Gentiana scabra
蒼い月、深い夜。格子窓から覗く世界は狭く、女を囲う部屋は暗い。
揺れる蝋燭の灯りが作り物のように白い肌を照らし出す。薄く紅を引いた唇からは浅く、長く呼気が漏れ出していた。
(迎えに来てくれると、言ってくれたもの……)
窓辺へ置かれた花瓶を──そこへ生けられた二輪の竜胆を見つめる。
別れの時に渡された花は不思議と枯れることがなく、色を変えることなく咲き続けていた。
きっと、これは彼等の分身なのだ。
彼等が無事でいるのならこの花も無事。この花が枯れて落ちて朽ちてしまったなら──噫、考えたくもない。
待っている。待ち侘びている。窓の外で月が満ち、欠け、繰り返すのを眺めながら、女は只管待っていた。
──誰を?
不意に浮かべた言の葉は甘い煙の匂いがかき消していった。
「今日はもう来ないわヨ」
壁へ凭れ掛かるひとつの影はじっと部屋の外に広がる暗闇を見つめている。
南蛮渡来の浅黒い肌を着崩れた着物から覗かせて、煙管を片手に煙を呑んでいた。
冷たく気怠げに真実を突きつけるその影へ、女は縋るような目を向ける。
「かがり|姉《ネエ》……」
「いいから今日は寝なさい」
頭を撫でられる。それの手が離れれば女は再び顔を上げた。そこにもう影はいない。
女は深く息を吐きだしてから寝支度を整えた。もう今日は来ないのだ。明日の朝も早くに起きねばならない。
床に就くと窓辺の花を見る。夜の空よりも明るく穏やかな紫色が揺れていた。
思い浮かべる姿、遠く霞んだ輪郭を思い返そうとして、浮かぶ疑問。
──|私《ボク》は誰だっけ?
漠然とした虚しさに押し潰されながら、女はひとり目を閉じた。
「……あれ?」
|蓬平《よもぎひら》・|藍花《らんか》はショッピングモールのフードコートにいた。
四人掛けの席の内ふたつはいくつもの|手提げ袋《ショッパー》が占拠している。
何をしていたっけ。──そうだ、買い物して、お昼だからとフードコートに来て、混む前に席を取っておこうという話になって……
(さっきまで……部屋にいた、ような?)
奇妙な感覚。
確かな見覚えがあるのに自分ではなかったような、けれど主観的な景色であったような。
喉元までせり上がってきている感覚はあるのに、どうにも明確な答えを出せない。
「ごっめ〜〜〜ん!!お待たせ藍花ちゃん!!」
遮ったのは既視感。
けれど先刻まで抱いていた違和感はなく、もっと明瞭。自分の名をはっきりと呼んでくれたその人を藍花は微笑み迎えた。
「おかえり、かがり|姉《ネエ》」
「ンもうどっこもかしこも激混みよ激混み!!ヤんなっちゃうわネ!!」
トレイに二人分のうどんを乗せて戻って来た人物は藍花の正面、荷物に侵食されていない空席へと腰を下ろした。
割り箸を手渡され、二人揃って手と声を合わせて食前の挨拶。和やかに穏やかに食事が続く。
その合間に藍花は先程まで見ていたはずの奇妙な光景についてをかがりへと話すことにした。
「あのね、かがり姉。さっき変な夢を見てたようで」
「夢?」
「そう、かがり姉も出て来て……あれ?」
何故か思い出せなくなっている。
もしかしたらあれは空腹が見せた幻で、腹が満ち始めたから消えていっているのかもしれない。
普段なら思い至らないはずのちぐはぐな結論をするりと飲み込み、藍花は食事を続けることにした。
そんな藍花を気に留めず、頬杖をついたかがりが口を開いた。
「ところで藍花ちゃん」
「ん?」
「そろそろ起きる時間じゃない?」
かがりが藍花ではなく|此方《・・》を見る。|此方《ボク》を見ている。
その言葉に、その視線に、はっと何かに気付いて──
「……あれ?」
目が醒めた藍花は布団の中にいた。