海柘榴の乙女
●とある地方に伝わる民話
昔々、とある村に大層な長者がおった。長者には一人娘がおり、その美しさはまるで天女か花の化身かと思われるほど。長者の可愛がりようといったらひとかたではなく、ゆくゆくは金持ちで立派な婿を迎えてやろうと常々考えておった。
ところが、ある日長者の娘は村に住む貧しい男と恋に落ちた。男は娘に海辺で最も美しく咲く椿の花を贈り、末は夫婦になろうと約束を交わしたという。
これを知った長者の怒りようは凄まじく、娘に男と会うことを禁じ、他の村の金持ちとの結婚を決めてしまった。娘と若者は現世で結ばれぬことを嘆き、とある嵐の夜に二人で手を繋ぎ荒れ狂う海に身を投げてしまった。
荒海に揉まれ、娘の亡骸だけが浜に打ち上げられた。
月日は流れ、娘の亡骸が流れ着いた場所に一本の椿が芽を出した。椿はすくすくと育ち、それはそれは美しい平咲きの赤い花を咲かせたという。
「あの椿は死んだ娘の生まれ変わりで、引き離された男を探しておるのじゃろう」
村の人々は口々にそう話したという。
●汎神解剖機関、秘匿書庫に収められたファイルの一冊
個体名:|海柘榴《ツバキ》の乙女
危険度:B
類別:邪神
収容:失敗→消失
H県K市にある椿の古木に寄生していた怪異の一柱。
記録に寄れば、この邪神が最初に確認されたのは十二世紀半ば頃と考えられる。
生物に寄生することで形を維持する異形の存在であり、真の形状は不明。
その力は寄生した生物の生命力に依存するため、当該怪異は寄生先の身体を保護または維持しようとし続ける性質がある。第二次世界大戦中、周囲が全焼したにも関わらずこの椿だけが空襲を生き延びたのは、当該怪異による保護があったためとみられる。
怪異の目的は自身と寄生先の生命維持であり、積極的に他者に危害を加えようとする意志はないと思われる。しかし危害を加える者に対しては致死性の攻撃を行ってくることが確認されている。
明治時代、軍用地とするためにこの椿を伐採しようとする試みがあったが、携わった職人の幾人もが原因不明の体調不良を起こした。工事の遅れに苛立った軍人が軍刀で木を切りつけたところ、花の一輪が落ちると同時に軍人の首が落ちたという記録が残っている。
機関職員らが接触を行ったが、当該怪異は保護と収容の申し出を拒絶。収容を強行しようとしたところ、当該怪異は職員数人に重軽度の被害を出した。
よって対応を収容から討伐に切り替え、戦闘部隊に対応を任せた。
結果、怪異は沈黙。
その後、周囲に怪異の反応は確認されず、その数日後に椿も枯死した。
おそらく当該怪異の消滅と共に、寄生先にしていた木の生命力も尽きたのだろうと考えられる。
●波間に揺れた心
地球が誕生し、海が生まれた時。『それ』は波間を漂うだけの欠片に過ぎなかった。
宇宙より流れ落ちたのか、それとも異界より迷い込んだのか。まだ意志を持たぬ『それ』は、何もいない海の中をただ揺蕩っていた。
海より生命が生まれ、それらが繁茂し、地球上を覆い尽くす程になった頃。単調だった海は次第に命で騒がしくなっていた。
海は生きたものと死んだものが廻り吹き溜まる場所になり、そして『それ』も無数に流れてくる生と死を寄せ集めながら、次第に一つの形を取るようになっていた。
群青に染まる海と空の狭間、まだ意志を持たぬ『それ』はふつふつと沸き立ちながら水面を漂い続けていた。
水面を漂いながら出会う様々なもの――不透明の軟体を揺らして漂う海月、どこからか流れてきた木の実、さらさらとした鱗を持つ魚。それらの身体に自身を染み通らせながら、『それ』は命というものを模倣し始めた。
いつしか海には大量の不純物が混ざり始めた。
喜び、悲しみ、恐怖、期待といったそれらは、心というものだった。
心というものは脆いもので、波間を漂う内にいつの間にか物言わぬ魚へと変わっていく
波間を漂いながら、『それ』は少しずつ心というものを模倣し始めていた。
ある時、海が荒れた。
そういう日は心が多く流れてくるものだと、『それ』は知っていた。
黒々とした波の間を漂っていると、その中に深紅の色をした何かが見えた。
それは一人の美しい娘の亡骸だった。
噴き上がる波から垣間見えた赤は、娘が髪に挿した一輪の椿の花。その色の鮮やかさに惹かれ、『それ』は娘に近付いた
その途端、衝撃が『それ』を打った。
それは亡骸に残った心だった。
愛しさに高鳴る胸の鼓動を、叶わぬ恋への嘆きを、ただ愛しい人と共に在りたいという願いを――。
これまで模倣してきたのとは違う、強く激しい慟哭が『それ』を打った。
あなたの願いを叶えてあげる――。
それはただ気まぐれだったのかもしれない。
あるいは憐憫だったのかもしれない。
しかし『わたし』はそう決めたのだ。
模倣ではなく、心というものを自分のものにしたわたしは、流れてきたものの中で唯一生きていたもの――あなたが挿していた椿の枝に宿る。
そうしてわたしは漂うのを辞め、あなたの本当の願いを叶える為に岸へ向かって漕ぎ出したのだった――。
●√EDEN 乙女達の今
『まったくもう』
わたし――平咲椿は、鳴衣の身体の中でため息をついた。
足早に路地を進んでいく鳴衣の体温はいつもより上がっていて、上気した頬が色付いているのが分かる。
でもそれは路地を抜ける木枯らしの冷たさのせいでも、息が上がっているからでもない。
「十束先輩……」
形の良い唇から何時もの名前が零れる。
それが十束新貴という少年の名前で、鳴衣の想い人であることをわたしは知っている。
帰り道でほんの僅か、彼の手が掠めた。ただその程度のことで、こんなにも彼女は心を波立たせるのだ。
『ホント、もどかしいったら』
唇があったら尖らせていただろう。鼻があったら鳴らしていただろう。
ただ偶然手が掠めただけなのに、二人とも電流が走ったように身体を撥ねさせて、しどろもどろな言い訳と謝罪の言葉を並べ立てる。そんな二人を見ていると、どうしても歯痒い気持ちになってしまう。
『恋は盲目ってこんな意味だったかしら』
互いに好き合っているのは明らかなのに、本人達だけがそれに無自覚だ 。
いっそわたしが奪ってやろうかしらと思いたくなることもある。
相手は良くも悪くも女性慣れしていない少年――総合的に見れば顔も性格も悪くはないし、ウブな様子もそれはそれで可愛いと思わなくもないけれど……。
それに身体は鳴衣のものなのだから、中身がわたしでもそんなに変わらないでしょ?
既成事実の一つでも作ってやれば、いかに鈍い二人でも少しは関係が進むだろうし、そうなれば切っ掛けを作ったわたしに感謝こそすれ、恨まれる筋合いなんてないんだから。
そんな気まぐれに耽るわたしの思考を、路地の片隅に蹲る黒々とした染みのような気配が邪魔をする。
気付くと同時に、気配が躙り寄るように近付いてきた。それと同時に獣臭い臭いが濃くなっていく。獣の気配に混ざるのは貪欲な食欲といったところだろうか。
『また? この世界も色々と騒がしいわね』
何の因果か、この鳴衣という少女は異形のものを引き寄せがちで、命を狙われたことも一度や二度ではない。元の世界で失った力が戻るまで身体に宿らせて貰う礼代わりに、わたしは鳴衣が襲われる度に、彼女の身体を借りて力を振るい、護ってやるのだ。
『よく吠える犬だこと』
舞い上がる濡れ羽色の髪が空中をゆらゆらと揺蕩う。先程までの楚々とした表情とは違う妖美な微笑み。紅も塗らぬのに深紅に見える唇が解けて、くすくすと笑みを湛える。
恣に喰らうはずだった獲物の変貌に気圧され、近寄ろうとしていた獣が後ずさる。
『逃がさないわ。だってわたし約束したんだもの』
海より流れ着いた椿の乙女が笑う。
ぽとり――と、獣の首が音も無く地面に落ちた。
その断面から流れた落ちる液体が、路地裏の石畳沿いに地面を赤く染めていく。
落陽の朱と血痕の赤が微笑む乙女の瞳に映り、より紅く妖艶に輝かせている。
わたしの宿る場所。その願いを叶えてあげるって言ったの。
結ばれぬまま死んだ娘達。彼女達の願いを私は叶えてあげるの。
――今度こそ、ね。
「……あれ? わたし何を?」
気が付けば、わたし――平咲鳴衣は薄暗い路地の真ん中に立っていた。先ほどまでまだ陽は高かったように思えたけれど、今は路地の向こうから差し込む夕日が私の影を長く伸ばして一筋の線を描きだしていた。
「……帰らないと」
周りに変わった物はない。だからわたしは疑問に思いながらも、何もなかったように家に帰る道を歩き出し、自宅近くにある神社まで来た。その境内には一本の若い椿の花があり、命を謳歌するように深紅の花々を咲き誇らせていた。
夕暮れ空の下、その紅が鮮やかに目に飛び込み、ふと幼い頃の記憶が蘇る。
小さい頃、わたしには見えない友達がいた。
折れて萎れかけた椿の枝と一緒にいた彼女を、私は絵本で見た花の妖精なのだと思った。弱っていた彼女を助けようと、急いで家から水を汲んできてその子にあげた。
それからわたしの側にはずっとその子がいた。
話し相手になってくれて、それと……。
太陽が地平線に完全に隠れると、絹のような紺色が朱を塗りつぶしていく。
紅の椿も闇の中に薄れて輪郭を失い、電灯の人工的な白い光がわたしを照らす。
つくられた灯り。それと同じように、私にしか見えない友達はきっと幼い私が創り出した空想の存在だったのだろう。
記憶は曖昧で、たぐり寄せることもできない。
当然だと思う。
妖精、怪異、神。そんなものは物語の中だけの存在で現実にはいないのだ。
「それに……」
スマートフォンに表示されたメッセージの送り主の名前を見て、わたしの頬がまた赤らむ。
――わたしは十束先輩に恋をしている、ごく普通の少女なのだから。