにはいかない。貴様のその腐った性根ごと叩き斬ってやる」
――椿だけに。
そう挑発すると、憂の傍らにいた犬型、猿型、雉型のロボに搭載されたパトランプが勢いよく回転し、けたたましいサイレン音がまるで威嚇のように鳴り響く。
そして普段は抜かない刀を、憂は引き抜いた。
左手を後ろ腰に、右手に刀を持ち構える。
サイレンの不快な音と憂の不愉快な言葉に顔をしかめた椿太夫が、ひとつの椿の花を掌に握り込んで、それをぽぉんと憂たちの方へ放り投げた。宙で弧を描き、それでいて鉛のように鈍い音を立てて地に落ちたそれは、大爆発を起こして憂を吹き飛ばす。
さきほどとは手法を変えた状態異常の一撃だと気付いたのは、爆風に惑わしの香が混じって焚かれたからだ。
――しかし。
「その程度で、俺は折れない」
攻撃を受ける直前、防御壁を展開。ジャストガードする事で攻撃と効果を無効化した憂は、叩き斬った煙の奥から姿を現すと一気に古妖へと間合いを詰め、切っ先を振り上げる。
即座に反撃に出た椿太夫の攻撃を受け流し、そのまま叩きつけるように斬り裂いた。途中、寄こされた攻撃が総身を蝕み、ほんのわずかな躊躇いを生んだが、それでも持ち直して二度、三度と降り下ろす苛烈なまでの斬り付けの雨に、たまらず古妖が膝を突く。
「俺の降らせる雨は、被害者と共に流す涙だ。被害者の無念が晴れる、その時まで!」
そのまま蹴り飛ばそうとした憂は、ふと思い直して相手を見定めるように視線を落とす。
「普通なら殺人予備罪だが……慈悲は無い。悪妖の無謀な危険行為を現認した。これより警察官職務執行法修正第7条を行使する」
「……何を」
さきほどの激しさとは打って変わって泰然とした眼差しで発せられた言葉の意味を、はかりかねるといった様子で少しばかり憂から距離を取った椿太夫。
「無謀な危険行為が明白かつ継続しており、これにより多くの人命が著しく危険に晒される場合、警察官はその行為者に対して適切な手段を用いて制圧する事が出来る。この際、やむを得ず殺害を含む致命的な措置が必要と判断された場合は、これを実行する事が出来る」
それは彼の住む世界に存在する法律なのだろう。抜粋された文言が真実か否かなど椿太夫にはわからない。
ただ分かるのは、己の命がまさしく脅かされているということ。
そして。
「破邪……顕正」
そう唱えて|警視庁異能捜査官《カミガリ》が構えた刀には、燃え盛る炎が纏っていた。ごうごうと身を内から焼き尽くすような業火は、不動明王が背負う火の如く。
古妖が小さく息を呑む。
なぜならば、その炎は悪人の目にしか映らない、罪を灼く炎。
「うぉぉぉぉ!!」
――|神速《はや》い。
改造人間として肉体改造されたそれは人間の比ではなかった。さらには古妖に対する怒りで限界突破しているらしく、もはや攻撃を受け過ぎた身がとっさに反応出来る速度ではなかった。
椿太夫はかろうじて己の周囲に霧を発生させ、閉じた扇子を胸の前に構えるようにして防御の姿勢を取ろうとするが、駆けて――いや、もはや飛ぶように迫りくる憂。
「|十悪両断《じゅあくりょうだん》!!」
白い闇をも薙ぎ払うほどの一閃。
すれ違いざまの十文字斬りが古妖目掛けて放たれた刹那、絶望に瞠目した花魁を見た気がした。
刀をゆっくりと納刀する背中越しに、苦し気なうめき声が地に伏したのを知る。遅れてやってきた風が、椿太夫のなよやかな背中を押し、その身を大地に落としたのだろう。
「俺に悪人の声は聞こえない……続きは、閻魔様が聞いてくれるさ」
そう言い捨てた憂の言葉が届いたのかは分からない。
しかし、悔し気に歪ませた瞳を縁取る睫毛がゆっくりと下りたのを見計らい、全員は一斉に動き出し再封印に取り掛かった。
●
「皆さん、本当にありがとうございました」
それ以上下げられないのではと思うほど深く頭を下げたキリシマに、皆から優しい言葉がかかる。
再封印は成功した。
その事実に誰よりも安堵しているのは他ならぬキリシマだろう。
まだ顔面は蒼白で、つつけば倒れてしまいそうなほどの疲弊感が見て取れるが、脱力して微かに笑う彼の横顔はとても穏やかなものだった。
これからどうするのか。
そう問われて一度天に視線を向け、頤を上げたキリシマは「そうですね……」と思案する。
「まずは、カスミの墓参りに行ってきます。自分のしたことを全部告白して、それから……それから、どうしましょうかね」
やることが、たくさんある。
「それに、新しくやりたいことも出来ましたしね」
掌にしっかりと、けれどやさしく握りしめられたハナミズキのブローチが、木漏れ日を浴びてぴかぴか光った。