もふもふになった日
昼下がりの光が、アパルトメント『霧桜』203号室のカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。
ソファに沈むようにして眠る二人は、静かな呼吸を揃えている。穏やかな休日の、何気ないひととき――そのはずだった。
けれど、その意識はふと、同時に別の場所へと落ちていく。
気づけば、木邑・零壱(黒き彼岸・h08169)は羽ばたいていた。
風を裂く音、空の広がり。己の身体は軽く、そして大きい。黒い羽根を持つ鳥――いや、カラスのような姿へと変じている。
「……夢、か?」
呟いた声は、どこか低く響く。けれど、不思議と違和感はない。むしろ、しっくりと馴染んでいる感覚すらあった。
そのとき。
か細い鳴き声が、風に乗って届く。
視線を向ければ、瓦屋根の上。小さな黒い塊が、所在なさげに丸まっていた。
「……コキュー」
名を呼べば、その子猫ーー小弓・佐倉(夜黒の椿・h08163)はゆっくりと顔を上げる。
赤い瞳。黒い毛並み。そして、首元には白いリボンと椿の飾り。
間違いない。
零壱はすぐに翼を広げ、静かに降り立つ。
警戒する様子もなく、小弓はじっと彼を見つめ――やがて、そっと近づいてきた。
「……れーち」
小さな声。途切れがちで、けれど確かに彼を呼ぶ響き。
そのまま、子猫の身体は零壱の胸元へとすり寄る。
頼るように、甘えるように。
零壱は一瞬だけ目を細め、それから無言で翼を広げた。
ふわり、と。
黒い羽根が、小さな身体を包み込む。
まるで親鳥が雛を守るように、逃がさぬように、優しく。
「……寒くねぇか」
問いかけはぶっきらぼうだが、その声音はどこまでも柔らかい。
小弓は小さく首を振る。
「……あったかい」
それだけを言って、さらに深く身を寄せた。
羽根の内側は、不思議なほどに温かく、安心できる場所だった。外の風も、世界の広さも、すべてが遠くなる。
――守られている。
その感覚に、小弓はほんのわずか、目を細める。
零壱はそんな様子を見下ろしながら、ゆっくりと翼を動かす。
撫でるように、整えるように、そっと。
「……お前、ほんとに猫みてぇだな」
軽く息をつく。
だが、その言葉に棘はない。
むしろ、どこか安堵に近い響きだった。
赤い目。
それだけで、遠ざけられてきた過去。
自分も、こいつも――似たようなもんだ。
だからこそ、思う。
せめて、ここでは。
この手の届く範囲だけでも、こいつは守る。
「……コキュー」
呼びかけると、小弓は顔を上げる。
その瞳に、怯えはない。
「……ここに、いていいのか」
問いは短い。だが、その奥には躊躇いが滲んでいた。
零壱は少しだけ眉を寄せ、それから、ため息混じりに言う。
「何言ってんだ。今さらだろ」
翼をわずかに締める。
「……最初から、ここに居る前提で拾ってんだよ」
ぶっきらぼうな言い方。
けれど、その言葉は確かに“居場所”を示していた。
小弓はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷く。
「……うん」
その声は、ほんの少しだけ、柔らかかった。
遠くで、何かが揺らめいた気がした。
鬼火のような、淡い影。けれどそれは、脅かすものではなく、ただ静かに見守るように漂っている。
零壱は一瞥だけして、特に気にする様子もなく視線を戻す。
「……ま、なんでもいい」
ぼそりと呟く。
守るべきものが、ここにあるなら。
それでいい。
翼の中、小弓は目を閉じる。
安心しきったように、穏やかな寝息を立て始める。
その重みを感じながら、零壱もまた、静かに瞼を下ろした。
夢の中の、さらに深い眠りへと落ちていく。
――やがて。
現実のソファの上。
同じように寄り添ったまま、二人は目を覚ます。
しばしの沈黙。
「……変な夢、見たな」
零壱がぽつりと呟く。
隣を見れば、小弓はまだ少しぼんやりとした顔でこちらを見ていた。
「……れーち」
「ん?」
「……あったかかった」
その一言に、零壱は少しだけ目を瞬かせる。
夢の内容を、どこまで覚えているのかは分からない。
だが。
「……そうか」
それ以上は何も言わず、軽く頭を撫でる。
現実でも、夢でも。
変わらないものがあるなら、それでいい。
窓の外では、穏やかな昼の光がまだ続いていた。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功