√ナンバー・ランバー・スランバー『まあかな』
●√
ぎぃ、ぎぃ。
ぎぃ。ぎぃ。
ぎぃ。ぎぃ。
ぎぃ。ぎぃ。
ぎぃ。
夜の路地裏はどうしてこんなに静かなのでしょうか?
なぜでしょう?
どうしてでしょう?
なんででしょう?
わからないでしょう?
とっても簡単なことかもしれないけれど、とっても複雑なことで、とっても大きなことで、とってもちっぽけな理由。
そう!
お昼に遊べない子どもたちが、夜にこっそり遊ぶためです!
昼間は大人をやっている大きな子供だって、夜には駄々っ子な悪い子をやってしまってもいいのです。
ゆらりゆらりと頭が揺れて、どうしようもなくなって、世界がぐるんぐるんと回ってしまっていても仕方のないことなのです。
だって、私たちはみんな大人になってしまうけれど、大人になりきれないままに大人のふりをしている子供だっているってことを知っている。
けれど、それを見てみぬふりをしてしまえるのは、とっても素敵なこと。
都合の悪いことはみんなみんな見て見ぬふり。
だって、どこまで行っても、正しいことは理不尽なことに思えてしまうから。
自分を正しいものに思いたい。
正しいことだけをしている良い子だって認めてほしい。
「世の中って難しい」
呟いた言葉は、絶望的な響きだった。
そう、世の中ってとっても難しい。
生きるためには、生きているだけではダメなのだ。
頼まれなくっても、息をする肺。
心臓は脈打って、頼んでもないのに生きることを続けてくれている。
文句も言わずに、だ。
まあ、時たま、文句をいうこともあるけれど、軒並み生きるってことをやめないでいてくれる。とてもえらいことだ。
なのに、人間、生きるためには働かなくてはならない。
生きるために働くと言ってはいるが、働くために生きているように感じられてしまってダメだ。
人は言う。
働くために生きてどうするのか、と。
人が生きるのは働くためではなく、より良いものになるために生きているのだと。
「それは絵空事だよな。だって、こんなにも、私はしょうもない」
つぶやく。
座り込んだ路地裏のアスファルトは冷たくて、振れた部分が段々とかじかんでいくようだった。
立ち上がらなくてはならない。
けれど、足がどうにも動かないのだ。
呆っ、としてしまう。
見上げた空は酷く狭かった。
左右に伸びたコンクリートの建物が、視界を狭めている。
空にある月はあんなにも煌々と輝いている。路地裏に落ちる月光は、己を照らしているが、己の心までは照らせないらしい。
それどころか、月光に落ちる影が一層に己の心の影を色濃くしているように思えてならない。
どうしてこんな風になってしまったのだろうか。
生きるために働いて、働くために生きている。
出口なんて見えない。
いつからだろうか。こんなどうしようもない閉塞感を得てしまったのは。
昔は――そう、昔、まだ自分が半ズボンを夏でも冬でも履いていた頃は、こんなんじゃあなかったはずだ。
少なくとも未来に展望はあったはずだ。
なのに、いつからだろう。
未来に希望がもてなくなってしまったのは。
社会というものに出たからだろうか?
そうなのだろうか?
わからない。
眼前には散らばったのは、バッグの中身だった。
そうだった。
自分は路地裏で躓いてころんだのだった。今更に膝小僧の痛みが、事実を教えるように遅れてやってくる。
じんじんとするような痛み。
じわり、と涙がこみ上げてきた。
どうしてだろう。なんでだろう。こんなことになってしまったのは、誰が悪いのだろうか。己以外の誰かを悪者にして、こいつが悪い! と言い張ることができたのならば、どんなに良かっただろうか。
けれど、それもできない。
誰かが悪いのではない。
強いて、誰かが悪いのだとすれば、きっと自分が悪いのだ。
これを自責と呼ぶのかもしれないが――。
「あなたは、リズのママ?」
舌足らずな声に面を上げる。
月光を遮るように影が、落ちていた。
真っ黒な影の中に爛々と輝く二つの眼が此方を見ていた。見つめていた。
呼気が漏れる。
喉がひりつく。支える。言葉が出ない。
尋ねられたら、応えねば、という焦燥感だけがこみ上げてきていた。
息が乱れる。
早くしないと。早くしなければ。早く、早く! 早く早く早く早くはやくはやくはやく!!
パニック衝動が己の中に生まれる。
急かされているわけではないのに、急かされているように思えてならない。
どうしよう。
どうしよう。
早くしなければならないのに、どうしても喉がひりついて声が出ない。早くしなければ、と思うほどにドツボにはまるようにして、喉がかすれてしまう。
「……っ、マ、ママ……?」
「そう、あなたは、リズのママ?」
しろい、しろい少女だった。
白い肌。
白い髪。
白いネグリジェめいた姿。
眼の前の影は、少女だった。
深夜の路地裏にいていい年齢ではない。冷静に考えれば、不審な事態でしかない。
けれど、パニックに陥った心では、何もかもが上手く考えられない。
何をどうすればいいのか。
わからない。
「私、ママ?」
疑問形。
怒鳴られると思った。
質問に質問で返すな、と怒鳴られたことを思い出す。
罵倒が幻聴のように耳を打った。横合いから殴られたような感覚。
実際に殴られたわけではないけれど、そうなってしまったと己の体が錯覚を引き起こしているのだ。
ぐらぐらと揺れる体。
いや、視界が揺れているのだ。
すがりつくようにして、眼の前の白い少女に手を伸ばした。
己よりも小さな体躯。
もしも、この手がかかってしまえば、砕けたり、拉げてしまったりするのではないかと思えるほどに華奢な体つき。
けれど、白い少女の爛々と輝く眼が細められた。
「そう、あなたは、リズのママ、だよね?」
「ま、ママ……そう、私、ママ、だよ」
壊れたレコードみたいな、針が飛んだように支えながらも、言葉を紡いだ。
どうしてそんな風に言ってしまったのかわからない。
わからないけれど、そうしなければならないと思った。
「ママに、なって、あげる……だから」
今日は、怒らないでほしい。
一日の最後に怒られたくない。明日からまたがんばるから。明日からちゃんとやりますから。明日からは、できるようになりますから。
追い詰められた心を知ってか知らずか、伸ばされた手は、白い少女に取られた。
「それじゃあ、いこうっ」
「ど、どこへ……?」
戸惑う。
困惑だけが心のなかにあった。どこに行こうというのだろうか?
これ以上どこに行けるというのだろうか?
わからない。
取られた手に小さな指先が絡む。
手を伸びられたのだと理解できて、心が僅かに解れたような気がした。けれど、ひび割れた心に、その解すような温かさは、ひび割れを軋ませるようだった。
「あたま、撫でて?」
「あたま、を?」
「そう、リズを。ママ、ママなら、そうしてあげてほしいの。そうしてあげるのがママだものね。ママはやさしいの。ママはわらってくれるの。ママはうそをつかないの」
ぜったいに、とつぶやく唇が釣り上がっている。
此方を見上げる白い少女の顔を直視できなかった。
けれど、繋いだ手ではない片方の空いた手を、見つめた。
手。
ただの手だ。
撫でる。
撫でるって、どうするんだっけ、と思った。
それはもしかしたら、自分がかつて求めてやまなかったものなのかもしれない。
「なでて? リズを、この子たちも」
そう告げた白い少女の周囲にぶくぶくと泡のように浮かぶ赤い何か。
わからない。
どうしてそんなものが目の前に浮かんでいるのかわからない。
泡は集合体だった。
いくつもの、いくつもの泡が目の前で浮かび、此方を見ている。
まるで、昆虫の複眼のように自分を見ている。
映し出された自分の顔が引きつっている。
「この子たち、『おともだちのみんな』も撫でてほしいの。どうしたの? ママ? ママなら、優しいはず。だから、撫でて上げてほしいの。この子たちみんな、誰も愛されなかったの。祝福されて生まれてきたはずなのに、愛されなかった子たちなの。可哀想。とっても可哀想。どうしてこんなに悲しいことばかりが、かさなっていくのかしら」
わからない。
そんなの自分だってわからない。
自分だってそうだ。
愛されたいと願いながら、愛されていないと感じてしまうような渇きを覚えていた。
もしかしたら、誰かを愛すれば、と思ったこともある。
けれど、自分の愛は、誰かにとっては大事なものではなくて、些細なものでしかなかった。どこまで行ってもすれ違うばかりだった。
真に繋がることもできなかった自分は、きっと泣く泣くこの世を去ることしかできないのだろう。
世界に取り残されたように思えてならなかった。
悲しい。
涙がでる。
ああ、どうしてだろう。
赤い泡の集合体に手を伸ばす。
けれど、弾けた。
散る赤い、赤い、液体。
指先から頬に、血飛沫のように、赤い液体が弾けて散った。
「あ、あ、あああああ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい! こんなつもりじゃ! こんなことするつもりじゃあなかったのに! だって、私、私、私は!」
赤い飛沫に塗れた手をこする。
ぶるぶると頭を振る。
違う。違う。そんなつもりじゃあなかったのだ。
だって、だって、『あの時』は、そんな余裕なんてなかったから!
だって、愛していると言ってくれたから!
言ってくれたから、信じられたのに!
なのに、その言葉も全部嘘だったって気が付きたくもなかったのに、気がついてしまったから、こんなことになってしまったのに!
「わたし、違う! だって、ひっ、わたし……! わたしぃ!!!」
握りしめられた手が振りほどけない。
白い少女は、首を傾げていた。
「どうしたのママ? どうして、そんな顔をしているの? まるでお化けでも見たような顔をしているわ? ここにいるのはリズと『おともだちのみんな』だけ、だよ?『その子』は、もうどこにもいないわ?」
爛々と輝く瞳の中に、映る自分の顔。
頭を振って、手を振りほどこうとする。
けれど、まるで振りほどけない。
眼の前の少女の腕を振りほどけない。逃げ出したい。なのに、どうしてもそれができない。
「ねえママ」
少女は尋ねた。
それは詰問でも尋問でもなかった。
ただの確認だった。
質問ですらない。
白い少女は首を傾げていた。
「ほんとうにママ?」
その言葉には、きっと意味があった。
少なくとも二つ以上の意味があった。
一つは、希求。
一つは、断罪。
言ったはずだ。
ママは、優しくて、笑ってくれて、そして何よりも。
「ママは、うそをつかないの」
うそ。
うそ、なんて。
ついて、ない。
「だって、私は、ママ――」
「だれだって、ママになれるけれど、ママになってはいけないママもいるんだよ」
それが最期だった。
振り下ろされた衝撃は、きっかり41回。
ぎぃ。ぎぃ。
ぎぃ。ぎぃ。
ぎぃ。
「だって、リズにうそをつくママなんて、ママじゃあない」
「ほんとうのママなら、リズに笑いかけてくれる」
「だって、誰よりもリズに寄り添ってくれるから」
だから、ママではない。
白い少女は、己が握りしめていた手を見下ろす。
血に塗れた腕。
興味を失ったように、それを路地裏に打ち捨てる。
赤い血飛沫が周囲のコンクリートに散っている。
流れた血潮は、アスファルトの隙間を毛細管現象のように入り込んでいく。
それを、じぃ、と見つめていた白い少女の瞳はもう輝いていなかった。
「なんばー・らんばー・すらんばー。すうじ、もくざい、うたたね。いみなんてしらないけれど、いみなんてあったためしなんてないもの」
歌うように、つぶやくように、言い聞かせるように。
白い少女は月光を見上げて、血溜まりの中、水たまりを長靴で遊ぶように跳ね上げて舞う――。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功