夕暮れのような生死のはざまを
「ふふ、うふふふ……」
2mに届こうかという長身を丸め、ふらふらと頼りなく歩く男。羽織った白衣の裾はボロボロで、清潔であるはずなのに奇妙に清潔感がない。
ならばその風貌は損なわれているのかというと――継ぎ接ぎの肌はパッチワークのように色もめちゃくちゃではあるが――決してそうではなかった。もっとも、目元に隈を浮かべ、やけに可愛らしい日記帳を読みながらニヤニヤ笑っているとなると、完全に不審者なのだが。
「ああ、これですかぁ? おれの妹が日記書いてくれたんですよぉ」
フィーガ・ミハイロヴナは、やけに明るく大きな声で喋る。薄暗い路地裏を歩く彼の隣には――というか周りには、誰もいない。無意味なほどにはきはきとした声が、やはり無意味に反響する。
「|日記帳《これ》もねぇ、妹の好きなやつを買ったんですよねぇ。
図体のでっかいおれには似合わないかもしれませんけどぉ……へへ、へ」
歩く度に白衣がガチャガチャと物騒な音を立てた。コートの裏に装備されたシリンジシューターや、ポケットに無造作に突っ込まれたメス、|鈎付き鉗子《コッヘル》、様々な剪刀、|鈎《ハーケン》――路地裏には似つかわしくない多種多様な医療器具がぶつかる音だ。
「わぁ、見てくださいよこれ! 『おにいちゃんへ、だいすきです』ですって! へへ、へへへへ!」
フィーガは頭を抱えるようにガシガシと掻いた。薄暗い路地裏に射し込む切れかけのネオン看板の光が、背中を丸めた長身の影法師を長く投げかける……時折、その周囲に存在しないはずの人影や、もっと悍ましい何かのシルエットが生じた。それはいないはずの、だがここに存在する|死霊《インビジブル》の輪郭だ。
「ダメですよぉ? いくらお隣さんでも大事な妹はあげません。我慢してくださいねぇ」
フィーガは死霊の囁きを鬱陶しそうに腕で払った。彼の独り言はそうした目に見えないモノとの対話が主だが、そうでないこともある。生と死の境目を千鳥足で歩く|継ぎ接ぎだらけ《デッドマン》の思考など、常人に理解できるはずもない。
やがて彼は袋小路に辿り着いた。そこには赤黒く変色したシミがあった――ただし、無数に。血腥い惨劇が起きたことをまざまざと知らせる。
「やや! おっかないですねぇ。よいしょっと……」
フィーガはその場にしゃがみこむと、リトマス試験紙めいたものを取り出し、ぬめった血に浸した。似合いもしない眼鏡をかけ、なにやら分析を始める。
「いいですね! いや、よくないですけどぉ……今回は上物かもぉ」
赤い瞳が爛々と輝く。既に起きた惨劇は嘆かわしいが、手応えのある怪異の片鱗を見れば誰でもこうなろう――そんな無防備な背中を、さらに巨大な質量が影となって覆った。
……ガギンッ!!
「危ないところでした!」
鈍い金属音を立て、蜘蛛の足めいた鋭い爪が壁を穿っていた。それはフィーガの頭部を破壊するつもりで振り下ろされたものだが、彼は無事だ。頑丈な医療器具でギリギリ受け流していたおかげである。
質量……つまり背後に忍び寄っていた巨大な怪異は残った五つの手足のうち、四つを使い後ろへ飛び退った。虫を思わせる頭部がメリメリと左右に割れ、ミミズじみたもう一つの頭部が生える。フィーガは立ち上がり、メスと剪刀をナイフとフォークめいて構えた。
「こんにちはぁ! 今から解体しますので、あんまり暴れないでくださいね|お隣《怪異》さん!」
危険を囁く死霊と、解体すべき怪異は彼の中でイコールだ。金切り声じみた超高音の雄叫びにも顔色一つ変えず、フィーガは恐るべき怪異に向けて歩き出した。これが、彼の日常だった。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴 成功