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初契

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千木良・玖音

 千なる木には血が交わり、千代の後、地には繁栄が満ちたり。
 嘘とも真ともつかぬ夢占いを頭から信じ切り、くだらぬ|咒《まじな》いに身を窶し、千木良の始祖たる男は千の血を集めようとしたのだという。子を成したなら伴侶の血を千の木に捧ぐ。子が成せぬ歳になったならば己もまた贄となる。かくて地に染みた千代の血が、永遠の豊穣を約束するものであると、男は終ぞ信じて逝ったらしい。
 己が何代目であるのか、女は知らない。教えられたはずが覚えていない。或いはあまりに荒唐無稽であるせいで、自ずから忘れることにしたのだったか。
 当代の千木良は子を孕んだ。
 だから愛した伴侶は埋められた。生き血を一滴残らず搾り取らんとする親族の手によって、苦渋と苦悶の断末魔すら途絶えて死んだ。血を吸ってなおも青々と茂る木々の合間に蒔かれた血の他に、遺った骸は不要物と纏められて捨てられたのを知っている。
 斯様な儀式を繰り返すうち、疑義を抱いた者どもは家を離れてどこへともなく姿を消していったという。女の知るうちでも、懇意だった子供らが成長するにつれて家に背を向けた例は一つや二つではない。果てにも千木良に残った僅かの親族たちは、それを繁栄に対する裏切りだと罵っては憤った。
 女は――。
 千木良を継ぐ宗家の血だけは、逃亡が許されぬことを知っていた。
 女であるからには最低一人でも子を孕まねばならない。隙をついて逃げ出すことを何度も考えた。殊に愛する人が出来てからは、二人でこの呪縛を逃れることばかりを考えて来た。結局のところ、その浅知恵は何らの意味もなさぬまま、子を孕んだ女の前から愛する伴侶は奪われた。
 親族たちは、また婿を取れば良いと、こともなげに言った。
 もはやここまでだ――と、女は悟った。
 手にした出刃包丁は台所にあったものだ。身重の体には些かならず重かったが、それも関係のないことだった。力を振り絞り、父母を、祖父母を、親族たちを貫いて、女は新雪の真白に血の痕を残しながら体を引き摺り当て所なく歩いた。
 覚束ない足取りが極寒を割く。どれほど逃れようと彷徨ったところで行きつく先が一つしかないのは、狭い世界でのみ生きることを許されて来た女にこそ分かっていたことであった。
 千の木が植わる地。
 ――千木良の墓所である。
 肩から力が抜けた。何も考えず、せめてこの場所から遠ざかりたいと考えた果てに辿り着くのがここであるというなら、女は疾うに|千木良の者《・・・・・》であることをやめられない。諦観の吐息にもはや涙の乗ることすらなく、彼女は己が命運を受け入れた。
 己が逃れることは出来ない。この地に眠る怨嗟の念から目を背けるには、荒唐無稽な因習に深く浸りすぎた。だからせめて、この地に捧げられる血の最後の一滴になる。
 胎の中の――愛しい子ごと。
 膨らんだ腹を撫でながら、女は静かに木の一本へ身を預けた。目を閉じれば思い浮かぶのは咲き誇るカルミアの彩りだ。春になれば地に還る体は、きっと花々を鮮やかに煌めかせるだろう。
 女は愛した人との子を道連れにすることの罪深さを理解している。本来であれば祝福されるべき、何らの罪もない子に命を紡ぐことすらさせない罪業を呑み込んでいる。母としての想いは己の末路よりも子を死なせてしまうことを悲しんで、今もまだ取って返したい衝動が心に蟠っている。
 それでも、女は許せなかった。
 あの家に留まれば大切に育てるべき子に己と同じ運命を強いることになる。籠のような部屋に閉じ込められ、外に出られても一族の湿った視線に晒され続ける。いずれ人を愛することがあったとして――。
 伴侶に子を抱いてもらうどころか、顔を見せることすら叶わない。ただ苦悶の裡に死んでいく愛しい面影の生き血が、千木良の言い伝えのために無情に撒き散らされるのを見送ることしか出来ないのだ。
 生まれる前から誰よりも大切な我が子に、分かり切った苦しみを背負わせることが耐え難かった。たとえ己が地獄でいかなる罰を受けるのだとしても、先祖より代々伝わって来た悲願を永劫に叶わぬものにするのだとしても、女は胎に宿った子供の命ごと全てを終わらせることに決めた。
 冷たい雪の感触が体温を奪っていく。まどろみに似た死の気配は思うよりも安穏としていた。このまま己の命は消えるのだ。千の木に纏わる世迷言が再び地に蔓延ることもないだろう。親族たちの血は無意味に乾いて、彼らの悲願の礎となることさえない。
 ただ。
 女の心に深く刻まれていた未練と後悔が祈りとなった。抱えた腹の、母体と共に命尽きるのだろう子に未来は望めない。それでも千木良に纏わる全ての怨嗟をこの子が背負う必要もない。
 どうか――もしもこの世に|次《・》があるとするならば。
 この地で眠ることすら出来ないのだろう怨嗟の群れに報復されても良い。見て見ぬふりをして来たのは事実だからだ。逃げおおせることが出来ずに、結局は伴侶を捧げてしまったことも、たとえようもない罪であるからだ。何より彼らを死に追いやった者たちの血を、女が最も強く継いでいるからだ。
 代わりにこの子を助けて欲しい。無垢な魂を赦して欲しい。その分だけ女が罰を与えられても構わない。この子が千木良の血に苦しめられることもなく、自由に世界を旅して、己の見たいものを見ることが出来るなら――。
 その光景を見ることが叶わずとも、女は幸福だ。
 祈りは途切れる。しかし誰が聞き遂げたのかも分からぬ切なる願いは因果を紡ぎ、望みは繋がれた。一人分の息とともに尽きた二つの魂のうちより、罪なき無垢なる一つが掬い上げられる。
 裏切りの果てに肉は滅びた。血は尽きた。しかし地に染みることなく拾い上げられたか弱い一滴の魂は、母となるはずだった者の祈りを宿して希望となった。満ちる怨嗟の毒を吸い、なお鮮やかに咲き乱れるカルミアが芽吹く頃、どこかへ消えた女の骸の代わりに寝息を立てる身を得ることとなる。
 やがて、少女の形を成した|それ《・・》は、春告げと共に目を開けた。最初から何をも持たず、|茫洋《ぼんやり》と辺りを見回した幼い双眸に、満開のカルミアが祝福するように寄り添っていた。
 契りは九つ。
 血を切り、地を切り、知を切って、千をも切った娘――いつか千木良・玖音(九契・h01131)と呼ばれる娘は立ち上がる。己に連なる全てを知らず、その災も幸も知らぬまま、足取りは好奇心の轍を追い始める。
 いつか辿り着く真実の先に何を思うとも、今は知らずに。

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