シナリオ

龍ヶ淵醒譚

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 おお巫女様、よく来なさった。
 一昨年までは村の中くらいなら歩けたはずが、去年からめっきり弱って参った。膝が痛いからって歩かなんだのが悪かったかね。巫女様のお陰で湯たんぽよりよっぽど暖かいものが手に入っても、こればっかりは治りゃせんもんだ。この前もちょっと立とうと思ったら転んじまって孫が飛んで来て……ああ、申し訳ない、この歳になるとどうも話が長くなってねえ。
 それで何の――そうそう、昔話か。全く|龍ヶ淵《この》村も安泰だよ、こんなに勉強熱心な巫女様が当代なんだから。といっても巫女さんは私らくらいの老体のところを行脚してるっていうじゃないか。今更何か面白い話が出来たもんだか。
 うちしか知らないようなことがあるなら……そうだそうだ、一つとっておきのがあったよ。全くこの歳になるとボケちまうなあ、こんなの一番最初に思い出せるだろうに、ねえ。
 沢は知ってるだろう。
 今でこそ禁足地だけども、あすこは昔はそういうわけでもなかったんだそうだよ。といったって私もひい婆さんだったかひい爺さんだったかから聞いた話だけどもね。
 その頃の当代の巫女様は沢に降りて水を飲むことが許されてたらしい。あすこの水は神様の所有物だから、みだりに浸かるだの、ましてや飲むなんて巫女様にしか出来ないことだったろうなあ。神意の混じったものを一匙でも取り込むわけだから、神様に一番近い者しか耐えられんだろう。
 それで、そう、預言をしたんだそうだよ。神様との交信――ってのかね。あれは水を介してたんだそうだ。まあ、今はあすこの水を飲みたいなんて者もいないけれども。昔の神様ってのは、まあ、優しい存在だったのかも分からないね。
 儀式ってほどのことはないだろう。そこまでは詳しく聞いてないが……いや、聞いたのに忘れたのかね。与太話だよ。私だって伝聞の伝聞で聞いてるような話さ。あすこの水なんか飲んだらどうなるか分かったもんじゃない。
 ああ、でも巫女様なら、神様の話を少しくらいは聞けるのかもしれないねえ。ははは、冗談だとも。
 そろそろ薬を飲まないと……いやいや巫女様にはやらせられないよ、こんな死にかけの老人のことなんか。
 礼なんかいらないけども、申し訳ないねえ。そっちの水も取ってくれると――。

 ◆

 視得ぬものが見えることが常であったから、見えるものが増えたことにも鋭敏にならざるを得なかった。
 即ち|世界の側の《・・・・・》変調だからだ。日頃視えたことのない者にしてみれば脳の病気か錯覚でも疑うところなのであろうが、元より他者の目に映らぬものが存在することを知っている身にしてみれば、そういうこともあろうか――といったものである。
 そう納得出来る範疇のものでなかったことだけが問題だ。
 己が世界に唐突に降って湧いた奇妙なものに、月森・夜深(|██《■■■■》・|██《■■》のAnker・h08164)も思わず瞬いて立ち尽くすほかになかった。
 どうやら生まれ育った世界の他に、全く違った文化を持つ場所が存在することに、夜深は二十余年も前に気付いていた。それらの接続は空間を無視するように成されていて、いつどこで出くわすかも入るまでは分からない。
 そのうちの一つ――奇妙な霧に満ちた町に、別宅を持っている。
 あらゆる伝承の断片を編纂した、見せる宛のない自著めいた|覚書《おぼえがき》も、そのために蒐集した資料も置き場がない。村でも一番の邸宅といえども、半ば秘密裏に行っていることを表沙汰にするわけにもいかないから、生活拠点というよりも書庫の方が必要だったのだ。
 今日もそちらに向かおうと思っていた。どうやら世界を越える場所はある程度固定されているようで、法則は分からぬまでも決まった手順を踏めば決まった場所に出る。歩き慣れた曲がり角を曲がり、木々の間を抜けて、いつものように足を踏み入れた先で――。
 目の前に半透明の物体が揺らいでいるのを、夜深は見た。
 見たことのない形をしている。確か海洋生物だ。知っているのは、手当たり次第に集めた資料の中に幾つも|海の怪物《・・・・》があったからである。形容は常に夜深が目の当たりにしたことのない生物の名を借りていたから、図鑑を捲って形を記憶していたのだ。
 初めて見る海月が気儘に揺蕩っている。空高くに飛び立つのはイルカというものだろうか。巨大な鰭を泳がせるものは似たような形だが細部が違う。確か鯨というのだったはずだ。
「杏珠ちゃん――の、お友達では、ないですわよね?」
 傍らの死霊に語れども、彼らもまた、静かに夜深の横に佇むばかりである。
 己の身に不可逆の変遷の起きたことを、彼女は直感した。

 ◆

 沢に下る道は知っている。
 片割れの痕跡を探して下った頃と比べれば一歩は大きく、下りの坂は緩やかに感ぜられた。それだけ長く離れていたことを自覚させられる。
 あまりに長く短い二十余年だった。誰も兄を覚えていない一日を指折り数える日々は途方もなく遅々として、しかし兄の痕跡を辿るために書物を読みふけり筆を執るには時間が足りない。手応えの一つすらないままの毎日は、空を掻いて藻掻く四歳の頃の夜深を永遠に縫い留めるようだ。
 だが――此度得た|儀式《・・》には、きっと何か深く意義がある。
 多少なり外に開かれ、技術を受け入れたといえども、生活がそう簡単に変わるわけではない。老人たちはどれほど安全な灯火を手に入れても早々に灯りを消して床に入る。寝静まった村の中を懐中電灯を持って歩いて、女の足取りはあの頃より歩きやすくなった道を下った。
 川辺は変わらず水の気配を運んで来る。何ら変わりのない光景だった。底冷えする異形の気配もない。あの頃よりも霧は晴れ、見上げれば満天の星空が切り立った崖の合間に煌めいている。
 沢には神があると、人々は言った。
 しかし誰もその名を知らない。幾ら辿れども村の誰一人として名を口に出来ない。散逸した資料を一つの形に繋ぎ合わせたとき、出来上がる空白はいつも|神の名《・・・》の形をしている。
 人々が崇め奉るそれが神などでないことを、夜深は直感していた。人々に恵みを齎し守ることこそが神なるものの役割なのだとすれば、この沢に棲まった|カミ《・・》はそう呼ばわれる資格を持ってはいない。
 加護を感じたことはない。あるのは祟りだけだ。底冷えする、冬の川辺のような悍ましい気配が村に満ちていた。それがある一定を越えて冷え切ったとき、人々は死に、狂い、|生贄《おくり》の儀が行われる。少なくとも夜深の目に映る限り、山の恵みは山のものであったし、生活の安寧は沢のカミの齎すものではなかった。
 怪異――と呼ばれるものを知ってからは、尚のことそう思う。
 しかし幾つもの文献と立ち上がることも出来ないような老人の話を集め、祈りの仕草を見続けた果てに、夜深は奇妙な矛盾に気が付いた。彼らの口に上る|嘗ての神《・・・・》の断片は、全て祝福ばかりであることだ。
 まるである時を境に唐突にありようが変化したかのようだ。沢に棲まう神は穏やかで、時には水面に落ちた子供を救いすらしたという。何より|禁足地《・・・》の話が出て来ない。老人たちは、そもこの沢は禁足地などではなかった――とさえ語る。
 そのことに気付いてから、夜深は伝承を遡ることを止めて転換点を探った。川に在った優しく豊穣を約束する神の存在が決定的に捻じ曲がる契機があったはずである。幾つもの文献を比較し、断片的な伝承を手繰って、彼女はようやく一つの結論に至った。
 霧だ。
 |優しい神《・・・・》の話をするとき、老人たちは霧が晴れていたと言う。或いは最初のうちは、そんなものはなかったのだとも。伝聞に伝聞を重ねて歪められている可能性は否めないが、この沢と切ることの出来ない|霧《・》の存在が、伝承の中で取り落とされるとは思えない。
 夜深の知ることも出来ぬ遥か昔に|何か《・・》があったのは確かだ。そして沢は霧に包まれ、神は名と共に嘗ての|和魂《にぎみたま》を失くし――。
 或いは塗り替えられて、|荒魂《・・》だけが残った。
 霧が何を示すのかも分からなかった。幾つもの奇妙な物語の中で重要な役割を果たすことだけは理解している。即ち現世とそうでないものの隔てだ。異境へ紛れ込むとき、外界と隔てられるとき、物語も口伝も霧を介在する。
 この沢が晴れ始めて何年になるだろうか。今や殆ど残されていないカミの痕跡と共に、星空は老人たちの口に上るような景色を取り戻し始めた。川辺に跪いた夜深の前で、漆黒の女を映し取った水面に歪な星々が揺れている。
 ――今ならば。
 霧が重要な転換点を果たす一つの証左であったとするならば、霧のない今、夜深には神意を汲める条件が揃っている。特別な力を持つ村の巫女が、沢の水に口を付けることで神意を受け取る――。
 欲しいのは預言ではない。ただ一人、|人の形《・・・》をしているのかさえも分からぬ兄の面影を追い続けて、彼女はとうとうここまで来た。
 聞き飽きた祝詞を唱えて祈りの仕草を繰り返す。日頃は信心もなく形式的な所作をしてみせるだけのそれに、此度ばかりは心底の祈りを込めた。深く意識を研ぎ澄ませる。視得ぬものが見えるように。
 ――視得ぬものの一端に触れられるように。
 神が別のものになる話は古今東西に転がっている。自然信仰に端を発する神格化は時代の変遷とともに他の自然現象と融和し、容易に習合した。そも神の存在とは、ただ一柱の絶対の主を信じるもののほかは、揺らぎやすく変わりやすいものであるようだった。
 人々の伝承。箔をつけるための誇張。時代と共に表現が削ぎ落され、付け足され、創作物に影響されて捻じ曲げられる。しかしそれらは全て|物語《フィクション》の中の話である。
 兄はいなくなってしまった。
 カミの祟りとしか形容のしようもない奇妙な事件は、夜深も目の当たりにしている。兄は沢に落ちて死んだのかもしれないが、寄り添う霊たちの存在を見るにそうであるばかりとも思えない。何より死していればあるはずの絶対的な喪失感は彼女の裡には未だ芽生えず、それゆえに執念はなお燃え盛っている。
 ならば。
 本当に――|何か《・・》がその身に混じり合っているのだとしたら。
 沢に触れることは取り返しのつかない結末を呼ぶやも分からない。指先を躊躇なく浸した流れが春を迎えて尚凍てた感覚で女の手を迎え入れている。この裡に混じっているのだろう何者かを見透かすように、光を通さぬ漆黒の眼差しが僅かに眇められた。
 疾うに覚悟は出来ている。六歳のとき、半身を探してこの沢に踏み入ったときから、ずっと。
 持ち上げた水は奇妙にも指の合間から零れはしなかった。幾ら重ねてきつく閉じているとしても減っていくはずの水嵩が、巫女に受け入れられるのを待つように――さもなくば旅人を誘うように、流れを失って揺らめいている。
「畏み畏み申す」
 細い声と吐息が幽かに水面に波紋を立てた。目を伏せて躊躇なく呑み込んだ彼女が、まるで引き摺り込まれるように川の底に落ちる――。
 否。
 これは|意識《・・》だ。
 落ちたのだと思ったときには命運を悟っていたが、いざ息を吸い込んでみれば水は肺腑に流れ込んでは来なかった。それを理解した途端に冷静になる。
 どうなるかは分からないが、少なくとも窒息で死ぬことはないのだ。
 水に塞がれたような耳の奥の雑音の中で、冷たい水流を感じながら、夜深は己が|門《・》を潜るのを直感した。急流の裡に引き摺り込まれるようにして訪れる客人を想定してはいなかったのだろうか。奇妙な当惑のような感覚が流し込まれるのが不快だ。
 遠くに流し去られてしまうより前に、夜深は強く己の裡にある一本の糸を握り締めた。四歳にして世界の半分を喪ってしまったときから、ずっと彼女の蜘蛛の糸で在り続けた頼りない妄執の先だ。思い出せない顔の代わりに声を辿る。薄れてぼやけてしまったそれを埋めるように、指先の感触を確かめる。|彼《・》の姿かたちだけが曖昧に歪んだあらゆる思い出を脳の奥から引き摺り出す。鳥居の前の写真。手を繋いで歩いた神社までの道。家の中で二人望むように笑ったこと。いなくなってしまった彼が戻って来たとき、ようやくその手を再び繋げたときの安堵。
 ――崖の下に落ちていく|彼《・》の、最後に遺した言葉。
 やがて垣間見えたのは悍ましき玉座であった。濁水の先に歪んで揺らぐカミの姿は大蜥蜴と龍の混じり合ったような形をしている。蛇の如くくねる太く巨大な体には四本の未成熟な手足が生えている。顔に浮かんだ|四つ《・・》の眼差しは、己を視認する夜深の存在には目もくれず、一心に一点を見詰めていた。
 その――。
 先に。
 |幼い己によく似た顔《・・・・・・・・・》があった。
 吸い込んだ息が鋭く音を立てる。名を叫ぼうとした声が音を紡ぐことはない。ただ、彼女を見ているのかも分からぬ|懐かしい《・・・・》眼差しに必死に手を伸ばす。急流に只人の身が逆らえようはずもなく、見る間に遠ざかっていく形をせめて目に焼き付けて、夜深は深く遠くに押しやられた。
 |門《・》を潜る。
 目を開いた。途端に視界が眩んで深く息を吸う。急に流し込まれた酸素に対応出来なかった肺が強く軋むような咳を押し出す痛みの中で、どうやら現実の肉体は長らく息を止めていたらしいことを思いながら、夜深は意識の水底で見た姿を反芻した。
 思い出せない。
 思い出そうとするほどに歪んでしまう。しかし、それが追い求めた姿であることだけは確かに記憶に焼き付いていた。嘘でも現実逃避でもない。幻覚でも――ない。
 半ば漫然と、妄執のみを杖に歩いて来た足に、初めて力が戻るようだった。|彼《・》は生きているかもしれないのではない。
 生きているのだ。
 荒い呼吸が帯に締め付けられているのがもどかしい。いっそここで緩めてやろうかとすら思った。眩暈と胸の痛みが収まるのだけを待って、夜深は立ち上がる。
 カミの姿を垣間見た。やはり|あれ《・・》は|混じり合っている《・・・・・・・・》。沢の神であったというならば、本来はあの龍こそが正しい形なのだろう。それが――何かと融和して、元の形を喪っているのだ。
 手掛かりが得られれば調べるのは容易だ。集めた資料をもう一度拾い直さねばならない。読み落としのないようにしていけば、ともすればあの大蜥蜴のようなものの真実の形に辿り着けるかも分からない。
 唇に、久しく描いていなかった幽かな笑みが零れた。当て所ない旅をしていたような気がしていたが、どうやら核心は思うよりも目の前にあるようだ。
 取って返す傾斜をものともせぬままに、夜深の足取りは下るときよりも確かに、湿った土を踏んだ。

 その日の夜から、女は眠りを失った。
 正確には眠りによる休息と記すべきであろうか。彼女の毎日見る夢はなべて明晰夢である。彼女の集める伝承の全てを曖昧に映し取るような捻じ曲がった世界の中で、現実と夢の境――或いはその認識を失った女には、永劫の|旅人《・・》である権利と義務が生ずる。
 夢の世界の見聞は彼女の脳裡に付き纏う。夢の記憶と現実の記憶は、時に時間軸の混線を起こし、|どちら《・・・》のものであるのか分からぬものが生まれるだろう。
 たとえ、現実にてその旅の全てを忘れたのだとしても。
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