春浅きオブシディアン
「こんにちは、何かお探しですか?」
普段なら店内に入って来ない客に進んで声を掛けたりはしない。ウインドウショッピング中の人間の殆どが、店員に話し掛けられるのを嫌うことを知っているからだ。ショーウインドウ越しに春服を眺めていた黒ずくめの女性客もそうである可能性は否めなかったけれど、彼女の佇まいに妙に惹かれてしまって、つい表にまで出てきてしまった。
突然声を掛けたにも関わらず、その人は忌避すること無く私の目を見る。艶やかな黒髪に劣らず深い黒色をした瞳が印象的な人だった。
「春服を探しているんだ。最近、少し暖かくなってきたものだから」
「そうなんですね。良かったら中も見て行かれませんか? お勧めできるものがいくつかあるので」
「そう? それじゃあ、お言葉に甘えて」
薄く微笑む彼女はそう言うと、素直に私の後について店内へ足を踏み入れる。うちの店は電気灯のようなぼんやりとした照明を採用しているので明度は高くない。けれど、そんな中に在ってもその人は不思議な存在感を放っていた。よく見れば、長い黒髪の先は朝焼けのように白んでいる。
「お好きな服のタイプはありますか? 逆に苦手なものとか」
「苦手……は特に無いかな。ただ、今までずっとシンプルな黒いのしか着てこなくてね。それ以外はどんなものを選べばいいのか、まだよく分からないんだ」
ハンガー掛けのフレアスカートを手に取って眺めながら言うその人の声は、言葉のわりにはあまり悩んでいる響きがこもっていない。分からない、という状況すらも緩く楽しんでいるような、そんな空気だった。
「明るい色とか淡い色も興味はあるけど、あまり想像がつかないんだよ」
「膨張色でもあるので、物によっては体型すら変わって見えますもんね」
それを理由にパステルカラーを避ける人も一定数いる。でも、ただでさえ春服を楽しめる期間は短い。せっかくなら春らしい色を楽しんでほしい、というのは売る側としての本音だった。
「こちらとか如何ですか? 着方によっては初夏ぐらいまで着れるワンピースです」
ワンピース類をまとめて並べているラックから取り出したのは白いワンピース。胸下で切り替えるエンパイアラインが優雅な印象を与えるデザインだ。半袖なので風通しは良く、生地も秋冬ほど厚くはないので夏でも通用すると私は思っている。デコルテが広く見えるデザインだが、彼女のミステリアスな空気にはよく似合うだろう。
「真っ白か。いいね、黒の次に選びやすい色だ」
「ええ。明るい上に、他の色と合わせやすくもあるんですよ」
説明しながら次にラックから外したのは、スリットスリーブジャケット。普通に見れば軽く羽織れるジャケットでしかないが、袖には深いスリットが入っていてそこから腕を出すことができるデザインだ。先程のワンピースと合わせれば、外へ流れる袖がより品のある印象を際立てる。
「お勧めはこのミントグリーンですね。グリーンといっても本当に薄くて淡い色で、明るいけど落ち着いた印象を損なわないと思います。それに、これは生地がレース状のシースルーになっているので、軽やかで涼しげに見えます」
ほら、と言って女性の目の前にスリットスリーブジャケットを広げて見せる。レースで大きく描かれている花は芍薬。よくよく見なければ分からない模様ではあるけれど、こういった「見つけた人には分かる」という要素が私は好きだった。
「なるほど、だから初夏まで着れるんだね」
柔らかく笑って言うその人の視線は、レースの芍薬へ向いている。なんだかこちらの意図を理解してくれたように思えて面映ゆい。「寒の戻りの日にはちょっと寒いかもですが」と、照れ笑いで誤魔化した。
「これに靴を合わせるのならどんなものが良いかな。今履いているブーツも嫌いではないけど、黒いから浮きそうで」
「パンプスとかどうでしょう? パンプスの面積なら暗めの色でも逆に締まって見えますよ。服との統一感を出したいなら、同系色も有りですね」
靴の品揃えは少ないが、その中のいくつかを箱から出して並べてみる。色々と照らし合わせた結果、私からお勧めしたのはエメラルドグリーンのパンプスだ。先程のジャケットと同系色ではありつつも、その深緑のおかげで全体のぼんやりした印象をくっきりさせてくれた。ヒールの高さも今のブーツと同じぐらいなので履きやすいだろう。本人の好みに合わなければ無駄に終わるが、好きにセレクトできた私の気分は満足なので惜しくは……
「じゃあ、今選んでもらったもの全て買おうかな」
「えっ」
あまりにもあっさりとした購入宣言に、販売員としてあるまじき反応をしてしまう。その人は特に咎めるでもなく、変わらず微笑んだまま首を傾げていた。
「あ、ありがとうございます。いきなりお声掛けしたのに……」
「何も分からない身からすれば有難かったよ」
試着も勧めたけれど、自宅でゆっくり試したいからと断られた。事も無げにそう言える彼女は、きっと余裕がある人なんだろうと思う。
「第三者から見て〝似合うもの〟を選んでもらったんだ。きっと間違いは無い。多少なら体の方を服のサイズに合わせられるしね」
最後の言葉の意味はよく分からない。体型を変える、だなんて俳優さんのインタビューでぐらいしか聞いたことが無い。実際そうだと言われたのなら信じかねないぐらい、彼女は美人だけれど。
綺麗に畳み直した服一式と専用の箱へしまったパンプスを、「大事にしてもらうんだよ」などと思いながら大きめのショッパーへ入れる。会計を終え、店の出入口まで見送る流れで手渡せば、その女性は改めて私に謝意を告げた。
「おかげで有意義な買い物になったよ、ありがとう」
同性でもドキッとするような微笑みに、自分が惚けていたことに気付く。「またのご来店を」と返す頃には、既に彼女は人混みへ向けて歩き出してしまっていた。その後ろ姿をぼんやりと見送る。あんなに人目を惹く人なのに、あっという間に雑踏に紛れて見えなくなってしまった。
あまりの現実味の無さに、もしかしたら春の陽気が見せた夢だったのかも、なんて。そんな世迷言は、少し隙間が空いたラックが否定していた。