ネリネの種
●門出と、はなびら
裏通りにひっそりと佇む萬花は提灯の淡いあかりと沈丁花の香りだけを己が在処を示す標としていた。その一室で向かい合うふたりの間には、いつもより少しだけ静かな時間が流れている。
「芥さん、私、大学行きたいんです」
大学に、と告げられて夜鷹・芥(stray・h00864)は戀ヶ仲・くるり(Rolling days・h01025)がまだ学生なのだということを思い出した。
忘れていたわけではない。ただ、あまりにも当たり前に近くに居た。
迷えば此処へ来て、仕事を手伝いながら笑い合って、時には呆れた顔でこちらを見上げる。その姿がすっかり萬花の日常に溶け込んでいたからだ。
「学校にあまり行けない今だと、大学にいけるか分からないので、勉強をちゃんとしたくて……萬花で働くの、おしまいにしたいんです」
寂しさがないと言えば嘘になる。それでも彼女を此処に留める理由にはならない。
家族と連絡が取れるようになり、一人暮らしの費用も何とかなるようになったのならばもう自分が手を差し伸べ続ける必要はない――否、それこそが元々芥の望んでいたことだった。それ故に、芥は直ぐに頷きを返すことが出来た。
「ああ。くるりのこれからやりたいこと、未来を大事にしてくれ」
くるりを守る場所が萬花ひとつでなくなったのなら、そのほうがいい。
それでも、ひとつだけ確かめたいことがあった。
「……くるり。俺は、くるりに手を差し延べられたか?」
「え? はい!」
迷いのない返事だった。
「私、√能力者になってから家に帰れなくて、それにも気付けないし、迷子もいっぱいなるし……その中で萬花があったの、とっても助かりました!」
自宅への帰り道を失ったことさえ知らず、世界の中で何度も迷った。そんな少女が今、自分から行きたい場所を語っている。その確かな事実が芥の胸の奥にゆっくりと沈んでいく。
「そうか。……そうか、良かった」
差し伸べた手は彼女を縛るものにならなかった。その手を離して、自分の足で歩き出せるところまで来た。それだけで充分だった。
「お前が此処に来てくれて、手伝ってくれて助かった」
窓の隙間から沈丁花の香りが流れ込んでくる。その香りと心からの言葉に、くるりはすこしだけ擽ったそうに目を細める。
此処で過ごした時間は長いものではなかったかもしれない。それでも、帰る場所を失った彼女にとって、萬花は確かな居場所に違いなかった。
「家族と連絡取れるようになって、一人暮らしの費用もなんとかなるようになりました。なんとかなるまで過ごせたのは、ここで働かせてもらったからです」
礼を言われるようなことをした覚えは芥にはあまりなかった。迷子になっていたから拾った。困っていたから働く場所を用意した。ただ、それだけ。
「……萬花があって、よかったなぁ、っていつも思います。本当にありがとうございました!」
けれど、その『それだけ』が誰かにとっては帰る場所になり得るのだと。今更知ったのだと言えば、彼女は笑うのだろうか。
「勉強、ちゃんと頑張れよ。遊びたくなるだろうが、程々にな?」
なんて、自分が言っても説得力はないかもしれないけれど。肩を竦めればくるりの目元が緩んだことに、芥も柔く目を細めて頷いた。
「えへへ、勉強、がんばりますね」
萬花で働く日々は今日で終わる。
けれど、それはふたりの関係までもが終わるということではない。同じ場所に居続けることだけが誰かと繋がる方法ではないのだから。芥は立ち上がり、扉へ向かうくるりの背中へと歩み寄る。
「……行ってらっしゃい、だ」
激励の代わりに、とん、と背を押す。
ほんの僅かな力だった。けれど、今のくるりにはそれで充分だった。
「――はい、いってきます!」
扉が開く。提灯の灯が廊下へ細く伸び、その先には、萬花の外へ続く道がある。かつて帰り道を失っていた少女が、今度は自分で行き先を選んで歩いていく。
寂しさはある。だが、それ以上に誇らしかった。
手を差し伸べることは相手を己の傍へ置き続けることではない。いつかその手を離し、ひとりで歩けるようにすることこそが、差し伸べた者の責任なのだろう。
いつか大学へ行って、そこで見つけたものを語り、見据えた夢やその将来を聞かせてくれればいい。その頃自分が何処にいるのかは判らないが、それでも、きっとまた会える。友人とは、同じ場所に居続けることで結ばれるものではないのだから。
これは別れではなく、それぞれの道を歩き始める『はじまり』だった。ならば今は笑って送り出せばいい。そうしていつか、彼女がもう一度顔を覗かせてくれたときには――新しい門出の先で見つけた未来を友人として語り聞かせてくれる日を、静かに待っていればいい。
それも楽しみだと目を細め、芥はくるりのちいさな背中が見えなくなるまで、穏やかな眼差しで以ってずっと見守っていた。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功