救済、執行
●かんきのこえをあわせるがいい
何もない部屋の中。テレビの前で静かに座る人影。
暗い室内を照らす灯りは、延々と天気予報を映し続けるテレビのみ。
すくわれたいな。すくわれたい。
ドアにかけた、コンセントの延長コード。溜め込んだ薬。キッチンにいけば包丁もある。バスタブには湯を溜めておいたし、目張りができるよう布粘着テープも用意した。ちゃーんと混ぜたら劇物になるアレコレも、バケツも……ライターとガス缶、練炭、ありとあらゆる……。
飛び降りても、電車へ突っ込んでも、誰かに迷惑がかかるんだ。
迷惑なんかかけたくない。今までたくさんの迷惑をかけてきた。
ここで、おわりにしなくっちゃ。
めいわく、かけるの、やめなくちゃ。
ふらりと立ち上がった彼は、ゆっくりと廊下へ歩いていく。
「大丈夫だよ。私が、救ってあげるからね」
――こうしてひとつ、果実が摘み取られ。
長方形の箱の中、花に塗れて、両親の涙の雨を浴びながら、彼の人生は幕を下ろした。
●こんばんは。
「よう、『こんばんは』。良い夜だな。――緊急だ。今すぐ向かえ。『災厄』が来る」
険しい顔をし、返答を待たずにスマートフォンを触り地図を示すは星詠み、六宮・フェリクス(An die Freude・h00270)。人間災厄「歓喜の歌」である。ドがつく朝であるが、彼にとっては「まだ夜」な感覚らしい。
ふん、と鼻を鳴らす彼。そのスマートフォンの画面に映し出されているのは、あるアパートの一室である。いわゆるベッドタウンであり、昼間は人通りがほとんど無い地域。
「自分の能力だけでなく、周囲の環境やらも使って獲物を陥れる怪異。それが『善意』だっつーのが大変なトコだ」
自分の存在にも重ねているのか、どこか気まずそうで、視線は遠く。まあ彼自身も「歓喜の歌」で「|フェリクス《幸運》」という名をつけられた身である。心中は察するに余りある、かもしれない。
「獲物の兄ちゃんには、ちょっ~と話つけて留守にしてもらった。|ツテ《機関》があるんで。『清掃バイト』のフリして昼間にこの部屋に向かい、異変を調べてきてほしいってワケ。あ、貴重品パチろうとしても普通に持ってってもらってるからそういうのはないぞ」
余計な一言を添える余裕はあるのか。そんな事を言いながら、コツコツとスマートフォンの画面を叩き――そして、声色を変えた。
「我が主を愚弄するものは許されぬ。死は自然と、平等に訪れるもの。与えられる死など言語道断よ」
それはあくまで、「歓喜の歌」としての言葉だろう。だが死とは平常、「選び取るものではない」のは事実である。
人類としての道理。生存という道の正しさは時に残酷で、打ちひしがれながらも生きなければならない。
黄昏を迎えた人類、その中には『|生存《生きること》を押し付けられた』と感じている者も居るかもしれない。
だが、その手を取ってしまえばそこで「おしまい」。インビジブルの仲間入り……。
「そうでなくとも、ヤツはそもそも簒奪者だ。排除しなきゃならねェ。……お前らならわかるよな? 『オレら』みたいな善意の災厄は、機関にとっちゃ厄介」
自らの左足、枷とタグのついたそれを指し、彼は深くため息を吐いた。
「……都合が悪ィんだ。オレが向かうとさ。災厄には災厄とか、ふざけたこと言ってらんねぇくらいに……」
残念だという思いからか、それとも嫌悪感からか。眉をひそめ、眼帯を――その下の瞼を掻いて、フェリクスはぎり、と歯噛みをした。
●歓呼の声に応えられぬ者、この輪から立ち去るが良い
これは、√能力者達が介入しなかった『未来』。
男の独白。見知らぬ誰かの人生が、この部屋で幕を下ろした。……そんな訳あり物件と聞いてはいたが、ここまで綺麗だとは思わなかった。
日当たりは極めて悪いが、とても清潔な部屋だ。「家具も少し用意しましたよ、当然新品や、それに等しいものです」……そんな言葉に甘えて正解だった!
引っ越した原因……彼女との別れ話と、転勤が重なったこと。急いで部屋を選んだ。ちょうど良いのがここだった。
少しレトロなフローリングにクローゼット、テレビ台の上には可愛らしいブラウン管テレビが乗っていた。これは流石に新品ではないようだが……横に貼られたシールの跡を見て、なんだか気に入ってしまって。それもインテリアとして、部屋に置いておくことにした。
半日ほどかけて、それなり自分好みの部屋へと仕立ててから、彼はベッドに寝転んだ。
――その数時間後。ぱっと、あかりが灯った。彼は気づいていない。
ブラウン管から聞こえてくる囁きに。
「大丈夫……いま、私が救ってあげるから」
お節介な|災厄《使者》が、部屋へと降り立つ。
人間災厄『善意の死滅天使』。高天原・あがり。
「幸せに死んじゃおう。そしたら、やなこと全部忘れられて、とっても幸福なんだよ……!」
男に、「幸福な死」を与えるために――彼女は光背を輝かせた。
第1章 冒険 『ワケアリバイトの新人くん』

すんなり。
管理人にも話は通っていたようだが、まさかその中にスーツ姿で訪ってくる清掃員がいるとは思わなかったらしい。目をぱちぱちとさせてやや疑いの目を向ける管理人に対して、澪崎・遼馬(濡羽の番人・h00878)は。
「最近はスーツ風の作業着が人気なんですよ、はは」
……などと軽くいなし、アルバイトとしてアパートの室内へと潜入を果たした。
「(当人とて不遜にも、死神の跡目などをしている身だ)」
見送るもの、刈り取るもの。密葬課。今回はアルバイトとはいえ、捜査基準かつ、全力をもって物事を進めるべきだろう。使い捨てのシューズカバーを靴の上から履き、室内へと入っていく。素足よりも動きやすさを重視するため、そして職業柄からのものか。
「……どうぞ」
後続する√能力者にシューズカバーを差し出してみる遼馬。それをやや少し不思議そうに受け取る者――。
「救済とはまた大きく出たものだ」
まあよいかと『良い子』を演じ、シューズカバーを受け取って。これから清掃するのだからこれはつけずとも……などと頭の隅に思いつつ。山田・ヴァイス・ゴルト・シャネル三世(フィボナッチの兎・h00077)が| 《不》愉快そうににこにこと、室内へと入っていく。
救済。ならば|私《わたしたち》の空腹も救って貰おうか。
……災厄の思考とは、常々恐ろしいものだ。欲しがる心はどこまでも。すくえるものならすくってみせろ。
「(全く、どうせ死ぬなら|私《わたしたち》に喰わせろと言うのだ――)」
もしこの心情を『|歓喜の歌《星詠み》』が聞いたなら、頭を抱えた後天を仰ぐことになるだろう。
「(勿論、冗談だとも)」
この思考も、先と同じく。
すたすたと室内へと入っていくシャネルの後ろをついていく遼馬。やや重みのあるドアを開けば、そこは。
――予知では『それなり自分好みの部屋』だとか言われていた|そこ《部屋》の光景は、いささか異様なものであった。
「わーお」
シャネルが感嘆の声をあげてみせる。
――小洒落たシーリングライトには首吊りロープ。その下にはきちんと背もたれのついた「蹴る」ことができる足場としての椅子。
開けたドアの内側にはぐるぐる延長コードが巻き付いており、重みはこれのせいだろう。
小さな二人がけのテーブルの椅子は一脚無く――ライトの真下に置かれているのだから――、そして天板の上には灰皿に溜め込まれたタバコの吸い殻、コップになみなみ満たされた薄汚い液体、山積みになっている睡眠薬である。
テレビ台に居座るブラウン管、その横に置かれているのはどうしてか鮮やかな菊の花。色とりどり、花束に仕立てられている。
これの何が、『自分好みの部屋』なのだ? 人間はこれを美しく思うのか? シャネルは背後を振り返り、遼馬の様子を窺う。
……どうやらそんなことはないようだ。予想以上の光景だったか、眉間に皺を寄せ、険しい顔をしている。ならばしかたない。さらっとシャネルは部屋へと向き直り、その中へ入っていった。
「この延長コードやら薬やら練炭やらを、全部棄てればいいのだろう?」
得意げな様子でドアノブに絡まった延長コードを引っ張って。やけにつっかかるなと思っていたらコンセントがまだ刺さっていたので引き抜いて、ぽいと部屋の中央へ投げ置く。山のような吸い殻と薬はゴミ箱に、汚い水――どうやらタバコの吸い殻を溶かしていたようだ。それもキッチンのシンクへと流し。ついでに包丁も回収する。砥石まで用いて研いでいたらしい、かなり鋭く、刃がうつくしくかがやいていた。
一方遼馬も椅子へ足をかけ、物騒な形に結われたロープを切って回収し、椅子を本来の位置へと戻す。
予想以上に、厄介そうだ。まるでこれでは、『|おわったあと《特殊清掃》』ではないか。
……今回の犠牲者は、まだ生まれていない。それは幸いだが、自分たちが介入せず彼が戻ってきていてしまえば、どうなっていたことだろう。想像するだけでもおぞましく、そして嫌悪感が湧き上がる。
「おお。すごいぞ、こちらも」
シャネルがぱかんと両手で開けたドアからガラリと雪崩れてくるのは、通常ならば「これら」が飾られていたのであろう、住人の私物の数々である。お高いと噂のビーズクッションや、立て掛け式のハンガーラック。本当に、趣味の良い部屋を構成するには十分な品々。だがそれらの下にはずらりと並ぶカセットコンロのガスボンベ。過剰だ、過剰すぎる。
「それは……とりあえずこちらへ」
遼馬が広げたビニール袋に、シャネルがガスボンベをどんどん入れていく。かなりの重量となったそれを遼馬が玄関へと運び、その背後をシャネルがついて歩く。
彼女は廊下を眺めて――飾られている額入りのパズルがやたら斜めになっているのを発見し、取り外して裏を見てみた。
……そしてすぐに玄関へ置いた。
無数に平たい画鋲が刺さり、自分の顔が映し出されていたからだ。はてさて困った困った。かけていた画鋲も抜くべきか? 思案して、まあ、「このくらい」はそのままにしておこうと頷いた。
一方、遼馬は浴室へと赴いていた。開けた瞬間目に入る。七輪のご登場。まったくの新品のようであるそれを、浴槽を覗き込んできたシャネルが軽々と回収していく。
……浴槽に貯められた湯は、追い焚きをされていたのか、まだ熱いままだ。
並ぶ洗剤類……そして場違いなモバイルバッテリーを横目に。バスタブから湯を抜く間に、掃除に使えそうなものだけを残し、浴室から不要なものを運び出す。中性洗剤と、先ほどクローゼットから発見したスポンジ、柄の長い浴室用のブラシを用いて綺麗にしていく。
ほぼ新居とはいえ……どこで前回の被害者が死んだのか、分からないのだ。綺麗にしておくに越したことはない。
妥協は許されない。その覚悟をもって、彼はスプレーを握った。
結果はというと、天井、換気口のフィルター、壁に床に排水口。そしてガラスの曇りまで新品に近いほど美しくされ、ついでとばかりに脱衣所の洗面台もぴかぴかになったわけである。
「よし」
ヨシ! なんと優秀なアルバイトか!
さてはて、あらかた清掃と物騒なものの点検は済んだ。当人が戻ってきた時に、最低限の違和感で済むよう、物の位置を考えて、あるべき場所に戻しつつ……二人が向かうは、ブラウン管テレビである。
こんこんこん、と、まるで『誰かいるか』とノックしてみるシャネル。正面と側面を見る彼女。シールのあとはやや茶色がかっていて、切れ端がついたままのようである。
「……これは」
遼馬が小さく声を洩らした。それを聞き、彼が見ている背面を覗き込むシャネル。
コンセントが、繋がっていない。
「あーあ……」
残念なのか、それとも確と理解したのか。彼女はコンセントを見つめたまま、遼馬の耳元でささやく。
「あれ、シールのあとじゃない。『和紙』だったよ。分かるね?」
――シャネルが手のひらで、強くテレビの天面を叩く。それだけでは、この『怪異』は動こうとも、本性を表そうともしない。今はただの、テレビなのだろう。
だが夜になれば、それは囁き始める。
すくわれよう、すくわれよう、と。
……他人から施される救いほど、あてにならないものはない。己の真の望みは己にしか分からない。
望みがないという者にも、ひとつやふたつの望みはあるはずなのだ。
たとえば、そう。「生きていたい」とか。「|殖《ふ》えたい」という、本能的な欲求が。
シャネルは柔らかな笑みを浮かべて。
「では、物騒なものを捨てに行こう」
テレビの横に置かれた花束を掴み、大量のゴミ袋と共に部屋を去る。残された遼馬は、テレビをしばらく見つめていたが。何せ大量の|己を殺すための手段《ゴミの山》が出来てしまったのだ。袋を手に運び出していく、その背後。
ブラウン管に反射して、少女の影がふと見えた。
粗方、危険物となりうるものは運び出された。薄暗く、やや埃っぽくなった部屋を、シーリングライトのやわらかな光が照らしている。
「おいおい幸せ騙って死を|嗾《そそのか》すってかい。無自覚な詐欺師はタチが悪いねぇ」
「善意が、相手にとっても善意であるとは限らないということだね」
赫涅沢・秤(|取り替え子《チェンジリング》の怪異解剖士・h02584)がため息混じりに言う。それに同意するはクラウス・イーザリー(人間(√ウォーゾーン)の学徒動員兵・h05015)。
人と怪異のみならず、価値観・常識が全く異なる相手――そう、例えば今回の『|救いの手《魔の手》』を差し伸べようとしてきている者など。歪みはどこにでも存在する。人間に協力的な人間災厄や怪異、インビジブルもいれば、攻撃的なものもいるように。
さて、一見まともな部屋へ戻ったこの部屋にも、問題点はまだまだある。どこかに別の怪異が潜んでいる可能性だって捨てきれず、そもそも……先に入った√能力者たちの行動によってか、埃が舞い上がっている様子だ。清掃活動を行いながら、怪しげなものを見つける。『アルバイト』の内容は変わらない。
「じゃ、先に洗濯してくるよ。クローゼットの中、大変なことになってる」
「あ……うわ。これは……引きずり出された後かな」
秤が指差す先はおそらく埃の発生源、その一因。男が荷物を開けたあと、クローゼットに無造作に突っ込んだであろう衣類だ。それもなぜか、数が少なく……疑問に思いつつも洗濯カゴに入れていると、布の質感ではあるが固い何かに手が触れた。
……衣服を切って作られた紐である。これの用途については想像通りだろう。所々血液が付着しているのは、無意識にこれを作っていたために怪我をしたのか、それとも。こちらはゴミ袋へと突っ込んで、残った布類を持ち、彼女は脱衣所の洗濯機へと向かった。
さて、低めの家具が多い部屋だ。シーリングライトの埃だけを先に払い、残るテーブルや椅子の埃も丁寧に、違和感がないかと清掃していくクラウス。
埃以外はそこそこに綺麗だが……淀んだ空気が、どうにも不愉快だった。何故か、と原因を探してみる。ふとカーテンを開けてみれば。布テープで、がっちりと目張りがされていた。複雑な心境でそれを引き剥がすも、ノリの残りはなかなかしつこそうだ……。何か使えるものはないかと周囲を見回すも、だいたいのものは運び出されたあとだ。仕方がない。
「洗濯機、回してきたよ。やあ、他の衣類にも血液がね……ちょっと苦労した。それで。こんなのが入ってた」
「……アロマオイル?」
戻ってきた秤が手にしているのはアロマオイルの小瓶。……油を含んだ洗濯物に乾燥機能を使うと、発火する。それを知っていたのだろうか。
「上のほうはだいたい終わったかな。じゃ、床掃除といこうか」
……フローリングを綺麗にモップ掛けし拭き掃除をし。そこまで丁寧にしすぎる必要もないだろう、適当なところで作業を切り上げて、換気として目張りされていた窓と玄関のドアを開けた。
……二人はとうとう、テレビの前に立つ。
念のためにとコンセントを繋げてボタンを押してみるものの、電源は入らない。コード類を確認するが、どうやら壊れている様子である。何かしら情報は得られないものかとクラウスがテレビをいじっていると、秤がパンッ、とひとつ手を叩く。
……柏手だ。
秤の降霊の祈りにより現れた|インビジブル《救われた者》は虚ろな目で。指を、組んでいる。生前の姿のはずだが、彼の姿は無惨なものである。痩せ細り、手首はずたぼろに、そして薄く口を開けて、気力の見えない表情をしている。
「……君は、何者かな」
クラウスが問いかければ、救済された彼は目を臥せる。
「すくわれた」
それは、救済を好ましいものではないと思っているとすぐに理解できる言い回し。続けて、秤が質問を続ける。
「苦しかったかい」
「眠るように」
「あの天使は、キミになにを?」
「わからない。ただ……誰かがここに来れば、囁いているようで」
情報は僅かだ。三日以内、その範囲が彼の記憶領域を狭めているのだろう。しかし情報としては、十分。
「キミを、覚えていていいかい? キミがキミで、あるために」
優しい声。生前、与えられることを望んだ言葉。
「……力に、なれるのなら」
ようやく笑みを見せた彼は、ゆっくりと頭頂部から透明になり、インビジブルへと戻っていった。
「ありがとう」
苦痛なく死んだ。それだけで……彼は、マシな方だったのかもしれない。
クラウスが俯く。希望を持つことが出来ぬ自分にとって、犠牲者たる彼の決意は、どうにも複雑に思える返答だった。力になれる可能性。そんな希望を持った、言葉。
――優しい静寂を引き裂くノイズ。
振り返れば電源も入らず電波も受け取れなかったはずのそれが、ぢかぢかと明滅している。
「――!!」
咄嗟の判断だ。クラウスがブラウン管テレビを抱えて玄関へと走る。コンセントが抜けた。それにも関わらず映像が流れ続けるテレビの画面。それを勢い良く外へと放り投げる。
地面に落ちた『それ』から、影があふれた。
第2章 集団戦 『ヴィジョン・ストーカー』

駐車場へと落ちたブラウン管テレビ。とびきりの甲高い音とノイズの悲鳴の後、『それら』は声をあげる。
「ンンン〜〜皆々様お疲れ様でございます! ああなんと美しいお部屋になられて!! どうして? なぜ? おやおやおや!」
「いやあおかしいですねおかしいですねわたくしども一言も言葉を発しておりませんでしたのにィ? 叩かれても我慢いたしましたよ!」
「ああけれど仕方がない、だって、ええ、そうですよォ〜!!」
「「「我々、ひとを『救済しすぎた』ようでございますう!!」」
ヴィジョン・ストーカー達が、『歓喜の声』を合わせる。
その黒い手は救いの手などではない。
振り払え。
「そうだね。お前達は『死なせ』すぎたよ」
死は救済。死ねば救われる。死とはうつくしいもの。死とは『希望』。
何故? すべてのしがらみから逃れられるから。何も考えなくて良くなるから。誰かが何かを言ったって、その言葉は、自分にはまったく届かなくなるから。
それに憧れる人間は確かに存在していて、彼、あるいは、彼女たちは。今も確かに救いを求めている。
だが、死を望まぬものへと無理矢理に押し付けられる|それ《死》は救済なんかではない。
「これは、ただの殺戮だ」
ブラウン管テレビを駐車場へ投げ捨てた張本人。クラウス・イーザリー(人間(√ウォーゾーン)の学徒動員兵・h05015)が、溢れ出る影どもを睨みつける。いったい『あれ』に何体詰まっていたのだろう? 影は各々細部の異なるブラウン管テレビの形を取り……ヴィジョン・ストーカー達が駐車場へ溢れかえっていく。
「あらあら殺戮! 物騒な響き!」
「おっと殺戮! なんと甘美な!」
「どうして殺戮! 不遜ですよ!」
ざわざわとノイズまみれの喧しい声を上げるそれら。
到着早々、耳障りな音を聞かされたレイ・ケトレー(玻璃烏の代祓者・h04962)が、げんなりとした様子で護霊を呼び寄せる。駐車場へと飛び降り着地したクラウスとレイに挟まれ、一部の群れが脇へと逃げていくが――こちらの戦力は十分。|あちら《逃亡者》は、自分達に続くであろう別働隊へ任せて良いだろう。
「世界が違っても、変なこと言う連中ってどこにでもいるんですね」
ぼやくレイの言う通り。どこにでもいる、普遍的である。それがどれほど恐ろしいものか、彼は知っているのだろう。簒奪者というものはどこにでも現れて、人類を脅かす。√EDENへ現れるものも大概己の√基準で話を進めてくるが、こいつらといったら本来の活動範囲であろう√内ですらこの有り様である。
「何が変なのやら」
「変とは如何なる」
「もしや貴方がた、救済をお求めではない?! なんと今なら! あがり様による無料の|救済《死》が――」
「いりません、他あたってください」
まだ喋ろうとしているブラウン管どもの言葉をぴしゃりと遮るレイ。大体、救済しすぎたとは何なのか。
「そうやって軽々しく『死』というものを使うから、途端に胡散臭くなるんですよ」
彼らがもっと重々しく話していれば、まだマシだった。それでも許すことはけして出来ない所業である。夜中には囁くくせに、昼間にはこんなに喧しいとは!
「グリント、衝撃波を!」
レイの護霊「|グラスクロウ《グリント》」が飛翔する。強い衝撃波を伴い、ヴィジョン・ストーカーの群れの中へと突っ込んでいく。破魔の輝きが彼らの影を焼き、ノイズを悲鳴としてスピーカーから吐き出すブラウン管。
「あっこの! そういう卑怯な!」
「どちらが、卑怯だかっ!」
霊力による追撃がブラウン管の数匹を黙らせるも、ヴィジョン・ストーカー達がまた騒ぐ。
「なりません、なりませんともッ!」
同等の攻撃には同等の攻撃を、目には目を歯には歯を。頭上に暗雲。
否、漆黒の空が広がり、レイを狙い影の驟雨が降る。それは『レイン』にも似て、だが似て非なる攻撃だ。具体的に言えば――。
「あっぢぢ!? ちょ待っわたくしどもにも当たっておりますが!?」
「中心誰ですコレおい出てきなさいよォ!」
「はいわたくし!! ごめんあそばせ!!」
「バカがァ!」
反撃するつもりが自分たちの放った雨で怯むとは、いったいどういうことなのか。数が居れば当然味方のヴィジョン・ストーカーへの巻き添え被弾も増える。
その隙にレイが後退し、影の雨の範囲から出た。替わりに飛び出したクラウスが影の雨をも厭わずブラウン管どもの中心へ。
「――雨に呑まれろッ!」
そして、『白雨』が降る。粒状の|レーザー《レイン》が群れていた影を討ち払うように、降ってきていた影の雨がふっと消えた。
「ちょっ痛いコワイ何ですか! 壊れますって電化製品と影にそういうのダメ!」
喚くものたちの思考、その中に呼び出されるは影の記憶。逃れられないと理解してか自分達の耐久力を上昇させるものの――再度『白雨』が降った。
「待って二度目ェ!!」
雨に撃ち抜かれ目に見えて数を減らし、喚くそれらが、騒ぎ立てる中。
……中身がまだ蠢いている、画面の割れたブラウン管テレビ。ヴィジョン・ストーカー達が離れたそれに。
「――古今東西、テレビは叩けばどうにかなると決まっています」
「同意だ……ねっ!」
振り下ろされるは卒婆塔と斧。かち割られたその中から「ぎゃア!」などと喧しい悲鳴が聞こえ、そして……沈黙した。
「ようやく尻尾を見せたな」
それでは。アルバイトではない、本職の職務を行うとしよう。澪崎・遼馬(濡羽の番人・h00878)が二丁拳銃を構え、溢れかえる影どもを静かに見つめる。
「ああ、まったくもって愚かなことで……あっちは自滅してらァ~でございます」
手らしき影を動かし、顎らしきところを揉み。喧騒の中から逃げ延びてきたヴィジョン・ストーカーの一体が、知的な雰囲気を醸し出しながら、まるで「自分が指揮官です!」といった態度を取っている中。
山田・ヴァイス・ゴルト・シャネル三世(フィボナッチの兎・h00077)がそれを真似し、自らの顎を揉んでみている。
救済、救済と喧しいことだ。こちらはまだ多少まとも。なのか。否、そんなわけはなく。
「ハァ~~思いっきり数が減っておりますが?」
「これじゃァわたくしども全滅一直線!」
「あがり様の『オススメ! 一晩救済コース!』から逸れてしまいましたね面目ない!」
結局は、煩いのだ。仲間割れなのか、何なのか……。増えに増えて、減って喚く。こんなもの聞き流してしまえばよい、シャネルにとっては|私《わたしたち》以外が増えても減ってもといったところか。しかし耳障りには違いなく。
「機械は叩けば直るというね」
「直りそうか」
「さあ? 早速試してみるとしよう」
第一に考えることは、概ね皆同じか。叩けば直る。なんなら叩きすぎても良い。それでは目指せ、|ナナメ45度《的確な角度》。
シャネルがぱちんと指を鳴らす。同時に揺れるは、空気でも、地でもなく――喧しいブラウン管どもだけだ。
「オワーッ!? ご歓談の最中におやめくださいまっアダッ」
「ちょっ距離! 距離を取りまッショォ!?」
がちんごちんとプラスチックや金属のような身体がぶつかり合い、互いが互いを傷つけ、果てには画面をかち割られ沈黙するものも。ああ|ナナメ45度《的確な角度》。
距離を取ろうとしたものは随時、シャネルにより振動させる方向を変えられ、愉快な音と共に衝突するよう仕向けるわけだが。
「いやいっそ固まってしまうのは!」
「名案!? 擦り傷で済みそうですねえ!」
何が名案なのだか分からない。各々影を接続し一丸となり、負傷を軽減しようと試みる。同時に、中心に――恐らく最も深い場所へと押し込まれたヴィジョン・ストーカーがくぐもった声を上げる。
「――お帰りください。本日の放送は終了いたしました」
他と異なる冷静な声。だが、それもただの一体のものではあるのだが。
「あなたがたの生命も、本日をもって終了。本日は雨天、命を奪う雨が降ることでしょう――」
……降り注ぐ、影の雨。それが何だ。知ったことではないとばかりに遼馬が走る。黒い雨を全身に浴びながら。漆黒のコートをさらに黒く染め上げながら、『鴉』が飛ぶ。
「……地獄を知らぬ御手では、当人を殺すことなどできん」
接続するヴィジョン・ストーカーの腕を、彼は確かに掴んだ。
おまえたちが知らぬものを教えてやろう。憶えておくと良い。此岸の先にあるものを。
「冥府の何たるか、一度その身で味わってみるといい――」
これこそが『地獄』。そこが彼岸だ、送ってやろう不死者ども、二度と帰ってきてくれるな。安心したまえ。
――零距離射撃。「|不帰《イルカルラ》」、冥界の女王の手は、おまえたちを逃さない。
葬送の弾丸が撃ち込まれた。集まっていたヴィジョン・ストーカーたちが燃え上がる。ノイズ、悲鳴、影の雨では消せぬ地炎が辺り一面へと燃え広がる。
それを受けようと、炎に照らされようと、辛うじて接続されていた接続をまだまだ続くシャネルの|霊震《サイコクエイク》が揺らし引きちぎる。
そして……攻撃の範囲外へと逃げようとするブラウン管を、その揺れでひっ捕らえた。
「一台そっちに飛ばすぞ。そーおれっ」
指先の流れは滑らかに弧を描き。横へと振動、停止、その指の示した軌道のまま遼馬の方へと吹き飛ばされるブラウン管を、弾丸が撃ち抜いた。
「急だ」
「そう言わず、つれないね。ほら!」
「アア~~!?」
間抜けな声を上げるもう一台。命中。……そうして、ヴィジョン・ストーカーたちの声はようやく止んだ。
……はずであった。
「ちょっホントっ……痛……ナンデ? 隠密は完璧であったはず……」
――真っ二つに割れたブラウン管から手が伸びている。最初に投げ落とされた、彼らが依り代としていたものに隠れていたのだろう。
アスファルトに手をつき、命からがらといった様子で這いずり出てくるそれの前には。
残念ながら。希望やら、救いやら、そんなものは存在せず。
「いただきます」
――『|ごちそう《贄》』へと手を伸ばしてくる、シャネルの姿があった。
……影へと牙が食い込む。やわらかく貫通する。つまらない食感。ノイズの悲鳴。
ああ『テレビであったもの』が腹の中へおさまっていく。咀嚼する顎は止まらない、ノイズはもう止まってしまった。ぱりんとガラス、ぱきりとプラスチック。ケーブル類やコンセントはさながらパスタだ、巻き取って「おさめて」しまえ。基盤だって愛らしいチョコレート。これが中々、少ないことを惜しむほど。甘美とは言い難い? だが歯ごたえは、とびきりじゃあないか――!
……|悪食暴食、尚も傍若《トラジックバニー》の歯は、ヴィジョン・ストーカーが依代としていた『それ』をあっけなく、シャネルの腹の中へと導いていった。
「足りないな」
目を細め、「よごれた」唇を親指で拭い去るシャネル。
叩いて直す? 知ったことか。|私《わたしたち》の腹の中でリサイクルしてやったほうが有意義だ、そうだとも。光栄に、思え。
――同じ|警視庁異能捜査官《カミガリ》。だが目前のそれは間違いなく、人間災厄のかたち。
遼馬が視線を向けているのを見て、シャネルは小首を傾げ。僅かながらの|残飯《ガラスの破片》を差し出すも、彼は小さく横に首を振り。結局シャネルは、手に取ったそれを、ぱくりと口に含んだ。
第3章 ボス戦 『人間災厄『善意の死滅天使』高天原・あがり』

みんなすくわれてしまったようだ。
少女は首を傾げ、部屋の窓から駐車場を見ている。
みんな、わたし以外に、すくわれてしまったようだ。
まあきっと、彼らも幸福だったはず。でないと「|死んで《救われて》ない」はずだ。
じゃあ、あそこに『残ったもの』はどうしよう?
そんなの、とっても簡単だ!
「わたしが救ってあげよう」
希望に満ちた満面の笑み。部屋の窓から飛び出して、車のルーフをべこんとへこませ着地して。
上機嫌にアスファルトへ降り立つと、当たり前のように、声を上げた。
「わたしがみんな、|殺して《助けて》あげる!」
――救済、執行。
降り立つゴキゲンな天使。笑みは深く、心の底からの善意に突き動かされ、彼女はそこに立っている。
「救って欲しいなんて言った記憶は無いよ」
吐き捨てるように呟くクラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)。
高天原・あがりは、その言葉にまったく動じず、逆にこう聞き返してくる始末。
「神なんていないっていう人も、いざとなったら「ああ神よ!」って言うでしょ。救ってほしくないって言っても、本当は「助けて!」って叫んでることだって、絶対あるよ」
――話が、通じない。善意、善行、善き事を行なっているという自信。この手の|人間《災厄》は厄介極まりない。自分自身の常識を捻じ曲げたまま戻せない戻らない曲がっていることにも気付けないのだから。
「――ハロー、|災厄《カラミティ》。アンタの救いをブチ壊しに来たわぁ」
さて、そのように語られる災厄とて、人に加する者も多く。こちらもまたゴキゲンな登場。冬空に映える真っ白なエレキギターを引っ提げて、虚峰・サリィ(人間災厄『ウィッチ・ザ・ロマンシア』・h00411)が現れる。
「そだね。救われたくないなら私を|壊せ《救え》ばいいんだもん」
まるで「経験してきた」事かのように笑むあがり。手を後ろで組んで、楽しげにつま先をとんとん、打ち付けて。
「……死が救いになることがあるとしても、今の俺はそれを求めていない」
クラウスの言葉にも、のらりくらり。
「大丈夫、みんな√能力者でしょ。だったら何度でも救ってあげられるし、私も救われるね!」
ぱあっと浮かべる笑みは、あまりにも純粋。唇を強く結び、クラウスは改めて、「それ」が完全に対話できない存在であると理解した。
√能力者は死ねない。彼女にとっては救えない存在だと考えていたが――『|救え《殺せ》ない』のなら、あがりはここで戦う事を選ばず逃走したことだろう。何度でも救える――なんと、非道な響きか。それを正気と善意で放ってみせた彼女は――。
「あの人には、幸せな最期が待ってたんだよ」
きらきらとした目の輝きは変わらない、増すばかりの光で、クラウスを見つめた。
――詠唱を始めるサリィ。端から見ればただの演奏、|重奏・十重二十重に歌え聖なる日1224《ヘヴィーゴスペルワントゥートゥーフォー》。
回転する光背が分裂し、クラウスへ放たれる光輪。彼はすかさずアクセルオーバーで自身の速度を上げ、その光輪を避け距離を詰めるも、あがりは身軽にひと飛びし、すんでのところで一撃目を避ける。
しかし次の攻撃が待っている。圧倒的な速度でそれに追いつくクラウス。あがりの目前に迫るは紫電一閃――己の放つ救いの光とは異なるそれを腕で受け、雷による衝撃で吹っ飛ぶ身体。それでも受け身を取り、彼女はすぐさま立ち上がってみせた。
「私は乙女の守護者だけれど……世のボーイ達を見捨てるかと言えばそうじゃない」
乙女が恋をするには、ボーイが必要でしょ? あるいは、それに匹敵するものが。
サリィの周囲へと生み出されていた光の弾丸。自分へと向かってくる光輪をあがりへと反射し、その腹を掠め肉を裂いていく。痛みに眉をひそめ……彼女は再度、光背を輝かせ光輪を放つも、それすらもサリィは反射し、光弾と共にお返しする。
「直感で分かるわぁ。アンタの『|救済《キバ》』は、いずれ乙女達へと届く」
……その前にここで消えなさい、災厄。
要らぬ救済、返却するに限る。次いで目潰しとして放たれた光弾と共にクラウスが再度迫り、光輪で切り裂かれるその身体へと不意打ちの追撃を加えた。
「い……たい! 痛いよっ! こんなの『|幸福《しあわせ》』なものじゃないっ!」
喚くというよりは文句に近く。外見とは裏腹、存外タフな存在のようだ。苦痛を伴う死は、彼女にとっては好ましくないようで。
「その痛みを、苦しみを彼に与えようとしていたのは、誰だ」
クラウスが放つ回し蹴りをなんとか受け止めるあがり。持論が通じない事で段々不機嫌になってきたらしく、その顔から笑みが消える。
「他人が幸福かどうかはアンタが決めるものじゃない。あの彼も、別れ話をした|乙女《彼女》も、アンタの考える救いや幸福なんて求めちゃいないの」
すべての恋する乙女を愛するサリィにとって、被害者になろうとしていた男は――別れ話を切り出されていた以上、多少頼りない存在に思えたかもしれない。
けれど、彼が思い詰めるきっかけのひとつになった、その恋。彼の視線の先に居たであろう『乙女』。それらのために……いや。他にも理由はあるけれど。
「物騒な救済を周りに振りかざさなければ……アンタのことだって応援してあげられたかもしれないのにねぇ……」
まあ、彼女が恋する乙女かどうかはさておいて。ひとつ、言えることは。
「――そもそも、別れた後すぐ、元彼に自殺なんてされたら――彼女、次の恋ができないじゃない!」
正論のひとつをぶつけて、次なる光弾を放つサリィ。目潰し、反射、生み出される光弾の合間を縫って叩き込まれるクラウスの攻撃に、あがりは小さく唇を噛んだ。
「うるさい詐欺師だね、そのお口を縫い付けてやろうか」
「詐欺? こんなにいっぱい『|救って《殺して》』きたのに?」
黙れと言われても黙りはしない。己は正しいと思っている。「己が|導いて《殺して》きた者達」の意志を勝手に背負っている。望まぬ救いの手を伸ばされた彼らの事を思えば、その言葉に重みは存在しなくなってしまう――いや。
彼女に、本当に救われたくて、救われた者も。きっと、多少はいるのだろう。感謝とは甘い甘い蜜。報酬。人間に餌を貰った獣は、人間を『食物を与えるもの』と認識する――。
「自分が与えてきたもの、お前が苦しませてきた人間たちのこと、多少は考えてみることだね」
赫涅沢・秤(取り替え子チェンジリングの怪異解剖士・h02584)は煙草に火を付けて咥え、煙を吐く。背後に忍ばせる影業を、己の影へと隠して。
――先に『すくわれた』者へと聞いた。彼は「眠るように」逝ったのだと。けれどそれは、目前に立つ少女が仕組んだことだ。『指を組んでいた』から。……どのような死に様だったかは……ある程度は、想像できる。
彼女の言葉が、あがりの気に障った。明らかに強く、嫌悪感をもって睨む彼女は、ぎゅっと瞼を閉じたあと喉が張り裂けそうになるほどの声量でこう叫ぶ。
「――苦しみが好きな人なんてッ、居るはずないよ!!」
叫ぶ声。同時に秤の身体が麻痺する。目を見開き秤を睨むあがり。秤が指一本動かせない中、煙草の灰が、ぽたりと落ちた。
敵意と共に光背を輝かせ、光輪をチャクラムとして手にしたあがりが駆けてくる。
その瞬間を、秤は。いや。彼女の影業、『かーくん』が逃さなかった。
「ぅあっ?!」
するりと秤の肩から這い上がるように現れ、あがりの目を狙う。――目を閉じた。再度視界を確保しようとする顔に煙草をダメ押しとばかりに投げつけ、慌てて顔を手で払うあがり。
そんな大きな隙を逃すわけもなく。影業かーくんがあがりの得物を掴み上げ、狼狽える彼女へと秤は、メスを振り抜いた。
「――!!」
狙ったのは、喉。深く切り裂かれた瞬間、悲鳴すらも掻き消える。傷こそ深くはないが、黙らせるには十分。さて、囀りの止まった慈悲の天使に向け秤が語りかける。
「心が弱った奴にどんだけ甘言を囁いて、死に堕としてきたんだい?」
希死念慮という僅かな隙間から入り込んで、死んでもいいよ、救われるよと囁いて。
偽善者は自身がそうだとは決して言わない。優しい己を演出し賞賛を得たいから。
たとえそれが「心の底から、人間を愛し、ゆえに死への恐怖を克服させようとしている」ような相手でも。
――「ああ、|救えた《殺せた》!」……その言葉を口にする快感からは、逃れられない。
「……わたしァ家族を失ったから己に目が向いた口なもんで」
苦しみを好みゃあしないが、嫌いではない。だが進んでこの身体を捧げるなんぞ、それこそ深く、お断りだ。
出会う場所が違えば。この者が人間へ、積極的に害を為す存在でなければ。この|天使《人間災厄》と、友になれたかもしれない。澪崎・遼馬(濡羽の番人・h00878)は疲弊の色を見せるあがりへと視線を向けている。どこか惜しむように、憂うように。
同じく、導くもの。死を必要とし、死を齎す者という点で、自分達は似た存在である、と。だが、決定的な違いが二人を分かち、深い溝を作り上げている。
「死による救済は所詮、次善の逃避に過ぎない」
本当は誰だって、生きて幸福になりたいのだから。最善たるそれを選ばず、死こそ救済であると信じ込み行動する、真の意味での確信犯。
未だ声を上げられぬあがりは、必死になって首を振る。違う、そんなわけはないと。
これが、いちばんなんだ。わたしはそうしていきてきたんだから。しんで、いきて。いきて、しんで。
何度だって繰り返してやる。わたしのすくいはここにある。彼女が己のAnkerに殺されるまで――いや。殺されたとしても、この思考を正すことなど、できはしない――だから。
「苦しみが、好きな人なんて。居るはず、ないよ」
ゆっくり、しかし確かに絞り出した。だが遼馬の速度には間に合わない。投げつけられたのは、あがりの視界を阻むための棺だ。直立するそれが視界を遮る。彼女が後退し視界を得ようとする隙に、側面から視線を切りつつ回り込む遼馬。
「苦痛を好きな者はいない――確かにそうなのだろう。だが苦痛を乗り越えたとき人は成長し、幸福を得るのだ」
赤子は何度も転び、痛みを知る。幼い心は小さな事で何度も傷つく。物心を得ても変わらない、大人になっても、生きている限り、苦しみからは逃れられない。それが些細なことであれ、傷の残るようなものであれ――痛みを胸に刻み。治らぬ傷口を時に抉られ、それでも生きるのだ。
汝に告げよう。汝の全ての問い、全ての希望、全ての願いに対して。私はこう告げよう――。
ああもちろん、二度など言わない。よく聞け。
「故に汝、苦痛を愛せよ」
彼岸に此岸。双銃と溶けあう右腕に、黒白の翼が乱れて生える。曰く――天の使いも、「このような姿」をしているらしい。
葬絶臨命――長大な銃身が翼の海から覗き。そのままあがりの腹を、至近距離から撃ち抜いた。
かふ。喉から肺の空気が押し出される音。大穴の開いた腹部を守るように腕で覆い、恨めしげに遼馬を睨む目も、今となっては脅威ではない。
さあ祈れ。祈れ、苦痛を愛して祈るがいい。
愛するように、祈って生きよ。
おまえに足りないものは、救済などではなく、只々、祈りである。
「首魁のお出ましか」
もっとも、『バイト仲間』達に「相当に「してやられた」あと」のようだが。それでも立っているのなら、その脚をへし折らねばならない。息の根を止めねばならない。
「何故直接住人を殺さなかった」
言葉に対し、あがりは目をぱちぱちと瞬かせる。どうにも、意外な質問であったらしい。息を切らしながらも、山田・ヴァイス・ゴルト・シャネル三世(フィボナッチの兎・h00077)の声に耳を傾けている。
「敢えて自殺させるなんぞ回りくどいことをせずとも、いくらでも方法はあっただろうに。テレビを使う必要があったのか?」
恐らく、彼女はこの話題そのものには、さほどの興味はない。後に仕上げなければならない報告書のために、記録するために質問している。
既に、彼女が今回行った所業は見聞きした。無差別ではなくひとつの「きっかけ」を用いて、希死念慮を増大させ、そこから理性を引き剥がし……自殺という道を選ばせる。今回はそう。次回はどうだか。だがこの記録を残すことは、次へと確かに繋がっていく。らしい。
あがりは掠れた声で、こんな姿になってもまだ、己の信じるもののために口を開いてみせる。理由を吐き出してみせる。
「……誰かを「助ける」のは、|美徳《よいこと》でしょ? 自分から、『|あっち《救済》』に迎えるかどうか……見てたんだ」
ああなんと単純で、どうしようもなく善意。手を差し伸べることは簡単で、自身も、そして手を伸ばされた相手も満たされる行為。半端に常識的な思考を持ち合わせているそれに、シャネルはふむと首を傾げた。
わからなくもない。そういう感じか。人間の美徳という基準、それを理解しそれに従い、人曰く「その美徳と善意がねじ曲がった」ゆえに、彼女は災厄としてここにいる。
「そうかよくわかった、ありがとう。参考にならなかった」
あがりの言葉をさらり流してひらっと手を振るシャネル。と同時、彼女の背後からぴょん、と一羽の兎が飛び上がった。金色。陰からぞわりと溢れる二十匹。あがりが目を見開く。
「それでは行こうか。|私《わたしたち》は少々、腹が減っているんだ」
迫るは数の暴力。圧倒的な質量。溢れる兎。一羽。二羽。四羽。七羽。もはや数え切れない。増える、増える、殖える。
ねずみ算、サバ読み、そんな言葉どもが意味を失う、兎の海に溺れて死に絶える。
波のよう否もはや海のように増えるそれを見て、あがりは「根源から断たねばならない」とすぐに理解した。シャネルを狙い光輪と融合させようとするも、彼女をかばって跳ねた兎の一匹を捕らえるだけにとどまってしまった。
「幸福か?」
|罠にかかった《捕らえられた》その|一人《一匹》に聞くも返答はなく、そのまま融合され消えるそれに肩をすくめて、次弾たる光輪を放つあがりを見る。今度は兎とシャネルを蹴散らすために飛来する斬撃、跳ねる兎ども。切り裂かれた兎達が消える中で……気づけば、彼女の顔が至近距離にある。
「あ」
十字の虹彩。兎の群れ。自らの生命を蝕む、金色。
「私、――」
あがりは天を仰ぐ。見えるは陽。目を焼かんばかりの冬空に浮かぶ、暖かくも遠いそれを、見て。その頭へと飛び乗ってくる兎。飲み込まれる。何も見えなくなる。くらやみのなか、浅くなっていく呼吸、心音、それから、それから。
「救われるんだ」
――最期に残されたそれは、歓喜の呟きであった。
人間災厄、高天原・あがりは、√能力者である。死んでも死にきれない。それでも。そう、それでも、だ。
「君は何度だって救われることが出来る」
Ankerに殺されない限り。シャネルの目線は陽の光とは程遠い凍てつく眼差し。『死滅』は忌むべき。なぜか? ふえることが、出来なくなる。それではこの飢えを満たせない。
「君の、ひとつの目的。ここに見たぞ」
白金兎は笑みを浮かべる。腹は――多少は、満たされたか。喰らい尽くそうと群れる|私《わたしたち》を見てから、『あの部屋』へと視線を向けた。
これから、元の住人が帰ってくることだろう。人間にかける優しさも言葉も持たぬシャネルにとっては、本来放置したって構わないわけだが。後々、もしもだ。あれの影響が残ったままで死なれた場合、仕事として片手落ち。
帰って来ればそのくだらないであろう困り事を聞いて、必要な窓口に繋ぐくらいはしてやろう。それが公僕としての努めである。笑える話だ、災厄が人間の細かな面倒なんて。
小さく息を吐いた頃には、兎たちは既に姿を消していた。
――さて、その後。
「やあ、どうも。ちょうどバイトが終わった所だ。さ、どうぞ、前に座るといい。結果のほうをお伝えしよう――」
……帰ってきた男は、案の定記憶が曖昧で。綺麗に整えられた部屋に違和感を抱くこともなく。ただ延々と、シャネルに元カノの話やら転勤の苦労やら、くだらない話をつらつら語ったのは、別の話。