幻想雪桜 ~雪月花に一滴~
――ふわふわ、ひらり。
真白の雪に淡い桜の花びらが寄り添い舞う。日が暮れて尚も煌々と明るい温泉街は、夜半の雪桜を楽しむべく往来する観光客で賑わっていた。
新調した厚手のコートにマフラーを巻き、しっかりと防寒対策をしてきたラビエル・ロゼブランシュであったが、道中の凍えるような寒さも一瞬で霧散してゆくほどの美しい光景に息を飲む。
「なんと幻想的だろう。そう思わないか、継仁?」
「ええ、まことに」
鷹揚として肯いたのは、それまでラビエルに付き従うようにしずしずと歩を進めていた藤宮・継仁である。どこか憂いを滲ませる伏し目がちの眼差しを、ほんのひとときでも奪いたくて女たちが己の存在を競うように匂わせるが、継仁は淡く儚げな一瞥にとどめている。
凪いでいるため、雪も桜もふわりふわりとしたゆるやかさで地上へ降り積もり、ゆえにか時の流れがひどく穏やかに感じられるこの美しさを、月並みな言葉で表すのはいっそ無粋に思えた。
「今宵は雪月花となりましょうか」
「……嗚呼、確かに。月が掛かれば尚のこと美しいだろうね」
ついと細い顎を持ち上げ、未だ顔を見せぬ月を想う。
言葉を紡ぐたび吐息は白く煙り、雪化粧を施した桜の花を悪戯にくすぐるさまにラビエルは眦を細めている。
ずいぶんと遠くまで来た。慣れぬ土地、めずらかな光景に在る己を俯瞰すると不思議な心地がするものの、けれどそれは決して厭ではない。
(この景色なれば、ラビエル殿もしっかりと癒されることでありましょう)
唇にやさしげな笑みを刷いた継仁が、満足そうにひとつ頷いていることなぞ露知らず。
〇
ふたりが選んだのは、ちいさな庭園が望める離れであった。
宿の上層から一望する景色も、さぞや絶景だろうと思いはするし、実際スタッフにも薦められたのだが、賑やかすぎる気配に満ち満ちているのを膚で感じるよりは、喧噪から遁れた離れで静かに過ごす方がよいと継仁が判断した。
「ははあ、露天風呂にございますか。風流ですなあ」
とは言え、離れひとつひとつに露天風呂が備わっているとは思いもしなかったのか、付喪神は竹垣に囲われた向こう側から枝葉を伸ばす桜の木を仰ぎながらぱちぱち瞬いている。
これは味わわなければ損というもの。
「私もお邪魔いたしましょう」と狩衣を脱ぎ始める継仁に、腰を落ち着かせようとしていたラビエルがぎょっとして振り返る。
「……は、何を言っているのだね、継仁? 裸の付き合いなど僕は望んでいないよ」
露店風呂には入るつもりでいた。
噂で聞き、書物でもよく目にする温泉には興味があった。湯には泉質別に効能があり、血行促進、疲労回復、冷え性の改善などが認められるという。血の伯爵夫人ではあるまいし、湯に浸かるだけで身体の不調が癒されるとも思えず、実のところ疑っていたのだ。
それを今日はじっくりと身を以て検めようと思っていたのに。
「なに、恥ずかしがることはございませぬ。『裸の付き合い』も偶には必要でございましょう」
「恥ずかしいわけではないっ」
あまりの不服に少々声を荒げてしまったラビエルは、しかし「このような機会は滅多に味わえぬのですから」という言葉にはぐうの音も出ない。
確かに、次にいつこのような機会が訪れるのかラビエル自身明確な答えを持ってはいなかった。桜と雪が同時に拝めるなど、またその奇跡の瞬間に|この土地《√妖怪百鬼夜行》に居るとも限らない。さぞ妹は悔しがっていることだろう。
「……やれやれ」
|あれ《妹》に土産話をするためにも、話題はひとつでも多い方がいいか。どうにも丸め込まれた気がしないでもないが、固辞し続けるのも疲れてしまう。ラビエルは怒らせていた肩を落とすと、白手袋を外し纏っていたそれらを丁寧に脱いでいく。
にこにことまるでプレゼントを前にした子どものように笑っていた継仁は、ふと視界の端に映ったラビエルの体躯を見て、短く息を詰めた。
「? ……なんだい、人の身体をじろじろと見て」
「いえ……その」
細く長い指先で自身の口元を覆う。
本の虫であるラビエルは出不精ゆえの細身だとばかり思っていた。セレスティアルであることに加えて貴公子めいた見目も相まって、どうしてもなよやかな印象を与えてくるのに、実際はほどよく引き締まった筋肉に均整の取れた体躯をしていたのだ。
「侮っておりました……」
幽かな呟きは届かないかと思われたが、しかしそろりと窺えばどこか得意げに、あるいは悪戯が成功したような瞳の輝きを放つラビエルがおり、まこと面白きひとの世だと感じ入ると同時に、継仁は己の知見もまだまだであると思い知った。
「まろやかなお湯だな。温泉とはもう少し熱いものかと思っていた」
とろみのある湯は薄っすらとした青色であった。恐らく日中の明るい頃合いに見れば、透き通ったブルートパーズのように美しいのだろう。日が落ちた夜のなか、湯の表面は灯籠の灯りを溶かし込んできらきらと眩いばかり。
迷い込んだ桜の花びらが湯の輝きに落ちてくるのが大層美しくて、雪の冷たさなど気にならないくらい心がやわらかくほぐされてゆくように思われた。
ラビエルと継仁は会話こそ多くはないものの、星が瞬く夜空をふたり肩を並べてしばし仰ぎ続けていた。
〇
「ラビエル殿はまこと酒がお好きですなあ」
慣れぬ浴衣もさらりと着こなすラビエルが、日本酒を傾けているのを見て、継仁はきょとりと目を丸くする。成人しているとはいえ節度はきちんと守っているあたり彼の生真面目さが窺えるし、次から次へと開けるのではなく、一杯を大事に呑んでいるところも、嗜む程度に抑えているのだと気を付けている心掛けが伝わってくる。
「あくまで美しく飲まないとね」
この美しい世界と共に飲む酒はたしかに旨いが、酒に溺れて異国の地で醜態をさらすわけにはいかなかった。
「仕事を片付けた後に晩酌していること、存じております」
あわく微笑む付喪神に、器用に片眉をすいと吊り上げる。
「知っていたのか」
べつに悪いことをしているわけではないのに、どうにも座りが悪い。微かに身動ぎしたラビエルは、それを誤魔化すように唇にお猪口を引き寄せた。
「ふふ、今宵は私もお付き合いいたしましょう」
しなやかな指先が、温められた徳利を摘まむ。自身のお猪口に注ぎ、それからラビエルのほうへ。眼差しに促されたラビエルは口に含んだ酒を嚥下すると、大人しく酌を受け取った。
どれほどの杯を傾けた頃だったのか。
この景色がそうさせたのか、あるいは酒が心の裡をほぐしたのか。
「ねえ、継仁」
問いかけたラビエルの視線は雪見窓の外に向いていた。
しんしんと降り積もる雪が世界の音を飲み込んで、まるで今この世界にいるのはラビエルと継仁のふたりきりではないかと錯覚してしまうほどの静寂。
「はい」
ゆるりと鷹揚な返事に引き寄せられるように、ラビエルは胸の内にあった希望のような想いを口にしてしまう。
「ずっとこの景色の中に居られたらどんなに良いだろうね」
言ってから、ラビエルはすこし不安になった。
秘めていた想いを、願いを口にしてしまったら、それが叶わなくなるのではないかと。なぜだかそう思う自分がいる。
「ずっと……この景色の中に居られたら」
どきりとする。
沈黙の合間に紡がれた言葉は思いのほかやわらかく、一瞥で窺った継仁も窓外に視線を向けていることにひどく安心した。
「それは、とても幸福で。目覚めることのない夢のようでしょうなあ」
唇には笑みが浮かんでいる。それは、どこか慈愛に満ちたやさしい笑みだった。
継仁は嬉しかったのだ。なんでもその背中に、ひとりで背負ってしまおうとする若き青年が、珍しく弱音を吐いたことに。この美しくも儚い現世と、清らかな水のような名酒の力も確かにあったのかもしれないが、ほろりと零れてしまった相手が自分である、その事実にも少しの安堵と切なさを重ねて胸に秘める。
「ラビエル殿。人生は、貴方様が思うよりずっと長く、なれど目の前の景色は一瞬なのですから」
継仁の言葉は、空いたラビエルの傍らに寄り添うようであった。
「……解っているさ」
酒を口に含み、嚥下して。無理やり口端を持ち上げてラビエルは笑う。居た堪れないのは己の発言があまりにも幼稚であったと気が付いてしまったから。守るべき領民が居て、自分には導きと統制をおこなう義務がある。まるでそれらを投げ出したいと言っているような発言だったと、瞬時に理解してしまった。
「心配しないでくれたまえ。帰ったらきちんと務めは果たすよ」
取り繕った笑みを、付喪神は真っ直ぐに見つめている。胸の裡すら覗かれているように思うのは、己より遥かな時を過ごしてきた付喪神だと知っているから。
友人。
まるで主従関係のように見えるだろうが、ラビエルと継仁の関係を一言で表すならそれが最も適していた。とは言え、出会った当初から「|主人殿《あるじどの》」と呼んで憚らない継仁のせいで、あまり信じてもらえはしないのだが。
存外、本から現れたこの付喪神はマイペースで、そんな彼の思うままになっていることにも気が付いている。敬うような態度をされて、本当は内心で恐縮していることすら、きっと知りえているのだろう。それを不思議と嫌だと思う自分は見当たらない。
「どうか急がずに。今宵はゆるりと楽しみましょう」
まるで幼子に言い聞かせるように、あるいは導くように。
「今という時の素晴らしゅう色を、どうか忘れずに」
|古き物語を収めた一冊の書《継仁》は、ラビエルの杯に酒を満たして、淡く微笑んだ。
贈られた言葉に瞠目したラビエルはちいさく唇を震わせ、
「……そうだね」
幽かに、ちいさく、降り積もる雪の音にすら溶けてしまうくらいの儚さで呟いた。
ラビエルには、また戻るべき場所がある。それはこの美しい光景のなかではないけれど、自身にとって心から大切だと思える場所。それを知っているからこそ、奇跡じみたこの夜を愛おしく思う。
どれほどの困難が待ち受けていようと、どれほどの辛苦を舐めることになろうと、それでも|彼《ラビエル》は歩いていく。歩いていかねば、ならないのだ。
(その誇り高さと諦念がどこへ向かうのか――これからも私は見守ろう)
せめてその傍らで、彼の友人として。迷子にならないようにその足元に明かりを灯してあげよう。
若いのに気苦労が絶えぬ努力家が、ひとりで躓いて泣いてしまわないように。
(――なんて言ってしまえば、怒ってしまわれるでしょうなぁ)
それもまた一興。怒りもまた彼の心をほぐす薬になりそうではあるけれど。彼の妹とのやりとりを思い出しながら、継仁は口元に引き上げた袖の裏でこっそりと微笑んだ。
「おや。月が出てきたようだよ」
真白の雪に光の筋が落ちているのを見、ラビエルが雪見窓を細く開いて空を仰ぐ。涯ての稜線から顔をだした月はころりとしていて、風もないのにふわふわはらりと舞う桜の花びらを光で磨くように照っている。
「まっこと、美しゅう浮世でございまする」
雪が解ければ世界は淡い花色に染まり、散れば新緑が芽吹き出す。雨は世界を洗って、照りつける陽射しは世界をまた眩しく輝かせるのだろう。四季の移ろいがひとの心に彩りと安らぎを与えてくれるのは、今も昔も変わらぬ事実を嬉しく想いながら、継仁は降りしきる雪桜を見つめて眦をやわらげた。
どうか、この愛しき現世がいつまでも連綿と続きますように。
その美しさが、いつまでも人の心に寄り添うものでありますように。
世界がほんの少しだけ、彼らにやさしいものでありますように。