The Noise of Malice
●悪意の火種
発端は実にくだらないものであった。
ラーメン屋のカウンターに並んで座る。注文を訊かれたところで篭宮・咲或(Butterfly effect・h09298)は疲れた体に重いものは入れたくないな、と徐に口を開いた。
「俺、塩で~」
隣ではヴォルケ・ナクア(慾の巣・h08435)が僅かに眉を寄せている。食というものに関してだけは彼は妙に妥協しない。腹を満たす。それも可能な限り大量に。そこに味の繊細さだの季節感だのというものが入り込む余地は殆どなかった。
「豚骨ラーメン大盛り……いや爆盛りで」
店員が一瞬だけ目を見開く。咲或は横目でその様子を見て、それからヴォルケの顔を見る。彼の気怠げな瞳は至って真面目なものだった。
「真夏にコッテリを爆盛って重くない?」
が、『重い』という感覚がそもそもヴォルケには理解しがたいものだった。
腹に入る。美味い。ならばそれでいい。
アホか、とでも言いたげに鼻を鳴らし、椅子に深く腰掛ける。
「あ? あっさり系こそ食った気しねえだろ、だからお前はナヨナヨしてんだよ」
その瞬間、咲或の表情から緩い笑みが薄れ、ほんの少しだけ眉が動く。
普段ならば聞き流せる程度の悪態だった。ふたりの間ではこれくらいの軽口など珍しくもない。だが、今日は妙に引っ掛かり、胸の奥で苛立ちの種が芽吹いていく。
「咲或ちゃん疲れてて聞こえなかったんだけど。もう一回言って? なんて?」
声は甘い。いつもの柔らかな響きだ。
だからこそ、ヴォルケはその奥にある棘を見落とした。
「女みてーだなって言ったんだよ、舌もツラも」
言った瞬間に踏み込みすぎたとは思ったが、引っ込める気にはなれない。
咲或は黙った。琥珀色の瞳が、あまく、ゆっくりと毒のように細められる。
「へ~~。お口がわるぅいオマワリさんに対して言う台詞じゃないねぇ。豚箱行きをご所望?」
冗談粧した言葉。だが、決して笑ってはいなかった。ヴォルケも引くという選択肢を捨てている。些細な火花が妙に大きな炎になっていく。
相手がどこまで本気なのか、自分がどこまで本気なのか、その境目すら曖昧になっている。その違和感にふたりとも気付くことはない。だから、止まれない。
「何ピキってんだ……そうやってヒスる所が女みてーだってんだよ」
咲或の指先が膝の上で僅かに動いた。殴るほどではない――少なくとも、今は。
頭ではくだらないと思っているが、妙に耳につく。こんなことで腹を立てる自分も馬鹿らしいが、腹立たしいことに変わりはない。何故ここまで腹が立つのかが分からないことが、さらに苛立ちを募らせて行く。
「あ~そっかぁお子様には礼節を守る、なぁんて難しかったか。まだガキだもんね」
今度はヴォルケの双眸が猛禽の如く険しくなった。
「……ガキっつったか? |タマ無し《・・・・》に言われる筋合いはねえな」
空気が凍る。互いに相手の顔を凝視したまま、どちらも言葉を継がない。ラーメン屋の喧騒だけが妙に遠く聞こえる。とうとう、咲或の口元から完全に笑みが消えた。
「……だる。赤ん坊の方が可愛げあるな」
吐き捨てるように言って席を立つ。
「へえ、そのガキに泣かされねえといいな」
ヴォルケの声を背中に浴びながら、咲或は振り返らなかった。会計は自分の分だけ。視界の端で、ヴォルケも自分の丼の中身をきっちり完食していた。構うものか。
くだらない。
本当に、どうしようもなくくだらない。それなのに、ふたりとも腹の底では怒りを煮え滾らせたまま、その日はそれきり言葉なく別れた。
――その夜。
ヴォルケは帰宅すると、上着を脱ぐより先にPCを起動した。暗い部屋にモニターのひかりが浮かぶ。キーボードを叩く指は淀みない。
咲或の電子機器類にはとっくの昔にバックドアを仕込んである。普段は暇潰しに警視|庁異能捜《カミガリ》査官どもの情報を覗く程度だった。仕事柄、それくらいのことは造作もない。
だが今日は違う。苛立ちを持て余したままヴォルケはプログラムを呼び出した。画面に並ぶコードを眺め、唇の端を吊り上げる。
「ブッ壊してやるくらい簡単なんだよ」
送り込むのはなんて事のない、危険度の低いウイルスだ。実害は大きくないが、復旧はほぼ不可能――悪戯としては十分だろう。
「ふ、せいぜい焦ってろ」
満足したように椅子の背凭れへ身体を預けて笑いを噛み殺す。
そのときは、それだけのことだと思っていた。
それとほぼ同時刻のこと。
咲或はメールの確認にとタブレットを起動して、数秒後に眉を顰めた。
「……あれ」
画面が一瞬、呼吸するように明滅した。
次の瞬間にはすべての表示が消え、画面は黒一色に塗り潰された。沈黙を裂くようにけたたましい笑い声が響いて――感情の欠落した電子音声が、画面いっぱいに浮かぶ文字を読み上げる。
"|You're an idiot😜《救いの無ぇ馬鹿野郎!》"
その声が途切れるたびに文字は増殖し、画面をやかましい位に埋め尽くしていく。笑顔の絵文字だけが不自然に明るく、こちらを嘲るように脈打っていた。
「……なにこれ。ウイルスでも入った?」
画面を何度か操作するが、反応しない。再起動を促そうとも操作を受け付けない。
「も~ほんとにめんどくさい」
支給品である以上放置するわけにもいかない。咲或はスマートフォンを取り出し、機器に詳しい同僚へ連絡を入れた。通話を繋ぎながらソファへと沈み込む。
「ねー画面真っ黒になったと思ったら変になったんだけど。支給品故障させたなんて知られたら絶対怒られるからすぐ直してー」
電話越しの質問に、咲或は暫し沈黙を挟む。
「心当たり? しらなー……いやいるわ一人」
あの馬鹿ならやる。
むしろ、今この瞬間にやらない理由がない。
脳裏に浮かんだ面影を思い出し、咲或はどうお礼をしてやろうかと薄く目を細めた。
翌朝。
咲或は警視|庁異能捜《カミガリ》査官として使える権利を余す事なく行使した。オートロックを抜け、目的の部屋の前へ。拳を振り上げ、ドアを思い切り叩く。
「ナクアさ~ん警察で~~す。30数えるうちにに出ないとドアぶち破りまーす。30~20~ご~さん-にぃーいー」
どう考えても数え方がおかしい。
程なくして、室内から怒鳴り声が飛んできた。
「……うるっせえな、朝から!」
無視しようかとも思ったが、本当にドアをぶち破られたらそれはそれで面倒だったので、ヴォルケは寝起きのままドアを蹴り開けた。
「つうかカウントダウンおかしいだろ」
「御機嫌よう、いい朝ね。昨晩は素敵なプレゼントをどうも」
扉の先に立っている咲或は実に涼しい顔をしている。ヴォルケの眉が僅かに動いた。
「お陰で咲或ちゃん嫌味言われるわ怒られるわで大変だったのよ、そのせいで夜しか寝られなかったの」
『だから今日は直接お礼にきたよ~』なんて。泣きっ面を見せてくれればそれで十分だったのだが、咲或はそれだけでは終わらせるつもりはないようだった。
「それより……何で俺の家知ってんだよ、ご丁寧にオートロックまで突破してきやがって」
「どうやって自宅調べたかなんて、俺の仕事をきみはよーく知ってるでしょうに。使えるものは何でも使うのよ」
にこりと笑う。その姿に、ヴォルケは隠す事なく舌打ちを返した。
「そうそう|本題《ついで》なんだけど……昨日きみと俺が言い合った件」
「昨日の件? んだよ、謝らねえからな」
咲或は答えない。代わりに、ほんの僅かに視線を逸らす。
「今巷で噂になってる怪異知ってる?」
その言葉に、ヴォルケの顔から僅かに険が抜けた。
「怪異? ああ、なんか大喧嘩させるってヤツ――……げ、まさか」
思い当たる節がある。
それは最近、妙に人々の間に喧嘩が増えているという噂。ちいさな苛立ちが、堤防を失った川のように膨れ上がり、暴力沙汰にまで発展する――その正体は、モザイクに塗れた可視化された電波のような姿をした怪異だとか、なんとか。
ノイズの集合体。自分が影響を受けているかどうか、それを自分自身で見極めることは難しい。それならば、昨日のあれも、『そう』だと言うのか。
ヴォルケは露骨に顔を顰めた。
「……」
くだらない口論だ。
現にくだらないと思っていた。
なのに、その感情の膨れ方だけは確かに不自然だった。
「そう、それ。アレのせいらしいんだよね。それ今から討伐に行くんだけど」
咲或はそこで一度言葉を切り、ヴォルケを見上げる。その顔には、朝から人の家へ押しかけた男とは思えないほど、妙に愛想のよい笑みが浮かんでいた。
「女みたいな俺のタブレットをご丁寧にお釈迦にしてくれた、男らしいやんちゃなハッカーヴォルケくんは勿論快くお手伝いしてくれるよね?」
押し黙る。
「(こいつ、滅茶苦茶根に持ってるじゃねーか)」
言い返せばまた喧嘩になってしまうだろう。何より、怪異に踊らされていたという事実を今更ながら認めるのが腹立たしい。
「ッチ、仕方ねえな……無報酬で動くのは今回きりだ。終わったら肉でも食いに行こうぜ」
「そうねぇ終わったら焼肉ランチにでもいこ~」
咲或は色良い答えに目を細めた。
昨日とは違う。そう思いたいところだが、多分違わない。ふたりは結局、またくだらないことで喧嘩をするのだろう。それでも今は、街のどこかで猛威を振るう怪異を止めなければならない。
ヴォルケは乱れた髪を掻き、部屋の奥から必要な機材を引っ張り出した。咲或はその背中を眺めながら、壊れたタブレットのことを思い出す。修理できるだろうか。そもそも、この男は弁償するだろうか。考えることはいくらでもある。そして、そのどれもが、今すぐには決着しそうになかった。
ふたりは並んで部屋を出る。
街にはまだ、誰も正体を知らないノイズが漂っている――それを喰い潰すために。悪友同士は碌に仲直りもしないまま、怪異の巣へ向かい歩き出すのだった。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功