ちいさな魔女のひみつのレシピ
●シナモンと蜜林檎
魔女の一日は、森がまだ夜のあおさを残しているころにはじまります。
そらの東のはしが、ほんのすこしだけ白みはじめるころ。木々の梢には夜露がまあるい硝子玉のようにひかり、葉と葉のあいだには眠りそこねた星がいくつか、ひっそりと隠れておりました。
森のなかのちいさなおうち。その屋根の上で、風見鶏のかわりに取りつけられた古びた銀の月が、朝の風にかすかに揺れています。
きい、きい、とかすかに響く月の声に、おうちよりもさらにちいさな、ちいさな魔女――リシェル・チェルケス(白銀の魔女・h13518)は、ぱちりと目を覚ましました。
「……ん」
まだ眠りの名残をすみれいろの瞳の底に浮かべたまま、毛布のなかでちいさく伸びをします。
今日は、おともだちが遊びにくる日。それを思い出した瞬間、魔女の顔には朝のひかりよりも先に明るさが灯りました。
「ふふ」
魔女は薄い上着を羽織ると、工房の裏手へ向かいます。扉を開ければ、そこには森のなかにぽつんと置かれた石造りの井戸がありました。
つるべを落として、夜のあいだ森の奥深くで眠っていた水をそっと汲み上げます。桶のなかで揺れる水面にはまだ昇りきらない太陽のかわりに、木々の影と魔女のしろがねの髪が映っていました。
顔を拭いて、髪を整えて鏡の前へ。いつもなら寝癖のついたところを見つけては『まぁ』と笑うくらいなのですが、今日はどうにも落ち着きません。
梳かして、結んで。ほどいて――もう一度、梳かして。
「……こっちのほうがいいかしら?」
鏡のなかの自分に尋ねてみます。
「うん。たぶん、こっちね」
そうして髪を整えているあいだじゅう、魔女の口元には、抑えきれないほほえみが浮かんでいました。
魔女の工房には誰でもやってくることができるわけではありません。だから、誰かと顔を合わせて同じテーブルを囲んでお話をするということは、ちいさな魔女にとってとても大切な出来事でした。
朝ごはんには、すこし硬くなったパンを切りました。鍋では、野菜とつみたてのハーブを煮込んだスープがことこと音を立てています。
「うん。今日は、ちょうどいいわ」
匙ですくって味を見て、魔女は満足そうに頷きます。
パンをスープに浸して、柔らかくなったところを、ぱくり。
「……あら?」
少し塩けが足りない気もしました。けれど、これはこれで悪くありません。
リシェルは料理が好きでした。魔法で何もかも片付けてしまうより、自分で野菜を切り、鍋をかき混ぜ、火の様子を見ながら作るほうが好きなのです。
上手にできる日もあります。そうでもない日もあります。今日のスープは、どうやら『そうでもない日』のほうだったようです。
午前中の工房は大忙しでした。
お客さまをお迎えするために、机と椅子をぴかぴかに拭いて、窓を開けます。朝の森の空気がそよそよと工房のなかへ入りこんできます。――ところが、
「あっ!」
ぐらり。
どうやら今日の椅子は、たいそうごきげんななめのようです。
「困ったわ」
魔女はすこしだけ考えてから、こつ、こつ、とほうきで床を小突きます。淡いひかりが床の上に円を描き、その中から翠色の子リスがふてくされた様子で顔を出しました。
「オイオイオイオイ、相変わらず|リス《・・》づかいの荒いおチビちゃんだな。なぁ、たまには俺っちらしい仕事をさせてくれよ」
「まぁ。日がな一日、トネリコの枝を渡って妙ちくりんな伝言あそびをするよりも、きっとお掃除の方がゆういぎ、よ? そうは思わない?」
ラタトスク。リシェルの大切なおともだち。
少々言葉遣いは『らんぼう』ですが、呼べばこうして顔を見せてくれるのですから、魔女はこのちいさなおともだちのことが大好きです。
「……それにしたって、あなたたちらしいお仕事ってなぁに? お掃除は、らしくないの?」
「ケッ! アンゼンな立場からデカブツどもを揶揄う、俺っちのサイッコーの楽しみが、おチビちゃんにはわからねぇんだなぁ。それに、だいたいなぁ、古今東西子ども部屋の片付けの手伝いをするラタトスクなんて聞いたことねぇだろうが。え?」
ラタトスクはぷうぷうと鼻を鳴らしてすっかり『おかんむり』。だけれど、魔女はちっとも気にした様子がありません。
「ええ、そうね。それは確かに聞いたことないわ」
魔女は少しだけ考えます。ごきげんななめなおともだちを虜にする『とっておき』の数を指折り数えて、にっこりとほほえみました。
「そうだわ。ねぇ。あとで、あなたの大好きな蜜漬けのクルミをみっつ、わけてあげるわ」
その言葉に、そっぽを向いていた子リスがぐりんと魔女の方を向きます。あまい、あまいクルミの誘惑に勝てるほど、子リスは『へんくつ』ではありません。
「……よっつだ」
「もちろん、いいわ。お願いね」
「よし、決まりだ!」
駆け出した子リスの横で、魔女はくすくす笑いながら掃除を続けました。
東側の壁には、薬瓶の棚があります。
ちいさな瓶も、おおきな瓶も。どれもきれいに並んでラベルも揃っています。けれど、そのすべてをリシェルが把握しているわけではありません。そこにあることは知っているのに。いつからあったのか、どうしてそこにあるのか。時折、そんなことがわからなくなる瓶があります。
それでも棚は乱れません。まるで遠い昔に誰かが最後の一冊をしまい終えたあと、その人がもう二度と戻ってこなくても、本だけはずっとそこにありつづけるように。リシェルはそれについて、深く考えません。考えなくても、そこにあるものはそこにあるのですから。
一方、西側の絵本棚は、今日もひどい有様でした。
本が横になり、斜めになって棚から半分飛び出しているものまであります。
「こっちは……あとでいいかしら」
魔女はおかしげに笑います。なにしろ、こちらは片付けても、すぐにまた散らかってしまうのです。次はどの物語を読もう。空飛ぶ船のお話にしようかしら。それとも、月の裏側に住む小さな竜のお話?
棚から一冊、本を取り出して。
やっぱり戻して、別の一冊を手に取って。
「これもいいわ。どうしようかしら……」
けれど、どれも決め手に欠けました。ならばいっそ、おともだちに選んでもらえばいいのです。そう思ったなら、これからの時間がますます楽しみになりました。
魔女はいっとう好きなケーキを焼いて、テーブルを整えました。
椅子もすっかり直っています。ラタトスクは蜜漬けのクルミを受け取ると木の枝の向こうへ散歩に行ってしまったようで、工房には静かな時間が戻ってきました。
「……まだかしら」
呟いて、リシェルは自分で笑いました。だって、待っている時間さえこんなにも楽しいのです。リシェルは椅子に腰掛けて、両手を胸の前で重ねました。
すみれいろの瞳が窓の外へと向かいます。森のどこかに、今日ここへ向かって歩いているひとがいる。それは、まだ開かれていない絵本の最初の頁のようでした。
これから先には、どんな景色が待っているのでしょう。どんな出来事が起こるのでしょう。リシェルは嬉しそうに笑って、窓からさすひかりに目を細めました。
こん、こん、こん。
扉が来客を告げる音を立てるほんのすこし手前。
胸いっぱいに膨らんだたのしみをいっぱいに抱えて、おともだちを迎えるためのテーブルのそばで魔女が紡ぐ微かな鼻歌を、肩を寄せ合う小鳥たちだけが聞いておりました。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功