Erlösung
●Lamm Gottes
失くしたものは沢山ある。その事実は幾度夜の底に沈めようとも、決して消えることも、薄らぐこともしてはくれなかった。
夜の海は苦しいほどの静寂に満たされていた。
波は寝息を立てるかのように寄せては返し、月を映した水面には砕けた星のひかりが無数に浮かんでいる。遠くには航路を示す魔法灯が点々と瞬いていたが、そのひかりさえこの海域へ近付くに連れて次第に弱まり、やがて夜のかいなに抱かれて消えていった。代わりに、しろい砂浜がぼんやりと淡く浮かび上がっている。ヨシュア・ヴァルトシュタイン(「森の石」・h09600)は、その浜辺をひとり歩いていた。
視線は足許へと落ちていた。砂は足へとまとわりつき、歩くたびに細かな粒子が乾いた音を立てている。森の方からは名も知らぬ花の香りが流れて来て、それらはあまく、どこか遠い記憶を手招くような、不思議と心地良いにおいのように感じられた。
島は夏という概念を孕んだ亡霊のようだった。
八月の最後の夜。季節が海へと還るその寸前に、幾万もの記憶と共に消えてしまうその前に、一度訪れようと思った。
失くしたものをひとつだけ返してくれるという、古い言葉を心から信じたわけではない。ただ、ヨシュアには縋るべきものが、奇跡だか、神秘だか――おおよそ己とは縁遠くなってしまったもの以外にはもう殆ど残ってはいなかった。
自分のせいで教会が異端の地になってしまったとき。ヨシュアを逃がしてくれた『みんな』の遺品になるものは何ひとつ持ち出せなかった。戻って来たときに残っていたのは写真だけで、今まではそれで充分だと思って来たが。どうして自分は今ここで、みっともなく口伝えの伝承なんかに縋っているのだろうか。
「……もう亡くしたものに頼ったって仕方ないのにな」
思い返すたび、胸の奥にあるものは痛みより先に淡々と事実だけを示した。何を失ったのか。何が残ったのか。何を取り戻すことが出来るのかを。
けれど、その思考の何処にも答えはありはしなかった。燃えたのか、壊れたのか、誰かに奪われたのか。その何れも、もう確かめる術はない。
写真の中では皆が笑っていた。切り取られた風景からは、時間という概念が切り取られているかのようだった。老いた司祭も、幼い子どもたちも、誰ひとりとして歳を取らず、傷付かず、失われることもない。ただ一枚の紙の中で、永遠に同じ季節を生きている。だから、それで充分なのだと思おうとした。
思い出せるなら。覚えているなら。それで充分なのだと。
けれど、そらを見上げれば星があまりにもうつくしく、そういった強がりはいとも簡単に崩れてしまう。遅れてやってきた得体の知れない衝動を振り払うように、ヨシュアは遥かな夜空を仰いだ。
星は遠い。手を伸ばしても決して届かないくせに、記憶だけは容赦なく引き寄せてくる。何かひとつで良いから皆のものが見付かれば、まだヒトの中に居られるような気がして。だから、みっともなく探し回る足を止められない。
浜辺を歩くのにはまだ慣れなくて、時折足を取られそうになる。自分の生まれ故郷には海なんてありはしなくて、外のせかいに来て初めて歩くものだから。足元の砂をヨシュアは僅かに眉を寄せながら見下ろした。
「(……砂が足に絡むのってちょっと気持ち悪いんだよな)」
波打ち際へ寄れば濡れた砂は月を映して鏡のようになり、その上を歩く自分の姿さえ別人のように見えて少しだけ居心地が悪い。
「(今はそんなこと言ってる場合じゃないけど)」
砂浜には何もない。貝殻も、流木も、海藻も。或いはこの島そのものが自身の記憶を試すために作られた場所なのかもしれなかった。
「(何だって良いんだ。あったって、誰が応えてくれるわけじゃないのも知ってるけどさ)」
それでも探す。まだ、諦めきれないから。
それだけが、今のヨシュアに許された歩き方だった。
老齢だった司祭の着てた服を着たって、司祭みたいに穏やかで優しいヒトにはなれないって分かってる。……シスターの手袋は、きっと血塗れなんだろうな。
ベネディクトにい様の好きだったボードゲームを、にい様と一緒に出来る日はもう来ない。マティアスにい様が勉強を教えてくれるときの本は、教えてもらったところまでしか分からないに決まってる。
エレナねえ様がカタリナねえ様に選んであげた髪飾りは、おれが使うには少女趣味すぎて。病弱だったノアにご飯を作ってあげるとき使ってた食器は、もう使い物にならないだろう。クララの好きだった動物図鑑も、きっと朽ちて読めない。
ルカが大事にしてたロザリオは混乱の中で折れてるんだろうし。
ハンナのテディベアは、柔らかくなくなってるに違いない。
ひとつ、またひとつ。胸の裡で名前を呼ぶたび、そこにいた者の姿が夜の中へ浮かび上がってくるようだった。記憶とは不思議なものだ。失われた人間を生きたまま閉じ込める墓標でありながら、同時に決して触れることの出来ない檻でもある。星が綺麗だと、昔のことをよく思い出せるような気がした。
不意に足を止めれば、満天の星のひかりが昏い海へ零れ落ちていくのが見えた。
寝付けないと泣いている、いちばんちいさな甘えん坊の末っ子をこっそり連れ出して怒られたことを覚えている。いちばん上のきょうだいも同じことをしていた筈なのに、自分だけ怒られたのは狡いんじゃないかって、納得いかなくてへそを曲げてしまったことを、覚えている。
「(あれから隠すのが上手になったよ。……もう隠す相手もいなくなっちゃったけど)」
唇に、ほんの僅かな笑みが浮かぶ。
それは喜びではない。
懐かしさと呼ぶには鋭く、悲しみと呼ぶには乾きすぎている――それでも、確かに笑った。皆の死の苦痛に、涙より先に笑いが出た、あのときと同じように。
「(みんなは、おれは悪魔じゃないって言ってくれたけど。それもただ騙しただけだったんだ)」
おれは――|ぼく《・・》は、最初から。
みんなの思ってたような兄弟なんかじゃなかったんだよ。
夜の海が低く鳴った。それは思い描いていた『誰か』の返事のようでもあり、ただ波が崩れただけの音のようでもあった。
己は生まれて来るべきではなかったし、あのとき生き残るべきでもなかった。それでも皆が救ってくれて、今も愛してくれていることを分かってる。
「(だからおれは、みんなに救われるに足る命だったって証明しなくちゃいけない)」
生まれるべきではないいのちだったとしても。あのとき、死んで然るべきだったとしても――皆の死の苦痛に対して、涙より先に笑いが出る、悍ましい魔物だったのだとしても。
「(おれには諦める資格はない)」
膝をつき項垂れて、『ゆるし』を乞うて良い筈がない。
夜よりも硬く、温度のない言葉は最早祈りでさえない。祈りというものが救済を天へ委ねる行為であるのなら、ヨシュアのそれは到底祈りとは呼べはしない。それは、自分自身へ課す罪科の鎖そのものだった。
必ず己の中の魔性を組み伏して見せる。
トモダチも、可愛い弟分も、恩人も。皆が笑って過ごせる日を実現しなくてはならない。それらの全てを実現出来るまで、倒れることは許されない。
愛してくれた者たちの死を、ただの犠牲にしてしまわないために。自分が生き残ったことを、間違いではなかったのだと証明するために。
そうして、ヒトの中で生きられるようになったら――その先にあるものを、ヨシュアはまだ知らない。知らないからこそ進む。己が見付けた|唯一の魂《ひかり》を、いずれ、真っ向から攫いに行かければならないのだから。
不意に。波打ち際で、何かが瞬いたのが見えた。
「……?」
星ではなく、月でもない。
しろい砂の上に、それだけが異様なほど鮮明な銀のひかりを宿していた。
ヨシュアはそのひかりへ、ゆっくりと歩み寄る。海水に洗われたちいさな欠片。それは何かの一部のように思えた。けれど、何であったのまでかは分からない。
海岸に流れ着いていたこの銀の欠片は、一体いつ、何処で、誰が遺したものなのか分からない。それなのにどうしてか、ひどく懐かしい気配を抱いてしろい砂浜の上に佇んでいた。月光を受けたそれは、触れることさえ躊躇わせるほど静かに煌めいている。
もし、これが違ったなら。
もし、何の意味もないものだったなら。
そんな考えがほんの一瞬だけ脳裏を過ぎる。それでもヨシュアは手を伸ばした。恐る恐るに、指先を近付ける。触れた瞬間、冷たいはずの銀が、ひどく温かく感じられた。
刹那。あの日の『みんな』の燥ぐ声が、波音の彼方から聞こえた気がした。
確かに誰かが、皆が笑っていた。
誰かが走っていた。誰かが怒られて、誰かが泣いて、誰かが笑っていた。もう存在しない時間が、ほんの一瞬だけ夜の中へと戻って来る。
触れることを躊躇うほどの煌めきを恐る恐るに拾い上げたなら。皆の燥ぐ声が脳裏に過ぎった気がして、思わず痛みを堪えるように目を眇めてしまった。
涙は落ちなかった。落とすつもりもなかった。
けれど、そのちいさな銀の欠片を握り締める指だけが、僅かに震えていた。
「……幸せでいなくちゃね」
誰に言うでもなく落ちた言葉に、応えるものはない。
写真の中の笑顔も、記憶の中の声も、決して現実へ戻って来ない。それでも。それでも、幸福でなければならない。そうでなければ、救ってくれた者たちの死が、ただの喪失になってしまうから。
生まれてから今まで一度も差さなかった、本当の|救済《ひかり》が。
|経典の魔《あくま》に|恩寵《ばつ》を下してくださるまで。
夜空を見上げる。星々はあまりにも遠く、天はあまりにも高い。その遠さこそが、己には相応しかった。
神に救われることを待つのではない、己が魔物であることを知ったまま、それでも人の中で生きることを選ぶ。愛されるに足る者であったと、愛してくれた者たちへ証明する。それは救済という言葉から最も遠い場所にある、ひどく傲慢な願いだったけれど。その傲慢さだけが、きっと、ヨシュアを今日まで生かしていたのだろう。
「おれが、みんなが、――本当に救われる日まで」
声は夜のくらやみへと溶けていく。
その音は、遠い昔の教会で聞いた祈りのようでもあった。
この『かけら』が誰のものだったのか。なぜ自分の手に戻って来たのか。それを知ることが出来なくても良かったのかもしれない。
失くしたものは、ひとつだけ返された。ならば、それだけを抱いて帰ればいい。
写真の中にしかいなかった皆を、もう一度、自分の現在へ連れて行くために。ヨシュアは銀の欠片を胸元へ収めて静かに歩き出した。
背後で、夏の残響が消えてゆく。
月あかりの下、しろい砂浜は次第に淡くなり、森の燐光もひとつ、またひとつと夜へ還っていく。まるで季節そのものが、長い夢から目覚めるように。
振り返りはしなかった。
失くしたものを抱えたまま、それでも消えなかったもののために生きる。それだけが、己に残された確かな道だから。
残されたひとひらの魔法を胸に――悪魔は、ひとのせかいへと帰るのだ。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功