響く歌声、もう少しだけこの世界で
青空に夕焼け色が滲み始めた頃、√EDEN神奈川県の某駅前。
行き交う人々の足音と街の雑踏の中、よく響く澄んだ歌声が聞こえてくる。
この日、灰色の長い髪を揺らしながら、エマ・ローレライ(月光の歌姫・h12720)はこの場所で路上ライブを開いていた。
普段は動画や配信を中心に歌っている彼女だが、こうして人の気配を間近に感じながら歌うのも楽しいから。
好きな曲をいくつか、自作のオリジナル曲も織り交ぜて。
そのまま通り過ぎていく人々の中、立ち止まって聴いてくれる人もいる。
そして、歌いながらふと——エマの目に留まったのは、ひとりの男の姿であった。
年の頃は三十代前半ほど。
きちんと歩けないわけではなさそうで、酔っているようにも見えないのに。
でも、なぜか……どこか、その足元が定まらないようにエマには見えて。
身体ではなく、もっと別の何かが原因でふらついているような。
男はエマの歌など耳に入っていない様子で、駅へ向かっていく。
(「……なんだろう」)
理由はわからない。
けれど、どうしても何だか気になって。
ちょうど一曲歌い終えたところで、エマは小さく息を吐く。
そしてライブを切り上げると、人波を縫って男を追いかけた。
追いついた手が咄嗟に、その腕をつかむ。
「……え?」
振り返った男の驚いた顔を見て、エマ自身にも一瞬迷いが生じる。
……自分は何をしているのだろう。
確証なんて何もない。
ただ、それでも手を離さなかったのは——彼をこのまま、行かせてはいけないような気がしたから。
だから、戸惑う男を半ば促すように。
「ちょっと付き合ってくれるかな?」
エマは彼を連れて、駅近くのカフェへと向かった。
注文したのは、二人分のコーヒー。
エマは何も加えず、ブラックのままカップへ口をつける。
一方、男の前には砂糖とミルクも一緒に置いたが、肝心のコーヒー自体にさえ手を伸ばす様子はない。
俯いた横顔には、生気らしいものがほとんど感じられなかった。
そんな彼に、エマはまず自己紹介から始める。
「私はエマ。エマ・ローレライ。普段は動画とか配信で歌ってるんだ」
「……田端幸助です」
ようやく、男——田端幸助は、かすかな声で名乗る。
初対面だからなのか、こんな状態でも言葉遣いだけは妙に丁寧だった。
「田端さんは、何をしに駅へ向かってたの?」
「…………」
そう問いかけてみても返事はない。
田端の視線は、冷めていくコーヒーへと落とされたまま。
でも、エマは急かさなかった。
何かを言い聞かせるでも、沈黙を埋めようとするでもなく、ただ待つ。
そうしてどれほど経った頃か。
「……仕事に、行くわけじゃありません」
沈黙に耐えられなくなったのか、ぽつりとそう声が落ちた。
そして一度話し始めると堰が切れたように、少しずつ田端は自分のことを話し始める。
大学を卒業してから、仕事に就けないままだったこと。
親のすねをかじって、どうにかこれまで生きてきたこと。
三十代になった今も何も変わらず、この先に希望なんて持てないこと。
「それは……大変だったんだね」
エマはそう彼に言葉を返すけれど。
だがそれ以上、軽々しい慰めを重ねなかった。
そして最後に——田端は駅へ向かっていた理由を口にする。
電車へ飛び込み、自分の人生を終わらせるつもりだったのだと。
エマはカップを手にしながら、静かに彼の話を聞いていた。
エマ自身にも、欠落に起因する希死念慮がある。
だからこそ、簡単に「死なないで」と押しつけることはできなかったし。
代わりに、少し考えてから尋ねる。
「実際に死んだら、どうなると思う?」
「家族は悲しむかもしれないが、きっとその程度でしょう。去るつもりの世界のことなんてどうでもいいです」
だが向けた問いを、そう一蹴する田端。
その言葉にエマは黙ってしまう。
彼の状況を自分が具体的に良くできるわけではない。
仕事を用意できるわけでも、未来に希望があると保証できるわけでもない。
それに田端は、世界の命運を左右するような特別な存在ではなく。
Ankerのあの子のように、エマにとってかけがえのない人というわけでもない。
今日初めて会った、名前すら今知ったばかりの人だ。
でも——あるいは、だからこそ、エマは思ったから。
何か大きな意味があるからではなく……何者でもなくても、生きていてほしい、って。
それから、エマは席を立って。
「田端さん。ちょっと外、行こうか」
やはり戸惑う彼とカフェを出れば、そこには相変わらず人の流れが続いている街の光景。
少し離れたところには、先ほどまで歌っていた場所も見える。
そんな中、エマは田端の前に立つと、静かに息を吸った。
√能力は使わない。
誰かの心へ直接作用する力に頼ることはせず、アカペラで歌い始める。
ただ、自分の声が届くと信じて。
それは、無理に明日を信じろと迫る歌でもなく。
頑張れとも、立ち上がれとも、押し付けない。
立ち止まってしまう日があることも、暗闇の中で何も見えなくなることも、そのまま抱えて。
それでも——そんな中でも息ができるようにと。
余白を少しだけ差し出すように、エマは歌う。
田端は最初、呆然と立っていた。
なぜ自分のために、さっき会ったばかりの自分に、なぜこの少女はこんなふうに歌うのか。
理解できないまま、それでもその歌を拒否などできなくて。
澄んだ声が、胸の奥へ落ちてくる。
人生が急に好転するわけでもなく、無職の自分も、親に頼っている現実も変わらない。
——けれど。
死ぬことしか残っていないと思っていたのに、ほんのわずか別の道があるような気がした。
少なくとも、今すぐ終わらせなくてもいいのかもしれないと。
歌い切ったエマの声が暗くなった空へと溶けていった後も、街のざわめきだけが相変わらず耳に聞こえる。
エマは、そんな立ち尽くす田端をまっすぐ見て、そして少しだけ困ったように笑った。
「私のワガママだけど……あなたには死なないで欲しい」
ただ、それだけを伝えて。
返事を求めることなく、エマは雑踏の中へ歩き出した。
しばらくその背中を見送った後、田端もまた駅へと向かう。
同じ駅、同じホーム。
やって来る電車の音も、何ひとつ変わらない。
田端は他の人と同じように、黄色い線の内側にただ立っているだけだった。
到着した電車の扉が開けば、少しだけ躊躇して……それから、車内へ足を踏み入れた。
自分自身の人生を終わらせる気持ちにも今はなれなかったから。
座席に腰を下ろした田端はスマートフォンを取り出して。
それからふと、思い出す。
掴まれた腕の感触を。
自分に向けられた言葉を。
そして、自分のために歌ってくれた彼女の歌声を。
静かに動き始めた電車に揺られて、とりあえず今日は、帰路につくことにしながら。
——エマ・ローレライ。
田端は検索欄に、聞いた名前を入力した。
それから、ただ静かに目を向けるのだった。
先ほどと同じように歌う少女の姿が映し出されている、スマートフォンの画面を。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功