海月の骨
●雲母摺
故郷の海は昔と変わらず、何も語らなかった。
西の果てに取り残された廃村を背に、野分・時雨(初嵐・h00536)はゆっくりと水底へ沈んでいく。かつて人の声が満ちていた場所は、今や朽ちた家々と海風だけが往来する。そこに良い思い出は殆ど無いが、海だけは昔から彼を拒まなかった。
深く、深く。
ひかりの届かぬところまで沈めば、世界の輪郭はほどけていく。音も、言葉も、過去も。水圧にやわらかく抱かれているうちに自分という存在さえ薄くなって、ただ海の一部になれる気がした。
「海音さん楽しそう。やっぱり、エイだと海がいいの」
黒い死霊が揺らめいた。かつて秘密基地を守っていた霊は巨大な翼を悠然と翻し、星海の如き水中を泳いでいた。潮騒はその身から生まれているのか、あるいは遠い海の記憶が霊体を通して響いているのか。
音のない水底に、幽かな波音だけが揺蕩っている。時雨も、ふ、と体の力を抜いた。暗いところで漂って、動かずに――それは眠りにも似ていただろうか。
何もしなくとも、何者にもならずとも良い。
ただ、在るだけ。それだけで良かった。
海音が不意に身を翻す。どうやら、戻ってきたらしい。水の揺らぎが僅かに体に伝わってくるから、時雨も閉じていた目をゆっくりと開く。
「……なに? なんか見つけた?」
追うように泳いだ先。
砂と岩のあわいに、それは沈んでいた。
「遠いところから流れついたのかな」
掌に収まるほどのしろい結晶。
長い年月を水に撫でられ、角という角を失ったその姿は、磨かれた白珠のようだった。ひかりの乏しい水底にあってなお、内側から淡く輝いている。拾い上げれば、その表面に海面の千々のひかりが幻のようにゆらりと揺れた。
遠い海から、ここまで流れ着いたのだろうか。
時雨は暫くそれを眺めて――そして、ほんの少しだけ唇の端を持ち上げた。
「お土産にしよっか」
沈みきっていた心に細い糸が結ばれたような心地がして、それが不思議と不快ではない。帰る理由など、存外このようなちいさいものひとつで良いのかもしれない。
「おいで、おうちに帰ろ」
結晶を懐へ収め、海音へと手を伸ばす。
呼びかけに応じ、海音が大きな黒い翼を翻す。
ふたつの影は、ゆっくりと水面へ向かっていく。その背後ではいつまでも、静寂を湛えたみなそこが、ひかりを抱いてゆらゆらと揺れていた。
🔵🔵🔵🔵🔴🔴 成功