ソフィアの転落
何もかもは偽りだと、何もかもは贋作だと、齢24の私は世界の真理とやらに気が付いた。神の声が聞こえるか、云々と、神の生まれ変わりか、云々と、あらゆる讃美を耳にしたが、それらは悉く、私を食い物にしようとする名演技にすぎない。そう、確かに私は天才だろう。天才だろうけれども、それは、努力の賜物であって――天から、神から授けられた玩具ではない。いや、連中は――先生を騙る化け物の群れは――にちゃにちゃと、その事くらいは知っているのだ。ああ、莫迦にしやがって。阿呆にしてくれやがって。私は、私の為に、私の為だけに此処までやってきたと謂うのに、何もかもが泥濘に投げ込まれてしまった。泥臭いものに囲まれて、文字通りに、天使の真似事と謂うものをやってみる。やってみたなら連中はそれに『価値』を見出して、やれ、一分幾らだ、一時間幾らだと、ぎゃあぎゃあ虫のように騒いでくれる。いい加減にしてくれ。私は……私は……生きる為にこれをしているんじゃない。そんなことも、そんな思いもわかってくれないのか。ああ、わかってくれる筈がない。何せ、私自身も……神とやらに身を売ってしまった女だからだ。金が! 金が無ければ『これ』に齧りつくことすらも赦されない! 世界の真理とやらは度し難いのだ。そうとも、デミウルゴス……このヤルダバオート……まったく、何もかもを創ってくれるではないか、最悪め……! こんな悪態を吐いたところで現状は欠片として変わりはしないが、もう、私には吐き散らかす為の唾すらも残っていない。渇いているのだ。渇いて、渇いて、脳味噌が、それこそ木乃伊にでもなったかのような気分の悪さだ。
私は思考の迷路の片隅に……袋小路に……取り残された面持ちで、何もかもを投げ出そうと心に決めた。その為に私が向かった先は幼少の頃、はじめて『音』に触れた場所だ。あの時の音は――ピアノは――果たして、ちゃんと私の舌の上に残されているのかと。ぼんやり、ふんわり、思っていたところで、あたりのヤカマシサにようやく気が付く。ああ、うるさい。こんなにうるさいと、何も聞こえなくなってしまう。私の自由気儘への焦がれが、羨望までもが、薄汚されてしまう。そう、腹立たしく臓腑を抱えていたところに、ふと、違和感。いったい彼等彼女等はどうして、お互いの頭部を殴り合っているのか。殴り合って、何かしらを奏でようとしているのか。これは、まるで……私が妄想している、自由の沙汰なのではないか。ふらふらと、ゆらゆらと、それこそ、鈍器で後頭部を殴られたかのような状態で――めまい――あの日の思い出の一頁を捲る。そうだ。思い出した。私は幼少の頃、この光景に、この音に、導かれていたのだ。視線の先に『在った』のはピアノである。そして、ピアノを弾いている。いいや、ピアノを踊らせている……。あの小さな手で、よく、そんなにも楽しそうに……。成程、人々が目を回しているのも頷けるほどのセンスだ。外出をしてはいけない。あの女が弾いているから、外出してはいけない。驕るな。慢心するな……。嗚呼……嗚呼……私は模倣していただけ。デミウルゴス……ヤルダバオート……偽物だったのは、贋作だったのは、私自身だったというわけだ! あ、あの……素敵な演奏ですね。その、もし、良かったら、私と……。私と、付き合ってくれませんか……? 何を謂っているのか。何を宣っているのか。私は……漿液にまみれたピアノの前で何を告白しているのか。「きみ、かわいいね。ぼくはまったく構わないとも。きみは|グノシエンヌ《ぼく》を弾いてくれるんだろ? いや、違うな。きみは|グノシエンヌ《ぼく》を弾いたのさ」まるで透き通った空だ。虚空の上に虚空が乗っかっているかのような大きさだ。私は、想定外の返答に目を丸くした。良いの……? ほんとうに? 私みたいな女で、ほんとうに良いの……? きっと良かったのだ。私は『この日』の為に今までピアノに向き合ってきたのだ。私は美味しいものをもぐように、食むように、彼女の身体へと転げ落ちる……。「大丈夫か? さっきから、きみ、顔色が悪いね。せっかくだ。今日はぼくの家に来なよ。君がどこに住んでいるのか、誰と何をしているのか、知らないけど。今日くらいは遊んだって問題ないだろうさ」構わない。たとえ彼女が人を貪り喰らう狼だとしても、私は構わない。何故ならば私は捕食される為に生じた――堕落の化身なのだから。
彼女が天使なのだとしたら、私はハルピュイアだ。彼女が神なのだとしたら、私はヤルダバオートだ。いや、心の底から、私は冒涜者なのだろうが、そんなことは最早如何でもいい。救済の為の根拠がないのであれば私は――救われなくたって構わない。先見の明をもって……窪みを生じるように……。惑っているのだ。迷っているのだ。右往左往としていて、私は、まったく旋回舞踏から逃れられやしない! あ、あの……えっと……ここで、何を……。投げ飛ばされた先にあったのは柔らかなものだ。ふかふかと私を嘲笑してくる、途轍もない誘惑だ。これが罪なのだとしたら、私は……天使や神を此方側に引き摺り堕とした事となる。「おいおい、ぼくを何だと思ってるんだ。きみにはぼくが『神』か何かに見えるのかよ。面白い冗談だね。まあ、いいさ、きみはぼくの『好み』の外見と、性格をしているんだ。ぼくが『丸呑み』するのに丁度良い大きさだとも……」世界が真っ暗い。彼女に……この人に……身体をすっぽりと、呑まれたのだ。無理やり、破り捨てられたのはお気に入りでもなんでもない、本番用のドレス。ああ、ああ、私は此処でようやく、贋作から羽化できる……!
絡まってきたのは舌だ。無機質な目の玉がスッと私の目の玉を弄ろうとしてくる。その間、私は呼吸すらも失くして、何度も、何度も、彼女の唾液を咽喉の奥へと掻っ攫った。つぅ、と糸引いたならば待ちに待った本性。私は……私は、懇願する。お願い、お願いだから、焦らさないで……私の……思考を……アナタのものとして……ぐちゃぐちゃに……。下へ下へと伸びてきた舌。ぬるりと、私の大事なところが歌をうたう。これは……歓喜だろうか。私は歓喜していて、それに加えて、喜悦をしている。恍惚から恍惚へと飛び移る感覚は、限界まで……意識が朦朧とするかのような……! あぁ……ァァ……もっと……もっと……。「……きみ、声が気に入らないな。なんだってこうも、汚い声をしているんだ」
頭を開いて……。
はじまりは奈落だった。奈落より、前頭葉より、徐々に徐々に音が這い寄ってきた。這い寄り、波打ち、増二度が反芻される。いいや、反芻されているのは私の頭の中身だ。脳味噌がたっぷりと頭蓋に叩きつけられ、果てには、ジュースのような心地に陥る。陥る! そう、陥った。私は……私自身を……耳の穴から排出して……ベッド・シーツのシミに……。隣を見ると抜け殻になった自分自身。彼女が何を持っていたのかは不明だが、振りかぶった。ぶおんと……叩き割られ……鼻汁もない……わたし……わたし……わたし……。
「よしすっきり!」
殺されても反省しねぇのは莫迦だからか? 合わんなぁお前とは。
立ち去るがいい。
うるせっ! ぼくはきみみたいに食わず嫌いじゃないんだよ!
あの事件のあと、ぼくは如何やら誰かに殺されたらしい。|歓喜《こいつ》がチクった所為だ。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功