万華鏡の底より あいを込めて
その和室には、昼なお薄暗い静けさが沈んでいた。
障子越しの光は白く曇り、庭先の木々が風に揺れるたび、
葉擦れの音だけがかすかに聞こえてくる。
人の暮らしの匂いよりも、長い年月そのものが居座っているような、古い家だった。
実体を得たばかりの|蓬平・藍花《糸切鋏》(彼誰行灯・h06110)は、
節だった大きな手に引かれながらその和室へ入った。
部屋の隅には、使い込まれた木枠に幾筋もの傷がある三面鏡台が置かれている。
磨かれた鏡面だけが妙に新しく見えるそれは、この家に住んでいたアノ子の遺したものだった。
もっとも、幼い藍花はそんな事情を知らない。
知っていたとしても興味など持たなかっただろう。
実体を得て間もない彼女にとって、世界はまだ珍しいもので満ちていた。
畳の目も、障子の桟も、
庭石に落ちる木漏れ日も。
何もかもが新しかった。
だから彼女は、ふらふらと鏡台へ近付いた。
そこに理由などない。
子供が水溜まりを覗き込むのと同じことだった。
鏡の前で足を止める。
ヒトの世の理ならば、そこには小さな顔が映るはずだった。
「……?」
けれど映っていたのは、|自分《あの子を模したビスクドール》ではなかった。
藍花の溶けた藍苺色の瞳が瞬く。
だが、鏡の向こうの女は瞬きをしない。
闇を思わせる|簾《前髪》が顔を覆い、その奥で銀色だけが光っていた。
生き物の目というより、冷たい冬の月明かりに似ている。
『あなたは、だぁれ?』
無邪気に問いかける声は、警戒というものを知らぬ色だった。
すると女は笑った。
顔は見えない。けれど笑ったことだけは分かった。
紅だけが、ゆっくりと弧を描いたからだ。
その紅は花の色ではなく。血の色でもなく。
もっと古く、もっと禍々しい何かを思わせる赤だった。
女は、酷く嬉しそうだった。
ーーーーーーーーーー
藍苺堂の灯明は疾うに落ちていた。
棚に飾られた鼈甲の簪や銀の煙管、
婚礼の櫛や異国の懐中時計は、街灯の淡い光に輪郭を撫でられていた。
それらはヒトの記憶を飾り、
美しさ故に捨てられず世界の片隅で眠る|古物《ふるもの》たちだ。
藍花はそうした「旧き良きモノ」を愛していた。
カウンターにのんびりと頬杖をつき、愛しいモノたちを眺めやる。
手元の盃に注がれた琥珀色の酒が怪しく揺れ、鈍い黄金の鱗のように明滅していた。
向かいには、彼女が「麗しの蜜香酒」と褒めそやす|如月・縁《蜜香酒》。
先ほどから他愛無い話題で好みの酒を傾ける、贅沢で上等な昏がりの時間。
「ふ、ふ。縁くんは今日もたくさん飲むねぇ……?」
縁が小さく苦笑する。
「あら。それを言ったら藍花さんだって」
藍花は小さく溜息を漏らした。
心地よい酩酊が五体に染み渡り、瞳の|藍苺色《ブルーベリー》が夜の闇と同化するように緩やかに滲む。
こんな世界から切り離された夜が永劫に続けばいい。
心の底からそう願っていた。
だから、気付かなかったのだ。
「……あら、お客様?」
店の隅、闇の中からぬるりと何かが動く気配がこぼれた。
そういう来訪の仕方をする知人に覚えがありすぎるから。
藍花は特に気にせず出迎えようと目を向けた。
最初に見えたのは、髪であった。
長い。
床一面を侵食していくかのような、艶やかな黒。
それは夜そのものが、自らの尾を引き摺って、鏡の向こうから溢れ出してきたかのようであった。
次いで、雪を欺く白い肩。
着崩された着物と、淫らなまでに豪奢な帯。
そして――顔。
美しい女だった。
ニタリと歪む、銀色と艶やかな紅色。
自分は確かに、|この女を知っている《・・・・・・・・・》。
けれど、どこで、いつ、何故。
それだけが思い出せない。
酒器を持つ指先が震える理由すらわからぬまま、ただ――【奪われた】ということだけを理解した。
「藍花さん……大丈夫ですか?」
縁が心配そうに声をかけるが、彼女の耳には届かない。
「あら」
銀色の瞳が、叩き割られた万華鏡の奥で
無数の凶器のような光が狂い回るように、愉しげに細まる。
「あら、あら……酷いわねェ……覚えていないの?」
それは蕩けるような祝福の響きを孕んだ声だった。
覚えていない。
忘れている。
何かが、誰かがいない。
名前を呼ぼうとしても舌が空を切り、思い出そうとしても指先から零れ落ちる。
確かにそこに居て、笑っていた気がするのに、輪郭だけが削り取られている。
抜け落ちた歯を舌で探るように、触れるたび空洞があることだけを知る。
「……かえして」
その言葉だけが、魂の血を吐き出すように唇から零れた。
感情の欠けた表情、濁る藍色
その裏にあるのは、アノ子を奪われたことへの深怨か
自分の中のアノ子が欠けていることへの絶望か
藍花自身にも分からない。
しかし女は勝ち誇りもせず、
その痛切な叫びを極上の音楽のように受け止め、耳元へ囁いた。
「あら、|愛しい姿《想い出》を返して欲しいの?」
囁きは、耳元へ甘く響く。
血で書かれた恋文のように。
逃れられぬ求婚のように。
「じゃあ――その代わりに、アナタ自身を、チョーダイ?」
末代まで縛る 呪いのように。
怪異の気配が薄れ、夜の冷気が少し引いた頃。
「藍花さん、藍花さん」と、異変を感じた縁が何度も声をかける。
状況を察した珠花や小蘭が駆け寄り、冷えた身体を温めるように寄り添った。
けれど、その温もりも案じる声も、硝子を一枚挟んだように遠い。
外部から襲われたのではない。
ただ、自分の胸の真ん中に最初から穿たれていた
底知れぬ空洞を見つけた気がして。
寄り添う友の肩越しに伝わる鼓動に安心を覚え、藍花は自らの額を押し付けた。
冷え切った藍苺堂の真ん中で、その空洞を両腕で抱え込んだまま、魂の抜け殻のような呟きが零れ落ちた。
「……どうしよう……」
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対象の活動を確認。
以下、現時点で判明している情報を記載する。
【個体呼称】
怪談うつしみ亜種『|虚鏡《うつせみ》』
【概要】
標的が強い執着・愛着・喪失感を抱く人物の姿および関連記憶の
一部を窃取する怪異。奪取した情報を基に鏡像の受肉体を形成し、
対象へ接触して精神的動揺を誘発する。
【特徴】
固定された本体は存在しない。
鏡面を経由し出現するため実体の定義は極めて曖昧。
現象や怪異そのものに近い。
鏡面を確認した際は十分注意されたし。
本個体は、既にその向こう側からこちらを見ている。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功