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Sí Bheag, Sí Mhór
●今は遠き楽園の扉
大地は冬の寒さに凍てつき地は霜で覆われている。
春告には未だ遠く、視界はしろく烟るよう。
ああ、けれど心配なさらないで、迷える子。
ここは常若の国。帰り方を忘れてしまった人々がやがて行き着く妖精郷。
四季の花を咲かせましょう。歓喜の歌をうたいましょう。手と手を取って踊りましょう。ここではおそろしいことなど、なにひとつ起こらないのだから。
●妖精のチョコレート
「みなさんは、妖精郷という場所をご存知でしょうか?」
緊張も露わに姿勢を正しながら、ぎこちなく口を開いたトゥバ・コルヌコピア(凱風・h09459)は集まったEDENたちを仰ぎながらそれぞれの言葉を受けて何度か頷きを返しながらその殆どが『絵物語の存在である』という認識を把握した上で微笑んだ。
「ティル・ナ・ノーグ。常若の国とも呼ばれる妖精の国が俺たちの世界……ドラゴンファンタジーと呼ばれる√に存在するんです」
それは常春の理想郷。争いもなく、外敵もなく――ひとによっては少し物足りなく感じてしまうくらいに平和な楽園が広がっているのだと、トゥバは記憶の中の光景を思い出しながらあたたかな陽だまりを脳裏に浮かべ目を細めた。
「彼らは永遠とも呼べる時を妖精たちだけで面白おかしく過ごしているのですが、中にはにんげんと関わることを好む存在もいるんです」
かわりものの幾らかの妖精たちは、そうして時々人里に降りていっては人間たちの目紛しい営みを学んで、或いは面白がって妖精郷から動かない仲間たちに楽しそうな催しを『真似してみよう』と持ちかけることがあるのだと云う。
「もうすぐバレンタインデー。彼らはこの日のために妖精郷でカカオの木を育ててチョコレートを作っているんですよ。そうして気まぐれに人々を招いては、お店やさんごっこをして遊ぶのが楽しみなんだそうです」
にんげんのショコラティエに恋をしたリャナン・シーが持ち帰ってきたカカオとショコラが、妖精たちの最近のおきにいり。常若の土で育てたカカオは人里で育ったものよりも香り高く、出来上がったショコラの芳醇な味わいはひとくち頬張っただけで恋に落ちてしまうような錯覚を抱くほどにあまく、あまく蕩けていく。美食家たちの間では値段がつけられないほどの贅沢な甘露として知られているのだとか。
「俺は何度か氏族の皆とお招きされたことがあるのですが……ほんとうに。ほんとうに! おいしいチョコレートだったので。ぜひ、皆さんにも食べていただきたいなと思って、……お声掛け、しました!」
甘党のあなたには是非、シンプルなミルクチョコレートを。チョコレート好きなあなたには、妖精郷に実る果実とプラリネを合わせた甘みと酸味の調和がうつくしい逸品を。あまいものがすこし苦手なあなたは、ビターベースのチョコレートにソルトナッツやスパイスを効かせた力強い味わいを試してみて。妖精たちは皆食いしんぼうだから、味の好みを伝えればあなたにぴったりのチョコレートを持ってきてくれるはず。
「お金は必要ありません。代わりにあなたのせかいのものを、なにかひとつ渡してあげてください」
彼らは金銭を必要としないし要求しない。代わりに欲しがるものは『あなたのせかいのもの、なにかひとつ』。これは貴重なものでなくとも構わないらしく、木の実や硝子玉ひとつでも彼らは世界でひとつの宝石を手にしたかのように飛び上がって喜んでくれるのだとか。
贈り物に。自分へのごほうびに。年に一度しか味わえない、とびっきりのチョコレートはいかがでしょうか、と。トゥバは淡く笑んだあとに戸惑いがちにその表情を少しだけ翳らせた。
「それから、その……」
どうかしたのかと問われれば、竜は視線を泳がせたのちに意を決したように口を開く。常春の妖精郷に、ひとつの災厄が降り掛かろうとしているのだと云うことを皆に確りと伝えるために。
「ここからは、俺が視た星の……起こり得るかもしれない、未来の話です」
●ディナス・エムリスの渇望
――足りない。足りない。
ちからが。血が。いのちが。
記憶が、想いが、願いが、誇りが、何もかも。
朧げな輪郭を揺らし、ごぼりと湧き上がった影が意思を持つかたちとなる。
それは記憶の集合体。嘗て竜であったものたちの残滓の寄せ集めだった。
足りない。足りない。足りない足りない。
もっと。もっと、もっともっと、記憶を集めなければ。
ちからを取り戻さなくては。
『あなた』に、この姿を、思い出してもらわなくては――。
現れ出づる真竜の影法師が花々を不確かな爪牙で持って薙ぎ払い、逃げ惑う妖精たちを掴み上げ、泣き叫ばれることなどお構いなしにちいさなからだを躊躇なく丸呑みにしていく。無差別かつ無尽蔵なその暴虐は動くものが尽きるまで決して止まることはない。
――完全なるものとなったこの姿を、他でもない『あなた』に、見て欲しいから。
これなる存在が妖精たちの住処に目を付けたのは偶然が呼んだ不幸であった。
「『ドラゴンズメモリー』。……俺たちドラゴンプロトコルが、真竜だった頃の記憶の欠片たちだと言われています」
思うことがない訳ではない。けれど、常若の楽園に近付く死の概念は直ぐ側まで迫ってきている。この脅威を疾く退けねば、ティル・ナ・ノーグは永久に閉ざされた死の荒野と化してしまうから。どうか力を貸してほしいと、トゥバは仲間たちへの揺るぎない信頼を瞳に乗せて深く頭を下げるのだった。
第1章 日常 『妖精の国を見て回ろう』
●リャナン・シーの恋煩い
ほとんどのゲールの詩人はリャナン・シーの恋人だった。
けれど彼女は幾千ものあいの詩に目を向けることはなく、冴えないひとりのショコラティエにありふれた恋をした。
どうしてかしら。
あたしが生涯愛したどんなひとより、あなたはみすぼらしい男だったわ。
だけど、ああ――あなたがチョコレートに込めた|あい《詩》は、どんな歌よりもこの胸を震わせたの。
ただひとつの『あい』を見付けたリャナン・シーはもういのちを奪えない。
妖精郷へ彼女が持ち帰ったのはひとつぶのチョコレート。ひばりのうたよりもあまく、花の蜜よりもとろけるその甘露は直ぐに妖精たちの誰もが虜になった。
常若の国へ訪れることがかなったのなら。どうぞあなたも、ツリーハウスのちいさな扉を叩いてみて。大切なひとへの想いの架け橋に。或いは、自分だけのとびっきりのごほうびに。|リャナン・シー《妖精の恋人》のチョコレートは、あなたたちの胸を等しく満たしてくれる筈だから。