Campanella
デネブ、と呼ぶ声を聞いた気がする。
不随意に訪れるノイズが頭の奥を走った。自室で大きく首を横に振ったノーチェ・ノクトスピカ(|Nachtsängerin《星歌い》・h06452)は、ふと己の胸元に手を遣った。
いつからだろうか。思い出せない。少なくとも彼の記憶が始まったときには傍にあった気がする。ノイズが走るたびに切り裂かれるように痛む胸と、肺腑を締め付けるような苦しみが、ノーチェを再び曖昧な思考の渦に取り込んだ。
訳の分からないノイズが脳裡を掠めるたびに、心の奥底が鮮烈に叫ぶ。思い出したい――湧き上がる希求はどこまでもノーチェを突き動かすが、同時に彼の体を縛り上げる縄の如き感情が強く足を縫い留める。
思い出したくない。
思い出しては――いけない。
ほんの一瞬を契機に雁字搦めの矛盾に囚われる。まるで己の中に|己ではないもの《・・・・・・・》が蟠っているかのようだ。
「|君《・》は、誰?」
溜息を零して紡ぐ声が虚しく部屋に転がり落ちていく。それを拾い上げるようにして、ふと小さな翅がノーチェへ寄り添った。
ステンドグラスの蝶である。宙を映した美しい翅で優しく彼の指を慰める姿に、ようやく小さく笑みを浮かべる。
「ありがとう、デネブ。僕は大丈夫だよ」
デネブ――とは、この星花蝶の名のはずだった。
しかし、ノーチェの頭に声が過ぎるとき、その主は蝶を呼んでいるわけではないように直感していた。何故なのかも分からぬままに名を重ねてみても、答えが出るより先に確信が深まるばかりなのである。
静かに翅を開閉する蝶から窓の外に視線を遣れば、聖夜を満月が照らし出している。煌めく街の灯りを見詰めながら、ノーチェは一つ息を吐いて、空のスポットライトの下で歌うことを決めた。
それでも――。
脳裡には幾重に繰り返した問いが蟠り、彼はまた、沈黙する己の裡側に問いを零した。
――|君《・》は誰?
◆
ノーチェ・ノクトスピカの友人は、ただ一つの機械であった。
亡国の第三王女の皇子に生まれつき、過大なる力を宿したことで、彼の命運は籠の裡に囚われた。悍ましき人間たちの欲望は幼い少年を絡め取ったのだ。
本来であれば母の手に優しく撫でられていたのであろう肌には幾重の傷がつき、布団に包まれて穏やかに眠るはずの夜には実験薬の副作用にのたうち回る。星神の力を引き出し、或いはノーチェから分離して一つの独立したエネルギーとすること――星の救世のため、また創造のために、大義は少年の柔らかな身と心に容赦なく深い傷をつけた。
どこからともなく攫われて来た子供に権利なぞ与えられない。死なせてしまってはならぬからと最低限にあつらえられた部屋と、体を何とか維持出来るだけの食事が、ノーチェに許された唯一の人らしいものだった。最初のうちこそ必死に抵抗していたが、それもやがて無駄だと分かれば止めた。抗わなければすぐに終わる|実験《・・》も、足掻けば足掻くほど強度が増すばかりであるからだ。
苦しみの中では食事すらも吐き戻すことがよくあった。食欲がなければ食えるはずもない。そうして目の前にある、体が欲するはずの栄養を取り込めぬことも、彼の心をひどく蝕んだ。およそ少年に耐え得るものではない日々を、しかしノーチェが耐え凌いだのは、たった一つの友人が傍にいたからである。
友人――。
と、いうことすら、或いは相応しくないのかもしれない。
ノーチェが投じられた部屋に、まるでゴミのように捨て置かれていた一体の機械人形である。どうやら本来は空を飛ぶ機能が備わっていたようだが、機械仕掛けの翼は無惨に折れて、応答も動きも覚束ないものだった。
それでも監視役としての体裁にはなる――と、彼を連れて来た者たちは考えたようである。
確かに、ほんの子供のノーチェからしてみれば、機械としては廃用の烙印を押された壊れかけの人形であっても脅威に違いはなかった。度重なる実験で疲弊し弱っていく体では到底逃げられようもない。
しかしノーチェが人形に抱いたのは、恐怖ではなく友愛であった。
機械は機械である。のたうち回る少年を心配することも、介抱をしてくれることもない。実験に連れて行かれる彼を守ってくれることもない。熱で呼吸が出来なくなろうとも意に介すこともなく、透明な眼差しで彼を見詰めているだけである。
それでも――この地獄の監獄の中にあって、機械人形は唯一ノーチェを傷付けない存在であった。
やがて芽生えた友愛は、或いは一方的なものであったのかもしれない。最初のうち、大好きな歌を聞かせるばかりだった人形に語りかけようとしたとき、目の前の機械には無機質なナンバーの他に何も割り振られていないことに気が付いた。
だから。
ノーチェは、自分の傍にいる人形に、一つの名を授けることにした。
夏に煌めく美しい一等星。どこかの国では、離れ離れになった男女を繋ぐ架け橋であるという星の名から――。
|デネブ《・・・》、と。
◆
星空は今日も美しい。
煌めく光の下に広がる丘の上も、今日は人がいないようだった。もっと輝かしい聖夜の光に吸い寄せられているのかもしれない。街の歓声は暗がりの丘には幽かに届くばかりだ。ノーチェにとっては、今はその方が好都合だったやも分からなかった。
頭の裡にノイズが走るたびに、彼は訳の分からない痛みに苛まれる。忘れてしまった何かがどこかから呼びかけているような気になる。伸ばした手の先に揺らぐ星灯りのように遠く、近いようで指をすり抜けていくそれらを思うと、心の裡に幾つもの違和感が小さく瞬く。
贖わねばいけない罪があったような気がする。
曖昧な、記憶とすらいえないような線をなぞって、ノーチェはただ己の進むべき道を探っている。どうすれば良いのか分からない。どう歩けば――望む赦しに辿り着くのかが分からない。
目を上げた先、巨大な常夜灯となった街の灯りすら届かない星空には、白く光の帯が続く。星の描く軌道を目掛けて、ノーチェは知らず白く柔らかな翼を広げていた。
凍てつく風が頬を撫でる。大きくはためかせればすぐに気流を掴み、体は空に舞い上がった。
空へ舞い上がるたび、長らくこうしたかったような気もする。しかし今はその高揚よりも、喉が紡ぐ歌を風に載せたかった。きっとこの静寂の丘よりもずっと忙しなく賑やかな街には聞こえないかもしれないが、喉を震わせる喜びに比べれば、聞き手のいないことなど些細な瑕疵だ。それに――。
はためく星花蝶の翼はいつでもノーチェに寄り添っている。宵に融けるような色の羽搏き越しに星を見詰めて、零す声は煌めきの遺言にも似て玲瓏と響いた。街の光に掻き消されるほどに儚く、しかし確かにそこにある輝きのように耳に届く歌声が、いつか聞いた歌をごく自然と紡いでいく。
それが、いつどこで聞いたものなのかも、ノーチェにはよく思い出せない。
大切なものがあったような気がする――ということを、心の中に空いた穴を見て思うばかりだ。その本当の形も、色も、音も分からないのに、|そこにあった《・・・・・・》ことだけが確からしく目の前に突き付けられている。
堂々巡りの思索を打ち切るように、ノーチェの声はますます美しく空を歌い上げた。ほんの静かな星々の光の下で、満月のスポットライトを浴びた|星歌い《・・・》は、同じ煌めきを乗せた蝶と共に空のあわいを泳いでいた。
◆
幼い体が悍ましい実験に耐え得るはずは、最初からなかったのだ。
元より研究者たちもそのつもりだったのだろう。ごく珍しい星神の力を得た少年を、その研究がより多く進むまで使い潰そうとしていただけだ。奴隷なぞよりは多少なりと丁重な扱いを受けたところで休息がなければ意味はない。
間断なく己を襲う実験によって、日に日に衰弱していく体を、ノーチェは誰よりよく理解していた。歌おうと思っても上手く声が出て来ない。掠れて弱々しくなった歌に咳が絡みつく。食事が摂れる頻度すらも徐々に減り、やがては何一つも胃が受け付けなくなった。
痩せ細っていくノーチェの姿にも、研究者たちは無関心だった。無造作に栄養点滴を差し込んでみることはあれども、実験を止めるつもりが毛頭ないのであるから焼け石に水といえよう。彼の命は所詮は使い捨ての道具と変わらぬ。価値が高いからとそれなりに大切にしてみたところで、結局使っていけばそのうちには捨てることになる程度のものだ。
そうして徐々に弱っていく体を引き摺りながら、しかしノーチェはデネブへ歌うことを止めようとはしなかった。
その頃には希望も気丈も残されてはいなかったのだ。酷薄な眼差しに晒され、どれほど叫んでも助けは来ない。苦しみばかりを与えられて死んでいくだけの身が最期に頼ったのは、彼を透明な眼差しで見詰める、翼の折れた機械人形だった。
縋るように歌を紡ぐ。美しかった歌声もやがては枯れたが、掠れてなお必死に知っている限りの歌を繋いだ。まるで、彼自身の存在を、機械人形に繋ぎ止めるように。
「ありがとう、デネブ」
その頃には名も口に馴染んでいた。ノーチェが与えたそれに、デネブと呼ばれる人形がそれらしい返しをすることは、結局は一度もなかったとしても――少年にとっては名を呼べるだけでも幸いだった。
歌を聞かせてどうしようもない痛苦と身を刺すような孤独を慰める。刻々と迫る死の恐怖を打ち払うように、少年の声は必死に歌を探していた。それを見詰める機械人形の前で、しかし最期の時は無情にノーチェを連れ去っていく。
「デネブ――」
実験が終わり、眠りに就いた明け方のことだった。監視役としての任に反することなく、彼の隣でじっと状況を観察していた機械人形を、弱々しく声が呼んだ。
壊れかけて役を失った機械でも、すぐに異状に気付いた。これまでの統計上、ノーチェはこの時間に起きることは殆どない。特に実験が苛烈になり、彼の衰弱が激しくなった頃には、日中ですら目を開けていることの方が少なかったのだ。
薄らと開いた眼差しに生気は宿っていなかった。見えているのかいないのかも分からない。曖昧に動いた指先が機械人形に触れる。冷たい指を絡め取り、今にも消えていく生命の温度は、ひどく朦朧とした声で幼い言葉を紡いだ。
「うた、きいて」
そして――。
最期の歌が始まる。
消え果てる最期の一瞬にだけ、蝋燭は美しく燃えるのだという。幼くして身に余る恐怖と絶望を叩きつけられた少年の、剥き出しの|生命《・・》の歌は、嘗てこの部屋に囚われたばかりの声を彷彿とさせた。
儚い星空のように透き通る。しかし確かに煌めく星灯りのように美しい。数多輝く白い星の川の如く玲瓏に響く、遥かな星々の遺言は、最後の一節までを確かにあの頃の声で歌いきった。
それから最期に、満足したように深く息を吐き出して、ノーチェは二度と目を開けなかった。
触れていた指先が脱力して離れる。その身に最期に宿った願いを鮮烈な歌声と共に叩きつけられて、廃棄を待つばかりの機械人形の伽藍堂は、全て宙の色に塗り潰された。
それは確かな目覚めであった。或いは抗えない|浸蝕《どうか》であった。無垢で透明だった心に星空の色を灯されて、暫し|愕然と《・・・》永遠の眠りに就いた少年の顔を見詰めていた機械人形は――。
否。
|少年《・・》は、|緩慢《ゆっくり》とベッドサイドから立ち上がった。
◆
丘へ足を付ける。
一頻り歌えば気分も幾らかは軽くなるものだ。終わりのない思索も幾分遠退いて、ノーチェの身には満ち足りた気持ちばかりが溢れている。
見上げた先の銀河の遥か彼方、下方の街から列車の通る音がする。一定のリズムは幽かに風に乗り、丘の上までも人の営みの気配を伝えてくれた。
守りたいと思う。
守らねばならない、とも思う。
あの街の中にどれほどの人が涙しているのか、ノーチェは知らない。一滴でも多くのそれを拭えたなら、きっとこの曖昧な心の裡にも一つの区切りを打てるのだろうか。星空を見上げるたびに胸のどこかに走る痛みも、ノイズが笑うたびにひどく苦しくなる呼吸も、少しはノーチェの身から離れてくれるのだろうか。
或いは。
――誰かを救えるようになったなら、|僕《・》は僕になれるのだろうか。
今はまだ確かなものを掴めない。心の裡にある匣に向き合おうとするたび、それがどうしようもない禁忌であるかのような心地さえする。まどろむ記憶をまどろませたままでいる限り、自身の存在を薄らと疑う心を分離することが出来ないのも、分かっているというのに。
今は外側に理由を求める。この手で誰かを救い上げ、笑顔を齎すことが出来たなら――長い睫毛が憂うように伏せられる。
――僕は、|君《・》に償うことが出来るのだろうか。
ただ痛烈に、それだけが心に残る意味も、分かりはしないのに。
掌を零れ落ちていく星灯りが、無明の丘に吸い込まれていく。やがて道程がどこに辿り着くのかも分からないままで、さながら列車が抗いようもなく線路の上を進んでいくように、ノーチェはどこかへと運ばれているのだ。己には理解し得ぬ、理解してはならぬのかもしれない|何か《・・》によって。
「変だよね。|君《・》が誰なのか。僕にはわからないのに」
声を零せど応じる者はない。ただ寄り添う蝶の翅がはためくばかりである。
やがて――。
石炭袋を越えて、宙を駆ける列車は道を紡ぐ。下車した背中は最早どこにも見えぬまま、凍てつく川に呑まれて消えた命の果ても知らぬまま。
厳重に鍵のかけられた匣の裡より零れ出る、柔らかな記憶の棘を――。
星花蝶の載せた魂の色だけが、物言わぬままに|凝《じっ》と見守っている。