夢現
煉瓦造りの道を歩く。
仮面をつけていたとしても人目は避けねばならない。腐っても魔術師の家系に生まれておきながら反旗を翻し、路地裏に息を潜めるレジスタンスに加担しているからには、リオル・プラーテ(|空《うつろ》の夢・h01411)の名も顔もみだりに知られてはならぬのだ。
それゆえ、人のいない道を選ぶ足取りが堂に入ったものになるのも当然のことだった。数多の種族が行き交う大通りから数本外れた帰途を急ぎながら、彼は浅く息を吐く。
隠した左腕の紋を一瞥する。彼の力を以てすれば誰とも接触せずに生活することも容易だが、みだりに使うことを良しとしているわけでもない。下手に痕跡を残して厄介を招く方が余程下策であろう。
――魔術師の末席に連なる家に生まれた、家系に見合わぬ天賦の才を持つ男児は、重すぎる期待ゆえに手に余る力を押し付けられた。
魔術の巧拙が全てを決める|Elpis《エルピス》の中にあって、プラーテ家は数多ある小規模な魔術師の家系の一つだ。国王に見初められた魔術の遣い手となり、その恩寵を得るために邁進する彼らにとって、リオルは望外の天才であった。
将来を嘱望された幼い少年が一族を背負っていられた間、両親ときょうだいが彼を褒めない日はなかった。花を咲かせただけで、小さな怪我を治して見せただけで、蝋燭に火を灯し、水球を空に浮かべ、風を呼んだだけで――誰しもが彼の未来に名声を描いた。純粋に応じ続けていた彼の希望に満ちた半生が終わりを告げたのは、黒い紋様が左腕に刻まれたその瞬間だった。
世を統べる|理《ことわり》を揺るがすほどの魔術を御せる術師は、時に術式に|選ばれた《・・・・》と語られることがある。とりもなおさず、それほどに扱いが難しいということだ。
遣い手を選ぶ魔術の一つが幼いリオルの腕に宿ったとき、彼はそれが|おりこうさん《・・・・・・》への贈り物なのだとだけ聞かされて、無邪気に喜んでいた。
以来、リオルはプラーテ家きっての天才魔術師から出来損ないになった。
彼を罵り遠ざけた家族は知らぬことだったが、時空魔術は単なる才覚のみで制御出来るような代物ではなかったのだ。それを暴発させることなく、発現しない――という形に押し留めた時点で、かの魔術はリオルを|選んでいた《・・・・・》といえよう。
血の滲むような努力の果てに、独学で制御を覚えられたことが証左である。再び笑顔を向けてもらえると信じていた彼は、舞い落ちる木の葉の時間を|遅延《・・》させてみせたとき、目を輝かせて顔を上げた。
そこにあったのは、何か悍ましい化け物でも見るような、冷たく怯えた眸だけだった。
とうとう一族の人間だとさえ認められなくなって、リオルは長く牢に閉じ込められていた。その間にも続けた努力に十全の確信を抱いて、彼は時空魔術を利用して屋敷の外へと行方を晦ましたのだ。
最初に出会ったレジスタンスの少年と少女は、もう二度と他者に期待などすまいと定めた心を融解せしめた。初めての|友達《・・》との生活も気付けば長くなったものだ。
心友と友人のいる場所を|家《・》と呼んでやっても良いかもしれない――そう思いながら路地を曲がり、扉を開いた瞬間である。
リオルは瞠目した。
◆
少年の世界が薄暗い牢に鎖されて久しい。
幼い頃に両親が買ってくれた自由帳は汚れ、何度も捲ったせいで角が丸くなっていた。
それに向かい続ける水藍・徨(夢現の境界・h01327)に自由はない。管理機関が両親の手から彼を譲り受けたときから――或いは渋り続ける|本当の両親《・・・・・》を処分し、現実に耐えきれなくなった徨が創り出した|両親《・・》が彼の意向を尊重したときから――少年の一日は様変わりした。
投薬の理由は慎重に言葉を選んで説明されたが、元より逆らうつもりはなかった。実験と称されて手渡される新品のノートに想像を紡げば、笑顔の両親の代わりに凍り付いたような表情の大人が褒めてくれる。人が眼前で死んでいくのにももう慣れた。感情を抑圧する薬の効力もあって、徨は今や返り血を浴びても眉一つ動かさない。
それでも――心の大半を失い、頭を撫でてくれた両親を喪っても、彼は手の中の自由帳に綴る世界だけは失くさなかった。今日も思い付く限りを書き記したら、閉じたそれを抱き締めて冷たい壁に寄りかかる。
両親はどうしているのだろうか。会いたい。こちらから見ることが叶わずとも、徨がここで息をしていることだけは伝えておきたい。今更自由になりたいと言うつもりはないが、せめて心配しているであろう彼らに声を届けたかった。
「誰か……出してくれない、かな」
例えば、大切な無地のノートに記した御伽噺の、最強の主人公だとかが。
与えられたペンで自由帳に綴る以外に許された唯一の自由――独り言を零した刹那、彼の|収容室《へや》に続く唯一のドアが開いた。
◆
立ち尽くしたリオルは眼前の少年を見下ろした。
ここがどこなのか分からない。Elpisでは見たこともない内装だ。レジスタンスの拠点よりも昏く、行きつけの貧乏喫茶よりも殺風景である。本来であればすぐにでも背を向けねばならぬ異状を前にして、彼が踵を返さなかったのは、何より眼前にある姿から目を離せなかったからだった。
前髪の一部だけが薄く桃色に染まった白い髪。金色の双眸。細部に至るまで鏡映しの姿に唯一違いがあるとすれば、少年――徨の目には、リオルの宿す意志の炎が弱く燻るだけであることか。
まるで己の写しであるかのような彼からようやく視線を外し、仮面の少年は後方を振り返った。背筋を這い回る嫌な予感に違わず、そこには先まで通っていた煉瓦造りの道など存在しない。見たことのない薄緑の照明器具に照らされる、知らない建材で造られた廊下が、静謐な圧迫感を伴って沈黙しているだけだ。
ひどく混乱していた。しかし眼前に人がいる以上、取り乱すべきではないと判じもした。リオルは一つ咳払いをして、慎重に後方の扉を閉める。
「――初めまして」
「はじめ、まして……」
見目に違わず小さな声だった。抑揚を伴わない震える口調から感情を読み取ることは叶わない。日頃纏うにこやかな仮面を張り付けたままで、リオルは重ねて問う。
「突然失礼しました。どうやら室内の様子ですが、ここはあなたの部屋ですか?」
「はい……そう、です」
「それは重ねてお詫びします。僕はお暇したいのですが、出口はどちらに?」
「わかり……ません」
返事に思わず僅かに眉根を寄せる。
それでようやく部屋を見渡す余裕を思い出した。窓が一つもない。奇妙な装置が四方に取り付けられている。出入口はリオルの後方にある重い扉のみであるようだ。
思わず目を眇めたのは間違っても眼前の少年のためではない。自身が長らく身を置いていた、忌々しい牢を思い出したのだ。
浅く息を吐いて目を伏せる。再び笑みを刷いて、彼はどこか虚ろな徨の眸を見据えた。ともあれ今は要らぬ過去を回想している場合ではないだろう。何とかしてここから帰る方法を見付けなくてはならない。
――或いは、この時点で彼が己に備わった能力を十全に理解していれば、眼前の少年に頼る必要はなかったのかもしれない。
しかし今の彼が意思疎通を図れそうな存在は、ここには徨の他になかった。どうあれ彼から情報を得ぬことには動きようもない。空が見えるならば夜を待てば良い。星がある程度の方角を教えてくれよう。だがここは窓一つない室内で、何か不気味な装置がリオルと徨を睨むように見下ろしているのだ。あてどなく静まった廊下を彷徨いながら外を目指すのはリスクが高すぎる。
それで、彼は幾つか問い掛けることにした。
「質問を変えましょうか。普段はこのドアから出入りを?」
「大人は……そうです。僕は、わかりません……」
「そうですか。どこか出掛けることは?」
「ありません……わかりません」
「――あなたはどうしてここに?」
「……わかりません」
思わず深い溜息を吐いて、リオルの手が額を押さえる。何を訊いても判然としない答えしか戻らない。これでは何の役にも立たないではないか。
「……お前、バカ?」
苛立ちに満ちた声が本来の言葉尻を紡いだ。
日頃の彼であればこのようなことで繕った仮面を外したりはしない。だが今は状況が悪すぎた。いつもと同じ道を辿り、いつもと同じように帰ったはずだ。それが扉を開いた瞬間に知りもしない場所に辿り着いた。周囲にあるのは見慣れぬものばかりで、退路もない。挙句の果てに目の前の唯一意思疎通の出来る相手は先から同じ言葉を繰り返すばかりだ。
焦燥と混乱が彼の余裕を削いでいた。落ち着こうにも状況はそれを許してはくれない。金色の双眸に怒りを隠しもせず、荒い語尾が徨を責め立てる。
「分かりません分かりませんって、他に何かないのかよ。自分のいるところのことなんだから気になるだろう、普通、少しは」
「あ、はい……ごめんなさい……」
「ごめんなさいじゃなくて。出たいと思ったこともないのか?」
その言葉に――。
ようやく、徨は人らしい反応を見せた。
「あり、ます」
古びた自由帳を強く抱き締めて、彼は怯えるように体を丸めた。零れるか細い声は先と変わらない。しかし抑揚を一切持たなかったそれとは違い、続く声は切実な響きを帯びた。
「僕を……僕を、助けて下さい……。出来ることは、する、ので……」
――かかった。
思わずリオルの唇に笑みが浮かぶ。眼前の相手はどうやら随分な目に遭わされて来たようだ。同情など微塵も抱かぬが、陰惨な背景が少なからず彼に味方したことは僥倖である。
交渉の余地がある。それどころか|出来ることはする《・・・・・・・・》と当人が口にする始末だ。相手の容貌を聞かぬうちから自身の条件を提示するのは悪手中の悪手だが、それさえ知らずに育ったと見える。
ともあれリオルの望む条件は容易に取り付けられそうだった。笑みを隠さぬまま頷いて歩み寄ってやる。
意志の薄い徨にどこまでのことが出来るかは知らぬが、少なくともここに閉じ込めておかねばならない理由がある。ということは、彼自身が無力であったとしても、この施設を保有している何らかの組織との交渉カードにはなるはずだ。
「分かった。僕がお前を出してやるから、お前は僕が帰れるように協力しろ」
「わかり……ました」
促してやれば緩慢な仕草で立ち上がった少年は、きつく自由帳を抱きしめただけだった。他に必要なものがあるかを問うてやるほど優しくはない。|外に出してくれ《・・・・・・・》というのが要旨なら、リオルはそれを遂行するだけだ。
「行くぞ」
返事を聞かずに扉を押し開ける。慌てるような様子もなく立ち尽くす徨を一瞥して促してやれば、虚ろな足取りが従うように前に出た。
まるで意志がない。自身と同じ顔がどこか怯えたような顔をして俯くさまはいやに心を波立たせるが、押し黙った彼のことを己ばかりが気にしているのも癪だ。何らの興味もないそぶりで一瞥もせずに歩き出す。
徨の収容室と同じリノリウム張りの床を二人分の足音が連れ立つ。彼が時折逡巡するように足を止めるのも、これほど音が通る静謐な回廊にあっては分かりやすい。そのたびにリオルが苛立ったような表情で振り向いて、依頼の遂行のために無言で瓜二つの彼を促した。
十分ばかり歩いたところで別の音を聞き留めた。立ち止まるリオルの後方でフードを引き寄せた徨の予想に違わず、現れたのは彼に実験と投薬を行う人々――正確には同じ衣装を着た職員である。
「おや、僕に御用ですか?」
彼が唇を引き結ぶ一方、素知らぬ顔のリオルはにこやかに首を傾げた。術式の発動は既に用意してある。敵対的な仕草を見せたなら、一秒と掛からず、彼らは昏倒することになるだろう。
しかし。
彼の予想に反して、職員たちの目に浮かんでいたのは明らかな当惑と混乱だった。何か奇妙なものでも見たかのような表情で少年たちをしげしげと眺める彼らに言い知れぬ違和感を抱いた刹那、前に立った男が穏やかに笑った。
「申し訳ありません。そちらの少年は我々の保護対象でして、お手を離して頂けますか」
「聞けませんね。あなたたちの都合なんて知りませんよ」
――どうやら仕掛ける気はないようだ。
さりとてリオルも引き下がってやるつもりはない。どうあれここから出なければ先はないのだし、あっさりと手を引いてしまえば今度こそ何らの手掛かりも失うことになる。少なくとも年端もいかぬ少年を監禁し、外にも出さぬ生活を強いている相手だ。素直に協力を仰いで何とかなるとも思えない。
彼らはリオルを相手に|上手くやろう《・・・・・・》としているのだろうが、その程度のことは簡単に読める。他者に対する絶対的な不信感が、彼に確かな観察眼を齎したのだ。
交渉のテーブルに着く気も、こちらの思い通りになるつもりもないのならば、取りうる手段は一つしかない。
徐に腕を持ち上げた少年の姿に全員が身構えた。後方の一人が何やら叫び出す。
「応援要請! 『|想像の創造《ディミウルグ》』の収容違反を確認! 協力者一名、『想像の創造』の――」
――その声が響き終わらぬうちに、リオルの魔法は成っている。
全ての音を失いぴたりと動きを止めた人々を仕留めるのは簡単だ。時を止めれば一方的に優位に立てるのは当然のことである。
逃げるにも戦うにも便利なこの力を使わなかったのは、ひとえに同行者の存在ゆえである。
リオルは己の手の内を自ら開示したりはしない。例え相手が意志も意識もぼんやりとしている見るからに非力な少年であったとしても、一度でも種が割れれば対策を取られる懸念も、口外されるリスクも付き纏うことになる。
ともあれ完全に優位に立ったが、彼に命を奪うつもりはなかった。
下手に命を奪えばしがらみが付き纏う。事が余計に厄介になるような、要らぬ恨みを買うつもりはない。要は|勝てない《・・・・》と知らしめれば良いのであるから、全員を昏倒させるだけで充分だ。
仕込みを済ませて指を鳴らす。時間を取り戻した世界が動き出した刹那、そこに立っていられるのは徨とリオルだけだ。動揺したようなノイズ交じりの声を零す通信機を踏み潰し、仮面の少年が鼻を鳴らす。
そのさまを、自由帳を抱えた少年がじっと眺めていた。
「これ、は……」
何か考え込むように足を止めて俯く徨の額を冷たい手が軽く叩く。じんじんと痛みを訴えるそこを押さえた彼が顔を上げた先で、仮面の下の金色が凍てつく色で溜息を零した。
「……はぁ。考えるより体を動かせよ。僕らは逃げてるんだぞ。無駄なリソースを使わせるな」
「あ……はい」
文句も反論もない。やはり茫洋とした足取りを一瞥し、リオルは目を眇める。
そろそろ相手が誰なのか確かめたくなる頃合いではないのか。少なくとも彼は眼前の少年が何者であるのかを知る必要を感じているし、この建物の構造についても思いを巡らせている。彼にいつ問われても名乗る準備は出来ていた。
しかし自由帳だけが世界の全てであるかのような顔をした、リオルと瓜二つの少年は、現状に疑問を抱くような様子を一向に見せない。前を行く背の声に従って身を動かしているだけだ。
まあ――仮面の下で瞬く。
名乗らなくて済むのならばそれに越したことはない。少年たちの脱走を阻もうとする者たちの携える奇妙な装置は、どうやら遠隔地と会話が出来るようだ。その性能も分からぬとなれば、どこで誰に聞かれているか分からない名をおめおめと口にするのは悪手だろう。
この場を離れて安全を確保してから問えば良い。そのときにはどうせ名乗る羽目になるのだから、わざわざ敵地の中央で和やかに無駄口を叩く必要はない。
建造物の影に身を隠し、職員の姿を見れば時を止めて細工をする。見付かったならば片端から黙らせるだけだ。同じだけ魔術に長けた者がいないのなら、鳴り響く警報と慌ただしく走り回る人々の足音がリオルを捕えることが叶うはずはない。
「報告! 対象は西B棟一階を北に移動中、詳細不明の能力を用います! 至急応援を」
「少し煩くなってきましたね」
曲がり角から叫ぶ声が聞こえる。
指を向けて一秒、加速に一秒、腹に一撃を叩き込んで一秒。にこやかに笑った少年の表情が、すぐに嘲りを含んだそれに変わる。
「静かにしていただけませんか? って、聞こえてないか」
――動き出して一秒。
短い呻き声と共に頽れた身を置き去りに歩き出す。敢えて魔術を使うタイミングを遅らせたお陰で、自分たちの現在地が地図なしでも大まかに割れている。
「ここは西棟な。向かってる先は北か。ってことはこっちが東――」
視線を巡らせて声を零す。敵は位置を正確に共有しうる技術も持っているようだ。通常の魔術師であれば、狭い室内の細い廊下で前後を挟まれれば窮地に陥っただろうが、今回ばかりは相手が悪い。
リオルの時空魔術は|種が割れなければ《・・・・・・・・》対抗さえ許さない。同行者さえいなければ体力と魔力の続く限りあらゆる軍勢の手を逃れ得るのは勿論、押し寄せる敵軍を単独で――それも一瞬で――押し返すことすら容易だ。
即ち敵は援軍を呼ぶことすら儘ならないし、応援が駆け付けるまでリオルと徨をその場に留めておくことすら叶わない。こうして|敢えて《・・・》見逃されたとすれば、彼が情報を得るための手駒として扱われるのが関の山だ。
「勝手に教えてくれて助かります」
腹を押さえてもんどりうつ職員に皮肉を述べ、通信機を踏み潰す。この周辺にいる者が現れる頃には、痛みに耐えかねて気絶した白衣と無残に破壊された通信機だけが残っていることだろう。
それにしても――歩みを進めながら、仮面の少年は後方を振り返った。
徨の足取りは部屋を出たときと変わらない。それどころか先から不可解な力で人々が昏倒していくのを見ても眉一つ動かさない。この状況に焦りも感じていないのか、或いは情動そのものが希薄なのかは分からぬが、ともあれ今は少しくらい先を急いでもらわねば困る。
「鈍臭いな。早くしろ」
無理矢理に腕を引いた。無遠慮な仕草に引き寄せられてバランスを崩した彼は、しかしやはり驚愕も怒りも露わにせずに、絞り出すような虚ろな声を上げた。
「ありがとう……ございます」
「言っておくけど、お前の為に動いてるわけじゃないからな。対価は払ってもらうぞ」
「はい……僕に出来ること、なら……」
その言質だけがリオルの目下の希望である。返事の代わりに鼻を鳴らした彼は、己たちの進行方向を遮るように現れる扉へ、幾度目になるか分からぬ魔術を放った。
――迷路のような施設から、体力も気力も尽きぬうちに外に出られたのは僥倖であったといえよう。『|想像の創造《ディミウルグ》』と名を受けた徨が、その従順さと意志の薄弱さから比較的管理が容易な存在として認定されていたことが大きい。
ひとくちに|人間災厄《・・・・》といえど管理の難易度は個体による。強大であれど協力的な存在よりは、非協力的な個体の方が厳重な管理下に置かれているものである。その点で、徨は出入り口に近しい収容室を宛がわれていた。
しかしそれは彼らの預かり知らぬ事情である。久方ぶりに陽の光を浴びながらひとまず安堵の息を吐いたリオルは、再び表情を引き締めた。
ようやく外に出られても安心は出来ない。どういう理屈か知らないが、彼らはリオルと徨の位置を精確に把握していた。となれば、どの出口からどの方向に逃げたのかも割れているとみていいだろう。出会った相手は片端から昏倒させてきたが、追加の人員を動員して追手がかかるのも時間の問題だ。
「もう少し距離を離した方が良いな。行くぞ」
返事は聞かない。素直に――それ以外の方法を知らないかのように追って来るのは理解していた。振り返りもしない背を前に、徨は僅か気だるげに目を伏せる。
慣れぬ運動は思いのほか大きな負担を齎していたが、彼にはそれを理解するほどの機微も、リオルに告げる意志も薄かった。口を開かぬまま、よろよろと追った先の救世主の背は、ふいに立ち止まった。
「この辺りで良いか。それで、対価の話だが」
「はい……あっ」
引き摺るように歩いていた徨が小石に躓く。投げ出された体が咄嗟に受け身を取ったせいで自由帳が零れ落ち、頁を開いて投げ出された。
「何してるんだよ」
リオルの方は思わず目を眇めたが、牢暮らしがどれほど体力を蝕むのかは知っている。彼は己を見失うことなく魔術の鍛錬を重ねたが、徨はその意志の薄弱さからして特別動いてもいなかったのだろうから、あれほどの距離を走って疲弊するのは当然だろう。
そう思えば少しは優しくしてやろうという気にもなった。リオルの帰還が叶うのがいつになるか分からぬ以上、当座の協力者に恩を売っておくのも良いだろう――投げ出されて広がった自由帳を拾ってやろうと伸ばした手が軋むように止まる。
見慣れた王城と城壁が描かれた真白の紙には、よくすれ違った異種族の姿が同じように並んでいた。黒い仮面を着けた主人公と思しき顔を、彼は嫌というほど見たことがある。その紙の上方に記されている文字は。
――『Elpis』。
「は?」
茫然と声が零れた。見開いた金色の眸を幾度瞬いても、文字も絵も消えない。
「何だよ、これ」
「これ……は、僕の……考えた、お話、です」
自由帳に緩慢に手を伸ばした徨が訥々と語る。幼い頃から描いて来た自由帳の中の楽園に、彼は一つの物語を編み続けて来た。今も古びた自由帳に、父母に買い与えられた筆記用具で広げた世界の中で、英雄となる|彼《・》の姿を描いている。
類稀なる才能を持って生まれ、時空を操る術に選ばれ、いずれ最強の魔術師となる、|自分と瓜二つの顔をした少年《・・・・・・・・・・・・・》の冒険譚――。
「ふ」
唇は知らず戦慄いていた。浅くなる呼吸を肺に溜め込みながら、リオルは蒼白な顔で座り込んだままの少年を睨む。
「ふざけるなよ! そんな……」
|自分《リオル》はおろか、彼の生きた世界の全てが造り物であるかのようなことが。
彼の中には十五年の人生が過ぎっていた。城壁に囲まれた堅牢な街。王城。両親ときょうだいたちの歓声、期待の目。失望の罵倒を受けたときの絶望も、懸命に習得した魔術も、使い物になったと思えば閉じ込められたことも。
己に伸べられた二人の掌。心友と友人と共に牙を研ぐ時間。遠大な展望、夢を夜通し語った日、煉瓦を歩く感触ですら――。
全て。
全て自由帳の中の落書きに過ぎぬというのか。
「そんなことがあってたまるか!」
悲鳴じみた声を上げ、リオルは拳を握り締めた。振り上げた手の行く先で、少年が身を縮めるのを見た刹那、腕を振り下ろすことが出来ない己に気付いて急に恐ろしくなる。
咄嗟に徨に背を向けた。燃え上がる怒りのぶつけ先は目の前にあったはずだ。無力な少年など殺すくらいは他愛ないのに、何か大いなる力で押さえつけられているかの如く動けなくなった。ただの嘘と判じてもおかしくない荒唐無稽な話を強烈な確信と共に信じ込んでしまったことさえも、|創造主《・・・》に抗えぬ|被造物《・・・》を証明するような気がして悍ましい。兎に角、己と同じ顔をした少年の姿から一刻も早く遠ざかりたくて、彼は無我夢中で息を詰める。
――その背が曲がり角に消える。
ぼんやりと見送っていた徨は首を傾いだ。中途半端に伸ばした手を下ろす。宝物が汚れていないことを確認してから強く抱き締める。名も知らぬ己の救世主が唐突に声を荒げた理由も、手伝いを要請しながら彼を置いて走り去った理由も、己の永き想像が創造されていたことを知らぬ彼には分からない。
ただ、自由になったのだということだけは分かった。
フードを目深に被る。立ち上がって歩き出した。どこかに行かねばならない。己を追って来ているのだろう誰かから逃れるために、ここではないどこかへ。
かくて在らざるべき因果は紡がれた。自由の代償として救世主の顔を忘れる少年のあてどない足取りが、代償に全てを知った少年の足音とは反対の角を辿って、消える。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功