|楂古聿《しょこら》に溶かす想い
――幾度も通った店は、いつだって実家みたいな安心感がある。
扉を開ければ、ちりん、とベルが鳴って。
琥珀の灯りと、磨かれた木の匂いが、ボクを「いつもの場所」へ還してくれる。
爪先の届かない高椅子に座るのも、もう慣れたものだ。
黒レースのハイネックに赤のクロップドニット、焦茶のスリットスカート。苺チョコみたいな配色のまま脚を揺らすと、太腿の肌がちらりと覗いた。
小柄な自分には、この宙ぶらりんな高さが妙に心地いい。
カウンターの奥では、|麗しの蜜香酒《友人》が仕事中。彼女の手元を眺めながら手慰みにグラスを揺らした。リクエストしたカクテルの前に、先にもらった苺のシャンパンから小さな泡がキラキラと輝いている。
誰かがいる気配と、奏でる音が好きだ。
まだ実体がなかった頃――ほとんど知覚されることがなかった頃の名残。誰かと一緒にいると思える感じが、なんとなく今も好ましい。
今はボクの声も、指先も、誰にでも届くけれど。
届くようになったぶん、届かないものの輪郭も、はっきりしてしまった。
洒落たボトルに入ったチョコレートがメジャーカップへとろりと注がれる。
店に漂う甘ぁい|楂古聿《しょこら》の香りにつられてよぎるのは
『ーーーーー』
いつかの夜に言われた言葉。
闇に沈む海みたいな、誰かの言葉。深くて、冷たくて、なのに優しくて――触れた指先が離れなくなるみたいな、あのひと。
他対象に重きを置いた願いは、彼が言う《欲》ではないらしい。
じゃあ自己対象の欲って、なぁに?
首がどうしても傾く。自分のため、って、どこからどこまでが自分なのだろう。
アノ子がいたからこそ、|ボクはボク《糸切鋏の付喪神》に成った。
ボク自身の根幹自体が、彼女への執着みたいなもので――それを考えると、それこそ……。
|《……誰かを通さなければ、欲どころか……ボクはボクを自認すら出来ないのでは……?》
吐息がひとつ、グラスの縁で白くほどけた気がした。
蜜香酒は背後の壁からウイスキーのボトルを取り出している。
視界の端でふわりと揺れる、黎明色。
ランプの陰影か、グラスの反射か。
淡いその色から連想したのか、頭にちらつくのは彼女よりも濃い青紫と、苺飴みたいに煌めく赫色だ。
心が……指先が……求めてしまう。
ヒトの子は|見守る《見送る》ものと諦めていたはずなのに。
この感情の手綱のとり方が、未だ分からなくて。分からないまま、強くなる。
唇で湿らせたグラスの縁を無意識になぞった。
失いたくない。喪いたくもない。
生がそれを邪魔するなら|連れいってほしい《共に果てたい》、と。
雁字搦めになるくらいに執着して欲しい、と。
――重く、浅ましく思ってしまう、この心は。
|ボク自身の欲、に値する……《他対象に重きを置いた願いなんかじゃない》?
答えは出ない。出ないのに、欲だけは輪郭を持ちはじめる。
「お待たせしました。」
差し出されたグラスは、全てを溶かし落とすような深い褐色。
一瞬だけ薫香を感じて顔を上げた。
「わ、ありがとうー……♪」
蕩けたジャムを思わせる瞳を細めれば、蜜香酒も嬉しそうに頷いた。
表面には薄い泡が一層だけ乗っていて、光を受けると、そこだけ星屑みたいにきらりとする。縁には、削ったチョコレートがひとひら。甘いのに、背筋がすっと伸びる香り。度数が高い。飲む前から分かる。
グラスを受け取って、くるりと回す。液体の重みが手首に伝わる。
これはきっと、夜を沈めるための一杯だ。
一口。
甘さのあとに、熱が追いかけてくる。喉を焼くのではなく、胸の内側を撫でるように広がって、じわりと身体の輪郭を溶かす。身体を蕩かすようなショコラの奥に、熱く印象的な|ウイスキー《ラフロイグ》の気配が混じっていた。
「……ふふ。意地悪」
「甘いだけでは物足りないでしょう?」
思わずこぼれた声に、蜜香酒は優しく返す。
グラスをもう一度揺らして、甘い闇を喉へ落とした。
甘さの後に潮の匂いが遅れて追いかけてきて、あのひとを思い出させる。
闇に沈む海みたいな彼への想いもあった。名前はない。つける気もない。
ただ、幾年も先――今ある縁が絶えた後であろう遠い先に、宝箱の片隅で眠る小さな『希望』みたいに、そこに在ると信じたい相手なだけ。
昏く長い先の見えない|夜《生》も耐えられるような気がするヒト。
気がつけばもう一口含んでいた。
香りが体の奥底から芽吹く。
次に逢えたらこのカクテルの話をしよう。あなたみたいな味だったと。
嗚呼甘さとはなんて、
――なんて重くて、浅ましいのだろう…。
この執着を欲と言わないならば、なんて表現したらいいのだろう。
「ねえ、縁くん。もう一杯ちょ〜だい…?」
「もちろん。今夜は特別ですから」
そう。今夜は特別。
|楂古聿《しょこら》のようにどこまでもゆっくり蕩けて、落ちていこう。