√ニフタ・ノクス・ノッテ・ナハト・ナイト『暗闇に』
●√
確かなものが欲しかった。
けれど、欲してはいけないことだとも思っていた。
それはきっと善意からの行動であったが、見返りを求めた時点で偽善になると思った。負い目と言ってもいいのかもしれない。
人は忘れる生き物だと、どこかで聞いたことがある。
自然の中で生きる以上、記憶とは武器だ。
忘れていていいことなんて、何一つないはずだ。
生物学的に言うなら、記憶を維持することは脳というリソースを圧迫することなのだという。それはそうだ。
事実、ライラ・カメリア(白椿・h06574)は道ですれ違う人々の顔を逐一覚えていない。
もしも、全てを覚えていたのならばきっと、情報の洪水に溺れてしまうだろう。
多すぎる情報は、それだけで負荷になる。重荷になる。動きだって鈍くなる。動きが鈍くなれば、致命的だ。
情報は常に更新されなければならない。
古いものは新しいものに。
だから、忘れるということは失敗なんかじゃあない。
人間が忘れるという機能を獲得したのは、全てを覚え続けるよりも、必要なものを選び、不要なるを捨て、変化に対応することが生存に大きく寄与すると理解できたからだ。
じゃあ、と小さくライラは呟いた。
「昨日は楽しかったねぇ。また放課後遊びに行こうよ」
「今日は?」
「今日は流石に。だって連日は拙いでしょ~?」
「え~でもでも~?」
行っちゃう? と友人たちが自分を交えて昨日の出来事を振り返っている。
そう、昨日は放課後、ライラは友人たちと寄り道をした。
そこであの怪物――『デザイアモンスター』と遭遇したのだ。
けれど、友人たちの朗らかな顔を見れば、そんなことはなかったのだと言うように明るい表情のまま語っているのだ。
「あ、あの! さ、流石に今日は……」
ライラの言葉に友人たちは顔を見合わせる。
「お~まじめななから、ライラは。昨日、楽しくなかった?」
「そんなことはない、けれど……」
だって、昨日、とライラは続けようとして気がついた。
友人たちは、忘れているのだ。
そう、恐ろしい出来事を前にして、感情が記憶を抹消するように彼女たちは忘れてしまっているのだ。
「『忘れようとする力』――という」
ライラは校内の片隅で、己のバッグの中に忍ばせてたステッキ『セスタ』の言葉に己の顔が歪むのを自覚した。
「『忘れようとする力』? なんでそんな」
「不可思議に思うかい? あんな恐ろしいことがあったのならば、本来は忘れようがない、と」
「だって、それは」
「そう、確かに記憶することで次なる脅威を回避しようとするのは生物として当然の反応だ。だがね、世界には知らなくて良いこと、知ってしまってはもう戻れないこともある。そういう境界線が、確かに存在している。そして、不幸にも君は」
√能力者として覚醒してしまった。
欠落を得てしまった。
それ故に、己の力を振るうことができたのだと『セスタ』は語った。
ライラは昨日のことを思い出した。
「……だから、わたしだけが、覚えている、の?」
「そうだ。君は不幸だ。けれど、同時に幸福も感じることができたはずだ」
「幸福、なんて」
感じていない。歓びなんて感じていない。なのに、ステッキである『セスタ』は表情さえ伺わせない宝石の輝きを明滅させて言う。
「いいや。感じたはずだ。言いようのない幸福を。誰かの笑顔や大切な日常を守りたいと願い、それが叶えられる結果を君は手にした。その時、君は確かに思っただろう。感じただろう。満たされる感覚を。けれど、また同時に埋められない欠落をも得てしまったことを」
ステッキを握る手が震えた。
「そんなことない!」
ライラは、背を向けた。
震える手は、心まで震わせるようだった。
あんな恐ろしいことなんて、二度と。
そう思っていたはずだ。
あのときは、無我夢中だっただけだ。『デザイアモンスター』は恐ろしかった。怖かった。あんな怪物と真正面から戦えたのは、あの時の勢いがあったからだ。
だから、それ以上は、と彼女は己の非力さを思い出していた。
一歩間違えば、死んでいた。
「わたし……そんなことに、歓びなんて」
感じていない。
小さく呟く声は嗚咽に濡れていた。
「だから、私は不幸だと言ったんだ。君は確かに力を得た。『デザイアモンスター』を倒せるだけの、ね。こうした戦いに巻き込んだ立場からは、とてもではないが言えた口ではない。けれど」
「……」
ライラは手にしたステッキを見下ろす。
手は震えている。
視界は滲んでいる。
けれど、彼女は気がついてしまった。
「……魔法少女は」
「ああ、君だけではない。君以外にも多くの少年少女たちが魔法少女となり、そしてその心を『デザイアモンスター』たちは狙っている。君の友人たちもそうだ。そうなる可能性は、多くある。彼女たちがまだ少年少女のままならば」
「どうすればいいの」
「『デザイアモンスター』は少年少女たちの柔らかな心を捕食する。だったら」
「あの子たちが大人になるまで」
「そういうことだ。だが、君は見逃せるか? 見捨てることができるか? 見放すことができるか? この世には多くの少年少女たちがいる。今も、生命の芽吹きを世界は祝福している。この刹那にも、だ」
『セスタ』の言わんとしていることをライラは理解した。
あの恐ろしい光景、体験は、これから何度だって彼女の柔らかな心を傷つけるだろう、と。
それでも、と『セスタ』は言っているのだ。
「……怖い」
「だろうな。恐怖を抱くのは生物として当然のことだ。防衛本能ともいうかもしれないがね」
「でも」
「ああ、それでも。恐怖という感情の裏側にあるもの。それは大なり小なり持ち得るものだ。だが、あの日、あの時、君は恐れながらももっと大きなものに突き動かされたはずだ。この暗闇のような未来さえ見通せない世界にあって、標となる星すら見失うような夜空の中で、君は掴んだんだ」
一等星でもなんでもない。
遠き残照たる六等星を。
それは確かに彼女に降り注ぐには、あまりにも頼りなくか細い光だったかもしれない。
だが、彼女は、そんな光にさえ手を伸ばしたのだ。
「……――!」
ライラは声を聞いた。
逼迫した声。助けを求める声。
校内から響き渡る悲鳴。
「これ……もしかして!」
「ああ、『デザイアモンスター』だ! 奴ら、まさか!」
「……!」
ライラは走り出した。
ためらいはなかった。少しの逡巡もなかった。
そうしなければならないという使命感すらなかった。
恐れを抱きながらも、誰かの笑顔を汚すものや、損なうものを許せないという思いだけが彼女の身から溢れ出して止まらないのだ。
だから、走った。
胸に抱くのは恐れだ。
けれど、その恐れが暗闇なのならば、一等輝く思いがあった。
人はそれを|根幹《オリジン》と呼ぶのかもしれない。
「そうだ。それを勇気という。君は、もう叫んでいるんだ。私は、それを見た。だから、叫べ!」
「わたしは、ためらわない。だって、そこに誰かの柔らかな心が傷つけられようとしているのなら、誰かが守らないといけないというのなら! 誰に頼まれたことでなくたって! 忘れられたって!」
そう、覚えていなくても良い。
自分の手柄に、功績にならなくたっていい。
なぜなら、今の彼女は正しさに走っている。認められなくても、独りでもいい。
「『アルフ・ライラ・ワ・ライラ』――!」
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功