昼天の星涼
――人間は人を愛する。愛するとは、その人を護りたいと思うことだ。
問うた先で戻った言葉を反芻する。では空の向こうでも人であれるのだろうか。白く鎖された世界の中から出ることも赦されず、やがては人々の未来のために孤独な永遠の旅路に就かねばならぬとしても。
子供たちの間ではハルカと呼ばれた少女は、己の命運を疾うに知っていた。
大人たちは誰も何も説明してくれない。何を問うてもさして実のある返答が戻るわけでもないまま、彼女は何の効能のあるのか分からぬ薬を飲み干すことを強要され、仰々しい保定の上から注射針を刺し込まれている。幼くとも鋭敏な子供特有の感性が、上辺の優しさの向こうに拾う冷徹な眼差しが、彼女へ使命を伝えて来る。
彼女は――。
否。
|彼女たち《・・・・》は、死ぬのだ。
断片的な大人たちの会話から盗み聞く世界の終末を遠ざけ、或いは赫赫たる未来を人類の手に掴み直すために、ハルカと似たような真白の部屋で暮らす子供たちは死んでいく。彼女たちが遠い人類の夜明けを目にすることはない。どこともない無明の中で、独り孤独に旅立つことだけが、死ぬために生まれた子供たちに赦された未来だった。
その無明を噛み砕き、生存本能を嘲笑う理不尽を飲み干すために、ハルカはただ人であることをよすがに定めた。
死に方を選ぶことは出来ない。生を手に留めておくことすら出来ない。ならばせめて、自らが|何になるか《・・・・・》だけは心に灯していたかった。人間であるために、人を愛する。愛し護り抜くために己の身を捧げる――愛する|誰か《・・》の置き所すらも分からぬままの少女は、矛先を世界に生きる全ての人々の、漠然とした面影へと向ける。
その曖昧な|愛《・》の行く先にいるのは――当然、施設の中で共に過ごした子供たちも同じだった。
人の形をした兵器を作るための苛烈な実験と検証は、幼く未成熟な子供の体を容易に蝕んでいく。人々の希望の光である研究所には、√ウォーゾーンと呼称される終わりかけた世界の中では比較的多くの物資が配給されていたが、それでも他の世界と比べるまでもなく絶対量が足りなかった。
友人の一人が、このところ食事を受け付けなくなっているのは知っていた。傍に寄れば気怠そうに体を起こして笑顔を返してくれていたのも数週間前のことだ。施設の職員たちが限りある資源の中から幾らかの|生命維持《・・・・》を行うのも虚しく、日に日に衰弱していく子供は早々に見切りをつけられて、切り捨てられることになった。
実験の想像を絶する苦痛の中で笑っていた顔を思い出しながら、少女は幽かな呼吸に耳を澄ませていた。
痩せ細った土気色の手を握っているのはハルカ一人だった。聞こえているのかどうかも分からぬ声をいつものように絞り出す。
「きっと良くなるよ。大丈夫」
欺瞞だ。
彼女自身が一番によく知っていた。もう助かりはしない。薄らと開いた眸に光が宿ることもない。何度も繰り返し続けた言葉に笑ってくれた唇は、今は乾ききって淡い呼吸を繰り返すばかりだ。
それを悲しいと思うことも、いつからかなくなってしまった。
最初のうち、言葉には真実の祈りが込められていたと思う。ともすれば持ち直してくれるかもしれない。そうすればまた遊べるかもしれない。それがたとえほんの僅かの時間なのだとしても、定められた死の命運まで二人で笑っていられるかもしれない――。
日に日に弱っていく姿を見詰めているうちに、願いはハルカの裡から少しずつ剥離していった。
兵器を作り上げるために用意された子供たちは、一人一人に莫大な維持コストが掛かる。繰り返される実験も検証も、彼らの体を使用可能な状態に留めておくための食事も、この√にあっては極めて貴重なリソースを食い潰して用意されている。
であるから、研究員たちも彼らの|維持《・・》には懸命だった。それでも実利に基づいた判断は冷淡だ。彼らが救いたいのは子供たちではなく世界であって、ハルカたちは大願成就の礎にすぎない。
結局のところは使い捨ての道具だ。助かりもしないものに掛けてやる慈悲なぞ、この√には必要がない。
溜息じみた大きな吐息を最期に、永遠に動きを止めた友人の骸が運び出されていくのを見送る。幼い心には重すぎる別離は、しかし同時に柔らかな心に凍てた緩慢な麻痺を齎しもした。
きっと良くなる――と繰り返す虚しささえも感じられなくなったのは、いつものように友の骸を抱えてどこへともなく消えていく大人たちの背を見送った後だった。
良くなってどうなる。出口の見えない実験の果てに孤独に死んでいくだけの身がほんの束の間生き残って、何になるのだ。抗えぬ虚無感は、扉が閉まる刹那に零された失望の声によって罅割れた。
「また無駄になってしまったか」
嘆息は、ハルカの裡に強く呪縛を刻んだ。
無駄――。
なのか。
絶対的な否定だった。兵器になれずに死んでいけば、生まれたことも生きて来たことも無駄なのだ。苦痛を伴う実験に耐え、奇妙な副作用に蹲り、無機質な食事を流し込む日々も。悲しみも痛みも、こうして友人を見送るときの、心の奥底に空いた大きな|洞《うろ》も。
人として――死んでいくことさえも。
ハルカの裡にあった歪な諦観が、確かな決意に変わったのは、それを理解した瞬間だった。
兵器となって人を救い、死んでいくしかないのだ。子供たちも、ハルカも、隣の培養槽で育った一番に近しい友人も。そうして出来る限り多くの敵を道連れにして世界に一筋の光を齎し、己の存在と引き換えに誰かの笑顔を救う。
さもなくば無駄になる。
今まで紡ぎあげて来たものも、耐え抜いて来た苦痛も、ここにあるハルカの存在そのものも。
そうして――。
ハルカは星になるのだ。
夜空の向こうから数多の敵を破壊する。無事に終われば眠りに就くだろう。ようやく得られる安穏の中で、死んでいった友人たちが皆生まれ変わるまでまどろんでいる。役目を果たせた者も、果たせなかった者も、きっと空の彼方からならば探せるだろう。
曰く人は死ねば星になるのだという。空の向こうに逝くのなら、ハルカは友人たちに一番近い場所で、いつかまた笑い合える日を待っている。
だから。
――己を連れて必死に施設を抜け出そうとする少年の手を、少女はやがて振り払う。
人としての終幕を望み空の彼方へ打ち上げられた少女は兵器となる前に星々に攫われた。己が決意の全てを星間の彼方に置き去りにして、果たせぬ存在意義を空の彼方の星と変えた娘は、星宿す眸で笑う。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功