シナリオ

蛇と林檎

#√妖怪百鬼夜行

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 #√妖怪百鬼夜行

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●跋文
 告白。
 凡そ衆生の波間を沈溺なすが如く転々と渡ってきた迂生にとって、その世間様の移ろい模様というものは余燼さながらのこの身に懐く情緒を甚だ揺蕩せしむるが故に、今日まで滔々と拙筆を揮ってきた。
 とは言え、輓近に至りその燻りも愈々尽きた様で、今となっては杳として烟すら見えぬ。人と云うものはそう成ると今度は酒精に遁れるのが常で、如何にその篝火を再び灯そうかと躍起になる内に、別の楽土を見付けては寄り道、否、川に耽る。
 果然、迂生も同じ川を跋扈したのかと言うとそうでは無い。その産まれ、甲斐の百姓が下戸の一族であり、酒の席に於いては甚だ不調法であった。故に赤々と熟れた林檎を漉しただけの果汁を喫するに留まるのだが、これでは掻い暮れ火を灯す所か、川辺を臨む事すら叶わない始末である。
 最早現し世を揺蕩う意義は喪われた。グラスを片手に幽明境を異にする決心を固めたかどうなのかと云う所で、迂生は出逢ったのである。遠い異国の歌を演り、一際衆目を纏める羽根の如き衣装を吟ずるその女性に。
 人に聞けば彼女は声楽家と云われる職業人で、美しい歌声で世間を彩るを生業としていた。その活躍はオペラ座の壇上に留まらず、こうして場末の酒場まで足を延ばしては流行りの歌謡を披露して居るらしい。人はその婦人を歌姫と呼ぶ。
 法界悋気が軒を連ねるこの浮世にて、操觚界の鍋底を炙る此の迂生が、かの歌姫に恋慕の情を抱いたと知れれば易々嘲笑の的となる事は必定。かと言ってこの胸懐の内を焦がす情念は、大黒天の冠を頂く噂の酒精も斯くやと云う程の熱き息吹に充ち満ちている事は嘘偽り無し。それを無作無作見逃すと云う振る舞いは、即ち、我が身半身その魂魄をも見棄てる蛮行と断じて然るべきである。
 彼女の艶やかな歌唱を聴けば聴くほど、その想いは一層烈しく。今や迂生の思慮思考は総てかの歌姫に捧ぐ他無いという結論を慥かむに至った。

 以って迂生は筆を擱く事にした。

●恋は盲目?
「恋すると周りが見えなくなっちゃうって婆から聞いた事あるけど」

 一冊の本を手にしながら、難しい表情で星詠みの少女、ニーニパルテ・バロナトット(空想の島「パーハ」を駆ける風・h01250)は言う。

「大人の人もやっぱりそうなるの?」

 今回、√能力者が解決に当たるのは√妖怪百鬼夜行での騒動だ。温泉や飲食店が連なり、大正浪漫の情緒溢れる小さなその街が舞台であるとニーニパルテは伝える。

「その街に住む誰かの情念が原因で、古妖『椿太夫』の封印が解かれちゃうんだ」

 椿太夫はとても危険な古妖だ。その封印が解かれてしまったのならば、可及的速やかに彼女を再封印しなければならない。
 封印を解いた犯人は解らない。しかし最近、スランプを抱えた小説家がとある酒場の歌姫に恋心を抱いているという噂が広まっている様で。その情念に付けこまれてしまったというのなら、話の筋も通ってくるというもの。

「古妖の甘言に乗って封印を解いちゃったって事なのかな」

 √妖怪百鬼夜行に封印されている古妖は、あの人に愛されたい、死んだお父さんに会いたい、邪魔者を殺したい……等の何らかの「情念」を抱えた人間や妖怪を引き寄せて、その願いを叶えるという約束と引き換えに自身の復活を企んでいる。復活が成れば、√妖怪百鬼夜行は勿論、他の√にまで彼らの凶暴性に依る被害が及ぶだろう。

「もしその作家さんが自分の恋を実らせる為に古妖の封印を解いちゃったのだとしたら、その街が大変な事なっちゃうよ」

 そうならない為に先ずは、噂となっている酒場に行って本人を含めた関係者たちから事情を聞いてくる事が必要だと少女は言う。幸いな事に、酒場には件の小説家の他、歌謡を披露する歌姫やそのスタッフも集まっているとの事だ。

「封印を解いた人の詳しい事情を知ることが出来れば、古妖を再封印する手立てが何かわかるかも知れない。そうでなくても、集まってくる古妖の手下たちを懲らしめちゃえば椿太夫の居場所がわかるかも」

 椿太夫の居場所がわかれば、そこで必ず戦いとなるだろう。戦いに勝って古妖を弱らせる事が出来れば、きっと街の平和を取り戻せる筈だ。

「でも気をつけて。椿太夫は星詠みの力も持ってるみたい。その力でみんなの行動の先を読んで来る事もあるかも知れないから。それとね、過ちの後には必ず後悔が来るって爺がいつも言ってた。封印を解いたのが誰であれ、事態を知ればきっと自分がした事を悔やむ時が来るってボクも思う。その時に絶望しない様に、もし良かったら皆でその人をフォローしてあげてくれたら嬉しいな」

 それが新たなる事件の再発を防ぐきっかけとなるかもしれない。そう言ってニーニパルテは皆へと微笑む。集まった√能力者たちの強さと優しさを知っているが故に。

「あ!あとね、そのお店はリンゴのお酒が有名なんだって。だけど、勿論美味しい林檎ジュースなんかも取り扱ってるみたいなんだ。未成年の皆やお酒が苦手な人は、新鮮なリンゴの味わいを楽しんでくるのもいいかもね!それじゃあ、みんな気をつけて。行ってらっしゃい」

 そう言うと、ニーニパルテは手を振って皆を送り出すのだった。

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第1章 日常 『カルヴァドスの歌姫』


●ゲネラルプローベは終わらない
 私、天川掬代が歌姫と呼ばれるようになったのは、流行りの歌謡曲を歌うようになってからだった。ゴロまきの音楽だなんて揶揄する人たちも居たくらいなのに、バーの小さなパーラライトに向かってやけっぱちに歌った途端、「こんなすごい音楽があるなんて」だって。オペラじゃなく歌謡曲で注目を浴びる事になるなんて思いもしなかったから、とんだ皮肉だわなんて笑ったりもした。
 でもね、皆が私のことを歌姫だなんて持て囃すけど、本当のところは誰も私の事なんて見向きもしてないんだって気づくようになった。私が唄う歌はいつも誰かが誰かの為に作った歌。人が褒めてくれるのも、私じゃない誰かの想いを精一杯に謳った歌。私の為に編まれたものなんて、一つもないんだもの。
 それは先週の出来事だった。ある晩、私はとてもとても不気味な夢を見て、目覚めた時には全身汗びっしょりになっていた。胸が苦しかったものだから咳をして、それで気がついた。
 私は喀血していたのだ。

 あゝ私はこれからも歌い続けるだろう。そして、きっと天国へは行けない。

●清掻が鳴る
 太夫とは言っても、所詮わっちは忘八に頭も上がりんせん身の上でありんすぇ。大見世ではわっちは籠の中の鳥みたいなものでありんしたから。
 でありんすから、わっちは見られる事にも、見る事にも慣れていんす。素見のお客の視線も、ぬしらの視線も、わっちにとっては同じ事。今はゆるりと甘い果実を楽しむのが良うござんしょう。慌てる事はありんせんゆえ。
 ところで。ぬしも星を見たのでおざんしょう?その眺めは如何でありんした?惣籬の中から見る星空と、そんなに違んせんとわっちは思うのでありんすぇ。わっちをどぶから浚いんすお人は、ぬしが思うその方でありんす。でも結果は変わりんせんよ。
 最後に失楽の庭に戻りんすはわっち。ぬしでも人の子らでもありんせん。
イリス・フラックス

●罪の果実
 天国を離れた先が冥府とも限らないか。そうではあっても、祈りと崇拝の隙間から仄仄覗く世界は新鮮で、見る者の趣向も時には変じゆくというもの。とはいえ、その知恵の果実が薫せる喜びに満ちた風貌は今も変らず甘美な侭で、彼女の碧色の煌めきを惹きつけて止まない。
 イリス・フラックス(ペルセポネのくちづけ・h01095)の右手の中で、黄金が揺れる。新鮮なまま搾り出されたその一滴は、カルヴァドスの大地が産んだ一級品。その豊潤な香りが、瓦斯灯の灯りを揺らめかせる。そうして彼女の愛らしい鼻腔を擽れば、その目尻は緩やかに弧を描いていく。

「いい匂い。香りも味も、このリンゴはとてもいいモノね」

 上機嫌に尻尾を揺らせば、それに魅せられる酒客の目も集まり、ちょうど壇上からソプラノが響き渡った所でイリスは羽を休める先を見繕った。男が一人、ブランデーの杯を傾けながらイリスに熱っぽい視線を送ってきていた。

「あら、あなたは一人で呑んでるのね?」

 サラリと白桃の纏いを|戦《そよ》がせれば、男はハッとする様に面を上げる。

「あ、ああ。驚いたな。傾城の美女ってのは将にアンタの事だ。まさか俺のもとに降臨なするとは思わなかったんで見入っちまった。悪気はねえ。許してくれ」

 酒が回れば自ずと口も回る。今宵は、噂話を摘んであちこち巡るには良い頃合いだろう。客の入りも上々で、そこかしこに活気の華が咲く。

「気にしないでいいのよ。でもわたし、お城を傾けるだなんてそんな事、あったかしら」
「へへ。それなら傾けたのはお国の方かな」
「うーん、それはあったかも」
「へぇ?」

 イリスが思い出の水槽に手を延ばしてぼんやり阿を見上げると、それが男の眼には隙に映った。グラスを携える彼女の手を、あわよくば握の先で絡め取ろうとかいなを伸ばす。イリスはそれを一瞥為すことも無く、りんごジュースを拾い上げながら嫌味なくその欲を躱す。

「このお店には良く来るの?」

 問えば明鏡返るが如く、会話に意識を戻す様に男もカルヴァドスの美酒に口をつけた。

「まぁそうだな。ここんとこは毎晩さ。最近は歌姫の評判を聞きつけて店も混み始めてる。もともと酒が美味い店ではあったんだが、今はあっちの歌姫さんが目的って客の方が多いだろう
。アンタもその一人――いや、アンタの場合はその林檎ジュースかね」

 男の言葉に釣られて碧線流すその先には、パーラライトに照らされて、僅かに肩を揺らしながらマイクを取る歌姫の姿が在った。チュベローズの香りを添えながら、人々を魅了する歌声を建物の外までも響かせている。そして、彼女のステージの前を陣取る一等席からは、喧騒振り払って熱い視線を投げ掛ける一人の男の姿があった。
 文筆家、山路耿之介その人である。
 イリスは僅かにその双眸を細めると、√能力を発現させた。揺蕩うインビジブルたちがさざめいて、酒肆のシャンデリアに映る影が踊る。

「あなたも、『あの二人』に興味があるのね?」

 イリスの優しく奏でられた声音と共に貼られた|定義《レッテル》は、刹那一夜の逢瀬を期する酒客の認識を歪ませ、染め上げる。彼女が『あの二人』への興味を促せば、忽ちにしてその視線は例の二人に釘付けとなった。
 この店に通っていれば否応となく耳朶に触れる程度の噂話が、今や目の前の傾国の美女を差し置いてこの男の最重要話題として彼の脳裡に君臨を果たす。

「嗚呼当然さ。あの二人の事以上に楽しい話題なんて、京に登っても早々在りはせんよ」
「ほうほう。ここ、座っていい?」
「おっとそりゃ勿論ご勝手に」

 彼の瞳に灯る欲望の影が薄れ、イリスへの意識がそこはかとなく和らぐのを確かめると、それではと漸く席に腰を下ろした。
 黄金の果実で満たされたグラス越しに、作家と歌姫、二人の姿を見つめる。やがて曲が終わり、ステージを降りると歌姫こと天川掬代は山路の居る元へと戻った。交わす言葉は少なく、山路もただ手元に視線を落とすだけで。
 端から見ていても、凡そ二人に浮き立つような空気は認められなかった。イリスは隣席の酒客に声を掛ける。

「あのお二人がお付き合いしてるかもって噂、知ってる?」
「耳が早いな。そういう話だ。男の方は山路耿之介。冴えない物書きだって聞く。最近はその文筆業も畳んじまって、今じゃただのプー太郎さ」
「そうなのね。でも普通なら、付き合いたてって浮かれちゃうはずよね!なのに歌姫さま、なんだかそうじゃないみたい。心当たりはある?」
「確かに浮かれてるようにゃ見えねぇ。脅されてる、なんて話をする奴もいる。そもそも、かの歌姫をどうやって落としたのか、みんな不思議に思ってるのさ。それまで浮いた話一つ無いお嬢様だったからな。|呪《まじな》いの類いでも使ったんじゃないかと俺は見ている。そうそう呪いと言えば、それとこれは関係無い話なのかもしれないが――」

 そう言って男は声色を下げると静かにイリスへと席を寄せた。

「歌姫さんは最近、お忍びで高名なお医者に掛かっているのを見たって奴がいるらしい。コンサートのキャンセルが増えてきたのは本当だ。もしかしたら、大きい病にでも患っちまったのかもしれねぇな」
「呪いと大きい病……」

 核心に触れるその言葉を反芻するように呟くと、イリスはジュースの杯に、静かに口を付けるのだった。

小鳥遊・そら
玉梓・言葉

●掬いの手
「掬代さんは手が冷たいね。女性は冷えが怖い。良かったら温かい珈琲でも貰おう」

 耿之介には、掬代から手を握って貰った覚えがとんと無い。かと言って此方から恐る恐る手を取って見れば、しっかりと返してはくれる。今はそれでも良いと思った。恋仲になったとは言え、始まりは耿之介の一方的な恋慕だったのだから。
 歌姫としがない物書きとでは誰もが分不相応だと狐疑する所であり、実際告白を受け取って貰えた際には、耿之介本人ですら狐に抓まれて居るのかと眼鏡の額縁を擦り上げたものである。
 今はまだ彼女の心を解す事は叶わない。だがゆくゆくは、と思わずには居られないだろう。ゆくゆくは歌姫と物書き、ではなく、ただ耿之介と掬代と云う関係で居られたら、と。
 ただひとつ、耿之介には気がかりな事があった。最近、掬代の様子がおかしい。

 装飾を纏う瓦斯灯の群れは、玲瓏とした光芒の雨を部屋一杯に齎し、その下を往く者たちを平等に照らしていた。揺蕩うインビジブル達はその馨香の合間を縫い、メダリオンに揺れる人影を占いながら織り成される人模様を|具《つぶさ》に見守る。その中に紛れて、仄かに舞う紙人形の欠片がひとつ。
 男と女が|糾《あざな》う恋路は古来永遠と終わることの無い物語にも似て。然りとて、同じ筋書きは何一つ存在しない。
 数々の恋模様を点したその朱脣も、今だけは微かに戦慄いて言の葉を模る。誰にも聴こえぬ様に。

「ごめんなさい、耿之介さん」

 しかし、その紙人形だけは聴いていた。


「君ね。ヒトを見かけで判断するというのは野暮ってものさ。特にこの界隈じゃ常識だって言うじゃないか。まぁね?君の気持ちもわかるよ?小娘がいけしゃあしゃあと出張ってきた!って思ったんじゃないかい?でもねぇ、こう見えて私は君よりも歳上なのさ。きっとね。この見た目だからピンと来ないかも知れないけど、お酒の味だってよぉ〜く判る歳の程さ。その感じだと君はまだ丁年に届かない位と見たね。え?三十路が近い?ふぅん、如何にもヒトは見かけに依らないねぇ。兎も角、問題なければ極上と云われる此処の林檎酒を二つ、此方に持ってきて貰おうかな」
「お主もだいぶ手馴れて来たのう」

 二人が掛けるカウンター席から見渡す店内の景色は意外と広い。ステージの正面からレジスターに掛けて水玉模様を描きながら等感覚に並べられた円いテーブル席には、あらゆる分野の職業人たちが仕事終わりに一堂に会するが如く卓を囲っている。それはそらと言葉も同じで、彼らは同じ職場で肩を並べる様な関係ではない。何度か杯を酌み交わした気の合う酒友同士、まだ見ぬ酒肆の名品の甘い口当たりを心に想い描きながら、今回の事件を追っていた。

「お待たせしました。当店の一番人気、林檎のブランデヱ『カルヴァドス』で御座います」

 二人の前に琥珀色のグラスが運ばれて来る。刻まれた切子を覗くと、きらびやかな光の粒子が万華鏡の世界を渡るが如く踊り、水縹色と竜胆色の瞳を|橙《だいだい》に|薫《くゆら》せた。仄かに誘う苹果の|粧《よそお》いに、二人は同時にその瞼を細める。そしていよいよ切子を天空より見下ろす盈月の如きミラーボールへと翳すと、幾度目かの二人の宴が幕を開けた。

「かんぱーい!」
「かんぱ〜い!」
「んー!美味しい!」
「鼻に抜ける林檎の香りが良いのう」

 景気よく杯を乾かすと、期を見たかの様に歌姫が再び登壇する。ピアノの伴奏と共に軽やかな歌声が、ドーム状に撓る天井を覆うシャンデリアの雲間へと昇っていく。その歌はまさしくこの酒場にこそ相応しいかな。林檎の木の下に眠る恋人を想う詩だった。
 一抹の哀愁を漂わせるその歌詞に耳を傾けながら、玉梓・言葉(|紙上の観測者《だいさんしゃ》・h03308)はその整った眉を上機嫌に持ち上げると、上戸らしく切子を傾ける。雫の結晶がカランと拍子木を打つ。

「どうじゃ、小鳥遊殿は恋しい者はおらんのか」

 その透き通る水縹は若芽色の風を梳いて春を編む。元々言葉は恋文を|認《したた》める硝子ペンの付喪神。真剣にインクで紙を滲ませる主の眸を優しく見守ってきた。若者の恋を追い、請われればそのイロハも説こうと言うもの。恋バナは心の栄養。応援する事頻り。グラス合わせる彼女もまた気の良い仲間だ。願わくば|一端《いっぱし》の幸せを掴んで欲しいと心中に描くのは要らぬお節介だろうか。それでも力になりたいと思う気持ちは本心からに相違ない。
 すると隣に座る小鳥遊・そら(白鷹憑きの|警視庁異能捜査官《カミガリ》・h04856)も興を合わせて、けらりけらり林檎酒を口に含むのだった。思い浮かべるのは同僚、酒友、そして共に|天蓋大聖堂《カテドラル》を駆け回る闘技大会の仲間たちの面々。たしかに美男美女揃いではある。あるが、何が恋しいかと問われれば、賑わう|九献《くこん》。その後に|喫《の》む咽草の紫。それを言葉に伝えたとて、人生短しと説教を巻き、憐憫の情を首から掛けられ、札を貼られてお終いだ。

「あっはっは!ご要望にお応えできそうな話はなさそうさねぇ」

 それは残念と嘯き顔を浮かべる言葉をよそに、そらの視線は一瞬鋭く、彼の後ろへと注がれる。そこに掛けるは作家、山路耿之介。
 二人はただ火酒を|熟《つくづく》愉しむが為に、盃を|転《まろ》ばせ参じた訳ではない。真意は勿論、事の究明だ。言葉も彼女の視線を追うまでもなく、ほぼ同時に行動に移していた。

「ああ、でもなんだ。確かにこの上等な洋酒を前に肴もなければ興醒めかねぇ。おっと、そっちの兄さんはどうだい?」
「ふむ。先程は歌姫さんと中々良い雰囲気じゃったて。順風満帆で恋の悩みなぞ無縁かな?それともあれかのう?彼女さんの心に架かる朧雲が気になると言うなら力になるぞ」
「何を言い出すんだあんたたちは?何故そんな話を僕にする」

 何故と言われれば話は簡単で、二人は、この三日間の事は予め紙人形から聞いていた。耿之介と掬代の恋は未だ廻り始めてはいないという事を。耿之介がその気でも、当の掬代は何処か上の空で、もっと何か重大な闇をその心胆の内に秘めている。
 三日間の内に知る事ができた徴は三つ。
 一つは、掬代はつい昨日まで歌手としての仕事を体調不良によりお休みしていた事。今日に至りこんなにも酒場が大入りなのは、彼女のコンサートが久しぶりに開かれるからだ。
 一つは、医者から処方されていた薬を、今日になってすっかりと断つ程に回復しているという事。にもかかわらず、彼女の表情は一層翳りを増している。
 そしてもう一つは、耿之介は掬代の様子に気づいていたにも関わらず、彼女からは何も相談をして貰えてはいないという事。ともすれば今や耿之介は、無力感から湧く悔恨にも似た情の芽吹きに灼かれ、その無間の炎に胸臆を炙られ続けている。

「人の顔色を眺むのは得意での。ただの当てずっぽうじゃよ。しかし、それが当たったと言うのなら、兄さんの話も聞かせてもろうても?」
「しかし……」

 言い淀むのは後ろめたさか、警戒か。文筆家であっても、その想念を瞬時に言の葉に紡ぐのは難しい。枷の様に纏わりつく情念が、ハラハラと耿之介の心を揺さぶって止まなかった。咳上ぐ様にステージを見やれば、掬代の曇った双眸が胸を締め上げて、堪らず目を逸らす。
――あゝ掬代。何がオマエをそんなにも追い詰めているのか。僕はオマエの力には成れないのだろうか。オマエが望むのなら、僕は何者にでも成ると云うのに、それでもオマエは――

 そらが、トンと柏手を打った。祓う音は一瞬の静寂を生み、ざわついた心を凪ぐ。落とした視線を上げると波波と林檎酒が切子に注がれている事に気がついた。

「なぁ。美味い酒に良い歌声、話も筆も乗らないかい」

 そらは真っ直ぐと耿之介の瞳を見据えていた。――矢場いんだろ?困ってるんだろ?助けが欲しいんじゃないのか。喉から手が延びる程に――口では語らない。しかし手は差し延べている。救うには後たった一つのものだけが必要となる。本人の勇気という徽だけが。
 掬われるつもりの無い者を、掬う事は出来ないのだから。

「……僕は下戸だ。それに――最近筆を擱いたばかりなんだ」
「しかし話す事でお主の気持ちも軽くなるやもしれん。下戸であれば尚の事、その滴一度嘗めるだけで気分が軽くなるぞ」

 そらの指の合間からするりと抜け落ちようとする耿之介を、今度は言葉の手が掬い上げようとする。

「銭も然程持つ訳じゃぁない」
「なあに、今宵の酒は儂と小鳥遊殿の奢りじゃ。存分に嘗めると良いわい」
「そうそう、奢り奢り。言葉君のね〜」

 からころけらけらと戯けながらも朗らかに笑う。その笑みを覆う|手漉《てす》きの羽一枚下は、将に今が生命の生き死にを分かつ岐路に立つ事を知る者の面持ちである。その事を耿之介は夢々知る由もなく。

「僕は……」

 たっぷり沈黙の後に、それでも彼は口を開いた。

「……掬代の事が心配だ。アイツときたら、昨日まで青い顔をしていたのに、今ではもう別人の様だ。僕の夢に出てきた蛇が、僕達をくっつけてくれてから、何かが可怪しいとしか思えないんだ。夢の中の蛇の言う通りにしたのがいけなかったのかも知れない。寺脇の祠の石を退けて、祭壇を拵えてしまったのが。巳年の吉兆と縋った僕が悪かったのかなぁ」

 それだけ言うと、耿之介は頭を抱え込んでしまう。その様子を静かに見守っていた二人は、やおら席を立つと言った。

「ようやっと蛇が出たのう」
「でも何となく見えて来たよ。面倒なモノに漬け込まれちまったようだねぇ」

 拍手喝采が酒場中に轟いて、それでも視線は耿之介に届かせた侭、二人も倣って拍手を送る。歌は止み、手を振る歌姫は間もなく此方へと戻る頃合いとなる。

「任せな、やれる範囲の手助けはするとも」
「どうじゃ?少しは気が晴れたかの?まぁまぁ恋に障害は付き物じゃて。擱いた筆もまた執れば上々。耿之介殿は耿之介殿の精一杯を、彼女に見せてあげる事じゃな」
「あんた等どうして僕の名前を――」

 彼が言い終わらない内に、二人は朱金を出し合いテーブルに置くと、駆け寄る掬代と入れ替わる様にしてカウンター席へと戻るのだった。

アプローズ・クインローゼ

●喝采の中に佇む闇
 星をも|匿《しな》む人工の光は、この大地の奥底から吸い上げた血潮を、瓦斯マントルに宿して白熱に耀わせた物だ。
 アプローズ・クインローゼ(|妖精の取り替え子《チェンジリング》・h01015)の白い髪は、周囲の彩に合わせて変幻自在にその色を映す。煌々と明るむ洋灯が少女の踏む赤い煉瓦を照らし出せば、その純白も|鉛丹色《えんたんいろ》へと移ろいでいく様に、彼女が店を潜る頃には眉目整う絶世の美男がそこに立つのだった。

「キミ。ボクから歌姫のお嬢様へ、何か温かいハーブティーの差し入れは頼めるかい?歌手の喉を労る優しい物があればと思ってね」

 初老のウェイターに声を掛くと、彼は穏やかに視線を落とし、恭しく頭を下げる。その視界には英国製の伝統的なダブルレザーソールが映るだろう。手入れの行き届いた上品な輝きは、アプローズの確かな身の上を保証する。信頼に足る者と解したその給仕は、そっと頭を上げ変わらぬ態度でアプローズの要望に応える。

「それならば、スロートコートティーは如何でしょう」
「それがいい。ついでにちょっとだけ蜂蜜も垂らしてあげて欲しい。できればマヌカの花の香りがする物を」
「承知致しました」

 アプローズの変化は完璧だった。元の少女の見た目では些かこの洋酒肆に吹く風には似つかわしくない。|桑楡《そうゆ》の影伸ばす夕暮をも逃すこの時分ならば尚の事で、そのまま摘み出されてしまうのが落ちと云うもの。

(一先ず潜入は成功だね。後は――あれがウワサの歌姫さんかな?わぁ。流石に近くで見ると迫力あるねー)

 薄花の虹を閉じ込めるその視線を向けると、壇上での演奏も区切りを迎えたようで、歌姫、天川掬代がフワリとドレスの羽を踊らせながら階段をしとしとと降りて行くのが見えた。恋人と噂される作家、山路耿之介の姿は今は無い。掬代の話を聞くならば今が絶好の好機であるとアプローズは踏む。
 ちょうど運ばれるリコリスの甘い香りに合わせ、アプローズも歌姫へと歩を運ぶ。

「天川様。スロートコートティーをお持ち致しました」
「あら、気が利くんですね。耿之介さんが頼んでおいてくれたのかしら」
「いえ、天川様。そちらのお客様からのお差し入れで御座います」

 そちら、とウェイターの掌が指し示す先にアプローズは立つ。機を見たウェイターの配意に感謝で応じつつ、アプローズは凛として掬代に声を掛けた。

「素敵な唄声だね、レディ。良ければそちらで喉を潤して欲しい」
「どなたか存じ上げませんが、お気遣い感謝致します。とても良い香りですよね。私、コンサートが終わるといつもこれを頼むんですよ?」

 そう言って掬代は、湯気が優しく笑うカップの淵にささやかな朱を残す。それを銀幕飾る笑みで見届けつつ、アプローズはお辞儀をする。

「ごめん、名乗るのが遅れたね。ボクはアプローズという者さ。本当はもう少し遠くの地をふらふらと飛び回っているのだけれど、キミの美しい唄声が聴こえてね。思わず寄り道をしてしまった」
「そう……アプローズさんにそう仰って頂けてとても光栄だわ。私の名前は天川掬代と言います。貴方の素敵なお国にまでは私の噂なんて、届いてないかと思いますが、この小さな街ではちょっとだけお歌が上手って褒められてるんですよ」

 ティーカップを片手にウフフと小さく笑う掬代の表情は、矢張りどこか沈んでいる。アプローズの言葉をおべんちゃらと斬って閉ざした訳ではない。その心の内に|蟠《わだかま》る重しにも似た何かが、彼女の生きた感情を憂愁の湖沼奥底へと沈めているのだと、アプローズにはわかった。

「いえいえ。かの歌姫、掬代嬢のお歌と名声は、我が故郷にも轟いておりますとも。だけどね、今日こうしてキミの唄う歌を聞いて、気づいてしまったんだ」
「え?それは一体なんなのでしょう」

 思わず顔を上げる掬代。その双眸の奥に、気のせいだろうか、アプローズは見た気がした。期待と怯え。相反する二つの影が同時に差し込むのを。
 何とはまだ答えない。まずは彼女の中の、その闇を覗きたい。

「ふぅ……浮かない顔だけれど、キミは何か悩みでも抱えているのかい?人の感情は繊細だから、どうしても気になってしまうんだ。ボクは妖の精に連なるものでね。キミの恋路が上手く行っていないのなら、力になる事も出来るだろうさ。特に色恋事には、昔から知恵が回る方だからね。それに――」
「それに……?」

 彼女は半ば身を乗り出す様にしてアプローズの話に耳を傾けていた。それでわかった。掬代の瞳には今、アプローズの姿が希望に耀いで映っているのだ。これは明確な、彼女なりのSOSだとアプローズは思った。

「――それに、美しき歌声に憂いの陰が過ぎるのは心苦しい。ボクで良ければ、キミの相談相手になりたいものだ」
「……」

 暫しの沈黙。喧騒だけが二人を囲い、やがてかの歌姫は口を開く。

「私、病気だったんです。お医者からはいつか歌も唄えなくなるって言われて。私にはお歌しかありませんのに、そんなのあんまりだって言いました。けれどもそれも仕方ない、運命だって。そんな時、私は夢を見ました。椿の枝から蛇がぶら下がってきて、こう言うんです。私の事を好いてる男の人が居る。その人と一緒におなりなさい、と。そしてこうも言いました。この街の中央に在るお寺のお御堂に行って、蛇を祀る祭壇を建て、と。そうすればまた、歌手としての生命を吹き込んでやる……」
「椿の蛇……」

 掬代の手は震えていた。喝采にまみれて尚も、彼女は孤独の暗がりを歩き続けていたのだ。

「私は耿之介さんの純粋な気持ちですら、自分の私欲の為に利用したのです。お陰で私の病は、まるで何も無かったかの様にぱったりと収まりました。勝手な女ですよね。でも知らなかったんです。その蛇が、こんなにも邪悪な存在だったなんて。そのお寺が、まさか古妖を封じるものだったなんて……。もう取り返し、付きませんよね?私は、私はとんでもない事をしてしまったんです……」

 アプローズは知る。事件の真相の一端を。一見平和なこの街の下で、実の所邪悪な大蛇が蠢いていた。

七々手・七々口

●地ノ獄を覗く者
 √妖怪百鬼夜行は、妖怪と人とが禍福|糾《あざな》いながら、行灯とネオンとを同時に灯して暮らす世界。その妖怪というのも見目様々で、誰も彼もが一つ同じ空の下で一つ同じ資源を共有し乍ら生活を営む。
 そういう訳なので、黒猫の獣妖、七々手・七々口(堕落魔猫と7本の魔手・h00560)が魔手で開いた扉からするりと紛れる様にお店の中に忍び込んだとて、それを誰も咎める者は居ない。実際の所は、金払いの良い猫は何時でも何処でも歓迎される。

「ようこそ、よくいらっしゃいました。お客様は、お煙草はお吸いになられますか?」
「あ、お願いします」

 店内は大入りだった。此処に居る誰もがカルヴァドスの一滴を、噂の歌姫が唄う名曲と共に喫むを目当てに押し寄せる。特に人間というものは儚い。またその内にと優に構えていると、気付けば桃李の|粧《よそお》い見る影も無く、なんて事は良く有るつまらない話だ。生き急ぐ人間のペースに合わせるのは中々骨が折れる。

(なんて思ってる奴が大半なんだろうな。知らんけど)
「すんませーん。名物っていうリンゴのお酒くださーい。あとテキトーにツマミもー」
「はーい」

 さざめく店内に、キラキラとシャンデリアが光の粒子を振り蒔く。それは壇上の歌姫の歌謡に乗って隅々に届き、ゆらゆらと燻らせる七々口の紫煙に撥ねられると、ポツリと落ちた。その上に運ばれて来たのは一杯のカルヴァドスとマリアージュ、それに一等新鮮な魚のお刺身。

「なんだわかってるじゃない」

 湧き立つ七つの魔手が満足気にチップを手渡すと、まだ若いウェイターは嬉しそうに舌を出しながら、受け取った朱金を大事そうに懐へ仕舞い込んだ。その様子を金色を細めて見ていた七々口は、更に心付けを握り込む魔手を尻目に、ちょちょいと手招き。

「お兄さんよ、中々お仕事上手だよ」

 フランクに話しかければウェイターの青年も目をパチクリさせて、僅かにその肩の力を抜くのが見て取れた。七々口の手招きに嬉しそうにちょこちょこと近づくと、人懐こい表情を浮かべて耳を寄せる。

「へへ?なんすか?お客さん」

 嗚呼、まだ可愛らしい時分だ。めごめごしてやがる、と七々口は思う。無垢で、可愛らしく、利用しやすい。
 口の端に掛かるという例の林檎酒をグイと煽れば、フルーティな甘い香りが酔いを|饗《もてな》す。マリアージュのナッツも、林檎酒の甘美な味わいとの調和が絶妙に良い。甘きに賑わう酒宴というのもたまには心躍るというものだ。

(……いや仕事はするよ、一応ね)

 七々口の金色に映ゆ景色の中で、一つの権能がやおら起きだす。傲慢の罪に濡れた『ナニカ』の魔手がふわりと青年を撫でれば、その炎影が捥ぎたての果実を仙花紙で包むが如く、一瞬隠し尽くす。ほんの瞬きにも満たぬ刹那の後に、気づけば何も残らず、否、ただ軽やかなジャズの演奏のみが二人の耳朶に残った。

「歌姫の嬢さんと作家のあんさんの話。お兄さんはまだ若いから知らんかねー?いやー、人の恋路を酒の肴にするのは楽しいんだけどなぁ」
「いやいや、知ってますよ。俺だって。ここいらじゃ有名な話ですもん」

 青年の目付きが少しだけ変わった。七々口の、プライドを|擽《くすぐ》る様な口振りに堪らず乗っかかる。いつもならさらり聞き流す様な、挑発ともつかぬ微細な不和の種が、青年の中で瞬く間に培養されて蠱毒宛らに沁み渡っていく。そうして変質した耐え難い侮辱が、その口を滑らかな物へと変じゆくのだ。√能力すら用いない劇的な変化。それも全ては傲慢の権能が一端。那由多の先により息を潜める『ナニカ』が齎すその力は、世界の理を捻じ曲げて、ともすれば彼方此方に争いの火種をばら蒔く程に危険な影響力を孕んでいた。
 それを知ってか知らずか、七々口は新鮮な刺し身を頬張ると、髯を揺らす。

「そうなん?んっ。うま。オレも二人が恋仲になったってのは風の噂で聞いてるなー。ん〜、こいつもイケる。あっ、でもあの有名な歌姫さんをどーやって口説き落としたのかは実際気になるねぇ。うん」
「へぇお客さんは知らないんですか」
「お?まさか本当に知ってる感じ?凄くない?」

 |煽《おだ》てるように喉を鳴らす。すると青年の中で今度はむくむくと優越感が沸き起こり、幾分か溜飲を下げたのか、新しい切子にチェイサーを入れて寄越すと話を切り出した。

「流石にお客さんよりは色々知ってますよ。この話はとっておきなんですけどね?」
「ふんふん」
「俺の家の近くにね小さな破れ寺があって、その脇には小さな祠が祀られてるんです」
「どんな祠なんだ?」
「中には注連縄が巻かれた石が祀られています。昔からある祠だから、どういう意味があるのか俺にはわからないんですけど、ある晩仕事上がりの夜中に通りがかったら、見たんですよ。あの作家先生が外も暗いのにせっせと何かを運んでいるのを。なんかちょっとただならぬ雰囲気だったんで、声は掛けれなかったんですけど……」
「何かって?」
「ええ。僕も気になって翌朝見に行ったんです。そうしたら――」

 青年の目の前には、空になった祠がぽっかりと口を開いていた。鎮座する筈の場所に注連縄の石は無く、代わりにそこには|見窄《みすぼ》らしい祭壇らしき物が居座っている。その上に、猿を象ったと思われる歪な木彫がびっしりと列を成し、一様にこちらを見つめていた。思わず、二歩、三歩、後ろにたじろいで、はと気づく。祠の背後には無数の藪椿が花を咲かせている事に。ふわりふわりと宙から白い羽根が舞い、どこからか物悲しげなお経が聞こえきた所で、青年は――

「きっとあれは|呪《まじな》いの類です。歌姫と恋仲になりたくて、呪いを掛けたに違いないんすよ」

――これが地獄の入り口か、と思うのだった。

「ふーん、そんな感じなんだねぇ。あ、お酒お代わりで」
「あ、は〜い」

刻・懐古
ヴィルベルヴィント・ヘル

●重ならぬ影
 |静寂《しじま》を|翩翻《へんぽん》と揺らす淡クリーム色の紙の|音《ね》を、盈兎が|臼杵《きゅうしょ》の影で|攲《そばた》てる。それは三千世界に湧き起こる様々な人間模様だった。書生の恋。追憶に耽る葬儀屋。怪奇を嗤う探偵。彼らが織り成す事々物々は、ある一人の男がその目に映してきた情緒を元にしている。
 刻・懐古(旨い物は宵のうち・h00369)は知っている。自身に宿す穏やかな律動が世間の潮流を追い立てれば、その上を歩く人々の物語が万華鏡の様にその姿を変じ行く事を。その一生懸命さがあまりに眩しいものだから、ついつい己の事などお座なりになってしまうというものだ。
 この世に甘い話など其程無い。しかし物語の登場人物達の想いが、その願いが、強ければ強いほど、“其程”に縋ってしまう。必死に、足掻いて、自分の生に向きあう彼らが余りに愛おしくて、今日も懐古はその藍と橙を優しく細める。
 ヴィルベルヴィント・ヘル(RED HOOD・h02496)の右目が追う物語も、やはりそう云った類いの虚構。彼はもう長いこと、仄かに照らす燭台の下で本の頁を捲っていた。さらりとまた一枚、紙を反らす音が聴こえる。
 その内容、その傾向、その趣向を、彼の繋ぎ合わせた脳裡に沁み混ませる様にヴィルベルヴィントは黙して読み耽る。
 彼の足下に積み上げられたそれら全ての本の背に、著者の名が記されていた。山路耿之介。歌姫、天川掬代の恋人と噂される人物だ。


 「いらっしゃいませ」

 懐古が洒落た飾りの瓦斯灯の下を潜ると、その店内では実に様々な形の時計達が、思い思いに秒針を刻んでいた。ある時計は疳高く性急に彼氏との惚気を友人に語り、ある時計はマホガニーを響かせる重厚な音色で、旧年来の親友と共に振り子を揺らし合っている。きっとその時計達は皆、今一所懸命になっている事を囀りあっているに違いない。

「そんなところも愛おしいのだよね」

 そのように、大入りの酒場に広がるそれぞれの物語に耳を傾けながら、狼の獣人のウェイターが案内するままに、カウンターの席に竜頭を預けた。
 懐古の隣に座って居たのは、書生服の男、山路耿之介。似た出で立ちの男達が二人、隣同士肩を並べれば、お互いに話の華が咲く、という訳もなく、ただ身の置き場のない沈黙が周辺を包み込む。
 彼の手元に視線を落とせば水。少なくとも酒精を干しにこの酒場へと足を運んだ訳ではないらしい。先程の、銀の眸を持つ獣人のウェイターに林檎酒を一杯づつ注文すると、影を差すその男の横顔に声を掛ける事にした。

「にいさん、何か楽しい話は無いかい?」

 おっとりと言の葉を紡げば、男の双眸が僅かに揺らぐのを懐古は見逃さない。

「なんだい?突然に。キミは僕の友人では無い様だけど……」
「それは確かにその通りだ。僕等はまだとんと友達じゃない。でもね、ここは無貌の徒が集まる社交の場。知らない者同士で傷を舐め合うのもまた案外良いモノだよ」

 そうして二人の手元にカルヴァドスの黄金が運ばれてくる。その切子を摘み上げて、氷越しに目配せするとそっと一口、唇を湿らせる。懐古の鼻腔を林檎の芳醇な風味とオーク樽の気持ちの良い香りが駆け抜けた。

「実は林檎酒という酒精は初めてでね。アルコールは強めだけど中々どうして、甘い口当たりがとても飲み易い」
「僕は下戸なんだ。喉を潤すならこの水で十分なのさ」

 そんな耿之介に、懐古は肩を竦めながらもう一杯。やおら顔が火照ってくるのを感じる。

「そんな事を言ったら僕だって、大概“右寄り”さ。でも、考えても見てくれよ?下戸が酒を楽しめないなんて、そんな非道い道理も無いだろう?僕は人の話を聞くのが好きでね。良かったら恋の話から、溜まった日頃の愚痴までなんでも聞くよ」

 酒気を休ませる様に頬杖をついて、懐古はチクタクと優しく笑う。その声音には聞く者を惹きつける人懐っこさが有った。
 そんなに言うならと耿之介もグラスを手に取り、やがて赤らむ顔を精一杯に気取らせながら、漸く口にするのは最近恋仲となった掬代の事で。
 歌姫として有名な彼女に、その想いの丈を伝えるべきかと悩んで居ると、ある日、耿之介は夢を見たという。椿の華に絡む蛇が一匹。その蛇が言うには、

「西の寺の祠に祀られし石を払い、祭壇を建てよ。猿を象る木彫を作り、その上に奉じて三度言祝げ」

 招来面妖感星尽六道再憎。
 招来面妖感星尽六道再憎。
 招来面妖感星尽六道再憎。

 翌日、意を決して告白すると、拍子抜けする程にあっさりと掬代は受け入れるのだった。

「蛇の夢、ね……?でも良かったじゃないか。晴れてキミ等は恋人同士だ。その蛇のお陰、という事になるのかな?」

 だが耿之介の表情は重い。その面貌翳る訳の先に、懐古が追う事件の真相が眠る。

「余り喜んでは、居ないみたいだね……」
「実のところ、掬代は僕に心を開いていない。当然だ。僕が夢の蛇を信じて不正を働いたのだから。彼女はハッキリとは謂わないけれど、その体調はほとほと弱りきってると僕は見ていた。今はこうして壇上に登ってはいるが、ほんの最近まではコンサートを休む程に衰弱していたのだから。信じられないだろ?昨日を境に今では達者にお歌を唄っている。まるで別人の様に。僕はそんな掬代の事が、心配でならないよ」

 それが浮かぬ顔の真相だった。彼女が心を開かぬのは良い。それは時間と耿之介の誠意が解決してくれるだろう。しかし、と懐古は思う。夢に顕れたというその蛇が|勾引《かどわ》かしたのは、本当に耿之介だけなのだろうか、と。パズルを埋めるにはあと一つ、|欠片《ピース》が足りない。

「それを聞いて納得したよ。掬代さんの事を想うとキミも不安でならないだろう。呑んでどうにかなる問題でも無いが、今宵の勘定は僕が持とうじゃないか。それに――」

 勇気を出した耿之介を讃える様に、懐古はグラスを傾ける。柔和に瞳を細めると、言の葉を届けるのだった。

「人の織る恋路の邪魔をする者は、僕も嫌いでね。話を聞くついでだ。キミに力を貸そうじゃないか」

 林檎の甘い風味を飲み込んで、感涙噛み締める孤独な男の肩を抱く。
 耿之介もまた、久方振りに飲むこの酒は美味いと思った。

「おっと、キミ。今日は飲みすぎ注意。程々に」

 はじめて愉しんた|九献《くこん》の味を思い出し、己を棚に上げると懐古はそう嘯くのだった。

 そんな二人の様子を見届ける者がいる。懐古を耿之介の隣の席へと案内し、彼らに林檎酒を|給仕《サーブ》した獣人のウェイター、ヴィルベルヴィント・ヘルその人だった。
 遡る事数時間前――

「君が?うちの店に?」
「ええ、此方で雇って頂けませんか?給仕の仕事には、些か覚えがありますので」

 落ち着いた低い声音。伸びた背筋に、身に纏う上質な執事のタキシード。彼の銀の眸には、この場に佇む他の誰よりも荘厳な風格を湛えていた。繋ぎ合わせる様にその額より生やす黒曜石の如き威容は、彼の主が如何に絶対的な存在なのかを示す証左となる。尤も、その存在の素性を知る者は、この場に於いて一人も居ない。ヴィルベルヴィント本人ですら。
 彼は予め此の酒場のホールスタッフとして潜入し、情報収集を開始していた。開店準備の仕事の傍ら、ステージ上で行われる天川掬代のリハーサルに耳を傾ける。彼女の美声は伸びやかに店の入り口の呼び鈴にまで届き、客入り前であればマイクを必要としない程の声量で以って聴く者の心緒を振るわせている。そんな彼女の近くでは、文筆家の山路耿之介が彼女に真剣な眼差しを送っていた。

「素晴らしい歌声ですね。流石は歌姫と呼ばれるだけの事はあります」

 二人を流し見つつ隣の従業員に感嘆を漏らすと、得意気な面持ちで彼も大きく頷く。

「彼女は歌劇畑の育ちだと聞く。オペラ座ではソプラノという役柄で活躍しているそうだよ。そんな大物の歌姫様がこんな場末のバーでお歌を披露してくれてるんだ。実際僕ら庶民達には夢の様な事だよね」

 歌姫の存在はこの店の誇りだった。掬代の話を語る時、この店の従業員の誰もがまるで自身の事の様に誇らしげに胸を反らす。それも彼女の歌声を聴けば得心する所だと、ヴィルベルヴィントも首肯で応える。

「だから、どうか彼女には“長持ち”して貰いたいもんだ」
「長持ち、ですか」

 人間と妖怪とでは、そもそもその寿命の長さが大きく異なる。才に溢れ、儚く美しい人間達を眼にする妖怪達はしばしば、その様な表現を用いた。しかし、ヴィルベルヴィントは彼らの零すその言葉の端々に、そうではない潜める様な息遣いを鋭い嗅覚で感じ取る。

「嗚呼、ここだけの話だけどね?彼女、最近高名なお医者に掛かってるって噂だよ。普段は隠してる見たいだけど、そのハンドバッグの中には処方されたタブレット錠が山程入ってるって話さ。お前さんは此処に来たばっかりだから知らないだろうけど、彼女の演奏は昨日まで暫く中止されてたんだよ。まぁ今日は元気に歌を唄ってくれるみたいだし、善くなってると思う事にするけどね」
「ふむ」

 今度はその近くに掛ける作家の男、山路耿之介へ視線を滑らせる。彼の著作はここへ足を運ぶ前に全て読破していた。彼の書く物語の主な命題は、この目まぐるしく動く世相にあって、翻弄されながらも運命を交わらせる者達のヒューマンドラマだった。

「あの方は確か、作家の山路耿之介様」
「ああ、よく知ってるね。この店の常連客だよ。今じゃすっかり開店前にも顔を出すようになった」
「あの二人、恋仲でいらっしゃると聞き及びましたが」
「そういう噂だね。だからこそ今あそこに座れると云ったもんだ。よくもまぁ、あの身持ちの固いお姫様を口説いたもんだよ。いやいや大したもんだ。その巧みな文章で、妖しい|呪《まじな》の御札でも彼女に貼っ付けてるんじゃないのかねぇ。ハッハッハッ」
「……」
「気をつけな、新人さん。山路さんは今、念願の恋人を取られまいと気が立ってるからよ」

 演奏が終わり、やがて客を迎える時間となる。グラスに残る微かな螺旋の足跡をトーションで丹念に吹き上げながら、銀の虹彩を細めてそこに映す二人の心情を紐解いていくのだった。

 ――その喝采、万雷の内に歌姫はステージを離れる。
 彼女が休憩室の在るホールの外へと出て行くのを目で追うと、ヴィルベルヴィントは懐古と耿之介とが話すカウンターの傍をそっと離れた。

「お疲れ様で御座います、天川様。御気分はいかがですか?温かいりんごジュースをお持ち致しました。宜しければ此方を」
「あらウェイターさん。ありがとう。ちょうど喉が渇いていたの。助かるわ」

 天川掬代は煙管を燻らせながら、休憩室にて給仕を行うヴィルベルヴィントに向かって微笑みを仄めかせる。しかし、その表情はどこか浮かない。耿之介は懐古に打ち明けていた。歌も唄えぬその身が、今日になって突如持ち直した、と。病み上がりが尾を引いているのか?それならば、今こうして紫煙など摘んでは居られないだろう。高名な医者にも掛かる程に床に臥せていたという掬代の行動は、様々な点で|平仄《ひょうそく》合わぬと感じる。

「素晴らしい歌声でした」

 楽屋の扉をそっと閉じながら、ヴィルベルヴィントは言う。

「そう?ありがとう」 

 そんな彼に視線を送る事も無く、窮屈になったブーツを脱ぎながら掬代は答える。

「ですがなんとも勿体ない」

 俯く彼女の手が止まる。

「なんて言ったの?」
「いえ、失礼ながら、貴殿にはオペラが似合う様に私には感じられたものでしたから」

 思わず面を上げる彼女の瞳は驚きに瞬いて、彼の寒月の如き錫紵の虹彩を円く見つめていた。

「あなた、歌劇をご存知なのね」
「知っている、なんて恐れ多い。聞き齧る程度で御座いますよ。天川様。お気を悪くさせたなら申し訳御座いません」
「ううん、いいの。そう言って貰えて嬉しかったから。私もね、歌謡曲で売れちゃうなんて思ってもみなかったんだ。今じゃそっちの方が本業みたいに言われて、失礼しちゃうわよね。私が唄う歌はいつも誰かの人生ばかり。自分の人生を生きるのって、大変だわ……」

 どこか寂しそうに笑うと、カップの中に巻く果実の柔らかな湯気を拾う。ヴィルベルヴィントは思う。他人事だと。どこか諦観にも似たその表情は、ともすれば明日を臨む事を諦む心持ちに蝕まれてしまっているのでは、と。

「ご自身の人生、ですか。それなら天川様だけの歌を囀っては如何でしょうか。詩が書けないと仰るのなら、彼方のお客様がいらっしゃいます。天川様も良くご存知の筈。彼は様々な人生を見て来られたお方。私も山路様の著作が気に入っておりましてね。彼に相談を持ち掛けるのも宜しいかと」

 言った。すると彼女は一瞬胸元のコサージュを握り絞め、今にも泣き出しそうに瞳を潤ませながら、その容貌を隠す様にヴィルベルヴィントから背けると、手に持っていたカップを化粧台の上に置く。

「そうね、歌わなくちゃいけないわ。私が生きる限り、歌い続けなくちゃいけない。耿之介さんの為にもね。ごめんなさいね、そろそろ休憩の時間は終わりなの。お客さんが待ってるわ。貴方との会話、とても楽しかった。良かったらまたいつか、ご一緒しましょうね」

 表情を伏せたまま、掬代は足早にヴィルベルヴィントの脇を抜けると、ドアの廻し手に細い指を掛ける。そうしてホールへと消える直前、彼女は足を止めると部屋に残す彼へ、最後の言葉を置くのだった。

「私ね、あの人がどんな物語を書くのか知らないの。薄情な女でごめんなさい」

エイル・デアルロベル

●歌姫は誰が為に唱う
 妖都の暮夜ではあちらこちらでビーコンの火が灯される。それぞれが往来の眼を引こうと、競い合う様にしてフィラメントに色とりどりの千代紙を巻きつけるものだから、街全体が|宛《さなが》ら金平糖を詰め込んだ宝石箱の如き輝きを放っていた。
 エイル・デアルロベル(品籠のノスタルジア・h01406)はその光景に揺蕩う情緒を、彼が持つトランクケースの中へと詰め込んでいく。見る者の旅情を誘う|骨董品《アンティーク》達が行き交う人々の視線を引けば、それを身に付けるエイルは微笑みで応えながら手に持つグラスを傾けるのだった。

「素敵な歌声の方ですね」

 黄昏色の瓦斯灯の下で、カウンター越しのバーメイドに声を掛ける。ベルベットのタイがそっと揺れる様な落ち着いた優しい声色に、彼女は笑みを灯しながらアペロのチョコレートをエイルに差し出した。

「今宵は歌姫の唄声を、当店の林檎酒と共に心ゆくまでお楽しみ下さいませ。なにせ、彼女の演奏をお届けする夜は久方ぶりで御座いますからね」

 晴れた日の湖畔に寄り添う 二人のおもかげ
 いつかあなたの胸元に 紅い蝶々さんのしるしをひとつ
 港を発つその背中に 掛ける言葉も飲み込んで
 轟く祝砲をいつまでも待ちながら 愛しいあなたよ 今度はわたしが あなたのもとへ あゝ

 歌姫のソプラノが伸びやかに響き渡ってその演奏を終える。ホールに尾を引いた哀愁の情を、割れんばかりの喝采が包み込んだ。
 エイルもその歌唱に思わず聴き入り、心からの拍手を送る。

「有名な歌謡ですが、彼女が唄えばその情景が目の前に浮かぶ様です」
「天川様は声楽家でらっしゃいますからね。情景を歌う事に関しましては、まさに天稟の才といった所です」

 そうであれば、と思わずにはいられない。他人の編んだ歌でこんなにも人々の情感が揺さぶられるのだ。彼女の心を唄った彼女だけの歌があれば、きっとその想いを広く届ける事が出来るだろう。そうなれば、人はもっと天川掬代の編む歌を聴きたいと思う様になるに違いない。
 彼女の想いに言葉を添える事が出来る人物はきっと限られてくる。当の本人ですら、相応の才がなければ人の心緒に響く物を作る事は難しい。或いは、“言葉そのもの”を自身の躰の一部の如く詠む者ならば。

「そういえば、あの歌姫さんに最近、恋人が出来たという噂ですね」

 エイルの言葉に、バーメイドの手が止まる。エイルの隣席に座る書生服の男を一瞬覗き見た後、彼女は静かに応えた。

「……その様な噂があるのですね?」

 彼女は知っている。かの巷談を語る旅人の隣に掛けた書生服のその男こそ、噂の渦中の文筆家、山路耿之介本人である事を。
 まして彼はこの店の常連客だ。まさか当人を前にして彼らの恋話を占う勇気など、そのバーメイドは到底持ち合わせては居なかった。故に曖昧に振る舞う。逃げ出したくなる衝動をなんとかと抑え込みながら。
 そんなバーメイドの様子を余所に、エイルは続けた。

「その素敵なお相手は作家さんだとか。作家さんですからやはり自分の歌姫さんへの思いを歌詞に込めて送ったりもするのでしょうか?今宵は有名な歌謡を演奏される歌姫さんですが、ゆくゆくは二人の甘い恋の歌を聴くことが出来るかも知れませんね。趣があって素敵です」
「キミの提案は実に魅力的だね……。いつか、時が来ればそんな事も考えてみようかな」

 その返答は、思わぬ所から届く。応えたのはカウンター越しで気まずそうに切子を磨くバーメイドではなく、隣に掛けていた耿之介本人だった。はにかんだ表情で眼鏡を直しながら、上目越しにこちらへと向き直る。

「すまないね。キミ達の会話を盗み聞きするつもりは無かったのだけれど、何やら僕たちの話をしていたみたいだから。後で本人が聞いていたと解っては、キミも居心地が悪かろうと思ってね。このお店は良い所だよ。だからこれからも此処でお酒を呑んでいって欲しい。そんな気持ちも在るから、声を掛けさせて貰ったという次第さ」
「ああこれは失礼しました。いえ、歌姫さんの演奏があまりに素晴らしかったもので。私は異国の地で骨董品を商うエイル・デアルロベルと言います。これは飽くまで商人としての経験に基づく見解なのですが、好きな人の為に起こす行動という物は、早ければ早い程効果的かと思います。お互い多忙であるなら尚の事、ですね」

 エイルも動じる事なく、落ち着いたトーンで会話を繋ぐ。恋の悩みというものは、脈々と系譜を連ねていく者達にとって永遠のテーマとも言うべき命題だ。そこに国境はなく、時代すらも超えて人々は想い煩ってきた。職業柄、様々な人達と交流を持つ機会が多いエイルも、商談に紛れてそういった相談を持ち掛けられる事も少なくない。年上の女性への贈り物から身分違いの恋の導き方等。
 そんな彼の金色をしばし見つめ、その作家は小さく溜息を漏らす。

「僕としてはそんな劇的で甘い恋も大歓迎なのだけどね。残念ながらそこまで勇気を出せる程、僕達の恋は進展していない。まだ付き合い始めたばかりだしね」
「そうですか。それならば逆に、あなたが歌姫さんの心の内を詠む様な詩を書いてみるのは如何ですか?誰かの為に創られた詩ではなく、彼女の為に創られた詩を」
「掬代の為の詩……」

 エイルのその言葉は、掬代との関係に悩む耿之介の胸の内に大きく響いていく。誰よりも彼女の事を想いたいと願った。全ての思慮思考に至るまで、彼女に捧げたいと誓った。思わぬ所で果たした骨董品屋の主人との邂逅は、耿之介の中でグルグルと巡る思いに差す一筋の光明と成り得た。

「その調子です。最近は色々と事件に携わる事も多いのですが、中には相手の事も考えずに害を及ぼした挙句、その人を不幸にさせてしまう様な案件も多かったので感心致します。応援していますよ」

 何気ないエイルの言葉が、耿之介の心の隅に影を落とした。彼女の心からの笑顔を、自分は未だ知らない。

「その者はどうなった?」
「その事件の犯人ですか?悪行には報いが待つ、とだけ」
「それもそうか……」

 やがて夜は更けていく。

第2章 冒険 『祭壇を破壊せよ』


●幕間
 鼻孔の奥に|曳《ひ》く、楽園が育てた果実の|芳馨《ほうけい》。そして人々の熱気を孕んだ光芒止まぬ夜はやがて、金液を|鏤《ちりば》む|帳《とばり》にくるまれてその勢を冷ましていった。
 √能力者達は、それぞれが酒場で得た話を持ち寄り、情報を共有する。

 古妖である椿太夫の封印を解いたのは、耿之介ではなく掬代だった。自身が患う病を克服し再び歌を唄える日が来るのなら、と一縷の望みに縋り付く想いで古妖の甘言に乗る。それが、耿之介の純粋な想いを利用する事になると知りつつも。しかし、彼女は見失っている。その歌は、誰が為に唄われているのかを。

 耿之介もまた、憧れの掬代と歩む日々を夢見て、古妖にその情念を掬われる。彼が毀つ石の祠の持つ意味も知らぬまま、古妖を讃える祭壇を組んだ。彼の筆には不思議な力が宿る事を耿之介は知らぬ。自身が書くべき物語を置き去りにしてその筆を|擱《お》いた侭、ただ目前に|燦然《さんぜん》と輝く将来を願い、その光に眩まされて道標を見失っていた。

 歌姫の真の願い。それは、自身の中に沸き起こる|蟠《わだかま》りから解き放たれて、己の歌を響かせる事。そうしてやっと、勇気を奮ってくれた耿之介の想いに心から向き合う事が出来る様な気がするから。

 作家の真の願い。それは、掬代を縛る闇が祓われる事。自分の事は良い。ただ、彼女の幸せを願う。

 しかし、罪を負った彼らの願いは一つも叶わぬ、と地底の蛇は嗤った。
 建てられた祭壇の霊香はこの街を|湿《しめ》らせる。その内に息づく全ての生命を少しづつ蝕んで行く。
 赤い月が昇る。

●星尽き刻
 ぬしらが描きんした星の通りになったかや?それは上々。でも急ぎなんし。わっちは既に人を喰ろうておりんすゆえ。
 わっちの呪いは既に完成していんす。きっとぬしらですら、わっちを斃す事は叶いんせんよ。その力ごと、わっちが美味しく頂きんすぇ。

 寺の音や 欲の華やぐ みやこをば 打てよ|常世《とこよ》の まねくまにまに

●第2章について
 √能力者達が見事に犯人と動機を突き止めました。しかし彼らが建てた祭壇の呪いは、街全域に及びはじめています。それら祭壇を破壊し、呪いを破る事が目的となります。(祭壇自体は簡単に誰でも壊せます)
 また、呪いは古妖の力を増幅しています。√能力者の√能力はほぼ無効化されています。この効果は2章の展開によっては3章にも引き継がれます。

 祭壇については下記の事が推測されます
・耿之介が建てた、街の西側にある寺の祠の祭壇が呪いを強めている。
・掬代が建てた、街の中央にある寺の祭壇が呪いを強めている。
・呪いは街全域を覆っています。もしかしたら他にも情念を利用された誰かの手によって建てられた祭壇が、街の何処かに存在しているかも知れません。

 加えて、耿之介や掬代をフォローし鼓舞する事も、物語がハッピーエンドへ至る為の力と必ずやなるでしょう。その糸口が第一章にて描かれております通り、励ましや、皆様の勇気ある行動を彼らに見せる事で、二人の心を揺り動かす事が出来るかも知れません。
 彼らの心緒を揺さぶるを重視するのか、呪いを解くを重視するのか、あるいはその両方か。
 若しくは皆様思い思いの行動に出て頂いてまったく構いません。時は深夜。古妖との決戦の為に今なせる事を!

 それでは、皆様のプレイングをお待ちしております!
イリス・フラックス

●物語のつづきを
 斯くして夜半の天に掲げられた赤星の眸子は、一体何者の仕業か。古妖よ!視上げた誰かが、引け四ツの拍子木を打つが如く金切り声を上げる。俄に血相を変じる街並みの中で、イリス・フラックス(ペルセポネのくちづけ・h01095)は自身の手を宙に翳し見ていた。少女には見える。その異変。苹果の如き粧いの兎達が、妖都のインビジブルを貪っている。少女の『偶像』たるその災厄は、か細い指の先から権能の一端が漏れ出ていく感触を、碧色の眼睛で彗星を眺むる様に見つめていた。

(石を払い神を退けよ。人は猿、痴れ者。認識せよ。憎まれし物事を。星辰と六道より弾かれし私を、再度ここへ招けって感じかしら?)

 胸中で呪詛の言葉を紐解いていく。星尽き。盈血の火に曝されて、遠き星々は|悉《ことごと》く息絶えて逝った。椿の華よりぶら下がる悪しき蛇は、この楽園を丸ごとひっくり返そうとしている事は最早明白である。

「アダムとイヴ以外を拐かす蛇は嫌い」

 無垢な瞳を少しだけ不愉快そうに湿らせて、イリスは呟く。少女の友人たる存在達を勝手に毀つ事は許されない、と。彼らとしたい『ごっこ遊び』はまだ山程有るのだから。

「暴力も苦手」

 無自覚に呟く。結んだ人影を脳裡に描き乍ら、くるくると踵を翻す。

「なんてね」

 酒場のホールに戻ると、耿之介が思い詰めた様に肩を揺らしているのが見えた。その背中に手を添えると、イリスの柔らかい灯火が彼の臆病を幾分暖めた様で、静かに青白いかんばせを振り向かせる。

『久しぶりね、耿之介さん』
「やぁ、久しぶりだね……」

 その災厄は、インビジブルが枯れて果てて尚、日常の中で何気なく行使する異能を発現させていた。その原理は誰にもわからない。理をも捻じ伏せる魔性が、耿之介の、イリスへの認識を朧気に歪ませている。しかし、完全にとは行かないだろう。この干渉は一時的な物に留まる事を、少女はその月明かりから見通していた。
 彼女は――そう。古い知人だ。昔はよく書いた文を読んで貰っていた。物書きにとって、作品の所懐を頂く事は何よりも有り難い機会と心得て、その縁を大切にしていた。しかし変わらない。ずっと昔の若い姿の侭だ。お互い歳を重ねた筈なのに、まるで遙か遠くにキミを置いてきぼりにしてしまった気分だ。キミと過ごした記憶と共に。何故今まで忘れておったのか。

「……元気だったかい?」

 耿之介は旧来の友に聞く。詫びる心持ちは、一抹の追想を伴って。

「わたしは元気だったわ。でもあなたは少しだけ、|窶《やつ》れたかしら。わたしがここへ来た|理由《わけ》を知りたい?」

 少女はその面影をなぞるように、悪戯っぽい笑みを象った。互いの気持ちなど、言葉にしなくても通じ合うぞとでも言っているように耿之介には感じられた。

「僕の作品を読みに来たんだろう?」
「その通りよ。最近ぜんぜん書けてないって聞いたわ。それとね、恋人ができたって話も!」
「その様子じゃ、存外近くに居たみたいだね」

 イリスとの会話は、耿之介の胸襟を開かせていった。黒縁の奥でその双眸を細めて、少女の姿を黄昏色と共に映す。しかし、同時に彼の中に施された|定義《レッテル》も、その影が揺れる度に薄れてゆく。だが、今はまだ気づかない。イリスに新作を届けられないという後ろめたさが勝って、彼女との時間を紡いでいた。

「最後に書いた物語はなあに?あなたが書きたかった物語」
「僕が書きたかった物か……」

 いつからか見失っていた。周りを見る度に沸き起こっていた情念も、自分が本当に編みたかった物語も。
――僕は、彼女が目を輝かせるその様子が見たくて、文を書き始めたんだ。掬代。今はおまえの喜ぶ顔が見たい。おまえが僕の文を読み乍ら、その感情を揺さぶる様を傍らで見ていたい。あゝ、忘れていたよ。僕の本当の気持ちを。

「――続きを待ってるわ」

 今や、イリスの|定義《レッテル》は完全に剥がれ落ちていた。そこに在るのは最早『偶像』たる災厄の姿ではない。ただの一人の可憐な少女。そして今は、耿之介にとって大切な古い知人。

「ああ」

 耿之介は短く返す。心に優しく触れてくれた、その嘘つきの“友人”に。

「恋人さんもきっとあなたの物語を楽しんでくれる」
「そうだといいね」
「そうに決まってるわ。たとえば。政略結婚や望まぬ婚約者の物語よ。でも互いの運命の糸が交わって、最後はハッピーエンドを迎えるの!」
「世間には、僕は筆を擱いた事にしているが、これが落ち着いたらキミにも必ず書こう。キミのお陰で良い題材が浮かびそうなんだ。今度はちゃんと、居場所を教えておいておくれよ?」
「わかったわ。掬代さんにも、よろしくね」
「ああ、伝えておくよ。我が友よ。ところで、キミの名前を教えてはくれないかい?いつまでも『キミ』じゃ、なんだかこそばゆいだろう?」

 そんな耿之介にイリスがふふと笑う。新しいおともだちができたかしら、と。
――かならずね、あなたの物語を受け取りに戻ってくるわ。その時には、わたしの『忙しない』おともだちも一緒に連れて、ご本を読んで貰おうかしら。

「わたしはね、イリス・フラックスって言うのよ?よろしくね」

アプローズ・クインローゼ

●忘れかけていた光
 人も妖怪も、|真赭《まそお》に染まった夜空を茫然と見上げていた。赤い月が妖都全体をギョロリと睨みつけて、気圧されたインビジブル達が瓦斯灯の火を吹き消して行く。
 多くの伝説にも謳われてきた最後の審判の日が遂にやって来たのだと、掬代は悟る。もう誰にも古妖の呪いを止める事は出来ない、と。何処からか終末を報せる|鏧《きん》の|音《ね》が聞こえて、人々の悲哀の情が一層色濃く辺りを包み込んでいった。
 足が竦んで声が|薄焼《ぼや》ける。この世界を|泥黎《ないり》の淵へと|誘《いざな》ったのがこの身であるのならば、せめて鎮魂の詩を捧ぐべきだろう。だのにそれすらも出来ず、ただ赤子の様に天を仰ぐより他にない。歌姫が聞いて呆れる!頭の中の誰かが叫んだ。お前は地獄行きだ!

「そこに居たんだね、レディ」

 罵る声を遮る様に、凛とした|鈴声《れいせい》が掛けられて彼女は面を上げた。

「アプローズさん……」

 果たしてそこに立っていたのは、青薔薇の花弁に住まう妖精の如き見目の、美しい少女だった。しかし掬代には判る。彼女は酒場のホールで言葉を交わした異国の男性、アプローズその人だと。ハーブティーで心を解し、一筋の光明を授けてくれた彼と、姿は違えど同じ人物であると確信する。何故なら、今目の前に立つ少女からは、彼と同じ薔薇の香りがした。アプローズはいつだって、優しく掬代を気遣ってくれていた。愈々と地獄を臨む今この瞬間に至っても尚、見棄てずに亡者の|謗《そし》りからこの身を護ってくれている。
 アプローズ・クインローゼ(|妖精の取り替え子《チェンジリング》・h01015)も、自身の幻惑が古妖の呪いに阻害されて機能を失った事を知っていた。しかし、今自分は掬代にとってホールで出会った異国の青年で在らねばならない。彼女がその瞳で訴えた、救いを求める声を聞き届けたのが青年アプローズであるのならば、今はその様に振舞い応えるべきなのだ。

「……レディ、ボクは貴女の覚悟を問いたい」

 真剣な眼差しで、掬代の瞳を見つめる。
 アプローズは懸念していた。この呪いを取り去る事は、集った√能力者達ならばそう難しくはないだろう。しかし古妖の契約を祓って仕舞えば、歌姫の身に巣食う病魔が再び牙を剝き、彼女を弑する事になるかも知れない、と。

「私の、覚悟……」

 辺りは災禍の光に燃えている。気を抜くと亡者がささめく。あちらこちらで翼を失った鴉達が群れを為そうと彷徨い乍ら、|咫尺《しせき》の間に|炯々《けいけい》と|論《あげつら》う。この地獄を作り上げたのは誰だ?と。それは他ならぬ自分自身だ。歌姫と讃えられたその歌声は、この朱き地を轟かせる為に在ったのだろうか?そうで在るならば何と虚しい事か。
 アプローズは煉獄に身を置き続ける彼女に、ただ手を差し伸べる事しか出来ない。彼女の覚悟がなければ、彼女の瞳に映すその世界は、絶対に救えない。

「恐ろしい過ちを償って、再び病の影が忍び寄ったとしても」

 蛇は言った。
 ――そうすればまた、歌手としての生命を吹き込んでやる。
 この生命は、最早あの災厄とも言うべき大蛇から授けられたものだ。それであるならばもう、自分の唄う歌に意味など無い。この地獄に終止符を打つ事ができると云うのなら、その生命を以って罪を贖ったとしても悔いは残らなかろうか。

「それでも――貴女は、その運命をも受け入れて戦うことができるだろうか」

 それは運命だったと、今ならはっきりと認める事が出来る。しかし、アプローズは言う。
 その運命を越えて戦う覚悟が在るのか、と。何も出来なかった自分の一体どこにそんな勇ましさが在ると言うのだろうか?今やその歌に価値は無いとするならば、他に取り柄の持たない掬代に戦う術など何も無い筈だ、と自分の胸に問う。その杳々たる背中を押すのはアプローズの優しい薔薇の|馨香《けいきょう》。|彼《アプローズ》は言った。

「己が詩を、彼へ心を寄せることを恐れはしないと」
「嗚呼……耿之介さん……」

 耿之介の真剣な想いを利用した自分に、その資格は無いと眼を逸らして、彼と向き合う事を恐れて来た。今この場に至って、掬代の歌に価値を見出す者がいるとするならば、それは山路耿之介を措いて他に居はしないだろう。ハラハラと涙が頬を伝い、煉瓦作りの街並みを滲ませてゆく。面と向かって、心からの謝罪の言葉を彼に伝える機会があるとするならば、それは今が最期の時に相違ない。急に彼の顔が恋しくなって、彼女は咳上ぐ様に妖都の中を駆けるのだった。

 アプローズは彼女の背中を見送る。後は彼女自身の問題だ。それがどう転んで行くのか、正直な所アプローズにもわからない。

(その返答が如何なるものであれ、ボクはあの恐ろしい蛇を何とかする気でいるけれどね。それでもどうか、君が凛と立つことを願うよ)

 日月星辰届かぬ|晦冥《かいめい》の如き絶望が、すっかりとこの街を覆い尽くしてしまったのかというと、そんな筈ではない。仄明るく照らす明星もまた、この地に存在している。それに案外、彼女の病も元を辿れば古妖の瘴気に端を発するという事も考えられるのだから。

「さて、それじゃあ祭壇を壊しに行こうか」

 悪しき大蛇との決戦を控え、まだ為すべき事がアプローズには残っている。その力を削ぐ為に、朱を混じえぬ淡い青色の瞳は、遠く空の彼方を凝然見据えるのだった。

七々手・七々口

●|伏魔讚妖偈頌界隈《ふくまさんようげじゅかいわい》
 人と猫が手を取り合う事も無い訳ではない。ないが、こと七々手・七々口(堕落魔猫と7本の魔手・h00560)に限っては概ね、その取る手という物にとんと不自由を感じた事はない。玉兎が街を暗室の如き赤色に染め上げようが、古妖の降臨を憂う群衆が一心不乱に衆生救済をがなり立てようが、|不羈奔逸《ふきほんいつ》の旗の元に生きるその魔猫は、七つの月を燻す煙を腹一杯に愉しみ乍ら悠然と大路を往く。

「上手い酒も愉しめた。活きの良い魚にもありつけた。とありゃあこのまま帰る訳にもいかんわなぁ。とりま、店員くんに聞いた所をぶっ壊しに行くかねぇ」

 目の前で花火屋の火薬がドロロと弾けたのを見て、七々口は歪に入り組む裏路地へと身を滑らせる。玲瓏たる光に当てられて、些か|逆上《のぼ》せ気味の額を醒ますに丁度よい北よりの風が吹く。耳朶を彩る様々な喧騒が、|清掻《すががき》を奏でる三味線の様に街中を鳴らしていた。良い夜だねぇ、と七々口は口ずさむ。散歩するには打って付けの混沌が、人々の胸中を囃し立てている。
 近くに響く鐘の音に黒い耳を|攲《そばた》てると、頻りに色欲の魔手が土手の奥へと寄り道を促した。否、色欲だけではない。この都には、有ろう事か在りと在らゆる欲望が渦巻いていたのだ。魔手達が急き立てる侭に木陰を覗けば、嫉妬に駆られた老婆が木っ端を丸めて猿の人形を幹の|肚《はら》から抉り出して居る。かと思えば、小さな墓地では観音様の頭部を切り落とし、その眼球を掬い上げる様に苦悶に|濡《そぼ》つ石像を、恐ろしい憤怒の形相で以って無数に産み落とす者さえ居た。誰も彼もが椿の蛇に欲を煽られ、狂々と古妖を讃えんとしていた。

「ちと大掛かりだなぁ」

 面倒臭そうに呟いて、繰り出された魔手がそれら呪詛人形を握り潰していく。そうして居る内に、七々口の脳裡に描いた妖都の地図が、五芒星の図形を描いていった。この街の寺院は全部で六つ。描いた星の先端と、街の中心にそれぞれと。
 一先ず立ち寄ったのは最寄りに|傾《かし》ぐ|壊《やぶ》れ寺。土壁は剥がれ、東の暁天を透かす斑点を|見窄《みすぼ》らしく施す。暗がりのお御堂を覗けば、西方浄土の果てにと|設《しつら》えた内陣の|荘厳《しょうごん》を縫う様に、無数の冒涜的な痩せ共が一瞬ぎょおろと粘着いた音を立てては、色褪せ変じた|打敷《うちしき》に影を踊らせていた。|庫裏《くり》へと続く漆黒の廊下では、坊主が後ろ向きに胡座を掻き乍らユサユサと身体を左右に揺すぶっている。

「溢れていやがんな」

 古妖の食んだ|残穢《ざんえ》が次々に七々口の眼前に股開いていた。本尊は斃れ、その|須弥壇《しゅみだん》の頂きには代わりに黒い祭壇が猿を奉じつつ建てられていた。|鏧《きん》が七々口のすぐ背後に迫り、その鼻腔を白檀の霊香が燻し上げていく。刹那、その煙を掻き回して、色欲の魔手が動いた。七々口の背を中心に、鞭の如き撓りで周囲を薙ぎ倒し乍ら|厨子《ずし》を宿主とする黒き祭壇を易々穿っていくではないか。祭壇の天板が跳ね、その上の|六向《ろっこう》に献じられていた何者かの髪の束がざんばらと床にのさばる。

「横恋慕でもしたのかねぇ。執念は立派だが、あんましお行儀は良くなさそうだなぁ。何れにしても長居する所じゃねえな。本当はこんなもんで帰らせて貰いたい所だが、まあ、美味い酒と刺身が食えなくなったらそれも困るし、もうちと頑張るか。次次」

 そうして結局八荒駆けずり回り、いい加減に寄り道が過ぎると魔手を咎めた所で、七々口は辿り着いた。若きウェイターが見たという件の祠。餓鬼どもが西に居直る筈の破れの脇に、注連縄を着飾った霊石がごろりと小さき紅梁の下に佇む。

「あれ?」

 辺りを見渡すが、古妖を讃える祭壇もその上に列を為す猿の群衆もどこにも見当たらなかった。耿之介が退けたと言われる石が元の場所で往来に睨みを効かせている。
 不思議そうに二度、三度、金色の視線を這わし、石塀に寄り掛かる物乞いの姿を認ると、無遠慮に声を掛けた。

「そこの世捨て人さんや」

 すると、我関せずと言わんばかりに瞼を閉じていた物乞いが薄く片目を開ける。

「勝手に捨てておいて飛んだ言い草じゃのう。儂ほどこの世に醜くしがみついておる者も居るまいて。赤い月に口の達者な黒猫と。今宵は中々に騒々しいわい」
「そこの祠の石は、あんたが戻した感じ?」

 物乞いが言い終わらない内に言葉を被せる七々口に、その老人は眉一つ動かさずくつくつと喉仏を揺らす。

「こんな老いぼれにそんな事は到底できんのう」
「じゃあ誰が祠を戻したんだ?」
「はて、浮世に見捨てられてとんと世情に疎くはなったが、この目で見た物位は覚えとる。問題は中々この瞼が持ち上がらん事じゃがなぁ」
「知らんのなら無理せんでいいぞー」

 冷たく言って立ち去ろうとする七々口を、嗄れた物乞いの声が呼び止める。――書生服の男が来た、と。それを聞いて耳を張ると、七々口は視線だけ、物乞いの翁へと振り返らせる。

「祠に石を元に戻したのは若い書生服の男じゃ。何やら真剣な形相で、汗水垂らしながらせっせと重い石を引き摺っておったぞ」
「……」

 酒場で少しだけ見掛けた二人を思い出す。お歌に夢中のお姫様に、恋に夢中の文筆家。彼らの胸中に蟠る欲望が、今回の騒動を引き起こした。ただ悲嘆に暮れるばかりと思っていたが、この土壇場に至り自ら行動を起こすなんて事があるだろうか。

「ほれ。何を茫と立っておる。儂は大層哀れな物乞いじゃ。物乞いには物を施すのが世の習いじゃぞ」
「うるせーなぁ」

 煩わし気に髯を揺らし、宝物庫へ魔手を延ばしてみれば、取り出した安酒を一つ翁に充てがう。にんまりと相好を崩す傍らで、その魔猫はしばし思索に耽るのだった。そうして赤い霧を晴らし行く合間に、|到頭《とうとう》と|煩瑣《はんさ》に思えて来て七々口は煙草を喫む。

「ま、歌姫やら作家やらに言う事にゃあねーな。オレは凡ゆる欲望の肯定者、堕落魔猫だし」

 上手い酒と肴が有れば、世は事もなし。咽草が在れば更に言う事もなし。自由という名の柵の下、魔猫は紫煙を曳かせて決戦の場に赴く。

刻・懐古

●謳われなかった詩
 人は天を仰ぎ見るもの。その内に時の経過を追う様になった。まだ見ぬ|東雲《しののめ》の露に想いを馳せ、いつか訪れる邂逅の|漣《さざなみ》に心を揺り動かし、そうしてそれぞれが描く未来を切り拓いて行く為の道標として。
 しかし、運命を刻む文字盤は、必ずしも持ち主にとって最良の結果を映す物ではない。その者の時計の針が子午線を跨ぐ時、彼の旅路が思わぬ形で終焉を迎えると知るならば、なんとかその針の向かう先を変える事は出来ない物かと|踠《もが》くのが人の性と、刻・懐古(旨い物は宵のうち・h00369)は心得る。

――西の寺の祠に祀られし石を払い、祭壇を建てよ。

 一所懸命にその生を全うしようとするが故に、人々は取り縋る。その文字盤をちょいと変えてやろうという、そんな甘やかな囁きに。
 この妖都で精一杯の華を咲かせる掬代と耿之介。懐古の香箱に宿す紅玉が、彼らの心情を悉に見つめていた。彼らが織り成す物語を、無粋にも穢す輩は一体何処の何者だ?カタンとまたひとつ、短針がその身を奮わせる。


「これかあ」

 それは、古びた廃寺の傍らに存在していた。元々はこの街を鎮め、見守って来たで在ろう霊石が佇むべき祠の一つ。そこに坐って|如《し》かるべき石は脇に退けられ、立派な鷲を象る|蟇股《かえるまた》の下には漆黒の祭壇が周囲の空気を澱ませている。恐らくはこれが、耿之介が掬代への想いの果てに打ち建てたと白状した祭壇の一つだろう。その上にずらりと並べられた猿の木彫の像が、耿之介の浮かない表情と重なった。

“彼女の体調は、ほとほと弱りきってると僕は見ていた。それが昨日を境に今では達者にお歌を唄っている。まるで別人の様に。僕はそんな掬代の事が、心配でならないよ”

 その内の一体を手に取り、猿の頬を撫でる。ざらりと、憂う二人の心境をなぞるように、懐古の指先に感触を残す。朱を湛える|衍盈《えんえい》の月が彼の背中を見下ろしていた。それはこの地に住まう者達の生命の灯火を吸い上げて輝きを増し、古妖の呪いを鼓吹している様に懐古には感じられた。
 双眸を細める。萎れる様に活力を失った者達が、四肢を投げ出して大路で寝そべって居る様を、此処に来る道中大勢見てきた。歌姫、掬代の衰弱。そして急激とも言える病状の緩解。懐古は思う。この街は既に、一匹の巨大な毒蛇に絡め取られているに違いないと。
 手にしていた猿の木彫をそっと懐に仕舞い込み、やおら両手で祠の祭壇をバラバラと崩すのだった。赤い月がまた一つ、瞬く。


「これは……僕が拵えた猿の木彫じゃないか。行ってきたのか、あすこに?」

 懐古がお土産にと拾ってきた木彫を見せると、耿之介は予想通りの反応を見せた。|窶《やつ》れた額に玉の様な汗を浮かばせて、その身を抱きながら猿の形代をテーブルに置く。

「そうか、すまない。本当は己で仕出かした事の始末は己でと思っていたのだけどね。どうにも身体の調子が悪くなってしまった」
「無理する事はないよ。こんな天気じゃ皆そのような物だろう。安心すると良いさ。君の建てたと云う祭壇は、代わりに僕がすっかりと壊して来たからね。それにしても――」

 酒場で酒を交わした時はもう少しその頰も赤らんでいた。それがどうだろう。今では彼のかんばせに近く蝋燭を灯したとしても、仄り青白い。色彩失うその唇は、まるで生気を欠くと懐古は思った。

「なるほど、本当に少し大層な様だ。広い所で横になると良いが、動けるかい?」
「いいや、それには及ばないよ。それよりも掬代の姿が見当たらないんだ。こんな時は近くで励ましてやるのが男の役目だというのに……」

 そう呟く耿之介の瞳には未だ、希望の光は宿らない。古妖が解かれた事、そして肝心な時に彼女の心に寄り添う事が出来ない事を心から悔いていると、懐古は心音を詠む。その優しさが有るのなら、と懐古は思わずには居られないだろう。故に一度杯を交わした友へと、大事と思う事を語りかける。

「初めの相談相手が悪かった様子だね。今回の蛇は些か|質《たち》が悪い様だ。して、耿之介君。掬代さんに心を砕く君の様子を見ていて僕は思うのだよ。蛇に頼らずとも、言葉を交わせば物語は進むのではないかと」
「そうは言うが、僕にはあまり自信がない」
「こんなにも世界を見てきた君が、それを言うのかい?世間の移ろいを見て、心を動かしては筆を握って来た君だろう?それなのにまだ解らないと言うのなら、僕がハッキリと言ってやる。耿之介君の物語の主役は耿之介君だ。君が今までに見てきたもの、感じてきたものが耿之介君の全てなんだ。君の綴るものだってそうだろう?」
「僕の物語……」

 |心疚《こころやま》しい想いを曳き摺り、悔恨の情に踝を繋がれて見失っていた。自身の中に抑えこむ本来の気持ちを。懐古が言う通り、自信が無いなんてそんな事は言い訳だ。想いは伝わらないから等と言うのは詭弁に過ぎない。人は皆、それぞれの物語の主人公なのだと、第三者を気取っていた自分が散々|宣《のたま》って来た事ではないか。

「……全く君の言う通りだ。逃げ続けるのも、そろそろ潮時なのかも知れないね」
「そう不安がらなくても大丈夫。言の葉の力を君はよく解っている筈だ」

 懐から万年筆を取り出して見つめる耿之介に、懐古は優しく励ましの言葉を送る。彼は知っていた。人は強い。放って置いても邪魔をされても、その運命に抗う位には。

「どうだい?無貌同士傷を舐め合うのも案外悪くないだろう?運命が良い方向に進んだら、頑張った僕――刻懐古にも一杯奢ってくれよ。その代わり、やっぱり上手くいかないなんて時は、また僕が奢ってやるさ」

 赤兎の明かりに照らされて、文字盤の上をチクタクと秒針が巡る。妖都に降りた大蛇との戦いの時は、刻一刻と迫っていた。

小鳥遊・そら
玉梓・言葉

●アルデバランは輝いて
 逢魔時の影がどこまでも延びるこの街の最果てから、何者かの演説が聞こえる。

「|嬋娟《せんけん》と差す紅朱の|盈虚《えいきょ》は古妖の所業なれど!昨今の風紀の乱れは目に余る!猥雑な人間文化に溺れ!|只管《ひたすら》諧謔を弄し!自己の欲の赴く侭|悉《ことごと》く悦楽に耽る者達よ!きやつらが跳梁跋扈するこの都市この有り様で在るからこそ!此度の事は|天網恢恢疎《てんもうかいかいそ》にして漏らさず!!古妖の封印解かれしは最早必然の理と言えよう!見よ!壊れに破れた封印の|伽藍堂《がらんどう》を!然ればこそ!これは神の審判である!我々『ぱるしあ』は!!一切衆生の救済こそ、その教義に掲げる!!この裁きに乗じ!今こそ街を粛清し!誠の楽土を此処に築かん!!賛同する者は我が元に集えぃぃぃぃ!!」

 妖都は未だ眠れず。尚一層盛んに|騒擾《そうじょう》の種子が根を這わし、大路の大樹を揺らしては赤子を|苛《さいな》む。その様子に耳を傾けていた小鳥遊・そら(白鷹憑きの|警視庁異能捜査官《カミガリ》・h04856)は、戸口の柱に|凭《もた》れかかりながら溢した。

「きな臭くなって来たなぁ?」

 玉梓・言葉(|紙上の観測者《だいさんしゃ》・h03308)はそらの向かいに立ち、同じ逢魔の宙を視ていた。誰かが噛む呪詛の音が通りの風を蝕み、衰える者から順に容赦なく吹き付けて行く。

「招来面妖感星尽六道再憎のう……降霊の呪い言葉とよう似ておる」
「月が赤いのも、街の人たちの様子が変なのも、その呪いの影響って事かい?」
「そうじゃろうな。大方動物を象った木像に己が眷属共を降ろすつもりであったか。古妖のやつ、儂らに邪魔されると知ってやり口を変えて来たのやも知れぬの」
「敵も星を詠むって話だったかね。それで多くの情念を呑み始めたって?やり過ぎだ。人の想いというのは強いもの。それが力になることもよくわかっているが、想いの悪用はちょいと許しがたいねぇ」
「己が為の形代、強い想い程心地よいのは神も呪いも同じよ」

 そう洩らして水縹色の視線を移す先は薄暗い建物の奥。じっと耳を凝らすと聞こえる馴染みの音は、そこから届いて来るようで。インクで湿らせたペン先の掻く紙の音が、言葉の鼓室を|嫋々《じょうじょう》と揺らしていた。

「来るかねぇ、あの兄さん」
「今は待つしかないのう」


 耿之介の|腕《かいな》は震えていた。この街に根を張った古妖の呪詛が、そこに住む者たちの心胆を寒からしめる。或る者たちは気性を荒らげ、弱き者たちの上にのさばって居る。或る者たちは刻々次第と弱り、立つことも話す事も儘ならない。それでも綴る。今は姿を見せぬ歌姫の横顔を想いながら。

「掬代……」

 やがてインクが掠れ、紙の端まで埋まろうと云う頃、耿之介は漸くと席を立った。呪いに巻かれ、よたよたと二、三|蹌踉《よろ》めいた所で窓枠を掴み、何とか部屋の敷居を跨ぐ。
 情けない。胸裡の|団居《まどい》に連なる誰かが彼を|詰《なじ》った。よく聞いた貌だ。それは、自らが書いて来た虚構の主役達。
 ――こんな時だというのに|蟄居《ちっきょ》に走れば、掬代が憐れで仕方がない。
 ――その侭目も耳も塞いで居れば良い。後は酒場で出会った若者達が何とかしてくれるだろう。
 ――掬代はお前の事なぞ何とも思っては居らぬ。筆を折った身でなんだ?滑稽にも程がある。

(違う違う違う。僕の書いた者達はその様な事は言わない)
「待ち|草臥《くたび》れたよ、耿之介の兄さん。でも、アンタならそうするんじゃないかねって思ってたさ」

 思わず目を瞑った刹那だった。気の入り口の方角から、今度こそ本当に聞き覚えのある声が掛かった。酒場で林檎酒を交わし、思わずその目で助けてくれと縋った先の二人。小鳥遊そらと玉梓言葉の姿だった。

「後始末に行くんじゃろ?見せ所じゃな、兄さんの精一杯というものの」
「あんた等……」
「言っただろう?やれる範囲の手助けはするってさ」
「……っ」

 きっと独りで繰り出せば、その命は無かっただろう。元よりその覚悟だった。己の欲が、この街を歪ませてしまったのだから。思いもよらぬ邂逅が、耿之介の胸を詰まらせる。あの時、あの酒場での出来事が分水嶺だったと、耿之介は今にして悟る。

 白檀の香りが辺りを一層色濃く包み込み、ただ|神拝《じんばい》に耽りながら祈りに縋る何者かの|伽陀《かだ》の|音《ね》が、何処からか聴こえて来る。その中を掻き分けて、三人は耿之介が祭壇を建てたという西方の祠を目指していた。
 途中我を失った暴漢が三人を囲うも、そらと言葉が事も無げに華麗な技で彼らを|遇《あし》らってくれた。かと思いきや幾筋もの細い黒煙が、彼方此方で蛇の如く揺らめき昇る。街の混乱は|愈々《いよいよ》以って苛烈さを増しているように、そらと言葉には感じられた。耿之介は時折咳上げながらも、なんとかと走る二人の後に食らいつく。

「時間はあまり無いと見たね、耿之介君」
「掬代殿がお主を待っておるぞ」

 その言の葉に、耿之介は未だ思い切りがつかぬ心境をありのままに打ち明けるのだった。

「待っては居らぬかも知れん。どう取り繕うとも、僕はまるで卑怯で下手な人間だ。掬代を想う男なんぞ、それこそ山の様に居たというに」

 角を曲がると見えてくる、藪椿の彩りに三人はその歩みを止める。遂に見つけた呪いの根。耿之介が建てた祭壇が一つ、めらめらと周囲の精気を匿む。
 言葉は美しい双眸を細めて想いを紡ぐ。嘗て、彼の持ち主達が語らう友にそうした様に。

「人は憐れな生き物と、儂は見ておる。常に迷い、間違え、その身を削りながらも言の葉を編む。そうして選び重ねてきた|篩《ふる》いの末に、残った小さき|玊《たま》を見ては嗚呼こんなもんであったと笑うのじゃ。だからのう、耿之介や。自分の後悔は自分で向き合わねば、人は前へ踏み出せんぞ」

 言葉は見届けてきた。人々が織り成す美しくも儚い物語を。そして、その水縹色が今また映す。彼が人生の大岐路に立つこの瞬間を。

「言の葉を紡げ、耿之介」

 好いた人の為に。でなければ、彼の心の靄は晴れぬまま。その選択の果てに待つものが、果たして彼を心から微笑ませる事が出来るのだろうか。

「アンタの手を一度は取ってくれたんだ。それ以上望む事が他にあるのかい?想いを伝えるんなら、今がその時だって私も思うけどね。でも言葉の伝え方は人それぞれさね。まぁ、アンタなら文字を紡ぐ方が得意だろ。言葉君の言う通りにさ。何か|認《したた》めて来たんだろう?」

 文字は本業だろうがこっちにご利益のありそうな男もいるしねぇ、とそらは笑う。視線を向けられた言葉は静かに耿之介の決意を見守る。

「伝える言葉に、まだ、何かが足りないと感じているんだ。掬代にコレを本当に渡すかどうかも迷っていたから……」
「まだ迷いは晴れぬか?よくよく想い起こして見る事さの。誰が為の想いを誰が為に編むのか。言葉には力が宿る。それをお主は綴ることが出来るのじゃから」
「誰が為の想い……か」

 静寂が包む。今までに視て来た情景が、想いが、言の葉が、走馬燈のように耿之介の思考を駆け巡った。そうして最後に去来するは掬代の姿。懸命に唄う。煌びやかに壇上を舞い、此方へと微笑みかける。彼女の美しい面影。
 僕は、そんな君を愛した。
 眩しかった光が収束し、見えなかった想いを形どっていく。

「今、決めたよ。最後に添える言葉を。ありがとう、二人とも。君達は僕の恩人だ」
「そうか。それならお主の元凶はお主の手で壊せ。呪いは儂が引き受けよう」
「そうだね、アンタがしっかりやんな」

 そらが頷いて耿之介の背を押した。自分の人生は自分にしか切り拓く事は出来ない。でも、その行く背を支えてやることぐらいはしてやれる。何も暗がりを一人で歩く訳じゃない。横を見れば、応援してくれる人たちが必ず居てくれるのだから。それをそらは良く知っている。想い描いた仲間たちに届ける様に、煙燕を|薫《くゆ》らせた。

「みんなそうなのさ。助け支え合ってそれが結んで縁になる、幸せになるのは一人じゃだめだよ」


 祠は元の主を迎え、再びこの地に根を張る。それを見届けた言葉は瓢箪から|嘯月《かみのにえ》を、そらは宵鳥を盃に注ぎ、御神酒にと供えた。ぐつぐつと、石が笑った様な気がした。

「変わらずこの地を護っておくれ」

 そらが夜情に描いた|典具帖《てんぐじょう》の如き煙管の雲は、言葉と耿之介の体を柔らかに包む。その優しい抱擁がこの街に降る呪いを跳ね除けていくかのように、ゆっくりと赤色のギラつきを晴らしていった。また一つ月が瞬いて、その|四方《よも》を巡る星々が息を吹き返す様に僅かにその光条を覗かせていた。

「僕は掬代を探しに行くよ」

 耿之介は言った。青白かったかんばせも今では仄かに紅みを差し、元の気を取り戻していると二人は感じ取る。

「その様子じゃ、もうすっかりと大丈夫そうさね。肝心の歌姫さんの行方なんだけどね?私にちょっとばかり心当たりがあるのさ」

 人の縁と云うものは、一方からでは全てを眺む事は出来ない。そらが耿之介に言った様に。その白き翼は、|途次《みちすがら》考えていた。姿の見えない掬代の行方を。彼女は此度の古妖の封印を解いた張本人だ。その真面目な気性ならば、きっと思い詰めるに違いない。責を負う必要があると。例えそれが、己が命を以って罪を濯ぐ事になるのだとしても。しかしそうであっても、きっと最期の瞬間には想わずにはいられないのだ。こんなにも彼女を想い、不器用ながらも手を差し出し続けた耿之介の面影を。
 二人はあまりに擦れ違い続けてしまった。結果としてお互いはバラバラとなり、赤都に渦巻く混沌に呑まれ込んでしまった。しかし、まだ遅くはない。小鳥遊そらが。玉梓言葉が。そして√能力者達が、二人の運命を繋ぎ留めてくれている。

「行ってきな。もう迷う必要は無いよ」
「儂らも後から行く。くれぐれも古妖に気を配る事じゃ」

 遠ざかる耿之介の背中を見届けると、言葉は周囲のインビジブルに囁いた。|旋風《つむじかぜ》が吹き抜けて木ノ葉が二人の周りを駆け廻り、やがて手元に戻る形代の数は少ない。それでも僅かに集った紙人形を、その掌に休ませる。

「聞かせておくれ。この地に未だ残る、強い穢れを」

 そうして二人は知るのだった。この街の東西南北に掛けて五芒星を描く寺や祠の中心に、邪悪な古妖がその姿を顕そうとしている事に。可視化された妖都の中心が、煤と|阿膠《あごう》とが濾す闇でジワリと|熔《と》かされていく。

エイル・デアルロベル

●二人の戦い
 叙事詩は冒頭で声高に謳う。|弓箭《きゅうせん》盛んに交われば黒炎を為し、やがて煌めきは戦火に呑まれて粧いを喪う、と。伝説に謳われる英雄達がそこに姿を顕す迄には、多くの尊い犠牲が描かれる事になる。例えばそれは|瀟洒《しょうしゃ》に構える九重であり、鮮烈な創造的実践の結晶たる美術品であり、|社稷《しゃしょく》の歴史を繋ぐ|玉佩《ぎょくはい》であり、一枚の写真に遺す家族の面影である。
 エイル・デアルロベル(品籠のノスタルジア・h01406)は、歴史書が幾度となく物語って来た衆生の醜さという物を今まさにその金色の瞳に映す。眼前に広がる景色もまた、彩り多き宝石箱にも似た様相から|埋火《うずみび》燈す赤黒の|火櫃《ひびつ》の如き姿へと|俏《やつ》しつつあった。
 民衆が街に火を放つのは古妖への恐怖からか。否、最早それは椿の蛇が|蚕食《さんしょく》と断じて然るべきだろうとエイルは静かに憤る。人も妖怪も|右顧左眄《うこさべん》、彼らの混迷を映す月は未だ赤い。
 エイルは自身の|商品《アンティーク》に触れる。それは戦火の露と消える筈だった運命を|遁《のが》れ、その末に彼が掬い上げた|指輪《もの》。そこに宿る筈の|窈窕《ようちょう》たるインビジブルの姿が視えず、彼女を休ませる様にそっと外套の衣嚢に仕舞い込む。耿之介と掬代が建てたという呪いの祭壇は、他の√能力者が対処に向かった筈だ。しかしそれならば、宙空を舞うインビジブル達が未だ蛇の呪いに囚われているのは何故か。

「……この事件を解決するにはまだ情報が足りませんね」

 欠けたピースを揃える為に、悠久の刻を視る商人はヴィンテージバイクを走らせた。

 耿之介は駆けた。人混みを掻き分け、野垂れる者を飛び越し、覆い被さる輩を躱して。懐に文を大事に抱えて掬代の後ろ姿を探す。そして同時に、この街はもうお終いかも知れぬという思いが脳裡を掠めていた。施した祭壇を崩しても、人々の混乱が収まらない理由を、或は耿之介は既に察していた。それはきっと、未だ蛇を讃える祭壇が他にも建てられているのだ。耿之介が拵えた物よりも更に大掛かりで、冒涜的なが供物台が。
 行き交う人々の中に耿之介は見る。嫉妬に駆られて木彫を丸める者を。我こそこの街の真の歌姫也と演りながら、傲慢に像を彫る者達を。
 僅かに気になり、耿之介は欲に炙られた彼らの様子を伺ってしまった。それがいけなかった。不覚にも視線が合うと、|忽《たちま》ちにしてその内の亡者が一人、落ち窪んだ眼窩の痩せ男が此方に刻刀を振り翳して来るではないか。

「書生如き!歌姫には相応しくない!消えて居なくなれ!」
「止めろ!目を醒ませ!古妖に|誑《たぶら》かされるな!」

 叫ぶが、煉瓦畳の僅かな凹凸に足を取られて身体の平衡を失う。咄嗟に懐の文を庇う様に身を縮こませると、|緊《きつ》く目を瞑るより他になかった。その時だった。

「こんな所で|躓《つまず》いて居る場合ではありませんよ?」

 この混沌の中で秩序立つ落ち着いた声音が喧騒を凪いで響き渡り、刻刀を弾く甲高い金属の擦過音が余韻を曳きながら紅の空を震わせた。翼の無い鴉達が低く|響動《どよ》めく。怯えた視線を持て余して、往来の影に紛れて行く。
 耿之介が視線を上げるとそこには、酒場で話を交わした骨董品屋の店主、エイルの姿があった。外れた眼鏡を掛け直しながら、彼の手を取って体勢を整える。

「デアルロベル君……!奇遇だ。でもお陰で助かった。ありがとう」
「いいえ、礼には及びません。言ったでしょう?私は事件に携わる事が多い、と」
「本当だ。それにしてもまるで物語の騎士様みたいであったよ」

 耿之介の謝辞に応えるのもそこそこに、エイルは辺りの様子を両の手で指し示すと、言った。

「このままではそう遠くない将来で犠牲者が出ます。耿之介さん、聞かせて下さい。貴方が建てた祭壇の他に、同じ様な物を見掛けなかったかを。或いは酒場で耳にした他の噂話でもいい。情報が必要なんです。どんな些細な事でも。この災いを終わらせる為には」

 点在する呪い。その根源の正確な場所までは耿之介も知らない。首を横に振り掛けて、否と止まる。もしかしたら――

「僕は昔、物書きのネタにこの街の地理について調べた事があった。この街は、五芒星を繋ぐ様に東西南北に掛けて寺院や祠が存在している。そしてその星の中央には、蛇の天敵を祀る寺社が在る。僕が建てた祭壇は、五芒星の西側に位置する寺だった。もしかしたら、他の寺にも呪いを建てた者が居るのかも知れない……」

 耿之介は言いながら妖都の地図に星を書き入れていく。刹那だった。耿之介の御伽使いとしての|能力《ちから》の一端が発現した。エイルの立つ煉瓦畳を中心に、隠されし祠への入り口が開かれていく。

「これは……!?」
「これは耿之介さんの√能力に違いありませんね。お陰で、最後のピースを見つける事が出来ました」
「デアルロベル君……どうかこの街を助けて欲しい……掬代が歌ったこの場所を!どうか……!」

 エイルの自動二輪が駆動音を噴き上げる。金の艷やかな髪を流しゴーグルを被ると、今一度、耿之介に視線を向けた。

「私は数々の事件を此処に解決してきました。心配には及びませんよ。しかし耿之介さん。この戦いは、私だけのものではありません。貴方の、貴方達の戦いなのです。頑張って下さい。ここが気張り所ですよ」
「僕達の戦い……」
「行ってきなさい。歌姫さんの元へ。憂いを断てたら聴かせてくれるのでしょう?貴方が書いた歌姫さんの為の歌……そして、二人の恋の歌を」
「ああ……必ず!」

 耿之介の力強い返事を聞くと、エイルは静かに口元を微笑ませてアクセルを握り込んだ。
 月が瞬いて、赤い霧が晴れてゆく。決戦の刻はもうすぐそこに。

ヴィルベルヴィント・ヘル

●黎明
 黄昏は未だ続く。延びる影を踏みながら歌姫は立つ。妖都の中心、混沌の渦の中で。周りでは、建物を揺らす|颶風《ぐふう》にも似た恐ろしい喧騒が、怨嗟の唸りを上げながらお互いを食み合っている。罵りと救いを求める声とが不協和音を上げて混じり合い、黎い筋雲を残しつつ逃げ場所を求めて彷徨っているかの様に掬代には感じられた。
 耿之介は無事だろうか。ズキリと彼女の胸の奥が傷んだ。もう彼の顔を見つめる事は叶わないかも知れない。蛇が結んだ縁だというのに、今では彼の微笑みが恋しい。しかしもう腹は括った。自らが開いた地獄の門口は、自らの手で|緘《と》じなくてはならないのだから。
 |鏧《きん》の|音《ね》が一層烈しさを増して行き、やがて|栴檀《せんだん》を|燻《いぶ》す|馨香《けいきょう》が|篤《あつ》く彼女を覆っていく。

 急がなくては。
 ヴィルベルヴィント・ヘル(RED HOOD・h02496)は銀の風を纏わせて街を駆ける。縫い合わされた彼の鋭敏な嗅覚が、その行き先を的確に報せてくれていた。
 増大させた慾望と嫉妬心がこの街を掻き廻している事は、最早自明であった。耿之介の他にも歌姫への恋心を抱いていた者が居たとしても何ら可怪しくはない。此度の事件が、掬代への恋慕の情を利用した物ならば、他にもその情念を喰い物にされた者が居る。街全体を覆う赤黒い月の光は、そうした呪詛を集めて固めた邪悪に違いないだろう。一朝一夕に編まれたにしては、その規模は壮大過ぎた。ヴィルベルヴィントの予想は当たっていた。罪を分かち合った耿之介と掬代を中心として、人々の原罪が網目状に拡がり、明るかったこの都市を|鎖《とざ》してしまっている。
 ならば、ヴィルベルヴィントはその根源を叩く。微かに薫る藪椿の幽香を捉え、その執事は√能力を発現させる。盈月が降ろす赤いヴェールは今や幾分か弛み、解き放たれたインビジブル達が、疾く在れと叫ぶ彼の力に呼応する。
 獣の如き疾風で以って呪いの祭壇を嗅ぎ付けると、黒き獣の革手袋に包まれた豪拳がその天板を|搗《か》ち割った。バラバラと舞う猿の形代の隙間を、カフスの白銀の光と銀灰たる眼光とが縫い付ける。そうして赤い月が瞬いて燦々と降り注ぐ呪詛の雨が和らぐと、ヴィルベルヴィントの|√能力《ちから》は更にその精彩を取り戻していった。
 今や街に蔓延る椿の祭壇は全て毀つ。赤色に侵されていた筈の夜空は、冬の星座達が回天。その耀きを取り戻していた。地上に残る|禍津星《まがつぼし》はあと一つ。


「天川様」

 辿り着いた道の果てに歌姫は佇む。辺りは寂々。ただ|茫漠《ぼうばく》と馨る紙布の様な霞の狭間に、ヴィルベルヴィントの低い声音が広がる。此処には彼女を置いて他には誰も居ない。|寒気凜冽《かんきりんれつ》とした夜の風が、彼女の華やかなドレスから覗く白い肩を刺した。しかしその背中は贖罪の炎に炙られ煤けているのだろう。ヴィルベルヴィントは眸を細める。
 彼の呼び掛けに、掬代はそっと振り返る。

「此処で、何を為さって居られるのですか」
「あら、貴方はさっきのウェイターさん。ご無事で良かったわ。もう会えないかと思っていたの」

 彼女の相貌は、あの時のような他人事染みた表情では無い。涙の痕跡がファンデーションを伝い、しかし凛としてシャドーを曳くその瞳は真っ直ぐヴィルベルヴィントを見据えている。

「歌を、唄おうと思っています」

 ゆっくりと紡がれる彼女の言葉は、まるで自分に言い聞かせるかの様だ。古妖の封印が解かれ、誰も彼もが絶望に喚くこの世界の中心で、彼女は尚も歌を響かせると言った。

「山路様にはお会い出来ましたかな」

 彼女の隣には未だ耿之介の姿は無い。何処かで己の為すべきを全うしているのか。

「いいえ。彼には悪い事をしました。あの人は真っ直ぐ私を見てくれていたのに、私は彼のことなんて、ちっとも知ろうともしなかったのですもの。今になって恋しいだなんて、勝手な女だって呆れられちゃいますね」

 そっと歌姫は儚げに笑う。ヴィルベルヴィントは黙してその言の葉に三角の耳を傾けながら、ゆっくりと脇へと身を躱す。向かい合ったヴィルベルヴィントの後方。ちょうど掬代の眼前に続く路を、開ける。

「知らないのでしたら、これから知る事が出来るので御座います。私が記憶を持たない様に。そしてこうも思います。彼はきっと、今も天川様の事を想い続けている、と」

 その時だった。
 ――掬代!
 ヴィルベルヴィントが開けた路の奥から、掬代を呼ぶ耿之介の声が届いた。

「耿之介さん……?」

 彼女は思わず口元を抑え、声のする方へと視線を縋らせる。彼は間に合ったのだ。百鬼夜行の街を越えて、歌姫が待つ元凶の地へ。

「遅れてすまない……!一人にさせてすまない……!君に贈る文を用意していたら、こんなにも遅くなってしまった」
「ううん、耿之介さん。私を見つけてくれてありがとう……!会いたかったの……今までごめんなさい。本当に……っ」
「良いんだ、掬代。君は君の儘で――」

 ヴィルベルヴィントは想う。
 ――貴殿方は、一つの罪を分かち合ったのだ、と。

「御自身で御自身を赦す事が叶わずとも、御互いにでしたら、赦し合う事が出来ましょう。お二人共、良く頑張りました。後は私共に、お任せ下さい」

 小さく囁いて、ヴィルベルヴィントはそっとその場を離れた。今や呪いは祓われ、戦いの前に為すべき事は全て終えた。依然として混乱を残す街を元に戻し、人々の犯した罪を濯ぐには、この災禍の元凶を断つより他に道は無い。
 よって執事はその道を行く。彼が歩みを向けるその先には、巨大な寺院の本堂が聳え立っていた。

第3章 ボス戦 『星詠みの悪妖『椿太夫』』


●顔を上げて
 その時、赤い風が止んだ。静寂が街を包み込んでいく。街宣を轟かせる者も、暴力に囚われる者も、希望を失い|項垂《うなだ》れる者も、街の誰もが今は空を見上げていた。そこに|赫奕《かくえき》と睨み付けていた筈の不吉の月は、黄銀とした粧いを取り戻し泰然と柔らかな光を湛えている。
 皆が呆気に取られる様に満天の星空をその瞳に映す。那由多の彼方からの瞬きが届ける安らぎが、彼らのほつれた心緒の糸を結ぶ。
 そうしている内に、何処かからか、歌声が響いてくる。

●あなたへと届ける勇気の歌
 戦う者たちよ 顔を上げて 愛が 希望が ララ あなたの心に勇気を灯すから
 忘れないで 愛は希望 どんな荒波でも 私たちは越える事が出来るわ
 黄昏を縫って 届く星空を思い出して 必ず希望の日が昇り 明けない夜はない

 一緒に響かせましょう 愛の歌を 勇気の歌を 大切なひとの為の歌
 一緒に響かせましょう 心の歌を 希望の歌を 大切な星の為の歌 ラララララ
 私があなたへと届ける 楽園の歌

●明けない夜はない
 助かる?誰かが呟く。古妖と戦う者がいる?と。その|漣《さざなみ》の如きささめきは、やがて大きなうねりを伴う歓声の津波へと拡がっていく!
 耿之介が言葉を編み、そして掬代が紡ぐ愛の歌。やがて歌姫が届け続けるその唄声を、誰も彼もが口ずさんでいった。その勇気の歌が、今や完全に街に根ざしていた呪いを跳ね除けていく。

 がんばれ!負けるな!街を!命を!この世界を掬ってくれ!!

 一丸となったその巨大な声援は、最後の闘いの舞台へと響き渡っていた。今や、この街に息づく全ての生命の灯火が、その地に立つ君と共にある。
 最後の闘いが、幕を開ける。

●蛇と林檎
 あゝ。わっちの呪いが、わっちの赤い月が、全部全部零れ落ちていく……
 無粋な連中!綿密に編んだわっちの楽園の為の計画が!星詠みの力を以ってしても!
 それもこれも全部この耳障りな歌の所為!こうなる事なら、殺しておくべきでありんした……
 √能力者が来んのかぃ?わっちを斃しに?もぉ祭壇を建てて貰う事も出来んせん。奴らの力を削ぐ事も叶いんす。再び閉じ込められるのは絶対イヤ。殺してやる……こぉなりゃみんな!

●第3章について
 √能力者達の活躍により、全ての祭壇は祓われました。街に根ざしていた呪いは全て解呪され、インビジブル達が解き放たれています。

 また、同様に文筆家耿之介と歌姫掬代は希望を取り戻しました。彼らの歌は、√能力の力を帯びてインビジブル達の手により街中に届けられています。それにより無数の声援が皆様の元に届き、力を与えてくれます。

 皆様は好きな数の√能力を好きなだけ行使する事が出来ます(2つ目以降はプレイングにて指定する必要があります)。それに対して使用する古妖の√能力は1つだけです。
 皆様の√能力の成功率は大きく上昇し、一方で古妖の使用する√能力の成功率は低下しています。

 戦場の舞台は屋内。街の中央に聳え立つ巨大な寺院のお御堂です。廃寺ですが、お寺に有りそうな物は大体揃っています。

 戦闘は周りの一般人等を気遣う必要はありません。またプレイングは、心情、戦闘、敵との会話、その他皆様が思う事、どちらに重きを置いて頂いても大丈夫です。
 これが当シナリオ最後の戦いです。それでは何卒よろしくお願い致します。
刻・懐古
七々手・七々口

●戦う者たちよ
 地の果てから続く紫煙の筋が、彼の足跡を辿る。手足を投げ出して寛げる場所は、多ければ多い程良いだろう。それを守る為ならば多少の苦労は厭わない。が、それももう良い頃合いだ。物の怪達の騒乱の夜は開けようとしている。沙羅双樹の木の下をそぞろに歩き、|愈々《いよいよ》心ゆく迄この|逍遥《しょうよう》も愉しんだ、とその黒猫は思った。|而《しか》して――

「いい加減長丁場ですよ、憤怒さん。そろそろこの|一卜《ひと》仕事も仕舞いとはいきませんかねぇ」

 尻尾の様に揺れる拳が、俄にその翳りを燻らせていく。危険な迄にゆらゆらと。そうしてる間に見えてきた二人の脇を素通りし、ぶっきら棒に声を投げ掛けると、猫は欠伸を掻きながら廃寺に向かった。

「良い夜の散歩をせんきゅー」

 それは彼なりの、二人の|楽土《エデン》への寸志の言葉だった。

 その時、僕はその見知らぬ獣妖から謝辞を贈られた気がした。感謝される事に思い当たる節などとんと無いが、きっと彼は影で僕達に力を貸してくれていた者達の一人なのだろうという事は直ぐに分かった。
 この花吹雪の様な歌声と声援の裏には、月影に覆われながらもこの街を支えてくれた者達が居たに違いない。僕らだけではこの結末に至る事は出来なかったのだから。一体誰が、とはもう思うまい。この胸の内に溢れる感情は、ただ、森羅万象への|感佩《かんぱい》の念に他ならない。
 ありがとう。
 遠ざかってゆく君の背中へ。
 僕たちは、君たちの勝利を確信している。


 その瞳に映る藍色が落ちゆく。夜明けの暁光が差しこみ、黄昏色から黎明の色へと煌めいて行く。
 インビジブル達が舞い踊り、刻・懐古(旨い物は宵のうち・h00369)の周りを言祝ぐ様に天高く昇っては歓びの舞蹈を|耀《かがよ》わせていた。花弁を運ぶ歌姫の唱歌が気流となって、この街全体を駆け巡っている。
 懐古は想った。これはこの地の人たちが打ち立てた道標だと。彼らのうた、生命の灯火が一つとなって運命と言う名の文字盤の上を巡っているのだ。それが子午線を跨いだとしても、終わらない明日を紡ぐ為に。故に今こそが大団円。彼らの願い、希望、勇気、その全てが時を刻む懐古へと注がれてゆく。

 ――ははあ、これはすごい。

 運命の織り成す大舞台に、懐古の表情は変わらない。ただ静かに目の前の古妖を見据える儘。しかし、その胸の奥で刻むムーブメントの針音は昂ぶっていた。

「死に来たでありんすぇ……?√能力者」

 星詠みの悪妖『椿太夫』が|婀娜《あだ》やかな朱脣を横に曳いて、怒りに空間を歪めていく。その|嬋娟《せんけん》たる姿態の淵には|鴆毒《ちんどく》の如き邪悪が滲み出ていた。
 そんな椿太夫の悪意にも、|彼《か》の歌は染まらない。この揺らぎのない空気を受けて、佳麗なる筈の椿太夫の姿が酷く醜い物の様に感じられ、堪らず懐古は黎明色の眸子を閉ざす。
 醜い。人の物語を穢すこのモノは、余りにも。

「キミに聴こえるかな?この美しい歌声が。どうやらキミは蛇どころか、とんだ噛ませ犬になってしまったね」

 肩を竦ませて嘆息。犬、か。尻尾を振る犬ならば、まだ幾らか可愛げが有ったものを。|迂闊《うか》としてくすりと零れた毒気無き笑みが、椿太夫の逆鱗を刺す。

「お前さん、言うじゃないのさ……そぉんならぁ、そのお歌の根本ごと、わっちが枯らして見せんしょう。このよぉに」

 遂に椿太夫が動いた。|嫋《たお》やかなか細い|示指《じし》をおっとりと滑らせて、懐古の水月の辺りを妖艶に指す。その軌跡を曳く様に、牙を茂らせた|厖大《ぼうだい》な藪椿の華が、お御堂の板間をばりぼりと喰い荒らしながら懐古へと迫る。

「縁の下が椿に侵蝕されているのか」

 試金する様に敵の殺意の胎動を見つめていた懐古は、その急襲に呼応して双眸宿る針を廻すが如き力の|流転《るてん》を見せた。発現する√能力。この地に幸せを咲かせる為に!
 掌に座す懐古が本体。その器、時刻む懐中時計の文字盤の天元から幻影の花が舞い散った。懐古の瞳の色を分けた金木犀が、迫る椿を塗り替える以上の花弁で堂内を荘厳していく。

「なかなか美しいだろう」
「わっちの椿を止めるんでないよ!」

 丹桂の芳香から遁れる様にずりずりと堂内を這い廻る椿蛇。靡かせた煙管の幽香で外陣を穢せば、瞬く間に二人の距離を詰めて行く。懐古の退路を断ち、その牙で黄金に咲く|香華《こうげ》の間歇泉を引き裂かんと迫る。

「つぅかまえた」

 椿太夫がにたりと嗜虐的に眼を細めた。瞬刻、大地鳴動に能う轟音が天蓋を、否、仏殿全体を猛烈に揺らして二人は堪らず平衡を失する。|繽紛《ひんぷん》として舞う金紅混じえた花弁に視界を彩られ、古妖は事態を直ぐ様把握する事が出来なかった。|周章狼狽《しゅうしょうろうばい》にして佇めば、堕ちてきた星の某を漸く認めて|檳榔子染《びんろうじそめ》の虹彩を目一杯引き絞る。

「なっ!?」

 椿太夫は精々その様に呻くのが精一杯で硬直。そうしてる内にまたどぉんと鬼火が本堂の桟唐戸を破いた。今度こそ|餓舎利《がしゃり》と|人天蓋《にんてんがい》が転落すれば、物々しい音を立てて真下の椿太夫がその下敷きとなった。
 果然それは星屑でも鬼火でもなかった。一匹の黒猫が本堂の入り口から金色の瞳を|炯々《けいけい》と投げ掛けながら、その背中からゆらゆらと立ち昇る七本の魔手を悠揚と揺らしているではないか。蝋燭の火が揺蕩としてざわめいて、七つの魔手の正体を仄めく影にのみ映す。

「やぁっと着いたよ。そんじゃ頼んだよ、憤怒さん。疲れたし、とっとと帰りてぇんですよ、オレ――」

 刹那、かの黒猫――七々手・七々口(堕落魔猫と7本の魔手・h00560)が言葉を言い終えない内に、肥大化した憤怒の巨拳が椿太夫を堕ちた天蓋ごと懇親の力で殴り抜いた。それも一発や二発ではない。何百発もの怒涛の連撃。連続で繰り出される重い拳戟が天蓋を、板床を、そして椿太夫の躰を、丸ごと一帯を崩し取っていく。憤怒の巨拳の殺意が、そのまま太夫の生命をまるまると狩り獲っていった。辺りに取り返しが付かない程の血潮がぶち撒けられる。

「あぁこいつは駄目。とんだバケモノさね」

 椿太夫は周囲のインビジブルを絡め取り、√能力を発動|させていた《・・・・・》。
 それは黄道十二星座が見せたゾディアック・サイン。星を詠む予知の力。その光景は、七々口がこの仏殿に顕れた瞬間に椿太夫が見た悲劇の顚末だった。

「おん?此処に古妖が居る流れなんじゃなかったっけ」

 入り口を破って足を踏み入れた七々口が悠長に髯を掻いて沈黙。そこに居る筈の椿太夫の姿が忽然として見えないのでは、振り下ろす先を見失った憤怒の魔手が、靄を掻く様に宙空を跳梁するに留まる。その縁の下から無数の牙が|嚇々《かくかく》と殺意を|瀝《したた》らせていた!

「古妖は下だ!」
「マジ!?」

 懐古の警鐘と共に、七々口は咄嗟に前方へと跳ぶ。寸刻前まで黒猫が立っていた場所を、椿の鋭い牙が穿つ。

「猫の獣妖は不味くて喰えやしないよ」

 不気味に届く椿太夫の声の音を二人は耳介で捉えてその足取りを|逐《お》うが、花弁降り止まぬこの本堂の中に於いては椿の聲は|茫漠《ぼうばく》と鳴り響くのみで、その位置を|悉皆《しっかい》|攫《つか》む事が出来ない。この儘では一方的に囚われるとて、懐古が更なる√能力を解放させた。インビジブル達が届ける声援が、二人に無限の力を授けてくれている。

「暗冥よりお出で、鴉たち」

 それは四十八の黒き翼から成される烏雲の陣。金紅の間に羽撃く黒が交わり、椿太夫の視界を埋め尽くした。それだけではない。禍鳥達がその瞳に映す視界は、懐古の耳朶へと送られていく。今や懐古には、敵の動向が手に取る様に解った。肩に留まった鴉の羽根を一撫で。するとクルと気持ち良さそうに漆黒の眼を細めれば、再び本堂を舞って椿太夫に禍を為す。

「いい子だね。そのまま討とう。古妖はその|曲録《きょくろく》の下だ」
「そう言う訳で、任せたよ憤怒さん」

 懐古が指す座標を、憤怒の巨拳が打ち抜いていった。

「ぁっ……!」

 短い悲鳴と共に椿の花弁が散る。その朱色を禍鳥が|啄《ついば》んでは、蛇の胴を毟っていく。
 七々口が陣取るは内陣の中央。金人が座すべきその|須弥壇《しゅみだん》の上に、丸くなって寝そべりながら不気味に炎を滾らせた魔手を駆る。その周りを固める様に、懐古の金木犀が盛んに咲き乱れ、西方に広がる天竺の如き様相を呈し始めていた。しかしそれでも、椿太夫はしぶとく堂内を喰い荒らす。ゾディアック・サインが降ろした予知の下、予め張り巡らせた蛇の穴に逃げ込んでは二人の隙を伺う。己の位置が|覚《さと》られるのは懐古の能力が故に。なれば、外陣に立つその男を狙うが必定か。斯くして懐古の直ぐ後ろに顕れては、その生気を吸い尽くさんと色白の首筋目掛けて抱擁を仕掛けんとした。

「キミは|何故《なにゆえ》に人を食らう?生きる為と云うには些か度が過ぎると、僕は思うのだけれどね?」

 懐古がその視線を避けようともせずに言う。

「定められた星の運命を捻じ曲げることこそ、わっちの楽しみでございます。食うに困るなんてそんな野暮、わっちには到底無縁でござんしょう?ぬし達こそ、どうでも知らぬ者達の為に何故そこ迄肩入れするのでありんす?」
「僕は人々が織り成す物語がとても愛おしいだけさ。キミの様な者が彼らの物語に土足で踏み入って、無粋に掻き回す様が心底許せないのだよ」
「無粋と言ったでありんすか?わっちの事が?ちょっと面が良いと思えば、調子に乗ってぇ?わっちの愉しみを邪魔するぬしらこそ真の無粋客。その|生命《たま》置いてぇ、|幽世《かくりよ》の深山にでも引っ込みなんし」

 椿の腹板が愈々|蜷局《とぐろ》を巻いて、その毒牙が懐古の肌に少しづつ突き立てられて。

「でも酒場が減るのはいかんよなぁ」

 須弥壇からの呟きとともに豪拳が振るわれる。その致命打を躱すなら、懐古もするりと遁れてしまうだろう。古妖は気づいた。内陣に偉そうに陣取るあの獣妖こそ、最初に仕留めなくてはならない存在なのだという事実に。見るとどうだろうか。憤怒を纏う魔手の他に、二本の|腕《かいな》が朧気な瘴気を不気味に燃やしているではないか。椿太夫は気付けない。怠惰、そして強欲の魔手が、妖怪百鬼夜行の√の遙か外側からこの世界の理に干渉を齎している事に。

「気味の悪い猫……この世の力じゃないってぇ?」

 その魔猫の相手をするのは酷く億劫だった。どうしても手を出したく無いと本能が告げる。かと言って懐古に狙いを定めれば、七々口の憤怒の拳と常に付け狙う禍鳥が彼女の行く手を塞ぐ。そうして、益体も無く這いずり回った所で時間を稼いだその瞬間。

「さて、お姉さん。残念だけど質問の時間はお仕舞いよ。貴重なオレの時間を割いたんだ。差し出して貰おうかねぇ。何をって?そうね、その綺麗な煙管にしとこっかな」

 七々口は発現させていたのだ。恐るべき異界の力、|強欲の権能《グリードライト》のその能力を。
 それを受けては不味いと古妖としての本能が警鐘を鳴らす。|庫裡《くり》へと逃げ込もうと踵を返せば、懐古の金木犀と漆黒の鴉達がその影を縫い付ける!

「……行かせないよ」
「イヤだ!」
「はい貰った」

 強欲の権化たるその手は星の彼方からこう言った。
 全部、全部、全部、全部、全部、全部、全部。――欲しい。
 呻吟と共に、夥しい血潮が金色の柱を彩る。

アプローズ・クインローゼ

●どんな荒波でも
 世界が讃歌で溢れたとて、この執念の火は絶えず情念の香炭を炙る。野辺に立つ|焚香《ふんこう》の煙、一層盛んに立ち昇っては簒奪の狼煙と化す。この地で|蟄居閉門《ちっきょへいもん》に処されてからというもの、二度目の邂逅に焦がれては今日までやって来た。再び地上に根を下ろし、その身に封印を施した者の末裔に至っても残らずこの手に掛けるまでは、星々から眼を逸らす訳には行かない。

 ――嗚呼、あんたに逢いたい。

 祭壇が祓われたから何だ。|月《憑き》を落とされたからどうしたと云うのだ。贈られた|鼈甲《べっこう》の|笄《こうがい》を後光の如く輝かせて、椿太夫は切にと願いつつ星々の周転を捻じ曲げ続ける。そうして彼女は椿と鶴を纏いながら、夜を往く。


「レディはその足で立つと決めたようだね」

 アプローズ・クインローゼ(|妖精の取り替え子《チェンジリング》・h01015)は、掬代の震える花脣から紡がれる等身大の言の葉を、温かく見守り続けてきた。寄り添い、時にはその慄く情緒を慰めて。やがて飛び立った歌姫は、この世界に無数の勇気の|羽根《しるし》を届けてくれている。凍てつく夜を解かし、やがて迎えるフィナーレの舞台に√能力者たちが揃いつつあった。

「ふふ、なかなか劇的じゃあないか!キミに見えているだろうか。この華々しい戦いの舞台。いつか謳われる、人々の物語が」

 桂花吹き荒ぶ堂内にアプローズは立つ。轟音を従わせて濛々と立つ金煙の帳の向こう側から、椿太夫の影が惨憺たる|蠕動《ぜんどう》を繰り返している。

「覚悟を見せるのは、どうやら今度はボクの番のようだ」
「あゝ痛い。本当に、本当に、わっちを閉じ込める心積りなんでありんすね……姿を見せぬめんこい聲のしんぞっこ。聞きんしたぇ。わっちの掬代にちょっかい出したってぇ。こなたの耳障りも、ぬしが唄わせてるんでありんしょう?いけんねぇ。早く止めてぇあの娘叱ってやらんとぉ」
「そうはいかないよ。キミはこの舞台で退場する。この地に、もうキミの居場所は無いのさ」
「新造が生意気言うじゃないのさ。こそこそ隠れてるんならぁ、わっちが引き摺りだしてあげんしょう」

 地響きと共に床板が波打つ。数日前から根を張り、縁の下に敷き詰められていた藪椿の花が牙を鳴らして出鱈目に|徘徊《たもとお》れば、あちらこちらで|滅多矢鱈《めったやたら》に木片の|飛沫《しぶき》が舞い散る。それはさながら雷岩にぶつかって波飛沫を上げる荒波の如き苛烈さだった。バリバリと物々しい|誼譟《ぎそう》を撒き散らしながら、目に視えぬアプローズを求め彷徨う。

「まるで城を囲む吸血の茨のようだ。意外とロマンチックな所もあるんだね」

 アプローズが呟くと、その鈴声に呼応した牙の荊が|挙《こぞ》って此方へと群がって来るではないか。椿太夫は数日前から掬代達を手練手管に掛ける傍ら、√能力者達を迎え討つ為の準備に時間を費やしてきた。彼女の支配するこの地上で戦う限り、安全と呼べる場所は無い。故にアプローズは翔ける。自然とアプローズの口角が僅かに上がり、壮麗と淡いブルーの花弁が湧き起こる。
 此処が御伽話に謳われる恐ろしき呪いの城であると云うならば、この妖精アプローズが導こうではないか。茨を解く王子が、眠る王女を救うフィナーレを。
 崩れた蔀戸を伝って華麗に宙を舞う。そうして少女が翻す青薔薇の音色を、椿の蛇が|蜿蜿長蛇《えんえんちょうだ》と|逐《お》い立てて迫る。

(この古妖には星詠みのちからがあるのだったね。それを周到に用いて戦いを有利に運ぼうとするんだ。別の機会に彼女と戦った時は……そう、こんな具合)

 降り注ぐ星詠みの双眸を縫う様に、遮蔽物を跨ぎ躱しては、十二星座からの予知を遁れる。眼界の外縁に滑り込めば、アプローズの頭上で煌めく運命を曲げられる事はないだろう。経験が与える天啓は、椿蛇の後ろ髪を映すアプローズの薄花の青を忽ちに耀わせていく。お互いにチャンスは一度切りだ。そういつまでも椿太夫の視線から身を匿む事は出来ないのだから。インビジブル達が一斉に歓喜の詩を言祝いだ!

「さあ、お姫様。悪い夢はもうお終い!華々しいフィナーレを僕が飾り立ててあげる……っ!」


 ――それに、美しき歌声に憂いの陰が過ぎるのは心苦しい。ボクで良ければ、キミの相談相手になりたいものだ。

 ――レディ、ボクは貴女の覚悟を問いたい。貴女は、その運命をも受け入れて戦うことができるだろうか。

 ――己が詩を、彼へ心を寄せることを恐れはしないと。

 掬代は歌を響かせながら、その瞼の裏に様々な景色を映す。あの時、すっかりと諦めてしまっていた自分の心を奮い立たせてくれた青い薔薇の君を想う。この胸の内に宿る蒼き炎は、|彼女《彼》が灯してくれたもの。だから自分は今、こうして運命の先に立ち戦う事ができるのだ。幾筋もの雫が頬を伝ってゆく。止め処なく溢れるこの熱が、あの牙の茨の果てに立派な薔薇を咲かせるのだろう。

 ――信じています。あなたの勇気を!


 遂に現出した異能の力、√能力『|妖精の悪戯《フェアリー・トリック》』。ぐらりと仏殿が揺れて、瞬刻椿太夫の頭上に巨大な仏像が出現する!

「ご冗談――」

 椿太夫はただ墜落する黄金を見上げる事しか出来なかった。しかし、あろう事かこの瞬間。この決着の刻に於いて、蛇は見てしまった。山吹色に投影された、アプローズの小さき姿を!

「勝利の女神さまが微笑むんはわっちの方。妖精さんはぁ、精々閻魔の旦那にお頼みなんし」
「しまった――!」

 即座に椿の蛇はその運命を捻じ曲げようと√能力を走らせる。これが予知となるのなら、即座にあの妖精に食らいついてやろう。二度と悪戯が出来ない様に丸呑みにしてやろう。椿太夫は、勝利の|砌《みぎり》に笑みが溢れるのを止められない。

 ――まずは一匹!

 金色の像はもう目前に迫っていた。何かが可怪しい。何故時計の針は戻らない?ゾディアック・サインは輝かない。星座はただ黙して、彼女達を睥睨するのみ。この土壇場で、√能力の行使に失敗している!

「あぁ仏の旦那――」

 刹那、巨大な仏像は、縋る蔓茨に囚われた椿太夫の躯体を無慈悲にも押し潰すのだった。

小鳥遊・そら
玉梓・言葉

●結ばれた玉糸
 希望を芽吹く歌聲が、赤き詛呪の終焉を告げる。|裁《た》ち|截《き》られていた星芒が、祷りの|汀《みぎわ》で棹さす様に流れだした。|花紺青《はなこんじょう》の水面に浮かぶ卯の花色の波紋の軌跡を、掌に咲かした|色折々《しきおりおり》の小瓶に透かせてみれば、玉梓・言葉(|紙上の観測者《だいさんしゃ》・h03308)はそこに人の|畢生《ひっせい》が否が応にも産み出す|光耀《こうよう》というものを垣間視た気がした。その煌きから巻き取られる玉糸が言の葉を編みなして、古妖が息を潜める逢魔が伽藍堂へと届けられている。

「想いが溢れておるの」

 一度は筆を擱いた耿之介が綴るその詩は、彼が書きたかった歌。自身に兆す世界は斯く在れと欲し続けた詞。それはまさしく抑圧された大宇宙の解放に立つ|旗標《はたじるし》に他ならない。その力強い想いが掬代の遥かな唄声に乗って、本当にこの宙色を塗り変えてしまった。

「いいねぇ、いいねぇ。こうでなくっちゃ!」

 小鳥遊・そら(白鷹憑きの|警視庁異能捜査官《カミガリ》・h04856)も白鷹の風切を奮わせては、今にも羽撃きたくなる想いに駆られていた。白き大翼をはためかせて――それが例え呪縛であろうとも――二人を包むこの風に乗れば、きっとどんな境界線も越える事が出来る。そんな高揚感が、そらの心を自由へと導いてくれていた。そうした想いが芽吹くのは彼女だけではないのだろう。この妖都のそこかしこで黒煙ではない狼煙が上がっている。鳴り渡る歓声で謳われる、叛逆の狼煙だ。

「これだけ魅せられちゃあ迷いようがないってねぇ。愈々耿之介君も筆が乗って来たかなぁ」

 笑うそらがくるりと煙燕を廻す。ちがいない、と言葉は含笑して点頭。くふりと双眸を細めた。

「耿之介は成長したのう」
「若いと代謝が良くて結構な事だね」
「お主も他人事では無いぞ。いやいや齢の話ではのうてな」
「それを言うなら言葉君。お互いまだまだ成長期だよ」
「あっはっは。小鳥遊殿、この舞台の幕が下り、今度は彼女の歌が響く頃……また林檎の酒を飲みに行こう。舌が恋しいと求めておるわ」
「同じ事を考えてた所だよ。きっとこの後に飲む林檎酒は格別の味がするだろうね、未来予知なんかできなくとも分かるさ」

 この熱気を乗り越えた先に実る苹果の琥珀色を、そらは描く。そこに星を詠む必要性などない。そうやって目の前を明るむ道標に頼りながら、人は少しづつ前へと進んで来たのだから。もしそんな細やかな運命をも曲げようと企む無粋者が出張る時は、語ってやらねばなるまい。人の想いの持つ力の全てを。

「そのためしっかりここを片付けてやらないとね」


「わっちが負ける……?星を詠み、運命さぇも曲げる力を持つこのわっちが?」

 外陣の中央に臥す罅割れた仏像は、さながら|葬殮《そうれん》に建つ墓標の如き醜貌を晒していた。その地下には無間地獄の釜口が股開き、怨嗟の呻きが|滾滾《こんこん》と沸き出ている。
 星座に裏切られた哀れな蛇は、今や金色に輝く歪な果実に押し潰されて呻吟に上ぐより他に無い。

「椿太夫、お主は人の想いの強さを見誤っておったな」

 言葉は知っている。人は弱く儚い。この古妖はそんな心の脆さを突いて、この街を乗っ取ろうと画策した。しかし時に人は、誰かの為だと云うならば何倍も、何十倍も強くなる事を彼女は知らなかった。|直向《ひたむ》きに想いを重ねる絆が積み合えば、それはきっと岩をも穿く激流と成るのだろう。ただ諧謔を弄するが為に、互いに喰い合ってきた古妖にそんな事がわかるべくも無い。
 藪椿の茂みの中でチラと|笄《こうがい》が光る。この輝きに灯る想いも、きっとそんな絆の一欠片だったに違い無かった。しかし椿太夫はそうとも知らずにその心緒の成れの果てを贈った主を無為に食ったとするのなら、人の心の一端を解する機会は永劫に喪われた。それが彼女の地獄。逆説的に言うならば、楽園を求める古妖に辿り着ける楽園など、元より存在しない。
 想いが紡ぐ光芒は美しい。しかし、椿太夫にとってその輝きは可視光と成り得なかっただけの話なのかも知れない。

「人の強さでありんすか?それもぬしらが騒いだだけのもの。あの子らだけじゃぁ、猿の赤子の様になぁんもできんのでありんしょう」
「それを解せないと在っちゃあ、残念ながら美味い酒は飲めないねぇ。確かに私らは出来る範囲で手を貸したよ。でもね、それだけでこの歌は完成しないって言ってるんだ。折角の折さ。縁が煙を呼んで延々と、酔いどれ管巻き酒の肴に恋御伽。最高の物語を聞かせてやろうじゃないか。恋花芽吹いて愛爛漫ってねぇ」

 そらがゆっくりと言の葉を紡ぎ出せば、煙燕の棚引く霞が本堂を巻いてゆく。同時にふわり舞い立つは風鈴の如き言葉の硝子のペン。

「仮に儂らが手を貸さぬとも、存外お主は苦戦したやもしれんぞ?人の織り成した絆を前に、古妖と忌み畏れられた椿の花が散華、とな。その証拠にお主は一度封印されておるではないか。良い機会じゃろうて。六道に還る|砌《みぎり》があるのなら、お主も|聢《しか》とその目に焼き付けておいて損は無い。この桜並木をの」
「あんたら誰に向かって愛だの恋だの喚いてんのさ。猿の呆けの歌はとぉっくに聞き飽きんした。愛なんてもんは全部嘘。恋なんてもんは全部言い訳。真面目に聴くだけ莫迦に傷付くだけってねぇ!そんならわっちが上手く利用してぇ、旨味が無くなりゃ棄てるだけ。そんな物に力が宿るなんてぇ冗談は止してくんなまし!」

 俄に殺気を強めていく古妖の昏き眼光が、椿の合間から覗く。落胆、絶望、諦観。そんな者の影が色濃く蜷局を巻いて、|檳榔子染《びんろうじそめ》を濁らせる。ともすれば、掬代も墜ちたであろうその沼の淵より、血に染まる爪先を此方に向けてはイヒヒと嗤った気がした。

「そんなもんじゃないよ人の道ってやつはさ!生きてりゃすれ違う事だって在る。自分の事で手一杯なら視えてなくても仕様がない。でもちゃんと手を差し延べてくれる人ってのは、手前の想いをしっかり視てるもんだと私は思ったよ」
「眸子が濁ればその彩透き照らす光も届かぬ。しかしそこに真の意識を向けた途端、世界は拓けてゆく。その瞬間こそが――嗚呼、儂はそんな想いの結ばれる時がいっとう好いて止まんのじゃよ。あまりに眩しく、あまりに愛おしい」

 眼の前には未だ色鮮やかに浮かぶ在りし日の面影。ちらちらと舞い散る花弁を掬い、かつての主が柔らかく微笑めば。
 ――気づけばこんな遠い所まで来てしまったもんだよ、親父殿。
 地平の彼方へと続く壮大な桜並木がそこに出現した。一斉に花吹雪が舞い踊り、そこにそらの煙燕の白が添えられて、魔界の戦場は幻想桜の聖域へとその装いを変じてゆく。

「この歌を聴いてると不思議なもんでね。今なら何処へでも飛んで行けるって思えてならないよ。そんな力が未だ理解出来ないって言うならさ、もうその身に直接教えてやるしかないじゃないかねぇ。お前が捻じ曲げた想いの力ってやつを」

 耿之介が詞い、掬代が歌う。想いの煌めきのなんと美しいことよ。
 その歌に乗せられたそらの清浄なる煙が、今この場にいる全員を包み込んだ。破魔の祝福がそらと言葉に降り注ぎ、捕縛の呪いが椿太夫の影を射止めんと漂う。
 椿太夫は靡くその仙花紙が彼女の視界を包み塞がんとする前に、それを截たんと惑わしの椿花を撓らせた。太夫の動きは蔓と煙に絡め取られて緩慢。しかしその赤い打掛が如き椿の尾は、打たれた鞭以上の破壊力を帯びて対峙する二人に裂帛と迫る。
 柔よく剛を制す。親父殿が教えてくれた。その身を以って、幽韻に映すこの世界を切り拓いた様に。清流が濁流を雪ぐが如き身捌きで左手の楚々を揮えば、椿花の連撃が彼を避ける様に軌道を変じて花弁を扇ぐ。そのまま右手の硝子ペンを手に執ると、耿之介と掬代が編む詞を宙に綴った。

「皮肉じゃな。これはお主が繋げた縁じゃ、遠慮のう味わえ」

 この世界を一層の煌めきが覆いはじめた。希望と勇気の歌が上昇気流となって、そらの広げた翼を愈々遥か上空へと押し上げる!風を摑む儘に、彼女は手に持つ無骨な大剣を大きく振り被ると、|二藍《ふたあい》に耀う双眸を目一杯に見開いた!

「人はねぇ!邪魔されたって、バラバラにされたって、それでも懸命に根を這わすしぶとさを持ってるんだ!弱いからこそ手を取り合って紡ぎ出す縁の糸はお前には絶対に切れないものなのさ!さぁさ!これが大団円だよ!二人の歌声をしっかり味わいな!!」

 迸る二人の√能力が止め処なく溢れ出る。言葉のペンが歌声に宿る力を増幅し、そらの|霊震《サイコクエイク》が椿太夫をその場に縫い付けた。
 此処からは二人に手が届かない!嗚呼!わっちは終わってしまう!この昏い気持ちを唯の一度も晴らす事無く、鉄漿の|桎梏《しっこく》を抱いた儘、再び深い闇の底へと投げ落とされるというのか!

「そんなら教えてくれよぉ!誰がわっちの事を掬うって言うのさぁぁあああ!!!」

 そんな理不尽が罷り通るというのなら!星々よ!この者たちを打ち砕く|夢《予知》を魅せておくれ!せめて!せめてその幻想の中で一匙の幸せに溺れながら、優しく逝かせてくれ!
 刹那、迫り来るそらの巨爪の背後で星座が瞬き始める。椿太夫の魂からの断末魔の叫びに呼応する様に、かつてない程の巨大な光条がその網膜を突き破っていく。
 彼女は目を潰しながらそこに視た。その先に枝分かれした幾つもの悲しき未来を。星が嗤う。オマエを掬うモノなど、どこにも、どこにも!死ですらも!

「――その曇り多き|眼《まなこ》を晴らせ!それがお主を掬ってやれる残された最後の道じゃ。だからの、今だけは、暫し眠りにつくが良い」
「――あああああああぁぁぁぁぁっ!!!」

 豪雷の如き一撃が一閃。猛烈な音と風を伴ってそこに巨大なクレーターを穿つ。白い羽根と花弁とが渦を巻き、衝撃が街を駆け抜けてやがて朝焼けの空気を凪いだ頃。そっと爆発の中心を見下ろす二人は見つける事だろう。椿の散華に囲まれて、彼女が大切にと身に着け守っていた漆塗りの朱色の小箱を。もう何が入っていたのかも判然としない程に|拉《ひしゃ》げたそれは|宛《さなが》ら地に堕ちた苹果の如き赫を湛えて、椿太夫がその日のその時その場所に生きた確かな証跡を遺すのであった。

イリス・フラックス
エイル・デアルロベル
ヴィルベルヴィント・ヘル

●星の歌
 蛇は魚。深い深い水の底を溺れる様に藻掻いては、水面から差す幾つもの光芒を慎重に辿る。天から垂らされたその一筋の錘光は、果たして何者が手繰るものなのかを占いながら。見誤ってはいけない。摑んだ糸のその先に、厄介な√能力者達が己を封じ込め様と虎視眈々、糸切り鋏を片手に待ち構えているに違いないのだから。それにしても、と魚は思う。星座の聲が僅かに届くだけのこの水底でも、掬代の耳障りな詩が|平仄《ひょうそく》を編む。
 この歌が全てを狂わせた。この歌さえ無ければ、√能力者はその|能力《ちから》を満足に振るう事が出来ず、ただ呪いを蒔いた己だけが好きなだけその権能を翳す事が出来たと云うのに。それならば、√能力者が相手とて後れを取る事は有り得なかった。
口惜しい。今すぐにかの歌姫の咽を詰め、|縊《くび》り殺してやりたい。人間の取るに足らぬ筈の|囀《さえず》りが、自身をこんなにも追い詰める事になろうとはよもや頭上の星々ですら思わなかっただろう。最初の思惑通りに、病を装ったまま呪い毀して仕舞えば良かったのだ。|若《も》し次が在るというのなら、絶対に選択を|謬《あやま》らないと誓う。そうして伸ばした|嫋《たお》やかな|鰭《ヒレ》の先が、差し込まれた光の糸束を乱暴に摑み取った。瞬間昏き瞳孔が引き絞られて、彼女の意識がゾディアック・サインの示す先で|飛沫《しぶき》を上げて飛び跳ねた。

 その糸は運命の糸。弦の様に張って撫でれば十人十色に音を奏で、二つの糸が交わればやがて二つの物語は|大団円《ハッピーエンド》を迎える。

「相変わらず五月蝿い歌……」
「ああ、だめよ、それは」

 そんな物語を、|彼《ともだち》は書いてくれると言った。例えばすれ違う二人の物語。遠き理想に憂う女に心を寄せた男の恋のお話。それともこんなストーリーは如何だろうか。二人で罪の果実を食み、駆け落ち|宛《さなが》らの逃避行。彼の事だから、きっと最後は素敵なハッピーエンドで飾り立ててくれる筈。予測もつかない展開が、ハラハラさせる駆引きが、甘い甘い愛の囁きが、彼女の瞳を煌めかせてくれるという確信。どんな噺になるのかと想いを馳せれば無垢な鼓動は高鳴って、碧色に映す世界はより一層の光を取り戻していく。ほら触れてみて?わたしはこんなにも高揚しているの。読み終わったら彼に感想を届けなくちゃ。だってそういう約束だもの。それ程迄にわたしは楽しみにしていると云うのに、ねぇそれなのに。

「わっちには運命を占う権利が有るんだ……最後に失楽の庭に戻りんすはわっち…………」
「人の恋路を邪魔するやつは、ってよくいうでしょ?あなたはそう――」

 この場に於いて椿の蛇が犯した過ちは、唯ひとつ。その災厄、イリス・フラックス(ペルセポネのくちづけ・h01095)の不興を買った事。たった一つ犯した原罪が、神の怒りに触れる。

「こなたのつまらない御伽の幕を引くんは全部わっちのお役目……」
「――“だめ”よ。わたしが許さない」

 無垢な少女の偶像から響く絹の音色は、地平の果てから至る魔笛の音にも似て。

「許さない……?おまえ如きが偉そうに――」
「逃さない」

 イリスの短い言葉に余間に潜む椿太夫が押し黙った。その背筋をぞくりと冷たい不吉が頻りになぞり、|虞《おそれ》の雲が瞬く間に太夫の頭上へと湧き居出ては、急き立てる情動の雨を彼女の椿花に降らせる。

「生意気な|禿《かむろ》」

 そうしてボソリと言い返すのが精々で、蛇の腹元に転がる香箱を蹴り出しては中から沈水の香木を焦々と曳き現す。
 それを嘗めた碧色の虹彩が楽しそうに渦を巻いて、弓形に月を映した。

「さあおいでなさい。あなたはどんな香を焚くの?わたしが好きな香りを教えてあげる――フランキンセンスにサンダルウッド。それ以外は受け入れてあげない」
「趣味が一緒で助かるわ。そんならわっちの取って置きを出してあげんしょう。きっとこなたの香りも、ぬしの|御頭《おつむ》を蕩かしんす」

 染み出して来たのは割の伽羅の馨香。ほんのり甘い濃厚な香気が、嗅ぐ者の様々な狂気を誘う。そうして椿太夫は羅宇煙管の国分にも火を点そうとして気づく。アレは右腕ごと獲られてしまった。一等お気に入りの煙管だったのに。代わりに取り出した無骨な延べを咥えて紫煙となすと、今度はイリスの長く美しい|睫毛《しょうもう》が不快の風に当てられてやや揺れた。
 ――狂気も呪詛もわたしにとっては可愛いもの。だけれどね、耐えられないものもあるの。わたしはわたしの好き以外のもので飾られるのがたまらなく嫌!
 イリスの生来の耐性が、目玉の雲にも似た疑心暗鬼も、|鵺《ぬえ》の呼び声と紛うばかりの狂気をも跳ね除けて、ただ夜風の竪琴を鳴らすかのように指先を爪弾けばインビジブル達がひそひそと怯えた声音でささめき合う。――あの小さな鍵の扉だけは開けてはいけないよ?さもないと、とんでもない事になるよ?青いヒゲの怪物が、オマエを捕まえにやって来るぞ!
 発現せしはイリスが√能力『|小さな鍵の小部屋《ラ・バルブ・ブルー》』。夜明けを迎えようとするこの世界が、突如歪に形を変えて行った。顕現したのは死霊『わたしを好きなひと』。彼女が今までに|詰《・》|め《・》|込《・》|ん《・》|だ《・》その部屋の扉が突如椿太夫の眼前に出現し、中から引っ切り無しにガリガリと爪立てる物音をがなり立てる。あるいは括りつけられた麻縄がキィキィと疳高く啼き、終わらない慟哭の三ツ脚がゆらゆらと扉の隙間から影を踊らせる。

「なんなんだい……コレは……?なにが入ってるって謂うのさ……」

 椿太夫が思わず呻いた。それ程までに酷く冒涜的な光景が、一枚薄い木板の向こう側で広がっている事は想像に難くない。少しづつ、その扉が開かれていく。椿太夫はただカラカラに渇いた喉が|嚥下《えんげ》を促す儘に、それを凝望する他なかった。
 ゆっくりとその隙間から真っ黒に干乾びた腕が伸びて来て|心悸亢進《しんきこうしん》、呆気に取られる間に彼女の香箱を恐怖の部屋の淵へと招き入れた。ポロリと太夫の朱脣から煙管が落ちて、その火皿から咽草が零れた所で椿太夫は正気を取り戻す。目の前の扉は、伽羅の香木と共に忽然とその姿を消していた。ただ夜半の煙の余薫だけが、先程の怪奇の痕跡を遺す。
 余りに異様な√能力に、椿太夫の本能が警鐘を鳴らす。イリスは危険だ。戯れに虫籠の蝶を殺す危うさを、その無垢な碧色の内に湛えて嗤う姿がありありと浮かぶ。咄嗟に彼女の姿態を認めんと欲せば、先程の小部屋同様にまるで最初からそんなものは存在し無かったとでも謂うような奇妙な沈黙が仏殿いっぱいに広がっていた。

「行った……?」

 何処へ?違う。そんな筈はない。何故ならここは|彼《・》|女《・》|の《・》|世《・》|界《・》ではないか。アイシスの河畔に佇んで、一人の少女が楽園の歌を口ずさんで居る。椿太夫の認識能力が、イリスの定義付けによって更にめちゃくちゃに攪拌されていく。

「その歌を止めな……!」

 しかし、楽しそうに歌う少女はそのダンスを止めない。

「どうして止めなくてはならないの?あの人は言ったわ。『わたしのための物語』を書いてくれるって」
「そん歌聞くと頭が割れちまいそぉだよ……!」
「それなら貴女にも届けてあげる。耿之介さんが掬代さんへ贈った歌を、物語を」
「やめろ――!」
「黄昏を縫って、届く星空を思い出して――ほら、星の光。言祝いで?星は燃えるほどに、恋のように、熱いのよ?」
「もうやめて!」

 メキメキと、|川《・》|底《・》が唸り出した!頭を抱いて蹲る椿太夫の隣に、イリスがふわりとシルクを揺らしてしゃがみ込む。そうして耳元の|咫尺《しせき》で|綻《ほころ》ぶのだ。

「わたしが一度の失敗で挫けるわけないじゃない?あの人たちだって、そうだったから!だからね、わたしは二人の想いを届けてあげるわ?この『星々』の光をもって、貴女を、焼き焦がしてあげる」

 イリスが示指さす空を見上げてみれば、そこにはこの妖都全体から届けられた声援が輝いていた。きらきらと天空の星々が燃えている。幾つもの煌めきが、ソドムに降り注ぐ硫黄の火となって!
 ミシリ!|川《・》|底《・》が一際大きな音を立てた!

「世界がわっちの敵になったんと謂うんならねぇ!わっちが全部喰ろうてやる!」

 最期の刻を悟った椿太夫が吠えた。その不快な叫びを眸を細めてやり過ごし、イリスは静かに告げる。

「……消えて」

 そうして遂に決壊した。咽草に燻っていた火が気づかぬ内に乾いた本堂の柱に燃え広がり、大火となって廈全体を覆っていたのだ。破滅的な音を立てて、次の瞬間、真っ赤に燃え盛った梁が椿太夫の頭上へと一斉に降り注ぐのだった。
 焼け焦げた椿の花弁が散り行くのをイリスは静かに見下ろして――

●掬いの耿
 再び此処へと戻る。六道と云うには余りにも粗末な擬似的転生を果たすかの様に、彼女は額を抑える。星詠みの予知が止まらない。黄道に座す十二の支配者たちが、曳っ切り無しに悪夢のシグナルを送りつけてくるのだ。蛇はそんな差し込まれる光の柱を縫って、今度こそと思わずには居られないだろう。自身の助かる一縷の光明を曳き当てんとして、その隻腕を伸ばす。
 頭が割れる様に痛かった。全身が灼ける様に熱かった。それでも、歌は終わらない……
 物音がして、中空に|蟠《わだかま》った|御歯黒溝《おはぐろどぶ》の如き天井に映すその視線を戻した。
 そこには、一人の剣士が立っていた。

 声援止まぬ風を伴って、二人の歌がエイル・デアルロベル(品籠のノスタルジア・h01406)の耳介に届く。彼らは彼らの戦いに身を投じ、その果てにこの街に宿す希望の灯火を奪還した。勇気と祈りを掻き立てる彼らの詞と唄声に耳を傾けていると、かつて戦火で朽ち果てた聖堂で謳われた、少年少女達の聖歌想い起こす。大切な人やモノ、心の拠り所を喪った彼らが、その歌に励まされて再び希望の光を芽吹いていく。そうして復興は人の胸の内から湧き起こるという様を、エイルはその金色の瞳にまざまざと映してきたのだ。人の逆剥け立った心を癒やすのは、いつだって人々が編んだ想いの力。
 それら崇高な記憶が光となって、彼らを見守る|導器《アンティーク》へと沁み込んで行く。耿之介と掬代とが携える萬年筆とマイクにも、いつか眩い煌めきが篭って行くのだろう。そんな記憶をこれからも紡いで貰う為に、エイルは――

 ――デアルロベル君……どうかこの街を助けて欲しい……掬代が歌ったこの場所を!

 ――彼らの勇気に応える刻に立つ。目の前に衆生の三毒を手繰る諸悪の根源が佇んでいる。彼女を斃し、この街に眠る無数の記憶を護らなくてはならない。

「此処で敗ける訳にはいかないんだ……!折角暗い部屋から抜け出して、娑婆に出て来られたんだ……みんな毀して、みんな殺して、全部黙らせて。わっちだけの静かな楽園はもう眼の前だと云うに!」
「それがあなたの望んだ未来、という訳ですか」

 独白の様な椿太夫の言の葉が止む。苛立たし気に脣を噛み、|頤《おとがい》を|朱殷《しゅあん》で彩れば、|一切有情《いっさいうじょう》|泥黎《ないり》に堕ちよと怨嗟の念を滾らせる陰鬱な黒き眸子で此方を睨み付けてくる。

「……わっちの未来にはねぇ、こんな五月蝿い歌なんて響かない。朱塗りの|籬《まがき》なんかもどこにも無くて、辺りには香華だけが栄えてるんでありんす。そんでわっちが気儘に煙管を喫みながらぁ、わっちを敬う猿どもの気を美味しく頂きんす。ささやかなもんでありんしょ?この街の莫迦騒ぎに比べたら」

 そこに|√能力者《おまえたち》は必要ないと|白息《しらいき》を吐く。黙して傾聴していたエイルはなるほどと頷いた。

「そんな都の品に郷愁の情が芽吹く事は到底なさそうですね。実に古妖らしい独善的な未来を描いたものです」
「独善的で何が悪いのでありんしょう?昔からみぃんなわっちの事が大好きだったでありんすゆえ。この星詠みの力が在れば、全部わっちの意の儘に。猿どもは皆、椿の華を愛でながらわっちに運命を捻じ曲げられて踊るのがお似合いでござりんす」

 椿太夫の毒牙が、花弁を|瀝《したた》らせながら縁の下で嗤う。いいや、まだ笑ってはいけないよ。わっちはこなたの金の眼が驚く間抜けが見たいのだから。

「それでは、その星詠みの力があれば本当に望んだ未来を描けるとお考えですか?確かにあなたには未来を変える力が宿っている事に間違いはないでしょう……しかしそれだけの事です。あなたは人の運命を捻じ曲げたつもりで居るみたいですが、その実捻じ曲げていたのはご自身の未来のみ」
「……」

 エイルの言葉に、椿太夫の指先がぴくりと固まる。ざわざわと縁の下の蛇たちが蠢き始めて、その不快に|出《いず》る|歪《ひず》みを制御する事が出来ない。漏れ出る静かな激情を耳朶に捉えながら、エイルは尚も言葉を続けた。

「気付かない様でいらっしゃるのでお教えしますが、星詠みの力がなくても、誰もが相応の苦労で未来を変えられる位には、運命という代物は移ろい安いものなのですよ。あなたが莫迦だと嗤った人たちは、その裏では血も滲む努力をしているのです。それこそ星詠みの力もないのに、未来をご自身の手で掴み取ってしまう程に。そんな彼らと星に縋るばかりのあなたとでは、果たしてどちらが素晴らしいと言えるのでしょうかね?」
「お黙りなんし!」

 激昂。瞬刻、エイルを取り囲む椿の荊が彼の足下から昇り立った。椿太夫にとって、エイルのその言葉を直視する訳にはいかない。そんな事をしてしまえば、今までの己の人生が平仄合わぬ物になってしまうではないか。|惣籬《そうまがき》に閉じ込められ、お|歯黒溝《はぐろどぶ》に囲われて、それでいて一体どの様な未来を描けたと言うのか。そんなものは綺麗事だ!この世界は虚構で満ちている。誰も彼もが自分を惑わせ来たる怪物に他ならない。真に信に値するのは己のみ。それならば、この花弁を掬う事が叶うのは、自分自身だけ。

「良い子ちゃんの綺麗事はもう沢山だ!そのまま紅血撒き散らして死んじまいな!」
「ふっ……!」

 エイルは短く息を吐き、瞼を閉じながら腰を落とす。脅威は360°を囲み、同時に迫り来る。|阿頼耶《あらや》を刻む間にエイルは二振りの刀を抜き放った。すっかりと覆い翳していた椿の華々は、宝刀『現』と『夢』の一刀の下|剪裁《せんさい》。|華燭《かしょく》をぱらぱらと煌めかせてその太刀筋を彩れば、堂内を|戦《そよ》ぐ花吹雪に変じて花弁が舞った。一拍遅れてその衝撃波が仏天蓋をしゃらしゃらと揺らすと、雪の様な綿埃が舞い落ちて|須弥壇《しゅみだん》の頂の残雪と為す。

「本当にあなたは最期まで孤独でしたか?手を差し延べた人がいたのではないのですか?掬代さんに、耿之介さんがそうした様に。人は独りでは生きてはいけないのですよ」

 エイルが椿太夫を目掛けて駆ける。√能力に虹彩を|耀《かがよ》わせながら、掬代の歌を身に纏って。
 宝刀に宿っていた二つの面影がエイルの駆ける道を指す。嫋やかに、凛として、颯爽と。その人影もかつての所有者の魂を映した実体の伴う幻像だ。籠められた想いは紛う事なき真物で。結局の所この世界は、全て人々の想いで織り成されているのだ。過去から未来に連なる一つの真理が、椿太夫への道を真っ直ぐに拓く!

「再封印、させていただきます」
「星々よ!さっさとわっちに未来を視せろぉ!」

 片眼を抑えて椿太夫が絶叫した。血走った先の瞳孔を爛と輝かせて、その整った鼻からは溢れる様に|衂血《じくけつ》が流れれば、果然星座が瞬き出す!幾度も降ろされた予知が、再びその運命を歪曲させていく。

「また逃げ込むと言うのですか!」
「わっちには未来を選び取る権利があるのさ!」

 そうして椿太夫の√能力が愈々発現する刹那、『夢』に宿る人影が憐れむ様な哀しげな視線を流しつつその天啓を斬った。差し込む光芒が断たれ、椿太夫の脳裡に降りる筈の予知が霧散していく。

「莫迦な!?」

 大きく狼狽する様に後退れば、髪に挿した笄が音を立てて落ちる。

「あっ!」

 迫るエイルの光刃を前に、椿太夫はそれを拾おうと身を踊らせた。振り下ろされた『現』の煌めきは、彼女の躯体を袈裟斬りに撫で、大事そうに抱えていた朱色の小箱ごと、真っ二つに両断するのだった。

「わっちの……大切な……」

 掠れた声の主は余韻を残して消え去り、古妖は再度封印された。残された|鼈甲《べっこう》の笄を手に取りながら、エイルは呟く。

「あなたは許されない罪を犯しました。ですが、あなたの行いが結果的に二人の未来を|掬《すく》い、|耿《ひか》らせる切欠となったことも事実です。その事だけは、私は許しましょう。もし輪廻というものが本当にあるというのなら、次は人の織り成す想いの輝きに気づく道に辿り着けますように……」

 いつの間にか差し込む暁光を背に、エイルはそっと祈りを捧げるのだった。

●散華
 掬代が耿之介と出会わなければ、耿之介が掬代の心に触れる勇気が出なければ、掬代が耿之介を想わなければ、耿之介が掬代に詞を届けなければ、どれか一つでも欠けていたのならば、この世界に鳴り響く歌はもっと別の物になっていた。それは|銷魂《しょうこん》に沈む者たちへの鎮魂の歌だったかも知れない。或いは|悵恨《ちょうこん》の火に炙られた自身への贖罪の歌であっただろうか。いづれそれも満足に詞を紡ぐ事も叶わぬ儘に。
 しかし、そうはならなかった。√能力者達が架け橋となり二人の想いを繋いだ。今、耿之介と掬代は共に寄り添って戦いの舞台に立ち、それぞれの勇気で古妖と|干戈《かんか》を交えている。

「おお、何と――」

 ヴィルベルヴィント・ヘル(RED HOOD・h02496)の継ぎ接ぎの肉体が、内側から奮えている。七人の獣達の魂が、その様子に共鳴して天穹に咆えるかの如く。

「素晴らしい歌で御座います。天川様、山路様」

 低い声音は、どの魂魄が奏した|感奮《かんぷん》の躍動か。彼らの歌は想いの結実の証。あの時、楽屋で見せた曇る顔を、ヴィルベルヴィントは忘れる事はないだろう。そんな彼女が今、伸びやかにその唄声を届かせている。

「まさに人生の大舞台と云う物に出会えたようで御座いますね。こんな機会はそう多くはない。御二人に感想を伝える為にも――」

 ――終わらせましょう。
 大きな黒き拳を握り込む。


 この歌は、あの人にも届いているのだろうか?思えば、そのウェイターの獣人さんとの邂逅が、耿之介さんへの後暗い気持ちに向き直る最初の切欠だったのかも知れない。
 古妖の封印を解いた罪悪感で私の眼はずっと曇っていた。犯した罪の事ばかりに囚われて、耿之介さんの向ける真っ直ぐな瞳を直視する事が出来なかった。そんな憂う私を、彼はその低い声音で諭してくれたのを鮮明に思い出す。
 自分の歌が唄いたいと零した時、それならと私を耿之介さんと結びつけてくれたのも彼の優しさだった。耿之介さんは書いてくれた。この黄昏の中で、襲い来る絶望を精一杯に振り払って。彼は臆病な人だと思っていたのに、それがどれ程勇敢な行為なのかを知って私は涙を禁じ得なかった。あのウェイターさんはきっと、こうなる事を予測していたのかも知れない。ちょっと常人離れした凄味の有る方だったから。
 耿之介さんから頂いたその詩は、今はまだこの胸の奥に仕舞っておこうと思う。でも、いつか私にとっての大切な|砌《みぎり》には、その時は。それまでに彼の名前も聞いて置かないと。ウェイターさん、では招待状は贈れないもの。
 彼は耿之介さんの著作が好きだと言っていたっけ。そうだ、私は思う。この戦いが大団円を迎えるなら、今度こそ読んでみよう。耿之介さんが視て来た、様々な人生を綴った本達を。そうすれば私はきっと、もっと彼の事が好きになる。
 知らないのなら、これから知る事が出来るのだから。


 藪椿の根を辿る先に立つ。|大廈《たいか》の縁の下から不自然に延びていた花々は、這わせた先で一つの大きな塊となって|樒《しきみ》の生け垣に寄生していた。

「此方には蛇の天敵が祀られているのでしたか」

 その銀眼が茂る椿の玉糸を睨みつける。思えばこの街に張り巡らされた五芒星の封印は、かなり大掛かりな物であった。それを解くにはそれなりの時間と準備を要した筈だ。そんな用意周到な古妖が、自分にとって不都合な物を態々捨て置く侭にする訳がないのだ。ヴィルベルヴィントの見立てはまたも当たる。この寺が本来、蛇の天敵を祀る事がその役儀であるとするならば、祀られし本来の本尊というものが境内の何処かに在って然るべきなのである。そして、それは恐らくこの中に。
 ヴィルベルヴィントがその怪力の膂力で椿の茨を曳き千切ると――

「……そういう事で御座いましたか」

 ――鷹の意匠をあしらえた小さな祠がそこに鎮座していた。


 この光錘を辿るのは何度目になるのだろう。仏殿の中央に佇む椿太夫は、縋る様に天を仰ぐ。彼女は余りにも多くの“自分の死”と云う物を視て来てしまった。大剣が、大火が、宝刀が、掬代の歌に乗る沢山の情念が、悉く彼女の息の根を止める。それでもまだ、その執念は尽きぬ。しぶとく運命の狭間をのた打ち廻り、なんとか反撃の機会を伺おうと眼を光らせる。そうして遂に夜明けを迎えたかと思えば礼堂の入り口から一人、西方極楽浄土の荘厳に凡そ似つかわしくない黒き|執事服《バトラースーツ》の獣人がその姿を現した。

「もぉ夜も明けると云うんに、まだわっちに構うんでありんすね」
「愈々星も|匿《しな》めば|朝暾《ちょうとん》昇る明け六つ時。山路様ならその様に仰るでしょうか。詠む星も無くなれば、この騒動の幕引きには丁度良い頃合いで御座いましょう」
「星の運命なんて四六時中。いい加減諦めるのはぬしらの方だと思いんす。それこそこなたの歌もそろそろと止む頃合いでござりんしょ?いつまで囀るつもりやら」
「天川様の歌は、止む事はないのでしょう。貴殿がこの舞台から降りる迄は」

 ヴィルベルヴィントの静かな言葉に椿太夫は溜息ひとつ、紫煙と共に吐き出した。正面から対峙する目の前の男を油断なく見つめる。
 今日は予知を降ろし過ぎた。眼球の奥がズキズキと痛み、頤を伝う血が着崩した比翼仕立ての間着を同じ朱色に染め直していく。可能ならば此処でこの男を仕留めておきたい。いつまでも鳴り響く掬代の歌さえ止める事が出来れば、此方が勝ったも同然なのだから。

「そんならわっちがこれから無理にでも、止めに行こうかねぇ」
「天川様は害させません、決して」

 軽く挑発の言葉を口ずさめばヴィルベルヴィントが愚直に拳を構えるので、椿太夫もやおら殺気を放つと華に咲く牙を剥き出しにして|嚇《おど》す。
 ヴィルベルヴィントは律儀に、簡潔に、厳かに言った。

「参ります」

 そんな事はわかってるんだ、と内心吐き棄てて九重椿を放とうとした。しかし√能力が発動しない。不発?僅かに訝しながらも咄嗟に鞭の様に撓る椿花を無数に走らせる。ヴィルベルヴィントが疾風、駆けたその足跡を逐い立てる様に床板を抉っていく。恐ろしい程の速さだった。何もわざと鞭撃を逸らしている訳ではない。その獣人が速すぎて当てられないのだ。

「……私としては、この様な妖香は遠慮頂きたい所です」

 眼の前をヴィルベルヴィントの拳が掠める。その軌道をまるで鋭利な刃物でもなぞったかの様に削ぎ落とされて、ポトリと煙管の雁首が落ちる。

「うそ……!?」

 想像以上の展開の速さに思考が追いつかない。呻いて二歩程|蹌踉《よろ》めくと、既にヴィルベルヴィントの大柄な身体が肉薄していた。
 ――僭越ながらこの私が、御相手を務めましょう。

「ま、待った――」

 発現する獣人の|能力《ちから》。打ち込まれる拳は岩をも砕く程に鍛え上げられた渾身の一撃。そのたった一撃ですら視界が霞む。堪らず|嘔吐《えず》きつつも、必死に椿花の尾を手繰る。
 掬代と耿之介の届ける歌が、ヴィルベルヴィントに天壌無窮の推力を授けていた。彼の銀に煌めく右の虹彩がインビジブルを映しては何度も耀い、黒き破壊の炎に燃え上がった|嗔恚の魔眼《ライカンスロープ》が|覚醒《めざ》めれば、捉えた彼女の隙に向かって寸分狂わずにスーツの内側に仕込んでいたカトラリーを投擲していく。

「ぎゃあ!」

 鋭い痛みに堪らず椿太夫は悲鳴を上げるが、ヴィルベルヴィントの|百錬自得拳《エアガイツ・コンビネーション》は止まらない。喧嘩殺法たる拳と蹴りが、視える隙に容赦なく打ち込まれていく。それら圧倒的な暴力を躱す術を彼女は持たない。最早椿花の鞭すらも捨てて、ただ必死に頭上の星に縋る。生きる道を模索する。
 ――あゝ、また駄目だ。わっちはまた……逃げなくちゃ。
 √能力を奔らせようとして、|礑《はたと》気づく。この境内全体に、崩した筈の封印の結界が再び張られている事に。もう星座が天啓を降ろす事は無いだろう。

「あんたもしかして――」

 焦燥に駆られ、言いかけた所でヴィルベルヴィントのグラップルが炸裂した。その儘羽交い締めにされて身動きすらも封じられれば、ただジタバタと藻掻いてはしおらしく抵抗を試みるより他に無い。そのまま頸部が締められて意識が微睡む感覚に襲われると、次第に抵抗する力すらも指の先から失っていく。
 そんな椿太夫に、ヴィルベルヴィントは静かに、そして言い聞かせる様に言った。

「どの様な願いを星に三度唱えようとも、多くの情念を喰らう貴殿を私は赦す事は出来ません。御休みなさいませ、御嬢様」

 彼の右目の炎は既に消えてなくなっていた。完全に意識を手放した椿太夫は、帯の下に大事そうに抱えていた朱色の小箱を漸くと手放す。カシャリと音を立てて散らばったそれは、たった一つの小さな小さなつげの櫛だった。

●エピローグ
 その街に、何十時間ぶりとなる静寂が訪れた。誰もが固唾を飲んで戦いの趨勢を見守り、やがて誰かが呟く。

「勝った……」

 その瞬間、割れんばかりの歓声が沸き起こった。人々は再び訪れた平穏に暫し酔いしれながらも誓う。
 この楽園を救いし英雄達を未来永劫として語り継ぐ、と。

♦︎♢♦︎♢♦︎

「ねぇ耿之介さん。私はずっと貴方の想いから目を逸らして来ましたね。心配をお掛けして、本当にごめんなさい」

 遠くで沸く歓声を背に、掬代は言う。

「そんな事はもう気にしていないよ。僕はこの騒動で思ったんだ。君への想いが例え一方通行な物だったとしても、それが君の助けになるのならそれで良いとね。僕はこういう事には慣れて居なかったから、ついつい自分の我を通してしまった。それに途中で気づいてからは、君の負担になってやいないかと少々気を揉んでいたのさ。此方こそ、すまなかった」

 耿之介が、干戈打ち合う音の止んだ寺院を見つめながらそう応える。

「私はね、これからも歌を唄おうと思うわ。貴方が書いてくれる歌を、もっともっと色んな世界に響かせたい」
「それはとても嬉しいが、作詞についてはとんと素人だ。初めのうちは滅法拙いと思うが、勘弁しておくれよ」

 耿之介が笑うと、彼の震えるその手をそっと掬代の掌が優しく包んだ。そうして穏やかに指を絡ませあって、二人はゆっくりと手を繋ぐ。

「貴方の本も沢山読みたい。貴方の目に世界がどう映っているのかを知りたい。そうしてね、耿之介さん。私はあなたの世界で唄っていきたいわ」
「掬代、さん。それって……!」

 目を見開く耿之介に、掬代はパチリとウインクを送ると、悪戯っぽく笑ってはそっと身を寄せるのだった。

「行きましょう?耿之介さん。この街を救った英雄さん達が私達を待ってるわ」

●跋文
 山路耿之介は確かに筆を擱いた筈だ。だと言うのにその拙著が再び書店の端に図々しくも並ぶ様を見て、その異様な光景にぎょっと肝を冷したのでは無いだろうか。読者の心胆寒からしめるも作家の冥利に尽きる所である。恥を忍んで言うならば、確かに迂生は使い古した筆を擱きはした。しかし、かと言ってその軸までも圧し折ったのかと言われればそうでは無い。真に阿呆の屁理屈ではあるが、屁理屈も理屈の一遍と解してその矛を納めて欲しい。怖ろしい事に、文筆家というものは猫よりも気まぐれな気質なのであり、その日の天候を詠んでは筆を上げ下げする事に余念が無いのだ。好き勝手放題に自身の渕から湧き起こる想いの丈を留める事は出来なかったと云う事である。
 その日の夜の出来事は、この街の誰しもがその胸裡の内に鮮烈な彩を伴って深く刻まれた事だろうと思う。我々は今日もカルヴァドスの盃を傾けながら、相も変わらず歌を謳歌している。
 それから古妖、椿太夫がどうなったかって?彼女の遺したつげの櫛は、今も寺の祠の中に大切に祀られている。もう二度と同じ災厄を曳き起こさない為に。これからは確りと祠の管理も怠らない、と町長が語るを聞いた問屋の主人の話を耳にした客の噂に上った次第だ。
 この物語は一体何処までが真実で何処からが山路の妄言か。その内訳をまことしやかに推察し、口の端に上らせる事も書の楽しみの一つと心得る所では有るものの、今回に限って云えば驚くべき事にその起承転結、詳らかに至るまでまるまると全てが実際に起こった真実なのだ。とは言えそんな口上は今やあらゆる創作物の常套句と掲げるものであるから、愛書癖に耽る敬愛すべき聡明なブックマン諸君が「そんな言葉ではなんとでも言える」と肩を落す様を想像するに難くない。だけれども此れだけは君達も心の内に留めて置いて欲しい。
 言の葉には想いが宿り、想いには力が籠もる。心の底から想う事があれば、まずは勇気を振り絞る事だ。君を掬わんとする者達が、耿光とその行くべき先を照らしてくれるやも知れぬのだから。
 これを読む者がいたら、是非とも林檎の香気立つこの店に立ち寄ってくれ。そうしてかの有名な林檎酒を交わし、愛する歌姫の歌を聴きながら、君の話を聞かせて行ってくれ。迂生でよければ力になろう。そこで君だけの物語を綴って見せようではないか。

 それでは、この噺はこれでお終いだ。しかし、迂生の紡ぐ物語はまだこれからも滔々と続いていく。もしもその時に、迂闊と再び縁を結ぶ事が在るなら、その時はまたしばし付き合って貰おう。

めでたし、めでたし。

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