√ワンダリング・インヘリター『東雲に踏み出すようで』
●√
役割があれば、居場所が生まれる。
居場所があれば、役割が得られる。
結局の所、人は一人きりではいられないのだ。どうあがいたところで、一人っきりにはなれない。
そういう生き物なのだ。
生きている以上、死に向かうのは当然のことだ。
定められている。
けれど、√能力者は違う。
絶対死。
それ以外の死に方を知らない。死が最も遠ざかった生物である。ならば、他者の支えなど必要ないのだ。
なぜなら、生物は死を忌避する。
どうにかして死を克服しようとする。もしくは、遠ざけようとする。
生存競争と言い換えてもいいだろう。
己の生命を脅かすもの。
抗うのは、当然とも言えた。
だから、きっとこれは得難いものに思えてならない。
傷を得て、生命を失うこともなく、死と生の狭間に揺蕩う。
それが√能力者だというのならば、この胸に湧き上がる衝動が正しさを教えてくれるような気がしてならない。
裂傷。
我が身に刻まれた傷跡を神隠祇・境華(金瞳の御伽守・h10121)は見下ろす。
左肩から腕に掛けての深い傷が一つ。
脇腹にも一つ。
ふらつく。
意識はある。
けれど、指先が冷たい、という感覚だけがあった。
揺れる視界の中で境華は共に戦ったシンシア・ウォーカー(放浪淑女・h01919)の姿を探して、金色の瞳を左右に振った。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
戦いの場となった教室の中が、暗い。
散乱した教室机や椅子、備品。
そこかしこに散らかっていて、何事かが起こったことを感じさせずにはいられないだろう。
だが、それも『忘れようとする力』によってもとに戻っていく。
なかったことになる。
この場での戦いを知るのは、自分達だけだ。
そのことに境華は少しだけ安堵した。
なぜなら、これ以上悪意が、この教室の中に満ちることないように思えたからだ。
けれど、そうはならない。
どれだけ悪意を払おうとも、あの簒奪者の男が言ったように蔓延る。どうしようもなく悪意というものは蔓延るのだ。
それを止められない。
自分達の行いが無為だとは言わないけれど。
それでも少しの虚しさを感じてしまう。
善意があるから悪意が生まれる。悪意があるから善意が芽生える。
堂々巡りだ。
けれど、と境華はふらつく足が力を失い、体が仰向けに倒れ込まんとしている視界の中で感じた。
だとしても。
だとしても、と言わなければならない。
己の胸にある衝動が、それを否定するのだ。
「境華さん!」
声がする。
首を動かす余裕もない。けれど、安心はできた。
己の背中に添えられた手、腕。
シンシアのものだ、と温もりで知る事が出来た。
「……はぁ……少し、疲れました」
疲れた、では済まない傷である。
境華はシンシアに心配を掛けまいと遠慮をしたのかもしれない。
けれど、心には充足がある。
あの簒奪者は掛け値なしの強敵だった。シンシアと共に戦いに赴く中で信頼関係というものが育まれたことを実感出来た。
それだけで十分と言えば十分だったのだ。
「……あの、簒奪者の男は……」
「間違いなく死にました……って、痛いっ、いたたたっ!?」
「シンシアさん、も……傷を負っていたではないですか」
シンシアが呻く様に境華は弱々しく笑った。
青ざめた顔で、そんな事を言うものだから、シンシアは憤慨した。
「境華さんのほうが重傷なんですけど!? 私を庇うから!」
そうだった。
あの簒奪者の男の戦いの最中、境華は斬撃からシンシアを守るべく身を呈していた。
左肩からの裂傷はその時のものだ。
あの一撃は強烈だった。
死を連想させるものであった。
けれど、一歩踏み込んだことは、意義のあることだった。
言ってしまえば、戦略的に正しい判断であった、と境華は自ら判断していた。結果的にお互い無事である。
敵も退ける事が出来た。
「安心しました……」
体から熱が引いていく。
恐らく、戦いが終わったことを脳が認識してしまったのだろう。
裂傷から失われた血潮。
その量のことを考えれば当然である。
「少し、出血が過ぎたのかもしれません……左肩がすごく、熱い……」
「大丈夫ですから!」
シンシアの力強い言葉が聞こえる。
一体どれだけの間戦っていたのかも時間の経過がわからなくなるほどであった。
暗闇に包まれる教室の中であるからなおさらである。
シンシアは声を張り上げて境華に呼びかけた。
意識を保ってもらわなければならない。今、意識を手放せば、それだけ生命に危険が及ぶ。
だから、シンシアは彼女に力強く呼びかけ続けた。
暗闇の教室の中に広がりゆく血。
まるで池のように広がっていく。
同時にシンシアの中には無力感が溢れ出していた。
守られた、とは思わなかった。
そうするべきだと思ったし、もしも立ち位置が少しでも違えば己がこうなっていたのだと理解できる。
互いに信頼するからこそ、互いの一撃を届かせるために全力を尽くした結果なのだ。
それを否定はしない。
けれど、守れなかった。
ここまで傷を負わねばならなかったのか、と悔やむ。
いつだって後悔は遅れてやってくる。そして、心を苛み続けるのだ。
例え、時が絶対に巻き戻らないということを知っていたとしても、だ。
「だいじょうぶ、です……」
「大丈夫じゃないです! 無理に動かないでください、治療しますからっ」
起き上がろうとする境華をシンシアは制止した。
左肩の裂傷が一番深いのだ。下手をすれば骨にまで到達している可能性もあった。
まずは、境華の現状を正しく把握しなければならない。
大量の失血。
問題は、そこだ。
血圧の低下。顔色が悪いのは、当然だ。
であれば、まずは止血をしなければならない。
立ち止まってはいられない。
「まずは血を止めますっ。左肩、失礼しますね」
「……っ、うっ!」
呻く声に戸惑ってはいられない。
血に濡れた手。
止血のために懐に入れていた魔導書を取り出す。
こんなものしかない。
冒険者であれば、もっと備えて置かねばならないというのに、こういう時に身軽な着の身着のままで飛び出してしまう己の悪癖をシンシアは呪った。
開かれた魔導書の頁をめくる。
魔力を込めれば魔導書の力が発露はするだろう。
「血は、止めました。でも、まだ失われた血が戻ってきたわけじゃあないですから」
「すみ……ません、うぐっ!」
「骨の確認だけさせてください。痛いですよね。痛いでしょうけど、ごめんなさいっ!」
もしも骨にまで斬撃が到達していたのならば、簡単なことではない。
「ここ、動きますか? 動かすと痛みが強くなったりしますか?」
「……ぐ、ううっ、ああっ!」
「骨まで、到達してますね、これ……ちょっと待っていてください。えーと、えーと……」
不慣れな手つきである。
シンシアからすれば、戦いの傷は、インビジブルでどうにかすればいいという考えだ。
であるから、こうして他者を治療するということは不慣れそのものであった。
もどかしい手つき。
何をどうすれば、という混乱だけが頭の中を占めていくだろう。
「なんだか……私のこと、ばかり……」
「な、なにを言ってんですっ」
「シンシア、さんだって……けがを、しているのに……」
確かに痛む。
めっちゃ痛い。
泣き出すことができるのならば、わんわん泣いて痛みを紛らわしたいところである。
しかし、シンシアは眼の前に己以上に重傷な境華がいるのに、そんなこと言っていられないと頭を振った。
「いいんです。私を気にせず。自分のことだけを考えていいんですよ」
「でも……」
言い淀む境華。
それは遠慮、だったのようにシンシアには映った。
けれど、違うのだ。
境華はこの期に及んでなお、シンシアの傷を目の当たりにしていた。浅いものではない。
戦いは激しいものだったのだから、傷を得るのは当然のことだ。
それでも。
目に入った傷は痛ましいと思えてしまう。
自分の傷のことは、痛みだけだ。我慢すればいい。こらえればいい。
けれど、他者の傷はどうしようもできない。
それが心苦しくて、おのれの役目を果たせなかったという無力感だけが傷をジクジクと抉るようだったのだ。
情けない。
境華の中に湧き上がる感情が彼女自身を押しつぶそうとしている。
それを蹴り飛ばすようにシンシアは笑った。
「動ける方が手当するのは当たり前のことです」
「……情けない、です……私」
守りたいと思ったのに守れない。
それは役割を果たせなかったこということだ。
役割を果たせないものに居場所などない。
これまで自分が受け継いできたことと同じだ。
自分の役割。
御伽噺を伝承する語り部。
それが自分だ。使命と言っていい。それを果たせない者に存在価値などあろうか? いや、ないはずだ。
だから、己が定めたシンシアを守るという目的は達せても――。
「だって二人で来たのですから」
シンシアの言葉に境華は呼気を漏らした。
二人。
一人ではなく二人。
それは言葉以上に心強い言葉だった。
沈み込もうとしていた自分の心を引き上げるような言葉だった。
「一人じゃあ、簒奪者には当たり前のように敵わないのが私達です。だから、みんなして、わーっ! って来るんですよ。衝動だとかなんだとか色々理由はあるでしょうけど。でも、私達は二人で戦ったんです。なら」
シンシアは笑う。
戦いは激しかった。
でも、生きている。二人とも傷は浅くはないけれど、生きている。
それは喜ばしいことだ。
胸を張っていい。高らかに勝利の凱歌を、とまでは言わないけれど誇っていいことなのだ。
「……――はい」
「どうです? 動けますか?」
「はい、多少は。これで、大丈夫だと、思います。その……」
身を起こす。
魔導書の効果だろうか? 境華は未だ指先に力が入り切らないことを実感しながらも、左肩の傷が多少痛む程度であり、激痛からは遠ざかったことを知る。
シンシアのおかげで大事には至らなかったようである。
「ありがとうございます」
もしも、一人であったのならば。
その言葉は飲み込んだ。
きっと、一人ならば死んでいただろう。厳しかった。
他のEDENたちがいなければ、あの簒奪者の男には敵うべくもなかったはずだ。
彼女の言うとおりだ。
一人ではなかった。
同じ衝動を持つ者たちが集った。一人ではないと実感させてくれた。
それが、今己が生きている証拠なのだと境華は理解していた。
シンシアは境華と共に暗闇の教室の中に座り込んだまま、尋ねた。
不意に。
「……境華さんは、こういう痛い思いをするのは怖くないのですか?」
それは今までの戦いを見て思ったことだった。
彼女は常に自分を守ろうとしていた。
矢面に立つ、とでも言えばいいのだろうか。常にシンシアの身を守ろうとしていた。それは痛みを恐れないからだろうか、と。
「……怖くないわけでは、ありません」
揺れる金色の瞳を見た。
ならば、なぜ。
「痛いのも、苦しいのも、好きではないです」
好き好む者もいるかもしれないが、少なくとも大半はそうではないのだ。境華と同じように痛苦を忌避するものだ。
シンシアだってそうだ。
別に好きではない。戦うのだって、そうだ。好き好んで戦うのならば、致し方ない。痛みや苦しみなんて許容して叱るべきだ。
これを好ましいとして受け止めるものはまずいないだろう。
だから、だ。
ならば、なぜ。
二度目の問いかけめいた沈黙に境華は応えるように震える唇を開いた。
「ただ……それで手を引いてしまった後のほうが、多分、ずっと苦しいのだと思います。あの時届いたかも知れなのに、とか。もう少し踏み込めたのではないか、とか」
境華は思うのだ。
後悔とは重石のように己の両肩にのしかかるものではないか、と。
振り払うことができたのならばいい。
けれど、いつまでも己の身にのしかかり続けていては、更に足を重たくする。
駆け出すことも許されなくなってしまう。
他ならぬ己自身の手によって、だ。
「そういうことは、あとから静かに残りますから。それに……」
シンシアを見る。
傷が痛々しい。
もっと、と境華は思った。
もっと別の手立てがあったのではないか、と。もっと上手くやれたのではないか、と。
「嫌なのです。シンシアがもっと傷つくのも」
その言葉にシンシアは微笑んだ。
穏やかな笑みだった。
「私が傷つくのも、ですか?」
「はい……それは、いやです」
「私、冒険者ですから。多少の怪我には慣れていますし、別に――」
気にしなくっていいのに、と言いかけたシンシアは口を噤んだ。
境華の金色の瞳が揺れに揺れていたからだ。
わかっている。
自分が今飲み込んだ言葉は、境華の傷をまた抉るものであると理解したからだ。
だから、気にしないで、と言うべきではない。
誰のせいでもない。
この傷は境華のせいではない。
そういったところで、彼女の心が癒えるものでもなければ、彼女の重石が取れるわkでもない。
だったら、どうするべきか。
簡単な話だ。
「境華さん、ありがとうございます」
守ってくれて。
そうしようと思ってくれて。
自分よりも他者のことを思う優しさを向けてくれて。
それがどんなに幸せなことなのかをシンシアは理解した。
だから、告げる言葉は柔らかく温かいものでなければならない。
境華は漸くに、ふわりと笑顔を浮かべる。
「痛みも、苦しみも、厭いながらそれでも戦い続ける理由が、境華さんにはあるんですね……」
それはシンシアにとっては眩いものだった。
直視もできないくらいに。
だから、聞きたかった。
治療は続けている。
まだ動かすわけには行かない。切断された骨を繋いでからでなければ、痛みが再燃してしまう。
「誰かを救える、なんて大きなことは、あまり簡単には言えません」
だろうな、とシンシアは思う。
誰だって自分のことで手一杯であろうからだ。
「それでも、まだ届くかもしれないのなら、伸ばしたいのです。何もせずに失ってしまうよりは、ずっと……」
「伸ばした手が届かなくて、失われてしまっても?」
「はい……頁を、物語を、安易に踏みにじることを見過ごす方が……私には、もっと痛いと思うので」
自分には縁のない価値観だ。
そう切り捨てることは容易い。
だって、シンシアと境華は違う人間だ。
考え方も、育ってきた環境も違えば、目的も違う。
けれど、全部を理解できないわけではない。彼女の言う所の言葉、その一端をシンシアは共感できるような気がしてならなかった。
そうだったらいいな、と思う自分に近づけているような気がしてならなかった。
これを人は成長と呼ぶのかもしれない。
いや、それとも。
境華の言葉だから、こう感じることができるのだろうか。
「それに、今はもう、一人で戦ってばかりでもありません。こうして、シンシアさんに背中を預けて戦って、怪我をして、助けられて……」
境華は己の不明を恥じるようだった。
「それでも、そういうことも全部、戦いの中の出来事ではあるのですけれど、それでも私にとっては、大切な時間のひとつなのです」
恐れも。
痛みも。
苦しみも。
全てがつながっていく。
「あなたが身を投じるというのなら、私も」
強い意志を感じさせる金色の瞳が、シンシアを真っ直ぐに見つめていた。
シンシアは頷いただろう。
深く。深く。
「それに……まだまだ、一緒にやりたいことが沢山ありますから。お出かけも、お買い物も、お食事も……他にも、きっと沢山。だから、こんなところで手放したくはないのです」
「ええ、そうですね。私も境華さんと一緒に沢山のこと、したいです。これからは私が境華さんのことも護ってみせます。……今の私が言っても説得力が無いと言われれば、そうなのですが!」
なんて! とシンシアは最後に茶化してしまった。
致し方ないとは言え、少しばかり恥ずかしい。
境華の眼差しが和らいだから、なおさらだろう。
「……ありがとうございます。でも、今回のことは……あの時の最善を、二人で選んだ結果なのだと、思います。だから、説得力がないだなんて、私は思いません」
「最善……そうですね。ええ。お互いに」
目元を緩めたシンシアが立ち上がる。
境華は見上げる。
じんわりと日差しが差し込んでくる。
朝日。
境華は見上げた彼女の姿を眩しく思えた。
護られるばかりでも、守るばかりでもない。互いに。そう言える間柄になったのだと、実感できた。
「一緒に帰りましょう」
差し出された手をとって立ち上がる。
肩を借りて漸く、といった風体である。
けれど温かさと安心感に、少しだけ身が軽くなったような気がした。
隣りにあるシンシアの金色の髪が、朝日を受けて淡く透ける。ひどく美しいものを見たような気がした。
瞬く瞼。
きっと忘れないようにシャッターを切るように。
「はい。帰りましょう。一緒に」
笑って応える。
「忙しくなりますよ!」
「忙しく?」
「ええ、なんせ帰ったらやりたいことが沢山あります!」
シンシアは境華と共に朝日昇る世界に踏み出す。
「これからも沢山の思い出を作れるように、すこしでも貴女と貴女のいる世界を護れるように!」
それがシンシアの衝動なのだ。
きっと境華も一緒だろう。
二人は帰路に就く。
それはきっと――。
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