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Teddy Bear with me

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 小さな手が柔らかい布の肌を離れてどこかへ行った後、戻って来る友人はいつも苦しげだった。
 白く小さな天使の羽と|希望《Hope》の刺繍がされたテディベアは、幼い頃から体の弱かった少女のためにと両親から贈られたものだった。外国で作られた柔らかな肌触りと、窓際に置いておけば日の光を受け止めて暖かくなる体を、陽葵と名付けられた小さな娘はいたく気に入った。
 どこへ出掛けるにも友人を抱き締めて、入退院の折にも必ず傍に置き続けた。無垢なる時間はあっという間に過ぎ去り、やがて幼子から少女へ育つ頃には、陽葵は己のことを誰よりもよく理解するようになっていた。
 両腕に余るほどの大きさだったテディベアを両手で抱き締められるようになった頃、彼女は名の通りによく笑う娘になった。しかし終わりなき過酷な闘病生活は、未だほんの子供に過ぎぬ身にはあまりに苦しいものである。己のことで既に一生分も他者を心配させていることを理解していた聡明な少女は、病魔の心労から誰をも守る盾のように、笑顔を扱うようになった。
 誰にも心配を掛けまいと笑う陽葵にとって、唯一涙と共に縋ることの出来る友人となったぬいぐるみは、彼女の傍で人知れず零される嗚咽を受け止め続け――。
 いつしか、柔らかな布の体に意志を宿した。
 テディベアの見上げる先の少女はいつでも気丈だった。病床であっても夏に似た名のように溌剌と笑い、懸命に周囲の悲しみを励まし、いつか必ず外へ出るのだと幼い頃の記憶を連ねていた。
 しかし見舞いの誰かがいなくなれば、彼女は強くテディベアを抱き締めて、終わりなき苦痛の日々に涙を流すのだ。
「あとどのくらい頑張れば良いのかな? あと幾つ頑張れば、私――」
 苦く副作用の強い薬を毎日飲んで、苦痛を伴う治療に身を委ねる。奏功するのは最初のうちだけだ。彼女の体に強固に根付いた病魔はすぐにも薬効を克服する。薬が変わり、副作用が変わり、治療の強度が変わる――尽くせる手を尽くし続けるいたちごっこには常に尋常ならざる苦痛が伴う。拡大を抑えることこそ出来ても病そのものの芽が枯れることはなく、陽葵の体は治療の甲斐なく徐々に弱っていった。
 最初の歩ける日の方が少ない今となっては鎖のようにも見える点滴に繋がれる。体を覆う機材は日に日に大仰になり、テディベアを抱き寄せる指は血色を失って痩せ細っていく。
 それでも、ぬいぐるみは彼女の言葉を強く覚えていた。諦めずに懸命に頑張る陽葵が窓の外を見るとき、そこが病室であれ自室であれ、過ぎ去った春の景色を思い返していたからだ。
「もう一回、桜が見られるように、頑張らなきゃね」
 ――ただの一年を生きることすら、少女にとっては恐ろしく遠い目標だった。
 爛漫の春を見たいと願うとき、陽葵の胸の裡にあるのは、明日を生きられるかも分からぬ身の悲愴な決意に他ならなかった。しかしそれも心が芽生えたばかりのテディベアには分からぬことだ。ただ、己に宿った未熟な意識の通りに体が動かぬことと、声を届ける手段のないことをもどかしく思うばかりだった。
 腕が動けば涙を拭ってあげられただろう。声が出るなら、きっとこの心の裡を伝えられただろうに。
 ――泣かないで。だいすきなひと。
 物品とは、なべて主人を幸福にするために生まれる。
 まだ見ぬ誰かのために作り出され、やがて出会う誰かのために手にされ、たった一人の大切な友人の許へ辿り着く。そうしてようやく心までもを得たテディベアは、ただ一心に己の小さな友人の苦しみを拭い去ろうとした。その努力がいつか腕を動かし、友人の傍に訪れては彼女を励ます人々のように声を齎してくれることを願っていた。
 ――ぼくがきみのかなしさをぜんぶ受け止める。だから、うんとないたら、すてきな笑顔をみせてね。
 最近はめっきり機会も減ってしまったが、まだ幼い頃の陽葵は時折外を歩くことがあった。そのときにも大切に手を握られていたぬいぐるみは、今は写真の中にしか残されていない彼女の本当の笑顔を知っている。
 自分のために泣く誰かを励ますためのものではない。気遣う医者や看護師たちに心配を掛けまいとするためのものでもない。一面の桜の下を、丈夫でない心臓が許す限りはしゃいで回ったときの、満面の笑みだ。
 未だ自我の芽生えなかった頃のぬいぐるみにとっては、器物の体の中に残るだけの思い出だ。だからもう一度、今ある心の目の前で笑って欲しかった。悲しみが全て涙となって流れ出て、それを全てテディベアが受け止めきれば、またああして笑ってくれるのではないか――詮無い夢想を無垢に信じた物言わぬ熊は、しかし唐突に夢の続きを奪われた。
 テディベアの目には、彼女はただ眠りに就いたように見えた。最期は自分の家のベッドで眠りたい――余命宣告ののち、当人の強い希望によって実現した束の間の自宅での生活は、きっと陽葵自身が思うよりも早くに終わりを告げたのだ。そうして静かに永遠の眠りに就いた少女を囲み、誰もが泣いているのを、ぬいぐるみはただ見上げていた。
 ――どうして泣いているの。
 ――だいじょうぶ。こんなによくねむったら、あきちゃんも、きっとげんきになるよ。
 無垢な励ましの言葉が届くことはない。やがてどこかへと運ばれていく陽葵の背が扉の向こうに消えてからも、テディベアは何らの疑問も持たなかった。
 帰って来ないことは何度もあったからだ。
 発作を起こし苦しげな少女がどこかへ運ばれたあと、会えない時間が長引くことは珍しくない。容態が落ち着くまでは運び入れる物品に強い制限のかけられる場所で眠ることも多かった陽葵は、それでも目覚めればすぐにテディベアを求めたから、此度もじきに彼女の両親に連れられて再会を果たすだろうと思っていたのだ。
 しかしいつまで経っても両親は彼女の元へ案内してはくれず、ベッドの上のテディベアは孤独に帰らぬ友を待ち続けた。絶えず娘と共にあり続け、娘の愛したぬいぐるみを彼女と共に天に送るか否か――陽葵の父母はひどく悩んだ果て、無数の診断書と入院案内の他に唯一残った形見として、部屋に残すこととしたのだ。
 二人が交互に訪れ、毛並みを整えてくれるたび、テディベアは今日こそは友に会えるのではないかと期待した。悲しげに、時に涙を零しながら体を優しく撫でる彼らに声なき声が届くことはない。
 ――あきちゃんはどこへいったの。
 ――ひとりで泣いていないの。
 生命なき体に芽生えた未熟な心は死を理解しない。二人きりの秘密の箱庭の中で、日に日に苦しげな表情を見せることが増えていた友人の行方を案じながら、テディベアはベッドの上で夢を見るようになった。
 ――あの子を探しに行きたい。
 自由に動く足が欲しい。そうでなければどこへだって飛んで行ける翼が欲しい。
 もしかすれば、自分からは会いに来られない場所にいるのかもしれない。だとしても、この布で出来た体の方が動きさえしたら、こちらから彼女に会いに行くことは出来る。どこか遠くで誰かと笑い合っていることが分かるなら、きっとそれだけでも構わなかった。一目姿を垣間見ることさえ出来れば。片時も離さなかったぬいぐるみがいなくとも、笑っていられることが分かれば――。
 それは、とても寂しいことだけれど。
 物言わぬ熊の夢想は長く念じられていた。命なき故に純粋で、外を知らぬが故に一心で、他に為せることがないが故に強い祈りだった。
 やがてテディベアの夢は、人々に連なる無意識の中に潜り込みながら、結実の宛を探して彷徨い始めた。病床の少女が花に託した願いと似ていたかも分からない。しかしぬいぐるみの夢想はその強さ故に人々の夢を取り込んでいった。
 いつしか、夢は神の目にすら留まるほどの大きさとなって、無意識の間を揺蕩うようになった。
 柔らかな眠りの日々は続く。いつか常春の色をした樂園に拾い上げられるまで――。
🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​ 成功

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