シナリオ

戀愛賠率

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●愛情的沉澱與扭曲
 香港Ⅳ層の夜は色で溺れている。
 見上げれば積層都市の裏側――Ⅴ層の底面が巨大な蓋のようにそらを塞ぎ、その隙間から僅かに漏れる本物の月光は無数のARホログラムに食い散らされて、もはや誰も本当の月の色を覚えていない。看板の、広告の、義体に埋め込んだ電源のひかり。それらが混ざり合って、雨上がりの路面に虹色の油膜となって沈んでいる。|梁・詠琳《Leung Wing-lam》は、その油膜を踏みながら歩いていた。

 三十一歳。武強として名を挙げ、低階層から這い上がってきた実力者。
 仙術の腕は本物だった――嘗ては、だ。
 今は違う。今の詠琳を語るとき、誰も彼女の仙術の腕前を口にはしない。口にするのは、ただひとつ。『黑家の末妹、その主のひとり』という肩書きだけ。
 その肩書きはどんな宝石よりも眩く輝いていた時期もあった。
 だが、今は違うのだ。今はそれが、己が首にかけられた重すぎる枷になっている。誇らしさよりも、重みで喉を絞められる感覚のほうが強い。
 詠琳のスマートレンズには絶えず数字が流れている。残高。負債。次回契約更新までのカウントダウン。何れもが己の鮮血が如くあかく輝いている。『赤』という色はこの街では警告の色ではなく、もはや詠琳自身の色になりつつあった。
 思えば、黑・宵刃(无貌・h12479)を最初に『買った』とき――そう、確かに『買った』のだ――詠琳は自分のほうが立場があの、黒狗よりも上だと信じて疑わなかった。金を払う側。選ぶ側。愛でる側。あのうつくしき獣を、自分の檻に閉じ込めておける側だと。今となっては檻の中にいるのは果たして何方の方なのか、詠琳自身にも分からなくなっている。
 低階層から伸し上がるために、詠琳は仙術以外のものを何もかも切り捨ててきた。友も、恋も、休息すらも。そうして漸く掴んだ武強としての地位は、紅牌市場という化け物じみた賭場に足を踏み入れた瞬間から、少しずつ、確実に。虫が本を侵食していくように、愛は静かに頁を喰んでいた。最初はほんの僅かな食い跡に過ぎなかった筈なのに、気付いた時には文字は崩れ、意味は濁り。綴じ糸の奥深くまで黒い空洞が穿たれている。誰にも見えぬところで何かが蠢き、紙のしろさを、己のハラワタを、一枚一枚、ゆっくりと奪っていく。やがて本を開けばそこに記されていたはずの言葉さえ、虫に喰われた骸のように沈黙している。詠琳の日常は、そうして、『黑・宵刃』という存在そのものに浸食され始めていた。

 参加していないちいさな企業を取り込んでみても、旨味などない。吸収すればするほど管理コストばかりが膨らむ。かといって、資本のある大手と提携を結ぼうにも詠琳にはもう差し出せる担保がなかった。信用も、資産も、そして――何より、武勇そのものが、以前ほど輝いていない。
「最近、腕が鈍ったんじゃない?」
 同業の誰かが笑いながらそう言った。
 彼女に悪意はなかったのかもしれない。ただの世間話だったのかもしれない。だが詠琳の中では、その一言が刃のように深く刺さっていた。
 傷口はやがて膿み、爛れ落ちていくような心地がした。胸の奥に穿たれた裂け目から黒く濁ったものが絶えず滲み出し、触れることさえ叶わぬ場所まで腐蝕が広がってゆく。痛みは疾うに失せていた。ただ、何かが静かに死んでゆく気配だけが骨の内側にこびりついて離れない。掻き毟ればその下からまた別の傷が現れて、治ることを拒むように、心は自らの腐敗を喰らいながら、ゆっくりと形を失っていった。
 腕が鈍ったのではない。心が、宵刃のことでいっぱいになってしまっているだけだ。契約を交わしたあの日から、詠琳の意識は常にどこかで宵刃を探している。仕事中も、戦闘中も、ふとした瞬間に、あのあかい瞳と、大きく振られる尾のことを考えてしまう。
 それが弱さなのだと、詠琳自身、痛いほど分かっていた。
 分かっている。とうに知っている。
 それでも、指は離れない。縋ることが愚かだと知りながら、縋ることしかできない。愛と呼んだものが、何時しか鎖へと変わっていたことにも気付いていた。それでもなお、その鎖を自らの手で断ち切ることだけはどうしても出来なかった。
 捨てられるくらいなら、壊れてしまえばいい。そんな破滅的な願いさえ、愛という脆い熱情で抱き締めてしまう。愚かだ。救いようもないほどに。それでも彼女は、あの黒い獣を愛してしまっていたのだ。

 夜。ひとりで棺桶部屋のベッドに横たわるとき、詠琳の脳内ではいつも同じ映像が再生される。初めて宵刃と契約を結んだ日の、あのひかりの粒子。
 宵刃が自分だけに向けてくれた――そう、あの時は信じていた――柔らかな笑み。あれがこの街で最も高価な演技だったと知った今でも、詠琳の胸の奥は、あの記憶を手放すことが出来ずにいる。
「(私だって、頑張ってきたのに)」
 詠琳は自分のてのひらを見詰めた。皮膚の下に走る細かな傷跡に、義体化した左手首の継ぎ目。これらの全てが詠琳が積み上げてきた歳月の証だった。血反吐を吐いて、裏切りに耐えて、時には自分の恩人にすら刃を向けて。それでもここまで来た。宵刃との契約を続けるために、詠琳は自分の武強としての誇りすら切り売りしてきたのだ。
 なのに。それなのに、その全部がたった一晩の『気分転換』という甘い誘いの裏に、こんな結末が待っているだなんて――このときの詠琳は、まだ知る由もなかった。

「詠琳さん。今月も、少し足りていませんね」
 配信端末越しに、宵刃はいつもそう告げる。声には非難の色などまるでない。ただ、寂しそうに、憂いを滲ませながら眉を下げるだけだ。その切なげな表情がまた、詠琳の胸を締めつける。責められるより、悲しまれるほうがよほど辛い。責められれば反発できるのに、悲しまれれば、詠琳はただ謝ることしかできなくなる。
「ごめんなさい、宵刃。必ず、来月には」
「良いのですよ。私も、詠琳さんとお逢い出来ないことを寂しく思っています」
 宵刃から齎される『寂しい』という言葉が、詠琳にとっては何よりも甘いご褒美のようにも、何よりも悍ましい呪いのようにも響く。宵刃が寂しいと思ってくれている。それだけで、今月も頑張れる気がしてしまう自分がいる。それと同時、その言葉ひとつのために大金を注ぎ込んでいる自分の愚かさにも、薄らと気付いてはいた。気付いていてもなお、目を逸らし続けている。
 紅牌市場という舞台の恐ろしさはそこにある。
 ひとの情念を真綿で首を絞めるようにゆっくりと、確実に金へと変換していく仕組み。詠琳のバイタルデータは、この瞬間も誰かの端末で数値化され、グラフとして映し出されているのだろう。心拍数や脳波の乱れ。嫉妬のスパイク、絶望の兆候。それらの全てが上層の富裕層にとっての娯楽であり、賭けの対象であることを詠琳は知っている。
 知っていてなお、逃げられない。
「……また、逢えるかしら」
「勿論です。――月が巡れば、またお逢い出来ましょう」
 愚かしくもそんな風に縋ってしまう己の自我を、止められない。

 詠琳は、自分の顔を鏡に映すことが日に日に恐ろしくなっていた。
 そこに居るのは紛れもなく自分であるはずなのに、鏡は残酷なほど正直で。昨日にはなかった影が、今日には目許に沈み、肌の張りはほんの僅かずつ失われてゆく。その微細な変化を見つけるたび、胸の奥がひどく騒いだ。老いとは突然訪れるものではない。気付かぬうちに身体へ忍び込み、若さを一枚ずつ剥いでゆく――静かな死だった。
 三十一という年齢はこの武強主義の街ではまだ若い部類に入るはずなのに、鏡の中の自分はいつも少しだけ、実年齢より疲れて見える。目の下の陰や頬のこけ具合。それら全てが『宵刃に見合う女ではない』という証明のように思えて。だから詠琳は鏡から目を逸らした。見なければ、まだ失われてはいないと信じられる気がした。
 それでも、化粧品にかける金だけは、決して削らなかった。
 むしろ増やした。契約更新のための資金繰りが苦しいというのに、詠琳は美容と身体の改造にだけは糸目をつけずに金を注いだ。皮肉なことにその出費こそが、詠琳の首をさらに絞めているというのに。
「(少しでも、綺麗でいたい。少しでも、あの子の隣に立てるように)」
 その願いがどれほど滑稽であるか、詠琳自身よく分かっている。
 分かっていて、やめられない。それはまるで、蟻地獄のようだった。
 這い上がろうとすればするほど、足元の砂はさらさらと崩れ、必死に伸ばした指先は、掴むものさえ見つけられない。ほんの少しだけ前へ進んだと思えば、その分だけ身体は深く沈み、踠けば踠くほど、逃げ道は遠ざかっていく。
 上を見れば、そこには確かに宵刃というひかりがある。
 手を伸ばせば届きそうなほど、近くに――けれど、そのひかりへ辿り着くための道だけが、どこにも存在しない。助けを求める声さえ、崩れる砂に呑まれて消えていく。そうして最後には、這い上がることも、抗うことも、諦めることさえ許されない。ただ沈み続けるしかない場所へと、静かに追い込まれていく。
 それは、何処にも出口のない、どうしようもない『行き詰まり』だった。

 ある晩、詠琳の元に宵刃から一通のメッセージが届いた。
『詠琳さん。少し、気分転換にお出かけになりませんか』
 文面は何処までも優しく、何処か誘うような甘い響きを持っていた。詠琳はそれが罠だとは、このときまだ知らなかった。寧ろ、久方ぶりに宵刃とふたりきりで過ごせるかもしれないという期待に、胸を高鳴らせすらしていた。
 その日、詠琳は珍しく朝から念入りに身支度を整えた。普段は義体の整備に使う時間すら削って仕事に充てているというのに、この日だけは鏡の前で何度も服を選び直した。少しでも若く、少しでもうつくしく見えるようにと、化粧を重ね、香水を選び。まるで初めての逢瀬に臨む少女のように、そわそわと落ち着かない一日を過ごした。
 三十一年生きてきて、こんな風に胸を高鳴らせる日が来るとは思っていなかった。だからこそ、その後に待っていた光景は。詠琳の心を、これ以上ないほど深く抉ることになる。

●不期而遇
 指定された場所はⅣ層の中でもやや上寄りの、ネオンが控えめな街区だった。詠琳は常よりも着飾って向かった。宵刃とふたりで出かけるというだけで、心が浮き立ってしまう自分のことが滑稽だと分かっているのに、浮き立つ気持ちを抑えることが出来なかった。
 だが、待ち合わせの路地に足を踏み入れた時。詠琳は先ず空気の違和感に気付いた。
 宵刃の隣に、誰かがいる。
 背の高い女だった。白髪混じりの漆黒の髪、あかい瞳――宵刃と何処か似た色彩を纏っているが、纏う空気はまるで違う。宵刃が大型犬のような無邪気さと忠誠、愛を振りまく存在だとするなら、その女は静かに息を潜める猛禽のようだった。
 動きに無駄がない。視線に迷いがない。
 眼鏡の奥の瞳はまるでこちらの動体を測るように、じっと詠琳を見据えていた。
「――|你係邊個呀《どちらさま》?」
 詠琳の声は自分でも驚くほど掠れていた。
 宵刃が、まるで飼い主を見つけた犬のように、その女の傍らで尾を揺らしている。詠琳が今まで一度も向けられたことのない、蕩けきった表情で。
「ああ、詠琳さん。ご紹介致しますね」
 宵刃の声はいつもと同じ丁寧さを保っていた。だがその奥に滲む甘さは、詠琳に向けられるものとは明らかに質が違った。
 まるで違う人間が喋っているかのようだ、と詠琳は思った。いや――違う人間ではなく、これこそが『本物の宵刃』で、詠琳に見せていたものはすべて、作られた貌だったのかもしれない。その可能性に思い至った瞬間、詠琳は己の指先が急激に冷えていくのを感じていた。
「依鹿さんです。私の恋人でいらっしゃいます、――『本命』の!」

 本命。

 その二文字が詠琳の鼓膜の奥で何度も、何度も反響する。
 知識としては知っていた。宵刃に本命の女性がいるのだと唐突に『放映』されたのは、今からほんの少し前のことだ。噂として耳にしたとき、詠琳は『そういうこともあるだろう』と、無理矢理に自分を納得させた。
 宵刃は本質的に誰のものにもなりはしない。幾人もの主を抱えている。だが、私生活に恋人がいたところで契約を交わした主たちへの態度が変わるわけではない――そう、思い込もうとしていた。
 だが実物を前にすると、話は、世界は、まるでその色を変えてしまった。
 まず、背丈。
 詠琳とほとんど変わらない。
 髪の色も詠琳と同じ。宵刃がかつて、『詠琳さんは身長も髪色も、少し恋人に似ていて好ましいのです』と、まるで褒め言葉のように呟いたことがあったのを、詠琳は鮮明に覚えている。あの瞬間に詠琳は舞い上がった。自分にも、この子に愛される要素があるのだと、浅ましくも喜んだ。
 だが、今なら分かる。あれは褒め言葉などではなかった。
 詠琳は、森本・依鹿(HUNTRESS・h13088)の『劣化版』として、都合よく消費されていただけなのだ。似ているという事実は、比較対象としての価値しか持たない。本物が目の前にいる今、詠琳という存在の輪郭は急速に色褪せていく。
「(似ている。似ているだけ)」
 詠琳の中でその事実が何度も反芻される。身長も、髪色も似ているのに、決定的に何かが違う。依鹿の肌は詠琳よりも張りがあるように見えた。詠琳が必死に高級な美容医療で保とうとしている艶が、この女にはなんの苦労もなく備わっている。詠琳の視線は、無意識のうちに依鹿の全身を舐めるように動いていた。
 若いだけなら、まだ許せた。若さなど、いずれ誰の手からも零れ落ちるものだ。けれど、この女は若いだけではない。自分よりも『強い』。自分が血を吐くようにして手に入れたものを、その腕で、まるで玩具でも弄ぶように奪っていく。そして何より残酷なのは、宵刃の眼差しだった。自分には決して向けられなかったひかりが、あの女には惜しげもなく注がれている。

 あの子が愛しているのは、私ではない。
 この世界では、強い者こそが美しい――ならば私は、何だったのだ。
 若さでも、力でも、愛でも。私はあの女に、何ひとつ敵わない。

 憎い。眩しい。羨ましい。
 そのすべてを煮詰めたような熱が、胸の底でどす黒く煮え滾る。嫉妬というものがこれほどまでに具体的な形を取るものだとは、詠琳自身、この瞬間まで知らなかった。それは腹の底から込み上げてくる、粘度のある黒い液体のようだった。ゆっくりと、けれど確実に臓腑を満たし、喉元までせり上がって呼吸さえも奪っていく。
 吐き出してしまえば楽になるのかもしれない。けれど、吐き出したところで何になる。あの女が若く、強く、そして何より――あの子に愛されているという事実は、何ひとつ変わらない。ならば、この黒い熱を抱えたまま、己だけが焼け落ちればいい。そう思うほどに、あの女の美しさが憎かった。
 依鹿は詠琳を見ても怯えず、媚びもしなかった。ただ静かに、値踏みするような視線をひとつ寄越しただけ。その落ち着きようが、逆に詠琳の神経を逆撫でする。この女は、詠琳のことなど脅威にすら思っていない。そう悟った瞬間、詠琳の中で何かが、音を立てて軋んだ。
「(見下されている)」
 その確信が詠琳の自尊心を根こそぎ削り取っていく。武強として名を挙げ、低階層から這い上がってきた自分が、こんな、素性もわからない冴えない女に、まるで路傍の石のように無視されている――否、無視ですらない。憐れみの対象として、ただそこに存在を許されているだけだ。
「はじめまして」
 依鹿の声は低く、しっかりとしていた。少し掠れているのは、喉が冷えているせいだ。中性的な響きの中に、何処か飄々とした空気が混じっている。だが、詠琳の耳に届いたのはその声そのものではなかった。
 依鹿の胸元、コートの内ポケットから覗く端末が彼女の言葉を拾い上げ、間髪を容れずに広東語へと変換していく。抑揚の削ぎ落とされた、平坦な機械音声だった。人の声の温度をすべて漉し取って、代わりに無機質な滑らかさだけを与えられたような響き。依鹿の口が動いてから、コンマ数秒遅れて、その合成音声が空気を震わせる。
「あのね。レンくん――宵刃くんから聞いてるよ、あなたのこと。頑張ってる主さんなんだって?」
 軽い口調のはずだった。
 だが、機械の声には抑揚がない。皮肉なのか、労いなのか、それとも本当にただの世間話なのか、感情の温度がまるで判別できない。ただ『頑張ってる主さんなんだって』という単語の羅列だけが金属質な響きを伴って、詠琳の鼓膜を突く。悪意はないように聞こえる。だが詠琳には、その言葉の裏にひそむ余裕こそが何よりの侮辱に思えた。
 『頑張ってる』だなんて。
 まるで犬の芸を褒めるような、そんな響きだ。
「(この女、恋人の母語すら喋れないって言うの?)」
 詠琳の中で新しい棘が生まれた。依鹿は詠琳の言葉を、詠琳の悲鳴を、詠琳の罵倒を、その耳で直接受け取る気すらないのだ。すべてはこの無感情な機械を一枚隔てた向こう側の出来事でしかない。まるで詠琳という存在そのものが、翻訳アプリのスピーカー越しにしか触れる価値のない、遠い異物であるかのように扱われている――そう感じてしまう自分が、堪らなく惨めだった。
 詠琳は笑おうとした。愛想笑いのひとつも浮かべれば、この場をやり過ごせると、経験がそう告げていた。だが唇の端が震えて、うまく形にならない。
「(何よ。……何なのよ、その顔)」
 心の中で詠琳は幾度となく毒づいた。
 声には出せない罵倒の言葉が喉の奥で渋滞して行き場を失っている。
 この女は知らない。私がどれだけの金を、どれだけの時間を、どれだけの誇りを、あの子のために差し出してきたか。お前は何もしていないくせに。ただそこに立っているだけで、愛されているくせに。
「|哦……原來你叫依鹿呀《あら……そう、依鹿さんと言うのね》」
 声は自分でも情けないほどちいさく、震えた。
 宵刃はそんな詠琳の動揺を見逃さない。いや。見逃さないどころか、それを見て密かに愉しんでいるようにすら見えた。あかい瞳の奥に、ちらりと昏い、喜悦のひかりが揺れている。
「詠琳さんは、私と長くお付き合いくださっている主のおひとりです。大切な『お客様』ですよ」
 『お客様』という言葉が、また、詠琳の胸に深く突き刺さる。
 恋人ではなく、客。
 金を払う側であり、愛される側ではない存在。頭では疾うに分かっていたことなのに、こうして目の前で線引きをされると、その事実は生々しい痛みを伴って詠琳の中に居座った。
 詠琳の脳裏にこれまでの記憶が奔流のように蘇る。
 宵刃と過ごした夜――と言っても、実際には数字上のやり取りに過ぎなかったのだが――その全てに於いて、詠琳は自分こそが特別なのだと必死に思い込もうとしていた。他の主たちに嫉妬しながらも、自分こそが一番長く契約を続けている、自分こそが一番多く貢いでいる、そう自分に言い聞かせることで辛うじて心の均衡を保ってきた。
 だが、今。その均衡が根底から崩れ去ろうとしている。詠琳がどれほど貢いでも、どれほど長く契約を続けても、決して辿り着けない場所に、この女はただ息をしているだけで立っている。その理不尽さが詠琳の胸の奥で、どろりとした黒い澱となって沈殿していく。
 依鹿は詠琳の様子を見て、少しだけ目を細めた。憐れみとも興味とも取れる、複雑な表情だった。
「恋人がいるって分かったうえでそれでもなお、宵刃くんが欲しいって言ってる女の顔が見てみたいと思ってね」
 その一言は、あまりにも率直で、あまりにも残酷だった。詠琳を丸ごと見透かすような、静かな声音。まるで法廷で罪状を読み上げる裁判官のように、依鹿はただ淡々とそう告げた。

 詠琳の中で、何かが決壊した。

 長年かけて積み上げてきたプライドが、目の前でぐしゃりと踏み潰される音がした気がした。悔しさよりも先に、羞恥が全身を這い上がってくる。顔が熱い。指先が震える。それを悟られまいと、詠琳は奥歯を噛み締めた。
 この女は、何も知らない。
 詠琳がどれほど泥を啜り、傷を負い、幾度となく敗北を味わいながら、それでも強くあろうとしてきたのか。己を磨くために投じてきた金も、時間も、削られてきた武勇も、その全てをこの女は知らない。
 知らないくせに。ただ若く、ただ強く、そして――あの子に愛されている。
 それだけで、この女は詠琳が血反吐を吐いてでも欲しかったものを、まるで当然の権利であるかのように、その腕の中に抱いている。あまりにも理不尽だった。積み上げてきた年月も、流した血も、耐え抜いた屈辱も、愛さえも。何ひとつ、愛される理由にはならなかったのだと、突きつけられた気がした。
「(憎い。憎い、憎い、憎い――、)」
 その感情は驚くほど純度が高いものだった。
 詠琳は自分でも戸惑うほど、真っ直ぐに依鹿を憎んだ。美しいことが憎い。自分より若いことが憎い。そして、宵刃から向けられる愛情の、その量が憎い。けれど、それだけではない。
 何よりも許せないのは、何もしていないことだった。
 この女はきっと、何年も己を磨き続けたわけではない。金を払い、傷を負い、血を流して、ようやく何かを手に入れたわけでもない。ただそこに『在る』という、それだけのことで、宵刃の一番になっている。
 詠琳が死に物狂いで積み上げてきたものを、何の努力もなく飛び越えて。
 その理不尽さが、どうしようもなく憎かった。そしてその憎悪の底には、認めたくもないほど明瞭な敗北感が沈んでいた。
「殺したい? 私の事」
 依鹿があまりにあっさりとそう尋ねた。日本語の響きそのものは詠琳には聞き取れない。届くのは、端末が半拍遅れて吐き出す、抑揚のない広東語の合成音声だけだ。『殺意』という本来ならば身を焼くほどの熱を持つはずの言葉が、まるで在庫確認でもするような平板な調子で読み上げられる。その温度差が、詠琳の神経を更に逆撫でしていく。人の心の一番深い場所を土足で踏みにじっておきながら、その罪悪感の欠片すら、機械の声には乗っていない。依鹿は、そして宵刃は。詠琳の表情から、何もかも読み取ってしまったのだろう。誤魔化しようもなかった。
 詠琳は答えなかった。答えられなかった。
 だが、その沈黙こそが、何よりも雄弁な答えだったのかもしれない。
「そっか」
 依鹿はそれだけ呟くと、視線を宵刃のほうへと移した。端末が、その二音節すら律儀に拾い上げ、無感情な機械音として空間に置いていく。まるで詠琳という存在を、その平坦な音ひとつで一先ず片付けてしまったかのように。
「……ごめんね」
 謝罪の言葉すら、機械の口を通れば謝罪としての温度をすっかり失ってしまう。合成音声は、悲しみも憐れみも、罪悪感も運ばない。ただ意味だけを無機質に運んでくる。だからこそ詠琳にはその謝罪が心の籠った詫びなどではなく、業務的な事後報告のように聞こえた。
 気の毒には思っている。けれど、同情はしない――その言葉には、慰めようとする温度も、詠琳を傷付けまいとする躊躇いもありはしなかった。ただ事実だけを淡々と告げる、突き放した響き。機械音声特有の無色の質感と重なって、その声は妙に鮮明に詠琳の耳の奥へ沈み込んだ。何度振り払おうとしても消えない。まるで、冷たい刃を肉の内側に突き刺したまま置き去りにされたようだった。
「(せめて、自分の言葉で詫びればいいのに)」
 詠琳は場違いにもそんなことを思った。依鹿にとって、広東語を覚える手間すら、詠琳のために割く価値のないものなのだろう。その事実が、憎悪の澱に、また一滴、重たい滴を落としていく。
 宵刃はそのやり取りの全てを、まるで舞台の袖から観劇するように眺めていた。詠琳の情念が、依鹿への憎悪へと姿を変えていく様を、静かに、しかし確かな愉悦とともに咀嚼していた。
「(――やはり、依鹿さんがこの世で一番、美しい)」
 宵刃の胸の内ではそんな想いが静かに満ちていた。詠琳の醜く歪んだ表情も、燃え上がる嫉妬の炎も、すべては賭場を盛り上げるための燃料でしかない。だが、依鹿の動じることのない静かな佇まいこそが、宵刃にとって唯一の、掛け替えのない宝なのだろう。誰に何を言われようとも揺らがず、己を飾ることも、殊更に強さを誇示することもない。ただそこに在るだけで、宵刃の心を捉えて離さない。その揺るぎなさこそ、詠琳にはどうしても持ち得なかったものだった。
 きっと、この光景を長兄である宵主も見ているだろう。今この瞬間の詠琳のバイタルデータは、すでに紅牌市場の観客たちに配信されているはずだ。宵刃は、自分が見初めたこの女が、いかに黑家に相応しい伴侶となり得るか――そのことが、遠く離れた兄にも伝わってくれればいいと、密やかに願っていた。

●審判嘅時刻
 依鹿による『品定め』の時間は、静かに、しかし残酷なまでに続いた。
 ネオンの反射が詠琳の頬に赤や青の陰影を落とす。まるでその陰影自体が、彼女の内側で渦巻く感情の色を映し出しているかのようだった。詠琳の思考は最早冷静とは言い難い程に、ぐるぐると同じ場所を延々と回り続けていた。
 どうして。どうして、この女なのか。どうして、自分ではないのか。金なら払える。いや、正確には、もう払えなくなりつつあるけれど、それでも払おうとした。時間だって差し出した。仕事の合間を縫って、寝る間を惜しんで、宵刃との時間を確保しようとしてきた。それなのに――。
「(何も。何も、何も、何もしていないくせに)」
 詠琳の内側で、同じ言葉が幾度となく繰り返される。声に出すことはできない。出せば、この場にいる誰もが詠琳の惨めさをより一層はっきりと理解してしまうだろうから。だが胸の奥では、その言葉が割れた鏡の破片のように、何度も何度も反響し続けていた。
 依鹿の指先が、ふと動く。
 何気ない仕草だった。それだけのことなのに、詠琳の目は、その指先の動きひとつすら見逃すまいと、貼りついたかのように離れなかった。爪の形。関節の太さ。宵刃と繋いだであろう手。あの手が宵刃の頬に触れる瞬間を、詠琳は何度も何度も想像してしまう。想像するたびに臓物の全てが焼けるように熱くなり、同時に、氷のように冷たくなる。矛盾した感覚が、同時に詠琳の身体を支配していた。
「(触るな)」
 心の中で詠琳は叫んだ。触るな、その手で、あの子に触れるな。あの子は、私が――いや、『私達』が、大金を払って、時間を差し出して、ようやく手に入れた、束の間の関心だったのに。お前は何の代償も払わずに、当たり前のようにあの子の隣に立っている。それが、許せない。どうしようもなく、許せない。
 胸の奥底から、どす黒いものが絶え間なくせり上がってくる。理屈ではない。正しさでもない。ただ、自分ではどうすることもできないほどの嫉妬と悔恨が、詠琳の心を焼き尽くしていく。
 なぜ、私ではないのか。その問いだけが、いつまでも消えなかった。
 詠琳は自分の中に渦巻くこの感情の醜さを、痛いほどに自覚していた。こんな年齢にもなって、こんな幼稚な嫉妬に身を焼かれるなんて、屈辱と名付けることさえ陳腐なように思えた。だが、自覚したところで感情は少しも治まらない。自覚すればする程、その醜さに対する自己嫌悪が上乗せされ、感情はさらに濁っていく。
 自分の人生を振り返る。
 低階層で生まれ、何も持たずに育った詠琳が、ここまで這い上がるためにどれほどの犠牲を払ってきたか。友を裏切ったこともある。恩人を見捨てたこともある。それでも、上へ上へと登り続けることだけが、詠琳にとっての生きる意味だった。そうして掴んだものが、結局は宵刃という、決して自分のものにはならない存在への、底なしの依存だったとは。
「(私の人生は、何だったの)」
 その問いが詠琳の胸の奥で、繰り返し木霊する。
 答えは出ない。出るはずもない。
 ただ、目の前の依鹿という存在が、詠琳のこれまでの人生全てを嘲笑っているように思えてならなかった。実際には、依鹿はそんなことなど微塵も考えていないというのに、詠琳の被害妄想じみた思考は、止まることを知らなかった。
「あのね、詠琳さん」
 依鹿は淡々と続けた。声に怒りも侮蔑も乗せず、ただ事実を述べるように。だがその声そのものは、詠琳のもとへは届かない。届くのは、いつもの、抑揚を漉し取られた合成音声だけだ。
「私は宵刃くんのこと、本当に好きだよ。それも、たぶん詠琳さんが思ってるよりずっと。だから、もう遠慮とかしたくないんだよね」
 『好き』という、本来ならばこの世で最も熱を帯びるはずの言葉さえ、機械の声を通ると平らかになる。詠琳は、その温度のなさに底知れない恐怖を覚えた。感情を込めて語られるより、よほど厄介だ。まるで、詠琳という存在に感情を割く必要すらないと、機械の声そのものが証明しているように聞こえてしまうから。
 依鹿の言葉に、詠琳の喉がひくりと震えた。遠慮しない――それはつまり、詠琳という存在への配慮を、依鹿が一切持ち合わせていないという意味に他ならない。何を今さら、と依鹿は思っているのだろう。詠琳がどれほど苦しもうと、それは詠琳自身が選んだ道であり、依鹿の関知するところではない、と。
 詠琳はこの瞬間、これまでの自分の人生に投じてきた金額を、頭の中で静かに計算していた。数字は思い浮かべるたびに大きくなっていく気がした。あの数字さえあれば、もっと別の人生があったのかもしれない。もっと別の未来を、選べたのかもしれない。それなのに、その全部を、自分は宵刃という一点に注ぎ込んで、このような惨めな結末を迎えようとしている。
 滑稽だと、自分でも思う。それでも、後悔だけはしたくないという矛盾した意地が、詠琳の胸の内にまだほんの僅かに残っていた。
「主さんたちも、張り合いのある敵がいたほうが燃えるんじゃない?」
 その一言もまた、端末の合成音声を経由して詠琳の耳に届いた。人を人とも思わないような台詞が、機械特有の滑らかさで、まるで商品の説明文のように読み上げられていく。感情の起伏がまるでないぶん、言葉の刃はかえって深く、まっすぐに詠琳の柔らかい部分を貫いた。
 依鹿がこともなげにそう言い放った瞬間、詠琳の中で最後の理性の糸がぷつりと切れる音がした。この女は、詠琳たちの苦悩を『燃料』としか捉えていない。愛でも、脅威でもない。娯楽の一部としてしか、認識していないのだ。己の行いさえ顧みれぬというのに、その傲慢さが詠琳には何よりも許しがたかった。
「(……こっちは、命を懸けてきたのに)」
 低階層から這い上がるために、詠琳は何を犠牲にしてきただろうか。眠る間も惜しんで鍛錬を積み、仲間を裏切り、時には手を汚してでも上へ上へと駆け上がってきた。そうして掴んだ武勇も、財も、今や宵刃という一点に注ぎ込まれ、砂のように零れ落ちていく。それでも詠琳は止められなかった。止まれなかった。宵刃という存在は何時しか詠琳にとって、生きる理由そのものになってしまっていたからだ。
 正しく、神と信者のような関係だった。
 搾り取られていると分かっていても、愛しくて恋しくて堪らない。ただ、『期限切れ』だと言わないでほしい。それだけが、詠琳の唯一の願いだった。
 だが今、その願いは、目の前の女によって粉々に打ち砕かれようとしている。
 詠琳は依鹿の首筋を見詰めた。ほっそりとした、しかし芯の通った首。あそこに、この手をかけたら――そんな衝動が、腹の奥からせり上がってくる。武強として鍛え上げたこの手には、まだ十分な力が残っているはずだ。想像の中で、詠琳は幾度となく、そのしろい首を絞め上げる自分の姿を描いた。指の一本一本に力を込め、この女の余裕という余裕を、全て奪い取ってやりたい。その表情が苦悶に歪む瞬間を、この目で見たい。そうすれば、少しは、この胸の澱みも晴れるのだろうか。
 ――いや、晴れないだろう。
 詠琳自身、心の何処かでそれを理解していた。たとえこの女を殺したところで、宵刃の心が自分に向くわけではない。それでも、憎悪という感情は理屈など軽々と踏み越えて、詠琳の思考を占領していく。
「(せめて、一矢報いたい)」
 それだけが、詠琳の中に残った最後の願いだった。
 だが同時に、詠琳の直感が警鐘を鳴らしていた。この女は、ただの人間ではない。立ち姿、視線の運び、そして何より、宵刃の――あの黑家の怪物の傍らに立って一切怯むことのない、その胆力。何か、常人とは違う『格』を、詠琳の本能が嗅ぎ取っていた。
 その事実が詠琳の憎悪に、さらに苦い味を上塗りしていく。幾ら憎もうと、殺意を向けようと、恐らく敵わない。それが分かっているからこそ、憎悪はますます内側にこもり、澱のように沈殿していく。外に発散できない感情は、詠琳自身の心を内側からじわじわと蝕んでいくばかりだった。
「(それでも)」
 詠琳の指先が、無意識の内に握り締められる。
「(それでも、――殺してやりたい)」
 理性では敵わないとわかっていても、感情はそれを許さなかった。憎悪は最早、損得勘定など軽々と飛び越えて、詠琳の全身を支配していた。
 宵刃はその一部始終を、まるで極上の酒を味わうように見詰めていた。詠琳の瞳に宿る殺意。震える指先。歪んだ愛と憎しみの混濁。それらすべてが、宵刃にとっては見慣れた、しかし何時までも見飽きることのない光景だった。
「哎呀……詠琳さん、そんな目をなさって」
 宵刃が、まるで愛おしむようにそう囁いた。だがその声には、労りなど微塵もない。むしろ、詠琳の絶望をより深く、より美しく引き出そうとするかのような、演出じみた甘さがあった。
「その瞳、嫌いではございませんよ。むしろ――とても、人間らしくていらっしゃる」
 『人間らしい』という言葉は、詠琳にとって何よりの侮辱だった。まるで己の必死な足掻きすら、宵刃にとっては見世物のひとつでしかないと、暗に告げられているようなものだったから。
 詠琳の視界が涙で暈ける。悔し涙なのか、それとも別の感情なのか、もう自分でも分からなかった。ただひとつ確かなのは、この瞬間、詠琳という人間が積み上げてきたもの全てが、音を立てて崩れ落ちていくということだった。
 会場を取り巻くドローンの羽音が、詠琳の耳の奥でやけに大きく響いていた。この瞬間もまた、自分の醜態が無数の観客に配信されているのだと思うと、羞恥と絶望が更に深く胸を抉る。誰かがこの様子を見て笑っているのだろう。誰かが、この様子に金を賭けているのだろう。詠琳という人間の三十一年間の人生の集大成が、たった数分の、みっともない嫉妬の発露として、誰かの娯楽になっている。
「(笑いたければ笑えばいい)」
 投げやりな気持ちが心の片隅に芽生える。
 だが、それすらも本心ではなかった。本当は、誰にも見られたくなかった。こんな、醜く歪んだ自分の姿など、誰の目にも触れさせたくなかった。それなのに、この街の仕組みが、詠琳の一番見せたくない部分を、無理矢理白日の下に晒し続ける。
 依鹿はそんな詠琳を静かに見詰めていた。哀れみはあっても、同情はない。歴とした大人であり、自分の責任で選んだ道を歩んでいるのなら、それを止める権利は自分にはない――そんな、ある種の敬意にも似た距離感が依鹿の態度の根底にはあった。
 然し、その距離感こそが詠琳にとっては一番残酷なものだった。
 憐れまれることさえできない。ただ、静かに、通り過ぎられていくだけの存在。
 紅牌市場に集うVIPたちの端末には、この瞬間、詠琳の心拍数と脳波の乱れが、鮮やかなグラフとなって流れているはずだった。嫉妬のスパイク。絶望の急落。そして――殺意という名の、最後の輝き。オッズは今頃、乱高下しているに違いない。誰かが大金を投じ、誰かがそれを嘲笑いながら見ている。詠琳の人生の最も惨めな瞬間が、誰かにとっての最高のエンターテインメントとして消費されていく。
「|……算喇《……もう、いいわ》」
 掠れた声でそう呟いた。ようやく絞り出した詠琳の言葉は、驚くほど平坦だった。
「|知道喇……知道喇。就咁啦。已經……夠喇。結束啦《わかった。わかったから。もう、それで》――」
 言葉の続きは、出てこなかった。
 何が『それで』なのか、詠琳自身にもわからない。ただ、これ以上この場に立っていることが、もう耐えられなかった。
 宵刃がその様子を見て、あかい瞳を細めると静かに一歩踏み出した。
「詠琳さん」
 その声には、もう猫撫で声も、営業めいた甘さもなかった。
 ただ、事実を告げるだけの、乾いた響き。

「――契約は、本日をもって終了とさせていただきます」

 脱落。
 その二文字が、詠琳の全身を貫いた。

●榮耀與墮落
 脱落者には、決まった処遇がある。
 黑・宵刃の手による、静かな終幕。そしてその一部始終は、一定時間、賭場全体に中継配信される決まりだった。詠琳は抵抗しなかった。抵抗出来るだけの気力も、もう残ってはいなかった。ただ――最後にもう一度だけ、依鹿の顔を見た。憎悪も、嫉妬も、もはや言葉にする気力すらなく、ただ視線だけがそこに残った。
 依鹿は、その視線を静かに受け止めた。目を逸らすことも、蔑むこともなく、ただ真正面から。
「……ごめんね」
 先ほどと同じ言葉が、もう一度だけ繰り返された。気の毒だとは思っているが、それ以上でも以下でもない。この賭場という舞台に足を踏み入れた時点で、詠琳もまた、自らの意志でこの結末を選んだのだから。
 宵刃の手が、静かに動いた。
 その動作は、あまりにも滑らかで、あまりにも自然で――まるで長年連れ添った作業のように、迷いがなかった。詠琳の視界の端に、ネオンのひかりが滲んで流れる。痛みは、驚くほど短かった。
 紅牌市場の観客たちの間に、どよめきが走った。誰かが歓声を上げ、誰かが舌打ちをする。今日の脱落者を、口さがない野次馬たちが好き放題に貶しながら、ARの金貨がホログラムとなって会場中に降り注いだ。数字だけの、実体のない金。それでも、それを見る誰の目にも、興奮の色が浮かんでいた。
 淘汰の娯楽化――それが、この街の本質だった。
 ひとの命も、感情も、全てが『コンテンツ』として消費され、金という形に変換されていく。詠琳というひとりの人間が積み上げてきた長いようで短い人生は、こうしてあっさりと賭場の一夜の余興として溶けて消えていった。

 賑やかな喧騒の只中にあって、宵刃はひどく静かにその場に佇んでいた。行き交う声も、笑いさざめく気配も、今は遠い波音のように彼方へと滲んでいる。尾はゆるやかに垂れ、耳もまた、いつものような鋭さをほんの少しばかり失っていた。けれど、それすらもきっと『フェイク』なのだろう。隙を見せたように見せて、その実、何ひとつ晒してはいない。仕事は、きちんとやり遂げた。その事実に対する満足感が静かな自負となって胸の底に沈んでいる。
 けれど――それだけではない。
 どうしようもなく込み上げる喜悦が、薄い膜のようにその横顔を覆っていた。隠そうとすればするほど、口元の微かな緩みや、瞳の奥に灯るひかりが、それを雄弁に語ってしまう。喧騒の中で、宵刃だけが静かだった。そしてその静けさこそが、何よりも饒舌だった。
 依鹿が、その傍らに歩み寄る。
「お疲れ様」
 短い労いの言葉だった。だがそれだけで、宵刃の表情がふわりと緩んだ。仕事中の張り詰めた貌が、あなたの――依鹿の前でだけ見せる、『レンくん』の顔へと戻っていく。
「感想を、聞かせていただけますか」
 少し甘えるような声で尋ねた。まるで、飼い主に褒めてもらいたい犬のように。
 依鹿はしばらく黙って、会場に降り注ぐARの金貨を眺めていた。実体のないひかりの粒が、無数の欲望を乗せて夜空へと舞い上がっては消えていく。
「……なんていうか」
 依鹿は、少し困ったように眉を下げた。
「私が思ってたより、ずっと、たくさんの人がこれを見てるんだね」
 それは、批判でも賞賛でもない。ただ、率直な感想だった。この街の規模、この賭場という仕組みの巨大さを、依鹿は今夜、初めて肌で理解したのかもしれない。
「これからも、一緒に盛り上げてくださるのですよね?」
 宵刃の問いには、隠しきれない期待が滲んでいた。依鹿がこの世界に自ら関わろうとしてくれること――それは、宵刃にとって、何より嬉しい約束だった。
 依鹿は嬉しげな恋人の貌を見詰め、少しだけ肩を竦めて見せた。
「まあ、ね。キミの縄張りに混ざるマナーくらいは、心得てるつもりだよ」
 依鹿の言葉は軽かった。冗談めかした響きさえ帯びていて、ともすれば何気ない戯れ言に聞こえただろう。けれど、その言葉の底には、決して揺らぐことのない覚悟が沈んでいた。
 この、光と闇が隣り合う街で生きていく。綺麗な場所だけを選ぶのではなく、血と欲望と欺瞞が渦巻く香港の夜、そのすべてを呑み込んでなお、宵刃の傍らに立ち続ける。

 ――彼女は、選んだのだ。

 宵刃は満足そうに、大きな尾をゆっくりと左右に振った。長兄がこの光景をどこかで見ているならば、きっと伝わっているはずだ――自分が選んだこの女性がいかに黑家に相応しく、そしていつか、この澱んだ街に新しい風を吹き込む存在になり得るかを。
 会場の熱狂が、少しずつ収束していく。ARの金貨のひかりが消え、モニターの向こうで、次の獲物を探す視線たちが、また静かに蠢き始める。

 紅牌市場の夜は、こうして今日も、静かに幕を閉じた。
 月が巡れば、また誰かが賭け、誰かが狂い、誰かが堕ちていくのだろう。そしてその中心には変わらず宵刃が立ち続ける。誰もの隣人のような顔をしながら、誰もを狂わせ、見下ろし、それでも寛容に笑いながら。
 積層都市の隙間から、ほんの僅かに零れ落ちた月光があった。幾重にも重なった高層建築、その壁面に這う無数の広告、空を埋め尽くすホログラム。色鮮やかなひかりが絶え間なく瞬き、都市そのものが夜を拒むように輝き続けている。
 だから、本物の月など誰も見上げない。
 細く、儚く、どこまでも静かな月光は、けばけばしいネオンの奔流に呑まれ、無数のホログラムに食い散らされていく。青も、赤も、金も。作り物のひかりばかりが夜を満たし、たったひとつの『本物』は、その隙間でひっそりと息絶えていった。
 誰かの頬を照らすこともなく。
 誰かの瞳に宿ることもなく。
 ただ、届くことを許されないまま、都市の底へと消えていく。それはまるで、この街で生きる者たちが疾うに忘れてしまった心を映しているかのようだった。
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