シナリオ

|不完全な竜《フォルスドラゴン》

#√EDEN #ノベル #夏休み2026 #深層意識の恐怖

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 迷い込んだここは、どこだろう。
 自然が多い世界をあてもなく歩いていたのに。

 おっきな四角い|建物《もの》が、お空を目指していっぱい生えている変な場所。

 あたしの名前は知ってる。
 でも、あたしがなにかはあんまり知らない。

 今は、生きてて。お腹が空いてる──……。それだけは確か。


 色の薄いボサボサの髪、薄汚れた衣類に身を包んだ子供が、ビルの間の狭い道でビニール袋を漁っている。まだ二次性徴を迎えていない年頃の細い身体は、見た目からは男女の区別はつかないけれど、伸びた髪から見え隠れする顔はどちらかといえば少女に見える。

「きみ、どうしたの?」

「う?」

 人の声がして残飯を頬張る少女が振り返ると、革靴と濃茶のズボンが目に入り、ずっと顔を見上げていくとスーツ姿のおじさんと目が合った。白髪交じりで眼鏡をかけたその人の|心配そうな《へんな》顔へぱちぱちと瞬きをする。……これがシアニ・レンツィ(h02503)の、他者が大好きになる|出会い《きっかけ》。

 それからおじさんの所で、同じくらいの歳の子達や大人達と決して短くはない時を過ごし、美味しいものをいっぱい食べて、痩せ細っていた身体はふんわりと肉がつき少しずつ背も伸びた。短く整えられた髪は快活なシアニによく似合うと皆も褒めてくれるから、伸びる度に切っている。
 まだ黒々としていたおじさんの髪は白髪が増えた所為ですっかり灰色になって、顔や手の皺も深くなった。豪快に大声で笑う人だったけれど、最近は少しだけ落ち着いた。

 漫画で知ったあれ、何だっけ……そう!
 ダンディー?イケオジ?って風なのかもしれない。

「先生、おやすみなさーいっ!」

「おやすみ、シアニ」

 夕飯やお風呂を終えて自室へ戻る廊下で、擦れ違った先生へ元気よく挨拶をする。隣の部屋の友達を見付けて駆け寄るとお喋りしながら自室へ向かい、互いにまた明日ねと声を掛け合って暗い自室へ踏み入れた。大きな欠伸をしながら電気を付けずに慣れた室内を歩き、置き型エアコンのスイッチを手探りで入れてベッドへ倒れ込む。
 今日も夏休みの課題というものをして、沢山遊び、とても楽しい一日だった──……。
 微睡むまま瞼を閉じると、ベッドへ身体が沈んでいくような、不思議な感覚がまた訪れた。


 ♦︎


 ぱちっと双眸を開くと、お風呂から上がったばかりの顔へ雨が降り注いで飛び起きる。

 座ったまま見上げると緑に囲まれていて、最近頻繁に夢に見る背の高い紫陽花が空を狭く切り取っていた。折角お風呂へ入ったのに、夢の中とはいえ背中側が泥だらけになった不快感にくしゃりと顔を顰めて口を尖らせる。
 布越しに纏わりつく泥の重みや雨を吸った服の感覚がやけにリアルで、髪だって友達と代わりばんこして丁寧に乾かしたのにぐっしょりだ。いくら夢だといっても、日常の中にあるちょっとした嬉しかったことまで汚れた気分になって、寂しさに膝を抱えた。

 しかもこの夢はいつも、歩けども紫陽花畑が続くばかりでずっと雨。
 最初こそ楽しく探検していたけれど、何度も見たから遊ぶのに飽きてしまった。
 目を瞑っていればそのうち目が覚めるだろうと思って、抱えた膝へ頭を置いてうとうと揺れていると……突然ゾッと肌が粟立ち、勢いよく顔を上げ周囲を見渡す。

「なに?」

 背後で草を踏む音が聞こえて振り返ると、見たことがある革靴とズボンのようなものが目に入った。顔を上げた瞬間、麻か何かで出来た袋のような物に頭を覆われる。


 ♦︎


 ベッドの上で逃げるように飛び起き、その勢いのまま壁へぶつかって漸く、夢から覚めたんだと気付く。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいて、乱れた息を整えてから置き時計を見れば、まだアラームを設定している時間より早い……でも、二度寝をする気にはなれなかった。

 怖かった、びっくりした。だって、先生に似ていた気がしたんだ。
 だけど先生があんな風に怖がらせるようなことするはずない。

(ただの夢だし、同じ服はいっぱい売ってるし、先生じゃない!だいじょーぶ!怖くないよ)

 そう自分に言い聞かせてベッドから降りるとスリッパを履き、着替える為にクローゼットを開ける。朝早く起きてしまった日は、朝ご飯の支度を手伝って皆より先に味見をするチャンスだ。胸元に茶色の熊がプリントされた鮮やかな黄色のワンピース風シャツに、膝丈の緑のズボンを合わせて部屋を出る。洗面所で顔を洗って髪を梳かして……綺麗にして厨房へ急ぐ。

「あら、シアニちゃんおはよう。最近朝早いわね?寝苦しい?」

「シスターさん、おはよう!うーん……よく変な夢見るんだよね」

「可哀想に……何か悩み事があるなら、いつでも相談してね」

「はーい!ありがとう!」

 互いに手を振り合い、厨房へ急ぐ。
 近付いてくると、美味しそうな香りが漂ってきた。今日は焼き鮭と玉子焼きかな?サラダ用の野菜を切ったり、そんなお手伝いになるかも知れないと想像を膨らませながら「おはようー!」と大きな声で挨拶をして扉を開けると、おばちゃん達が気持ちのいい挨拶で出迎えてくれる。


 あたしのおうちは教会が併設された施設で、色んなひとが住んでる。
 他の|√《世界》から来た迷い人を保護する場所なんだって。

 大人のひとなら、生活に困らない知識を勉強したらここを出て余所で暮らしたり……タイミングが良くてここでのお仕事があるなら、シスターや職員さんとして住み込みで働いたりも出来るみたい。だからさっきのシスターさんや、このおばちゃん達も殆どが異邦人。たまに何の能力も無いただの人もいるみたいだけど、パートさんらしくって短い時間しか働いていないみたい。
 あたしみたいにまだ小さい子は、√EDENの基準で大人になるまで面倒見てくれるんだって。……じゃあ小さいまま見た目が変わらない子は、大人になったらここで住み込みで働くってことなのかな?

 ここは優しいひとばっかりで、拾われたあたしは幸運なんだと思う。


 入って直ぐによーく手を洗っていると、手紙を持った職員が一人やって来た。

「すみません。どなたかポストに手紙を出して来てくれる方はいませんか?今日お客様がいらっしゃるから、バタバタしていて」

「えー……、厨房も今日は人が少ないしねぇ……」

 何やら困っている様子だから手を貸したくて、急いで石鹸を洗い流してタオルで手を拭ったシアニが職員へ駆け寄る。

「ポストに入れてくるのって、大人じゃなくてもいいー?」

「あら、シアニちゃん。行ってくれるの?」

「いいよ、お手伝いする!」

「ありがとう!お言葉に甘えてお願いしちゃうけれど、車には気を付けてね」

「はーい!」

 手紙を大事に受け取ると、厨房のおばちゃんから「朝食が終わったら内緒でデザートのおかわりをあげるよ」と聞きやる気が漲る。朝食の時間迄には戻って来られるように速足で廊下を行き靴を履く。万が一間に合わなくても残しておいてくれるはずだけれど、手間をかけないに越したことはない。

 屋外に出た途端、遠かった蝉の鳴き声が近くなる。
 まだ朝の時間帯でも容赦無く照りつけてくる太陽に手を翳し、眩む目を徐々に慣らしていく。日焼け止め塗ってないや、なんて思い出して振り返るけれど、このまま向かうことにした。

 住み慣れた環境から門を出ると、記憶を頼りに右へ曲がる。突き当たりを左へ曲がり、横断歩道を渡ろうとしてきちんと歩道橋を使ったり……近くもなく遠くもない道程を歩いて行く。公園近くのポストへ着くなり投函し、額から流れた汗を腕で拭った。その時──。

「パパーママー、ひまわり!」

 と小さな子供の声がすぐ傍で聞こえて振り返る。
 楽しそうな子供と目が合って……抱きかかえる父親と寄り添う母親の化け物でも見たような目を見てしまい、どきりと鼓動が跳ねた。若い夫婦が即座に目を逸らし、大急ぎで離れて行く。けれど小走りだった彼等の足は直ぐに止まり、シアニからすれば不自然な程あっさりと、これから向かうレジャー施設について談笑を始めた。

 怖かった。
 でも……忘れようとする力のお陰でいつも、少しドキッとするのだけ我慢すればいい。

(ひまわりなんて、どこに咲いてるんだろ?)

 見渡すが、どこにもそのようなものはない。咲く時期を間違えた紫陽花が色褪せて干からびているだけだ。不思議そうに首を傾げ、先程の夫婦がシアニが来たのとは違う角へ曲がったのを確認してから帰路へ着いた。


 ♦︎


 帰ってからも、あの目が忘れられない。
 何もしていない、ただそこに居ただけで向けられた怯えた目。

 朝食をとる最中に手にした茶碗や箸から視線を下げ、青色の肌を見る。鱗があるとか、爬虫類のようにザラザラしている訳では無く、柔らかい白みを帯びた緑みの青色というだけで、ひとのそれと同じはずのもの。
 口に含んだ白米をぼんやりと何度も咀嚼して目を細める。いつも美味しそうに食べているのを皆よく見ててくれてて、隣の席の子が「具合悪いの?」なんて心配してくれる。ご飯は勿論美味しいし食べてるつもりだから、「夏バテかなー?」と無理矢理笑って答えた。


 心配してくれたその子は他の人と変わらない肌の色をしてるから、怖がられたりしないのかな?それとも、猫耳や尻尾で好奇の目を向けられたりするのかな……?


「あのさ、√能力者じゃないひとから、変な目で見られたりする?」

「変な目?うぅん、特に無いと思うよ」

「そっかぁ……」

 いいことのはずなのに、その一言が心にどろりと落ちていく。彼女が気にしない性分かも知れないなんて、そんな風に思う余裕も今は無い。


 ──結局、食欲がなさそうなのをおばちゃん達にも心配されて、デザートのおかわりは遠慮した。

 ゼリーだったから、部屋で休んで食べたい時に食べなと、使い捨てのスプーンと一緒に持たせてくれた気遣いが嬉しい。真っ直ぐ自室へ戻りデスクへゼリーを置いて、ふと鏡を覗く。

(あ、……。ひまわりって……あたし……?)

 熊の茶色を鮮やかな黄色が囲んでいるのは向日葵の花のようで、緑色のズボンは茎や葉にも思える。手足や顔が眩しい夏空のようだと幼心に感じたのだろう。あの子は何も悪く無い……明るい顔だったから、もしかしたら綺麗と思ってくれたのかも知れない……そうやって必死に考えて恐ろしそうなあの目を忘れようと足掻くのに、どうにも頭から消えてくれない。冷房を点けベッドの上で頭まで布団に包まる。

(もしも“忘れようとする力”が無くなったらどうなるんだろ……ずっとあんな風に見られるの……?)

 何も危害を加えていなくても、人は違うものには残酷だ。
 同じ見た目をしているのに人に似た“ひと”である自分は、忘れようとする力が無くなるだけに留まらず、√能力を失った時どうなるんだろう。それでも人にはなれなくて、違う見た目を抱えたままなのだろうか。

(……すごく怖いよ……)

 こんな時は、寝てしまおう。
 変な夢を見て、疲れてるのかも知れないから。
 ぎゅっと目を閉じ呼吸を整える。次第に汗が滲んでくるけれど、布団さえ被っていれば全ての視線から守られる気がして、そのまま横になるより安心出来た。

 楽しい夢が見たい。

 こんな気分、無くなっちゃうくらい楽しい夢……。


 ♦︎


 雨音の中、目を開ける。
 気付けばまた最近よく見る夢の中だ。
 今は一番見たくない夢だった……。

 今朝は袋を被されたようなところで目が覚めたから、立ち竦んでいる今、どうやらその続きを見ている訳では無さそうだけれど……相変わらず雨が降っていて背の高い紫陽花で視界が悪い。一つだけ今迄と違って不気味なのが、今回は最初から何かの気配をハッキリと感じること。不思議とそれを、恐ろしく感じてしまう。

「なに……?」

 思い切って声を掛けてみるが返答は無い。
 見渡してみても誰も居ない。
 でもどうしてか、近付いて来てる。それも直ぐ傍に……早く逃げないと。

「も、もう行くから……。居なくなるから、ついてこないでね!」

 大声でこの場から立ち去る意思表示をし、背を向けて駆け出す。
 地へ足をつく度に泥水で靴下まで汚れていくのを気にせず、近付いてくる嫌な気配から遠ざかろうとするのに。どうして?自分以外の足音なんて聞こえないのに、遠ざかるどころか、近付いて増えていく!

(なんで?どうして?走ってるのに、こんなに一生懸命……!)

 足を滑らせてしまい短い悲鳴をあげながら、両手を突き出し前のめりに倒れる。
 泥の中に倒れ汚れた顔を袖で拭い、伏せた顔を上げ──息を呑む。紫陽花の隙間から、幾つものあの目が此方を見ていた。

「ゃっ……ひぅ!」

 横から伸びてきた黒い手に襟首を掴まれ、紫陽花の低木へ引き摺り込まれていく。足をばたつかせて必死に抵抗を試みるも、仰向けに引っ張られては上手く踏ん張ることも出来ない。段々と息も苦しくなってきて目を閉じた瞬間、ふっと呼吸が楽になる。

「げほっ!ぅぇっ、けほ!ごほっ」

 引っ張られる感覚が無くなり、寝返ってもがくように激しく咳込む。
 大きくゆっくりと息をし始めて漸くきつく閉じた瞼を開くと、見慣れた建物の前へ倒れていた。皆と暮らしている教会がある。門は閉じていて、シアニは敷地の外の歩道に転がっていた。

 自室で布団を被って寝て、あの紫陽花のじめじめした夢を見て、その中で変なのに引っ張られて……?

 手や服を見ても泥汚れは無い。顔も手で擦ってみるけど、どろっと汚れる感覚はしない。四つん這いになって足元を振り向いても、あれだけ必死に走って汚したのに跡形もない。

(あれ?)

 訳が分からなくてぺたんと座り、首を傾げながら立ち上がって門を押してみる。
 開かない。
 引いてみても横へスライドさせようと試みても、ガシャガシャと金属音がするだけで開く様子が無く、周囲をきょろきょろと見渡すけれど、見える範囲では誰の姿も認められない。

「だれかー!誰かいませんかー!」

 叫んでみても誰も返事を返してくれない。
 何で?と段々鼓動が早くなる。世界にひとりぼっちでいるみたいで、自分の居場所であるはずの場所にも帰れなくて、心細くて仕方が無い。ぎゅっと眉を寄せると、遠くから窓が開く音が聞こえてそちらへ注目した。

 教会の隣の施設。自分の部屋に位置する窓から、ぱっと見ただけでは非√能力者と相違無い姿の女の子が顔を出して、シアニは首を左右に振りながら後退る。

(誰……?そこ、あたしの部屋だよ……?)

 夢の中だと思いたくて腕に爪を立ててみたけれど、紫陽花畑に居た時と同様にちゃんと感覚がある。これでは夢か現実か、明確に区別が出来ない。
 まるで頭の中に心臓があるみたいに、煩いくらいにどくんどくんと脈打って表情が引き攣っていく。その所為だろうか、目が合ったその子が「せんせー!変なひとがこっち見てる!!」と泣きそうな声で室内へ戻って行って、弾かれたように門から離れて駆け出した。何処かへ逃げたくて……友達と食べたり寝たりする遊び場や、本格的な幽霊船型の複合型レジャー施設や、いつか辿り着く世界の果てを夢見て描かれた絵が、沢山飾られた画廊を思い出す。けれどいずれも、此処から近いようで遠くもある。
 不安で何を頼れば、どうしたらいいのか全く分からない。

「わぁ!?ごめんなさい!」

「あっぶねーな!気ィつけろよ!」

 曲がり角を飛び出すと、ヤンキー風の若い男性にぶつかってしまって頭を下げて謝罪する。乱暴な言葉で怒鳴られて、肩を竦めて萎縮し震えてしまう。別の声で「やば、こいつ気持ち悪い色してね?」「なぁー、何かのコスプレ?」と嘲笑されて、違うと言いたいのに声を上げられず、コンクリートの地面を見下ろした視線だけが泳ぐ。
 何時もなら少し我慢すれば直ぐに何も無かった風に避けてくれるのに、待ってども彼等は何処へも言ってくれない。それどころか、胸倉を掴まれそうになって咄嗟に避けてまた走り出す。

(どうして忘れてくれないの!?あの人も、そこの人も、怖い目で見ないで……叫ばないで……!)

 道行く人が皆、怖い目をシアニへ向ける。無遠慮にスマホを向けてシャッターを切る者、ただ見ただけで叫ぶ者。いつもと違う様子に動揺してしまい、足から空色の鱗のような光が舞い始め、足先からどんどん|不完全な竜《フォルスドラゴン》化し速度を上げる。公園で遊ぶ子供達を驚かせないようにこっそりと木陰から敷地へ入ると、遊んでいた子供達が家へ帰ろうと口々に挨拶を交わしている。

「また明日ねー!」

 友達へ手を振り前を見ずに道路へ飛び出そうとする子へ、法定速度を超えるようなスピードで住宅街を走行する車が迫るのを見て「危ない!」と子供の間へ割り込み抱きかかえた。

 急ブレーキの後にドンッ!と鈍い音が響き渡り、続いて塀にボンネットをぶつけ金属や硝子が割れる音が鳴る。
 子供の悲鳴や異様な騒音に驚いた周辺の住民が、様子を見に家から出て来る迄の短い静寂の間……意識を失っていたシアニが目を覚ました時、泣き叫ぶ子供の声や女性の怒鳴り声が聞こえ、身体へ重い衝撃が加わった。

「痛っ!?」

「うちの子から離れて!この化け物!」

「やめっ、い゙たい!」

 怯えて見上げると、怖い顔で目を見開いた女性が振り上げたゴルフクラブのシャフトが、太陽の光を跳ね返して輝いた。頭を守ろうと両腕で庇おうとして手を浮かすのに、左腕が持ち上がらない。
 喉が枯れてしまいそうなほど泣いていた子の声がシアニから離れていくのを感じて女性の腰の辺りへ視線を彷徨わせると、その子は赤く濡れた様子だけれど動けないような怪我は無さそうだ。

(よかった……)

 守れたことにほっとした瞬間、右腕へ降ってきたゴルフクラブに骨が軋んで割れた。
 堪らず絶叫して頭を庇いながら左向きに身体を転げて蹲ると、だらんと垂れた左腕が今にも千切れそうにぶら下がっていると気が付いた。目の前の光景にゾッとした途端にその腕の痛みを思い出し、呼吸が乱れて眼球や身体の末端が震え、玉のような汗が噴き出す。殴りつけた女性が子供の名前らしきものを呼んだり、心配したりしながら遠ざかる。救急車は来ているのだろうか。何か異常は無いか、あの子をすぐ診てもらって欲しい。蘇るから自分はこの際放っておいて構わない。

 ──でも、おねがい。その目で見ないで……殴らないでっ。

 痛みに咽び泣きながら視線だけで自身を取り囲む人の気配へ向けると、皆の顔が恐怖や憎悪に満ちている。
 いつかこういう日が来ると思ってはいた。
 忘れようとする力が無くなってしまったらと、いつだって怖かった。

 ついにその時が来てしまったんだ。

「ぁ、たし……、あの子を……車、の……運転手さん……は……」

 あの目が怖くて|竜覚《トランス》して逃げていた。確かに人と比べたら化け物かも知れない。だけどあの子が轢かれてしまわないように頑張って守ったんだと訴えたいのに、少し言葉を発しただけで息が弾んでしまい上手くいかない。車の運転手も、シアニを撥ねたから怪我が無いとは限らなくて……確認したいのに今の向きでは車が見えず、反対を向こうにも、動けば直ちに切れてしまいそうな左腕が怖くて動けない。

 ……あぁ、そうだ。そういえば足は?
 腕がこんなことになってるのに、足は無事なのだろうか。
 恐る恐る力を入れてみる。違和感があるけれど動きそうだ。足首に力を入れて踵で地面を蹴り膝を動かそうとしたが、何故か地面を蹴っているつもりで何も無い所を蹴っている。もしかすると、膝から下はひしゃげて曲がってる……?

「俺はソイツが子供を食おうとしてるのを見たぞ!だから轢いてやったんだ!」

(違うよ、このおじさんの声、もしかして運転手さん?こんなところでスピード出して走ってたの、あたし見たよ!あの子が轢かれそうになってたから、間に合ってって思って飛び込んだよ!なんでそんな嘘つくの!?)

 叫び訴えたいのに痛みが喉を締め、言葉の断片を呻くことしか出来ずに大粒の涙を流す。運転手が無事な様子で良かったと素直に喜べないのが悲しくて、涙が止まらず体力を奪われる。

「ドライバーさん、うちの子を助けてくれてありがとうございます……!」

「……どこから脱走して来たんだ、これ。最近こういうのが関わってる事件、幾つかあったよな……!?」

「写真撮ってマスコミに流した方がいい?」

「まだ動くのかな……」

「生かして暴れたら手に負えないかもしれない……おい!ここで殺っちまおう!」

 取り囲む大人達が何かを話していると思えば、男性を中心に武器になるものを手にしてにじり寄って来る。血を流し過ぎて意識が朦朧としてきたけれど、それらが自分へ危害を加えようとしているのは理解出来た。鼻を啜って逃げようと足掻いても、ただ膝から下が竜へ変化しただけの小さな身体は、もう声を絞り出そうとするので精一杯だ。満身創痍で動けやしないのに、得体の知れない生物が動き出し人を襲わないなんて、誰一人思ってくれないのだろう。

「……ぉ、ねが……ぃ……やめて……ゃめ、ッ!ゔぎゃ!ぁ、あ゙ぁ゙!!」

 皆、口々にシアニの死を願う呪いの言葉を吐きながら、近隣の家から持って来たらしい金属バッドや椅子といった鈍器になる物を、容赦無く振りかぶりシアニへ叩きつける。骨が折れて身体がへこみ、身体の中がじわっと熱くなって内臓が押し出されるように圧迫され、口から血を吐いても苦しさが消えない。ヒューヒューと息が絶えかけ、目の前がみるみる霞んでいく。自分が叫んでいるのか黙っているのかも分からない。

「おい、中華包丁持って来たぞ!首でも切れば死ぬだろう!」

(包丁……?首……?)

 赤く或いは青黒く腫れぐったりとした身体を無理矢理仰向けにされた瞬間、コンクリートに擦れた左腕がついに千切れてしまった。鈍く光る刃と怯え切った男性の顔を、感情の抜け落ちた顔で見上げる。人に殺されようとする今においても、反撃しようという気持ちは欠片もなくて、ただ自分があの子を助けたくて身を挺したことを認めて欲しかったと一筋の涙が伝う。そこからはもう、体温と一緒に心までみるみる冷えていった。

 シアニの首へ置いた包丁の刃が皮を切り、薄く血を滲ませ流れていく。日常を裂いて訪れた恐怖に息を荒げた男性が、狙いを定めた包丁を持ち上げ少し引くようにしながら力いっぱい振り下ろし、小さな命の灯が暗闇へ溶ける。

 ──人間って、醜いな。

 最期の瞬間に抱いた嘆きは、理不尽な暴力への抵抗か、誰一人味方が居なかった自分自身への慰めか……シアニ自身にも、よく分からなかった。


 ♦︎


 薄暗い室内で両目を開く。今まで忘れていたように大きく胸が上下して、横になっているらしいのに全力で走ったように息が切れて、全身にぐっしょりと汗をかいている。暑さに耐えかねて落としてしまったのか、ベッドの上に布団は無い。
 見慣れた天井だと気が付くと、仰向けで見上げたままくしゃっと顔を歪めて大声で泣き叫ぶ。本当に自分の部屋なのか信じられなくて、しゃっくりをするように息を吸いながら身体を起こし室内を見渡すが、知らない子もいない、いつもの部屋だ。

 震える身体を自分で抱きしめて安堵しながらも、混乱して腕に爪を立てて引っ掻く。|夢で《さっき》怪我した場所を必死になって確認して、血も流れていなくて傷付いておらず、きちんと繋がっている今に喜び、けれど自分を罰するように叩いたり髪を鷲掴み錯乱する。

 怖い。

 みんなと同じがよかった。

 同じだったらあんな目に遭ったりしない。

 普通が良かった。

 せめて肌だけでも一緒だったらよかったのに。

 あたしは人が大好きだよ、|あんなこと《人間が醜いなんて》思ってない!

 ほんとだよ、ゆるして……。

 ごめんなさい……ごめんなさい……!




 どれだけ泣いたのか分からないけれど、暫くしてから部屋のドアがノックされた。

「シアニ?」

 先生の声だ。

「どうしたんだい?泣いているのか?……隣の子がシアニが大変と呼びに来てくれたんだ。大丈夫かい?」

 お友達も先生も心配してくれている。
 あたしの話を聞こうとしてくれる。
 孤独じゃない。

 そう思ったらまた涙が出て嗚咽が止まらなくて、言葉にならない泣き声で答えるとそっとドアが開く音がした。廊下を照らす灯りを背負った先生と友達が入るなり、焦った様子の友達が駆け寄って抱きしめてくれた。歩み寄って来た先生はベッドの横に膝をついて落ち着くのを待ってくれる。
 ひとと違う者同士ならこうした優しい瞬間を沢山過ごせるのに、人とはいつまでも上手くいかなくて。

 いつか、怖がらずに接してくれる日は来るのかな……。

 沢山の人と、優しい毎日を過ごしたい。
 大好きな人を沢山助けて、力になりたい。

 その日まで、どんなに傷付いても頑張るから。

 いつかあたしを……認めて、くれるかな……。

 
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