Träumerei
小さな水たまりを踏んだ拍子に、水晶色の雫がぱしゃりと跳ね上がる。先程まで青く澄み渡っていた空は薄い雲に覆われ、冷たい雨が地上へ注いでいる。冬とはいえ雪に変わるほどの気温でない点だけは幸いと言えただろう。
降葩・璃緒は、ぱらぱらと降り注ぐ雨の間を縫うようにして煉瓦造りの小さな路地を駆けていた。買い物からの帰り道、ちょっとした散歩のつもりで√ドラゴンファンタジーへ寄り道したところでこの雨だ。三寒四温を繰り返すこの季節。念のために着ていたコートを今は頭から羽織って、雨除け代わりにしている。
「困ったなぁ……√EDENは晴れてたから、傘を持ってきてないんだよ」
このあたりの住人は真面目に予報を確認していたのだろうか、人の姿は見当たらない。長い時間を感じさせる石造りの住居は、窓辺に小さな観葉植物の鉢植えを並べている家が多かった。この路地はどの建物にとっても裏口側にあたるのか、雨を凌げそうな軒や庇は見当たらない。
「雨宿りは無理かなぁ。それかどこかに√EDENに帰れそうな道は……」
直後、璃緒の視界に飛び込んできたのは大きな傘でもなければ、√同士を繋ぐ道でもない。路地の行き止まり──と呼ぶには少しだけ開けた場所だ。小さな家一軒ぐらいならば建っていてもおかしくない空き地だがそれも無く、好き放題に枝を伸ばした低木ばかりがそこを占めている。
「……庭? でも、どこのお家とも繋がってないんだよ」
よく見れば璃緒と空き地を隔てる境には、華奢だが立派な鉄製のアーチが架かっていた。土地と外を繋ぐ場所といえばそれぐらいで、残る三方は全て別々の建物の壁に囲われているだけ。見上げれば、寒々しい雨空が四角く切り取られて見えた。
「誰のお家でもないなら、お邪魔しても大丈夫かな? 小さくても、木の下なら雨宿りできるかもっ」
人の気配は無いものの、璃緒は律儀に「お邪魔します」と告げてから一歩踏み出す。咎める声は飛んでこないことから、本当に誰もいないようだ。よくよく眺め渡せば、紫陽花や躑躅、椿──低木だけでも随分と種類が多い庭だった。残念ながら花の盛りを終えたものが殆どだが、残された葉や枝は健康そうに見えた。
庭の奥には小さな建造物がある。ガゼボや東屋とも呼べない、粗末な木製の柱と屋根。空っぽの鉢や古びたスコップが雨に濡れないように寄せられていた。粗末だろうが何だろうが、今の璃緒からすれば願っても無い雨宿りスポットだ。植物の間に設けられた狭い道を駆け抜けた璃緒は、屋根の下に入ることでようやく冬の雨の冷たさから逃れることができた。
「ふぅ……晴れるまで此処に居させてもらおっと」
璃緒はポケットに入れていたハンカチで髪や服を軽く拭う。雨除けにしていたコートは二、三度振って水を弾いたが、帰宅次第干した方が良さそうだ。ひと通り身嗜みを整えて落ち着いたところで、改めて庭を眺める。本当に小さな庭だ。師より受け継いだ璃緒の温室の半分にも満たない。それでも、視界を彩る植物は窮屈さなど気にも留めない様子でそこに在った。
ふいに、視界の端に新たな色が映る。璃緒が雨宿りしている屋根の下、今は使われていない鉢の中に紛れて、鉢植えの花が静かに佇んでいた。丸みを帯びた花弁は深い紫色で一重咲き。中央の花芯は花弁よりも色が濃く、見様によっては黒にも見えた。璃緒の知識の中にある花であればアネモネが一番近いだろうが、細部が少しずつ異なるのは√の違いによるものか。どちらにせよ璃緒にとっては思わぬ出会いだ。突然の雨に見舞われた不運など、忘れてしまえるほどに。
「わぁ……へへ、此処はキミのお家かな? 少しの間、雨宿りさせてねっ」
璃緒は目線を花へ合わせるように屈み、その色や形をよくよく観察する。屋根の下に在るせいか雨に濡れることはなく、土は適度に湿っている。葉は瑞々しく、花弁は開きかけのものが多いようだ。冬に咲く花であると同時に、春が近いことを報せる花でもあると教わった日のことを思い出した。
「綺麗に咲いてるねぇ。誰かがお世話してるのかな?」
誰かがいた痕跡はあれど、気配は無い。静かな命で溢れた庭だが、動くものがひとつも無いのは何故だか寂しいような、不思議な心地がした。雨粒が地面や葉を打っては散る音ばかりが、此処の全てだ。
「こんなに綺麗なのに、誰もいないのはちょっとだけ寂しいね。……キミは静かな方が好き?」
花が言葉を以て返すことはないが、微かな風を受けて揺れる様子はどことなく嬉しそうにも見える。珍しい来訪者を歓迎している、と受け取った璃緒は満面の笑みで返した。
「キミってどういうお花なんだろ? アネモネの亜種かな、それとも√ドラゴンファンタジー特有のものかな」
雨も暫し止みそうにない。璃緒は積み上げられた空っぽの木箱に腰掛け、荷物から愛用の植物図鑑を取り出した。魔法によって内容が随時更新される図鑑には、あらゆる√の植物情報が載っている。もしかしたら、既に師の代で記録されたものかもしれないと思い立った璃緒は、まずはアネモネの頁を開いた。
「キンポウゲ科イチリンソウ属。アネモネだけでもたくさん種類があるんだよ……わっ、花言葉も色によって全然違うね」
記された情報のひとつひとつを指でなぞりながら読み進める。生態情報は勿論、花言葉といった雑学も見ていて面白い項目だった。璃緒は何とはなしに、紫色のアネモネの花言葉を探す。文字の羅列の中からそれを探し出すのは、そう困難なことではない。いつものように文字を追い、いつものように欲しい情報へ辿り着き、読み上げようと口を開きかけ──
「あなたを信じて待つ」
それは誰の声でもなかった。男性なのか女性なのか……そもそも声という〝音〟であったかも、璃緒には判別がつかない。何処からか聴こえた気がした声の主を探すように視線を周囲へ巡らせど、変わらずこの小さな庭にいるのは璃緒だけだった。いるとすれば、雨の風景の中を意思無くゆっくりと泳ぐインビジブルぐらいのもの。
「……誰を、待ってるの?」
璃緒は雨の庭へ視線を向けたまま呟く。きっと、誰もが立ち入れる場所ではないのであろう、美しくも寂しい庭。この庭を誰が作り上げたのか、誰の為の場所なのか。璃緒は此処のことを何も知らないけれど、誰かを想い続けているこの庭が、悪いものであるとは思えなかった。
「……そっか。待ち遠しいから、そんなに綺麗なんだね」
不思議と納得できた璃緒の花色の目が、アネモネによく似た花へ向けて細められる。咲き始めの紫の花弁が、先程より少しだけ綻んでいるような気がした。
木箱の上で膝を抱えて瞼を閉じる。雨音に紛れて、遠雷が轟くのが微かに耳へ届く。心地の良い響きだった。これが、傍らに咲く花がいつも知覚している世界だ。
「素敵だね。雨が上がるまでの間、ボクにもキミの世界を聴かせてね」
瞼を閉じたままの呟きだったけれど、きっと花は受け入れてくれただろうと思う。雨音と遠雷の中に、キミの待ち人を思い描くことを許してくれる、やさしい花。
「その人を待つ時間の中に、ボクを入れてくれてありがとう」
冷たい冬の雨は変わらず降り続けていた。けれど、今はまだそれで良いと思えている。小さな庭から離れ難くなっている璃緒にとって、この雨は一番都合の良い理由になったから。