ひのき柱の向こう側
●味処『花暦』
焼きたてのバゲットやクロワッサンにバターとジャムをたっぷりと。おやすみの日にはとっておきのブリオッシュをカフェオレと一緒に頬張って――アン・ロワ(彩羽・h00005)が親しむ『朝ごはん』とは、概ねあまいものばかりで構成されたものであった。
「最近、外で朝食をとることにはまっているんです」
「まあ! すてきね、それってとっても『おしゃれ』だわ!」
故に、異文化への好奇心を甚く擽られたアンは茶治・レモン(魔女代行・h00071)からの提案に二つ返事で快諾を示し喜び勇んで√の抜け穴を潜り抜けてやってきた。これから彼が齎してくれる魔法がどんなにすばらしく、そしておいしいものなのだろうと瞳を輝かせながら続く言葉を待って傍らを覗き込む。その仕草があんまりそわそわとしたものだったから、レモンは思わずくすりと笑みを溢した。
「実は美味しい和食モーニングを見つけたんです!」
それはたまたま見つけた店なのだが、土鍋でじっくり炊き上げたあつあつのご飯を握ったおにぎりが看板メニューの奥ゆかしき小料理屋であった。
「アニーさんは、和食はお好きですか?」
「あまり食べたことがないの。ニホンに来たのも、まだ数えるほどだわ」
名前を聞いたことはあるけれどよく知らない。お箸のお作法にも自信がないの、とすこしだけ不安げに俯きかけるけれど。心配無用とばかりに胸を叩いた少年は顔を上げてと少女を促す。
「海外からのお客さまにも優しいお店なんですよ。大丈夫、一緒に行きましょう!」
観光客も多く訪れるその店では箸に不慣れな海外の客人向けにスプーンやフォークも出してくれるのだと聞けば、アンの不安な気持ちも払拭されたよう。ぱっと喜色を浮かべたそのかんばせには期待と向学心のいろばかりが満ちるから、にこりと笑みを深めたレモンは少女を連れ立って歩き始めた。
こぢんまりとした店には違いないが、そこは確かに豊かな空間であった。
朝の忙しない空気から切り抜かれたような店内には静かな空気が流れていて。広い窓からは朝のひかりがいっぱいに注いでおり、艶めいた木の柱や壁からはしっとりとあたたかい温度さえ感じられるよう。如何にも和の佇まいといった雰囲気の店内をぐるりと見渡しながら、アンはそうっと声をひそめて『すてきね!』とレモンへ囁き掛けた。
「僕も一度だけ来たことがあって……おにぎりが二つ選べるんですよ。でも種類もとても豊富で!」
前回もすごく悩んだけれど、今回は選びきれなかったものを選びたいのだと。広げたメニューに視線を下ろしたレモンの瞳が驚愕に見開かれる。
「えっ、待って前とラインナップが違う……!」
鮭といくらの親子にぎり。胡麻とたくあんのおかか和え、ゆかりと枝豆、じゃこのおにぎり――それから、それから。以前にはなかったはずの絶対においしいであろう名前の羅列に、何ということだと天を仰ぐレモンの様子を見たアンは可笑しげにころころと笑いながら自分も広げられたメニューを覗き込む。
「また美味しそうなのが増えてますね、うーん……アニーさんはどれにします?」
「おにぎりにもたくさんの種類があるのね。パンと一緒だわ! どれがいいかしら」
米食に馴染みが薄いアンはメニューを読んではいるものの、その全容がうまく想像出来ないのか首を傾げるばかりだった。折角ここまで来てくれたのだから口に合いそうなものをと、これはお魚で、これは海藻で……と簡単に説明してみせれば『どれもおいしそう!』と身を乗り出すものだから、撃てば響くその反応に気持ちが上向くのを感じながらレモンは『おすすめ』のシールが貼ってあるのがとくに美味しいはずです、と力強く頷いて見せた。
「レモンはどれにするの?」
熟考の末にアンが選んだのはふんわり甘い二色そぼろと、焼き鮭フレークの胡麻炒め。ナイスチョイスですと頷くレモンに問いを返せば、同じくらい真剣に考え込んでいた少年もこれ、という一品を選び出す。
「僕、僕はそうですね、えーっと……迷いましたが、おかかと高菜にします」
モーニングのセットにはないメニューもたくさんこの店には存在していて、すこし変わり種のものもあるのだとレモンは昼用のメニューを捲ってみせる。チーズを乗せて炙った焼きおにぎりや、大ぶりのエビフライを丸ごと一尾入れたものは見目のインパクトも大きい。
「すごい、すごい! これもとってもおいしそうだわ」
「ね! 美味しそうですよね!」
ほどなくして運ばれてきたセットの汁物は日替わりで、お吸い物であったり味噌汁であったり様々だけれど。今日は豚汁です、とお盆を運んできてくれた店員の言葉にわあ、と感嘆を上げたレモンはアンへ『具沢山の味噌スープですよ』と言葉を添えた。
「あっ、このだし巻き卵! こちらもとてもお勧めです。ええと……そう! 和風のオムレツだと思っていただければ!」
炊き立てのお米にやわらかな味噌の香り。小鉢のちょっとした野菜の漬物は店の女将が手ずからこさえた自慢の一品であるらしい。彩りも豊かなその品を前にすれば、育ち盛りの子どもたちは到底我慢なんて出来やしなくって。アンの食前の祈りを待って――それから。
「……では早速! いただきますっ!」
「いただきまあす!」
せえのでかぶりついたなら、ぱりりと海苔が小気味のいい音を立てて軽やかに弾ける。ひとくちめから容易く具に到達出来るほどの贅沢なおにぎりは口いっぱいに幸福を運んでくれる。堪らず顔を見合わせたのはほぼ同時で、それが可笑しくてつい笑ってしまいそうになるけれど。
「んー! んー!」
齧歯類のようにほっぺたを膨らませたアンが何を言っているかは不明瞭だが、きっと『おいしい』と言いたいのだろう。昆布と一緒に炊き上げたつやつやの白米の滋味深さといったら、和食に明るくないアンにとっても素晴らしい体験に違いなかった。
「このふっくらしたお米と、パリパリのノリが美味しいんですよね……!」
こんなに美味しいおにぎりを一度知ってしまったら、もうコンビニのおにぎりには戻れない。ふわふわのだし巻き卵からじゅわっと溢れる出汁は噛めば噛むほどに甘味が増していくようで。具沢山の豚汁はたっぷり肉の旨みが溶け込んでいて、その出汁をいっぱいに吸い込んだ野菜たちの甘さといったら!
互いに暫く無言になってしまうほど夢中になって食べ進めてしまったことに気が付いたのは、食事ももう随分おわりごろになってからのことだった。
「ニホンのひとにとって、朝ごはんはきっと儀式のひとつなのね」
「はい。美味しいものを食べたら、今日も頑張れる気がしますよね」
おなかもこころもいっぱいになれば、あとにはからっぽになったお皿たちが残された。ぺろりと全部平らげたふたりの姿をみとめた店の女将にもまた笑顔が浮かんでいて、うれしい気持ちばかりが湧いてくる。
「ねえ、レモン! これからなにをして遊ぼうかしら!」
まだ今日という一日は始まったばかり。活力を満たしたばかりのいまなら何だって出来てしまいそうな気さえするのだと満面の笑みを咲かせたアンへ、レモンも以前よりずっと自然な笑顔を返す。
「街を探検するのも良いですし、お買い物も……ふふっ、良い一日になりそうです!」
おなかを満たして、こころを満たして。今日という一日を始めよう。
晴れ渡るそらを並んで見上げれば、何処へだって飛んでいけるような気がした。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功