打狗看主
上じゃ雨が降ってるんだろう。
本物の雨なんざ拝めもしないが、雨漏りのお陰で水が尽きないのは、こんなとこにいる俺たちからすれば助かる話だ――おい、何真面目に受け取ってんだ、皮肉だよ。
あ? いるよ。いつも来てる。
そういえば、あんた見ない顔だな。新参か。別にルールなんぞねえよ。強い連中だけが正義だ、何かしらやりたいことがあって、それに反対する連中が目障りなら、叩きのめせば良い。別に中で暴れたって構いやしねえ。こんなクソ暑い中で雨まで降って、熱中症になっても誰も助けやしねえが。
まあ――あんたの言ってる男なら、その隅にいる奴だよ。
間違いねえ。あの何ヶ月も染めてねえだろう金髪の、無精髭の男。ああ、二十七だか八だかで合ってる。ジジイに見えんのは着こなしと髪型の問題だろ。老けてんだよ。
俺は来る連中の事情なんざ知らねえ。毎日のようにツラ変わるんだから当たり前だろうが。昨日の常連が死んでる世界だ、あんたもそのうち慣れる。訊きてえことがあるならてめえで訊け。俺は本当に何も聞いちゃいねえよ。
いつの話だかも本当だかも知らねえが、武勇伝なら幾らでも聞かせてくれる。ついでに酒でも奢ってやれよ。俺だって文無しに酒出してえわけじゃねえんだ。回収出来なきゃ殺し合いになるしかねえが、俺は別にここで酒出してることに卑屈になっちゃいない。
それに、ここに来る連中なんざ殺したところで武勇も上がりやしねえクズばっかだよ。
言ってんだろ、事情はてめえで訊け。ここの連中は誰も何も知りやしねえ。噂好きのババアが、一昨日あたりから来てねえからな。
◆
最初からワケ分かんない奴だったよ。
お前の言ってる通り、確かにオレは|一時《いっとき》Ⅴ層まで行ってた。Ⅵ層――いや、上手くやればⅦ層まで登れたかもしれない。だけど、思ったよりなりふり構わない奴らがいるんだ。ちょうど、お前みたいに。
上の景色はそりゃ良いもんだった。このまんまⅦ層まで行ったら、本物の空と、支柱じゃないビルが拝めるんだって思えばやる気も出たさ。オレは一人でやってたし、誰かと組もうなんて気もなかった。寧ろ、徒党組んでゴチャゴチャ手を回さなきゃならないような連中なんてのは、武強主義の中じゃ負け組だとも思ってた。
別に何したわけじゃねえよ。
オレの名前がたまたま売れすぎただけだろ。あの頃は本当に――本当に、喧嘩売って来た連中は全員返り討ちにして、オレの武勇の足しにしてたんだ。それを――。
あの|犬《・》が。
一瞬だった。気が付いたら転がされて、目の前に|匕首《ドス》があって、オレはもう死ぬか降伏するかしかなかった。このまま死ぬんだと思ったね。実際死んでたんだろうさ。生きてる理由なんざ、あいつのご主人様がそうやって命令したからってだけだ。
あいつ笑ってたよ。
それで何て言ったと思う?
「哦! 命は奪いませんよ。主は舎弟が数え切れないほど欲しいと仰せです!」
それで、お前の言ってる家に連れてかれたんだ。それからはずっとそこで、舎弟ってのをやる羽目になった。
主ってのは随分若くて小さい、ガキみてえな女だった。甘ったるい声して戦いなんざ知らねえみたいなツラしてたよ。ボロ雑巾みてえになったオレより、オレを連れて来た犬の方にすっ飛んで来て、胸くらいまでしかない体で思いっきり抱き着いてた。
――ああ、あの犬は背が高いんだ、オレより。
犬ったって|貌《ツラ》は人間だよ。一回見れば忘れられないくらいの綺麗な貌だ。
ただ、馬鹿なんだよ。
人間みたいに考えたりは出来ねえんだろうと思ったね。尻尾振って小さいご主人様の言いなりだ。あんなに強くて何でも殺せそうだってのに、我儘放題のお姫様にも厭な顔一つしないでヘコヘコ従ってんだから、まあ、馬鹿なんだろうよ。相手にどんな権力があろうが、どれだけ金を持ってようが、この世界じゃ武勇ほどの価値にはならないだろう。だってのに自分より弱い奴に尻尾振って媚びるなんてのは、余程裏にいる連中が怖いのかと思ったね。
犬の――。
オレのご主人様ってのは二世様だったからな。
親がお強かったんだとよ。強い父親と強い母親のハイブリッドだ。それこそ仙術の才能はあったんだろうけど、お姫様はずっとお姫様がやってたかったんじゃねえのか。
何しろ|黑家の犬《・・・・》を護衛に買ってやるくらいだったんだから、そりゃ溺愛されてお育ちになったんだろうさ。
黑家の犬ってのが何なのかも最近まで知りやしなかったよ、オレは。そんなもんに頼らなきゃ上に登れないなら、そりゃあ別に強くないってことだろう。自分の力で成り上がれない癖に上ばっか目指して分不相応なことしようとするから、あんなのに頼る羽目になるんだろうよ。
火酒ないか。喋りすぎて喉乾いたんだ。
――兎も角あのお嬢様は、自分で戦う気がなかった。だから犬に命令したのも、殺しじゃなくて自分の手足になる三下連れて来いってことだったんだろうさ。オレはまんまと目ェ付けられて、屋敷でコキ使われることになったんだよ。
逃げ出さねえよ。
ンなことしてみろ、すぐ犬に見付かるだろ。
それに、もう良かったんだよ。上に登る登るっつったって、どっかで死んだら元も子もねえんだ。オレはあのときに死ぬはずだったんだよ、分かるか? 一回死にかけて、しかもその相手に頭以外は一個も敵わねえんだ。
生きてるだけでも良いんだよ。
どうせ|頂上《テッペン》に登れねえなら、頭使って賢く生きるのが一番だ。
あの犬は馬鹿だったけど、物覚えだけはやたら良かった。オレの名前も一発で覚えたし、出来ねえことがないんじゃねえかってくらいに何でも出来たよ。ただ、馬鹿だからな。訊けばご主人様に止められてること以外は何でも喋るんだ。
馬鹿正直に喋ってるに決まってるだろうよ。オレが訊いたことは何でも答えたんだから。
前に犬を買った主人たちが教えたんだと。まあ、金で買われるくらいだから、雇われることは多かったんだろうさ。傭兵みたいなもんだろう。何でも修理したし、料理も掃除も洗濯も何でもやってたよ。ご主人様の護衛も熟してるんだからいつ寝てるのかも分かんなかったな。あの犬がいれば、大半のメイドと執事は用なしだっただろうさ。
そんなのが横にいてみろ、オレのやることなんざ何にもねえ。
だからもう生きてりゃ良いかと思ったんだよ。ああいうのがゴロゴロいるんだとしたら、オレには勝ちようがねえんだから。勿論、お前も同じだろうな。この辺の|破落戸《ゴロツキ》どもはどうせ燻ってるような奴らばっかりだから、ちょっと叩けば簡単に勝てるだろうけど、上に行けばそういうのもいるんだよ。大量に。
だからオレは日銭稼いで生きてた。ご主人様は犬に熱上げてて、オレたちみたいな三下のことは見えてもねえような風だったからな。縄張りフラついて喧嘩して金巻き上げて、クスリ売ったり、そこらの弱っちい奴らからせしめたりしてたんだよ。
ああ、犬だ。
犬だけど変に人っぽいんだよ。
あいつの笑う貌、見たことねえだろ。ないよな。お前も見れば分かる。
気持ち悪いんだよ。
見れば分かる。見ないと分からねえよ。オレはあれが心底好きじゃなかった。人間の貌して――犬だよ。犬みたいに笑うんだ。本当に不気味で堪ったもんじゃねえ。一回言ったことがあるくらいだ、当のあいつに。
「そういう笑い方、やめたほうが良いよ」
ってさ。
あいつ、何にも言わなかったな。ただこっちをじっと見てるだけだった。普段は声も掛けねえうちからデカい声で吠える癖に、やけに静かに見詰めて来たんだよ。
それがまた不気味で、オレはもうあいつのそういうとこに口出しすんのやめたよ。諦めたんだ。言っても分かんねえんだと思ったから。だって分かりゃ|はい《・・》でも|いいえ《・・・》でも言うだろうよ。何も答えないならそりゃ意味が分かってねえってことだろう。
馬鹿に教え込むよりこっちが避けた方が良いだろうさ。だからもう、笑ってると思ったら貌を見ないことにした。視線逸らすのはご法度だってのは分かってるけど、別に、喧嘩でもないときは見なくたって死にやしないんだから、貌なんか。
おい、酒。何でも良いっつってんだろ、いつも。
だから、まあ、オレにはワケ分かんなかった。何って、ご主人様があんな笑顔にやたらと熱上げてる理由だよ。
そりゃもうご執心だったよ。人前でも平気でべったりくっつくんだから堪ったもんじゃねえ。何が悲しくて人がいちゃついてるのを見せつけられなきゃならねえんだ。まして幾ら顔が可愛くても中身が毒棘まみれのお嬢様と、どんなに顔が良くても中身は犬の妖魔人間だぞ。前にしてみりゃ羨ましいより気持ち悪いが勝つに決まってる。
そういう意味じゃ、あの犬に同情だってしてたさ。可哀想な奴だったよ。何言われてもヘコヘコ頭下げて何でもやってやるばっかりで――その上、あの我儘お姫様と|懇ろ《・・》だったんだから。
本当に我儘だったよ、あの姫様は。親が何のつもりであの屋敷に一人で住ませてたんだか知らねえけど、一人にするならするで最低限の気概くらいは叩き込んでからにしろよって何回も思ったよ。
オレだって何回窓枠直させられたか分かんねえんだから。あのお嬢様は自分以外の人間を全部小間使いだと思ってたんだ。下らねえ。あ? 気に入らなかったからに決まってるだろうよ。それ以外の理由で一日中窓に張り付いてる羽目になるかよ。やれ角度が気に入らないだの、ここの装飾はやっぱりよく見えた方が良いだの、思い出したくもねえ。上層はここより|ごみごみ《・・・・》してんだ、暑いってことだよ。
そんなお嬢様がご執心の犬にどんな命令してたかなんて考えなくても分かるだろ。
本当に参ったね。いっつも窓開けてんだ。あのお嬢様は刺激的なのがお好きらしくて、窓開けてるだけなら兎も角、カーテンは閉めろって思ったこともあるよ。だけど夢中になってるとこで邪魔したらどうなるか分かったもんじゃねえ。忠誠なんぞありゃしねえけど、オレだって変に恨み買いたかねえさ。働きゃその分の|給金《ほどこし》くらいは貰えんだから、わざわざ喧嘩売って働き口失くすのは馬鹿のやることだ。
後で文句付けに行くと、いつもあいつが申し訳なさそうにしてたよ。そういう貌は出来るんだなって思ってた。そういうところじゃどう見ても被害者の側だったよ。デートだ何だって外に連れ出されて荷物持ちさせられたり、やれプレゼント買えだの何だのって言われて薔薇の花持ってってたのも、見掛けたからな。そういうとこはオレと似たようなもんで、雇われの悲哀みてえなもんを感じた。
まあ――だから別に、遠ざけようとしてたわけじゃねえ。
変に人懐っこくて、オレ見ると元気に挨拶してたよ。それも丁寧なんだ。「您好」なんざ今日び誰も言わねえだろ。そういうところは可愛いもんだと思った。
馬鹿で。
だって馬鹿だろうよ。
オレはあいつの上司じゃねえし、何ならあいつに負けてんだ。そういう奴が変に恭しくして尻尾振ってんのは、まあ、そりゃあ馬鹿で可愛いもんだった。
ああ――思い出した。
あいつ麻雀だけはやたら弱かったな。
他のことは、それこそ何でも出来る癖に、麻雀だけはカモだった。他の主人ってのは、あれだけは教えなかったのかもしれねえな。
しょっちゅう誘ったよ、良いカモがいるんだから料理して食わねえ方が悪いだろうさ。正々堂々やって何が楽しいってんだ、こういうのは頭使って出し抜いた方が勝ちってのが、武強主義のルールだろうが。
金払いは良かった。どうもご主人様が湯水みてえに金渡してたみたいだな。全く羨ましい限りだった。オレたちには一つも回って来なくて、そこらフラついて日銭稼ぐコソ泥みてえな真似して何とか食い繋いでるってのに、あの犬はご主人様について回ってるだけで金が手に入るってんだから。
まあ、だから、考えて見りゃあの麻雀は、あいつに流れすぎた金をオレたちのところに届けさせるための作業だったんだ。
ご主人様はどんどんあの犬にハマってったよ。それがまた気持ち悪かった。だってどう考えても気持ち悪いだろうよ。見てりゃ犬で、馬鹿で、まして妖魔人間だってのに――あんなに人間みてえに入れ込んでるのが気持ち悪くないわけがねえ。
お姫様も変な奴だと思ったけど、それ以上にあの犬の方が不気味だった。
普通何か思うところくらいあるだろうよ。自分に入れ込んで金バカスカ使って、振り回して振り回して権力に物言わせるお嬢様には。それがいつも笑って傍で尻尾振ってんだ。馬鹿も行き過ぎりゃ気持ち悪いんだよ、何考えてるか分かんねえから。
聞くところによりゃ、あの犬自体、あのお嬢様が直々に指名したらしいな。
オレは詳しいことは知らねえよ。ただ聞いた話だ。親が心配して護衛に犬を買うってなったときに、貰ったリストの中から一発で選んだのがあの犬だったんだとよ。だとしたら、だから余計に愛着が――。
いや。
あれは愛着じゃねえか。
オレだって男だよ。幾ら何だってストイックに武強主義究めてるだけの人生じゃねえ。まあ、だから、分かるんだよ。向けてる視線の意味くらいは。お前だって分かるだろ、少しは。
どんどん酷くなってった。元から顔合わせる機会は少なかったけど――寧ろ会わねえせいかもしれねえけど――会うたびにおかしくなってんのは分かる。
元々修行みたいなもんが大嫌いだったんだとさ。親が強いわけだから環境も整ってるし、なまじっか生まれ持っての才能があるから真面目にやらなくてもそこそこ勝てる。ああ、勿論、あのお嬢様一人じゃⅤ層にいるのは無理だったろうよ。精々頑張ってもあっという間にⅣ層に落ちてただろうな。
まあ、普通に暮らしてりゃ、ご主人様のことくらいは聞かされるよ。最初にあの犬が言った通り、お姫様は三下が大量に欲しいんだから、オレの前にもそりゃ沢山引き入れてんだ。別に関わり全部を絶ってたわけじゃねえし、つるむことは滅多になくても分け前の分配くらいは多少やったさ。
どうも、あのお嬢様は小さい頃は病弱だったんだと。才能があるからって過保護になった親が本気で完全機械人にするかどうか悩んでたくらいだったらしい。で、ようやく体が安定して来た頃にはすっかり我儘放題の娘になってた――って話だ。
護衛を付けたかったのもその延長だろうよ。自分たちがいなくなったら娘が転落するのが目に見えてたから、それを防ごうってな。馬鹿な話だよ。自分たちで育てた娘がそんなことになってんだったら、大人しく運命受け入れろってんだ。
――ああ、で、何の話だっけ。
そう、それでご主人様は、どんどんおかしくなってったってわけだ。
あの犬とずっと一緒にいるようになった。べったりだ。四六時中腰に纏わり付いてくっついて歩いて、どっちが犬だか分かったもんじゃねえ。ずっと熱の籠った視線で見上げてんだ。それをどこでもそこでも見せられる方の身にもなってくれよ――って、思ったことも一度や二度じゃない。
あいつはずっと付き合ってたよ。しょっちゅう話し掛けられて、全部律儀に応えて、エスカレートする我儘も全部聞いてやってた。そのうちオレたち三下には一向にお呼びがかからなくなったから、オレたちは縄張りフラついて日銭稼いで飯食って酒飲んで、後は麻雀やってる生活してたんだ。
とうとうあいつは左手の薬指に嵌める指輪まで買ってやったんだって話まで聞こえてくるくらいだった。オレは実際に見たわけじゃねえけど、全員が言ってたんだから事実なんだろうさ。実際にはただの|ごっこ遊び《・・・・・》みたいなもんだったんだろうと思うよ。どうせお嬢様の方から欲しいって言って、あいつがいつも通り言うこと聞いてやったんだろうって。
よく付き合うなと思ってた。
あいつが惚れてたって感じでもなかったからだよ。
そのくらいは分かるっつったろうが。
まあ、兎も角、そこまで邪推か知らねえけど――あいつはずっと変になってくご主人様について回ってた。この屋敷もおしまいなのかもしれねえなって思ったのはその頃だ。
出てく気はなかったよ。
どうせ駄目になるときは駄目になるんだ。オレのやることが変わるわけでもねえ。それにご主人様は――ってより、お嬢様の親は用心棒を欲しがるだろうと思った。そのときに最後まで残って、腕の立つところを多少証明出来りゃ、その後のことは殆ど考える必要もねえだろうと思ってたんだ。
あいつはお嬢様のために雇われてんだろうけど、お嬢様が駄目になったら親の方の護衛でもやれば良いと思ってた。そのときにはオレが口利きもしてやろうと思ってたよ。
不気味な奴ではあったけど、悪い奴ではねえんだろうって話だ。オレはその辺りの切り分けくらいは出来てるんだよ。口利いてやって、徒党組むのは馬鹿のやることだとしても、舎弟にしてやって麻雀教えてやるくらいはしてやろうかと思ってた。そうすりゃオレはそれなりに生きてく宛くらいは確保出来るって――。
思ってたんだけどな。
|煙草《ヤニ》くらい吸うだろうが、酒場だぞ。さっきからガキみてえなこと言うな。
――何があったかは知らねえよ。
オレは普通に酒飲んで、飯食ってただけだ。下層の方が安いからってわざわざここまで降りて来て。そのときからここに通ってんだ。仕方ねえだろうよ、上層の方は金が掛かる割にそこまで旨くもねえ店が多いんだ。それなら不味いって分かってる安い店に入った方が頭が良いだろ。
で。
帰ったらお嬢様が死んでた。
屋敷中大騒ぎだよ。ご主人様だけじゃなくて、数だけはやたらいた三下が大量に死んでんだから。侵入者騒ぎなんだろうと思ってたさ、オレも。だけどすぐ変なことにも気が付いた。
あの犬がいて、こんなことになるわけねえんだよ。
言っただろ。オレは元々かなり強かったんだ。
あいつが目の前に出て来るまで、オレは負けなしだったんだよ。自分一人の力でⅤ層まで辿り着いたし、そこでも別に手応えを感じるような相手は滅多にいなかった。Ⅵ層までは核実に登れてたろうさ。周りの連中だって――そう思ってたはずだ。
それを一瞬で黙らせるような犬がいて、たかだかⅤ層の、それも寝首掻こうってような悪知恵回すような連中が簡単に入り込めるわけがねえだろう。すぐにあの犬の餌食になってるはずなのに、あるのは三下とお嬢様の死体ばっかりで、後は何もねえってんだ。
それからすぐだよ。
あいつがいなくなってるって話になったんだ。
ご主人様は酷いもんだったよ。勿論オレは見られる立場じゃねえけど、盗み見るくらいは出来た。貌が――。
貌が抉られてた。爪か何かだろうな。動物の鋭い奴だ。それで顔面の肉を抉って、もう見る影もなかった。顔だけは可愛かったし、本人もそれを誇りみたいにしてただけあって、酷い遣り口だとは思ったね。
それから。
|左手の薬指《・・・・・》がなくなってたらしいってのは、最後に元の同僚だった奴が言ってた。
指輪ごと消えてたんだと。綺麗さっぱりだ。
あの犬はそれっきり行方不明だよ。あれがやったんだってのは、もう、誰にでも分かることだった。三下を殺したのが何でなのかは知らねえけど、どれも致命傷になるような一発ばっかりだったっていうから、要は邪魔したんだろうさ。犬は犬だ。オレは別に動物にそこまで詳しかないが、そういう馬鹿な畜生が目の前で怒鳴り立てて追い立て回されたらどういう行動に出るかくらいは想像出来る。
まあ、酷いことになっちまった。オレも聞いたよ、ご主人様の母親がとんでもねえ悲鳴を挙げてるのを。可愛がってきた娘がそんなことになっちまったんだから、気持ちには同情するけどな。
それで奥様は病みついたらしい。お嬢様の父親の方はとんでもなく怒って、黑家に乗り込んだんだか――。
ああいや、その前にいなくなったんだったかな。
よく覚えてねえ。取り敢えず、もう|行方不明《・・・・》になった。探してもいねえだろうさ。Ⅰ層の土、隅から隅まで漁れば、もしかしたら骨の欠片くらいは出て来るかもしれねえけどな。
それで、面倒見てくれる旦那がいなくなった弱い奥様もすぐ死んだらしい。それは後から聞いた話だから、どこまで本当だかは知らねえけど――まあ、この世界で病気やって弱ってる奴がどこに行くのかは、考えるまでもねえか。
雇い主はあっという間に消えた。屋敷に住んでる意味もなくなって、ライフラインも止まったよ。金が払われねえからな。それでオレも、急に放り出されるしかなくなったんだ。
それからはこの通り。
別に今の生活に不満があるわけじゃねえよ。やることが変わったわけでもねえ。そこらの弱っちい連中|強請《ゆす》って、喧嘩して、日銭稼いでる。いる場所が変わっただけだ。こうやって日銭稼いで、酒飲んで、飯食って――元からここに通ってたって往ったろうよ。飲み食いしてる場所が変わるわけじゃねえなら、どこで稼いでようが大して変わりゃしねえだろ。
それに――。
下層の連中には金がねえんだ。
雇うような金がある連中はこんなところにはいねえよ。武強主義の世界じゃ、強い奴の所に金が集まる。だからオレは|Ⅲ層《ここ》に住んでてもやってけるんだ。ここじゃオレが一番強いから。
それで充分なんだよ。これ以上余計に上に登ってどうすんだ。また戦って上目指す気にもならねえ。
お前、何のために上に登ろうってんだ? 上に登れば自由に生きられるからだろ? だけど、本当に自由になるのが必要なことなのか? 不自由しねえように生きることが目的なんだったら、それなりの場所でそれなりに上澄みにいる方が賢いだろうよ。苦労して苦労して上がったって、そこをずっと維持してかなきゃ、|自由な《・・・》生活は出来ねえんだ。
|Ⅴ層《あそこ》にいるのも悪くはなかった。だけど強くなり続けて留まり続けるだけの労力には見合わねえ。ここでこうやって安くて不味い酒飲んで、質の悪い脂の食事食ってる方が、オレにとっちゃずっと気楽だ。
――金がねえなら、大量の金積まなきゃ出て来ねえような連中と顔合わせる羽目になるようなこともねえだろ。
お前のことは聞いてるよ。情報戦には強いんだ。この辺の下層で燻ってる野心のある連中集めて、徒党組んで生き残ろうってんだろ。こんなⅢ層くんだりで飲んだくれてるおっさん捕まえようなんて、よっぽど切羽詰まってんだろうな。
オレはやめとくよ。
デカい組織になったら目ェ付けられる世界だ。どうせ誰かがお前らを見付けるよ。オレは馬鹿じゃない。この世界でそれなりにやって来たんだから、そうやって徒党組まなきゃ生きられなかった連中の末路だって知ってんだよ。
強くないから集まるんだ。集まって数の暴力で叩けば何とかなることは多いからな。組織の内部で争わねえ方法だって、それなりに考えりゃ出来るんだろうさ。オレだってあの屋敷では同僚連中と余計な喧嘩はしなかった。
だけどな。
ネームバリューはデメリットなんだよ。|斃《たお》しゃ名が売れると思わせちまったら駄目だ。どうせ徒党組まなきゃ勝ち残れもしない癖に、実力に不相応に名前が売れたって死人が増えるだけだよ。分かるだろ。
分かるか。お前らを斃しゃ名を上げられるんだ。お前らがなりふり構わねえのと同じで、なりふり構わねえ連中がクソほどゴロゴロ転がってんだよ。Ⅴ層ですらそうなら、下層にはもっといるに決まってる。
お前らが勇名になってみろ。こっから上に行こうって武勇を上げて、お前らの存在が目障りになるような連中を作ってみろよ。
誰かがあの家に頼む。
そしたらオレは、またあの|笑顔《ツラ》拝む羽目になるんだよ。
お前もやめとけよ。
頭使って賢く生きようぜ。
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