溢れたミルクに泣かないで
●眠らない街
けんけん、ごうごうと。
てんやわんやのどんちゃん騒ぎで湧きあがるのは、日暮れ頃の妖怪ハイカラ街。大正浪漫の懐かしさを醸しながらも、昼夜を問わずに明るく目にも鮮やかな歓楽街だ。
石畳を照らす赤提灯、揺れる風鈴。おもちゃ屋の露店に足を止める妖怪もいれば、流行りのミルクセーキやカステラを求めて馴染みの喫茶店に足げく通う妖怪たちの姿もある。
この街の妖怪たちは今もなお大正時代の文物を小粋な流行りものとして愛好しており、また人間たちからもそのレトロモダンな雰囲気が写真映えするとして人気のようで、人通りはいつも多く賑やかのようだ。
そんな中を駆け抜ける、足音がひとつ。
「こちらへおいで」
どこか遠くから伝うような声が脳裏に反響する。
その声が自分にしか聞こえていないことに気付いた頃には、少女は既に走り出していた。
「もっとはやく、もっとちかく。こちらへおいで」
忘れもしない。忘れるはずがない。やさしい声音を、いまだに覚えている。
まるで誘うような声は、人混みの中であっても鮮明に響いている。少女の足取りにもまた、迷いはなかった。ただ声が聞こえるほうへ、手の鳴るほうへと向かって少女は駆けていく。
ただの幻聴かもしれない。夢想から生み出された錯聴かもしれない。
――それでも。
「君とまた、会えるなら」
少女を突き動かすのは、その想いだけだった。
●白昼夢
「もう会えないはずの大切なひとに、もう一度会えるとすれば……あなたはどうする?」
いやなに、例えばの話だよ。そう言って水を向けたのは立花・晴(猫飼い・h00431)だ。片手に持つ和綴じの書物を指先で捲り、小さく息を吐く。
「そう、例えばの話でしかないんだ。彼女もまた、古妖の甘言に弄ばれ、誘われるままに封印を解いてしまった人間のひとりだよ」
記憶は声音から忘れていくというが、それでも忘れられないほどの情念を引き寄せるには丁度良かったのか。誘う声は少女を巧みに誘導して、その封印を解かせてしまった。
化かされたのだと気付いた時には既に遅く、強大な古妖を地に縛り付けていたのだろう封印は最早なんの効力も発揮していない。獣の哄笑を背に命からがらと逃げ出した少女はいま、妖怪たちが行き交う歓楽街で身を潜めているらしい。
「……過ぎた時間は戻せないし、溢れたミルクも元には戻らない。まずは街中で情報を集めて、少女を探してほしい」
探し方はあなたたちに任せよう。
頁から離れた指先を空に踊らせて、晴はゆるりと微笑む。
情報収集の傍らで流行りのミルクセーキやカステラを楽しむのもよいし、昔懐かしいおもちゃ屋に足を運んでみるのもよいだろう。少女の足跡は街にあるのだから、目撃情報は様々な場所で聞けるはずだ。古書店で集められる情報だってあるかもしれない。
ただひとつ、願うならば。
歓楽街で件の少女を見つけたなら、自責の念に駆られながらも怯えている彼女を宥めてあげるとよいだろう。友好的であるほうが、少女もきっと話しやすい。
そしてそこで情報が得られたなら、古妖の正体も自ずと知れることだろう。
「古妖の再封印が最大の目的であることは変わらないが、その過程をどう歩むかはあなた次第だよ――さあ、いってらっしゃい」
未だ得ぬ未来は、√能力者たちに託して。
ぱたりと音を立てて頁が閉じられると共に、猫が鳴いた気がした。
第1章 日常 『妖怪ハイカラ街』

●はいからさんを探して
夕暮れが街並みを赤く染める頃、妖怪ハイカラ街はよりいっそうと賑やかになる。
赤提灯が軒を連ねて周囲を明るく照らす中を人々が行き交い、楽し気な笑い声は遠くの山々まで響くようだ。
趣のある木造家屋が並ぶ中、ひときわ目を引くのは光を取り込むように硝子を嵌め込んだアンティーク調の硝子戸だろうか。鮮やかな色ガラスに反射する光が瞬いているその戸を開ければきっと、美しいピアノの調べが聞こえてくるだろう。
「六磊、見てください! あの招き猫さん、とってもかわいいです」
光の瞬きに思わずと足を止めて、西行・小宵(篝桜・h04860)は硝子の向こう側を興味津々といった様子で覗き込んだ。
猫だ。しかし、ただの猫ではない。招き猫の置物だ。
棚に置けるくらいの少し小さめな招き猫は、一般的なものより親しみやすく可愛らしい感じにデザインされている。目が合った招き猫はまるで自分たちを招いているようで、小宵は小さな発見を共有しようと背後を振り返った。
「其れが気になるのですか?」
声に呼ばれ、六・磊(垂る墨・h03605)も倣うように覗き込む。
ただの猫ではないが、招き猫はどこまでいっても招き猫。その置物をじっと眺めてから瞬く間、「此れは調査対象ではないな……」と零すも、彼女が楽しいのであればそれも良いだろうと軽やかな心の行くまま、六磊は問いかける。
「気になるのであれば、中に入りましょうか?」
「そうですね、喫茶店でしょうか? 何やら甘い香りの誘惑が……」
視線を落とせば、純喫茶と描かれた電飾看板。
ふわりと鼻孔をくすぐるのは珈琲の香りだけでなく、黄金に輝くカステラを思わせるやわらかい香りだ。
よしっ、と小さな手のひらを握った小宵は意を決したように顔を上げて、硝子戸に手を掛ける。
「入ってみましょうか! ……はっ、えと、もちろん調査ですよ! 調査っ!」
「はい。これも調査、そういうことですね」
「そう! そういうことです!」
どうやらそういうことらしい。
堂々と開けられた硝子戸の先で、招き猫が笑っていた。
喫茶店に入ってしまえばメニューを決めるのは早く、小宵と六磊は机の上で艶々と輝くような甘味を前に舌鼓を打つ。控えめながらもやさしい甘さに頬まで緩むようで、ふたりの間には和やかな空気が流れていた。
「ん、美味し……たまには好いですね」
普段はあまり頼まない甘さも、今日このときばかりはと六磊は頷く。
元より小宵へ分け与えることを前提とした選択ではあるが、甘味に綻ぶ小宵を見られると考えれば悪くはない選択と言えるだろう。
「小宵、此方も如何ですか?」
ひとくち食べた後、六磊は迷うことなくそのまま甘味を乗せたスプーンを手前へと差し出す。
その動作に驚いたのは他でもない小宵のようで、小動物のように飛び跳ねた後に目をまんまると開けて差し出されたスプーンと六磊の間を視線は泳いでいた。
「ま、まってください……!」
これってもしや! ももももしや!
沸騰したように急上昇する熱に、小宵は息を飲んだ。
これはもしや、噂に聞く”あーん”なのではないか。いや、それどころか間接キスなのではないか?
スプーンを差し出したまま今宵の挙動を大人しく見守る六磊の不思議そうな眼差しを前にその動揺は大きく、心臓の音がまるで耳の真横から聞こえているかのように鳴り響いている。たとえ恋愛経験がなくとも、小宵は詳しいのだ。そう、これはまさしく恋愛小説で見たことあるやつ。だけども。
落ち着いて小宵。そう暗示するように、跳ねてそのまま飛び出しかねない心臓を宥めるべく深く深く、吸っては吐いての深呼吸。
小宵と六磊とはそういう仲ではない。だからこれは――「ああ、成程」思考を遮るように、六磊が頷く。
「こういう時はなんて言うのでしたか、そう……、あーん……?」
――それから、少しばかり後のこと。
さくらんぼのように真っ赤な顔で「とてもおいしかったです」と告げた小宵からのお礼を、店主はそれはそれは晴れやかな笑顔で受け取った。
ふたりの調査はまだまだ始まったばかりである。
くるり、くるり。
透明なビニール傘を広げて、花嵐・からん(Black Swan・h02425)はゆっくりと歩く。揺れる風鈴の音のように軽やかに、けれど足音さえ気取らせないほど静かな足取りで。傘と同様に翼も広げども、飛びはしない。ただ静かに街中を歩んで、やがて駄菓子屋の前で立ち止まる。
妖怪ハイカラ街の中でも古く、小さな駄菓子屋だ。
古ぼけた看板に自動販売機、アイスキャンデーが所狭しと詰め込まれた小さな冷凍庫。可愛らしい暖簾を潜るときにはビニール傘はしっかりと畳んで、からんは口元に薄い笑みをたたえる。
「わたし、お菓子は好きなの。おもちゃがついたもの。あれがほしいのだけれど」
いらっしゃい、としゃがれた声でからんを迎えたのは駄菓子屋の店主だろうか。腰の曲がった年嵩のご老人は椅子に座ったまま、玩具付きの駄菓子が並べられた棚に手のひらを向ける。
ひとえに玩具といってもその種類は千差万別だ。消しゴム、小さな電車、カードからシールまで。
中には女児向けのものだろう、細々としたアクセサリーのようなものもあるらしい。
駄菓子の山を端から端まで眺めるように視線を泳がせて、かろんは小さく呟く。
「目移りしてしまうわ……」
ひとつ、それからもうひとつ。
気になるものに目を留めて悩みながらも、更にもうひとつ。そうして順番に眺める中で、からんが最後に見つけたものは隣の棚にあるガムだった。
チューイングガムに、ミントガム。人気のフルーツ味も美味しそうだけれど、何より目を引いたのは博打を銘打ったお遊びのガムだ。3個並んだガムのうち、2個は普通のフルーツ味だが残る1個はとっても辛いらしい。
パッケージを手に取り、注意書きに目を通したからんはゆるりと笑みを深める。
「おもしろそう。お友達と一緒にあそぼうかしら」
運試しのジョークグッズとも言えるそれを手に、からんはご老人のもとに歩いていく。
「すみません。こちらのガムを――、」
ふと壁に掛けられたシールくじに視線を置いて、瞬く間。
可愛らしいシールくじを迷うことなく選んで、からんは改めてご老人に手に取った商品を差し出した。
「こちらのガムと、こちらのシールをください」
「あいよ、お土産用かい?」
「ええ、おともだちに見せるの。みんなも喜ぶと思うわ」
簡素な紙袋に丁寧に詰められた駄菓子とシールを手に、からんは軽やかな心で踵を返す。
今度はみんなを連れてこよう。そう、心に決めて。
もう逢えないひと。
その言葉に思いを馳せて、鴛海・ラズリ(✤lapis lazuli✤・h00299)は薄氷のように煌めく瞳を伏せる。
忘れないひとがいる――だから、私がいるのだと。
そう思えばこそ、探さなければと考えるのも道理だった。きっと独りは不安だろうから。その気持ちを、ラズリは誰よりも知っているのだから。
小さく息を吐いた、そんなとき。足元からきゅわんと鳴き声が響く。ポメラニアンの白玉だ。
ふわふわの毛並みをまるまるとした体と共に揺らして、ラズリの注意を引くように鳴いた白玉はそのままわふーんと走り出す。
「どうしたの、白玉。そっちは喫茶店……、」
振り返るつぶらな瞳が訴えかけるまま歩み寄るラズリに、体をいっぱいに使った白玉の主張は止まらない。
てしてし、と小さくやわらかな肉球でメニュー看板を叩くものだから、ラズリの視線は自然とその先に落ちて、やがて目を輝かせる。
「はわ……みるくせーき! 飲んでみたかったの……!」
声を震わせたラズリに同意するように、わふんと白玉も鳴くものだから。
白玉もこう言っているのだから、これはもう喫茶店に入るしかないと心の天秤を傾けたラズリは扉を開けて、来客を知らせる呼び鈴を鳴らすのだった。
「美味しい……しあわせ……」
「きゅふん!」
生クリームにさくらんぼ、砕けた氷はひんやりとシャーベット状に口の中で甘く溶けていく。
蕩けそうなほどに頬を緩めてまろやかな甘さを楽しむラズリの横で、白玉の小さな肉球が主張する。そうしてふすふすと鼻を鳴らせば、自分も食べたいと言わんばかりの白玉にラズリは笑みを零して、カステラを小皿に切り分けながらそっと囁いた。
「はい、白玉はカステラをお裾分けね」
嬉しそうに跳ねる白玉をしかと目に収めて、それからメニュー表に視線を落とす。
追加でプリンも頼んでしまおうと思ったのは、艶々としたカラメルソースがあまりにも美味しそうだったからかもしれない。
「……保護者さんにも、食べさせてあげたかったな」
ひと切れのカステラを食べ終えて、どこか満足そうに丸くなった白玉を撫ぜながら窓の外を見やる。
「これを食べたら、私たちも探しにいこうね」
わふわふ、そう鳴いて同意を示した白玉にラズリも微笑む。
そして無事に少女を見つけたなら、ラズリは白玉といっしょに彼女へと手を伸ばすだろう。
何かに怯えているなら、何かを恐れているなら。貴女を守りたい――この気持ちは、きっと彼女の力になれるはずだから。
覆水盆に返らず。
一度起きてしまったことは、元に戻すことができない。
例えどれだけ嘆いたところで、元には戻らない。同じような意味の言葉がいくつ増えたとて、多くのひとが分かっているようで解っていないことでもあるだろう。
紫水晶がひそやかに細められ、藤野・静音(怪談話屋・h00557)はそうと手に取った古書を開く。
静音が訪れた場所は妖怪ハイカラ街の中にいくつか点在している小さい古書店のうちのひとつだったが、店内は賑やかな歓楽街とは相反して落ち着いた時間が流れているようで、目当ての書物を探すのにも困らない。
「妖怪画本、か……」
ぺらりと捲れば、古風ながらも色彩豊かに描かれた妖怪たちの姿がある。有名どころを集めているようだが、中には知名度があまり高くないような妖怪の絵姿もあった。
そこに綴られた文字を視線でなぞるうちに、静音はゆっくりと目を伏せる。
人は、誰かが亡くなった時は声から忘れていくと言う。
ならば自身が語った怪談話も、何は何処かに消えゆくのだろう。けれど。
「文字にして書に留めれば、うんと長い時を生きていけるのだから……本と言う物はよくできているよね」
時の流れるままに変化していくものもあれば、変わらないものもあるように。
どうやら妖怪ハイカラ街の妖怪たちは、古い時代のを文物を変わらず愛好していることもあり、同じように古書も大切に扱っているようだ。かなり昔に発行されたと思われる古書であっても、その状態は良かった。
「ひとを化かす妖怪というと、やっぱり狐や狸、川獺あたりが特に有名かな」
目を通し終えた古書を閉じて、棚に戻して。思考を巡らせながら静音は呟いた後、踵を返す。
件の少女を探して、見つけたところで。はたして自分にその子を宥めてあげることができるのだろうか。怪談話の語るのであれば静音にとっても慣れたものだったが、自責の念に駆られている少女を宥めるとなると言えることはそう多くはない。
ただひとつ、言えることがあるとすれば。
時間が傷を癒すとはよくいうが、要は忘却するということは救いであるということ。けれど。
少女と出会えたなら、静音はあえて言うだろう。
――いまはまだ、忘れなくていいのだと。
「会えなくなるってどんな気持ちかな?」
ぴるぴると震わした猫耳を撫でつけて、久遠・マリーツァ(Ipheion・h01241)は小さく呟いた。
賑やかな歓楽街には行き交う妖怪たちの楽し気な声が響いており、マリーツァの小さな呟きは石畳に落ちるよりも前に賑やかさの中で消えてしまったけれど、それを確かに聞いていた幼竜は傍らに寄り添うようにふわりと浮かぶ。
まだ幼く、体躯も小さな竜だ。そんな幼竜が身に着けたスカーフを指先で遊んで、マリーツァはつぶらな紫の瞳を瞬かせる。
「パパに、ママに……兄さまたちに。もし、まほに会えなくなったら……」
その気持ちをわかる、なんて簡単には言えない。
じっと見つめる瞳を見返した幼竜、蔦ノ森・まほろ(Olivier odorant・h02875)はまだ小さなその体から伸びた尾を揺らす。
幸いにも別れをいまだ知りえない幼い竜と幼い娘は、まだ想像することしかできない。それでもいつかは。長く生きたいつかの日には、その思いを知る日が来るのだろうか。
――どんな手を使ってでも、もう一回会いたい。
きっとそんな思いは、知らないままのほうがいいけれど。
「何、マリィ? あんまりきょろきょろふらふらしながら歩くなよ」
「なんでもないよ! わたし、キラキラの街並み大好き!」
美味しそうなものも、綺麗なものもいっぱーい!
音もなく頭を振って、明るい声でまだ見ぬいつかを脳裏から吹き飛ばす。
そうして交わした眼差しをやわらかく緩めて、マリーツァはまた歩き出した。
「ねえねえ、ミルクホールってなーに?」
「ミルクホール? 知らないよ」
歩き出したその先、ふたりが見つけたのは甘い香りが漂うミルクホール。
覗き込んだ硝子戸の向こう側ではミルクセーキやカステラに舌鼓を打つ妖怪たちの姿が見えて、そっと顔を見合わせてから内緒話をするように囁く。
「……入ってみる?」
まほろの囁きに、答えは言うまでもなく。
ミルクセーキに目を輝かせたマリーツァが硝子戸を開けるのも間もなく、来客を知らせる呼び鈴がミルクホールに鳴り響くのだった。
艶々とした木製のカウンターに通されたふたりが頼んだミルクセーキは、砕いた氷が入っているのか冷たくも甘やかだ。
牛乳と卵のやわらかい香りに、砂糖の甘味。さらさらとした液状のものではなく、シャーベット状になっているそれはいわゆるフローズンデザートというものだろうか。甘さは深くとも決してくどさはなく、後味はさっぱりとしていて口に運ぶスプーンは止まる様子がない。
「ん、すごく美味しい! 今度おウチでも作ってほしいな」
「うん、シンプルだけど……何か隠し味がありそうな気がする」
再現できるかな、と思考を巡らせようとしたところで一瞬の間。
まほろはミルクセーキを存分に楽しむマリーツァの頬を尾の先でちょいと突いて、問いかけた。
「マリィ、仕事忘れてない?」
「あっお仕事、ね!」
思い出したようにスプーンをお皿に伏せて、マリーツァは店内を見渡す。
ミルクセーキやらカステラやらをテーブルに運ぶ店員は忙しそうで、声を掛けるには憚られる。それならば、お客さんに声を掛けるのが良いだろうか。マリーツァが視線を巡らせた先でぱちりと目が合ったのは同じカウンターに座っていた女性客だった。
「あ、あの!」
「まあ、お嬢さん。どうなさったの?」
「ええっと、このあたりで、困ってるみたいな女の子見ませんでしたかー?」
なんと説明したものか。逡巡する瞬きの間で、マリーツァが迷子になってしまった女の子を探しているのだと説明すれば、女性客は心得たように一度頷いて、それから思い出すように硝子戸の外を見やる。
そういえば、少し前に随分と慌てている様子の少女がいたような。
すれ違う程度で確かな記憶ではないものの、「あなたより、もう少しお姉さんくらいの年頃だったかしら」と女性客は呟いた。まだ近くにいるかもしれないわね、と情報を聞き出せたマリーツァとまほろは慌てて席を立つと女性客にお礼を言って、ふたり分のミルクセーキのお支払いを済ませた後にミルクホールから颯爽と飛び出していく。
もし、もしも件の少女を見つけられたなら。
例えその気持ちをわかるとは言えなくとも、伝えたいことがあったのだ。
会いたいと願うその気持ちだけは、決して間違いじゃないということ。
そしてもし、伝えられるならば、マリーツァはこう言うだろう。
「――わたし、あなたに会いたかったんです!」
妖怪ハイカラ街にあるおもちゃ屋は重厚感を演出する瓦屋根と、その長い軒の出から垂らされた大きな日除け幕に翫具屋と墨で描かれている和風看板が印象的だ。開けたままの戸口からは色とりどりのおもちゃが見えて、来客を今か今かと待っている。
しかし、店中まで入るのも良いけれど、それよりも目を引くのはより客寄せをすべくと広げられた店前に広げられた露店だった。中でも選りすぐりのおもちゃが棚に所狭しと並べられており、思わずと足を止めた彩生・紬(綾なす錦・h03536)は青空のように晴れやかな瞳を輝かせて、口元で手を合わせる。
「わあ、懐かしい……!」
色彩豊かな紙風船に、木製の独楽。優美な羽子板の隣には子供用にあつらえた茶器道具。セルロイドのお人形は少女たちにいたく愛されているようで、その品数は豊富といえるだろう。
けれどその中で、紬が目を留めたのは鮮やかに彩色された箱に包まれた歌留多だった。
幼い自身を引き取り、養育してくれたおじいさんは沈みがちな孫娘を笑わせようと様々なおもちゃを用意してくれていたが、いまと同じように紬が目を留めたのはいろは歌留多だったのだ。自然と箱を手に取り、その思い出に浸るように紬はそっと目を伏せる。
「あの頃は、夜ごと歌留多勝負をせがんだんだっけ……」
新しい性と同じ名前が、嬉しくて。
もう一度、もう一度と遊んだ歌留多遊びをいまでも覚えている。
――だからこそ。
伏せていた目を静かに開け、歌留多の箱を元の場所に戻した紬はおもちゃの棚から顔を上げる。
きっと、祖父を喪えば毎日逢いたいと泣き喚いてしまうだろう。
ましてや年端もいかぬ少女が『それ』を望むことに、手を伸ばしてしまったことに。どれほどの罪があると言えるだろうか。
少なくとも、自分にそんなことは言えないから。
「すみません、店主様。この辺りで妙に急いでいたり、怯えているような少女は見かけませんでしたか?」
「なんだい、探し人かい?」
聞き取り調査を進めるべく問いかけた紬に、おもちゃ棚の向こう側に置かれた椅子に座っていた老婆が答える。
思い返すように頭を捻ってしばらく、しゃがれ声でそういえばと続けた老婆は骨のような指先で歓楽街を右から左になぞる。行きはよいよい、帰りはこわい。急いで走っていった少女が、それはそれは青白い顔で戻ってきたのを見たという。きっと何か恐ろしいものを見たに違いないさね、可哀想にと心を痛ませた老婆は、紬へもっと歓楽街の奥へと行くように指示した。
「人混みは多いが、街中にいるならきっと見つかるだろうさ。はやく行っておやり」
「はい、ありがとうございますっ」
聞き得た情報をもとに、紬は少女の足取りを追うべく踵を返す。
一分一秒でも早く、見つけ出せるように。
もう大丈夫なのだと――その手を握ってあげられるように。
古妖の封印を解いてしまった少女の気持ちも、よく分かる。
そう小さな声で呟いたのは桐生・綾音(真紅の疾風・h01388)だ。彼女の隣を歩いていた桐生・彩綾(青碧の薫風・h01453)もまたその言葉に頷きながら、妖怪ハイカラ街の喫茶店でカステラとミルクセーキを存分に楽しんだ後に古書店へと向かって歩いていた。
故郷である村の、たったふたりきりの生き残り。母に会いたいという気持ちは間違いなく、そしてそれはふたりに寄り添うように後ろを歩く藤原・菫(気高き紫の花・h05002)にもいえることだろう。数か月前に旦那と娘ふたりを亡くしたばかりの彼女にとっても、他人事とは思えないことだ。
悪いのはその寂しい心につけ込んだ古妖なのだから、その報いを受けるのも古妖であるべきだと考えているのは、どうやら3人の共通認識らしい。うら若き少女に責任を問うのは酷だと菫はその目を伏せて、やがて辿り着いた古書店の前で足を止める。
「ふたりとも、ここが古書店よ」
妖怪ハイカラ街の中には古書店が多くある。そのほとんどが小さな個人経営のものであり、目の前の古書店も例にもれずこじんまりとした佇まいだ。硝子窓の向こう側には身の丈より高く積まれた古書で溢れており、ここであれば何かしらの情報が集められると踏んだ菫は綾音、そして彩綾と共に鈍い音を立てる扉を開けて古書店へと入っていく。
「……図鑑に小説、漫画、歴史書。いろいろあるわね」
自分の背よりも高い本棚を見上げて、彩綾は端から端までと目を滑らせる。中にはかなり古い記述もありそうだけれど、学者である菫に任せれば解読は難しくないだろう。
綾音もまた近場に積まれた中から本を手に取って、ぱらぱらと頁を捲っていく。
「いろんな妖怪に関する本があるね。人を化かすような妖怪って、やっぱり狐とかかな?」
「他にも狸や川獺、妖怪とは別物かもしれないけれど昔話では鶴なんかも該当しそうね」
相槌を打ちながら辺りをぐるりと見渡した菫は、やがて目を引いた古ぼけた書物に手を伸ばす。それは土着の民話や伝承をまとめている民俗学書のようで、ところどころ滲んでしまった文字を指でなぞりながらも菫は読み込んでいく。
人間に悪さをする妖怪は多種多様ながら、どうやらその中でも特に凶悪な妖怪がいたらしい。その昔にひとびとの手によって退治され、遠くの御山で封印されているのだとか。妖怪ハイカラ街は連なる山々に面した立地であり、文明開化の音と共に切り拓かれた自然もあるがいまだ残されている自然もある。書に記述されている御山とやらも、そのうちのひとつだろう。
「ふたりとも、確か地図は持っていたわね?」
「私が持ってるよ、菫さん。はい、どうぞ」
古ぼけた書物に相応しく、描かれているそれは遠い昔の地図だろうか。綾音に手渡された地図と書に残されていた簡略図を菫が照らし合わせる横で、彩綾もまた背伸びをしながら覗き込み、それから僅かに首を傾げる。
「ここからちょっと離れてるけど、山中に神社があるみたいね」
ほら、ここ。そう言って華奢な指先が指し示すのは、鳥居の地図記号。
小さな古書店の端に置かれたまま忘れ去られているような民俗学書ではあったが、どうやら眉唾物というわけでもないらしい。顔を見合わせた3人は誰からともなく頷き合うと、本を棚に戻してから踵を返して古書店を後にする。
答え合わせは、きっともうすぐ。件の少女を見つけることができれば自ずと知ることになるだろう。
3人は歓楽街の地図を手に、渦中の人探しをするために一歩一歩を着実に進んでいく。
「ふーむ」
石畳を照らす赤提灯に、行き交う妖怪たちの楽し気な笑い声。
夕暮れ時の妖怪ハイカラ街はとても活気に満ちている。
通り過ぎた喫茶店の硝子戸越しに聞こえるピアノの調べに耳を傾けながら、尖禍・ネルカ(寓意譚・h02401)は人知れず笑みを深める。
舞台は眠らない街、空も大地も赤く染まる夕暮れ時。妖怪と古妖が織りなす物語といえば――、
「大正浪漫ホラー! と、いったところだね」
派手で賑やかな街に忍び寄る不気味な影を想像してみれば、胸は高鳴るばかりだ。
夕陽の色に染まることなく輝く緑色の瞳はまっすぐに前を見え据えて、ネルカは軽やかな足取りで進んでいく。
歓楽街を楽しむのであれば、喫茶店、おもちゃ屋、駄菓子屋にミルクホール。小さな劇場などもあるようで、端から端までと様々な店舗が軒を連ねているその様は壮観といってもいいだろう。しかしその中で、ネルカがその足を止めたのは古書店の前だった。
古ぼけた看板と、こじんまりとした引き戸。ぎぃ、と鈍い音を立てて戸を引けば中には棚いっぱいの古書で溢れている。
「……ふむ、古書店か。中々いいところじゃないか」
鼻孔をくすぐるのは古紙の匂い。どこか懐かしいような、物寂しいようなそんな気持ちになる。
けれど、こういう場所は嫌いじゃない。ネルカは本と本で挟まれているような店内の細い道を慎重に進んで、ふと目を引いた本を手に取る。一般的な書物よりもひと周り大きく、そっと開けば文字よりも大きく絵が差し込まれている。丁寧に図解された様子から見るに、児童向けの学習書的な図鑑だろうか。
「この本、装丁が素敵だね。……妖怪図鑑? ふふ、これを読んだらまた面白い話が作れそうだ」
一つ目小僧に唐傘お化け、天狗に河童と有名な妖怪はひと通り網羅されているのだろう。ぺらり、ぺらりと一定の速さで頁を捲り終えて、ネルカは首を捻る。
これも面白いが、より情報を集めるのであればもう少し詳しいものが欲しい。他にも探せば掘り出し物はありそうだけれど、いっそ店主に話を聞いてみるのも良いだろう。そう心に決めて、妖怪図鑑を棚に戻したネルカは店の奥にいるらしい店主の元へと歩いていく。
「こんにちは、店主さん」
積まれた本を崩さないように、そうっと進んだ先にいたのはこれまた老齢の妖怪だった。額から生えた角を見るに、小鬼だろうか。
おそらく彼が店主なのだろうとあたりを付けて、ネルカは声を掛ける。
「おや、お客さんかね。探し物かい?」
「そうそう、古妖にまつわる伝承や、最近聞いた奇妙な噂話はないかい?」
――例えば、不思議な声に誘われたって話とかね。
囁くように声を潜めたネルカに店主は目を眇めて、それから間を置いて答える。
「この辺りでそういった話があるとすれば、街から少し離れたところの御山にある神社かねえ」
「へえ、神社があるのかい?」
「御山の参道をずーっと上っていくとあるよ、そう大きなもんではないがね」
店主、曰く。妖怪ハイカラ街より更に奥、連なる山々の中にその神社はあるという。
古びれた石の鳥居を抜けて、参道を歩いて階段を上がった先の先。有名なところではなく、あまり手入れもされていないとても古い神社だ。
「その昔、悪さを働いてばかりの狸が退治されて、最後はその御山で封印されたと聞いたことがあるよ」
儂の爺さんの爺さん、更にその爺さんから聞いた昔話だけどね、なんて気の遠くなるような話を添えて。けれど確かにその神社には注連縄で固く縛られている、それはそれは大きな岩があったはずだと店主は思い返すように呟いた。
それを聞いたネルカはぱっと表情を明るくして、目を輝かせる。これは当たりに違いないと、直観が告げていた。
「ありがとう、店主さん! さっそく行ってみよう!」
お礼を言うが早く、ひらりと手を振って踵を返したネルカの背に、店主の声は追い風のように響く。
――もし御山に行くのなら、気を付けなさい。夜になるとあの辺りは霧が深く立ち込めて、とても危険だからと。
忘れないひとの声を、思い返す。
髪色も、其の眼差しも。向けてくれた表情ひとつひとつもずっと覚えていると、きっと誓えると思えても。
「……確かに、そうかも」
もう会えなくなったはずの、大切なひとの声が聴こえたら?
自分だって、きっとそうしてしまうだろう。香住・花鳥(夕暮アストラル・h00644)は思いを馳せるように目を伏せる。
喫茶店に流れる落ち着いたピアノ音楽は沈みかけた心を撫でるようにやさしく響いていて、花鳥は気を取り直すようにカステラを口に放り込んだ。甘くまろやかなカステラを食べて、気分を上げたら其の子を探しに行こう。そうして、私もきっとそうするよと伝えに行こう。
――誰かを思い続ける気持ちは決して、古妖などに弄ばれて良いものではないのだから。
喫茶店を後にした花鳥が次に足を止めたのは、おもちゃ屋の露店だった。
色彩豊かなおもちゃの数々はまるで宝物のように煌めいており、つい釣られて足を止めてしまったのだろう。
同じように露店の前で足を止めているのは自分だけでなく、少しばかり年上だろう妙齢の女性も昔懐かしい独楽を眺めている。
「こんにちは、お姉さん」
「あら、こんにちは。何か御用かしら?」
横から声を掛けた花鳥に目を丸くして、しかし気を悪くした様子はなく人好きのする笑みを浮かべた女性が首を傾げる。
「実は、人探しをしていて。この辺りですごく慌てていたり、不安そうな女の子を見ませんでしたか?」
店内ではなく歓楽街の道に面した露店でおもちゃを眺めていた女性であれば、もしかしたら件の少女とすれ違っているかもと希望を乗せて。声を潜めて問いかける花鳥に女性は思い返すようにしばらく考える仕草をした後、ああ、と声を上げる。
「その子かは分からないけど、顔色の悪い女の子だったら小道で休んでいるのが見えたわ。まだあそこにいるかしら……」
花鳥たちがいるこの露店よりもう少し先に行ったところに細い小道があるのだと、女性は妖怪ハイカラ街の奥を指差す。
あまりに顔色が悪いものだから心配だったが、休んでいる様子だったから声は掛けなかったそうだ。女性はお友達なら迎えにいってさしあげてと促して、花鳥もそれに大きく頷く。
「――ありがとうございます!」
悪いことをしてしまったと、思っているのかもしれない。
とんでもないことをしてしまったと後悔しているのかもしれない。
それなら、一緒に謝りに行くよと伝えてその手を取ろうと花鳥は心に決めていた。会えなくなってしまった哀しい気持ちをひとりで抱えているのは、きっと辛かっただろうから。
そうして女性にお礼を告げるが早く、踵を返して駆け出していく花鳥の背を沈みゆく夕陽が見守っていた。
「可哀想なややこを探しておくれ」
静謐に囁くように、虚空に呼びかける。
玉梓・言葉(紙上の観測者だいさんしゃ・h03308)の声に応えるようにふわりと形を成したのは、生成りの紙人形だ。
身振り手振りで伝えるそれは、まさしく件の少女が歓楽街にいることを指示しているのだろう。形代の声なき主張に耳を傾けながら自分の足で道を行き、そのさなかで言葉は目に留めたものたちをひとつ、またひとつと買い込んでいく。
おもちゃ屋から駄菓子屋、雑貨店から小売店まで。元々知育菓子や可愛らしいキャラクターものを好きだった言葉には歓楽街は歩くだけでも楽しいもので、いつの間にやら買い物袋にはたくさんの戦利品が詰め込まれていた。
そうして、最後に紙人形が辿り着いたのは歓楽街の隅の隅。石畳を照らす赤提灯がか細く差し込む程度の小道だった。
所在なさげに放置された木製のベンチに腰掛けて俯いていた少女を見つけた言葉は、その姿がまるで怯えた子猫のように見えて、脅かさないようにそっと距離を詰めると同じ目線まで屈みこむ。
「――甘い菓子は、好きか?」
儚げな顔ばせに人付きのする柔い笑顔を浮かべて、少女を窺う。
ついつい買い過ぎてしもうてな、と続けざまに手持ちの紙袋から差し出したのは小さなチョコ菓子だ。かわいらしいクマのキャラクターが描かれたパッケージを見せては「ぱちぱちする綿菓子もあるぞ」とほくほく顔の言葉に、少女は眉尻を下げてチョコ菓子を受け取った。
「……ありがとうございます、親切なお方」
「構わんよ、このような暗いところでどうしたのだ?」
じきに日も暮れるだろう、と首を傾げた言葉に少女は小さく鼻を鳴らす。先ほどまで泣いていたのだろうか。その眦は赤く染まっているようで、言葉はうまく話せないままの少女を元気づけるように肩を優しく叩いた。
「無理に話す必要はないぞ。まずは菓子をお食べ、甘いもんは良い」
パッケージを代わりに開ければ、中にはこれまたかわいらしいクマの形をしたチョコレート。ほれほれと促して分け与えれば、小さく頷いた少女はおずおずとチョコレートを食べて、そのこっくりとした甘さに強張っていた体の緊張を解いていくのが分かる。ほんのりと舌の上で溶けていくチョコレートと共に、少女の不安も溶けていくことだろう。
やはり甘いものは良い。腹の底に元気をくれる、良いものだ。
満足げに笑みを深めた言葉は、少女の不安が少しでも早く落ち着くように囁く。
「大丈夫、ここには叱るような大人はおらんよ」
だからどうか。その身に背負うものを、その顔をしょぼくれさせているものを、少しばかり儂にも分けて貰えんか。そう言って覗き込む真摯な青い色の眼差しに、やがて少女は重い口を開く―――。
一方で。
異国情緒溢れる妖怪ハイカラ街を軽やかな足取りで進むのはシルフィカ・フィリアーヌ(夜明けのミルフィオリ・h01194)だ。
木造家屋のレトロな雰囲気に入り混じる赤レンガが見せる西洋の風は、不思議なことに奇跡的な調和を生み出していてあまり違和感がない。喫茶店でしっかりと甘いミルクセーキとカステラを満喫し、英気を養ったシルフィカは行き交う人々の楽しげな声に揺れる風鈴をスマホのカメラに収めながらも件の少女の行方を捜していた。
「……あら?」
カメラ越しに覗いた小道に、不思議な紙人形が映り込む。それが√能力者の力によるものだと気付いたのは瞬く間のことで、シルフィカはひらひらと手を振った紙人形に小さく手を振り返してから先客たちの元へと歩み寄った。
「よかった、もう見つかっていたのね」
「……あなたも、私を探してくださっていたの?」
どこか申し訳なさそうな眼差しに、シルフィカは少女が気落ちしないように明るく、そして優しい声で「大丈夫よ」と囁く。
「わたしたちは、貴女を助けに来たの」
きっと、わたしにももう逢えない誰かがいて。
それが誰かはわからなくても――声を聴いたら、駆け出してしまうかもしれない。
逢えるなら逢いたいと思う気持ちは、誰にでもあるものだから。たとえほんの少し道を間違えてしまったって、前を向いて歩き出すことができるとシルフィカは信じているのだ。
「迷惑をかけてしまって、ごめんなさい。私、とんでもないことを……、」
少女、曰く。
妖怪ハイカラ街よりも更に奥、連なる山々に囲まれた神社にその大岩はあったそうだ。
随分と昔に亡くなってしまった兄の声がどこからともなく聞こえてきて、その声に誘われるまま辿り着いたその神社はとても古く廃れてしまっているのか人の手が入っている気配もない。身の丈ほどもある大岩を囲むように結ばれた注連縄も長い年月から劣化が進んでおり、声に言われるまま、注連縄を切り落としてしまったのだと少女は肩を落とす。
「岩に見る見るうちに罅が入って、とても大きな妖怪を前にしてやっと気付いたの」
自身が触れてはならないものに触れてしまったのだと正気に戻る頃には既に遅く、古妖は解き放たれてしまっていた。
命からがらと逃げて来たけれど、きっと見逃されただけだろうと少女には分かっていた。何故なら、逃げ去る少女の背に獣の哄笑が響いたまま、愚かな人間を嗤う声がいつまでも耳に残っているからだ。
「――大丈夫よ」
少女の眦から涙が零れ落ちるよりも前に、細い指先で拭って。
シルフィカはもう一度、そう告げる。
「後のことは、わたし達に任せてね」
「うむ、後のことは儂らが片付けよう。お主は喫茶店でも寄って、美味しいものを食べてから帰ると良い」
さあ立って、と少女を促すシルフィカと言葉。
夕陽はもうすぐ沈むだろうに、ふたりの背後からはまるで白日の明るい光が差し込んでいるかのようだった。
「会えないひとに、また会える……」
それはきっと、嬉しいことだろう。大切なひとなら、尚更に。
砕けた氷がしゃりしゃりと鳴らす音に耳を傾けて、花岡・泉純(櫻泉の花守・h00383)は呟きを零す。
漂う甘やかな香りは牛乳と卵、それからほのかな白砂糖だろうか。
生クリームの上に飾られたさくらんぼをひとくち、流行りと噂のミルクセーキに舌鼓を打ちながら考えてみる。
巡り廻れば、また“会える”――けれど。
それこそミルクみたいに、真っ白になって生まれてくるから。
そのひとの記憶や温もりは、そのひとでしかなくて。
遠ざかる春さえも受け入れて生きていくには、件の少女にはまだ早すぎたのかもしれない。妖の甘い言葉とわかっていても、会いたくなってしまうのも仕方ないことだと、泉純には素直にそう思えた。
「うーむ、」
思考を巡らせながらもひとくち、またひとくちと進むスプーンはいつの間にか空っぽになっていたグラスにからりと音を鳴らす。泉純はテーブルに開いたメニュー表を見下ろすと、その表情をほんのりと緩めた。
「考えてたらお腹もすいてきちゃった」
いましがた完食したばかりのミルクセーキと同じように流行りと噂のカステラがきらきらと輝いて見える。空腹こそ最高のスパイスと言わんばかりのその輝きに、次はカステラも頂こうと心に決めるのは瞬く間のことだった。
注文することしばらく、目の前に置かれた黄金の輝きを前にして、泉純は自分に言い聞かせる。
「大丈夫、大丈夫だよ。食べたらちゃんと働くからっ……!」
小さなフォークで切り分ける、ひとくちのしあわせ。
それは甘くて、美味しくて。
「――うん。至福のひととき、だね」
そうして時計の針を刻んで、しばらく。
ふと、硝子戸の向こう側に見えたひとびとに泉純は目を留める。
「うん? あの子は……もしかして、件の、」
まだ落ち着かない様子の少女と、少女を宥めているのはおそらく同業者だろうか。
席から立ちあがった泉純はお支払いを済ますと、急いで少女の元へと駆け寄っていく。
そして緊張で高鳴る胸を押さえながらも、春に実を付ける花々のようにたおやかなその手のひらを伸ばして、泉純は少女へと告げるのだ。――大丈夫だよ、と。
サクサクとした黄金の衣を噛めば、じゅわりと広がるジューシーな肉の味。揚げたてのカツレツにソースを絡めればより際立つ旨味に舌鼓を打った、久遠寺・悟志(見通すもの・h00366)は腹ごしらえも早々に椅子から立つ。
「ごちそうさま、とってもおいしかったよ」
小さな洋食店はこじんまりとしながらも、その味は確かなものだった。支払いを済ませながらそう声を掛けた悟志に店員である恰幅の良い妖怪は笑顔を返す。このまま立ち去るのも良いが、せっかくなら情報収集していくのも手だろう。瞬く間に考えを巡らせた悟志は踵を返す前に店員に問いかける。
「……ところで、女の子を探してるんだけど。見かけなかったかい?」
怯えた顔をしている人間の子なんだけれど、と首を傾げた悟志に店員はそのひとつ目を瞬かせた。
妖怪ハイカラ街はとても賑やかな歓楽街だが、どちらかというと妖怪のほうが多数を占めている。人間も少なくはないが、年頃の少女がひとりでいるのであれば否が応でも目立つことだろう。
ぐるりと回った店員の目が窓の外に目を留めて、それから悟志に教えるように指差す。
あの子ではないか、と指差したその先には――丁度、√能力者たちに連れられて喫茶店へ向かう人間の少女の姿があった。
一方、その頃。
喫茶店の窓際の席にてミルクセーキとカステラを楽しんでいたアダン・ベルゼビュート(魔蠅を統べる覇王・h02258)もまた、窓越しに少女の姿を見つけることとなる。
店員から許可を得た写真撮影を完璧な画角に収めたアダンが、どこか満足げな様子で頷いていたところ。
「此れは、彼奴と其の妹御への土産代わりとするか……、む?」
いざやとカステラのやわらかな甘さをいざ楽しむべく匙を伸ばすより前に数人の√能力者と少女が喫茶店に訪れたのは偏に偶然かもしれないが、運が良かったのも確かだろう。
無事に合流を果たしたアダンは少女たちを空いている席へと迎えて、詳しい話を聞くために椅子に深く腰を落ち着けるのだった。
「――それで、お前は大岩を囲む注連縄を裂き、古妖の封印を解いてしまったわけか」
ふ、とアダンは息を吐く。向かいの席で肩を竦めた少女に「否、咎めに来たのではない」と頭を振ったのは、少女が気負わぬようにするためでもあるが、それはただの事実だからでもある。
「覇王として、お前の胸の内を占める罪悪感を晴らすべくお前が知っている事を聞く為に来たのだ」
独りで抱えては辛かろう。そう静かな声で少女に語り掛けるアダンに次いで、悟志もまた同意を示すように頷く。
「もう大丈夫だよ。他人の大事な思い出を利用するような悪党は、僕がこてんぱんにやっつけてやるから」
だから、そのためにも力を貸してほしい。
包帯で覆われたその目を少女が見ることは叶わないが、それでも真摯な様子は見て取れる。少女のためにと注文したミルクセーキを飲ませれば、乾いていた喉が潤うと同時に少しだけ心に余裕ができたのだろう。少女は意を決したように、彼らに伝える。
曰く、その古妖は2mをゆうに超える体躯の強大な獣だったそうだ。
丸みを帯びた耳に茶褐色の毛並み、まん丸とした太い尾を見るに間違いなく狸の妖怪なのだろう。けれど、ただ人間に悪戯をするばかりの化け狸であれば大岩など大層なもので封印をされることもない。遠い昔、確かに封印を施されるほどの力を持っていた強大な力を持っている古妖であることが推察された。
「注連縄はすごく劣化していて、切ったらそのまま散り散りになってしまって。大岩にも見る見るうちに罅が入って……、」
その後は、言うまでもなく。
解き放たれた古妖の正体が狸であることを把握して、顔を見合わせる√能力者たちに少女は恐る恐ると続ける。
「あの、もし御山に行くのならどうか気を付けなさって。夜更けになると霧が深くて、とても危険だって聞いたことがあるわ」
狸も、濃霧も、人を惑わすという性質は同じと言えるだろう。
どうかあの古妖を退治してほしいと頭を下げた少女を安心させるように、アダンは己の胸を拳で叩く。
「ああ、覇王として必ず退治してみせよう。もう大丈夫――俺様を信じて、お前は暗くなる前に家に帰ると良い」
「……はい。本当にありがとうございます、親切な方々」
再封印するためには、√能力者たちが古妖が根城としている御山に行くしかない。
手を振って立ち去るその頼もしい背に、少女は再び深く深く頭を下げるのだった。
はらり、ひらりと。
舞い散るように鮮やかな夜桜柄の着物が並んで、赤提灯の明かりをその身に受けては優雅に翻る。
父母が昔に着ていたというハイカラな着物は数年前のものだったが、今もなお変わらず美しかった。どこか満足げな表情のアールバ・ラルトラス(白夜の双子・h00617)を横目にアドルフ・ラルトラス(白夜の双子・h00618)は問いかける。
「カステラにミルクセーキ、どっちも気になる……。他にも色々気になる店はあるけど、ふたりはどうする?」
「うーん、楽しそうな街並みだし色々見て回りたいかな?」
視線はあっちをふらり、こっちをふらり。
昼夜を問わずに明るいこの歓楽街に軒を連ねる店は多く、その中には興味を引くものもあるだろう。世話しなく視線を泳がすふたりの後ろについて回るのは、いつも通り中華風の装いをしている李・劉(ヴァニタスの匣ゆめ・h00998)だ。
透け感のある涼やかな羽織を肩に掛けなおして、劉はふたりの注意を引くようにおもちゃ屋の露店を指差す。
「へぇ……昔ながらの玩具か。こういうのも面白いねえ」
ふたりを連れ、露店の前で足を止めて。見下ろす棚には所狭しと昔懐かしいおもちゃが並べられているようで、色彩豊かな紙風船に木製の独楽や羽子板と種類も豊富だった。
その中で劉が目に留めたのはブリキのおもちゃで、汽車や車にお人形と見てくれも華やかな商品たちを眺めながら懐かし気に微笑む。
「ブリキの玩具なんていうものも流行っていたものだよ」
「わぁ、見て見て! んふふ、へろへろ人形だって!」
「へろへろ人形、こんなのがあるんだ? ……ちょっと面白いかも」
なぁに、それ。なんて首を傾げたのも束の間、お人形と視線を合わせるように屈んだアールバが目を輝かせる。
アールバのはしゃいだ声に釣られて視線を落としたアドルフもまた、お人形へと関心を寄せている様子はなんとも微笑ましい。
「劉のお店にどーお?」
「ハハッ、そう云う面白い人形もいいネ。取り寄せられるか聞いてみようか?」
和気藹々と他のおもちゃも眺めているふたりの、その傍らで。
店主へと取り寄せについて相談するさなか、そうして劉はひそやかに情報収集も済ませていくのだった。
「お土産にカステラと、それからママに似合いそうな和風な髪飾りも買おうかな」
「アドルフがママにお土産買うなら、あたしはパパに買おうかなあ」
件の少女が√能力者たちの手によって無事に見つけられ、そして帰路に着いたことが確認できたなら、後は行きたいところに行って楽しむのもよいだろう。劉はアールバとアドルフが行きたいという店をひと通り巡っては、気になるものがあればお土産として手に取る双子を微笑ましそうに見守って和やかなひとときを過ごしていた。
「二人はご両親思いな子供達なのだね。好い子達だ」
和風の髪飾りに、揃いの羽織紐。どれもご両親を思って選んだ品なのだろう。
贈答用の袋に包まれたお土産を大事そうに抱えて、自分たちにもと買ったカステラとミルクセーキを持って食べ歩き。劉の分も、と振り返った双子に「ふふ、二人が食べたい物買っておいで。私はそのお零れに与らせてもらうヨ」と応えた劉は言ったとおり少しずつカステラを分けてもらいながら、やがて日も暮れてすっかりと赤提灯の明かりが強く瞬くようになった歓楽街を進んでいく。
「せっかくだから、最後に写真撮ろうよ」
お土産も良いけれど、思い出を形に残るのであれば写真は持って来いというものだ。けれど。
アドルフの言葉に名案だと手を叩いて喜ぶアールバの横で、劉には気がかりがひとつ。「ちゃんと映るカナ、私……」と呟いたのは、写真を撮ると心霊写真のように霞がかってしまう自身の生来の性質ゆえか。
妖怪ハイカラ街を背に3人で肩を並べて、アドルフが伸ばした自撮り棒を使ってぱしゃりと思い出を1枚。はたしてどのように映ったのか。
――また、みんなで遊びに行こうね。
そう言って笑い合ったアドルフとアールバが写真の仕上がりを見て驚いたか、驚かなかったか。それは姉弟のみぞ知る。
「――律、腹減ってないか?」
そう言って問いかけるのは、夜鷹・芥(stray・h00864)だ。
肩越しに振り返ると、少し歩いた先に店を構えている喫茶店を指差して見せる。「聞き込みのときに勧められてな」と続けながら窺えば、どうやらその反応は悪くない。冬薔薇・律(銀花・h02767)もまた、その指先が示す先を見やると薄い笑みを乗せて頷いた。
「なんでも美味い甘味が有るらしい。先に腹拵えに行こうぜ」
「ええ、喜んで」
冬に密と咲く花のような笑みに返せるものはなかったが、お留守の表情筋の代わりに僅かにその目を細めて。
そうして喫茶店の目前までたどり着けば、趣のある木造家屋が並ぶ中でもひときわ目を引いているたアンティーク調の硝子戸へと手を掛ける。薄らと中から聞こえてくるのはピアノ音楽だろうか。戸を開ければふわりと甘い香りが漂うようで、律は思わずと期待を膨らませた。
「わたくし、甘味は大好きですのよ」
「好きか、そりゃ良かった」
ミルクセーキにカステラ、パンケーキにプリンアラモード。
どこか少しだけ懐かしい、やさしい甘さに思いを馳せて。席に案内されるまでの間、律と芥は肩を並べてメニュー表を眺めていた。
そうして席に案内されること、しばらく。
窓際の二人席で膝を突き合わせながら、芥は首を傾げる。
「ミルクセーキって牛乳とは違うものか?」
「ミルクセーキはちょうどプリンのような味わいかしら」
「へえ、成程。飲むプリン……甘そう」
なんて呟きながらもメニュー表をぱら、と捲ったところで目に留まったのは黄金色のプリンを鮮やかに多様なフルーツが彩る甘味、プリンアラモードだ。「カステラも美味しそうだが、プリンアラモードもある」と芥が指を差せば、律は仄かに目を輝かせる。カステラと迷うこと瞬く間、プリンアラモードにしようと心に決めたその表情は冬の空のように晴れやかだった。
そして各々の注文を済ませれば、艶々とした木製の机に運ばれてくるのは早く。芥が注文した珈琲がまず初めに用意され、それからそう待つことなくプリンアラモードも律の目前へとそっと並べられる。
白い陶器に黒々と波打つ珈琲は薫り高く、徐に狐面を外してカップを傾けた芥を見据えて律はそっと微笑んだ。
「甘いものをあまり召し上がらないのにこのお店を選んでくださったの?」
やはりあなた様はお優しい方ですわね。なんて言えば、その小さな喜びを受け取ってくれるだろうか。
真正面から受け取るには聊かこそばゆいような、そんな言葉に居た堪れない心持ちで窓の向こうへと芥は視線を僅かに反らす。それから苦い珈琲をまたひとくち。
「それは、まあ。優しいかは兎も角……アンタが喜ぶ場所の方が良いだろ」
「ふふ。わたくし、美味しいと思うものはたくさんありますが、卵やミルク、バターを使った甘味は特に好きですのよ。さあ、あなたもどうぞ」
自分が喜ぶことを第一と喫茶店を選んでくれたことの幸福を、どう表そうか。
こっくりとした卵の味に、フルーツの芳醇な香り。律はいましがた味わったばかりのプリンをひとくち分ほどに切り分けて芥へと差し出しす。その喜びを、他でもない芥と共有できるように。
差し出されたスプーンを眼前に芥は僅かに困惑を見せるも、やがて小さく口を開く。
「――此れが好きな味な、……覚えとく」
運ばれるままに迎えたプリンの味は珈琲の苦みにも搔き消されることなく、確かに甘かった。
プリンアラモードもすっかりと完食し、ふたりの間に心地良い沈黙が流れる頃。
店内の様子に耳を傾ければ、すぐ後ろの席に座っていた老夫婦の会話が聞こえてくる。どうやら、少し前にこの場所で件の少女から情報を聞き得た数人の√能力者たちが、人里から少し離れた先にある御山へと向かっていったようだ。
どこか物憂げに華奢な手のひらを頬に当てた婦人は、心配そうな声音で溜息を落としている。「もうすぐ日も暮れて、暗くなるでしょうに。大丈夫かしら」と言う婦人の心配の種は、夜更けになると濃霧が立ち込めるという御山にあるらしい。山中の深い霧は、きっとひとの行く手を惑わしてしまうだろうからと。
「……夜鷹様にはもう一度会いたい方、いらっしゃいまして?」
√能力者たちと別れ、無事に帰路についたと思われる少女を思いながら、芥とひそやかに視線を交わした律は問いかける。
「………ああ、居る。合わせる顔は無いが。律は?」
「わたくしにもおりますわ」
ゆっくりと月が昇る空には、薄らと雲がかかっている。街はこんなにも明るいというのに、本来の月光は雲に遮られて不穏な影を落としているようにも見えた。
芥は今は見えない月のように瞬いた金の瞳をゆっくりと伏せて、静かな仕草で狐面を手に取り、元通りに口許を隠す。
「そうか。……聴かせて呉れ、いつでも」
「――ええ、いつか」
やがてどちらからともなく席を立ち、ふたりは喫茶店を後にしていく。
その時はあなた様のお話もお聞かせくださいましね。そんな律の優しい声音を、寄り添い歩く芥だけが聞いていた。
第2章 冒険 『霊域指定地帯』

●interval
少女にはその昔、少しばかり年が離れた兄がいた。
幼い頃から病弱で、数年前には帰らぬ人となった兄の年齢を少女はもう超えてしまっている。
ゆっくりとした年月を経て、時間を掛け、少女も心の整理はついているはずだろう。
白い部屋の中、扉から恐る恐ると顔を覗かせた少女を笑顔で手招いた兄はもういない。幼い少女にできたことといえば、先立つ兄が賽の河原で石を積むことなく浄土へと行けるように願うことばかりだった。
ただ、それでも。
もういないはずの兄の声を聞いたとき。こちらにおいでと招く声に誘われたとき――少女は、助けたいと思ったのかもしれない。
そしてまた会えるなら、何と言いたかったのか。何と伝えたかったのか。それはもう、古妖が囁いた白昼夢から目醒めた少女には分からなくなってしまったけれど。
「人間とはいつの世も、なんと愚かしいものよ」
哀れで、健気で、それでいてなんともいじらしい。
だから何度も騙され、幾度となく利用されるのだ。とはいえ、その愚かさに救われたのだから、古妖からすればそれも誉め言葉のつもりだったのか。
月は雲隠れ、御山は暗い朧月夜に廃れた石灯篭の弱い光が参道を僅かに照らすばかり。薄暗い神社の奥で、罅割れた大岩の上に座り込んだ古妖は豪快に杯を傾ける。
きっとまた、人間たちが自分を調伏するためにやって来ることだろう。だが、ただ待つだけでは退屈というもの。
月光さえ通さないほどに霧は濃く、深く。山中を包み込む霧に溶け込むように声を乗せて、古妖はその手を叩いた。
「――こちらへおいで」
山は暗く、神社へと続く参道も先が見えない。そうして訪れる者を惑わす霧から、その声は聞こえてくるだろう。
道に迷い、進むべき道を見失ったひとの精気を吸い取れば、己の妖力もますますと強くなっていくに違いない。その未来を心待ちに、やれ愉快だと言わんばかりの獣の哄笑が御山に響いていた。
●五里霧中を越えて
妖怪ハイカラ街から離れた先、雄大に連なる山々の狭間にその参道はあった。
石造りの鳥居には扁額が取り付けられていたが、その字は年月と共に雨風に削られたのか読めそうもない。
月が雲に隠れた薄暗い夜道を歩いてしばらく、意を決して鳥居の向こう側へと足を踏み入れた瞬間に感じたのは霧の香だ。視界を遮るように立ち上る霧は煙の如く、深い闇を包んでいく。いつの間にか、月も見えないほどに濃い霧は炉端の石や木の根さえも吞み込んでしまっていた。
「……ああ、」
冷たい風が肌を刺すようで、思わず落ちた吐息は霧に溶けていく。
ただひたすらに歩く中、静寂に自分の足音だけが響いていた。そのはずだった。
――こちらにおいで。
懐かしい声が聞こえてきた。藤野・静音(怪談話屋・h00557)は、自然とそう感じた。今は霊域指定地帯になってしまった故郷の土地神様の声だ。ふと足を止めて、静音は口を結ぶ。
その土地神様は、優しい方だった。土地に住むひとをまるで自分の子供のように見守っていて、静音もまさにそのうちのひとりだった。
「なるほど。少女にもきっと、こうして声が聞こえていたんだね」
とはいえ、別に土地神様は封印された訳でも消えてしまった訳でもない。
今は自身の家に御座す土地神様を思い返して、細い指先で頬を掻く。特別縁が深かったらしく、この身に憑いてくることでいろいろと免れた土地神様は今日も健在だ。
ゆえに、静音がその声に惑うことはないのだろう。視線を上げればひたすらに続く濃霧が行く先を遮るように揺らめいていたけれど、静音は迷うことなく一歩、また一歩と歩き出す。
例え道標がなくても、進むべき方向すら霧に吞まれて見失いそうになっても。
「――進もう。こんなところで足を止めていては、噺も進められないからね」
確かに、声は一番最初に忘れてしまうかもしれないけれど。
ひとたび聞けば、きっと思い出を一瞬で取り戻してしまうものなのかもしれない。だからこそ。
静音が聞くのは決して古妖の声などではなく、優しい土地神様の声だけだった。
「追跡は探偵の十八番ですのよ」
つばの広いシルキーホワイトのキャペリンの下で、悪戯っぽく瞑ってみせる紫色の瞳。
冬薔薇・律(銀花・h02767)が推測するならば、第一に声に導かれたとはいえ社は少女が立ち入れる距離であるということ。
そして第二に、街の人々も夜には濃霧が発生することを知っているということ。
その前提から察するに――、
「日中は多少の人の出入りもある山で、濃霧がなければそう険しい道のりではないのでしょう」
たおやかな指をぴんと立てて、妖怪ハイカラ街の遠くに連なる山々をゆっくりとなぞる。
指先が指し示す先を見つめた夜鷹・芥(stray・h00864)は静かに頷いて、彼女の冴え渡る慧眼に的確な提案を聞き逃さないように耳を傾ける。探偵の出番であればしかと傾聴しようとする様子は真剣そのものだ。
「でしたら詳細な道筋をご存知の方もいらっしゃるのではなくて? もう少し情報収集をしてから最短ルートを行くのはどうかしら」
「……成程な」
街の者からも夜更けの御山が危険だと認知されていたことは間違いない。であれば或る程度、迷わずに行き帰りが出来る道も作られている可能性は十分にあると、芥はその推測に目を瞠る。そうして「賛成だ」と簡潔な一言を述べれば、ふたりのやるべきことは決まったも同然だろう。
「――聞き込みは俺の十八番、だろう?」
よく社へ参拝に行く者や山へ赴く者を見つけて調査をすべく、妖怪ハイカラ街での追加調査を開始するのだった。
彼らの推測どおり、どうやら御山へと向かうための参道は街からもしっかりと続いているらしい。
古妖が封印されていた神社こそあまり手入れもされていない廃れた神社のようだが、御山には畑などもあることからその道自体は現在も少ないながらに使われているようだ。芥が聞き込んだのは繁華街も終わるほどの隅で小さな煙草屋を営んでいた老女で、「ここからしばらく歩くと、石造りの鳥居があるからね。そこからずうっと上に登っていけば神社に続く石段があるから、昼間は迷うこともないさ」としゃがれた声で笑った。
だけど、気を付けないといけないよ。そういって続けられた言葉はやはり夜になると立ち込める霧にあるようで、老女の煙草屋を後にした芥は律と肩を並べて参道を歩く傍ら、薄暗い夜道に小さく息を吐く。
「然し、解っていても……招く声に抗えないもの、か。難儀だよな、人は」
老女から聞き取った限り、進む道自体はそう複雑なものではないだろう。しかし。
深く白む霧と行く先を惑わす声が訪れた者の道を阻むとなれば、最短ルートはやはり招く声に決して誘われないように自分を信じて進むことだ。やがて見えてきた石造りの鳥居を前に、ふたりは顔を見合わせてからその意を決するように一歩を踏み出す。
――こちらにおいで。
たった一歩、されど一歩。鳥居とは境界であり、境界とは彼方と此方の境目だ。
鳥居を跨いだその瞬間、ふたりは月も見えないほどに濃い霧の向こう側から聞こえる声に息を呑む。けれど。
それはまやかしの甘言だ。逢いたい者の声を真似ている猿真似に過ぎないと、よくよく理解しているふたりに恐れはない。
「はい、今参りますから。もう少しお待ちになっていて」
律がふわりと微笑みを浮かべて、しかし前は見据えたままに応えた――そんなとき。
ふ、と横から伸ばされた手のひらにその目を瞬かせる。
「――律、視界が悪い。……手、」
芥だ。差し出すのは逸れぬため、控えめながらに向けられた掌に自分の手を添えて、律はまた一歩を進む。
その様子が急いているように見えたのか、それとも。
逢いたい者へと引っ張られてしまわぬように、そんな祈りを込めて少しだけ繋ぐ掌に芥が力を込めれば、振り返った律は変わらず優しい微笑みをたたえていた。
「ご安心くださいまし」
招く声に応えども、それはあくまで古妖に向けた言葉でしかない。
斯様な甘言に乗れば、その方には叱られてしまうことだろうと笑みを深めて、律は肌を刺すような寒さの中でも温かいその手に込められた力を返すように、自分もそっと握り返す。「……本当にお優しい方ですのね」なんて、小さな囁きは白い霧に溶かして。
繋いだ手を互いの楔として、道なき道を進んでいくふたりの足取りには一切の迷いもなかった。
その聲は、ずっと聞こえていた。
どこか懐かしいとさえ思えるその声音は、己が依代の身体を借り受けてシャドウペルソナとして限界する前に聞いた聲なのだろう。
アダン・ベルゼビュート(魔蠅を統べる覇王・h02258)は思わずと零れた吐息が深く白い霧の中に溶け込むのを見ながら、手のひらを何度か握ってみる。脳裏にまで響き渡るようなその聲は止まないが、霊的にも防護効果を持たせている私服の耐性が上手く作用しているのか、それ以外に体への変化は見られない。
「なるほど。妖力を含ませた霧に、訪れた者を惑わす聲。効果としては道に迷わせる程度か」
だが、時間を稼ぐという意味では確かに効果的なのだろう。
迷っている間にも古妖は力を付け、そして此方は力を消耗していくというわけだ。
そうと分かれば立ち止まっているわけにもいかない。アダンは視線を上げて、また霧の中を静かに歩き出す。
「……嗚呼、」
かつて、魔界にて魔蠅を統べていた覇王。それは現世では『悪』と呼ばれていた存在だった。だが偏に『悪』といっても決して一辺倒とは言えない。アダンの在り方はきっと、他の『悪』にとって異質だったのだろう。
それゆえに。
――こちらへおいで。
聲は今も響いている。
アダンの耳に届いたその聲は時に共闘し、時に戦った『善』たる者たちの聲だ。
共に征こうというその聲を忘れたことはない。
「今でも、鮮明に覚えているとも」
だが、しかし。
「……其れは俺様が惑う理由には繋がらぬ」
深い霧が遮る道を切り拓くように、進むための一歩を確実に踏みしめて。
アダンは歯を食い縛る。どうか見縊ってくれるなと見上げたその先に、きっと古妖が待ち受けている。
だからこそ、あえて言おう。
「――俺様は『悪』として生き抜いた事、俺様自身の信念を貫き続けた上で散った事に一片の後悔も無い!」
其れは今も同じこと。
迷うことはない。己の信念の儘に進むのみと固い決意を胸に、アダンは着慣れた私服を華麗に翻して先へと進んでいく。
懐かしい声が聞こえる気がする。
白む霧の香に誘われるように空を見上げて、シルフィカ・フィリアーヌ(夜明けのミルフィオリ・h01194)は目を瞑る。
本来であれば明るく輝いているはずの月は霧、そして雲の向こう側に隠れてしまっていて頼りない。不思議と虫の音も聞こえない山の中、シルフィカが耳を傾けるのはその声だけだった。けれど。
「……ごめんなさい」
今の自分には、その声が誰のものであるか分からない。
思わずと口から零れ落ちる謝罪の音は小さく、霧の中に溶けて消えていく。
――こちらへおいで。
やさしく、やわらかく。どこかへ誘うような、懐かしい声。
その声がはたして誰だったのか、思い出すことはできないけれど。
それでも、自分にもかつてそういう誰かがいたのだと、「……思うくらいは許されるかしら?」シルフィカは誰ともなく問いかける。あなたが誰かわからなくても、失くしてしまった世界の中にあなたがいてくれたのなら。それはきっと。
「きっと、わたしは幸せだったのね」
たとえ、それがまやかしに過ぎないとしても。
自分がそう思いたいだけだったのだとしても。
シルフィカは確かに、そう思うのだ。
自分を呼ぶ優しくて懐かしいその声が、つくられたものだとは思えなかったから。
「いつか、ここではないどこかで……あなたにまた逢えるかしら?」
その言葉に、答えはいらない。
シルフィカは月が見えずとも煌めくようなターコイズブルーの瞳でしっかりと前を見据えて、そっと微笑んだ。
「……大丈夫、迷ったりなんてしないわ」
肌を刺すような寒さも、今は気にならなかった。シルフィカは一歩、一歩と確かにその道を踏みしめて、声がより強く聞こえる方を辿って歩いていく。
声が霧の流れに乗って聞こえてくるならば、おそらく神社はここより風上にあるのだろう。反響するような声音を聞き分けるように、シルフィカは耳を澄ます。
例え道標がなくても、歩むことを恐れる必要はない。待ち受ける怪異の元へ向かっていくシルフィカの足取りに迷いはなかった。
「――結那、聞こえるかい?」
視界を遮るほどに白む濃霧は、一寸先も見えないほどに深く際限がない。
鳥居に一歩足を踏み入れるやいなや、自分の目を以てしても見通せないと考えた久遠寺・悟志(見通すもの・h00366)の判断は早かった。すぐさまにあらかじめ準備しておいた久遠寺探偵事務所へと念話を用いて声を掛けると、霧の中から聞こえる声ではなく念話に集中するように耳をそばたてる。
「はーい! ばっちり聞こえてるよ、お願いがあるんだ。悟志君!」
そうして聞こえてきたのは、探偵事務所に召喚された朝見・結那(前を向くもの・h00866)だ。
明るく「何かやって欲しいのかな?」と問いかける声音に安堵の息をひとつ零して、悟志は簡潔に目的を告げる。
「机の引き出しに妖力コンパスが入ってるから、それを転送用魔法陣に置いて欲しい」
「妖力コンパスだね。確かあの机に……きゃあ!」
がたっ、ごとん。何かに躓いたらしき音と同時に小さな悲鳴。
もしかすれば、その拍子に何か落ちたのかもしれない、そんな音さえ念話からは伝わってきている。どうやらそそっかしいところは変わらないようで、悟志は間を置いて問いかけた。
「……大丈夫かい? 怪我はないね?」
「ごめんごめん、ちょっとつまづいて転びかけただけ! コンパスあったよ、これを魔法陣に置いて……これで良いかな?」
結那の言葉を皮切りに、ふわりと空気が動くような気配がする。
それは風による自然の流れとは異なる、不規則なものだ。そして慣れた仕草で悟志が手のひらを差し出せば、現れた魔法陣から転送されてきたのは目的の妖力コンパスに間違いなかった。
受け取ったコンパスが問題がなく動いていることを確かめるように表裏を眺めて、悟志はコンパスの無事を確認する。
「OK、受け取ったよ。ありがとう、結那」
「うん、どういたしまして。今回の事件もばっちり解決して、無事に帰ってきてね、悟志君」
「――大丈夫、必ず無事に帰るから」
ぷつりと念話が途切れれば、一瞬の静けさが辺りを包む。
けれど、また少しすればまた霧の中からその古妖が誘う声が聞こえてくるのだろう。
悟志は包帯をしっかりと巻き直してから、コンパスを頼りに神社のある方角へとまっすぐに進んでいく。
例えどれほど親しいひとの声を真似たとして、それは偽物であることをよく理解していれば、そして揺らがぬ心を持ってすれば惑うこともない。
妖力を帯びたコンパスが示す先は間違いなく、月さえ覆うほどの霧の中であっても悟志の歩みが止まることはなかった。
「……私は信じて、ここで待ってるから」
念話も途切れた事務所内で待機している結那は、祈るように空高く浮かぶ月を見上げる。
こうして危険のない範囲で支援をすることしかできない自分に歯がゆさを感じることもあれば、無気力感がまったくないというのも嘘になるけれど。それでも、自分にできることを頑張るしかないということを結那はよく心得ている。だからこそ。
――お願い、どうかどうか。
今できるのは、身を挺して危険に立ち向かう彼の無事を祈ることだけ。
そうして結那は強く手を握り締めて、彼の帰りを待つのだ。
鬼さんこちら、手の鳴る方に。なんて、子どもの遊戯でもよく聞くものだろう。
香住・花鳥(夕暮アストラル・h00644)は夜空も見えないほどに立ち込める霧の香にすんと鼻を鳴らして、次いで僅かに眉を潜めた。訪れる者を惑わせる妖力の霧は深く濃いもので、自らの足元まで隠してしまいそうなほどに白い闇が辺りを呑み込んでいるようだ。
――こちらへおいで。
惑いの霧に、誘う声。こちらにおいで、という言葉が甘美なものに聴こえるのは何故かと思ったけれど。「こんな風に聴こえるんだね」なんて、花鳥は誰にともなく呟いてから周囲に視線を走らせる。
虫の気配さえ感じない山の中は想像以上に薄気味の悪いもので、脳裏に響く声ばかりが意識から浮いていた。それでも懐かしいと感じるのは、古妖の成せる業か。
花鳥は例え一寸先が白い闇に呑まれていても、恐れずに一歩を踏み出して霧の中を進んでいく。
「……きっと、此処ではない遠くまで連れて行ってくれるものを求める気持ちは、誰しも持っているのかも」
手を引いてくれるひと。
名前を、声を、呼びかけてくれるひと。
――眼差しを向けてくれる、アナタ。
目を伏せた瞼の裏に描くものは、懐古に過ぎない。訪れる者を惑わす霧深い古妖の潜む御山になんて、彼がいる筈はないのだから。
「今宵語るは――」
とある湖の伴、訪れたひとつの物語。
花鳥は凪いだ水面の如く静かな声音で語り、水棲馬の群れを呼び出すことでその力を借りる。
「湖じゃなくて山道でごめんね?」
現れた水棲馬は霧の中であっても青白く輝くようで、硬い蹄で大地を蹴り上げる。
中でも一際大きく豊かな毛並みを持った水棲馬が眼前で傅けば、花鳥はその背に乗り、優美な鬣をそっと優しい手つきで撫ぜた。
そうして立ち込める霧を振り払うように、澄んだ湖のような爽やかな香りを胸いっぱいに吸い込んだなら。鋭い嘶きをひとつ、呼応するように参道を駆けていく水棲馬が花鳥を目的地である神社へと連れて行ってくれることだろう。
決して独りでは歩かず、目線も高くして。瞬く間に開けた視界に花鳥は気丈に微笑んだ。足元ばかりを気にしていると躓いてしまうと教えてくれたのは、はたして誰の声だったか。
「さぁ、悪いオニさんのいる道の先を目指そうか」
こちらにおいで。そんな声を掻き消すように、水棲馬たちの嘶きが空高く響いていた。
月も雲の後ろへと隠れしてしまった朧月夜。
ゆらり、ゆらりと頼りない提灯の明かりが足元を照らしている。
霧も深く、一寸先も白く染まって見えないほどの参道は自分の足音ばかりが響いているかのようだった。
彩生・紬(綾なす錦・h03536)は唇から零れたか細い吐息が霧の中に溶けていく様子を見ては、ひんやりとした肌寒さに身を震わせる。提灯を持つ手が震えてしまうのだって、決して怖いからなどではないはずだ。
そのはずなのに、考えれば考えるほど怖気が走るような気がする。闇の中に何かがいる気配がするのは気のせいだろうか。風が冷たく、木々の葉がひそりと何かを囁いているように思えるのは気のせいだろうか。辺りを見渡しながら歩くさなか、かつんと蹴飛ばしてしまった小石に紬は息を呑む。
「い、いえ、怖くなどありませんとも! こここの震えは武者震いと申しますかぁ……!」
誰にともなく口を突いた弁明が、霧の中に木霊する。そして。
――こちらへおいで。
一層深まる霧と共に聞こえてくるのは、女性の声だ。
紬は提灯こそ落とすことはなかったが、その声に思わず足を止めて空を見た。
――こちらへおいで。
ああ、あれはきっと。
「……お母さん、」
天に召された母の声を、思い出す。
罠だと理解していても胸が騒ぐのは、仕様のないことだ。
鬼さんこちらと、ひとの思いを嘲笑いながら手招く声は近く、しかし思い出は遠くて。「……これが、古妖の手口なのですね」そうい言って紬は、なおも脳裏に響くような声に目を伏せる。
その誘惑はあまりに甘美で、もし自分の帰りを待つ人がいなければ惑わされたかもしれない。そう思ってしまうほどに、その声音は優しくも懐かしいものだ。けれど。
「行かなくちゃ」
もし、この亡者の声に縋ってしまったら。残されるおじいちゃんが苦しむから。
紬はすっかりと冷えてしまった白い頬をぱちんと叩いて、その目を開いてもう一度前を向く。
もう恐れることはない。ただただ、まっすぐに目指すは参道のその先――、
「おや、先客か」
がさりと低木をかき分けて現れたのは玉梓・言葉(紙上の観測者だいさんしゃ・h03308)だった。
意を決した矢先のことに、紬が飛び跳ねるように驚けば「いや、すまんすまん」と申し訳なさそうな面持ちで頭を掻く。
どうやら√能力者たちが徐々に集まってきているらしい。人の気配こそ霧の香に遮断されてしまっているようだが、目の前までくればそれが紛うことなく同業者であることが分かった。
「す、すみません。びっくりして……」
「構わんよ。儂が驚かせてしまったようだからな」
せっかく合流できたのだからと、ふたりは軽い挨拶を済ませた後に肩を並べて参道を歩く。
無論、その間にも声は響いていた。不思議なことに、聞くものによって異なる声音に聞こえるらしい。はたまた、そう錯覚させているのかもしれない。
「……なるほどな」
納得したように言葉は小さく頷く。
声を聞けば会いたくなる、幾度の別れを視てきた道具であってもそうなのだから幼子であれば尚更のことだ。
人は弱いからこそ間違えることはあるだろう。ただ、人は誤りを正すことができる。――だからこそ、人の子は愛おしいのだと。言葉はその弱さを否定することなく、ただその祈りが届くようにと願って御山へと囁いた。
「――どうか、お主の子らを護っておくれ」
幼子の手ですら容易に切れた注連縄を思えば、只管に寂しさを覚えずにはいられない。
言葉はこの土地の弱った神に渦巻く霊力を利用して、手元の注連飾りへと祈りを込めて清浄な霊力を分け与える。
「封印した際には綺麗なものを誂えて貰わねばな」
霧の中をぼんやりと象る白い影。その影が注連飾りへと触れた後、溶けるように消えていくのを見届けてから言葉は囁いた。
だからどうか。「どうか、お主の地に蔓延る霧を晴らしてくれんか」その声に呼応したのか、それとも偶然か。薄らと僅かばかり差し込む月明かりに紬は目を細める。
「……石段が見えてきました。もう少し、みたいですね」
「うむ。では、共に征こうか」
これ以上、誰も惑わされぬように。
可哀想なややこが自分の兄に胸を張って生きられるように。
そんな祈りを力へと変えるように、ふたりは神社へと続く石段に力強く足を掛けるのだった。
√能力者たちの手によって共有された件の少女の事情は、桐生・綾音(真紅の疾風・h01388)の胸に強い憤りを覚えさせるものだった。少女の思い出を利用した古妖は決して許せる存在ではないと、黄金の瞳に心火を灯す。それは桐生・彩綾(青碧の薫風・h01453)も同様で、傷む胸に手を当ててしばしの間、少女の心の内に思いを馳せる。
年が離れているからこそ、置いて行かれた寂しさも大きいだろう。在りし日の大切な人より、大きくなった切なさは計り知れない。絶対にとっちめようと顔を見合わせた姉妹と共に、藤原・菫(気高き紫の花・h05002)もまたひとつ、頷いてみせた。
しかし何はともあれ、その黒幕の元に辿り着くためにもまずは視界を遮るような霧の道を踏破しなくてはならない。
3人が調べたとおり、妖怪ハイカラ街から少し離れた場所にあった石造りの鳥居は山へと続いており、そして足を踏み入れた瞬間に濃霧が立ち込めてきたのだ。今や一寸先をも暗く呑み込むような霧が辺りを包んでおり、3人ははぐれないようにと距離を縮めてから周囲を観察する。
「これは、本当に凄い霊気の流れね……」
「目の前は真っ暗、霧で視界不良、と。まずはここからどうにかしないとね」
流れる霧にまで染み渡るような霊気を感じて、菫は思わずと眉を潜める。
訪れる者を惑わすものは古妖がもたらす声だけではなく、山の中に流れる濃霧も関係しているに違いない。まずはこの視界をどうにかするべきだと判断した菫はすぐにカメラを搭載したドローンを展開し、さらに刹那の絆によって綾音と彩綾がはぐれてしまわないようにと準備を進めていく。
そのさなか、備えあれば憂いなしと準備を進めるのは菫だけではないらしい。
3人で固まって動くことを第一にと考えた彩綾は強く念じることでその身を小さなこねずみへと変化させると、菫に抱えられた腕の中でふんすと強気に鼻を鳴らした。この大きさであれば、いざとなれば狭いところだって入って道を探すことができるに違いない。
「……私も、奥の手を使うよ。知らない力を使うのは嫌だけどね」
百鬼夜行。例えそれが得体の知れない力でも、使わざるを得ない瞬間はあるのだと綾音は覚悟していた。
ドローンを操作する菫に、その身の危険も顧みずに小さくなった妹。彼女たちを前にして、自分がだけが何もしないなんてことはできない。何より、ここで躊躇っていたら道は開けないのだ。
そうして囁いた声は霧の中に溶けて消えてしまったけれど、やがて呼応するように現れた配下妖怪たちの数は驚くほどに多く、彼らは彩綾の意図するところを知っているかのように3人を護衛すべく周囲を固めてくれていた。
小さな配下妖怪はわいわいと少しばかり喧しいほどの数ではあったが、これなら逆に古妖の呼び声さえ気にならないかもしれない。
「――確実に進んでいこう」
こうして、3人が離れずいっしょにいれたなら。
どんな霧の中でも、どんな声に誘われても、きっと大丈夫だと信じている。
彩綾の言葉を皮切りに、菫が操作するドローンを先導として3人は神社を目指し歩きだすのだった。
「本当に霧が濃いな。マリィ、足元気を付けて」
黒い毛並みの幼竜が、うろりと辺りを見渡してそう告げる。
何かあった時にはかばえるようにと周囲に気を配る姿は、幼い体躯ながらにお目付け役たる自負を感じさせるものだ。蔦ノ森・まほろ(Olivier odorant・h02875)は黄金の目を細めて、行く先を静かに睨む。霊域指定地帯であることを除いても、一寸先も見えないほどの深い濃霧にも感じる妖力からはまるで産毛が立つような嫌な気配がしていた。
しかし、そんなまほろの様子とは裏腹に。
「山登り! がんばるぞ、おー!」
月が空高く登る夜であっても元気な久遠・マリーツァ(Ipheion・h01241)の声が高らかに響く。
不思議なことに、その声に返る山彦はないようだ。霧に遮られたからか、この地の特異が成せるものか。「あれ?」と首を傾げたマリーツァだったが、その違和感もすぐに目の前に見えてきた灯篭に消えていく。
灯篭の灯りは頼りなく息を吹けば消えてしまいそうではあったが、いくつも並べば壮観だ。灯りが霧を照らす様は幻想的で綺麗だと、マリーツァは素直にそう思う。けれど。
先が見えないのは、ちょっと怖いかも。ドキドキとする胸を押さえたマリーツァは、怖いながらにわくわくしている自分にも気が付いて、静かに目を輝かせる。
「よしっ、ずんずん進もー!」
ぴんっと立った猫耳は、何より正直といえるだろう。
僅かな音や気配も察知できるようにと前後左右に動く耳は、明らかに興味津々だった。
ずんずんと進んでいく、霧の中。
ふと考えてしまうのは、この先に待っているのだろう古妖の存在だった。
「……どんな悪事を働いて封印されたんだろう?」
「狸さん、閉じ込められて寂しくなっちゃったのかな?」
ふたりして小首を傾げて、考えてみる。
聞いて楽しいものではないかもしれないけれど、チカラが欲しいという気持ちはまほろにも少し分かるような気がした。
何かが欲しいとか、何かを守りたいとか。チカラがないと何もできないこともあるのだから、求めること自体は悪ではない。それでも。
「少なくとも、少なくとも女の子を騙す悪いヒトをわたしは許しません!」
ぷんぷんとまろい頬を膨らませたマリーツァに、まほろも小さく頷く。
霧の向こう側から聞こえてくる誘うような声は、確かにふたりの耳にも届いていた。霧の流れに乗って流れてくるのであれば、おそらくは風上に建つ神社から響いているのだろう。
こちらへおいで、こちらにおいでという声ばかりが聞こえて、それなのに視線の先は霧が立ち込めているせいで少しも見えない。段々と気味が悪くなってきたまほろの様子に気付いたのは、マリーツァだ。
「ふふ、まほ実は怖いんでしょう? お歌とか歌ってみる?」
魔除けのお歌もあるし、楽しい歌ならおばけさんともお友達になれちゃうかも、なんて。
おどけた様子のマリーツァの明るさに救われながら、どこか少しからかわれたような気もして、まほろはむぅ、とむくれながらも答える。
「別に怖くない。歌ね、いいんじゃない?」
「ほんと? じゃあ、まほはどんなお歌がいいと思う?」
「……歌とかそういうのはマリィに任せる」
「まほも歌うんだよ? こういうのはおまじないなんだからやらなくちゃ!」
後押しするように覗き込んだ紫色の瞳に気圧されてしまったのは、その表情があまりにも楽しそうだったからだろうか。
しばしの間、視線を泳がせて迷うような仕草もその瞳の輝きには勝てそうもなく。やがて竜の姿でありながらも器用に肩を竦めたまほろが小さく頷く。「……わかったよ、もう」という言葉と共に漏れた溜息は霧の中に溶けて消えてしまったようだ。
そうして、ふたりでお歌を選ぶことしばらく。
夜も更けた頃合い。深い濃霧も誘う声も吹き飛ばしてしまいそうなほど、明るく楽し気な歌声が御山に響き渡るのだった。
「悪さを働く狸ねえ。葉っぱや石を使って変身するのかな?」
こつん、こつんと。
石造りの鳥居を見上げて、どこか不思議そうな表情で尖禍・ネルカ(寓意譚・h02401)は軽く小突いてみる。
古妖が待つ神社に続くのでだろうその鳥居を潜り、山の中へと一歩踏み出せばあら不思議。途端に立ち込めた霧に視界が遮られてしまったのだから、好奇心は尽きることもなさそうだ。鳥居は境界とはよく言ったもので、ここから先の御山一帯が霊域指定地帯となっているのだろう。
「道行く人を迷わせるのは御伽噺でよく聞く話だね。霧が出ているのも雰囲気あるじゃないか。会うのが楽しみになってきたよ!」
わくわくとした瞳の煌めきを隠すことなく、ネルカは歩き出す。
炉端の石や木の根さえ見えないほどに濃い霧でも、その好奇心までは遮ることができなかった。そして。
――こちらへおいで。
やがて霧の向こう側から聞こえてきたのは、訪れる者を誘う声だ。
ネルカはその声に耳をそばたてて、それが幼い頃に亡くなった優しい父親の声であることに気付く。
静かに細められた目も、そこに動揺は少しも見えない。それどころか、ネルカはむしろ楽しむように笑みを浮かべていた。
「……ああ、これは懐かしいね。久しぶりだよ、パパ」
軽く肩を竦めて、ネルカは声に応える。
込み上げる笑いを押さえながら口を開いても、声は手招くばかり。これでは声真似ばかり、猿真似ばかりの三流と変わらない。それでも、その声が父親の声を模しているのなら、ネルカはあえて応えてみせた。
「ちょっと聞いてみたいんだけど……ゾンビにでもなったのかい?」
だとしたら傑作だ。なんて、笑みを深めてネルカは言葉を続ける。
「ふふ。私らしくないって? これが今の私なんだよ。怪物だろうが、もう何だっていいんだよ」
大事なのは――“自己表現”さ。
だから、誘うばかりのまやかしの声はネルカには必要ない。
最後に告げた声音は冷たく、地に落ちるよりも前に霧の中へと溶けていく。
その後はもう、ネルカが声に応えることはなく、耳を貸すこともない。それゆえに。そのまままっすぐに、己が信じるままに霧の中を突き破るように前へと進むネルカの行く先を阻むものはもう何もなかった。
第3章 ボス戦 『隠神刑部』

●interval
「――哀れだと、そうは思わないか?」
霧が風に流れて薄らと月が覗いた夜空の下。淡い月光を背にした古妖はそう言って、√能力者たちに語り掛ける。
身の丈ほどもある大岩に腰掛けるその姿はまさしく狸の妖怪だったが、その体躯は目測でも2mをゆうに超える体躯の強大な獣だ。哀れだと気の毒そうな素振りも、賢しげに見える眼鏡の下でその表情は愉しそうに歪められている。
「儂を封印した人間も、土地神も。確かに強き者たちだったが……いやはや、時の流れには勝てぬものよな」
大岩は罅割れ、切り落とされた注連縄は封印の跡形もなく、物言わぬ塵のようなもの。
遠い昔、古妖を封印すべく土地神の力を借りて建てられた神社も長い年月の中で忘れ去られ、廃れ果て、いまや当時の見る影もない。欠けた屋根瓦に蜘蛛の巣が張った境内社は控えめにいっても無残なもので、傍らの手水舎さえ黴て黒ずんでしまっているのか波打つのは汚泥ばかりだ。
たった一瞬。少し見ただけでも、既に人の手から離れてしまった廃神社であることがよく分かる。
これでは参拝に訪れる者もいないだろう。それゆえに。
「信仰を喪った土地神など、この隠神刑部の足元にも及ばん」
杯を煽り、徐に立ち上がった古妖――隠神刑部は、抑えきれない笑みを浮かべていた。
封印が解かれた自由の身の、なんと清々しいことか。
文明開化の流れに山を切り拓かれ、信仰も喪った土地神に古妖を再び縛ることなどできるはずもないのだから、後は妖力を取り戻すばかりだと考える隠神刑部に√能力者に対する恐れは見えなかった。それは油断というよりも、古妖としての自信だろうか。
隠神刑部は廃れた神社へと視線を向けて、姿かたちもない土地神へ言い聞かせるように囁いた。
「しかしあまりにも哀れに思えてな、儂も考えたのだ」
例えば――弱った土地神に代わって、儂が化けてやるのはどうだろう?
うっそりと笑みを深めた隠神刑部が、考えるような仕草で太い尾を揺らす。
今でこそ封印を解かれたばかりで全盛期とはいえないが、妖力がすべて戻れば更に様々なものに化けることができるだろう。そうして土地神に成り代われば、信仰さえも取って代わり更なる力を得ることができるかもしれない。取らぬ狸の皮算用は指折りに続けられて、それから思い出したように√能力者たちを顔を向ける。
嗚呼、その前に。
「……まずは貴様らを片付けなければ」
闇夜をも見通せる獣の目が、獲物を捕らえるように鋭く√能力者たちを見据えていた。
●夢の終わりに
月に掛かる雲は薄くとも、僅かな月光は隙間から零れて石畳を照らしている。
罅割れて苔生した石灯篭の灯りも弱いものだったが、一度目が慣れてしまえば濃霧の中よりよほど視界が明るく思えるものだ。
差し掛かる薄明りに聳え立つような巨体をのしのしと揺らした隠神刑部がその身を翻すのと時を同じくして、アダン・ベルゼビュート(魔蠅を統べる覇王・h02258)は己の影が揺れる感覚をおぼえていた。
「――貴様は三つ、過ちを犯した」
一つ、目的の為に無辜の民の心を苛んだこと。
二つ、野心の為に土地神の尊厳を貶めんとしている事実。
そうして、数えること三つ。
「……此れらの行為、其の全てが――覇王たる俺様が憤怒を抱くには充分過ぎると知らぬ、浅知恵故の哀れな愚行である!」
ゆらりと蠢くような影が、アダンの感情を反映するかのように大きく膨れ上がる。
そこから生まれ出ずるのは、その影の色を残した黒狼の群れだ。影を別ち増えていく群れは月に遠吠えを放ち、隠神刑部の先制攻撃にも牽制を図る。
「その獣の浅知恵に騙されるから、貴様たちは哀れだと言っておるのだ」
2mをゆうに超えているはずの体躯に重みも感じさせないほど軽い動作で身を翻した隠神刑部は、瞬く間に巨大な神将へとその姿を変化させたようだ。身に着けた甲冑や羽衣は精巧な作りでありながらその色が青銅であることから、動く石像のような奇妙さが伺える。
そして黒狼の群れが放つ牽制によって一撃を止められた隠神刑部は気分を害したように低く唸ると、手にした槍を振るって振動を受け流した。
「声を変え、姿を変えれば容易に獣に騙くらされる――貴様も同じことよ!」
「否、貴様は貴様でしかない。土地神に成り代わろう等と烏滸がましい!」
憤怒は力となり、怒気は強い意志を支えるための土台となる。それゆえに、石像の如き巨大な神将がその丈に見合った強大な槍を振り上げてもアダンが動じることはなかった。「疾く消えてもらうぞ」そう言って闇夜を裂くように右手を上げれば、アダンの背後に揺らめいた影から数多の鎖が飛び出して、その槍を捕らえ留める。
更に、アダンは止まることなく神将との距離を詰めると十字を刻まれた右目を見開いたまま睨み上げ、低く囁いた。
「……覇王たる俺様の力、其の一端を味わうがいい」
覇王の喝采は、その身を焼き尽くしても止まることはないだろう。
「焼けて、灼けて、悶え苦しめ。あの少女の痛み、其の一端程度は理解するが良い」
巨大な神将を呑み込むほどに波打った昏い黒炎が境内に轟く様を見据えて、アダンは解けた右手の包帯を巻き直すのだった。
こてんぱんにしてやるって、あの子に約束したから。
その約束を違えることはないと、久遠寺・悟志(見通すもの・h00366)は相対する隠神刑部をまっすぐに見据える。
「……あなたは、必ずこてんぱんにしてみせるよ」
音もなく。するりと静かな動作で包帯を外すのは、その瞳の封印を解くためだ。
外された包帯の下から現れたのは夜闇にも輝く柘榴色の双眸で、悟志は隠神刑部のすべてを見通すかのように瞳を細める。
その視線の先で、隠神刑部も赤く輝いた瞳に警戒を示して距離を置いた。そうして眼前に掲げられた肉厚の掌が操る木の葉が揺らめいては瞬く間、どろんと生まれた煙から現れたのは隠神刑部の配下である化け狸たちだった。
「ふん、まずは小手調べといったところかのう」
力を開放した悟志が探偵刀を手に跳躍し、その刀を振り上げるのと同じくして隠神刑部は一歩下がって闇夜に紛れていく。
ふたりの間に飛び込んできたのは、配下の化け狸だ。行く手を遮るようにぽんぽこと現れる狸に悟志はそのまま刀を振りぬいて切り捨てると、すぐさま自身も距離を取るように移動して隠密状態へと移行する。五感を阻害するオーラを纏うことで化け狸たちの意識から外れた悟志が探すのは、本体である隠神刑部の姿だ。
「厄介だな……」
召喚された化け狸たちの数は多く、これらすべてをひとりで切り捨てるにも限度がある。
取り出したピストルで闇夜から化け狸の額を打ち抜き、怪魚の形に変化した己の影――『磯撫で』にもその長い尾びれを振るって敵を一掃してもらう、そのさなか。柘榴色の双眸は化け狸たちの中にいつの間にやら紛れていた隠神刑部の本性を暴き出し、考えるよりも早く急接近するがいなや、悟志は再び探偵刀を振り上げた。
「哀れって言ってたよね」
――あなたの方が、よっぽど哀れだよ。
言葉少なに、それでいて辛辣に。憐れむような柘榴色の瞳が、月下に煌めいて獣を見下ろしていた。
「おや、僕の前で土地神様のことをそんな風に言うなんて……喧嘩を売っているのかな?」
隠すことなく眉を潜めたのは、癇に障ったが故か。
朧げな月明かりが廃神社を照らす、ひんやりとした空気が地を這うような境内に足を踏み入れた藤野・静音(怪談話屋・h00557)は白く染まった溜息をひとつ零して、それから緩く頭を振る。獣に幾ら噺を説いたところで意味はない。なればこそ、自分がいますべきことはただひとつ――「君みたいな古妖にその場所を奪われるなんて真っ平ごめんだ」御伽絵巻の紐を解いて、押え竹を手に巻き開く。
「……話し合いは決裂だね」
隠神刑部が召喚した配下の化け狸たちの数はとても多く、化け狸たちが個々に大きな力を持つことはないが、これらをひとりで相手取ることは厳しいだろう。
しかし静音が化け狸の数を理由に躊躇することはない。敵の数が多いのであれば敵と同じだけこちらも戦力を呼び出せば良いことだと、しかと前を見据えた静音は冷たく言い放った。
「じゃあ、君が望むように荒っぽい手段で決着をつけようじゃないか」
数には数で対抗しよう。――百鬼夜行だ。
「狸ども、彼奴らを一掃せい!」
「さあ、頑張って」
妖さえも魅了するような冷たくも艶やかな笑みで、襲い掛かる狸たちを前に静音は配下妖怪たちの背を押す。
木魅に天狗、山童に猫又、夜闇を練り歩く妖怪たちは多種多様だったが、しかしいま彼らは一様にして静音の声に従うように化け狸たちを相手取っていた。くるくると御伽絵巻を開けば開くほど配下妖怪たちは増えていくのか、数刻もすれば襲い掛かってきていたはずの化け狸たちを押し返すほどにその数は境内を埋め尽くしているようだ。
「ええい、なんと鬱陶しい……!」
あまりの数の多さに隠神刑部も狼狽えたのか、不利を悟ったのか。化け狸たちに隠れて徐々に境内の奥へと下がっていくのを視界に収めて静音は目を伏せる。
ここは廃神社といえど、土地神の御座すところ。信仰を喪っていたとしても、弱り果てた土地神を思えば野心を抱えた畜生が成り代わることを許すほど無頓着ではいられない。
それゆえに。
「――古き妖は去るといい」
やがて散り散りとなった化け狸たちを木の葉ごと裂くように、一陣の追い風が吹く。
天狗が笑い、木魂が歌い、猫又がにゃあと鳴いても妖怪たちの進行は止まらないだろう。今夜だけの百鬼夜行は、まだ始まったばかりである。
もっふりとした豊かな褐色の毛皮に肉厚な掌と鋭い爪。狸の特徴を持った尾の先は黒く、2mをゆうに超えている巨大な体躯のバランスを取っている。石畳を突くように下駄を鳴らせば、その巨体に見合った重量を感じさせるような地鳴りが聞こえてきそうだ。
尖禍・ネルカ(寓意譚・h02401)はその様を悠々と観察するように胸の前で腕を組み、隠神刑部を見上げる。
「ふふ、その体躯からは歴史を感じるよ」
しかし、彼の配下たる化け狸たちはそれほど大きくはないらしい。
どこにでもいる狸と比べれば充分に大きいといえるが、その全長はネルカの腰に届く程度だろうか。境内に吹雪いた木の葉たちがぽんぽんという音と鳴らして煙と共に化け狸に変化していく様を見据えて、緑色に輝く双眸を瞬かせたネルカは思い立ったように指を鳴らした。
「子分もいるのかい? それじゃあ、私もその百鬼夜行に加えさせてもらおうかな!」
――最後まで付き合ってくれるよねえ?
そう言ってネルカが8mmフィルムカメラを眼前まで持ち上げれば、小さな起動音を鳴らしてカメラは回り出す。
レンズの向け先は化け狸たち――否、その足元にある地面だ。
ぐらり、ぐらりと不気味に蠢いた地面はやがてぼこぼこと音を立てて大きく隆起し、やがて割れた部分からゆっくりと灰褐色の腕が伸びてくるのが見えた。土に薄汚れた腕がそのまま地面に手を掛けるのをカメラは注目するように追いかける。腕から流れるように肩、頭、そして胴を過ぎて足まで這い出してくればもうその正体も分かるだろう。カメラが捉えたそれは、紛うことなきゾンビたちである。
「どうやら地獄が満員らしい! さあ、走って!」
カメラが引いて、境内の全体を捉えるように戦場をフォーカスする。
いつの間にか化け狸たちに勝るも劣らない数に増えたゾンビたちは例え攻撃を受けても決して怯むことなく噛みつき、ひっかき、まるで恐れを知らないようだ。大きな呻き声が化け狸たちの連携を崩すように無秩序にかき乱し、そうして。
「パパ、見ているかい!?」
中でも一等素早いゾンビが化け狸たちを壁のようにしていた隠神刑部をついに捉えて、その尾に嚙みついた瞬間をカメラは見逃さない。
ネルカは心の底から歓喜を叫べば、そのゾンビの快挙に続かんと更なるゾンビの群れが隠神刑部へと押し寄せていく。
「――これこそが、“自己表現”だ!」
「ええい、来るな! 儂に近寄るでない!」
「ほら、私の世界はこんなにも派手で、めちゃくちゃで、だけど最高だろう!」
ゾンビの波に呑まれていく隠神刑部は、さながらB級ホラー映画の如く。
クライマックスは見逃さないでよ、なんて。ネルカはピントをしっかりと合わせながら一部始終を手中のカメラに撮り収め、レンズ越しに笑っていた。
忘れてしまうのは、とても悲しいこと。
シルフィカ・フィリアーヌ(夜明けのミルフィオリ・h01194)は眉尻を下げるも瞬く間、隠神刑部の手によって召喚された化け狸たちを見下ろして頭を振る。
忘れられてしまうことが例えどれだけ悲しいことであっても、だからといってその存在に成り代わることを許してはならない。ましてや古妖である隠神刑部が神様に化けるなど図々しいにもほどがあると、シルフィカは腰に下げていた精霊銃に手を掛ける。
「……御生憎様。わたし達をこの地に招き入れてしまったのが運の尽きね」
「ほう? 貴様たちが来たから如何したと言うのだ」
「わたし達がここに来た以上、あなたの願いは何ひとつとして叶わない」
――あなたはここでもう一度、永い眠りにつくのよ。
不敵な笑みを口許に、シルフィカは素早い動作で精霊銃から雷を纏う弾丸を放つ。
戦闘は既にはじまっており、境内に犇めく化け狸たちの数は確かに多いが味方同士で協力し合えば決して適わない相手ではないだろう。雷霆万鈞、轟く雷鳴が化け狸たちを貫く傍らでシルフィカは周囲へ目配せをひとつ、そうして雷精霊の力を張り巡らしてゆく。
彼女の目配せを受け取ったのは、石造りの鳥居に寄り掛かり『嘯月』で月見酒と洒落込んでいた玉梓・言葉(紙上の観測者だいさんしゃ・h03308)だ。幾ら飲んでも酔わないが、とはいえほろ酔いのふりはいつでも心地が良く、強いて言えば月見を邪魔するように吹雪いた木の葉が無粋と言えようか。言葉は視線をゆっくりと隠神刑部に移して「哀れよのう」と独り言ちる。
「さて、賢き者はどのようにして信仰心を得るつもりか」
得意の耳打ちか、化かしの術か。
隠神刑部が肉厚の掌に力を込めるようにして、忌まわしくも強力な神通力によって欠けた屋根瓦を鋭く重たい鈍器の如く振り上げる様を視界に収めながら、言葉は話し続ける。人の子が幸せになるならば神の代替も悪くはない、その気持ちに嘘はなかった。けれど、それでも。
「……ただの道具である儂に自我が生まれた切欠は、主の喜びの感情じゃった」
忘れられない恋物語を語ろう。
言葉は振り上げられた屋根瓦さえも上書きするように彩り、移り変わり、そうして花開く桜並木の中を懐かしみながら歩いていく。その間も配下の化け狸たちが襲い掛かるが、その攻撃が言葉に届くことはなかった。シルフィカの手によって精密に撃ち抜かれ、まとめて吹き飛ばされていく様は桜吹雪のように爽快なものだ。
やがて視線を交わしたシルフィカと言葉は互いに背中を合わせるように力を合わせて化け狸たちを退け、隠神刑部との距離を詰める。
そして。
「――素敵な夢を見せてくれてありがとう。でも、ここでさよならよ」
「儂は人の子には笑っていて欲しいと願う。……お主では、役不足じゃ」
月が翳るように桜は散っていく。
その合間を迸るのは雷鳴と、溢れるように広がる彩の呪いだ。視界が鮮やかに輝いて、瞬く間。次に甲高い獣の悲鳴が境内に響けば、化け狸だけでなく隠神刑部にも確かな一撃を与えられたことが分かった。
傷口を押さえながら距離を取り、新たな化け狸たちを呼び出さんとする隠神刑部を逃すことない。更なる追撃を図るため、武器を構え直したふたりの戦いは続くことだろう。それはきっと、古妖を再び退治し再封印するまで。
荒れ果てたこの地はきっと、また誰かが思い出して綺麗にしてくれると信じているから。
例えいまは弱々しくとも、確かに呼応した土地神と新しい注連縄の約束をしたから。
――すべて終わったら詣りに来ようか、なんて。そんな思いを胸に、また桜は舞い降りる。
「漸く御出ましか、狸とはな」
人に化けるのでは飽き足らず、神にも化ける等と勘違いも甚だしい。
夜鷹・芥(stray・h00864)は隠すことなく形の良い眉を歪めて、言い捨てる。見上げるほど巨大な体躯こそ立派なものだが、その所業が神に足り得るとはとてもではないが思えなかった。
黒狐を覆うもの、面を示した節榑立つ指先は隈取をなぞり、流れる仕草でそのまま手斧へと伸びる。獲物を狙い定めるような視線は隠神刑部を一瞥するも、境内に止め処なく召喚されていく配下の化け狸たちを捨ておくことはできないとその視線を僅かに落とした。
「狸と狐の化かし合いといこうじゃねぇか」
そして、瞬く間。
素早く跳躍した芥は化け狸たちを急襲するべく距離を詰めて、手斧を振り下ろす。
しかし確かに化け狸を割いた切っ先も不思議と手応えはなく、見下ろした視線の先で化け狸が木の葉へと戻っていくのが分かった。どろん、と煙を置いて逃げていく狸の背中を追うでもなく芥は口を開く。「――律、援護頼めるか?」低く、戦場においても静かな声が語り掛ける先は冬薔薇・律(銀花・h02767)だ。
「お任せくださいまし」
そうして律の言葉が返されるのと同時に、境内に響く銃声。
見事に背中を撃ち抜かれた化け狸が一匹、石畳に倒れ伏すのを見届けることなく律は芥と視線を交わしあう。化け狸たちの数こそ多いが、個々の強さは隠神刑部よりも大きく劣っている。こちらも力を合わせて協力しあえば必ず隠神刑部までの道を開けるだろうという確信がそこにはあった。
鋭い銃声に怯んだ化け狸の見逃さず、芥は隙を突くように手斧を振るってから僅かばかり息を吐く。
「……溢れたものは戻らない、が。未来はまだ変えられるだろ」
「ええ。神社も――人も、忘れぬことで変わる未来がありましょう」
発端の少女と、逢いたい人を思う。
古妖の憐れみを聞くならば確かに人の命は儚いものではあるけれど、それでも。
その軌跡は決して哀れなだけではないと律は知っている。それゆえに、それが理解できない古妖が土地神になれるはずもないということも理解していたから。「もう少し、愛嬌のある姿に化けて街のマスコットになるのはどうかしら」なんて律は微笑みを口許にたたえて、芥の道を開くように援護射撃を続ける。少しずつ開いた道を駆けていく芥の背を追うように律も戦場の隙間を縫って走り抜けて、ふたりは確実に配下である化け狸たちの数を減らしながら隠神刑部との距離を詰めていた。
「マスコットか、其方の方が余程土地神に近づけそうだ」
「ええ。そうして時が過ぎて、何か理解できたなら人が祀る土地神となれるやもしれませんわよ」
見上げるほど大きな古妖と対峙しても、ふたりが二の足を踏むことはない。むしろ確実に配下の数が減っていき、追い詰められはじめた隠神刑部のほうが焦燥が見られる。
そしてついに、彼らを隔たる最後の化け狸にも芥の手斧は容赦なく振り下ろされて、木の葉と共に地に落ちた。
「廃れてしまった神社も俺達が忘れてしまわなければ良い」
律が神社に行く理由を聞いたから、屹度そう思えるのだと。
芥がそう言えば、律は小さく笑みを零すように彼の名を囁いた。
「夜鷹様、わたくし次はカステラを食べると決めていますの」
その折にはこの社にもまた、お付き合いくださいまし。そんな小さな願いに対する答えは、聞くまでもないだろう。
最後のひと仕事といった風に武器を構え直したふたりは、隠神刑部を退治すべく再びどちらともなく視線を交わして戦場を駆けていく。
獣のご高説も右から左に、土地神の価値を履き違えていると感じた桐生・彩綾(青碧の薫風・h01453)は大きく溜息を吐く。
家族を思う気持ちを利用して自由になったならばその次は土地神様に成り代わろうなどと、減らず口もここまでくれば大したものだ。「とりあえず、その減らず口を閉じてくれないかな?」と苛立たし気に頬に掛かる前髪を払うと、彩綾は二丁の精霊銃に手を伸ばす。
その隣で。桐生・綾音(真紅の疾風・h01388)もまた、呆れた様子で黄金の目を眇めていた。
「純粋な人の思いを踏み躙って自由になった身でいい度胸だね」
確かに自然を失ったことで、土地神の力を取り戻すのは難しいだろう。信仰さえ足らぬというのなら、それを取り戻すことは一朝一夕にできることではない。それでも、古妖に代わりになろうなどと言われる筋合いもないのだ。
姉妹の後方に控えていた藤原・菫(気高き紫の花・h05002)も綾音の言葉に頷くように溜息を落として、それから戦場を把握すべく使い慣れたドローンの『黎明の妖精』を空高く飛ばしていく。ぽんぽこと煙が音を立てて尚も増えていく配下の化け狸たちをドローンで見渡せば、その数の多さはすぐに分かった。同じ√能力者たちによって削られた戦力も、隠神刑部の力を完璧に削ぐにはまだ至らないらしい。
「……まあ、土地神というのはその土地の状況に強く左右される」
色々文化や歴史を研究してきたが故に、菫は土地の変化でさびれていった土地神信仰も多く知っていた。
本来であれば土地神が御座す神社の境内でこれほど獣が好き勝手できているという事実も、まさに土地神が弱っているという現実を知らしめている。けれど、それでも。
「――でもね、人の心を人の心を弄ぶ妖が土地神の代わりになれるはずがない」
化けるなんて思い上がりも大概にしな。そう言い捨てた菫が姉妹に目配せをすれば、それが戦闘開始の合図となった。
「菫さん、援護頼んだ!」
まず初めに先陣へと切り込んだのは彩綾だった。
化け狸たちが襲い掛かる軌道を予測していたかのように跳躍すると、刹那の光芒を発動した彩綾は二丁の精霊銃を構えて狙い撃つ。
額を撃ち抜かれて倒れ伏した化け狸の後ろから現れた新たな化け狸にも躊躇はせず、振り下ろされた鋭い爪はその輝くようなオーラで受け止めてからすぐさま闇を纏えば、彼女の残像さえ捉えられるものはいないだろう。
そうして標的を見失った化け狸が次に狙ったのは菫だったが、その攻撃が届くよりも先に前に出た綾音がしかと受け止めて豪気に笑ってみせる。後ろは任せたと告げる彼女は前を見据えたまま振り向くこともなく、そこには彩綾と菫に対する確かな信頼が伺えるようだ。
「我が力を全開に――!!」
化け狸の攻撃を受け止めたオーラが端から金色に光りを放って、それはやがて綾音の全身を包み込む。
瞬く間、光が収まる頃に現れたのは先ほどまでの綾音の姿ではなく、鳳凰の翼を携えた戦乙女だ。強固な盾で吹き飛ばすように化け狸を薙ぎ払い、綾音が境内に犇めく化け狸たちを押しのけて道を開いていく。その間にも。
戦場を闇を纏ったまま駆け抜けていく彩綾の背中を押すように援護するのは、菫が操作するドローンから放たれるレーザー射撃だった。綾音が化け狸たちの攻撃を一身に受けとめてくれていることも功を奏したようで、壁にように塞いでいた化け狸たちの中に隠神刑部へと繋がる道を見逃さなかった菫は大きく息を吸って、全身全霊を込めるように『磐長の威光』から雷を纏った弾丸を放つ。
「彩綾、行って!」
「了解!」
一気に撃ち抜かれた雷霆万鈞が爆発して、道は開かれる。
それはさながら、大切な未来を拓く標のように。
やがて雷撃から伝わる力を帯電するようにその身に受けた彩綾は光の速さで化け狸たちの隙間を駆け抜けて、隠神刑部へとその銃口を向ける。そして。
「――絆の力、舐めないでね?」
夜空を駆ける流星が如く精霊銃から放たれた眩いレーザーが、本体である隠神刑部を射ち貫くのだった。
嘘をついても、騙しても。
結果的に誰かが救われたなら、罪ではなくなるのか。
――まさか。そんなことがあるはずもない。
隠神刑部の配下である化け狸たちを見下げながら、蔦ノ森・まほろ(Olivier odorant・h02875)は静かに頭を振る。
罪の分、罰は受けるべきだと思うのは件の少女を思うが故か。黄金の目を眇めたまほろは、何より自分のチカラを示すための嘘は許せないとその小さな手のひらを握り締めて、それから周囲を見渡した。
化け狸たちの数はまだ決して少なくはないが、それでも隠神刑部の妖力を以て召喚されているだけに数を減らせば減らすほど隠神刑部の力も消耗していくのだろう。√能力者たちの手によって確実に化け狸たちは倒されて、いまや隠神刑部の顔には疲弊の色が見えている。あとひと押しだろうか、とまほろが考えた――そのとき。
「ニセモノなんて、いりません! 欲しい言葉を言うだけの幻なんていりません!」
幼くも力強く言い放つ、そんな声が境内に響く。久遠・マリーツァ(Ipheion・h01241)だ。
後ろに大きく反った猫耳に、柳眉さえ逆立てて。隠神刑部をぴしりと指差したマリーツァの様子に目を丸くしたまほろはその顔を窺いみるように傍に寄りそう。
「……マリィ、すごい怒ってる?」
「怒ってますよ! この世界に誰かの代わりは誰一人いない。だからこそ大切な人だって思うから……!」
御伽絵巻を取り出したその手で、綴じられていた物語を開いたことが何よりの答えだろう。
そうしてマリーツァが語り出すのは、木こりの兄妹だ。可愛らしい童話のように見えて、そこにはとても恐ろしい魔女が住んでいる。お菓子の家の幸せと引き換えに食べてしまおうとする魔女と隠神刑部はきっと同じ恐ろしいもので、だからこそ許すことはできなかった。
「その人の言葉を勝手に作るなんて……最低です!」
そんなに幻が好きなら、狸さんにも見せてあげます。なんて、いつの間にやら移り変わる景色の中でマリーツァは頁を進めていく。
甘い香りが鼻孔を掠めたことに最初に気付いたのは、配下の化け狸たちだった。ケーキの屋根に、パンの壁。飴細工の窓は艶やかに、ビスケットの机や椅子まで甘くて美味しそうな香りが漂えば獣の本能は見過ごせるはずもなく。我先にとお菓子に向かって飛びついていく化け狸はすぐに丸々と肥えて、身動きも取れなくなってしまうことだろう。
「甘いのは好きですか?」
「どうやら、お気に召したみたいだよ」
化け狸たちの隙を見逃すはずもなく、甘くて素敵なお菓子に夢中の化け狸をまほろが仕留めてしまえば、後に残るのは切り裂かれた木の葉ばかり。まるですべてが幻で、化け狸なんて最初からいなかったようにそこには見る影もなかった。
最後の化け狸を竈に押し込めて、ふわりふわりと空中を移動しながら傍らへと戻ってくる幼い洋竜にマリーツァは慌てて駆け寄ると、そっとスカーフの端を握り締める。まほは、幻にならないでね。そんな風に口に出来たならよかったけれど。口にしたら消えてしまいそうで――口を噤んだままのマリーツァに、まほろはそっと囁く。
「会えなくなる前に沢山幸せに過ごしたい。幸せだったら逢いたくなる……難しいね」
難しいこと、分からないこと。
世界にはまだ知らないことばかりだけれど、それでも。
傍にいるよ、と寄り添ったふたりの幸せな結末が描かれるのはきっと――もう少し、未来の話だ。
「ええい、何をしておるのだ小狸ども!」
配下の化け狸を召喚するにも妖力を要する。
√能力者たちの手によって一掃された化け狸たちを再び補充しようとすれば、ことさらに。
あれほど境内に犇めいていたはずの化け狸たちもいつの間にやら数える程度となり、召喚しても召喚しても端から消されていくのだから隠神刑部からしてみれば堪ったものではなかった。怒声を上げた隠神刑部はぜいぜいと荒く肩で息をするように最後の力を振り絞り、その肉厚な掌に力を込めて新たな化け狸たちを呼び寄せる。
自分はまた人間に負けるのか。また、暗くて冷たい闇の中に封印されるのか。
その隠しきれぬ焦燥は、化け狸たちと対峙していた彩生・紬(綾なす錦・h03536)からも容易に見てとれた。
「否、儂はまだ負けておらんぞ! 必ず、必ずや――、」
「……まだ、分からないのですか」
獣の憤懣を遮るように、紬は静かな声音で問いかける。
人の手に作られた物は確かに、いずれ朽ち逝く定めにあるのだろう。
限りある命しか持てぬ人間が時代と共に薄れ行く信心を常しえに守り抜くのは難しいことだと、紬もよく知っている。けれど。
「――哀れむ必要はございません」
ゆっくりとした仕草で紬が手を掛けるのは、祖父より受け継いだ燧石式の奸闌繰銃。
破魔の弾丸が装填されているという『春靁』はその姿かたちこそ見慣れたものだけれど、まだ使ったことはなかった。それでも紬は躊躇うことなく銃を手に、静かな眼差しで隠神刑部を見据えて言葉を続ける。
「継承する者がいる限り信仰は滅びない」
「小娘が、戯言を……ッ!」
「あなたを封じた人間は此処にはおらず、土地神さまのお力を頼ることは出来ずとも」
――今あなたの前に立っているのは、彼らの意志を継ぐ者なのですから。
嗾けられた化け狸が紬へと向かって襲い掛かろうとも、目は瞑らなかった。
構えた銃口と同じように視線も反らさず、紬は心の中で祈る。引鉄を引くのは初めてだけれど、恐れたりはしない。あの傲慢な妖を神様にする訳にはいかないという強い意志がそこにあった。
それゆえに。
「……力を貸して、おじいちゃん」
声にならないほど小さな言葉を唇が刻んで、引鉄を引く。
そうして銃口から真っ直ぐに放たれた破魔の弾丸が化け狸を貫通し、隠神刑部さえ撃ち貫いたとき。不意に、脳裏に過ったのは兄を想い涙する少女の姿だった。
――覆水盆に返らず。
溢れたものは二度と元には戻らない。
どれほど嘆いても、どれほど惜しんでも、返ることはない。
ならばせめて、彼女の瞳からこれ以上涙が零れ落ちることのないように。
「これで終わりにしましょう」
心の臓を撃ち貫かれて石畳へと倒れ伏した隠神刑部を幕引きとするように、彼に召喚されていた化け狸たちも木の葉を残して消えていく。
そして紬の言葉に応えるように封印の巨岩も月光を受けて輝いたかと思えば、瞬きの後には罅割れさえ残っていなかった。√能力者たちの手によって新たに用意された注連縄を封印の楔とすれば、倒れていた隠神刑部も再び巨岩へと吸い込まれていき最後には木の葉ひとつ残らない。
まるですべてが幻であったかのように静寂を取り戻した廃神社に、ただひとつ。
石畳に割れ落ちた酒壺から零れていく酒水のみが、返ることのない夢の跡を示していた。
●epilogue
けんけん、ごうごうと。
てんやわんやのどんちゃん騒ぎで湧きあがる妖怪ハイカラ街の片隅で、新たな名所ができたらしいと噂好きの妖怪が囁く。
流行のミルクセーキやカステラを存分に楽しんだなら、次は彼方に行ってみるといい。そう指し示すのは歓楽街を通り抜けた先の御山に構えられた小さな神社だ。
元々は廃神社だったと噂の境内舎も綺麗に修繕されて、いまでは朱塗りの鮮やかな色彩が御山の新緑に映えている。どうやら土地神を祀った神社だそうで、観光名所の巨岩を封する注連縄にも似た紐飾りが結ばれたお守りがお土産として人気らしい。
またひとり、参拝へと訪れた者が石段を登っていけば、石畳を竹箒で掃いていた少女が顔を上げて微笑む。
「――ようこそ、お参り下さいました」
参道を行き交う人々の表情は明るく、御山には楽し気な声だけが響いていた。