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春雷
●Accident
|緋幽楼《ひゆうろう》という九重からなる高い塔がある。
雄大な山々を背にして麓に屹立する緋幽楼は、外観は仏塔によく似てはいるが内部はレストランで、階によって和風、洋風、中華風とテーマが異なっているのが特徴的。塔周辺は仲秋の頃になると、植栽された千本近い彼岸花が一斉に見頃を迎え、彼岸花の絨毯で赤く染まることから近年注目を浴びている観光名所なのだ。
だがそれも、秋が終われば閑古鳥が鳴く始末。今は漸う咲き誇る絢爛な桜に心も客足も奪われてしまっている。
桜も開花期間が短く春の儚い風物詩。いっとき人々の関心をひとからげに持っていかれても致し方のない事だと、緋幽楼のオーナーは自分に言い聞かせていた。なにせ自分も桜が好きだから。
屋根の上で胡坐を組んで、山々に儚く咲く桜を眺めながら盃を傾けていたオーナーは、ふと閃いた。
「いっそ塔を桜の木にしちまうか? ……なーんて」
「それ、くおんが手伝ってあげよっか?」
また莫迦なことをと従業員からの非難が飛んでくるかと思ったのに。聞こえてきたのはどこかあどけない、無邪気な少女の声だった――。
●Caution
「桜の木に、なっちゃっているそうです」
何が、という皆の心の声が聞こえるのか物部・真宵(憂宵・h02423)は微苦笑を浮かべて「塔が」一言添えた。
「緋幽楼はほんとうに高い塔でして。それが丸ごと桜の木に変わっちゃったものですから、それはもう見事で」
人々の関心が再び緋幽楼に向くのはオーナーとしても嬉しかろう。
しかし、その原因が古妖が関係しているとなれば話は別だ。気配を察した従業員一同が駆けつけたときにはすでに遅く、九重の塔は空を覆い尽くさんと枝を伸ばし、見るもの全てを蠱惑する巨大な桜の木に変じていたそうな。
「ちなみにオーナーの鬼ぃさんはぐるぐるの簀巻きにされて座敷牢に閉じ込められているそうです……ほんとうかしら、これ」
手元の黒革手帳に視線を落とし、真宵が思わず素を零してしまうほど、すでにオーナーは袋叩きにあっているらしい。彼が封印を解いた訳ではなさそうだが、古妖がすでに放たれているならば、やることは一つだけ。
「確認された古妖は銀鐘・九音。稲妻や特異な雷妖を放ち操るそうです」
九音は桜に変じた緋幽楼の最上階に居るという。どうやら、桜の木の内部は塔の名残りがあるらしく、面影を残した奇妙建築が張り巡らされている様子。
「ただ、この九音が桜の木に変えたわけではなさそうなんですよね……」
視えたのは灰を被ったような髪の少女たちと、その姿を掻き消すように無限の襖や障子が一人でに閉じ、道を塞ぎ、古妖を涯てへと隠してゆく妖しげな光景。
「おそらく皆さんの行動次第で道が変わるものと思われます」
それからもう一つ、緋幽楼への道が歪められていることが判明した。
本来、町から塔までは森を抜ける遊歩道になっていて、秋には木々の隙間を埋めるように炯々と燃ゆる赤い彼岸花が涯てにまで広がる光景を楽しめるという。
だが、遊歩道へと一歩足を踏み入れると、その者が心に残っている風景に変わるらしい。それは己が最も記憶している道かもしれないし、なにか嫌な思い出の残るトラウマの道かもしれない。意中の人に逢いに行くための心躍る道のこともあるようだ。
「――雨が、降っているそうです」
雷を操る九音の影響か、夜行から古くより語り継がれる事象が姿を現した。
夕暮れ。陽が山の稜線に傾き宵が広がる頃、空は晴れているのにしとしと雨が降りしきる。
ただの雨ではない。この雨に触れてしまうと幻覚に呑まれるという。ゆえに、必ず傘を持っていくようにと真宵はすこし真剣な面持ちで助言した。
「身を隠すには、花の傘をさせば良い。そんな言い伝えがあります」
もし雨に触れてしまえば、変じた風景に何かしらの幻が現れるかもしれない。それが己のトラウマであった場合には、くれぐれも用心してほしい。もちろん、意中の人が姿を見せてくれても、それは幻だから誘惑されてはだめ。
「ですが、雨には魔力の残滓が交じっているようです。これに触れれば、緋幽楼を桜の木に変えてしまった者に辿り着くことが出来やもしれません」
しかし、此度の目的は古妖の九音を倒すこと。無理に雨に触れて心を削るような真似はしなくていいと真宵は念押しした。
「好奇心は猫を殺すと言いますからね。無茶をしてはいけませんよ?」
場を和ませるためにか、真宵の口調がちょっぴり明るくなる。
「道中、お気を付けくださいね。桜に惑わされず無事に戻られることを祈っております」
それまで腕の中で眠っていたこぱんだがぬくりと起き出し「いってらっしゃーい」と手をふりふりして、みなを送り出してくれた。
これまでのお話
第1章 冒険 『雨月語り』
絹糸のような雨だった。
涯てに咲き綻んだ桜の輪郭を淡く滲ませる雨粒が、ほとり落ちて足元を打つ。静かに降りしきる雨は冷たいけれど、天から降りてくる雫は浮世の穢れを祓うかのように透き通っていて美しい。
けれど、この地には夕刻に降る天気雨に触れてはならぬという言い伝えがある。
――ぱたた。
雨垂れが葉を叩く音、靴裏が水たまりに波紋を広げる音、密やかに奏でる音色に耳を欹てていると、傘の上に何かが落ちてきた。見上げると、ちいさな影が出来ている。
見てはだめだ。
きっと傘を傾けさせて雨に触れるように仕組んでいるに違いない。歩を進めると、ころりと後ろで何かが落ちた。白くて大振りの花が、たっぷりと水気を含んで転がっている。どうやら庭木から零れ落ちた白木蓮のようだった。
ここは足を踏み入れた者の心象風景を写す水鏡のごとし道。心に咲く花があれば季節を問わずに芽吹き、または季節をも変えてしまうかもしれない。
雨粒に触れたならそれは色濃く、心を惑わすだろう。逢いたいと願う者に、はたまた二度と会いたくないと思う者が現れるやも。
幻覚に呑まれないように花の傘を差して過ぎゆくか、あるいは幻覚を利用して敵の残滓を掴んで塔を目指すのか、ふたつにひとつ。
――しとしと、ぽとり。
雨が、降りしきっている。
冷たい雨だった。
くるりと花傘を回すと、しとどに濡れた小路に雫が跳ねる。薄曇りの空は低く垂れこめて今にも落ちてきそう。
――ぽん。ぽぽん。
傘を弾む雨音に耳を揺らしたリリアーニャ・リアディオ(深淵の爪先・h00102)は、まるでここに己が在るのだと示すかのように、こつりこつりと靴音を立ててひとり往く。
(魔力の残滓……ね)
浮世を透いた透明な雨粒のひとつひとつに、はたして幾ばくの魔力が残っているというのだろう。魔女としての好奇心が、身を守るはずの花傘を無価値に蹴落とそうとする。
けれど「兎は好奇心には殺されない」という驕りがリリアーニャの|裡《うち》にあった。それはおそらく見る者によっては「油断」だと指摘するような、過信。
どうせ視える幻など|赤の彼女《姉》以外居ないのだから、予想がつくものであれば心構えもできるし、なにより不意を突かれずに済む。
花傘を傾けると、ふちを彩るように枝垂れた吊るし飾りが揺れて視界をわずかに遮った。天から降りしきる冷たい雫がリリアーニャの睫毛を、頬を、差し出した手のひらに落ちてくる。
――冷たい。
思う矢庭に、細い小路の先、|涯《は》ての|昏《くら》がりから、ひた、ひた、と裸足の足跡がひとつ、ふたつ。明確にこちらに近付いてきていた。
それは思わず顔を顰めたくなるほどの見窄らしいボロを纏っていた。衣と呼ぶことすら烏滸がましい。引きずるように歩くのは足枷に囚われているから。ず、ずず、と重たい鎖を引きずり己の|存在証明《足跡》を掻き消しながら現れたのは、地下室に閉じ込められていた、かつての幼き自分であった。
『わたしを置いていくの?』
息を呑んだまま、呼吸が止まる。
指先が触れてしまえば泣き出してしまいそうなのに、碧を宿す双眸はこの世の全てを恨んで、怨みぬいたような眼差しで|わたし《自分》を見ている。
『わたしと一緒にここにいて』
足元から昏い闇が広がり、飲み込もうとする。
闇を怖れることはなかった。心臓はひどく凪いで、ただ怨嗟の嘆きと静かな雨音を聞いている。
ひとりで抜け出してくれるなと、|わたし《・・・》が確かに言っている。
幼いわたしは、どんな言葉をかけられたら救われたのだろう。なんて、言ってほしかったのだろう。
耳を澄ませても、答えは聞こえてこない。でも脈打つ心臓だけが、きっとほんとうの音。
ふわり、ふぅわり。
金継ぎされた陶器のような美しい骨灰磁器の尾鰭を揺らめかせながら、白・とわ(白比丘尼・h02033)は遊歩道をひとり|游《およ》ぐ。
花傘に落ちて弾む音色、降りしきる雫が浮世を洗う雨音はまるで子守唄のようにやさしくて、ゆえにかとわは気が付けば游ぐのを止め、逢魔時の|演奏会《コンサート》に聞き入ってしまった。
――ぽとり。
白皙の頬に一滴の冷たさが落ちてきて、意識が戻る。
伏せていた睫毛を持ち上げると、己に幽かな影を落として身を護ってくれていた傘が、傾いていた。慌てたとわは雨粒を拭おうと白魚のような指先を頬に寄せた、そのとき。
ひんやりとした冷たい指の背が雫を掬いとった。指先は迷う素振りもなく、白壁を乗り越えるように枝を伸ばした白木蓮にそっと雫を寄せると、あとはもう役目を終えたとばかりに腕が下りるだけ。
「……よかった」
満月の双眸が、やわらかに弛む。
驚いたのも一瞬。ほう、と安堵の吐息を零したとわは、目口を柔和に下げて微笑むと、やさしい濡羽色の眼差しがあの頃より少し近くなっていることに気が付いた。
「背が伸びましたね。でも、今のとわでは同じくらいかしら」
傘を差していないのに、纏った黒い袈裟は露とも濡れておらず、とわに話しかけられても応えることはなく静かに佇んでいる。
何も話さず、答えず、語らず、ただ己だけを見つめているだけの僧侶に、とわはなんだか、たまらない気持ちになってしまう。
――でも、貴方が来てくれた。
幻だとしても逢えてうれしい。
それなのに。とわはたった一人の弟のことを、何も知らなかった。心を映す水鏡が、こうして巡り逢わせてくれたというのに。なんて言葉をかけていいのかも、何を話したかったのかも、とつぜん分からなくってしまった。
「いつか、本当のあなたに逢いたい」
笑いもせず、泣きもせず。けれど濡羽色の瞳は黄昏の光を美しく宿したまま、とわを見つめている。
――どうか、待っていてね。
そろりと指先を持ち上げる。何も言わないのをいいことに、とわはそっと手を伸ばしてみた。
雨を透いた幻は、深海のようにひどく冷たかった。
宙を舞うように、しとしと静かな雨が降りしきっている。
ちいさな雨粒は透明な雫石となって花びらを彩り、あるいは弾んで幽かな音色を奏でてはフルール・ペタル(花揺籠・h05932)の耳朶に添う。
「あら、とてもきれいな場所ね」
瞬きの間に遊歩道は春の花が芽吹き|咲《わら》う小路へと移ろっていた。小さく息を吸ってみるも、肺を満たすのは冷たい雨の香りだけ。
薄紙のような花びらが儚く広がるポピー、枝を伸ばして爽やかでやさしく甘い香りで誘うライラック、地平線を描くように|涯《は》てまで広がる黄色の菜の花、雨に揺られて白、ピンク、紫色が揺れる愛らしいアネモネ。
桜とカスミソウの花が零れるように咲く傘をくるりくるりと回しながら、フルールはいくつもの花畑を軽やかに弾むように心躍らせ通り過ぎてゆく。
「次はどんなお花かしら?」
言い終わるが先か、一面が真白に広がるのが先か。次なる花畑は、ちいさなちいさなシロツメクサ。
フルールの歩みが止まったのは、シロツメクサに気が付いたからではない。ふわりと鼻先を舞った白に意識が奪われたから。オパールの輝きを宿したような双眸が舞う白を無意識に追いかけて、気が付けば指先が花傘の外へと伸びてしまう。
蠱惑するように舞う白いハンカチに触れた瞬間、美しい世界は一変した。
真白のシロツメクサは落とされた一滴の赤を喰らい、瞬く間に火の海となり、天を押し上げ、霧雨を蒸発させるほどの苛烈さを極めている。吸い込んだ空気が肺を焦がすほどに熱い気がした。
「い、いや……! やめてっ! 私のたいせつなものをとらないで!」
花傘を放り出し、耳を抑えて蹲る。
どく、どく、どく。鼓膜に押し当てたような拍動がフルールの意識を攪拌する。座っているのに世界がぐるぐる回っているような気持ち悪さに眩暈がして、必死で呼吸のリズムを整えて、それから――それから?
「あら?」
はたと気が付いたとき、惑うように揺らめいていたオパールの色彩は、もう何も映してはいなかった。先ほど見た|色《赤》など忘れて、すっくと立ち上がる。
「……私、なにをしていのだったかしら。すこぅしお洋服がよごれてしまっているわ?」
雨粒と少しの土、それから桜の花びらを纏った裾を手で払いのけ、転げ落ちていた花傘を手にすれば元通り。
視線を持ち上げると、涯てに見たことも無いくらい大きな木が一本。
「まぁっ! 桜? こんなにおおきい子ははじめて!」
元来た道に、黄色やピンク、紫に白の花びらが点々と落ちていることにも気付かず、桜に意識が傾いたフルールは躍るような足取りで淡い花色を目指して駆けだした。
――|赤《炎》から、逃れるように。
世界は、やけに静かだ。
耳朶に届くのは降りしきる幽かな雨音と、時おり思い出したように落ちてくる雨垂れが葉を打つ音くらい。雨夜・氷月(壊月・h00493)は、己の心象風景を映す道とやらを前にして、心の裡がどんな景色を灯すのか興味があった。
くるり、くるり。咲き零れるような花傘を回すと、はらはらと花びらが雨粒と一緒に落ちてゆく。花で雨から身を守るというのも中々風流ではないか。誰を気にするでもなく自分のペースで雨の中を歩くのもたまにはいい。
塔へと通じているという小路へと踏み出した氷月は、しとしと雨が花傘を叩く音に耳を傾けながらひとり往く。
寂しい小路だった。ただ道を挟むように、あるいは道を作るように紫陽花の低木が湾曲を描いて|涯《は》てに連なっているだけの。
「……紫陽花? 雨の日の紫陽花かあ……」
静かな雨に打たれる青い花は、氷月に懐かしさを寄こす。
このような風景を、見た気がする。
(ドコで見た……?)
――日が暮れ、じきに『雨夜』になるのだと
――これが、あめ……?
――こんな ひ でも
――おまえの |ひとみ《つき》 は かがやいてるね って
は、と唇からまろび出た吐息は掠れていた。
歪な記憶が針となって心臓を突き刺し、抉ることで呼気することも許されないくらいに軋ませる。両目を見開いたまま氷月は紫陽花を見つめている。あるいは、紫陽花を透かして、いつかの記憶を辿ろうとしているのかもしれなかった。
(会話はなんとなく浮かぶのに、顔は全く思い出せない)
それはあたたかな記憶の、そのはずだった。
それなのに氷を滑らせたように背筋がどんどん冷えていき、血色を失った唇が戦慄いて、傘の柄を握る指先が幽かに震えている。
――これに。
雨に触れれば、何か手掛かりが――いっそ答えが得られるのかもしれない。
けれど腕を伸ばしてしまえば、もう帰れなくなりそうで。氷月は花傘の内でじっと佇んでいる。
――帰る。
――どこに?
吹き過ぎる冷たい風が氷月の頬を撫でた。慰めにもならぬそれは、揺らいだ心を留めただけ。
「……少なくとも今まで通りではなくなる、かな」
言葉にしてしまうと真実味が溢れてくる。
たまらず自嘲を零した氷月は、紫陽花には目もくれず小路を進むことにした。真っ直ぐに、示されたレールをなぞるように。
「今はやる事があるしね」
好奇心を抑えておこう。
|そのとき《・・・・》は、きっと今日ではない、はずだ。
――こつり。
小路を鳴らす踵が止まる。
歩を進める度に衣から花びらを散らしていた蓬平・藍花(彼誰行灯・h06110)は、肩に乗せていた妖精猫・|珠花《シュカ》に頬を寄せながら、眼前に屹立する幽玄な桜を仰いでいる。
開いた藤花の蛇の目傘の下から覗く眼差しは、とろとろに煮詰めたブルーベリーのジャムみたい。くるりと傘を回すと光を透いた藤の影が瞳に宿る。
(これも……狐の嫁入り、というのかしら……?)
そろりと濡れぬように気を付けながら天を見て、やはり戻る視線は桜木へ。
これが狐の嫁入りというならば、|化かされる《幻覚に呑まれる》というのも納得だ。
「……珠花、囚われてるヒトがいるらしいの……」
そうっと珠花の額を撫でると、甘い鳴き声が耳元でひとつ。
ならば、敢えて化かされるのも一興では、ないだろうか。そう思う傍ら珠花を送り出した藍花は、ちいさく呼気すると花傘の下からそろり手を伸ばす。
――冷たい。
まだ終わらぬ冬の一滴を落としたような凍える冷たさが白い皮膚に触れ、染みるように消えてゆく。そのさまをじっと見つめていた藍花は、瞬きした瞬間、背後に誰ぞの気配を感じて振り返る。
降りしきる雨の中、静かに佇んでいるのは藍花と揃いの、けれど色違いの姿貌をした戀しいひと。
――ああ……。
身体ごと振り返り、爪先が向く。足を踏み出したいのに、動けなくて。動いては、いけない気がして。藍花は唇をやわく噛む。
老いさらばえてしまうのは仕方のないことだ。布団の住人となり上体を起こすことも難しくなってしまうのも、おそらく必然。至極、当然のこと。アノ子がそうなってしまう前に、最後の散歩に寄り添ったあの日の思い出が呼び覚まされ、藍花の喉奥を引き絞るように苦しくさせる。
――忘れてもいいの
――寧ろ、忘れなさい
アノ子は、藍花の幸せを願って突き放した。
藍花にはそれがほんとうのさいわいなのか未だ分からない。かくも人の世というのは、どうにも難しい。覚える様々な感情に振り回されているばかりで、ままならない日々を過ごしている。
掴んだ|糸《残滓》の代償は、そんな泣きたくなるくらい綺麗な、|桜吹雪《笑顔》――。
惑うなという方が酷な痛みを胸に、藍花は望む縁の糸を紡ぎ、結び、指に絡めて、それでもこのいとおしい浮世を歩いていく。藍花は百年使われていた糸切鋏の付喪神だから。
「九重の塔が桜の大樹に変わる……?」
|涯《は》てに見える幽玄な桜が件のそれであるのだろうか。緇・カナト(hellhound・h02325)は√妖怪百鬼夜行の不思議現象とは何でもありなのだなぁと、花傘の下で首を傾いでいた。
「緋幽楼という塔も気になるが、桜の大樹に変わっているとはなぁ。さすがは√妖怪百鬼夜行らしい春だな!」
そう言ってからころ笑っているトゥルエノ・トニトルス(coup de foudre・h06535)にカナトはゆっくり首を振る。
「……違ったろうか?」
しかし現に巨大な桜は浮世を喰らわんとする勢いで枝を伸ばしているし、ずいぶん|珍《めずら》かなる様相の春を描いているけれど。
ふたりはその真実を突き止めるべく遊歩道へと踏み出した。
――ぱた、ぱた。
傘を細く打つ音、濡れた地面を踏み締める足音、耳朶をくすぐるように吹き過ぎる透明な風だけが、いま世界にある。
「雨に濡れれば見たいモノが映るらしいが、主はなにか望むものは有りそうか?」
「心象風景を写す雨、ねェ……」
今は特に望むようなものも、見たい景色が有る訳でもない。
そうと聞いて、トゥルエノは安心したようにこくりと頷く。
「無ければ気に留める必要はないな〜」
「幻覚に呑まれないよう花の傘を差して歩くか」
大輪が咲いたような花びらが零れる花傘をくるりくるりと悪戯に回しながら歩くのは、春雷みたいな雷の精霊。およそそちらの光景の方が珍しい気もするが、と内心でカナトは小さく肩を竦めている。
不思議な天気雨の下で花の傘を咲かせて、触れてはいけない雨音に耳を傾ける。
「雷の精としては有難い気候であるが、悪しき雨とあっては頂けないからなぁ」
しとしと、ぴちゃん。世界に楽し気な音色をお裾分けして歩を進めるトゥルエノ。
どこかほんのりと楽し気な気持ちを窺わせる口角の上がった横顔を盗み見て、カナトはゆるり蛇行するような小路へ視線を巡らせた。
(水鏡を映したところで、結局……幻覚でしかないのだろう)
果たしてそれにどれほどの、幾ばかりの意味があるというのか。あるいは、もしひとりでこの地へ訪れていたら、好奇心は疼き鳴いただろうか。
――冷たい雨が降りしきっている。
息を吸えば喉や肺をひやりと撫でて、けれどそれはすこし心地良い。雨音だけが響く道のりは、ふわり立ち昇るペトリコールを思わせる匂いで満ちていた。
(我が主も望めば叶えるが、望まぬのであれば在るがまま)
花傘を少し傾けて、そうっと主の顔を覗き見る。
雨に触れぬと決めたなら、ここは脅威のないただの小路でしかなく。ならば束の間の散歩と呼んでも差支えがない。
「偶には並んで傘差す景色も良きものだなぁ。なぁ、主よ?」
トゥルエノは自身が濡れぬ程度に花傘を傾けると、カナトに向かって澄んだ青を宿す瞳を細めて笑う。
現実はそこまで忌避するようなものではなく、燥ぐような其れも近くにいるのであれば。
「こういう歩みも悪くはないのだろう、屹度」
――ぱた。ぱたた。
花傘を弾む雨音がカナトの背を叩く。けれど聞こえぬふりをして、ただ世界を洗う透き通った雨粒と、傍らの雷獣がてくてく楽し気に歩く音だけに意識を傾ける。
「大樹に変わった塔の内部は、どうなっているのであろうな?」
「奇妙建築が張り巡らされていると言っていたが」
「内部も桜が咲いていると面白いのだがな~」
通り過ぎた小路に、ぽとんと白木蓮がまろび落ちている。ふたりはそれに気付くことなく、振り返りもせず涯てを目指して歩いていく――。
――赤い。
まるでこの世界は赤色で創られたのかと思うほどに、眼前に広がる光景は鮮烈だった。
がらくたに成り下がったパーツ、破壊された営みの瓦礫、燻る火は大地を焦がし、点在する血だまりの輪郭をなぞっている。焼け焦げた布切れは圧倒的な力に蹂躙された何者かの存在をことさらのように示していた。
そんな無機質な世界を真っ赤な夕陽が照らしている。
(ここは√ウォーゾーンの戦場だ)
引き結んだ唇の奥で唾を飲み込んだクラウス・イーザリーには見覚えがあった。なぜなら|Anker《親友》が、クラウスを庇って命を落とした場所なのだから、どうして忘れられようか。
「……ティアにも、見えてる?」
声は震えていた。
何度も、何度も何度も何度も夢に見た。
ありとあらゆる敵の能力で強制的に|事実《現実》を突き付けられてきたが、慣れることができない光景は今なおクラウスを苦しませる。
迷子になったようなか細い声に問われたシスティア・エレノイア(幻月・h10223)は、それまで縫いとめていた美しい戦場からそろりと視線を剥がして落とす。
「……うん。見えてるよ。……クラウスの故郷、だね」
システィアは|彼の故郷《√ウォーゾーン》に馴染みがなかった。けれど一目見てここは、彼の心の中にいつまでも在り続ける風景なのだと察していた。
(もう争いは終わっているのだろうか)
戦場にしては驚くほど、風すらも凪いだように静かな景色に目を眇め、祈る手を握りながら顔を伏せると、そっと吐息するように囁いた。
「悲しいくらい、綺麗な夕焼け。――勇敢な人々が今も、安らかな眠りの中にいますように」
ふたりは手を握り合いながら、互いを支えるように歩き出す。
いま出来たばかりかと見紛うほどの赤黒い血だまりや、夕陽を強く照り返す装備品の破片。実際に触れられるのかまでは分からないが、例え幻覚であったとしてもわざわざ踏むような真似が出来るはずもない。何より、その中に亡くなった彼や学徒兵の物がないとは限らないのだから。
「ねぇ、クラウス。手、あったかいね」
どれほど歩いたろうか。
どこか具合が悪そうに、段々と視線が落ちていくクラウスの横顔にシスティアの言葉が投げかけられる。その声音はやさしくて、ひどく安心した。
ひとりだと足を止めてしまっていたかもしれない。この戦場を歩けなかったかもしれない。
「……うん、あったかい」
縋るように手のひらを握り込んだクラウスは、隣に寄り添ってくれる存在に励まされた思いがして、視線が上向く。焼けつくような赤い世界を真っ直ぐに見据えて、彼と一緒に歩いていく。
――けれど。
「あの血溜まり、親友のものなんだ」
それは、幾度となく見た光景。
血溜まりを見分けられる者など、果たしてこの世に何人いるだろう。
「俺を庇って、ああなった」
悲劇の場所をクラウスは何度も見させられた。どんな風に彼が朽ちていくことになったのかも、詳細に説明できてしまうくらいに。
「もう受け入れたつもりでも、時々こうやって思い出して……俺が死ぬべきだったと思ってしまう」
ずっと過去に縛られたままだ。
それは後悔というよりは、自嘲だった。幾度となく向き合わされその度になんとか気持ちに折り合いをつけようとするのだが、結局この思いに帰結してしまう。
たくさんの人と知り合い、交流し、背中を預けられるひとも出来たというのに、いつまでもクラウスの心はこの戦場に繋がれたまま。
「少し、時間いい?」
問いに対して静かに頷いたのを見たシスティアは、クラウスの手を引いて血溜まりに近付くと、夕陽をぎらぎらと跳ね返す親友の名残りに向かって魔法をひとつ。
瞬間。
ひとつ、ふたつ。淡い紫色の花びらがゆっくり開きながら香りだすように芽吹いてゆく。それは血溜まりを囲い寄り添いながら咲きこぼれる、紫苑の花。
赤色のなかに在って儚げで、それでいてやさしい光景に瞬いたクラウスは、傍らをそっと仰ぐ。
「彼は、死んで欲しいと思いながら庇ったんだと思う?」
最期の瞬間を思うと、喉が縊られたように苦しくなる。眉根を寄せて、俯き、か細く息を吐いて。それからクラウスは頤を持ち上げて、否定する。
「ううん。……生きてほしかったから、だよね」
そう。きっと、違うはずだ。
システィアも確信めいた思いがあったから、今ばかりは頼りなげなクラウスの手をやさしく包み込み、慰めるように指の腹で安心させるように何度も撫でる。
「泣きたくなったら何度でも抱きしめるから、彼の笑顔も一緒に連れて、生きようよ。どんな風に笑ってた?」
微笑みを浴びた今、口を開くと声が震えそうで、クラウスは強く瞼を閉じた。
生きている彼も、昏い瞼の裏に居る彼も、いつだって――。
「太陽みたいな笑顔の奴だったよ」
今もこうして自分を寂しくさせるくらいには、あの夕陽すら焦がすほどの明るい光だった。
――しとしと、ぽとり。
――ちゃぷちゃぷ、ぱちゃん。
「あめあめ、ふれふれ!」
ごきげんな葵・慈雨(掃晴娘・h01028)の歌声に寄り添うように、降りしきる雨音と、佇む庭木の葉を打つ音と、水たまりを跳ねる足音が共鳴する。一体となったそれらはさざ波のように小路に広がり渡り、人の心を惑わせるという雨を天へと押し上げるくらい賑やかな気配に満ちていた。
「美しいと噂の緋幽楼を見に来ましたが。春だから桜になったんですかね~」
|涯《は》てに淡く霞む花色のシルエットを、額に翳した掌の下から仰ぎ見た野分・時雨(初嵐・h00536)は、隣を歩く慈雨の楽し気な横顔に気付くと、気が抜けたような笑みをこぼす。
(主人が、ご機嫌なので全て良し)
なぜ慈雨がごきげんかというと、今日はこの日のためにいっとうお気に入りの傘を選んできたからだ。家にはたくさん傘があるのに、そのどれもが出番なく身を寄せ合っている。
その理由はというと――。
おっと、その前に。
「雨で滑らないように気をつけてくださいよ!」
「はぁい。心配性だねぇ、しぐちゃんは」
「心配させるようなことが何回ありましたかねぇ! もう両手、両足の指を使っても数え切れないくらいですよ!」
「うそだぁ! それは言い過ぎだよぉ!」
あまりに呑気な声音が返ってきて、記録をつけてやろうかなどと本気で考える時雨であった。
「でも、なんだか不思議な雨。いつものカーテンみたいな雨じゃなくて……」
慈雨はうっかり傘の下から手を差し出そうとしてしまい、慌てて引っ込める。じろり、と半月になった眼差しを寄こされて誤魔化すように口笛を吹いた慈雨は、逸らした視線の先で青や紫の色がぽんぽん連なるのを見つけて瞳をまぁるく輝かせた。
「わあ、紫陽花が咲いてるよう」
「……この時期に紫陽花なんて咲きます!?」
存分に怪しむ時雨を置いてけぼりにして、てててっと駆け出した慈雨は、雨に磨かれたように美しい紫陽花の低木を一望して感嘆の溜息。たっぷりと空気を吸い込んでも、残念ながら紫陽花の香りは露ともなく、肺を満たすのは雨の香りと冷たい温度だけ。
どうして紫陽花が咲いているのかしら。
「雨だから……かな!?」
名探偵よろしく振り返る主に再び半目になる時雨。
「絶対変ですよ、触らないで………なんか眩しい」
薄曇りの雨空はいつもより近くにあって、ゆえにか差しこんだ一条の光がやけに鋭く瞼の裏を突く。傘で空を覆いながら、そろりと窺うように天を覗き見ると、なんと雲がぱかりと割れて陽が射しこんでいるではないか。
「晴れてきたねぇ。天気雨だよう」
「太陽だ。晴れ女さん何かしました?」
何かしたなんて言われても極端に言ってしまえば慈雨はただ存在していただけだ。それでもこの現象に何かしらの因果を見出すとするならば――。
「ハレハレパワーかも……! 雨雲を掃っちゃったかな!?」
傘をくるりんっ。
「うわ、ちょっ。飛沫が飛んでくるっ」
「わぁっ、ごめぇん!」
身体をくの字に折り曲げたエビのような動きで慈雨の雨飛沫を回避した時雨は頭の中で「今日の主のやらかし」に正の字を書き進める。
「陽射しが強いし、青空で眩しいねぇ。真夏みたいだけど……ここどこだろう」
紫陽花を過ぎゆけば、そこは乾いてひび割れた大地が広がっていた。天気雨は依然として続いているが、それが乾燥した大地に潤いを与えるかといえばそうではなく、慰めにもなっていない。
「わ、立葵~!」
うれしそうな言葉につられて周囲を窺っていた時雨が視線を滑らせると、花を穂状につけたピンクの鮮やかな立葵が咲き誇る道が伸びていた。草丈の高い花なので存在感が強く、紫陽花とはまた違った華やかさがある。
これも、梅雨を代表する花のひとつだ。
「たくさん咲いているのは、やっぱり華やかねぇ。立葵を見つけると、良いことあるのよう」
「……葵の花ですからね。 良いことはありそう」
嬉々とした言葉に耳を傾けながら、時雨は視界の端にあるそれを窺っている。それを悟られぬよう口端に笑みを刷いたりして、主の目に映らぬよう傘を少し傾けて遮った。
「お名前が一緒だからかしら。何だか自分に会えた気分になるの」
「じゃあ、コチラに進みましょうか」
「うん、このまま進んで行けば、きっと大丈夫! こんなに、素敵なハレの日だもの!」
微笑みは浮世を照らす日輪のように輝いていた。
彼女がそう信じているのであれば、時雨はそれを彼女の想いごと守るだけ。別に難しいことではなかった。
晴れた雨。
紫陽花の道を通り抜ければ、からりとした青空にすくすく伸びる立葵。まるでわたしを見てと咲き乱れる花たちを横目に、乾いた大地を踏み締め進む。
――視線を感じる。
頬に刺さるほど、痛いくらいのそれに応えるように、漸う金瞳を横へと滑らせた時雨は、天地の境、いまはまだ遠き涯てに野の草を吹き分ける嵐に、暴風雨を見た。
すぅと目を細め、口を噤む。
言って、何になる。時雨は目にしたものから視線を剥がすと、慈雨には何も言わず葵の花が彩るその道を、慈雨を連れて進んでゆく。何がしかの音がしても、決して後ろは振り返らなかった。
あの時は、|炯々《けいけい》と燃ゆるような小路だった。
花に寄り添うようなたくさんの笑い声に溢れていて、まるで導かれるように皆と一緒に歩いたものだ。
雨の日は世界がすこし見えにくい。天から降りしきる雫があちらこちらで弾んでは、ささいな音もひとからげにして散らしてしまうから。天気雨ゆえに明るいのに今はそれがかえって妖しくもあり、香柄・鳰(玉緒御前・h00313)は花傘の下で小さく吐息した。
(以前訪れた景色とは全く異なるようね。オーナーさんは大丈夫なのかしら)
またこの地に――|緋幽楼《ひゆうろう》にお邪魔するためにも、助けなくては。
――ぱた。ぱたた。
まるで傘をノックするような強い音に傘を仰ぐ。
そんなにも雨に触れてほしいなら、いっそ。鳰は自ら花傘の下より手を伸ばし、手のひらで雨粒を受け止めた。
――冷たい。
世界を洗うような雨は水の香りが一層と濃いものだ。視覚を補うぶん、聴覚と嗅覚が鋭いと、鳰はそう自負している。
(――だというのに、)
鳰が視ている朧に霞む景色は、荒寥とした戦場跡へと変わってゆく。
(あの日、全て亡くした時の何もなさ……に良く似ていますね)
なんとなく、そんな気はしていたのだ。
閃光がすべて奪っていったあの日、鉄錆の香りしかしなくなったあの瞬間、空からの一方的な爆撃により散っていった戦友たちを弔うことも、一握りの遺品すら連れていってやれなかったことも。
(そう、ずっと悔やんでいる)
十字架を背負うとは、きっとこういうことを指すのだろう。
まどろむような時間を過ごすたび、きっとこの十字架はすこしずつ重くなる。自身が笑うたび、喜ぶたび、どんどん黒くなる。そんなはず、ないのに。
喉元を縊るような重苦しさを吐息に乗せて吐き出したとき、ふと視界の端を掠めた薄紫色に意識が揺れる。
花びらだった。
まだ今の時期には少し早い、淡い花。鳰はこれを、よく知っている。
花傘を傾け振り返ると、およそ戦場には似つかわしくない不釣り合いなほどの藤の大樹が絢爛に咲き誇っていて、鳰は小さく息を詰めた。
垂れ下がった房花が微風にあおられ幽玄に揺らめいているさまは、すこし怖いくらいだった。大きな影が落ちているけれど、射し込んだ光が眩くて、荒れた大地を覆った花筵が瞬いている。
そよそよとやさしく揺れる房花の向こう側に人影がある。ひとり、ふたり――それはよく知った姿をしていた。
「姉さん」
返事はない。
地に触れるほど長い藤花は幾重にも淡い紫を重ねて、姉と戦友たちを隠してしまう。
ずっと一緒だったから。間違いなく姉たちだと分かるのだ。それなのに、決して顔は見えなかった。笑んでいるのか、泣いているのか、恨んでいるのか。それすらもわかりはしない。一目見ることすら叶わず、それがもどかしくて、たまらなく悲しかった。
「こんなに望んでいるのに、幻でも会えないの?」
――けれど。
ああ、それでも!
大切な姉たちにどんなに逢いたくても、鳰は姉たちを秘してしまうこの藤花を切り払うことだけは、出来やしなかった。この花だけは出来るはずがないのだ。
(だって、この花は……)
遠くで、春告げる杜鵑の声が聞こえた気がした。
静かなものだった。
さぁさぁと天から落ちてくる雨粒が世界をしとどに濡らす以外、耳朶に触れるのは自分たちの呼気と足音と花傘を打つリズムくらい。
「ふふ、傘くらい僕が持ちますって」
ひとの姿をしたガザミ・ロクモン(葬河の渡し・h02950)は差していた花傘を己が持とうとしたものの神楽・更紗(深淵の獄・h04673)に手を払われてしまう。
相合傘の下、紫陽花によく似た瞳を細めて不敵に笑った更紗は首を振る。
ちいさな吐息と共に口端に笑みを滲ませたガザミは、涯てに延びる道を一瞥したのち「それで」「どうしますか?」そっと歩みを止める。
ふたりは決めかねていた。このままやり過ごすか、幻覚を試すか。
「ジャンケンで決めよう。妾が勝てば、幻覚とやらを楽しもう。楽しむのは、おまえが得意とするものだろう?」
首を傾いで問われてしまう。
問答をするよりは手っ取り早くて良いのかもしれない。
「僕が勝ったら濡れずに進むでいいですね。 せーの」
更紗はグーを出した。何故ならガザミは蟹のくせなのか、いつも最初にチョキを出す。
「負けた。いえ、まだあと二回あります」
「小賢しい奴め。そんなに妾にトラウマを触れられるのが嫌か?」
チョキを出さないように意識したからグーを、それを見越して更紗はパーを。三度目は更紗が急かしたから癖でチョキを出してしまい、更紗はグーを。
「霊能力で僕の心を読んでます?」
勝利をせせら笑う更紗を、じぃっと見つめてガザミは不満顔。
なぜそんなに雨に触れたがるのか。この雨は、ひとの心を惑わし、時には心の裡にある傷を抉るものだと云われているのに。
「以前、幻覚で妾だけが無様な姿を晒しただろう。その余裕な顔が歪むところを見てやりたいのだ」
「は? 幻覚を見るのは僕の方なんですか。よりによってトラウマ確定演出!?」
根に持たれているのだろうか。ガザミは口を噤むと、花傘を打つ雨音をそっと見上げて、淡く透いた光の明るさに目を眇める。
――ぱた、ぱた。
ふたりを包む沈黙に雨音が重なって、それがやけに耳についた。
「冗談だ。無理には……」
過ぎった沈黙に毒気が抜けた更紗が首を振り、歩み出そうとしたとき。腕を引かれ振り返ると、先ほどとは打って変わって真剣な眼差しで己を見下ろすガザミと目が合った。
「いいですよ」
「……いいのか?」
頷いたガザミは花傘の柄をそっと掴む。
「ただ、どうか心を強く持ってください。更紗の心は、僕よりもずっと繊細で、やわらかいですから」
「心を強く持つんだな、承知した」
ちいさく深呼吸を繰り返す。
覚悟を決めたガザミに従うように花傘を預けた更紗は、花の護りを閉じるとふたりで一緒に雨の中へ――。
――あつい。
天から降り注ぐ雨は瞬く間に姿かたちを変えた。それは、ちらちらと燃ゆる|炯々《けいけい》とした火の粉であった。
真っ赤な雨が降り注ぐなか、藤の花が炎にあおられたように激しく揺れ、淡い花びらを無残に散らしている。
(楽翁山が燃えた話は聞いていた。だが、これは)
息を吸えばたちまち喉を焼き、肺を焦がしてしまいそうな辛い熱気、鼻腔を貫く生物の焼ける臭い。爪の一枚、髪の一本すら凍えてしまいそうな怨嗟のうねり。
どこを見ても凝った怨みを炎が抱き掻き立てる悍ましい光景を見ていられなくて、頭上の狐耳をぺたりと伏せた更紗はガザミに身体を寄せる。
ガザミはこれを知っていた。
二年前、楽翁山の神域が獣妖狩りの襲撃を受けた日の光景である。
ふと己に落ちた濃い影を辿るように視線を持ち上げれば、頭上に黒々とした巨大な二つの蛇が、憤怒を孕んだ深紅の瞳でガザミを見下ろしていた。
まるで蛇に睨まれた蛙のように更紗は身動きが取れず、彼の腕に縋りついて何とか地に立っていることで精いっぱい。
ただの蛇ではない。
(あの日、ロクモンが独りで対峙していたもの)
纏うものは神気と呼ばれるそれ。およそ神と呼ばれるバケモノたちの絶望が、眼前に突き付けられている。喉が震えて、呼気すらままならない矮小な更紗などそれは見ていなかった。
『人間ふぜいが、我らの力を盗んだか!』
なんと高圧的で傲慢な言葉であろうか。
「やれやれ。炎の熱さといい、ガラの悪さといい、嫌になるほど再現度が高いですね」
吐息交じりの厭きれにも似た言に、それまで一点を見つめたように動かなかった更紗の視線が、そろり滑らされる。
「あの日、僕は確かに死にかけました。でも、今はもう怖くなんてありません」
頬に突き刺さる更紗の視線に眦をかすかに和らげたガザミは、もう一度だけ蛇を仰ぐ。
「過去を突きつける程度で、僕を傷つけることなんてできませんよ」
なるほど、裡から引きずり出したものをそのまま再現するだけならば、新たな傷には成りえない。ガザミがろくな反応を見せなかったのが功を成したのか、蛇の身体がすこしずつ薄くなる。
「そろそろお別れの時間のようですね。精々、首を洗って待っていなさい」
言葉を言い終えるが先か、それとも幻が霞となって雨に消えゆくのが先か。
元居た小路に戻って来たふたりは、静かな雨に出迎えられた。それがまるで幻覚を乗り越えし者へのちいさな拍手のようにも聞こえてふしぎだった。
ただ、固まっていることしかできなかった。
でもいまは、それはいい。
荒い息を整えながら更紗はまとわりつく恐怖を洗い流そうと、跳ねのけようと必死で腕を擦る。それから――。
「ロクモン。おまえは……何者なんだ」
答えはなかった。
ただふたつの赤が、すこし眩しそうに笑っているだけ。
『大切なのはやってしまった後悔よりも、これから後悔するようなことをしないことじゃないのかな』
自分の世話もろくに出来ぬくせに一丁前なことを言うものだ。けれど苦笑を携えて語った同居人の言葉が神花・天藍(白魔・h07001)の胸にずっと残っている。
(我は彼奴を遠ざけ傷付けた)
己の仕出かしたことを思えば、交わしたかつての春を思う資格などあるわけがないと理解しているし、それを納得するべきだと強く思う。
けれど、悲しいかな。
そう思えば思うほどに、会いたいと思う気持ちはどんどん膨らんでいき、その願いばかりが天藍を占めてしまう。もうそれが叶うならば、どんなことだって――そこまで考えて、息を詰める。これでは、何も変わらないではないか。吐く息は、震えていた。
〇
聖夜に言葉を交わしてから、気が付けば数か月が経っていた。これまで経た時を思えばあっという間で、大した時の流れではない。けれど、再会したからこそ月日に重みが生まれてしまったように思う。
八代・千桐(五色綾なす瑞雲・h02637)はあの日からずっと考えている。
こうして逢えぬ今も、彼はこの時代で生きている。いや、生きてきたのだ。今の彼にはこの時代で得た縁があり、それはたいへん恵まれたものだと一目見てすぐに分かった。
ふっくらした頬。血色のいいすべらかな肌。五体満足のそれはかつての彼を思えば健康的で。きっと周囲に居る者たちの影響も大いに貢献してくれているのだと思うから。
――健やかに暮らしているのならば、それが君のさいわいなのではないか。
あたらしい人生を歩み始めているならば、その妨げになるようなことが出来るはずがない。たとえどんなに会いたくて、逢いたくて、あいたくてたまらなくても。
だからあの日から逢えずにいる。
それなのに駆け巡る自制心が連れて来るのは、雪解けぬ彼の哀切と表情。脳裏と瞼の裏に焼け付いて、離れてくれなかった。
――ぱたた。
意識を呼び戻すように柔き雨音が傘を鳴らし、想いに寄り添った。
もしこの傘の下から翼を伸ばしてみせたなら、幻の君に逢えるのだろうか。
世迷言に流されるまま、花傘を握り締めた指先の力を緩めてしまう。重い傘が傾いた。狐の嫁入りに惑わされてしまおうか――なんて、落ちてくるそれを浴びようと頤を持ち上げようとした、そのとき。
「千桐」
――君の聲がきこえた。
運命だと思った。
儚げな後ろ姿を見つけた瞬間、天藍はかつての呼び名がそうであったように「銀花」とまろびでそうになった言葉を飲み込み、彼の名を呼んだ。
心の臓が、うるさい。
鼓膜に押し当てたようにどくどくと脈打ち、天藍のありさまをまざまざと見せつけてくる。唇が、はく、と酸素を求めて震えて、足の爪先が急激に冷えていくのを感じている。
怖いのだ。
あの柔和な色を宿した双眸が、己を見つけた瞬間に拒絶の色に塗り替わるかもしれない未来が。たまらなく、怖い。
「――……天、藍……?」
しかし、振り返った彼のひとが己を呼ばう声は、迷子になった幼子のようにあどけなくて、真っ直ぐに見つめる眼差しは、暗闇の中で探し求めていたたったひとつの光を見つけ出した希望が灯っている。
――りん。
鳴った鈴の音色は、存在をことさらのように示していた。
ああ、なんて懐かしくて、いとおしい音色だろう。たったそれだけの音色が天藍の胸をきつく抱きしめる。彼が振り返った瞬間に、過ぎ去ったあの日々を思い出すように小さく鳴ったあれは、かつて銀花に渡した鈴に酷似していた。
自由に野を駆けまわる銀花が、たとえ森の奥深くで迷子になってもすぐに見つけられるように願いを込めた小さな鈴が、まさか世界を越えて彼を見つける手がかりになるなんて。あの日の自分も、やるではないか。目頭を熱くさせながら、天藍は無理やり笑った。
きっと、彼とて無意識であったに違いない。零れ落ちた昔の呼び方は、たしかに天藍の耳に届いている。
己の昂ぶりを鎮めようと深呼吸を繰り返しながら、手負いの獣に近付くようなゆるやかさでそろりと歩を進めていく。
うんと視線が低くなった彼が近付いてくるのを、雪花模様の被衣越しに千桐は見ていた。そのあどけなさを残す姿は、あの日一緒だった頃のまま。
(思いやる心を最後まで抱き続けていた、優しい君のまま)
きっと聡い彼のことだから、もう気が付いているのだろう。
だってこの鈴が――鈴だけが、唯一この手に残った、彼との繋がり。それを、彼も憶えていてくれたことが、こんなにも嬉しい。
「またきっと……この鈴音を頼りに僕のことを見つけてくれるって……信じていたよ」
「勿論、お前を探しまわるのは我の役割だったからな。好奇心のまま跳ね回るお前はすぐに何処かに行ってしまうのだから」
言葉がやさしく触れ合って、雨にとろけるようにふたりを包む。互いの花傘を打つ雨音が、今だけは遠い。
ふしぎだった。
あれほど願っていたのに、まるで今は世界にふたりだけが取り残されているようで。
だから今は、今だけはどんな言葉も届く気がした。
「どんな姿形になっても、君を想い、君を探していた。もう君を、凍てつく冬に独りになんてさせない」
喉が震える。
声が泣いている。
気持ちを伝えることの難しさに、伝えられる喜びに千桐の胸が姦しく騒いでいる。そんな自分の言葉を、彼は一文字、一音だって見逃さないように耳を欹てて、受け止めて。そうして、異彩の双眸がゆるやかに淡く笑んでゆくのがたまらない気持ちにさせる。
「幾度となく天へと願い叶えたこの奇跡を、今度は手離さない為の決意と雪解けを君に捧げたい」
胸の裡をさらけ出すように言い終えると、彼は――天藍は静かに頷いた。
「あの頃のお前はほんの雛で、ぴぃぴぃ我儘ばかりを囀っていた。喧しいと口では文句を言いながらもあの日々が愛しくて仕方がなかった」
きっと、今ふたりの心はとてもやわらかいから。
どんな言葉が、どこに刺さるか分からない。慎重に窺いながら言葉を手繰り寄せ、天藍は今度は自身が伝える番だと、ゆっくり言葉を紡いでいく。
「だが、今のお前は我よりも随分と見目が変わった。もう我とは交わらぬ世界におるのやもしれぬ。だが、それでも、我はお前に会いたかった」
ふたりは同じ気持ちであった。
それが分かって、肩の力が抜けていく。その様を見て思う所があったのか、同じだと気が付いたのか。力無い笑みは、まるで意固地だった自分たちを笑っている晴れやかなもの。
「会えて、よかった」
吐息に乗せられた掠れた言葉は、これまでふたりの間に横たわっていた長き時を一瞬で吹き飛ばしてしまった。
まばたいた千桐の眦から、一滴の透明な想いが頬を伝い落ちてゆく。
「……久しいな。またお前のことを銀花と呼ぶことを、許してくれるか?」
もう一度その名前で呼んでくれる。
これ以上ない喜びに、千桐は咲きこぼれる花傘の下で春告げの微笑みを浮かべて頷いた。
「もちろんだよ、天藍」
――永く降りそそいでいた雨が、止んだ。
第2章 集団戦 『魔女の娘『ウィッシュウィッチ』』
雨の小路を抜けると巨大な桜の木の前だった。
みっしりと花をつけた枝は天を覆うように広がって、淡い宵の空を隠している。時おり吹き過ぎる風が花びらを攫ってゆき、夢幻のように吹雪かせているのが美しくもあり妖しくもあった。
ついには古妖が待ち受ける桜の許まで来れた。では内部へは一体どのようにして侵入するべきか。ひとまず桜の木の根元へと近付いて行ったときである。
「帰っちゃだめなのかなぁ」
「勝手に帰ったりしたら怒られない?」
「怒られるのはやだなぁ」
枝垂れるような枝の下、灰を被ったような白い髪の娘たちが桜を見上げながら何やらもぐもぐ頬張っている。
ピンク、白、緑の三食団子に桜餅、桜餡のどら焼きや桜型に切り抜きされたフィナンシェ、桜フレーバーの生クリームがたっぷり乗ったカフェラテに、ベリーたっぷりの桜ソーダ。他にもおにぎりやサンドイッチ、お寿司やピザといった、どう見ても花見の食事を広げたテーブルでわいわいしているのに、その表情はちょっぴりおどおど不安げだ。
両手で持ったおにぎりをぱくりと頬張った魔女の娘『ウィッシュウィッチ』は、場違いなほどに華やかな花見の様子に立ち尽くしている能力者を見つけると「ほわぁ!」と奇妙な叫び声を上げて慌てて立ち上がる。
「ど、ど、どうしよう?」
「止めるべきじゃない……?」
「でも私たち、入口を作ってないから中には入れないんじゃない……?」
「じゃあ逃げちゃう?」
――中に入れない?
聞き捨てならない台詞が聞こえて詰め寄ると、肩を寄せ合った少女たちはこくこく頷いた。
「桜の木に変えろって言われたのでそうしただけで……」
「出入りするわけじゃないなら出入口は必要ないかなぁ? って……」
呆れたような溜息を耳にして「だってぇ」「言われてないもん」なんて魔女たちはぴえぴえ言い訳して、なんとも毒気が抜かれてしまう。魔力の残滓を辿った先に出会ったのが――よもや塔を桜の木に変えてしまったのがこのような娘たちとは思いもしなかったために、何だか脱力してしまいそうになる。
が、しかし。
「ええっと……じゃあ私たちが負けたら玄関を作りますね」
「中は九音さんが奇妙建築でいじってたから多分大丈夫?」
「手の付けていないスイーツとご飯もあるので……」
「それも差し上げるからお手柔らかにお願いしますー!」
魔女たちはそう言って、さっそく魔法を編み始めた。
古妖『銀鐘・九音』の許へ行くには、古妖がそうさせたようにこちらも彼女たちの魔法を利用して扉を作らせる必要がありそうだ。軽い準備運動と腹ごしらえにはちょうど良いのかもしれない。――おそらく、きっと。
ずいぶんと情けのないことを叫ぶ魔女の娘『ウィッシュウィッチ』たちを前にして、システィア・エレノイアとクラウス・イーザリーは互いをそろりと見遣った。
「まぁ、そういうことなら……」
「仕方ないな……」
――やり辛い。
ふたりの心はひとつだった。なにせ悪意に満ちた相手ならば躊躇せず揮えるけれど、ぴいぴい囀る小鳥のごとし少女を殴れるかというと話は別。ゆるいやり取りは臨んだ心をほぐしたものの、どこまでの力を放出していいものか、調整に悩んでしまう。
とは言え、玄関を作ってもらわないことには、どうしようもない。
システィアは渋々といったふうに詠唱錬成剣を柄の長い戦斧へ変えて「これで斬られたら痛いぞー」と強調するようにわざとらしい大振りの動きで構えてみせる。
(できるだけ傷付けず平和に勝ちたいな)
システィアの影がぐんぐん狼の形に変わってゆくのを横目に、クラウスは体内の魔力を槍の形に錬成。花吹雪の|涯《は》てより太陽を追う狼スコルと、月を追う狼ハティも駆け付ければ一応の準備は整った。
華やかな花見の席、美味しそうに作られた食事を粗末にしてしまわないよう意識して立ち振る舞えば、魔女たちはその意図を酌んだように、そろりそろりと開けたほうへ、桜の木から離れるように移動する。
「ねぇぇぇ。わんちゃんが追いかけてくるよおぉぉぉ」
古妖から習ったサンダートリックを使いたい、三秒止まりたいだけの魔女の周囲を影狼とスコルとハティがぐるぐる走って意識を攪乱。止まっても、挟撃のごとく咆えてくるから驚いてしまって身体が跳ねる。
仕方なく別の魔女が時間を稼ぐために撃ち出した魔法で三匹を追い払おうとするものの、新たに体内から魔力を引き出したクラウスが盾を突き出して彼方に弾き飛ばしてしまう。
「わぁぁ……ホームランだぁ……」
春霞の奥へと消えて行った自身の魔法を見送って、がっくりと膝を突いた魔女に思わず微苦笑がこぼれてしまう。
一方むんと胸を張ったひとりの魔女が、これから戦う敵を前にしてなぜか瞼を伏せる。だがその可憐な唇が紡ぐは魔術の呪文。艶やかで幻想的な桜の景色に霞がかかってゆけば、奥から滲むように現れるのは仄昏く、陰鬱で、妖しい儀式場。
彼女が何をしたいのか直ぐ察したシスティアは|憶う花苑を見せる魔法《ノアグレンツ》を発動。
「春の花を添えて、可愛くしようか」
システィアの言葉が水となり陽射しとなり、彼の足元からぶわりと一斉にポピーの花が広がり咲いてゆく。
「わぁ、きれーい」
ぱちぱち瞬きして感嘆の声を上げる魔女。クラウスはたちまち地を蹴り上げ、すっかり目的を忘れた魔女の懐に飛び込みむと、ぽん、と小さな頭に右掌を宛がい、
「えっ!?」
ルートブレイカーを発動。
しゅん、と世界をスクリーンにした不穏な儀式場は瞬く間に消えていき、魔女は頭を掌で抑えられたまま、あわあわ左右を振り返ってスケープゴートが成せなかったことを悟ると「失敗したー!」ダッシュで逃走。
「こらー! にげるなー!」
「どうする……? あのひと能力無効化もってるよ…?」
「ずるいよー!」
「かんたんにずるいって言わないのー」
わちゃわちゃ揉め出した魔女はどれも涙目だ。仲違いをはじめそうな雰囲気にそわそわしていると、ぴたりと止まった魔女たちが一斉に振り返り。
「降参です」
ぽんっと白旗を魔法で出してふりふり。
その姿を見たシスティアとクラウスは揃って安堵の吐息を吐き出した。
「よかったね」
「うん。良かった」
無理に戦いたいわけでも、積極的に傷付けたいわけでもないから。ふたりの思いやりはやさしく花開き、ぶじに互いの武器をおさめることができた。
「良かったらどうぞー」
魔法のフードカバーを取り外した魔女が、美味しそうな花見料理へ導くようにふたりを手招き。そっと目配せしたシスティアとクラウスは破顔すると、華やかな席へとちょっと小走りで近付いていった。
「やれやれ。雨の小路は抜けたかなァ」
幽かに残った、甘い果実のような雨の匂いを振り返り、緇・カナトは吐息をひとつ。そうして視線を正面に戻せば、聳え立つのは他に類を見ない異質なまでに巨大な桜の木。
「小路を抜けた先に在ったのは壮観な桜の木であった……!」
胡乱気なカナトとは対照的に、トゥルエノ・トニトルスの瞳はちかちかと星のようなきらめきを宿している。
「本当にデカい桜の木だよなぁ……」
「おお、木の根元に居るのは……案内人だろうかな?」
遠目からでも楽し気な様子に、ちらちらそわりと主を仰ぐトゥルエノに肩を竦めてみせるカナトは何だかどうでも良さそう。そんな血の気の多い|カナト《主》に変わって挨拶がてら近付いて行くトゥルエノの足取りは軽かった。何だか美味しいものがたくさんある様子。
「やぁやぁ、楽しそうに花見をしている魔女の娘たちよ。我々もスイーツやご飯食べても良いだろうか?」
「いいですよぉ」
「……少し間違えたが! ――うん? いいのか?」
魔女の娘『ウィッシュウィッチ』ののんびりとした言葉とトゥルエノの言葉が重なった。聞き間違いか? と再度尋ねてもやっぱり「良い」と言う。
でもその条件は勝負をして勝ったら。
「入口無いって。帰るか」
目的は花見料理ではない。
桜の内部に用があるのに、そこに辿り着けないのであれば意味がない。カナトはくるりと踵を返してさっさと歩いていく。
「まあまあ、そう急くでない」
にこにこ顔のトゥルエノに引き留められ渋々振り返ると、花見料理が視界に映ってしまい、腹が鳴る。量は少ない。きっとこれを完食してもカナトの胃を満足させるには至らないだろう。
「勝負をしたら玄関を作ってくれるのだな〜」
「そうで~す」
ゆるすぎる会話に額に手を添えて溜息を噛み殺す。
方針は平和主義者、それは分かった。
(……不殺で手加減するのも色々と面倒だし、雷獣クンにお任せしておこうかねェ)
いそいそ戦闘の準備を始めるトゥルエノと魔女たちを横目に、カナトは無敵のフェンリル狼へと変身。大狼を目にした魔女たちから悲鳴とも歓喜ともつかぬ声があがり、仕方なしに視線を向けると全員がきらきらした目を寄こしている。
「わぁ、すごい」
「狼だぁ、かっこいいー」
「ちなみに、わたしの背後に居る腹ペコ狼は何でもバリバリ食べるから気をつけ給えよ」
「まだ手は出さないよぅ。前脚くらいは出ちゃうかもしれないケド〜」
ぴたり。時が止まる。
「……なんでもバリバリ食べちゃうって」
「……もしかして……わたしたち?」
「……それにあの爪で引っかかれたら痛いかも……」
ぎゃー! 今度こそ悲鳴をあげた魔女たちは慌てて両手を翳す。あのしろい小さな掌から何か魔術が編み出されるのかもしれない。
「それでは雷の魔法勝負と行こうか〜」
にっこり笑顔のトゥルエノの呼びかけが聞こえているのかいないのか。今にでもその場から逃げ出したいといった気持ちがありありと窺える様子。古妖から習った稲妻をぴしゃぴしゃ落とす可愛らしいそれを、ちらりと見たトゥルエノの笑みが深まっていく。
「ところで我は雷の精霊であってなぁ」
「え」
杖とも槍とも映る竜漿兵器が紫電を纏わせた雷光色に輝いている。帯電武装状態の穂先は雷音を引き連れ、目にも止まらぬ速さで魔女をのした。
「うわー!」
「一瞬だー!」
「此の辺のスイーツやご飯は食べても良いヤツ?」
「たいへんだぁぁ……えっ、あ、どうぞ……」
ちゃっかり花見席に陣取ったカナトは狼姿のままでおにぎりやサンドイッチ、お寿司にピザを器用にぱくぱく頬張って。あっという間に器が空になっていく。
「勝ったな! オマケに後ろのオオカミとも氷魔法の勝負していくかな?」
「けっこうですぅぅぅ」
ぷすぷす焦げた魔女たちがぴいぴい鳴いている。
古妖から教えてもらった能力の劣化版では手も足も出なかった様子は実に情けなくて、でも憎めない可愛らしさがあった。この愛嬌が別の方向で活かされたら良かっただろうに。
「絶対零度なブレスで何時でもカッチカチに凍結させたのになァ」
狼の口角がにやっと上がった気がして、魔女たちはお互いを抱きしめ合ってぷるぷる震えていた。かわいそうに。
「おぉ、どら焼きや桜餅に桜ソーダ迄ある」
「お好きな物をご自由にお取りください~」
どうやら魔法で料理はいくらでも出せる様子。
腹ペコ狼の胃袋にどんどん吸収されていく姿は圧巻で、その隣で味わうように甘味を食べるトゥルエノは至福の表情。
もっと食べていてもいいのだが、そろそろ行かなくては。
「さて腹拵えもした事だし先に進むかね」
「いやはや、これは見事」
つい先日訪れたばかりの緋幽楼は何だかずいぶんと様変わりしてしまった様子。不知火・豊(元・無限図書館館長・h10903)は絢爛な桜を仰いで感嘆するも、周囲にスタッフや親切にしてくれたオーナーの姿が見えず首を傾ぐ。
「挨拶したいと思ったんじゃが……」
とりあえずの気持ちで大木に近付いていくと、ひんひんぴいぴい慰め合っている少女たちがお花見団子を頬張ったり、桜色のソーダをストローで吸っているのを見つけ、その方へ爪先を向ける。
「お主達、ここのオーナーは知らんかね?」
「わあ! また来た!」
「ちがう、今度はイケおじだ……!」
「イケ……?」
耳に馴染みのない言葉に目を丸くした豊は、なんだか疲れた様子の、それでも可愛らしい魔女たちに薄っすらとした、けれど確信めいた予感を覚えながら穏やかさをつとめて呼びかける。
「そうか、キミ達が桜に変えたのか」
「……わかるの?」
「ああ。いやいや、見事な桜に変えれるんじゃのぅ? すごいじゃないか」
「ほ、褒めてもらった!」
「古妖にも褒めてもらったことないのに!」
「褒めてもらうの初めて……」
あまりの不憫さに、豊は思わず目頭を抑えそうになった。
場はたちまち明るくなって、立ち上がった魔女たちが豊に「どうぞどうぞ」と開いている席をおすすめする。「ありがとう」とやさしげに言葉をかけながら、なおも褒め言葉と一緒に魔女たちの頭をやさしく撫でると、ぽぽぽぽんっと桜の花が周囲に咲いて降りしきる。
(こんな綺麗な悪戯も悪くない)
目を細め淡く笑む豊は、少しの間だけ魔女たちと花見を楽しむことにした。
「わしは、ここの偉い人と知り合いでな。どこにいるのか、案内してくれんかの?」
頃合いを見計らって豊が問うと、気を良くしてついでに元気を取り戻した魔女たちが顔を見合わせる。
「ううん……確か座敷牢に鬼ぃさんが居たような……?」
「でも中は奇妙建築になってるから……見つけるの大変そう」
「ちなみになんだが、彼を座敷牢に入れたのは君たちかい? それとも別の誰かが?」
「スタッフ」
「うん?」
「ここのスタッフの妖怪たちがぼこぼこにしてましたー」
ぐるぐるの簀巻きにされて座敷牢に閉じ込められているオーナーは、どうやら迂闊に古妖を招き入れてしまったことを緋幽楼のスタッフたちに咎められたとそういう次第であったのだ。
(……助けたほうが、いい……んじゃよな?)
豊はしばらく考えこんでしまった。
淡い桜の霞が広がっている。
はらはらと天より降りしきる花びらは幻想的で、ひとを惑わすような色香さえ思わせた。けれどその幽玄を打ち消してしまうくらいのどこかゆるりとした雰囲気に蓬平・藍花がきょとりとするのも無理はない。
唇を開いた、そのとき。
「まぁ……愛らしいお嬢様方でございますこと。テーブルにはまだご馳走が沢山」
背後から耳に覚えのある声が追いかけてきて、反射的に振り返った藍花の瞳に映るのは花傘を頭上に翳した白・とわ、そのひとである。
「とわくん、来てたんだね……?」
「お姉さまこそ」
駆け寄った藍花がとわのほっそりしたしろい手を握り込む。手を取り合うふたりは、こちらの様子を窺う視線に気が付いた。
「お花見の途中なのでございましょう?」
楽し気な様子だった。邪魔をするような無粋は働きたくないのがとわの本心であるけれど。
「しかし、黙って通してはあなたさま方も主さまに面目が立たぬでしょう」
「……九音、もう私たちのこと忘れてそう」
「きっとそう」
「あら」
とわは目を丸くした。
何だか恨み節な気配も滲んでいるけれど古妖に対する思いが薄れているならば好都合。苦笑いをひとつ零した藍花は花傘を畳むと、花扇を手に。
それでもここからは|遊戯《諍い》の時間だから。
「飽いたら……扉、作ってくれるの、よね?」
「はい!」
「今の私たちはなんでも出来そうなので、負けませんよー!」
むんと胸を張る勇ましさはどこからくるのだろう。直前でなにかいいことがあったのかもしれない。藍花ととわは目配せして首を傾げ合う。
はらり、ひらひら。花びらが舞うなか、藍花は心強いとわの存在に背を押されたように|螢火之導《ホタルビ・ノ・ミチビキ》を口遊んだ。
おだやかに、やさしく、静謐な祝詞が繋がるごとに、螢石にも似た仄かに輝る睡蓮の幻想花が、そろり魔女達のほうへと向かうとわの周囲に咲き綻んで包み込む。
その場から動くことができない藍花は、睡蓮たちに導きの糸を手繰り寄せるための道筋を託すと、紡ぐ祝詞を決して途絶えさせなかった。
美しい光景に感化されたのか、ひとりの魔女が何やら不穏な魔術儀式を語りだす。それまで艶やかに吹雪く桜の花びらが、すぅと雪のように解けてい消えていけば、|涯《は》てからじわりと夜のように這ってくるのは、昏く陰湿で不気味な儀式場。
瞬く間に変じてゆく景色を一瞥しながらも、とわは己を護り手助けする藍花の幻想花をいとしく思いながら、ふわりゆらり水中に揺蕩う花のようにその懐に潜り込む。
「わ、ぁっ」
自信の攻撃が必中となるフィールドに塗り替えようとしていた魔女――その背に隠れた別の魔女が声を上げてしまった。狙われたのが自分と分かり、しかもこっそりとその場に留まり続けて古妖から習った稲妻を呼び出そうとしていたのを見破られてしまったからだ。
しろい手のひらが、魔術を唱えるその口元をそっと撫でた。
双眸が見開かれる。夜の涯てに唸っていた雷鳴が遠のき、ついには消えていくのが分かり、魔女は己の能力を無力化されたことを知った。膝から崩れ落ちる。それはもう、がっくりと。
「ご無礼をお許しくださいませね」
花を携えて笑む姿は儚げで、でも何だか幼子を言い聞かせるようなやさしい、ちょっぴり見守るような感情が滲んでいる。抵抗はできるけれど、それをしてしまうとなんだか惨敗の気がした魔女は大人しく頷いた。
花扇と袴の裾から花びらが散る藍花の鼓舞。とわの雄姿に添える花は、今だけはどの花よりも美しい。とわは舞う。くるくる、ひらり。水面に浮かぶ花筏のように。舞うたびに真白の髪が空気を含んでふわり靡けば、絢爛が魔女たちの胸に咲いて心を奪う。
「さぁ、次はだぁれ?」
「どなた様でも、如何様に」
終わらぬ華やかな円舞に拍手が重なれば、藍花ととわに微笑まれた魔女たちは視線のみで互いを窺うと、一斉に頭を下げた。
「降参しますー!」
休憩代わりにお花見と洒落込みたかった付喪神の顔がパッと華やいだ。その横顔に気が付いたとわは、袖の下に隠した唇をやわらげる。
「どうぞ、そのまま宴をお楽しみくださいまし」
広げられたテーブルの上のご馳走は、桜を楽しみたいという気持ちの表れに見える。魔女たちだって他の人と同じように花見を楽しんでいたのはわかるから。
「それに花もその方が喜ぶでしょう。楽しんでくださいませね」
「じゃあおふたりも一緒に楽しみましょう!」
「人数は多い方がいいと言いますし!」
「――だって。とわくんも、行こ?」
お姉さまにそう言われてしまえば、とわに否やはない。とても首を横に振ることなんてできやしなかった。
淡い桜の色に染まった甘味は、心をほぐすようなやさしい甘さをしていた。
思い出の場所が見知らぬ風景に変じている。
だが香柄・鳰が目を丸くしているのは世界を淡い花色に染め上げる幻想的な桜ではなく、降りしきる花吹雪のなかに在る少女たちののんきな姿のほうであった。
「あら……あらあら。長閑なお嬢さん方ですこと」
頬に手のひらを当て困ったふうに吐息する様子は、やんちゃな子どもを前にして呆れているようにも、さてどう対応しようかと困っているようにも見える。
(あっさりと上司……のお名前も言っているけれど良いのかしら)
それにしてもずいぶんと軽い口だ。主を持つ鳰だから、その点が引っかかる。だが入口を作ると、あちらがそう言いだしたのであれば乗らぬ以外、選択肢はなかった。
和んでしまいそうな気持ちを、きゅっと引き締める。
たとえ可愛らしい魔女たちと言えど桜の雄大さを見れば力は本物だと分かるから。敵を侮って足をすくわれるのだけは、みっともなくて許せない。
すらり抜いた玉緒之大太刀、切っ先を魔女たちに向けて見つめ――睨み合う。
「わあ……強そう」
「かっこいい……剣士様だ……」
ひそひそこそこそ。どんなに囁いていても鳰の耳には届いてしまう。
「さぁ、どこからでもどうぞ?」
落ち着いた余裕の声音すら凛としていて魔女たちから歓声が上がるのが、何だかこそばゆくもあったけれど。
そんななか。ひとりの魔女が歌を紡ぎ始めた。耳に馴染みのないフレーズとリズムはどこか静謐な夜行の気配を伴っており、うっかり心を傾けてしまいそうな落ち着く心地がする。
「お上手ね」
響く歌声が幻影を喚び出している、その異質な気を感じ取っていながらも鳰は唇に淡い笑みを乗せて首を傾げた。
――でも。
「お陰で良くあなた方のいる場所がわかりますよ」
とん、とんっ。地を蹴る足取りは軽いが素早い。幻影の古妖がランタンを揺らめかせ何ぞ仕掛けてくるよりも、ちかり明滅する雷光よりも速く飛び上がった鳰は、宙で鞘に納めた玉緒之大太刀を頭上に持ち上げ――ぽかりっ。
「あうっ!」
降妖呪歌を歌っていた魔女の頭を軽く小突けば、いい音が鳴る。
花びらが寄り添う朧霞に紛れた鳰を探す視線は見当違い。鞘でぽかり、ぽこりと次々打ち据えてゆけば魔女たちは「あいた」「ひん」「はう」いい声でよく鳴いた。
(……ううん。侮れない相手にコレは、何時もより難しいですかも)
斬り捨てるのは容易いのに。無力化を狙った手加減は技術の器用さを求められている気がして、課題がひとつ増えた鳰であった。
「降参でぇす」
かくして白旗をふりふりする魔女たちが、こちらの油断を誘っているわけではない素直な負けを膚で感じ取った鳰は「ふぅ」一息を忍ばせながら、さして乱れてもいない髪を耳にかけ、
「ところで先程色々と広げていらっしゃったけれど……クッキーや桜チョコはあります?」
にっこり笑む。
「ありまぁす!」
魔法でぽぽぽんっとティーカップとポット、可愛らしい陶器のお皿を召喚した魔女たちに給仕をしてもらい束の間のお花見と洒落込んだ鳰は、さくさくほろりと食感のよいバター香るクッキーと、ほのかに華やぐ桜チョコレートを堪能したのだった。
「えっ、お料理を頂いていいんですか!?」
目を爛々とさせたガザミ・ロクモンはぱぁぁと光が射したような、むしろ己が光り輝くような笑みを咲かせて花見席へと走った。
ずいぶんと胸に悪いものを見せられてしまった神楽・更紗は、さぁどうしてやろうかと桜扇をきつく握りしめていたのだが、応対した魔女の娘『ウィッシュウィッチ』たちの何ともドジな振る舞いに毒気を抜かれてしまい、ぽかんとしている。
花見席にはガザミの大好物、おにぎりがころりんと並んでいて、塩むすびはもちろん梅、おかか、高菜、ツナマヨ、昆布、明太子、それに何と天むすまであってたいへん豪華。
両手におにぎりを持って交互にぱくぱく頬張るガザミの表情はまさに至福。その様子を見ていれば毒気も抜けるというもの。更紗は開きかけていた桜扇をそろり閉じた。
(格上には逆らえないのが妖怪の性。魔女たちも気の毒な境遇だ)
はらはらと降りしきる花吹雪は妖艶で、浮世は桜一色に染まっている。地上は花筵になっていて歩くたびふわり舞うのも実に美しく華やかだ。
「ふむ、これほどの絶景を眺めながらの宴、悪くはない」
花見席に近付くと、鯨飲の如くおにぎりを食していくガザミに困惑した魔女達が「あ、あのぉ」「勝負ぅ……」おろおろしている。
「戦いは避けられないようですね」
口元に一粒のお米をくっつけて、きりりと澄ましたガザミは熱い茶で口の中をさっぱりさせると、ふぅむと腕を組んで考える。
魔女達の言葉を反芻したけれど、戦い方は指定されなかった。
「殴り合いの代わりに『桜ソーダの一気飲み勝負』で決めませんか?」
「へっ? ソ、ソーダの一気飲み勝負?」
「そ、そんな方法があったなんて!」
「思いつきもしなかった!」
ぼこぼこにされたんだろうなぁ。可愛らしい衣装が少し汚れていることに気付いて、更紗の視線が生温かいものになる。
丸い円卓を埋め尽くす美味しそうな食事やスイーツ、そして飲み物の数々はどう見ても宴席だ。夜行では宴といえば妖怪たちの酒の飲み比べが相場なのだが、ガザミはまだ未成年。ゆえにアルコールの含まぬ飲み物、それも飲み干すのがちょっときびしい炭酸水が妥当だろう。美味しそうだし、そして何より――。
(まさか特技の『炭酸一気飲み』が、こんな形で役に立つなんて)
自分に有利な勝負を持ち込んだ自覚はあるので、胸の裡で零すガザミ。
「合図は妾が引き受けよう」
いそいそ桜ソーダを準備する魔女たちを横目に軽く手を上げたのは更紗。わくわくとした表情に、和気あいあいとした雰囲気は思わず和みそうであるが、よもや自分たちに不利なように仕掛けられているとは思いもしないのだろうな。
(魔女の皆さんが安心して過ごす日々を取り戻す為にも、この勝負、絶対に負けない!)
ガザミは深く息を吸い、喉を緩める。魔女も両手でグラスを持って準備万端。
「始め!」
鋭い合図に背を押されたようにガザミはグラスを一気に傾け喉に流し込む。魔女も頑張ってごくごくするのだが、口内や喉を刺激する炭酸がちくちくぱちぱちして、何度もグラスから唇を離して呼吸を整えてしまうものだから、三分の一も飲めないままガザミに惨敗。
「負けましたぁ」
でも力を揮う勝負ではなかったのが楽しかったのか、負けてもにこにこしていてなんだか嬉しそう。
「それにしても、ガザミの飲みっぷりはどこか滑稽で笑えてくるな」
「なんてこと言うんです」
心外だとばかりに目を丸くするガザミを放って、更紗はその隣にようやく腰を落ち着かせる。
「さて、妾も一勝負挑もうか。なぁに、天然わさび100%の寿司を一貫食すだけだ」
にやり。まるで悪代官のように影を落として笑う更紗に魔女達から悲鳴が上がる。
「え! 100%わさび寿司!?」
ついでにガザミからも。
なにせこの更紗、味覚がない。ゆえにこうした刺激で楽しむことにしているのだが、そうとは知らぬ魔女達は艶やかで品のある更紗の姿からは想像も出来ない大胆さに恐れ戦いている。
「これは勝負だ」
だが、そう言われてしまえば、自分たちが言い出した手前逃げることは許されない。
「いいな、ガザミ。合図は任せたぞ」
「は、はい……ほんとに大丈夫なんでしょうね?」
「まぁ、見ているといい」
双方準備が整ったのを見て、勝負開始。
鮮やかな、つーんと刺激しか寄越さない恐怖のわさび寿司。見ているだけで鼻の奥に刺激がやってきそう。
「ふむ、少々きついが悪くない」
ためらわずにぱくりと頬張った更紗の一方で、ぷるぷる震えながら一貫摘まんだ魔女が恐々はむり。
「ぴっ」
舌の上に触れた瞬間、鳴いて静止、遅れて襲い掛かってくる刺激を飲み込むことも吐き出すことも出来ずに机に突っ伏した魔女は、そのまま悶え苦しんで、やがて動かなくなった。
「うわー、しっかりしてー!」
「一思いに飲み込んでー!」
「おや、魔女には刺激が強すぎたか? ほら、ガリを食べるといい」
リスのような一口を口に流し込まれたソーダで胃に落とした魔女は、更紗が差し出したガリを口に入れて「味分かんない……」涙目で零した。
「ふぅ……勝負はあったようですね。手に焦る戦いでした」
じゃあこれから花見を続けましょう!
ガザミはおにぎりをコンプリートするまで席を立とうとはしなかったとか。
「わぁ、お花見してるよ、しぐちゃん!」
はらり、ひらひらと舞う桜吹雪を振り仰ぎ、絶景に瞬く葵・慈雨は楽し気な様子の魔女たちのほうへ、すでに心も爪先も向いている。
花筵を往きながら慈雨を背中に庇い周囲の状況を一瞥で確認した野分・時雨はひとつ頷くと。
「はい、慈雨さん。こっち来て、座って、待っててください!」
お邪魔しますよ、と魔女たちが居る花見席の椅子を引くと、そこに慈雨を座らせた。
「行く、座る、待つ、わかった!」
素直に頷く慈雨はちょこんと椅子におさまり「出来たよ!」と言わんばかりににこにこ時雨を見上げてくる。それに「よく出来ました」と大きく頷いてみせた時雨は、みっしりと花を付けた枝が頭上にかかるのを仰いで、目を眇めた。
「眺めも良いし大丈夫――」
「わあ、綺麗な桜! 近くに見に行っちゃおう」
「……なんで移動してるの?」
ほんの一瞬目を離したその隙に、もう手の届かぬ場所まで駆けている。五秒と守られぬ言いつけは時雨をどっと疲れさせた。
「良かったらどうぞ~」
「お食事も甘い物もありますよ~」
ふらふら歩きまわる童のような慈雨を花見席に戻すように、魔女たちが美味しそうな食事や甘味で意識を引き寄せる。具沢山のサンドイッチにお寿司にピザ。桜餅にどら焼きにたっぷりのバターが香るフィナンシェまであってどれもこれも美味しそう。
「お、おやつ分けてくれるの……!?」
にこーっと人好きのする笑みを浮かべた魔女たちに感動したように両目をきらきらさせる慈雨は、右手に桜餅、左手にどら焼きを持ってうるうる時雨を振り返る。
「じゃあ……いい子たちなのかも。いい子達なのかもしれないよ、しぐちゃん……」
「いい子たちは勝手にデケェ桜の木生やしたりしないと思います」
ぴしゃりとはね付けるように斬り捨てた時雨だったが、美味しそうにもぐもぐする慈雨をにこにこ見ているだけの様子は、なるほど手を上げぬ者には無害であるのが窺える。
(危害を加えないなら……いっか)
慈雨に何事もないのであれば、それでいい。
食べ物を与えて大人しくさせてくれて、ついでにうろちょろどこかに行かぬように見張ってくれるならなおよし。まるで時雨の意図を汲んだように慈雨の傍にいる魔女たちが親指を立てた。どっちの味方なんだ。
「じゃ、ポコポコし合おっか!」
「うわーっ、こっちは好戦的だー!」
「……今ポコポコって言った?」
時雨は戦闘態勢に入る魔女たちの奥、背中に隠れてこそこそ口遊む詠唱を拾い、その方へ駆けた。場に静止する意味を解している、ゆえに稲妻も追い付けぬほどの速さで魔女たちの間を縫うように掻い潜った時雨は、詠唱が出来ぬように喉潰し――まではいかずとも、近距離からの衝撃波で華奢な躯体を吹き飛ばした。
「うわーん!」
未熟な稲妻と共に桜吹雪のなかに転げ落ちた魔女を尻目に、今度は|金剛杭《プルパ》を召喚。数を数えるのも厭わしいくらいの夥しさに魔女たちから悲鳴があがる。
「痛そう……」
「ぎらぎらしてる……」
「そう、当たると痛いですよー。ほらほら、どうしましょうかねー」
宙に浮かんだ金剛杭を掴んではぽいぽい投擲、くるり身を翻して爪先で軽く蹴ってみせれば、槍の雨が降って来たとばかりに魔女たちが逃げ惑う。
「玄関作らなきゃダメでしょ~! 上司の意図汲んであげて!」
メッ! なんて可愛い仕草と同時にビュンと空気を裂いて突っ込んでくる金剛杭ほど恐ろしいものはない。
スカートを留められ、地面に標本のように縫いとめられた魔女は「次回に生かしまーす」「改善しまーす」なんて震え声。
「疲れた子は花見席に移動してください。次!」
ふよりふよりと宙に佇み出番を待つ金剛杭が切っ先をぎらぎらさせているのが、なんだか魔女の追い込み漁を楽しんでいるようにも見える時雨であった。
一方、慈雨はというと。
「桜スイーツなんて魅力的!」
桜餅とどら焼きを平らげても、まだまだお腹に余裕があるのが嬉しくて。次はどれを食べようかな、なんて心を躍らせていた。
「普段食べないようなフィナンシェなんて食べちゃおうかな!」
「焼きたてですよ~」
「フィナンシェにはお紅茶が合います!」
「わぁっ、紅茶! 良い香り……」
ほっ。幸せのひといきをついた慈雨は、香りのよい桜紅茶をちびちび飲みながら、時おり思い出したように時雨のほうを見て「がんばれー」なんて応援したりして。
「たくさん甘いもの食べてるとお口が甘々になるねぇ」
「お寿司もありますよ~。今の旬はぁ、カツオでーす!」
「桜鯛もありまーす」
「旬のものをおさえているなんてすごいね~。良いお花見だね~」
甘みのある脂の乗った桜鯛を味わいながら、頬っぺたに手のひらを当てて桃色の吐息を零す。それから時雨にポコポコにされて意気消沈する魔女たちを「こっちおいでー」とやさしく手招き。
「一緒に食べて待ちましょう!」
「わぁい、ありがとうございますー」
「どらやき美味しい……沁みるぅ」
「こんなに豪華で美味しいお食事、せっかくなら、皆で食べないと! しぐちゃんもおいでー?」
「まだ戦ってるんですよねー」
ぽこぽこ、ぽかぽか。いい音で鳴く魔女たちをひとり、またひとり。
「ぼくは甘いものいらないので、お寿司だけ残しておいてほしいです」
何だかすっかりお花見状態の慈雨に呼びかけたけれど、声が届いているのか不安になってしまい、食いっぱぐれるのも癪なので残る金剛杭を一斉発射して降参を促してゆく。
「お。寿司も種類が揃ってますね。感心感心」
もちろん最後の戦いの前に、ちゃぁんとお腹におさめたのだった。
「あら、|魔女《同胞》の皆様方ごきげんよう」
もぐもぐ、はむり。たまごたっぷりサンドイッチを頬張っていた魔女の娘『ウィッシュウィッチ』たちは、桜吹雪を纏いて姿を現したリリアーニャ・リアディオにぎくりと肩を跳ねさせた。総身に薄く纏う同胞の気配に気が付いたのだ。それでも、似て非なるあわいの揺らめき、真意を測りかねるように探りの眼差しがひとつ、ふたつ。
「ベルテインに向けて最後の春を楽しんでいるところかしら? ぜひ私も混ぜていただきたいわ!」
花傘を閉じて、にこりと微笑む姿は愛らしい。けれど身の裡から滲むものは背筋に爪を立てられたような怖気を寄こしてくる。
「その前に、ちょっとした|魔法《ちから》比べをする?」
「|魔法《ちから》比べ……?」
「そう。私|早撃ち《高速詠唱》には自信があるのよ」
ふふんっなんて小さく胸を反らしてみせれば、茶目っ気のある様子に魔女たちがそわりとする。だって魔法の早撃ちだなんて、とっても楽しそう。
「どうする……?」
「ちょっとやってみたいかも」
こそこそ、ひそり。さて誰が行くかと相談する魔女たちは、自分とは違って無垢そうで。それがひどく眩しく見えた気がしてリリアーニャの双眸が半分ほど伏せられる。
(|幼い《無力な》自分から脱却するために、私は魔術を学んだのだから)
彼女たちがどのようにして魔女と成ったのか、それは知らないけれど。ここで負けたりしたらきっと自分を許せない。|あの子《・・・》にも、顔向けできないから。
「それじゃあ、始めましょう? 上手く踊ってみせて、ね?」
踵を鳴らせば花筵を巻き上げるように薔薇の蔓が大地から生え、枝を伸ばした桜の木を絡め取るようにぞうぞう伸びてゆく。
「薔薇はね、春にも美しく咲くの。遊んであげて」
喚び出されたのは黒くて巨大な人喰い薔薇。
たっぷりと重なる花弁の中央、花芯はまるで目玉のように青々と光り足を竦ませている魔女たちを射止めている。
先手を取ったリリアーニャの人喰い薔薇。詠唱する魔女の頬すれすれに棘を放ち口遊むそれを邪魔すれば、弱々しい稲妻がまるで悲鳴のような音を立てて春霞に沈んでゆく。
「ほらほら、素敵なお洋服が棘でずたずたになる前に降参なさい」
まるで大型犬がひとにじゃれつくように、人喰い薔薇が魔女たちを揉みくちゃにする光景は中々の大迫力。淡い桜色と、紫と青が交じり合ったような黒色のコントラストは芸術的で、全く雰囲気は異なるのにそれがいっそ美しくもあった。
「こ、こ、降参でぇす」
「はい。じゃああなたはあっちに行ってなさい」
「待ってぇぇわたしもぉぉ」
「はいはい。――あら、あなたも、そっちのあなたも?」
薔薇の戯れによって猫に細く引っかかれたような傷をあちこち作った魔女たちが揃って頷くのを見て、リリアーニャはちょっと気分が良くなった。
「さあ、お茶会を仕切り直しましょう」
にっこりと微笑みかければ、安堵の吐息が重なって。それもまた気を良くさせる。
普段は|ひとり《ソロ》の魔女だけれど。
(たまにはこういう会合も悪くないわね)
美味しいものと可愛いものが並ぶ花見席に腰を落ち着かせた兎は、どこか羨望の眼差しを寄こしてくる魔女達にしばらくあれこれ質問攻めにされたとか。
「黒が似合う魔女って素敵~」
「かっこいいなぁ」
何にも知らないから口にできる言葉も、今はやさしく受け止められる、そんな気がした。
「んっふふ、なるほどねえ」
呑気にお茶会をしている魔女たちは、やってきた雨夜・氷月を見て、ちょっぴり――いやだいぶ警戒している。チェシャ猫のようににんまり笑う表情は愛嬌があったけれど、底意地の悪さが滲みているからだ。これは――虐められるぞ!
「頼まれてこの桜を作ったなら、俺もオネダリしちゃおうかな」
「……ええっと、つかぬ事をお伺いしますが……なにを?」
恐る恐るといったふうに勇気ある質問を投げかけた魔女に答えるように、銀片に月光を纏わせて切り込んだ氷月は、慌てふためく少女を宵と月めく眸で見下ろした。
ぱちり。瞬く下の瞳に、己が映り込んでいる。
「――嗚呼、見ちゃったね」
ゆるりと心を溶かすような眼差しは、惑いを齎す魔眼である。かろうじて引っかかっていた理性を剥離させると、後に残るのは氷月のお願いをよく聞く傀儡だけ。
「ど、どうしたの……?」
仲間の問いかけにも応じぬ虚ろな表情。心も何もかも彼岸に置いてきたような様子に魔女達から悲鳴があがる。
「さ、アンタは入口を作って」
「――はい」
氷月の言葉に大人しく頷いた魔女がてくてく桜に向かって歩いていく。他の魔女が腕を引いて止めようとしたけれど、山でも背負っているのかと思うくらいそれは力強くて呆気なく振り払われてしまった。
「え、ちょっと!」
「なんかへんだよー!」
ぴいぴい、ひんひん、実に姦しい。
「|こう《・・》なりたくなかったら手伝うか俺をもてなすか、選んで?」
ひらり。銀片を見せびらかすようにして微笑んだ氷月に絶叫が重なった。
「これは桜餡のどらやきとなっております! 最高級の小豆を使用しています!」
「サンドイッチはタンドリーチキンサンドがおすすめです! ローストビーフサンドもございます!」
「ピザはモッツァレラチーズをたっぷり乗せたマルゲリータが美味しゅうございます!」
「うーん、これはまた豪勢な食事だねえ」
なんだか魔女たちの口調と態度が妙だが、言うことを聞くのであれば問題なし。
ウキウキで用意したことが窺える花見料理を氷月は遠慮なく端から端まで順番に口に運んでは舌鼓を打つ。自分の様子に一々ほっと胸を撫で下ろすのが楽しくて、わざと無言になったり、真顔になってみせたりと氷月は大いに魔女たちをからかった。
可愛らしい桜型のフィナンシェを指で摘まみ、桜吹雪の空に翳してみる。香りのよい桜ソーダも今だけ味わえると思うと特別感があって中々いいものだ。
「早くしないと全部食べちゃうよ」
「へっ……?」
「私たちも……食べていいんですか?」
頬杖を突いてフィナンシェを頬張る氷月が薄く笑う。儚い桜色に染まった浮世に佇む男は、黙っていれば顔がいいのだな、と感心した魔女の心を読んだ氷月は。
「食べちゃお」
彼女が手を伸ばしかけていた桜餅を奪って目の前で食べてやった。
(ま、実際これくらいペロッと食べられちゃうし)
流し目で魔女たちを窺いながら、さぁて次はどうやって遊ぼうかな、なんて笑う氷月であった。
「あらあら、たいへん。入口がないとね、入れないのよ?」
「中に入りたい人がいるなんて思わなくってぇ」
「確かに、桜の木のなかに入りたいなんて思わないわね?」
フルール・ペタルだって桜の木のなかに入ろうとしたのは今日がはじめてだもの。
(なんだかかわいそうな気もするけれど……どちらにしても、おこられてしまうのなら、私たちにやられて作らされたことにした方がいいのかしら?)
ちらり。淡く揺らめく双眸が、ずらり並ぶ美味しそうな食事と甘味の彩りを見つけて、ひときわ輝く。
(……その方がいいわよね?)
きゅる、と何かが鳴いた気がするけれど、そんなの知らんふり。
この時期にぴったりな、桜にちなんだ魔法があるのだけれど、それはきっと揮われたら痛そうだと自分でも思うから。
「これもね、春のお花だもの。ふんわりした桜の色と白がぴったりね?」
フルールの言葉に伴いふわりと花筵を巻き上げたのは、眞白の雪花にも似たカスミソウ。ちいさくても可憐な花は、淡く儚い桜吹雪と共に夢幻のごとく魔女たちに降りそそぐ。
「わぁ、きれぇい」
「痛っ。地味に痛いよこれっあいたた」
逃げ惑う魔女たちのなか、ひとりの魔女だけは何やら魔術を口遊んでいる。瞬く間に幻想的な桜吹雪の景色が、陰鬱な儀式場に変じてゆくのだが、フルールは「だめよ」花傘の持ち手で、ぽかりと頭を叩いて語りを阻止。
「おっちょこちょいさんたち、今度はちゃぁんと入口も作らなくてはだめよ」
それにほら、カスミソウの雨はまだ止まないのよ。
「すてき! こちらの席にお邪魔しちゃうわね?」
「はぁい。どうぞ~」
裾が皺にならぬように手で抑えながら椅子に腰かけるフルールがそわそわしているのは、目の前に並ぶ食事や甘味がまだ食べたことがない物ばかりだから。
「桜餅が気になるの。頂いてもいいかしら?」
「もちろんです~。あ、手が汚れるのでウェットティッシュをどうぞ~」
「あら、ありがとう! ……おいしい! とってももちもちだわ?」
弾力のあるもち米にくるまれた餡子は程よい甘さで、無糖の紅茶と良く合った。それからバターの香りにつられて手を伸ばしたフィナンシェは桜の形でとってもかわいい。
フルールは指に摘まんだフィナンシェを頬張らず、ふと頭上に枝を伸ばした桜の木を仰ぐ。儚い桜色の空に映るのは今春を共にした、やさしい人たち。思い出せばじんわりと胸にちいさな火が灯ったような心地がして、自然と唇が笑む。
(みんなは食べたことあるかしら?)
思い付いてしまえば、もう気になってしょうがない。
「ねえ? ……これ、おみやげに持って帰れないかしら?」
「いいですよぉ。じゃあ破損防止と防腐の魔法をかけた籠にお入れしますねぇ」
なんて至れり尽くせり。まだ最後の大仕事が残っているけれど、帰るのが急に楽しみになったフルールなのだった。