√夜のアルジア『苦艱庭園』
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物語に綴られる、誰かを想うことは尊いことだ。
――と、ジル・ノクタルジア(真昼の星あかり・h11537)は知っている。
知っていた、ではない。
知った、でもない。
ただ、知っている。
それ自体は喜ばしいことだ。
生存のために自身の保全のみを最優先にしなければならないのは、それが自然の厳しさそのものであるからだ。
生きることだけに注力しなければならない生命体に物語は生まれない。
人間が、知性体が、物語を織物のように編むというのことは、伝えたいと思っているからだ。
それこそ、大げさにいうのならば時空を超えてかつて在りし者たちの思想や人生とを知ってほしいと想うからだ。
ここにある事柄が、単に部族や氏族といった集団を存続させるためだけであったのならば、それはきっと物語の体裁をなしていないだろう。
つまりまあ、何が言いたいかって、とジルは手元に咲く花を見下ろしながら朝日がこぼれる森の中で立ち上がった。
「しかし、困ったな。|楽園《√EDEN》のバレンタインに花を贈るわけではないんだね」
彼はポツリと呟いたが、見下ろす朝日に照らされた花は物言わず風に揺れていた。
確かに困ったことである。
これまでジル――エルフというものは兎角、文字に己たちの風習や風俗と言ったものを残さない。
口伝のみ、だ。
そして、それに頓着しない。
変わりゆくのならば、変わればいい。
時の流れの永さを思えば、それはエルフたちにとっては執着に成り得ないものであったからだ。
だから、だろう。
エルフが想い人に花を贈るのは。
花は散る。
どうしようもなく儚く散って、大地に還る。
そういうものだ。その儚さはまるで、己たちの他者や記録に対する執着のなさを示しているように思えてならなかった。
例え、別離が訪れるのだとしても、永き時の中で再び巡り合うことができるかもしれない、という悠長さがあった。
それについてジルがどうと言うことはない。
それはそれ、と思っただろう
そもそも、だ。
ジルにそのような想い人はいない。
故に縁が無い行事だった。
バレンタインと言ってもかつては聖人の日である、恋人たちの守護聖人としての逸話が昇華し、√EDENにおいては、特に極東の地では製菓会社の思惑と世俗が妙にマッチングした結果の産物として……。
「そう、チョコレートだ」
ジルは呟いた。
チョコレート。
甘く蕩けるかぐわしい香りの、あれだ。
ジルも嫌いではない。
血管の拡張によって血流は改善されるし、抗炎症作用だってある。
またカフェインが少量含まれているから、頭がハッキリすることだって期待できる。集中力を取り戻したいときなど、コーヒーと共に口に含めば、それはもう素晴らしい効能をもたらしてくれる。
だから、好きだ。
別に甘いものだから、とかそういう理由はあまりない。
どこまで行っても実利的な意味でチョコレートのことをジルは好ましいと思っていた。
とは言え、こだわりがあるのかと言われたら、まったくない。
チョコレートであれば、安物であれ、いわゆる高級品であれ、あまり大差はないように思えてならない。
こういうところが、贈り甲斐がないと言われる所以なのかもしれないな、とジルは自嘲するが改めるつもりなどなかった。
いや、それはどうでもいい話であった。
ジルは頭を振る。
どうあっても彼の頭の中で導き出されたバレンタインという、これまで縁もゆかりも無い行事に対して、どのように向き合うべきかの答えは決まっている。
「……何も贈らない、というわけにはいかないだろうしね。しかし、ううん、しかし……」
うろ、うろ、と足取り重くジルは√をまたぐのをためらっていた。
いつもならば、確かに家の外に出るのが億劫だという理由は付けられただろう。
けれど、友人たちのため、という理由が後付されたのならば、背中を押されるようにして踏み出さなければならない。
これがまた、ジルにとっては家の中に引きこもる理由、その退路を潰すものだった。
なぜなら、楽園――√EDENの日本におけるバレンタインデーは、想い人だけではなく友人関係、家族、それこそ理由をつけられるのならば、どんな者にだってチョコレートを感謝や友愛の気持ちを込めて贈るものであるらしいからだ。
であれば、不義理はよくない。
そうした不義理をした時、自らの心がとても宜しくない方に傾くのをジルは知っている。
「たまにはいいか……らしくないことをするのも」
そう呟いてジルは√を跨ぐ。
ひどく消極的な理由ではある。だが、一歩を踏み出さねば何事も始まらないことは言うまでもないのだ。
最近できた知り合い達。
その顔を思い浮かべる。
踏み出したのなら、もう後戻りなんてできない――。
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ジルは後悔していた。
本当のところは、というのが正しいだろう。
彼が今まさにいるのはデパートだ。
百貨店と言ってもいい。その地下食品街に足を踏み入れた瞬間、ジルはやっぱり後悔していた。
あまりに人が多いからだ。
ものすごい人混み。
まるで人が大波のようにジルを飲み込み、目的地すら定まっていない彼を押し流すようにして、あれよあれよという間に地下食品街の何処にながされてしまった。
「まいったな。これじゃあ、何処に今自分がいるのかさえわかりゃしない」
呟いたところで、誰かが助けてくれるわけでもない。
周囲を見回しても、人、人、人、人……ともかく人ばかりだ。
ジルはため息を付く。
なんてことだ、と。
だってそうだろう? これ、みんな人なのだ。
嘘みたいな光景だ。
日頃、家に引きこもるか、森の中を歩くか。
そのいずれかであるジルにとっては、これだけ自分の意志が届かぬ人間が右も左もと自由意志のままに存在するのは、ある種のストレスになっていた。
「僕はただ、チョコレートがほしいだけなんだ」
なのに、それすらもおぼつかない。
その事実にジルはちょっぴる目頭が熱くなる感覚を覚えただろう。
泣いちゃいない。
見くびっては困る。
ジルは眦をこすってから、面を上げる。
「いや、やらねばならない。僕は、チョコレートを手に入れなければならない。そんな理由があるんだ」
今まではあやふやな感じで、なんとなくチョコレートを求めていた。
だが、違う。
この混沌めいた地下食品街にて、たった一つの宝物であるチョコレートを手にする。
そのために今、ジルはできうる限りを尽くさねばならないと知ったのだ。
休憩とばかりに座っていた椅子から立ち上がり、ジルは奮起する。
「どこに何があるのかなんて、わからないけれど行こう」
どんなことも一歩を踏み出さねばならない。
そんなポジティヴ思考は、数歩進んで人波に飲み込まれて雲散霧消してしまった。
あまりに早い。
けれど、もうジルの意思では、この人の波に抗う事もできなければ、制御することもできない。
自らが前に進みたいのか、それとも左右に進路を変更したいのかもわからない。
もしかしたら、地に足がついていないのかもしれない。文字通り、足が浮いている。それくらいに人に揉みくちゃにされながらもジルは諦めなかった。
物語の中の主人公たちだってそうだったではないか。
大海の荒波に飲み込まれるかも知れないような、筏の上ですら彼らは諦めなかった。
どこまでも愚直に前を向いていたではないか。
その物語をジルは知っている。
知っているだけでは、物語に力などない。誰かを動かすことも、誰かの心を変えることもできない。
結局の所、自分なのだ。
物語を通じて、自らで自らを変えていく。
それが人だ。
ジルはエルフだ。
永き時を生きる。
自分が変わらずとも、周囲が勝手に移ろっていく。変わっていく。だから、自分を変える必要などない。
ただ、緩やかなる変化に身を任せていればいい。
それは強烈な自己であるとも言えるが、逆に言えばあまりにも可能性のない生き物に思えてならない。
だからだろう。
人の編む物語を尊ぶのは。
そして、その記録を残すことを己もしたいと思ったのだ。
まるで織物。
永き時の先に、それが一体全体どんな意味を持ちえるのかなんて、ジルにだってわからない。
けれど、手を伸ばせばわかるかもしれない。
自分にだって可能性があるのかもしれない。その伸ばした手が、傷ついたとしても。
それでも多くを覚え忘れずにいることは、己の渇望そのものなのだ。
だったら。
「変わらねばならないんだ、僕は」
必死に。
懸命にジルは手を伸ばす。
それはささやかなものであったかもしれないし、永き停滞とも言えるジルの人生においては、初めての試みでもあったのだ。
地下食品街の熱気を背にジルはようやく、外の外気に触れて一息ついた。
手には、手提げ袋。
なんとも可愛らしい。
それを掲げてジルは見やる。
あまりに必死だったので、なんで自分がこれを選んだのかわからない。
わからないが、これがなんだなかちょっといいチョコレートであることは伺い知れる。
「雪と花……か。僕とて、やればできるんだ。うん……でも」
このまま直帰、というのも味気ないことはわかっている。
疲労している。
足が棒のようだ。
何処かで休めないかな、と思いながらジルは小さな手提げ袋を手に、ゆらゆらと身を揺らしながら、のたのたとした歩みで喫茶店を探し求めるのだった――。