叶わぬ想い、叶えたい願い
●
好きな人がいるの。
同じマンションの一階上に住んでいる、おにいちゃん。
あなたが幼稚園の頃から妹みたいに可愛がってくれたのよってママは笑う。でも、わたしはおにいちゃんの妹なんかじゃない。
だいすきなの。優しくてあったかくて、笑うと細い目がますます細くなって無くなっちゃうところ。
さいきん「じゅけんべんきょう」で遅くまで「じゅく」に行っていて、わたしは五時までには家に帰らないといけないからあんまり会えないんだけど、でも朝に会えた時はあの笑顔で「おはよう」って声をかけてくれるの。
だいすきなおにいちゃん。
わたしがもうちょっと大人になったら、おにいちゃんもわたしを好きになってくれないかなって、ちょっぴり期待してた。
だけど、見ちゃったの。
おにいちゃんがきれいな女の子と歩いているところ。
見たこともないくらいしあわせそうな顔で、おにいちゃん笑ってた。
気づいたらわたし、すっかり暗くなった公園で、ブランコに座ってた。
なんだかすごくいっぱい泣いた気がするのに、なんでか涙は止まってた。
「……あれ?」
あんなに悲しかったのに、なんでかその気持ちがどっかに行っちゃって、早く帰らなきゃママに怒られちゃうってそれだけ考えて走り出したの。
走っているうち、なんとなくさっきあったことを思い出してきた。
あの時もおにいちゃんのあんな笑顔が見たくなくて、わたし走ってたの。
そしたら声が聞こえてきたの。歌うようにしゃべる、ふしぎな声。
“もし、そこのお嬢さん”
”なにか叶えたい願いはありんすか”
「叶えたい願い?」
振り返っても、誰もいなかった。でも声だけは聞こえてきた。
“わっちならそれを叶えてあげられんす。定められた星の運命を捻じ曲げることこそ、わっちの楽しみ――”
●
「子供の頃って、近所のやさしいおにーちゃんおねーちゃんに淡い初恋しちゃったりするよね。うんうん」
そう語るのは伽々里・杏奈(Decoterrorist・h01605)なる少女だ。
「小学生の女の子が、中学生のおにーちゃんに恋しちゃったの。でもおにーちゃんの方はカノジョがいるっぽいんだよね。そこまでだったら切なかわいいお話でハイおしまいなんだけど、√妖怪百鬼夜行の古妖ってやつはそれを悪用してくるわけよ。マジダルいよね」
ショックを受けた少女を言葉巧みに封印へといざない、願いを叶える代わりに封印を解かせてしまう。
「まだちっちゃい子だからねー。封印がどんなものかとか、封印を解くってのがどれだけヤバいことかなんてわかんないままやっちゃったんじゃないかな。ま、その古妖と戦って弱らせて再封印するってのがウチらのメインの仕事なんだけど……」
うーん、と杏奈は難しそうな顔をして腕を組む。
「その女の子が古妖の封印を解いた時の記憶がちょっと曖昧っぽくてさ。古妖がどこにいるかわかんないんだよね。そいつが派手にやらかしてからじゃ遅いじゃん? だからまずは女の子と接触してその時の事を聞いてきて欲しいんだ。
……でもきっと、女の子もそのうちわかっちゃうよね。自分がした事がどんだけヤバいかって。だからついでにその子のケアもしてあげられるともっといいんじゃないかなってウチは思うよ」
第1章 冒険 『彼、彼女は何故封印を解いてしまったのか』

●
ふむふむ、と少女は状況を整理する。
「一先ずは古妖が封印されていた場所を探る感じですかね?」
少女——真心・観千流(真心家長女にして生態型情報移民船壱番艦・h00289)の視線の先には、小走りで帰り路を急ぐ“彼女”の姿があった。
「ちょっといいですか〜」
気楽な様子で声をかける。女の子は特に警戒する様子もなく観千流を振り返った。
「わたしに、何か用ですか?」
「お姉ちゃんこのあたりで願いを叶えてくれる女の人を探してるんですけど何か知りません?」
「願いを、かなえてくれる……」
女の子が何かを思い出すように視線をさまよわせた。すかさず観千流は解析波を、|極小物質《ナノ・クォーク》を彼女の脳裡に滑り込ませる。
それは観千流が√能力者であるゆえの欠落——失われた過去の移民船だった頃、世界を安全に渡るために備わっていた機能の応用だ。そして記憶とは電気信号。不自然に欠けている部分があったとて、消えてしまったわけではない。回路を繋ぎ、会話という刺激も加えれば、自然と道は繋がる。
「……わたし、その人に会った気がします。願いをかなえてくれる人」
ビンゴ。観千流は青い瞳を細めた。
「そうなんですねー、どんなことしたら逢えるんでしょ~?」
「……強く、願った気がします。そしたら、声がして。私を――じゃなかった、なんて云ってたかな。わっち、そう、自分の事わっちって云ってました。ふしぎな云い方ですよね。わっちを目覚めさせてくれたら、願いを叶えてあげるって」
「そのお願い事、叶いましたか?」
観千流はあくまで明るく笑顔のままだ。けれど少女はどきりとしたように身を竦ませる。
「……どうなのかな、まだ確かめてないから」
何か後ろめたいことを隠すようなそぶりだった。恋の願いごとをしたというのが恥ずかしいのか、あるいはもっと別の理由があるのか。
いずれにせよ、これ以上深く追求するのは警戒心を与えてしまうと観千流は判断した。
「そっか。叶うといいですね~」
にぱっと明るく笑い、観千流は話を切り上げる。
「お姉ちゃんも強くお願い事をして、声をかけてもらえないか試してみますね! 教えてくれてありがと~です!」
ひらひらと手を振って少女を見送り――ふと、何かに気づいたかのように「あっ」と声を上げる。
「最後に一つだけアドバイス。『妻妾同衾』という言葉を調べなさい……諦めたらそこで試合終了ですよ!」
「さいしょー、どーきん、ですか?」
「そうそう、可能性は無限大、なのですよ!」
きょとんとする彼女に背を向けて、今度こそ観千流は去っていった。
●
歩く。もうひとつの足音もついてくる。
止まる。もうひとつの足音が止まる。
また歩き出す。足音が動き出す。まるでそうするのが当然というように。
「……おい」
「何だ?」
「何でお前がこの依頼についてくるんだ?」
訝しがるように青い目を顰める男に、一回り若いもう一人の男がククッと喉を鳴らす。
「『アダン、この敵はうちの管轄外だって言っただろう?』」
「……あ?」
若い男――アダン・ベルゼビュート(魔蠅を統べる覇王・h02258)に口調を真似されて、青い目の男――静寂・恭兵(花守り・h00274)はますます怪訝そうになる。
「以前、其の様な言葉を俺様に投げ掛けたのは一体、誰だったのだろうな?」
「……」
「まさか、お前から別√の依頼に志願するとはどういう風の吹き回しだ、我が同盟者よ?」
あまりにも珍しかった故な、勝手に付いて来たぞ。けらけらと揶揄うような物言いに、恭兵は静かに溜息を漏らした。
「前は確かに『管轄外』の仕事に手を出さなくていいと言うようなことは言ったが……今回は気が変わった……」
「ほう?」
「幼い恋心を利用な……こんな性根の悪いことをするのはあの古妖だろうと思ってな」
けだるげな双眸に、静かな怒りがちらと覗く。
「どんな小さな子供の『恋心』だろうが利用なんてするもんじゃない」
「……恋慕の情か」
魔界の覇王を自称する食えない男は、同業者のそんな様子に気づいているのかいないのか、そう呟いた。
「まあ、傷心につけ込むやり口は気に食わぬ」
「だろう? 子供は子供なりにちゃんと恋してるんだよ……俺だって今も……いや」
脳裡を過ぎったのは、自分の盾となって散る筈だった存在。時が来れば名のようにぽとりと落ちるさだめだった――いや、そうさせないと誓った。
「何でもない」
こほんと咳払いをする。アダンは相変わらずどこか楽しそうな様子で辺りを見回すばかりだ。それは彼なりの気遣いなのか、それとも単に事件の先に居る強敵にしか興味がないのか。
「お、あの少女だな」
「ああ」
小走りで駆けていく少女の姿。二人は先回りして少女の前に立ちはだかった。
「もし、そこのお嬢さん」
「わたし、ですか?」
突然声を掛けてくる男二人。小さな少女であればそれだけで威圧感を覚えるだろう。ましてやその相手が警察手帳を見せて来たら、大きく目を見開いて驚くのも無理はない。
「……え」
「俺達はこういう者でね。少し話を聞きたいんだ」
そこにあったのは|警視庁異能捜査官《カミガリ》なる耳慣れない肩書だったか、あるいは何か偽装された所属だったか――とにかく“怪しい者ではない”と少女を信じさせるのに一定の効果はあった。引き換えに彼女が緊張してしまうのも感じたが、それはいくらでもやりようがある。
「なにか、事件があったんですか?」
「まだわからぬ」
「……わからないんですか?」
「秘密の捜査でな」
しい、と人差し指を立ててみせる。
「大きな事件になる前に封じ込めたい。その為に情報が必要なんだ」
「帰路──ではなく。帰り道の途中の様だが、其の前にお前は何処にいた?」
「え? えと……最初は友達の家で遊んでて。あっちのほうにあるおうち。帰ろうとして、それから……」
「例えば公園以外、普段ならば寄らぬ場所……心当たりは無いか?」
「……行きました。でも、どこだったかわからなくて……」
恭兵が目配せし、アダンも頷く。
「呼ばれた、んです。声がして、それで……」
「それで?」
「……ええと」
「何かの封印……祠なんかを壊したりしなかったか?」
「……」
戸惑うように少女は俯いてしまった。
「怒ってるわけじゃない。君を利用した悪い奴がいるだけだ」
穏やかに恭兵は云い添える。それでようやく、少女は口を開いた。
「やっぱり、いけないことだったんですか」
「何か、したんだな?」
「……石を、どかしました。そんなに大きいやつじゃないんですが、縄みたいなのがぐるぐる巻いてあって、それを動かしたら」
「動かしたら?」
「……お願いを、叶えてくれるって」
少女はそう云って、ぶるっと身震いをした。
「あの、わたし、逮捕とかされちゃうんですか」
「まさか。さっきも云った通りだ。悪いのは君を利用した奴であって、君じゃない」
「そういう事だ。石を動かしただけの童を逮捕する警官など存在するものか」
ぽん、と少女の肩に手を置いた。
「何にせよ有益な情報だ。感謝する」
大きな手が離れていって、少女はひとり取り残された。
――生温い風が、駆けていった。
●
恋というものは、どうしてこうも人をときめかせるのでしょう?
西行・小宵(さくらのこ・h04860)の心を惹きつけるものといえば、もっぱら恋愛にまつわる事だ。|人様《よそさま》の恋はもちろん、小説の中に綴られるロマンあふれる恋愛事情にも心躍らせる日々を送っている。
「封印を解いてしまった少女のお話を聞いたわ。年上のお兄さまに恋する切ない少女の恋物語……! 乙女の淡い恋心……わかる、わかるわ。この間年の差恋愛モノの小説読んだばかりだもん!」
だから今回の話を聞いた時、小宵はいても経ってもいられずに飛び立ってきたのだ。
「そんな乙女の、しかも幼気な少女の願いを悪用するなんて許さないわっ! この『西行妖探偵事務所』の西行 小宵も力になります!」
健気な恋が悲劇の幕を開けてしまうなんて、あってはならない。噂の少女を見つけたら、さっそく小宵は彼女のそばに歩いていった。
「こんばんは。これ、あなたの落とし物?」
手のひらに乗せて見せたのは小さな桜の髪飾り。可愛らしい色合いで、いかにも少女くらいの年頃の子が好きそうなものだ。さっきこの公園で拾ったのだけれど、と小宵は云い添える。少女はそれを覗き込んで、ふるふると首を横に振った。
「わたしのじゃないです」
「あら、違うのね。ごめんなさい」
「でもそれ、すごくかわいいですね。落とした子、きっととってもショックだろうな」
小宵はぱちくりと目を瞬かせ、それから微笑んだ。
「そうね」
恋する乙女は心根の優しい少女のようだ。これはますます応援したくなるし、見過ごせないというものだ。
「落とし主が帰ってきた時に見つけやすいように、ベンチに置いておこうかしら。……ねえ、もうひとつ聞いてもいい?」
「なんですか?」
「帰り道に不思議な声をきかなかったかしら?」
少女はどきりとしたように身体を強張らせる。
「……やっぱり、わたしがしたのは悪いことだったのかな……さっきも、警察の人が来てました」
「あなたが悪いわけじゃないわ。絶対に! でもこのままじゃ悪いことが起きるかもしれない。だから教えて欲しいの」
記憶を更に辿るように、少女は少し考え込んでから口を開いた。
「神社に、誘われました。あっちのほう、だったかな……」
指差す方面はただの住宅街にしか見えないが、あちこちに封印があるゆえ次元の接続が奇妙にねじ曲がっているのもこの√の特徴である。
「あっちね。ありがとう」
柔らかく笑んで、小宵は帰路に就く少女を見送った。――どうか彼女に、しあわせが訪れますようにと願いながら。
●
何人もの大人たちがやってきて、少女に質問をしてきた。
声を聞かなかったか。普段と違うところはなかったか。
――何か、しなかったか。
その誰もが彼女を責め立てることはなかった。けれど。
「……わたし、やっぱり悪いことをしちゃったのかな」
「いいえ」
漏れ出た独り言は即座に否定される。驚いて見回した視界に、彼女より年上の少女が飛び込んできた。ちょうど、“おにいちゃん”と同じ年頃だろうか。
「好きになってしまうのは、誰にでもある優しい気持ち、だから、一人で抱え込んじゃダメだし、それを他の誰かに叶えてもらうものでもないわ」
澄み渡った空のように鮮やかな青い目をした少女が、にぱりと笑みを向けてくれている。彼女――捧・あいか(いのち短し弾けよポップスタア・h03017)の眼差しは、なぜか全てを見透かしてくるようだと少女は思った。
「どこかに行ったの。そこで、石を動かした……みんなはわたしが悪いことをしたわけじゃないって云ってくれるけど、やっぱり悪いことが起きそうな気がしてきたの」
「じゃあ、一つ一つ思い出してみましょう? ――心が痛い時、迷う時、焦る時、暗い昏い森にいるような時には気を付けて……」
大丈夫。あいかの言葉は、いつのまにか歌うような響きを纏っていた。
「お姉さんが一緒に歌ってあげるわ、『リドル・リドル』なぞなぞ詩を口ずさんでみて」
はじめてでも口遊める、簡単で、ふしぎな詩。いつの間にかそれは、周囲の迷える魂たちを集めて、きゅっと固めてたまごにしてしまう。
そこからうまれた存在は、まるでほんとうに生まれ変わったかのように知性を得る。無意識に漂っていた時に見ていたものをあいかに教えてくれる。
不思議な声にいざなわれて、ふらふらとさまよう少女。住宅街を抜けて、歩いて歩いて、いつしかその足取りは人気の少ない森の中。古びた鳥居のその先に、——それはあった。
「でも、全ては思い出す必要はないわ」
ピッと卵に口を指先で噤む。この先にはきっと、忘れていた方がいいこともある。
その証拠に少女は不安そうな表情を浮かべてしまっている。
「大丈夫、怖いことはもうおしまい」
励ますように、あいかはその肩に優しく両手を添えた。
「ここから先は、自分の言葉で紡いでいくの、あなたはひとりぼっちじゃないから」
「自分の、言葉で?」
「ええ」
あいかは微笑む。
「好きになるのは誰にでもある気持ち。でも、あなたの好きは、あなただけのものだから」
●
少女から情報を聞き出すのはいいとして。
「……素の俺だと、小学生女子相手じゃちっとばかし怖がられるかも知れねえな」
そう呟くのはカデンツァ・ペルッツィ(星を見る猫・h01812)という名の男性である。歳は十七で、表向きは魚を捕って暮らしているが、必要とあらば他者を殺める事もある。そんな、……猫である。
喋る猫自体は妖怪たちが住まうこの世界では珍しくないかもしれないが、口の悪さという点ではちょっぴり自覚がある。
「しゃあない、演技すっか」
二足歩行のまま、カデンツァは少女に近づいていった。
「にゃあ、そこのおねえさん」
鳴き声まじりの愛くるしい人語を喋る、ふしぎな愛くるしいネコチャンの完成である。――なんかこんなヤツ、昔話にいたな。密かに読書をたしなむカデンツァは思うのだった。
「猫ちゃん? わあ、かわいい」
少女は驚きというより興味で目をまんまるにした。懐に飛び込む作戦は成功らしい。
「おねえさんはなにかねがいごとをしたのかにゃ? ぼくも、ねがいごとかなえてもらいたいにゃ! どうしたらいいかにゃ?」
けれどカデンツァがそう訊くと、少女は何かを言いよどむように目線を逸らしてしまった。
(「……ん?」)
なにか失敗したか? カデンツァは訝しむ。
「……あのね、猫ちゃん。おねがい、叶えてもらわないほうがいいかもしれない」
「どうしてなのにゃ?」
「よくない事が、これから起きるかもしれないんだって」
「よくないこと?」
分からないというようにカデンツァは聞き返す。
「神社で、石を動かしたの。そしたら女の人が出て来て、願いを叶えてくれるって云ってたんだけど――」
「その、おねがいごときいてくれるひとが、わるいやつってことなのにゃ?」
「そうなのかも知れない。お兄さん達が教えてくれたの」
「おねえちゃんにそいつのことをきいてきた人たちは、なんていってたにゃ?」
「よくない事を起きないようにしてくれるって。だから大丈夫だって」
口ではそう云っているが、少女は不安そうだ。
「じゃあ、きっとだいじょうぶにゃ。しんじるにゃ」
俺も古妖を必ずとっちめてやるからよ。心の中でカデンツァは呼びかける。
「……わたし、ただ、おにいちゃんが大好きなだけなのにな」
切実な呟き。カデンツァが金の眸をすがめる。
(「ほろ苦い初恋あるあるなだけなのに、ヤベーことの片棒担がせるたぁな」)
今にも泣きだしそうな少女を放っておけなくて、つい演技も忘れて呟いてしまった。
「……撫でるか? 俺のこと」
云いきらないうちに、小さな身体は少女に抱き上げられていた。
「あったかいね、猫ちゃん」
震える手に力が籠る。
(「……しゃあねえな」)
彼女が落ち着くまで、大人しく愛らしいネコチャンのままで居続ける事にした。
●
かつて、単身でひとつの√世界を守り抜いた正真正銘の『神童』がいた。
しかし少女は戦いの末に√能力を失う。栄光と、そして身体の自由と引き換えに、ようやくひとりの人間としての幸せを、最愛の兄との生活を手にした――はずだった。
(「すっかり筋力が落ちていますね。半年近く全身麻痺だったのだから当然でしょうけれど」)
地に足をつけて歩く事すら、最初は覚束なかった。とはいえジュヌヴィエーヴ・アンジュー(かつての『神童』・h01063)はすぐにその感覚を取り戻した。
(「脊髄からの全身麻痺を何でも無いことのように治してしまう√ウォーゾーンのサイバネティクス技術には驚かされました。私はもう√能力者ではありませんが、大恩を受けた身なれば、人助けのひとつやふたつはこなしましょう」)
新たな形で争いに携わっていく彼女の前に姿を現わしたのは、叶わぬ恋を抱いてしまったという少女だ。歳の程はジュヌヴィエーヴとそう変わらない。
不意に、少女が不思議そうに視線を上げた。ジュヌヴィエーヴが操る|浮遊砲台群《ファミリアセントリー》の不規則な動きに目を奪われている。
「これが気になりますか? ただの玩具ですよ。触ってみます?」
「かっこいいね。クラスの男の子たちとかこういうの好きそう」
これが本物の武装であるなど思いもよらないのだろう。警戒心もなく砲身を触る少女に、ジュヌヴィエーヴは言葉を投げかける。
「もう何度も聞かれているかもしれませんが――あなたがどこで何をしたか、何者の声に従ったのか、その顛末までしっかり思い出してみてください」
少女は目を丸くした。ジュヌヴィエーヴの透き通るような白い貌、赤い双眸が真っ直ぐに見つめてくる。
「あなたは……」
「まずあなたの移動経路を辿りましょう。どこで声を聞きましたか?」
「友達の家で遊んでて、帰って来る時におにいちゃんに逢って――」
少女は語る。恋破れ、ショックを受けている時に声がした。願いをかなえてくれるという声に導かれ、知らない神社に足を踏み入れた。そこで古妖の封印となっていた石を動かしてしまったのだという。
「綺麗なお姉さんが出て来て、“願いは叶いんした”って云ったの。それで――気が付いたらこの公園にいたの」
「そうなのですね。教えて頂きありがとうございます」
「あのっ」
神社に向かおうとするジュヌヴィエーヴに、少女が声をかけた。
「何か?」
「お兄さん達がいってたの。悪いことが起きる前に解決するから大丈夫だって。……あなたも、そうなの?」
自分と歳の変わらぬ少女が、なんらかの脅威に立ち向かおうとしている。少女はそれを感じ取ったのだろう。
「御心配には及びませんよ」
それだけを答え、かつての神童は去っていく。
そう。かつてのような力がなくとも、彼女は戦う。
最愛のお兄ちゃんとの生活を守るためなら、何度だって――。
●
おまわりさんという言葉から少女が想像するのは、制服をきっちり着こんで、真面目で誠実そうな、そんな人物像だろうか。
「どもー! コンバンハ、オマワリさんですよぉ!」
だから目の前に現れたその人物に、少女は呆気に取られていた。軽薄そうな態度。軽薄そうな言動。でも多分おまわりさんには違いないのだ。だって手に持っているのは正真正銘の警察手帳だ。それがちゃんと見えるように屈んでくれている辺り、少なくとも悪い人ではないらしい。
「え、あの……」
「最近この辺ちょーっと物騒みたいだからね、おうちまで送るよ!」
男の警察手帳には逝名井・大洋(TRIGGER CHAMPLOO・h01867)と書かれていた。冗談みたいな名前の彼は、公園の自販機を見て足を止める。
「んーボク喉乾いちゃったなぁ。キミは、なに飲む?」
「……えと」
「あ、知らない人にお菓子とか貰っちゃいけませんって云われてるよね? だいじょーぶ、一応ちゃんとしたオマワリさんだし。何かあったらウチの課にクレーム入れて貰ってイイからさぁ」
けらけらとやはり軽薄そうに笑っていた男が、ふと真顔になる。
「おねーさん眼のとこ腫れてるよ」
冷やす? 買っていたサイダー缶を差し出され、少女はおずおずと受け取った。
「……ありがとうございます」
「それにしてもさ、恋愛にマジ歳とか関係ないよね」
そう切り出されても、少女はあまり驚かなかった。おそらく何人もの√能力者達に話を聞かれているからだろう。
「想ったようにいかなくてしんどい瞬間って誰でもあるじゃん? ボクが赦せないのはそこに付け込むヤツの存在かな」
――ねえ、おねーさん、甘言みたいなのどっかで聞いた覚えない?
大洋の言葉に、少女は状況を説明しはじめた。願いをかなえてくれるという言葉にそそのかされて、見覚えのない古い神社に向かった。そこで注連縄の施されている石を動かしてしまったと。
「きれいな女の人が出てきて、これでお嬢さんの願いは叶うって、聞いた事ないような不思議な言葉で云ってました」
「そっか。騙したヤツはボクらがシメとくから……今夜はゆっくり休んでね!」
にぱっと大洋は笑んで少女を勇気づけようとした。けれど少女はみるみるうちに顔を蒼ざめさせる。
「……なにか、まだ心配なことがあるのかな?」
「お兄さん、……わたし、思い出したんです。女の人が云っていたこと」
「願いが叶うって?」
「その次……」
少女は言いよどんでしまう。
「大丈夫。キミを責めたりしないよ」
柔く笑んで、決して無理強いはしないように促す。何秒かの逡巡ののち、彼女は云った。
「“おにいちゃん”を誘惑してる女の人がいるんだよね、だからお嬢さんのおねがいごとは叶わないんだよねって、だから――」
――その人がいのうなれば、お嬢さんの恋は叶うと思いんせんか?
「確かにそう云ってたんだね?」
少女は、静かにうなずいた。
●
春陽の青年はまだ恋を知らない。想いを寄せられたことはあるけれど、それがどのような感情か理解は難しかった。彼の中で恋愛というものの定義は、綿毛よりもふわふわと曖昧なものだ。
それでもユオル・ラノ(メトセラの嬉戯・h00391)にとってひとつ確かな事がある。不安げな様子のあの女の子は、ユオルがめざめた時から一緒だった大切なお友達と同じ年頃だ。
(「だからあの子が悲しむのは寝覚めが悪いかな。出来る限り協力するよ~」)
といっても、いきなり声をかけては警戒させてしまうだろう。どうにか彼女から話しかけてもらえないかと考えた結果、ユオルは一つの案を思いついた。
夕陽に長く伸びるユオルの影。そこからそっと離れていく、ユオルの輪郭によく似た|影ちゃん《影業》がそっと女の子を追いかけて様子を伺う。街灯の下に少女が差し掛かろうとした時、ユオルは何気ない様子ですれ違いつつ、ポケットから財布をぽとりと落とした。
あっ、と彼女が屈み、財布を拾う。
「あの、おさいふ、落としましたよ」
「あれ? ありがとう、気付かなかったよ。助かったなぁ」
かがんで目線を合わせ、微笑みながら財布を受け取る。それからおやと眉を持ち上げてみせた。
「顔色が悪く見えるけど、何か困ったことでもあったのかな……?」
「えっ」
「お礼もしたいし、ボクでよければ力になるよ」
少女は少し俯いて考え込んでから、ユオルの目を見て云った。
「お兄さんも、あの女の人を止めてくれる人なんですか?」
「ん?」
「わたしが目覚めさせちゃった女の人が、悪いことをしようとしてるんです」
少女は堰を切ったように語り出す。
願いをかなえてくれるという言葉にいざなわれ、よく分からないままに神社の“封印”を解いてしまった。だがそこから現れた“昔風の服を着た、とってもきれいな人”は、恐ろしい事を云って消えていったのだという。
「あなたの願いを邪魔してるのは、お兄ちゃんの隣にいた女の人だから、その人がいなくなればいいよねって」
ぎゅ、と少女がスカートを握りしめる。
「わたし、そんな大変なことをすっかり忘れてたの。ただ願いがかなうんだって事だけ覚えてて、安心してた。あの人を大変な目にあわせちゃうかもしれないのに」
「そっか。話してくれてありがとうねぇ」
ひだまりみたいな双眸が優しく細められる。
「大丈夫だよぉ。君もその女の人も、悲しまないようにするから」
ひだまりみたいな不思議な笑顔に、少女はこくりと頷いた。
少女を見送って、ユオルは彼女に教えて貰った“封印”への道を歩み始める。
どんな怪異が待ち受けているのだろう。確かな好奇心を、穏やかな表情の裏に覗かせながら。
第2章 集団戦 『悪い百鬼夜行』

●
少女曰く。
恋破れ、駆けているうち、脳裡に声が響いたのだという。願いを叶えてくれると。
縋るように少女は声に従った。住宅街を抜け、奇妙建築のねじ曲がった次元から忘れ去られた神社に辿り着く。古い鳥居のその先にある、封印を施していた石をどかしてしまった。
そこから現れた存在は彼女に告げる。
お礼に願いを叶えてくれると。ただしそれは、少女の望む形ではなかった。
“お嬢さんの大切な「お兄さん」をそそのかす女の人がいるんでありんすね”
“その人がいのうなれば、お嬢さんの恋は叶うと思いんせんか?”
違うという声は届かず、気が付けば少女は公園のブランコにいた。記憶は曖昧で、「願いが叶う」という漠然とした安心感だけを残して。
だが少女は能力者たちと話すうち、その事実を思い出した。
そして云った。あの人を止めて欲しいと。
能力者達が神社に辿り着いた時、そこは少女の話とは少し様子が違っていた。
誰もいない古びた神社だったというそこは、今や多数の妖怪たちが群れを成していた。能力者達に気づいた彼らは一斉に敵意の籠った眼差しを向け、襲い掛かって来た。
だが能力者達はそれぞれの力——霊力や培った経験など――によって気づいただろう。彼らは封印されし狂暴な古妖ではない。現代に生き、人を愛し人と共存する心優しき妖怪、|百鬼夜行《デモクラシィ》たちだ。
おそらく古妖がなんらかの術で彼らを操っているのだろう。自分を守らせるために。
その証拠に群れの向こう、彼らとは比較にならないほどの妖気が漂っているのが感じられる。
妖怪たちは人間よりも身体が丈夫だ。倒せば洗脳を解く事ができるだろう。素早く彼らを古妖の呪縛から解き放ち、元凶へと辿り着かねばならない。
●
往く手を阻むのは操られし百鬼夜行。ただ斃せばよいというのであれば真心・観千流(真心家長女にして生態型情報移民船壱番艦・h00289)にはいくらでもやりようがあるが、相手が善良な民というのであれば話は別だ。
「いくら頑丈でも私の攻撃だと結構な確率で事故が……」
何せ見た目は愛くるしい少女でも正体は生態型情報移民船。その気になれば他√から一方的に狙撃したり原子核を破壊したりもお手の物だが、万一があっては困ると観千流は頭を悩ませる。
「ならばここで切りますか、切り札その一!」
ぱん、と大きく手を鳴らし、妖怪たちの注意を惹きつける。多種多様の姿をした彼らに共通しているのはその視線の鋭さだ。この神社に訪れるものは全員敵であり排除せねばならないと刷り込まれた目に一斉にねめつけられても、観千流はひるむことなく堂々と宣言した。
「下手に動かない方が良いですよ、『私は口にした言葉を現実にすることができます』」
妖怪たちの間に逡巡が漂った。だが彼らは観千流の言葉をハッタリだと判断したらしく、大きなつづらを飛ばしてきた。
「つづらよ止まれ」
だが観千流が声高らかに云い放った直後、精神を乱す大つづらは空中に縫い付けられたかのように動きを止めてしまう。妖怪たちの間にどよめきと驚愕が走った。
手を明かすのであれば、それはレコグニション・ジャマーで不可視となった量子干渉弾頭がつづらを撃ち抜いたことによるものだ。量子力学において観測とは結果を確定させる行為。ならばそれらに干渉できる観千流の観測が及ぶところは、いわば彼女の望む通りの結果へと導かれるも同然。
そして理屈を知らない妖怪たちにしてみれば、観千流の言葉そのものに絶対的な力が宿るのだと認識するだろう。そうなれば後は容易い。
「全員動くな! 跪け!」
絶対的な言霊を操る少女の元に、妖怪たちはすぐさま首を垂れて平伏した。彼らに直接武力を振るう事なく、この百鬼夜行を無力化してみせたのだ。恐るべき能力と言わざるをえない。だがそれを操ってみせた観千流は少々浮かない顔だ。
「うーむ。確かに便利です。便利ですが、思ったより使い所難しそうですねこれ」
強力な力は得てして代償を伴う。たとえば今回の√能力は、観千流が最初の観測者にならねばならないのだ。
これを今後どう活かしていくべきか。考えながらも観千流は先を急ぐのだった。
●
妖怪たちが群れを成す。彼らの放つ様々なにおいの奥に、ひとつ隠し切れないものがある。かぐわしい花の馨に隠された――強い野望の匂い。
「場所が判明したとてそう易々と姿を見せる程、愚かではない様だな」
「あぁ、やはりあの古妖の気配がするな。腹立たしい。アレにとっては少女の恋心なんてのは随分弄びやすかっただろ……」
二人の|警視庁異能捜査官《カミガリ》は目を細める。灰色の双眸をすがめたアダン・ベルゼビュート(魔蠅を統べる覇王・h02258)は獲物を見つけた獣のように。そしてもう一人、青い瞳の静寂・恭兵(花守り・h00274)は――。
「……静寂よ、珍しく殺気が漏れ出ているぞ」
ぴくり。アダンに指摘されて身を強張らせる。
「お前の心の裡に宿るもの。何が其処まで、お前を駆り立てるのかは知らぬ――だがな、其の熱は少々冷ましておけ」
平時の冷静を欠いては、付け入られるが故に。
ごもっともな指摘だ。恭兵は素直に受け止め大きく深呼吸をした。目指すべき目的はそのまま、付随する過剰な感情を押し込めるように。
「……すまない。少し落ち着いた……」
「うむ」
上出来だと頷いてアダンは視線を前方へ向ける。
往く手を阻むのは無数の妖怪たち。絵巻物に伝わるその名の通り、宵闇迫る境内に列をなしている。
みな個性的な姿をしているが、善良な存在だ。
「正気を失った百鬼夜行か……ならこちらも数で応えよう」
彼らが元に戻るよう祈りを込めて、恭兵の放つ式神は花の頭部を持つ異形たち。芽吹くように咲き誇っては舞い、妖怪たちを祓っていく。
反撃に放たれたつづらの爆風に巻き込まれ、冷静を失った個体が居れば下がらせた。数を減らすリスクを恐れる必要はない。彼ら√能力者が此度の作戦にかけた労力だけ、花は美しく顕現する。
操る恭兵の指示は的確、瞬く間に妖怪たちは気を失っていく。なるほど平静を欠くな、か。恭兵の気だるげな面立ちに、今更ながらに少々の自嘲が微笑の形となって現れた。
「普段の調子が戻ったようだな。しかしやりすぎるなよ静寂」
「何、式神は俺の強さだ、大事には至るまい」
「そうか。実にお前らしいな」
クッと喉を鳴らしてアダンが笑い、影を焔のごとく揺らめかせる。
それらが無数の武器を形成し、妖怪たちに一斉に牙を剥いた。
「百鬼夜行、恐るるに足らず! 我が軍勢の前にひれ伏すがいい!」
琵琶牧々が羽影の光線に焼かれ、提灯お化けが弾き飛ばされる。
抵抗する鬼火も猫又も、みなアダンの術の餌食となった。
相手が妖怪の群れならば、それを次々に屠っていくアダンはまさに数百の軍勢を率いる覇王そのもの。数を武器に連撃を繰り出す手段は一緒でも、その統制、その練度、何一つとして妖怪たちが、ひいてはその主がアダンに勝ることはなかった。
一方的な蹂躙とすらいえる光景に呵々と叫喚が響くさまは、なるほど確かに魔界を統べる者と大言壮語するだけのことはある。が、
「……むしろお前の攻撃の方が苛烈ではないか?」
先程冷静になれと云い聞かせて来た男のほうがよほど派手に暴れまわっているのだから、ついついそんな言葉が漏れてしまったのも仕方ない。
「俺様の攻撃が苛烈だと? 当然であろう、俺様を誰だと思っている!」
実に楽しそうな様子で自称覇王は笑う。恭兵はやれやれと肩を竦めるしかなかった。
「いや、お前らしくはあるが……」
斃せば洗脳は解けるとは聞いていたが、流石にやりすぎなのではないか。つい相手の身を案じてしまう恭兵であったが、地に伏している妖怪たちはみな気を失っているだけのようだ。人間たちを儚く尊いものだと愛する妖怪たちは、なるほど確かに√能力者のような不死性を持たずとも丈夫な存在であるらしい。
身勝手に本能の赴くままに動いているようでいて、アダンの術は極めて正確に妖怪たちの攻撃を掻い潜り、的確に彼らを仕留めている。
術の解けた花式神たちも合流し、妖怪たちにとりついて意識を奪っていった。
「さあ征くぞ、静寂よ。此の奥で嗤う古妖の鼻っ柱、共に圧し折りに向かおうではないか?」
「……ああ、そうだな」
ちいさな恋を玩ぶ、憎き元凶——或いは覇王を阻む愚か者の元へ。
●
少女に教えてもらった神社へと、西行・小宵(篝桜・h04860)は息切らせて走る。
辿り着いた先で出逢ったのは此度の元凶――ではなく、妖怪たちでごった返す光景だ。
「まあ、賑やか。……でも、様子がおかしいわ」
自身も妖怪の血を宿す小宵にはすぐに分かった。平和を愛する現代の妖怪たちが、揃いも揃ってこうも狂暴な殺意を滾らせていることなどある筈がない。
操られている。ならば黒幕は火を見るより明らかだ。
「それなら――“百鬼夜行、数には数を”ね!」
悪しき道へいざなわれてしまった|百鬼夜行《デモクラシィ》を救うのは、やはり同じ|百鬼夜行《デモクラシィ》に他ならない。小宵の願いを聞き届け、妖怪桜の郷を護る桜守たちが次々と終結する。鴉も猫又も、みな淡い桜色の姿をしていた。
「みんな、力を貸してもらえる? あの子達の洗脳を解きたいの」
護るべき妖桜の血と加護を継ぐ小宵の命を受け、桜のあやかしたちは力強く頷いて百鬼夜行と対峙する。
宙を舞う金魚が鬼火を繰り出した。夕闇に光るそれが小宵に辿り着く前に、桜猫又がしなやかに飛び出して前肢を振るい掻き消した。単身前に出た猫又へと妖怪たちが一斉に各々の手段で襲い掛かる。
「みんな……!」
小宵が短く叫んだのとほぼ同時、ひときわ体躯の大きな桜鴉が境内じゅうに響く大きな鳴き声を上げた。その鳴き声に従うかのように、桜鴉たちが猛然と翼を広げ飛び掛かった。
まるで花吹雪のような鴉たちの乱舞に、妖怪たちは視界を奪われ立往生。一本足の唐傘おばけが足を取られてすってんころりん、懸命に鴉たちを襲おうと首を動かしていたろくろっ首は気づけば自分の首が絡まってきゅうと苦しそう。急須の妖怪が頭にクリーンヒットして、さすがのけらけら女もこの時ばかりはしくしくとすすり泣くばかりだ。
「もう! 優しい良い子たちを操るなんて」
やられる時もどことなく愛嬌のある彼らの姿に、小宵は眉を吊り上げた。
「これはお灸をすえなきゃだわ!」
絶対許さないんだから! むんっと怒りのメーターは急上昇。妖怪たちの群れをこじ開けながら、奥に潜む元凶の元にひた走る。
●
世界が変われば、そこに住まう生命の在り方も変わる。
「これが『妖怪』というものですか。私たちの√では見ない生き物です」
ひとつの在り方として括るにはあまりに多種多様な彼らであるが、制圧対象という点においてジュヌヴィエーヴ・アンジュー(かつての『神童』・h01063)にとっては同じ事だ。叩き伏せれば正気に戻って、大した怪我も無しというなら、気も楽というものである。
「これより制圧戦を開始します」
浮遊砲台群を展開させながら、月光のように透徹とした声で彼女は宣言する。
――もし、ジュヌヴィエーヴにかつての力のほんの一部でもあったのなら、文字通り一瞬でその目的は成されただろうか。だがそれが何だという。それを惜しむような精神構造であったのなら、栄華を失ったこの体で今更戦場に戻るはずもない。
あの頃とは程遠い力で、しかしあの頃と同じ冷静な分析を以て、ジュヌヴィエーヴは月の女神の名を宿した砲台からのビームを妖怪群へと照射する。青白い光に焼かれた彼らはめいめい悲鳴を上げて散って行ったり、逆上して何かを投げつけてきたりした。
「――はっ、『妖怪料理』とな?」
一瞬、それが何であるのかもわからなかった程の代物だ。どす黒い塊から、辛うじて焼いた肉のような香りがした。これなら病院の流動食の方が百倍ましだ。少なくとも栄養面で完璧であるという点においては。
制御したインビジブルを盾に料理を退ける。ソースのようなものが撥ねてジュヌヴィエーヴの白い頬にかかった。それだけでなんともいえない香りが漂ったが、彼女は眉一つ動かさずにアルテミシアを操作し続けた。洗脳され自我を失っているはずの妖怪たちが、ぎょっとした様子で彼女を見る。
「成程。食らわせるのが好みか。ならば私からは」
砲台が一斉に動き、妖怪たちをねめつける。
「『弾幕』をくれてやる。とくと味わえ」
直後放たれた光の雨は、熾烈の一言だった。
●
夕闇に包まれた神社に、妖怪たちが列を成している。
「普通の妖怪? 操られているの?」
古妖の新たな被害者に、捧・あいか(いのち短し弾けよポップスタア・h03017)は眉を顰めるけれど。
「ごめんなさい、でも、私も約束したから、誰かが悲しい思いをしなくてもいいように……」
大切な好きという気持ちを大切にして欲しいから。
しかし古妖の強大な力に洗脳されてしまった妖怪たち相手に、ただ言葉にするだけではきっと届かない。胸の裡にある大切な思いは形にしなければ届かないのに、それはいつだって難しい。
だからあいかはマイクを握り、歌う。デコレーションたっぷりのスマートフォンをシェイクすれば、足元に展開されるA・カペラ音楽魔法陣はきらびやかなステージのよう。
マイラプソディにチューンを合わせて、解き放つ感情は願いの反戦歌——『マイ・ベスト・ヰッシュ』。
紡ぐたびに心に響くおねがいごとは、言葉にするには軽すぎて、祈るには頼りなくて。でもあいかには歌がある。みんなを元気づける歌、今はこの声が届く範囲にしか届かないけれど、いつか電波に乗せて沢山の人に届けたい。
みんな、帰るべき場所があって、本当の自分を思い出して欲しいこと、誰かを愛する気持ちこそが世界を救うんだって。
とびきりの笑顔で紡がれるとびきり希望に満ちた詩は、強固な鎖に捕らわれた妖怪たちの心も少しずつ解きほぐしていく。
動きを封じる奇怪な料理を振る舞おうとしていた妖怪が、配膳の手を止めてあいかの歌声に呆然と聞き入っていた。彼だけではない。今や他の妖怪たちも、みな等しくあいかの観客だ。
しかしその表情の奥に、あいかは葛藤を感じ取った。彼らの中ではまだ古妖の洗脳が根付いている。ふたたびそれが牙を剥くのも時間の問題なのだろう。
だがあいかは同時に確信していた。ヒトという儚い存在を慈しむ彼らは、ヒトの作った歌もまた愛してくれている。古妖を打ち倒した時、きっと彼らに歌は届く。真の意味で。
●
「てかさぁ、」
褐色の奥、二つの赤が妖怪たちの群れを油断なく見回している。
「対抗馬を消せば勝てるとか温くね? 古妖マジ恋愛舐めてるっしょ」
妖怪ちゃん達もそう思わない? 逝名井・大洋(TRIGGER CHAMPLOO・h01867)の軽口に、残念ながら自我を奪われた妖怪たちが答えてくれる様子はない。やれやれと愛用の二丁拳銃を構え――そこで首をひと傾げ、ふた傾げ。
「的が多いなぁ」
ひとりひとり丁寧に|狙撃《お相手》していけだなんて、不可能だとはいわないが骨は折れる。それに何より今は時間が惜しい。
「そーだ!」
瞬足の神の名を冠したシューズで地を踏みしめ、鎖を引き千切った犬のように大洋は走りだした。持ち前の脚力に霊力まで宿した脚は、文字通り弾丸のような走りを可能とする。宙を舞う妖怪も足が自慢の妖怪も、今の大洋には追い付けない。
文字通り韋駄天となった男を、狼の頭部を持った妖怪が待ち伏せていた。大洋は敢えて避けず真っ直ぐに突っ込んでいき、跳ね上げるようなハイキックをお見舞いする。低く呻いて吹っ飛ばされていった妖怪は地面に転がり気を失った。
パフォーマンス気味に派手に披露した蹴りが妖怪たちの間にどよめきを広げる。束になってかからないと勝てないと見たか、ある者は手にした武器で、ある者はその妖力で、文字通り夜行の列を成して一斉に攻撃を仕掛けてきた――だがそれこそが大洋の狙いだ。
「よいコの皆はお座りしましょうねぇ!」
した手のひらから放った霊派は、特大の地震の如き揺れとなって群れを包み込む。つんのめり、しりもちをつき、すっ転び、妖怪たちはみな一斉に身動きが取れなくなった。
「チャンスだよー、今のうちにガンガンぼこってこー!」
味方に好機を申告しつつ、空中浮遊で地震の影響を受けない妖怪たちをANARCHYで撃ち抜いていく。勿論急所はバッチリ避けての上だ。“イク”にはまだ早い。
動けなくなった妖怪たちは手錠をかけておく。かわいそうだが完全に洗脳が解けるまでは安心はできない。
「確保~!」
警官らしいセリフが、警官らしからぬ容貌から零れた。
●
妖怪たちが群れを成す。
一反木綿に唐傘お化け、器物や動物の姿をしたものもいる。
「う~ん、困ったなぁ。あの子たち、どう見ても操られてるよねぇ」
さてどうしたものかとユオル・ラノ(メトセラの嬉戯・h00391)は頭を悩ませる。見た目で油断するわけではないけれど、やたら可愛い子もいるのが余計にやりづらい。
もう少し戦い慣れていたら手加減というものもできるのかな。そう思いはしたが、無理なものは仕方ない。いつものように全力で――けれど耀くメスは仕舞っておくことにした。それを可能にする道具があったら、中身まで見たくなってしまうから。
代わりにメスと同じ色のオーラを纏い、ユオルは駈ける。ゆるやかな雰囲気の青年が動き出した瞬間、妖怪たちは一斉に目を剥いた。消えたとしか思えない速度だった。
直後、幽霊のような姿をした妖怪が吹き飛ばされ地面にくずおれる。脚を高く上げたユオルの姿に、それが彼の蹴撃によるものだと妖怪たちは遅れて理解した。
慌てて奇怪な料理を作って投げつけてきても、彼を捉えることはできない。そして俊敏な青年に気を取られている妖怪たちは、音もなく足下に迫るもうひとつに気づくこともなかった。
千手の影。沼から這い出るように姿を現わして、妖怪たちの頸をぎりぎりと締め上げる。
「気絶させるだけ。やりすぎはダメだよ」
苦しそうにもがく妖怪たちが白目を剥いて脱力する。ちょっと可哀想だな、とユオルが眉を落としていると、その光景を見ていた気の弱そうな妖怪が恐怖の臨界点に達したのかへなへなと倒れ込んで気を失っていた。
「少しだけ眠っていてねぇ、後できれいに直してあげるから」
気絶した妖怪たちを見降ろして、優しく微笑む。おや、と目を瞬かせたのは、彼らが何やら一生懸命作っていた料理の鍋が地面に転がっていたからだ。しかしユオルが近づくと、地面に落ちた分もなべ底に残っていた分も、みんな跡形もなく蒸発してしまった。
「……食べてみたかったなぁ、妖怪料理」
微かに残る、嗅いだことのない刺激的な匂い。彼らが正気に戻ったら頼んでみようかな――探求心で動く青年は思うのだった。
●
妖怪たちは困惑していた。
敵対する奴らを一人残さずやっつけてやろうと意気込んでいたら、二足歩行の猫が現れた。猫又か何かだろうと思っていたら、そいつはおもむろに懐から液状おやつを取り出し、うまそうにペロペロとやり出したのだ。
なんだあいつ。やる気あんのか。さあ? 妖怪たちは無言でジェスチャーを交わす。あいつ、単に神社に迷い込んだ一般妖怪なんじゃないのか? どうする? 追い払う?
「……ん?」
視線を一身に浴びている事に気が付いたネコチャン――もといカデンツァ・ペルッツィ(星を見る猫・h01812)が顔を上げた。
「これか? あ、遊んでる訳じゃねえぞ! これも√能力発動のために必要なんだって!」
遊んでる訳でも迷い込んできた訳でもなかった。シンプルに敵だった。
やっちまえ! 妖怪たちが色めき立って大つづらを放つ。
「あ、お前なにサボってんだ」
「あのおやつ美味しそうだにゃ~、羨ましいにゃ~」
「くそ、猫系のやつらが軒並み使い物にならなくなってるぞ!」
そんなひと悶着もありつつ大つづらを放つ。
「甘いな、もうチャージ完了だ」
ニヒルに笑ったカデンツァが走りだした。爆発するつづらを掻い潜り、懐に飛び込んで渾身の|一撃必殺《ネコパンチ》を放つ!
ねこまっしぐらなおやつでブーストされたその威力、平時のなんと十八倍。
吹っ飛ばされた妖怪が他の妖怪にぶつかってさらに吹っ飛んでいき、一撃で妖怪たちの群れは壊滅状態だ。
「爪出さずに肉球で勘弁してやるあたり、俺も丸くなったもんだよなあ」
うんうんと頷くカデンツァ。
「さァて、まだ蹴散らされたい奴はいるか? 大人しく道を譲ってくれるってんなら見逃してやるぜ」
渋く云い放つ。先程パンチの洗礼を受けた妖怪がぱくぱくと口を開いた。
「あ? まだ何か云いたい事があるのか?」
妖怪はカデンツァの口元を指差す。なんだ? 舌で舐めてみると先程のおやつがついたままだった。
「こいつぁご丁寧にどうも」
拭き拭きしている間、カデンツァに歯向かって来る妖怪はもういなかった。おやつを拭き、いつものイケネコチャンに戻ったカデンツァは元凶の元に向かうのだった。
第3章 ボス戦 『星詠みの悪妖『椿太夫』』

●
操られし妖怪たちを斃し、訪れた社の奥。
ふと、花の香りが強くなった。夜の帳が降りた中でも鮮やかに映える赤が姿を現す。
「やはり来てしまいましたか。主さん達を退けるために手を尽くしたのでありんすが」
艶やかな唇が笑みを作る。くつくつと喉を鳴らす女の胸元、鮮やかな椿が共に揺れていた。
「しかしここまではわっちの「星詠み」の範囲内。問題はわっちと主さん、どちらが勝つかという事でございましょう――なに、わっちに星を詠む力があるのは、定められた流れを捻じ曲げるためでありんす」
妖艶という言葉の意味するものを惜しみなく振りまきながら、女は続ける。
「叶わない恋も、封印の宿命も、すべて」
彼女こそが『星詠み』の力を有する強力な古妖、椿太夫。その悪辣ぶりに封印を施されながら、今もなお目敏く人々の情念を追い、利用し、復活を企てる悪妖。
雪のように白く澄んだ思いを、ぽとりと落ちた椿があかく塗り替えていくように。
彼女を放置しておけば、全盛期のようにその美貌と悪意で惨劇を生み出し続けるだろう。それを防ぐためには今ここで女を打ち倒し、再封印せなければならない。
●
「主さん達が来ることは知っておりんした」
星詠みの力を宿す女は、目の前に現れた男二人を真っ向から見、告げた。
「わっちのゾディアック・サインが示した通り、大層な男前で」
「そりゃどうも」
軽口に付き合う気はないとばかりに返しながら、静寂・恭兵(花守り・h00274)は胸の裡が溢れそうになるのを堪えていた。
奴の所業への怒りも無論ある。しかし今の恭兵を掻き乱すのは、それとはまた違った類のものだ。
(「色が違うだけで花ってのはこんなに印象が違うもんなんだな……何度見ても俺は……」)
毒々しいまでに妖艶な赤。手を差し伸べたら散ってしまいそうに儚く美しい彼女と、同じ花だとは思えないほどに。
「……いや、知ってるんだよ。心から美しいと思える椿を……」
時が来ればぽとりと落ちてしまう花に、そのさだめを担わせはしないと誓った。
(「成程な」)
相棒の様子に、アダン・ベルゼビュート(魔蠅を統べる覇王・h02258)は十字架を宿した目元を眇める。
(「以前も感じたが静寂は彼奴の椿ではなく、別物を見ている様だ。であれば」)
「あの下卑た椿は疾く散らすぞ、静寂」
「ああ」
「思う存分暴れてくるがいい」
恭兵は少し意外そうに長い髪の下で目を瞬かせ、それから頷いた。
「叶わない恋心だとしても思い続けることも思いを告げることだって出来たんだ。それを弄ぶことなど誰にも許されない」
「無論だ」
アダンも頷き、魔焔を放つ。宙へと打ち上げられたそれは椿太夫の頭上で弾け、槍雨となって降り注ぎ始めた。
「おや、まあ」
視界を塞ぎ、檻のように獲物を閉じ込める炎の驟雨。その只中にありながら椿太夫は悠然と笑む。
「恐るべき力でございますね。しかし花を散らす雨なら、わっちが視た星の軌道にございんしたゆえ」
ふう、と女が煙管の煙を吐く。魔障宿した吐息が炎槍を掻き消していった。アダンが瞠目し、ちぃと舌打ちを零す。ならば、と影を巨大な杭打機へと変形させ不意打ちを狙うが、三つ歯下駄とは思えぬ身のこなしで椿太夫はひらりと躱してしまう。
「通じませぬよ。主さんの動きは全てお見通しでありんすから」
しかし直後、ただならぬ殺気に女は振り返る。そこには恭兵が立っていた。その手にあるは静寂家の宝刀。その身体に宿すは死霊の邪気。
「いつの間に――わっちの間合いまで」
「貴様を剪定するに相応しき者は俺様ではない。我が同盟者、静寂・恭兵である」
勝ち誇ったように覇王の哄笑が響く。恭兵を退けようと放たれた椿花も、アダンが割り込んで全てその身に受けた。身を蝕む痛みさえ、覇王にとっては無縁なものだ。
星詠みといっても万全ではない。椿太夫はアダンの攻撃こそ見切っていたが、炎槍が無力化される僅かな間に恭兵がそれを利用し距離を詰めてくるとまでは予想していなかったようだ。未来を視た優位性からの油断もあったのだろう。
「事前の約定通り、好機は作ったぞ。思う儘に散らしてやれ」
「ああ――椿として落ちる前に散れ」
その居合から放たれるのは、あの花のそばに帰るための絶技。
鮮やかな一閃が女の白い肌を裂き、どんな花よりも赤い血を迸らせた。
その鮮烈な光景に、恭兵は改めて思う。この花と彼女は、似ても似つかないと。
「約束通りだな……礼を言うぞアダン」
曼荼羅を納めながら目線を向ける恭兵に、アダンは当然だとばかり唇の端を吊り上げて応えるのだった。
●
敵は未来を詠む存在。
それを知って尚、真心・観千流(真心家長女にして生態型情報移民船壱番艦・h00289)の溌溂とした笑顔は揺らがなかった。
「星詠みですか……ふふ、知ってますよ。案外それ抜け穴が多いということを!」
「そうかも知れんせんね。未来は歪められる。それはわっちが一番知ってやすから」
そうでしょう、と女は笑う。観千流もにかっと白い歯を見せた。
「その心意気やグーッド! でもひとつ訂正するなら未来は歪めるものではなく、変えるものです! 希望に満ちる方角に!」
ナノ・クォークによるジャミングが空間を満たす。観千流の姿が女の視界から掻き消されていく。共に戦う√能力者たちの攻撃に紛れるように動けば、観千流の動きを椿太夫が捉えることは至難なはずだ。
だが女は、たったひとつの切り札をジャミング解除には用いてこなかった。どんなに姿を隠そうと、仕掛けてくる攻撃を妨害できれば関係ない――余裕に満ちた笑みがそう告げていた。
“定義づけ”から発現する疑似精霊の弾丸と、自在に曲がる叢雲の砲撃による弾幕が女を襲う。不可視の狙撃は、椿太夫がすっと身を引くだけで簡単に躱されてしまった。その筈だった。
しかし女が身を翻した瞬間、白い肩が爛れ、肉の焦げる匂いが舞い上がった。苦痛に呻きながら女は身を捩り辺りを見回す。しかし観千流の姿どころか、見えざる攻撃の正体すら女は掴めなかった。攻撃は尚も続く。
それは他√への攻撃をも可能にする観千流の力。ナノ・クォークの本領、霊能力者の再現兵器。
観千流が姿を隠し攻撃してくるという未来を詠み油断していた女は、失敗させた攻撃がブラフである可能性を考慮出来なかった。弾幕に回避先を誘導され、まんまと観千流の描いた未来へといざなわれたのだ。
●
ああ、どうにも――
「花の匂いが鼻をつく。幼子の恋心まで利用して、世を乱さんとする大本は貴様か。速やかに討滅してやろう」
「ふふ、幼子だなんて」
冷ややかに告げられても、女は実に愉快そうに肩を揺らすばかりだった。
「お嬢さんこそ、やっと|禿《かむろ》が務まるかどうかという年頃にしか見えませぬが」
その言葉が意味するところをジュヌヴィエーヴ・アンジュー(かつての『神童』・h01063)は知らなかったかもしれないが、どのみち見くびられているのは確かなようだ。
そして、かつて途方もない力を操る√能力者であった彼女は肌で感じられる。目の前にいる女と、自分との差を。
だがそれは余計な感情だ。|浮遊砲台群《アルテミシア》を思念制御で操りジュヌヴィエーヴは先制攻撃を仕掛ける。
こうして戦場に立っていると、どうしてもかつてのことを思い出す。それこそ無用な感傷だ。ジュヌヴィエーヴは首を振ってそれを打ち消し、ただひたすらにアルテミシアを手繰り続けた。
「面白い玩具でありんすね」
花の香りが強くなった。九重椿の惑わしがジュヌヴィエーヴを掻き乱す。
「っ、」
古妖のただならぬ妖力を絶え間なく浴び続ける彼女を護るのは、わずかなオーラの防御のみ。
能力を使い果たしたあまりに脆い身体で――それでもジュヌヴィエーヴは歯を食いしばって立っていた。
「はっ。なんだ、古妖とやらは……この程度か」
眩暈がする。視界がぐらついて、椿太夫の姿さえうまく視認できない。
だが致命的には程遠い。この程度の窮地なら、今まで何度も味わってきた。
それにあの噎せ返る程の花の香り――何よりあの邪悪な殺気を、視界を削がれた程度で見失うわけがない。
少女の瞳がきっと女を睨みつける。
ありったけの弾幕が、ジュヌヴィエーヴの決意の如く降り注いだ。
●
運命を手繰り寄せる力。
星に定められた未来を、己の望むままに変える力。
「私も1%の可能性があるなら、その人の努力を結実させる権能があるわ」
似ているのかもしれない。あの椿太夫と、捧・あいか(いのち短し弾けよポップスタア・h03017)と。違いがあるとすれば。
「本当に気をつけなきゃって思うわ。あの子、全然嬉しそうじゃなかったもの」
それはきっと、使い方を間違わなければとても優しい、とても素敵な力だ。
けれど例えば――あの少女が“おにいちゃん”に想いを告げた時、彼がほんの少しでも心を動かされたとしたら。そのほんの少しから強引に導かれるしあわせな未来は、少女にもおにいちゃんにもあまりにも不誠実だ。あいかはその怖さを知っている。星詠みの権能に驕り高ぶる椿太夫と違って。
「ほんなら例えば、お嬢さんがわっちに勝てる確率が少しでもあるなら、それを成就できると? そうしないのは確率が一厘もありんせんから?」
大層な自信だ。未来が見えて、死ぬことがない――たったそれだけで古妖とやらはここまで傲慢になれるのか。
あいかはその挑発に乗るでもなく、足元に現れた黒猫に何かをお願いする。
「お嬢さんの手は見えておりますえ」
女は笑い、扇子であいかを指し示した。あいかのお願いは届かず、黒猫はうにゃうにゃと鳴くばかり。
「黒猫は不幸の象徴――そういう事でしょう?」
「いいえ」
あいかはきっぱりと告げた。女は怪訝そうに眉を顰める。
「黒猫さんは不幸の象徴なんかじゃないわ。それどころか今、幸運を手繰り寄せてくれたの」
縁を結び、切り取り、繋げたのは、あいか自身。
最後まで気づかれないように、宙ぶらりんの縁をそのままにして。
「――!」
女が目を瞠る。星詠みゆえに見えたのだろう。もう変えられない未来が。
「何が来るか、私にはわからない。けどあなたは詠めるのよね」
しっかりと見ておくといいわ――『不安』という、曖昧で終わらない不幸を。
その効果は、古妖が封印されても暫くは残ることだろう。
●
繊細な絵付けの香箱が宙へと放たれる。
精神を惑わすのだという魔性の香りに、カデンツァ・ペルッツィ(星を見る猫・h01812)は星色の双眸を眇めた。
「お前が諸悪の根源ってか、よくもまあ誰彼構わずたぶらかすもんだ」
その効能を受けずに済んでいるのは、カデンツァが纏ったオーラの防御のおかげもあるが、先程から吹き始めた風の向きがどうにも味方をしてくれているようだ。先だって戦いに身を投じた√能力者が、黒猫を隠れ蓑に紡いだ“不運”が功を成している。
ならそれを活かすのもやはり黒猫であるべきだろう。カデンツァは後肢での全力ダッシュで香箱トラップを掻い潜り、一気に間合いを詰める。
(「どうせ反省なんてしねえんだろうから、せめて今回の件のケジメはつけてもらうぜ」)
封印され古妖、すなわち√能力者。不死であるこの女はどうせいずれ目覚めてまたひと悶着起こすに違いない。ぶっ飛ばす前にその憎たらしいツラを拝んでやろうか――睨みつけると、女は香箱の馨よりも濃厚な魔性で艶やかに微笑んだ。
「てめえ! 他人様の人生ふみにじってヘラヘラしてんじゃねえ! 俺に色仕掛けは通用しねえぞ!!」
余裕綽々、小さな獣を見下ろしてくる女をめいっぱい恫喝する。返事代わりに翻った扇子の一閃を身を捩って躱し、戻って来る勢いのままにカデンツァは腕を振りかぶった――今度はぎらりと光る爪を出したまま。
目を瞠る女の膚を暗殺者の爪が切り裂いた。宿した毒に蝕まれ、女の身体は引き吊れたように動かなくなる。
「ひとつだけ教えてやる。星詠みの力は何もお前だけのもんじゃねえ、俺にだって一応はあるんだよ。お前が詠んだ運命、この爪で引き裂いて台無しにしてやろうじゃねえか!」
星詠みならば理解しているはずだ。未来は――いつだって変えられる。
●
あのふくよかな甘い花の幽香とはまた違う、噎せ返るほどの存在感が立ち込めてきた。
姿を現わした古妖に、西行・小宵(篝桜・h04860)は一瞬――ほんの一瞬だけ、まばたきも忘れて見惚れてしまった。
なんて綺麗なひとなんだろう……と我を忘れてしまった自分を振り払うように、ぶんぶんと大きく首を振る。
「やっと見つけました! 人の恋路は悪戯に手を出したらダメなんですよ! あと優しい妖怪達を洗脳するのもダメです!」
その美貌で数多の妖怪や人間たちを誑かしてきたのだろう椿太夫と真正面から対峙する最中、不意に小宵の眼前に立ちはだかる者があった。
古妖の助っ人かと咄嗟に身構えた小宵の双眸が、先程とは比較にならないほどに見開かれる。
「愛らしい探偵さん、お困りでしょうか」
向けられた背が振り返り、サングラス越しのまなこが三日月のような笑みを模った。大きく連なった耳飾りがしゃらりと音を立てる。
「……六磊!」
それは小宵がよく知る存在、妖刀・六境の付喪神、六・磊(垂る墨・h03605)だった。
どうして此処に、と問おうとしたが、全てを理解しているかのような彼の笑みに小宵はその言葉を呑み込んだ。
代わりに彼を正面から見据え、口を開く。
「力を貸して下さい、六磊」
「ええ。恩人の頼みならいくらでも」
柔らかく、誰よりも頼もしい、いつもの笑みだった。
●
きっと小宵は、どうして自分が此処にいるのか不思議に思っているんだろう――それは六磊にも手に取るようにわかった。
簡単なことだ。彼女が準備を整え出立するのが目にとまったから、密やかに後をつけ……と、これ以上は秘密である。人戀刀はいささか距離を見誤ることがある。彼がヒトではないからか、相手が小宵だからかは、これも秘密である。
それにしてもと六磊は目線を椿太夫に映す。
(「古妖……否、人の情念に寄生する悪妖といった所でしょうか。僕にはその花の美しさは理解できませんが、此の鮮やかな紅の色は好いものですね」)
――嗚呼、乱れ散りゆく姿が見たいものです。形の良い唇が笑みを深める。
(「……けれど今は、小宵が傍にいますから。残らず綺麗に、散らして差し上げなくては」)
花吹雪が舞い上がった。椿の鮮烈な赤とは違う、ほのかに色づく可憐な桜が。
手繰る小宵の表情は軽やかで、強敵に立ち向かうプレッシャーの大部分が解放されたかのようだった。自分への信頼からくる安心がこの顔をつくっているのだと思うと、六磊の笑みも椿太夫に向けたそれとはまた違ったものを帯びてくる。
ひらりと本体を抜き去った六磊が小宵を護るように前に出る。直後、椿太夫が惑わしの香箱を放った。疑心暗鬼も狂暴化もなにもかも、背の向こうにある彼女を思えば六磊を掻き乱すには至らない。
星を詠み、定められた未来に干渉する女の力が小宵の桜を狂わせる。その矛先は六磊に向けられていた。
「! だめ!」
すぐに小宵が桜吹雪の流れを変えるが、ほんの一瞬視界を塞がれ足を止めた六磊へと椿太夫が迫り、扇子を振るった。仕込み刃に斬られても六磊は笑みを崩さない。
妖刀の一閃が女を切り裂いた。絹を裂くような悲鳴がこだましても、しとどに溢れる赤が六磊に注がれても、彼は楽しげなままだ。
自分はいくら赤を浴びても、傷ついても構わない。彼女さえ無事ならば。
「小宵、よく頑張りましたね」
女を切り伏せた刀を仕舞いながら、六磊は今日いちばんのやさしい声で囁くのだった。
●
高く澄んだ鼻梁に均整の取れた顔立ち。
それから艶めく白磁の肌。
鮮やかな赤が持つ要素は、どれもこれもが数多の人を惹きつけるもの――であるらしい。
そういうものなのか、とユオル・ラノ(メトセラの嬉戯・h00391)は女をじいと見つめていた。女が訝しげな様子を見せるので、そこでようやく気が付いた。
「ああ、不躾だったねぇ」
これから死合う相手にも、ユオルはあくまでフラットだ。無礼があれば詫び、そして続ける。
「キミに会えば一目惚れ、だとか鼓動の高鳴り! みたいな感情を体験できるのかなぁと実験しに来たんだけど……そうでもないみたいだなって」
「……今のことばの方がよほど不躾でありんすけど」
そういうものか。わからない。ユオルは困ったように肩を竦めながら、オーラの防御を張り巡らせた。直後、着物の裾から無数の椿が姿を現わし、ユオルへと迫る。
(「香りを吸い込んではいけないようだね」)
深く息を吸うと意識が揺らぐ。オーラで防げるように浅い呼吸を心がけながら、幻惑の霧に潜ませた千手の影で惑わしの椿花を握りつぶしていく。
人を手玉に取る、精神攻撃を得意とする者は、自分がそれを喰らうと案外脆いものだ。ユオルから放たれた光の奔流は、精神汚染や恐怖を齎すもの。女が怯んだ瞬間を狙ってユオルは一気に間合いを詰め、メスを翻した。
「身体構造は人間と同じなの? すごく気になるなぁ」
女の頸に赤い線が刻まれ、そこから血が溢れ出す。つい人間と同じ急所を狙ってしまったが、ここを切っても“中身”を識るには向かないかと少しだけ勿体なく思った。
「――キミも誰かを真摯に想えたら、もう少し魅力的になるんじゃないかなぁ」
よろめき、前かがみに頽れる女に、ユオルは告げる。
どこかで聞いたことがあったのだ。
「恋をすると、人は変わるんでしょ?」
ただ今は、検証できない仮説だけどね。
●
「どもー! 隠密廻の者ですぅ」
着崩したスーツのネクタイを更に緩めながら、まるで今宵の客とばかりに振る舞う男――逝名井・大洋(TRIGGER CHAMPLOO・h01867)の吐き出した煙が、椿花の香りの中に混ざって溶け込んでいく。
「あんな幼気な子を騙して……そんなにボク達に逢いたかった?」
ふふ、と女は意味ありげな笑みで返す。だがその全身は既に、それこそ椿のように赤く染まっていた。いかに強力な古妖といえど封印が解けたばかりの状態では無理もない。
(「正直見た目は好みだけど、弟の手前この首は落としてあげられないんだよねぇ」)
赤い双眸が女を見る。きっとあの琥珀色も、同じものを見ている。大洋の片手にかけられた手錠の鎖が伸び、もう一方が椿太夫へと放たれた。
「ねぇ太夫、ボク達が来る未来が視えてたんでしょ?」
女は避けなかった。観念したかのように手を手錠へと差し出して――目を細めた。
瞬間、手錠が見えない何かに弾かれたかのように軌道を変える。かしゃん、と大洋の両手が繋がれてしまった。
「ありゃ、こーいうプレイのつもりじゃなかったんだけど。困ったな」
束縛されて大洋はけらけらと笑った。
「なァんてね。ねェ、星詠みの中でボクの正体はわからなかった?」
「何?」
「ボクの本当の肩書は警視庁公安部第69課―…カミを狩る者」
突如、辺りを取り巻く空気が変わった。今、この場は大洋の|監獄《狩場》となった。察した女が袖を翻して身を引こうとするが、大洋が足払いを仕掛ける。地面に転がった女へと、馬乗りになって銃口を向ける。
「ねぇ太夫……キミは何発まで耐えられるかな、試してみよっか?」
己を誇示するような椿花へ向けて、何度も銃声が轟いた。
●
こんにちは、お姉さん、お兄さんたち。
あれから怖い事はなにも起こりませんでした。きっと、あの日に会ったみなさんがあの女の人をどうにかしてくれたのかなって思います。
古妖というこわい妖怪が昔いたんだっていうのを聞きました。あれが古妖だったんだとしたら、わたしのせいで大変な事になっちゃうとこだったんですね。
お礼を云いたいけど、わたしはみなさんのことを何もしりません。なんだか、事件を解決してスッといなくなっちゃうヒーローみたいですね。
あのあと、勇気を出しておにいちゃんに告白しました。
結果は――もちろんダメでした。困った感じで、「ごめんね、僕も好きな人がいるんだ」って。
でも、「伝えてくれてありがとう」「うれしいよ」って云ってくれたの。わたしのだいすきな、あの笑顔で。だからすごく悲しいし、わんわん泣いたけど、たぶんだいじょうぶです。あの女の人が云っていた未来より、こっちがいいと思います。
わたしからも、みなさんにいつか会えたら、ありがとうって、云わせてください。
ふしぎなヒーローさんたちへ。