花晨幻日
時折、しんと沁みる冬の寒さに気づくように、見ているすべてが夢なのではないかと過ぎることがある。
夜と朝の隙間に見つけた知らない花が、違う|世界《√》への入り口だと、なんともなしにわかった。
まだ色濃い夜の寒さが、あ、とこぼれた降葩・璃緒(花ひらり・h07233)の声を白く広げて、痛いほど澄んだ風がすぐさま攫っていく。その清々しさを新しい年から吹いてきたようだと思うのは、きっと今日が元日と呼ばれる新しい年のはじめの日だからだ。
今日この日は『初詣』をするものなのだと璃緒に教えた師は、日付が変わってすぐ出掛けるつもりだと言った璃緒の好奇心を止めなかった。むしろそれならと振袖なる衣装を取り出してきて着せてくれて、いま璃緒は華々しい装束に身を包んでいる。璃緒の翼に尾に合わせて師匠が手を入れてくれたそれは、かつては師匠が着ていたものだそうだ。璃緒に合わせて鋏を入れてしまえばもとには戻せない――けれどむしろそれで満足だと、老婆はやわらかく笑ってくれた。忘れたくない宝物が、またひとつ増えた。
宣言通り夜のうちに赴いた初詣先は人で溢れかえっていて、見ず知らずの誰かでも目が合えば「おめでとう」と言いあう雰囲気が、なんだかとてもいいもののように思えた。いつもはどこかみんな他人に無関心な街も、今夜は眠る気のない浮足立った気配がずっとある気がする。いつもと変わらない夜が朝に向かうだけなのに、まるで世界ごと新しい|√《せかい》に踏み出したような。
(あたらしい年って、誰にとってもきっと知ってて知らない世界なんだね)
――それは璃緒にもよく|わかる《・・・》。
過去の記憶を持たない璃緒にとっては、いつでもどこでも、目に映るものすべてが新しい。あれもこれも気になって、不安よりも|好奇心《わくわく》が勝つ。どうなるかわからなくたって、進んでみたくなってしまう。
そんな気分で、初詣を終えた今も知らない道から帰ってみようと朝に向かう夜の街を足取り軽く散歩していたら――本当に知らない|花《みち》を見つけたのだ。
「あれって……|この世界《√EDEN》の花じゃないよね」
花は夜のなかで朝を待つように、蕾をふくらませている。ただの野花でないことは一目瞭然だった。だってあの花の蕾は、まるで宝石のようにきらめき透き通っている。咲けば光さえ放ちそうなそれは、古代魔術か錬金術で造り上げる花によく似ている。様々な能力者たちがいることも知っていればこそ、絶対にあり得ないとは言えないが――好奇心のまま数多の|入り口《・・・》に飛び込んできた璃緒の感覚が、あの花の先に進めば文字通り、別世界だと告げていた。
(どこに行けるかな? ……あ、でも)
躊躇なく踏み出そうとした璃緒の足が止まる。進むのを迷ったわけではない。今にも咲きそうな知らない花の姿が見たかったせいだ。けれど花が道になっているなら、咲くと同時に道が失われることだってあるかもしれないから、迷う。小さく唸る声が、白い息と広がっていく。
「……でも、やっぱり咲くのが見たいな」
そこにあるのが知らない花であることは、どうしたって大きかった。どんなふうに、どんな花が咲くのか。花好きとしては見逃せない。今蕾でいるなら、あの花は朝日で咲くのだろうか。
璃緒が見上げた先の空で、夜の深い色が薄らいでいく。一度朝に見つかった夜が光に白みだすのはすぐだ。まだ寝ぼけているような白は、あっという間に青に目覚めていく。空の移り変わりを見つめるのは、どこか花が咲くのを見守るのに似ている気がした。それが今日はなおさら特別にも思えるのは、やはり新しい年を迎えたこの日だからこそだろうか。
朝日が射し込む。璃緒が眩しさに細めていた目を花に戻すと、ちょうど花弁がひらこうとしていた。
きらめく花弁が、ゆっくりと咲いていく。花のかたちは蝶に似ていた。透き通った透明の宝石の蝶花が、朝の光を受けてその光を宿すように咲き輝く。きれい、と璃緒が唇だけで囁くうちに――花は空へ|羽ばたいた《・・・・・》。
「……えっ? あっ、待って待って、ボクも行くんだよ!」
明けたばかりの空に、宝石の蝶花が輝いて舞う。一瞬その光景の美しさに目を奪われるまま見送りそうになって、璃緒はあわてて花であった蝶を空まで追いかけた。
ひとつ翼を打って羽ばたいた空は、しんとして寒い。朝焼けを透かして舞う宝石蝶は、夢のように儚く美しいものに見えた。
きらきらと光の尾を引いて輝く蝶を追って手を伸ばす。けれども璃緒の指先が届くより、世界を飛び越えるほうが先だった。
空の、眼下の|景色《せかい》が絵本の頁を繰ったように様変わりする。すっかりこの感覚に慣れたいまも、この刹那は魔法か夢のようだ。
――もしもこれが夢なら、どこからどこまで夢なのだろう。
あたらしい光の眩しさに目を細めながら、ふとそんなことを思う。
時折あるのだ。伸ばした手が自分のものでないような、空を打つ翼が物足りないような。
小さな手は花を愛でられるけれど、人の身に添う翼では思うより空を高くまで飛べない。璃緒がなくした記憶がそうさせるのだろうか。その判断さえ、今の璃緒にはできないけれど。
(ボクがなくしたものって、なんだろう)
気になることがないとは言わない。ただ、考えてもわからないことを、深く悩もうとも思わないのだ。
今の己は『降葩・璃緒』でしかない。知らないことは知りたいし、気になるものには出逢いに行けばいいと思う。
ほら、今だって。
「届いた!」
伸ばし続けた指先が、蝶花に届く。きらきら光る宝石蝶は、今年はじめて顔を出す朝日を浴びると璃緒の手の中で虹色に輝いて、ただの花に戻っていく。きっとそれ以上飛ぶことはできなかったのだ。それでも咲いて世界を越えて羽ばたいて見せた。
まるで夢から醒めたようだ。――それでも、宝石のように輝いたことも、蝶のように羽ばたいたことも、決して嘘にはならない。
「あとはボクが連れていってあげる」
沁みる寒さを翼ひとつで振り切って、璃緒は高く飛ぶ。
新春の空に花が咲くように、紫晶の翼と振袖が光を受けてかろやかに翻った。