焦熱
今日もいつもと変わらぬ平凡な、いつも通りの幸せな一日になる。
そのはずだったのに――充満する血の匂いが、すべてが狂わされたことを物語っていた。
どうして、なんでこんな、と女はか細く零す。身体に力は入らずその場にへたりと座り込むしかできない。彼女の視線は忙しなく動き、現実をただ撫でていた。
受け入れたくはない、見たくはない現実をなぞるだけの視線。
その視線が滑るのは、目の前で物言わぬ骸となり息絶えた愛する家族たち。
愛する夫、そしてふたりの子供――彼らが無造作に、簡単に命を刈り取られるのを目の当たりにした。
叫ぶ間もなく、抵抗する間も、逃げる間も無く。異変を理解する最中に、それは始まって終わったのだ。
子供たちは恐怖を感じる間もなく喉を掻き切られただろう。夫は惨劇に衝動的に立ち向かおうとしたところをあっさりとナイフを突き刺され、鈍い呻き声と共に倒れると動かなくなった。
逃げろ、とその口は最後に紡いだような気もする。でも、体は動かない。
次は自分なのだと、女は家族を殺した殺人鬼へと揺れる視線を向けた。
殺人鬼――それは少年だった。彼の金の瞳が、女を射抜くように向けられている。
こんな子供が、どうして、こんな、ひどいことを。どうして、人を殺すことができるのかという疑問。同時に得体の知れなさと恐怖ややるせなさ、言葉にできぬ不快感と不安と。様々なものが女の中で溢れかえりまともな思考ができなくなっていく。
殺人鬼に向けられた視線に、正面から返すことは恐ろしくてできない。それをしてはいけないと、女の中で何かが告げていた。
声は出ず、ただ殺された家族たちが零す血に視線がまた縫い留められる。身体は勝手に震え、抑えることはできない。
殺人鬼を正面から睨むなんてことも。怒りや悲しみでわめき感情をぶつけるなんてこともできなくて、ただ殺人鬼の足元をその瞳は捉えていた。なりふり構わず泣き喚くことができたらどんなによかったか。
広がる赤の上をぴちゃりと音たてて近づいてくる。
一歩、また一歩と近づいて彼は、女の前でしゃがみこんだ。
そして視線合わせて、笑ったのだ。その唇が動いて、艶やかに音を紡ぐ。
「 」
その音が何故紡がれたのか、女にはわからなかった。
そしてなぜか、女は今このとき思い出したのだ。
もうひとり、自分に子供がいることを。
子供の名前は、篝。
離婚して、親権を得て。けれど、我が子を見れば自分を苛んでいた別れた男のことが過り、心に影を落としていく。
決して、決して篝が嫌いなわけではなかった。それでも、どうしても――あの男のことを思い出してしまう。すると体調も悪くなり、何事もままならず。周囲の勧めで一旦離れることにしたのだ。
このままではいずれ、共に暮らすこともできなくなってしまうから一時だけと。
本当に、迎えに行くつもりだった。
先程そこで死した夫に出会うまでは。彼に出会い、満たされて篝のことを思い出すことは減っていった。彼との間に新しい命を得てからはさらに思い出さなくなった。
穏やかで、満たされた日々は女の影を消し去ってくれたのだ。
でもその穏やかな、満たされた安寧の日々は消え去った。それを失ったから、今この時に思い出したのかもしれない。
そしてふと――一番上の姉の事も思い出す。
女は四姉妹の末っ子だった。一番上の姉とは十五歳離れていて。甘やかしてくれて大好きだった。けれど彼女はある時出奔し、数年後に再会したが重い薬物中毒となり親の顔もわからない有様。
そんな彼女が、病院で言ったという言葉が刹那の内に女の中で響く。
『産み落とした罪がいつか私を殺しに来る』
何故、今その言葉を思い出したのだろうか。
今の今まで、忘れて――いや、自分の中に存在がなかった篝は、今どうしているだろう。
何故、今思い出したのだろう。金色の瞳が自分を見ていたからだろうか。
何か、言わなければと思ったけれど――その時にはもう喉は掻き斬られ、ひゅっと空気の漏れる音となる。言葉は何にもならず女は首から血を流し崩れ落ち、その瞳から光を失った。
ゆるやかに、けれど刹那のうちに消えた命。その姿を眺めて、ああとため息のように少年は吐息零した。
「……なんだ、嘘だったのか」
少年は――吾妻・篝(埋火・h00320)は自分の紡いだその声が、感情の乗らない声だと他人事のように思う。しかし、そんな声が出たことに僅かに驚きもあった。
思う所は、やはりあったんだと。
確かに信じて待っていたのだ――母親を。今、殺したこの女を。
小学生低学年の頃、別れがあった。この女が最後に自分に向けた言葉もちゃんと覚えていた。
『お母さんの心が弱くてごめんね、必ず迎えに来るからね』
その時、自分はなんて答えたのか。それは覚えていないけれど、向けられた言葉は誠実に、真っ当に覚えて、信じていたというのに。
離れて暮らすことになったけれどいつか迎えに来ると信じ過ごしてきた。
いつか、いつかと。
そんな日々の中で不意に、街中で母親の姿を見つけた。
篝は街中ですぐ母親だと気づいたのに、女は気付かなかった。もし、彼女が一人で在れば駆け寄っていたかもしれない。
けれど、母親は一人ではなかった。
知らない男と幸せそうに笑っていたから。そして母親と男の間で二人の子供が楽しそうに過ごしていたから。
誰が見ても、家族だと思うだろう。
楽しそうに笑って過ごして、仲良さげで。そこに自分がいないというのに、それが女にとって当たり前なのだと、すぐわかってしまった。
あの言葉は何だったのだろうかと――ぼんやりと思って。
そのまま、気づけば今のこの状況だ。
篝は今、動かぬものとなりはてたものを静かに見る。それはもう自分の名を紡ぐことはない。
もし、気づいて名を呼んでいたなら殺すことも――なんて僅かに過ったけれど、篝は笑う。そんなことはなかったのだから。
母親を、殺した。己の知らない母親の新しい家族を、殺した。
その事に罪悪感を抱くこともない。
でも、何か――心の内で動きがあったのはわかる。自分の中で何かが終わったような気がする。それをなんと呼べばいいのかはわからない。言葉にできぬものだったのだ。
「……」
けれど――まぁ、いいかと思う。それが何かわからなくていい。些細な事なのだろう。
篝は立ち上がり、自分が為した光景をくるりと見回した。
死体が四つ。このまま血塗れで置いておけば面倒なことになる事くらいわかる。
なら全て、炎に焼べて燃やしてしまえばいい。母親であった女も、知らない男も、半分血の繋がった知らない弟妹たちも。
火球をいくつか生み出し、そこでやっと気付いた。
本当は、もっと簡単に殺せた。視線一つで燃えろと思えばそれだけで殺せたのにそうしなかった。
裏切られたという、その怒りを己の手でもってぶつけたということに。そして今また、全部燃やしてしまうのは証拠を消すという理由のほうがついでで、燻る憤りからしようとしているのだと嘲笑う。
全部全部、篝は炎に焼べて――後には何も残さない。最後の一瞥すら、必要なかった。
けれど焦げ付くにおいだけが、嫌に記憶に残っていく。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功