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溢れる想い、水面に揺れて

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 グラスの縁で揺れる水面の様に。
 ぽろぽろとこぼれる言葉。
 ぽろぽろとこぼれる泪。
 溢れる想いは止められないけれど。
 受け止めることは出来るから。

 ——溢れた分だけ、また笑顔を見せて。

 ◆ ◇ ◆

 賑やかで楽しいお酒も良いけれど、ゆっくりお話ししながら呑むのも良いねと話してから暫く。
 大きな戦いの|最中《さなか》だけども、だからこそ息抜きは必要なのかもと時間を見付けて出掛けた夜。
 賑やかな飲食店街から一本入った、喧騒から少し距離を置いた細い路地。
 そこに暖簾を掲げた小料理屋が、魚も小鉢も美味しいと評判で。
 ついでに女将さんこだわりのお酒も並ぶと聞いたら、お店選びに迷いはなく。
 カウンター席の隅っこで、美味しいお料理を摘まみながら、楽しく軽快にお猪口やグラスを空にして。
「ふふふ、おいしいですねぇ……、」
 冷酒のグラスを両手で抱え、その潤んだ紅玉の瞳に負けない位頬を染めた見下・七三子はすっかり酒精に浸かっていた。
「うんうん。ほら、箸休めの浅漬けも、美味しいよ。」
 その様子をにこにこと見守りつつ、ノイル・S・リース=ロスは浅漬けの乗った小皿を差し出す。
 瑞々しいきゅうり、プチトマト、長芋が並んで、噛めばぱりぽりと楽しい歯ごたえと共に程良い塩気と出汁の味が広がる。
「わ、ほんとですね! ……えへへ、本当に、美味しくて、楽しくて……、」
 笑顔でぱりぽりと浅漬けを齧っていた七三子だが、次第に言葉に覇気をなくして。次の瞬間手にしていたグラスの残りを一気に煽った。
 その勢いにおやおやと小さく苦笑したノイルは女将さんにこっそり、同じグラスでお冷をお願いする。
 空になったグラスをとんとカウンターに置いて、七三子は唸った。
「うー、聞いてくださいよう。」
「うん、聞いてるよ。なあに?」
 ノイルは穏やかに聞き返しながら、はい、と空のグラスをお冷のグラスと入れ替える。
「わたし、周りの人に恵まれてると思うんです……。」
 七三子が素直にお冷のグラスを抱えて、ちびちび口を付け始めたのを見て安堵しながらノイルは頷いた。
「そうだね、七三子嬢の周りは素敵で、楽しいひと達が沢山いるよね。」
 勿論、交友関係を凡て知っている訳ではないが、彼女を通じて知り合ったひと達は皆興味深い。
「でもわたし、やっぱり戦闘員なので、いっぱいいるうちの一人って育ちましたし、それが当たり前で、違和感なんて持たないまま大人になっちゃいましたし……。」
 七三子の出自――消費される為に大量に生み出された戦闘員。
 生まれた世界の当たり前に、疑問を持つ事は難しい。それが意図的に操作されていたのなら尚更。
「うん、全く別の理の世界に突然来ちゃって、吃驚したよね。」
 俯く七三子の頭をノイルは優しく撫でる。さらりと柔らかな黒髪が流れた。
「だいすきな人たちは、ちゃんと『私』を見て、大好きを返してくれます。ちゃんとわかっては、いるんですけど。」
 俯いた赤い瞳が、手元のグラスに映っている。水面に合わせてゆらゆらと揺らぐ姿は心を映している様で。
「でも、周りの人が『私を選んでくれる』っていうのが、理解はできてもどこか『ほんとうなのかな?』『たくさんの中から|私《・》を?』って心配で。」
 揺れた心で不安を一つ、口にしたら止まらなくなった。ぼやりとしていたものまで、輪郭を持って形になる。
「でもそうやって、疑っちゃうのも申し訳なくて、やっぱり自分がだめだなって……。」
 グラスを抱えていた腕が、肩がずるずると下がって、七三子はへちょりとカウンターに片頬を付けた。
「私なんかが、みんなの好きをもらっていいのかなって、うー……、」
「七三子嬢|なんか《・・・》じゃなくて、七三子嬢|だから《・・・》大好きなんだけどねぇ。」
 私も、きっと皆も、と笑うノイルに七三子は拗ねる様に視線を逸らす。
「ちゃんと、わかってますよう。……私の大好きな人たちは、私なんかって私がいうときっと悲しい。」
「……うん。」
 ノイルは自身のグラスに口を付けながら穏やかに頷いた。
 むくりと起き上がった七三子は、遠くを眺める様に呟く。
「だから、だから、ちゃんと自分のことも、特別に好きに、なりたいなあ……。ふええ。」
 感極まって、潤んだ瞳から遂にぽろぽろと泪を零す七三子を見て、ノイルは懐から白いレースが付いたハンカチを取り出した。
「おやおや、気持ちが溢れちゃったね。」
 そう云ってノイルがそっと泪を拭う。その侭ハンカチを七三子に渡して。
「わたしのだいすきな人たちが好きって言ってくれる|自分《・・》を、ちゃんと特別扱いできるようになったら、いいなあ。」
 そう云いながら、まだぽろぽろと零れる泪を受け取ったハンカチで拭いた。ふと見れば生地の隅に花と黒猫が刺繍されている。それは見覚えがある、なんてものじゃなく。
 ノイルがそのハンカチを大事に使ってくれている事を知って、色んな感情で胸がぎゅっとなる。
「……自信って、どうやったらつくんでしょうねえ……。」
「ふふ、そうやって悩んでる七三子嬢も、全部纏めて愛おしいけれど、」
「ううー! ノイルさんは私に甘いんですよぉー……!」
 放っておいたら底のない夜に引き込むかの様に甘やかしてくる夜闇の化身に七三子は唸った。
 ノイルはそんな様すら愉しそうに笑った後、改めて考える様に首を傾げる。
「まあ、でも、自信。自信ね……うーん、慣れるしかないのかなぁ。」
「慣れですか……?」
 同じ方向に首を傾げ、慣れないからこうなんだけどなぁ、の視線を送られたノイルは首を傾けた侭笑って。
「皆で七三子嬢が『もうお腹いっぱいです! 要らないです!』って云うまで、大好きを注ぎ続ければその内……?」
 その内容を聞いた七三子は慌ててノイルの袖を掴んだ。
「だ、ダメです! お腹いっぱいでもいります! 入るのでください!」
 皆からの気持ちを受け取る資格があるかどうかには悩んでも、その気持ちを要らないと思う事は断じてないのだ。
 その青褪めそうな程必死な様子にノイルは声を出して笑って、袖を掴む七三子の手を自身の手で包む様に握る。
「ははっ、今の言葉、皆が聞いたら喜んで、張り切って『大好き』をあげたくなるよ。」
 ノイルはゆっくり袖を掴む指を外して、改めて七三子の手を握った。その冷たい指先は、酒精に火照った身体に気持ち良い。
「そう、ですかね……、」
 ひやりと、滑らかなその感触をぽやぽやと堪能しつつ、七三子は譫言の様に呟く。
「そうだとも。……ほら、想像してご覧。」
 ノイルは穏やかに、落ち着かせる様に七三子の手の甲を指先で撫でる。
 その声音は丸で暗示に掛ける様で。
「大好きをくれる皆の事を。」
「……え、大好きな人たちですか?」
 その言葉に導かれる様に、沢山の姿を思い浮かべたのか、七三子の表情に自然と笑顔が戻った。
「えへへ、いっぱいいますよ。もちろんノイルさんもですが!」
 そう云って七三子は嬉しそうにきゅっとノイルの手を握る。
「本当に、こんなにきらきら素敵な人がいっぱいいていいのかな、っていうくらい、特別で素敵な人たちなんですよ! だいすき!」
 大好きなひと達の事を想う七三子の表情は、もうとっくにいつものキラキラした笑顔で。
「優しくて、かわいくて、かっこよくて。一緒にいられると幸せになれるんです。」
 愛らしく慕ってくれる仔猫の|義妹《いもうと》、ちょっと意地悪だけどちゃんと心を割いてくれる恋人。
 他にも、一緒に戦ってくれるひと、一緒に遊んでくれるひと、たくさん、たくさんのひと。
 ひとりひとりに思いを馳せたらきっと夜が明けても足りない位の素敵な人たち。
「私が落ち込んでたら、みんなそばにいてくれて、元気をくれるんです。近くで座っててくれる人も、ちょっと離れたところから見守っててくれる人も。」
 抱き締めてくれるひと、頭を撫でてくれるひと、笑わせようとしてくれるひと、そっと差し入れを置いていくひと、言葉も行動もなくても心を寄せてくれるひと。
 皆みんな、人それぞれの優しさを、七三子はちゃんと受け取っている。
「へへ、わたし、しあわせものだなあって。」
 言葉通り、幸せそうにへにゃりと笑う七三子に、ノイルも優しく微笑んだ。
「……だから、落ち込んだ姿なんか見せてられない、ですねえ……。へへ。」
 嬉しそうな声音だが、段々と力が抜けてゆく。
「……でも、見せちゃっても、きっとそばにいてくれるんだろうなあ……、」
「おっと、」
 呟きながら完全に意識が抜けて、ぐらりと傾いた七三子の身体をノイルが受け止めた。
「……七三子嬢は何時も笑顔で頑張り屋さんだから。落ち込んでる処を見ると励ましたくなると同時に、ちょっと安心しちゃうんだ。」
 ごめんね、と聞こえてないのを解っていてノイルは笑う。
 一人になりたい時は別だけど。
 そうじゃない時は、独りで哀しさや淋しさに耐えなくても良いのだと教えてあげたい。
 自分も含めて、きっと皆両腕を広げて受け止めくれるから。
 ノイルは七三子を支えながら女将さんにお会計を頼む。
 二人を見る女将さんの表情も優しくて、ノイルは眉を下げて笑った。


 くったりと酔い潰れて、幸せそうに寝てしまった七三子を抱えてノイルは店を出る。
 天鵞絨の緞帳が掛かった様な夜空には、欠けてもなおぽっかりと白い月。
 それを見上げて、さて送っていくか、骨董店に泊まらせるかと思案していると、七三子の周りからぞろりと揃いの仮面と黒スーツを纏った人々が現れる。
「おや、」
 現れた戦闘員達は、うちの子がすみませんとでも云いたげな、申し訳なさそうな仕草でノイルから七三子の身体をそっと受け取る。
「ふふ、可愛い子の面倒を見るのは楽しいけれど、|戦闘員さん《ご家族》が付いているなら私の出番はないかな。」
 ノイルがそう笑って戦闘員達に抱えられる七三子を見守っていると、足元にごつんと何かがぶつかった。
「わん!」
「おやおや、ハヤタくんまで迎えに来てくれたのかい?」
 ご挨拶の勢いでノイルに頭をぶつけた黒柴の仔犬は、次にふんふんと七三子の足元を嗅ぎ回ると、ごしゅじんはおねむですか、しょうがないですねぇと鼻を鳴らす。
 ハヤタに付いていた戦闘員がそろりと頭を下げながら仲間に合流した。
「皆がいるなら安心だ。でも一応、無事に着いたか知りたいからうちの子も一人付けさせて貰うね。」
 そう告げるノイルの影から、黒い狼が一頭ざわりと立ち上がる。
 現れた同類の姿に、ハヤタがせんぱい、と眼を輝かせて突撃した。
 二頭がわちゃわちゃと戯れているのを微笑ましく眺めてから、ノイルは眠る七三子に近付いた。
「今日はたくさんお話してくれてありがとうね。また七三子嬢の可愛い処も見られたし、愉しかったよ。」
 そう寝顔に囁いて、軽く指先を振るう。すると七三子の小指に黒いレースのリボンが蝶を結んだ。
「さて、引き止めてしまって悪かったね。お家のベッドで寝かせてあげて。」
 ノイルがそう云いながら身を引くと、戦闘員達はぺこりと頭を下げて七三子を抱えていく。
「わうん!」
 ノイルに一声挨拶をしたハヤタが、その後をぱたぱたと追い掛け、一番後ろをゆったり闇狼が付いていく。
 白く柔らかな月光が、見守る様に皆を照らしていた。
 小さく手を振りながらその背を見送ったノイルは微笑む。
 揺れる心も彼女の糧になると良い、と。

 ——酸いも甘いも呑み込んで、上等な酒が熟成される過程を愉しむ様な、そんな気持ちで。
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