梨花一枝
●有りの実
その日、椎宮・紫水(シセキエイ・h12162)とエアリィ・ウィンディア(精霊の娘・h00277)は、いつものように連れ立って街を歩いていた。
午後のひかりはしろく乾いて、街路樹の影を舗道の上に几帳面な縞模様として落としている。どこか、誰も知らないような、それでいて騒がしすぎない場所はないものか――そんな贅沢な望みを胸に抱きながら歩く紫水の隣で、エアリィは手にしたスマートフォンの画面を覗き込んでいた。指先が幾つもの検索結果を撫でるように滑り、やがて一点で止まる。
「紫水さん、梨狩りができる農園見つけちゃった! スイーツカフェも併設されてるんだって、行ってみたいなー、たのしそうー」
画面をこちらに向けて見せる彼女の日に透けるみどりの瞳が、まるで木漏れ日そのものを閉じ込めた硝子玉のように輝いている。探しあぐねていた答えが思いがけず彼女の手の中にあったことに、紫水は頬によろこびのいろを乗せてふたつ返事で頷いた。その頷きの合間、ふと視線をエアリィの髪へと移す。風に攫われたあおい髪が一房、彼女の頬を掠めて揺れていた。思いついたことを口にする前に、既に彼の頬は緩んでいた。
「紫水さんの髪色、梨の色みたいだね~」
不意打ちのような。けれど彼女らしい率直さで放たれたその一言に、紫水は思わず声を上げて笑ってしまう。
「え? 私の髪の色が梨色にみえる? はっはっは、そんな……え? ほんとに似てる?」
茶色の髪を指先で軽く摘み、まじまじと見つめる仕草さえしてしまう自分がおかしくて、紫水はもう一度ちいさく笑う。通りすがりの秋風が、その滑稽な仕草を見計らったようにふたりの間を吹き抜けていった。
「え? おいしそうじゃない? さすがに食べないけど…」
そんな軽やかなやり取りを経て、ふたりはその場で出発の刻限と、電車の乗り継ぎまで細やかに打ち合わせを重ねていった。指を折って時間を数えるエアリィの横顔は、既に果樹園の風に吹かれているかのように、どこか浮き立って見えた。
電車に揺られること幾許か。辿り着いた果樹園は街の喧騒とは切り離された、静謐な秋の懐であった。梨の木々は行儀よく列をなし、たわわに実った果実が緑と黄の斑を織り交ぜた葉陰から覗いている。秋の陽射しは梢の間を漉されて、地面に淡いきんいろの網目を編んでいた。実り重たく撓んだ枝々が風の通り道ごとに微かな音を立てて揺れる。土のにおいと、熟れた果実のあまい芳香とが混ざり合って鼻腔を擽った。
紫水は被っていた帽子を脱ぎ、片手にそれを提げたままエアリィの少し後ろを歩いた。彼女の髪が木漏れ日を弾いて水面のように煌めくのを、ただ黙って眺めている。時折彼女が振り返っては、この実はどうか、あちらの色はどうかと問い掛けてくるたび穏やかな相槌を返しながら。
それだけで、今日という日はもう十分に満たされているような気さえした。急かすことなく、ただ彼女の歩調に寄り添うこと。それが、この一日における紫水のささやかな流儀だった。
はしゃぎながら実を選ぶエアリィの背伸びした指先が、目当てのひとつに触れそうで届かない。爪先立ちになった彼女の踵が、土の上でわずかに浮き上がる。彼女はくるりと振り返り、少し眉を寄せて訊ねた。
「て、手が届かない……少し浮かんでもいい? みんな、見てないよねっ?」
その仕草の愛らしさに、紫水の胸の奥で何かがことりと音を立てる。周囲を窺うようにきょろきょろと動く緑の瞳と、困ったような笑みとが彼の平静を静かに揺さぶった。
「(……か、かわいい、かわいすぎる……! けど、ここは紳士的に振る舞おうな私!)」
内心の動揺をおくびにも出さず、彼はゆっくりと歩み寄る。
「手伝おうか?エアリィ嬢」
浮遊の術を使えば造作もないことは、ふたりともよく分かっている。魔法とはこの世界においてはもはや特別な奇跡ではなく、道具箱の中のひとつの選択肢に過ぎない。けれど、たまにはそんな力に頼らず、ただのひとらしく素朴な腕の力だけで手にしてみたい――そんな気まぐれのような願いが、紫水の胸にふと兆したのだ。
「ふふ、エアリィ嬢の好きな方で」
「んー……うん、そうだねっ! たまにはそういうのは無しで!」
いたずらっぽく笑うと、彼女は紫水の方へと向き直る。
「それじゃ、お手伝いしてもらおうかなー……、ねえ、紫水さん」
「私はどうにか届く……うん、私も男にしては身長低いんだよね! ……、……うん?」
自嘲めいた冗談に、ふふ、とエアリィがちいさく笑う声が重なる。少し思案するように視線を泳がせてから、彼女は思い切ったように切り出した。
「……えっと、肩車してもらってもいい?」
紫水の心臓は不意を突かれたように跳ねた。
おんぶでは届かぬ高さだろうから、と冷静に頭のどこかで納得しつつも、彼はどうにか声を絞り出す。
「えっ!? あ、ああ、いいとも!」
言葉の途中で裏返りかけた声を彼女に悟られていないだろうかと、内心でひどく気を揉みながら。それでも紫水は膝を折り、彼女を肩に迎え入れる。ああ、視界を淡く滲むようだ。立ち上がる瞬間、頭上から降る楽しげな笑い声が、緊張をほぐすようにそらへと抜けていく。
そうして、時に浮かぶことも忘れ、時に肩の上で笑い合いながらふたりは籠いっぱいに梨を積み上げていった。手渡された果実の重みを確かめる度、言葉にせずとも通じ合うちいさな達成感が積み重なっていく。木漏れ日の下で額の汗を拭うエアリィの表情は達成感に輝いていて、紫水はその笑顔を見るためだけに、この一日をまた繰り返してもいいとさえ思う。収穫した実は丁寧に包まれ、土産として腕の中に抱えられた。
腹の虫が控えめに主張を始めた頃合いを見計らって、紫水は併設されたカフェの方へと視線を向けた。木々の合間から覗くしろい建物の屋根が、午後のひかりを受けて柔らかく輝いている。
「エアリィ嬢、スイーツカフェがあるよ? なにか食べていこうか?」
待ってましたと言わんばかりに、彼女の瞳がぱっと輝く。
「スイーツカフェ? 行く行く、行っちゃおーっ♪」
軽やかな足取りでカフェへと向かう彼女の後を追いながら、紫水は密かに、この足取りの軽さこそが今日という一日の何よりの成果なのだと思う。硝子越しに秋の陽が差し込む店内は、焼き菓子の甘いにおいと湯気の柔らかな気配で満ちていた。案内された窓際の席に着き、ふたりしてメニュー表と睨めっこをする。紫水は密かに思う――エアリィと出かけるようになってから、甘味を口にすることがすっかり当たり前の楽しみになった、と。悩む彼女の横顔を見つめながら、さて自分は何を選ぼうかと考えを巡らせる。
「何にしようかなー。ケーキもあるし、タルトもあるし……ゼリーもいいなぁ……」
指先でメニューをなぞりながらうんうんと唸る様子は、まるで宝物を選ぶ子どものようだ。眉根を寄せ、時折はっと顔を上げては別のページを繰る仕草のひとつひとつが、見ているだけで微笑ましい。
「これにしようかな? ちょっとずつ、いろんなものを食べられるのがいいよね」
「え? 欲張りセットとかあるの?」
覗き込んだメニューには、なるほど、小ぶりの菓子を数種盛り合わせた一皿が載っている。彩り豊かに並んだ写真は、見ているだけで選ぶ楽しさを教えてくれるようだった。
「確かに。ちょっとずつ、いろんなものを食べられるのってとってもいいね。悩むなぁ……うーん」
しばし目を閉じ、腕を組んで思案する仕草を見せてから。紫水は結局、初めに惹かれていた一皿へと心を定めた。
「やっぱり初志貫徹で梨のコンポートにしようかな。梨尽くしって感じで美味しそうじゃない?」
「梨のコンポート……あ、おいしそっ!」
「うん、すごく美味しそうだ。梨たっぷり感もいいね」
やがて運ばれてきた皿の数々を前に、ふたりの顔はどちらからともなく綻んだ。艶やかな飴色に煮含められた梨はまるで午後の陽光そのものを閉じ込めたようで、湯気の向こうにはちいさな虹が架かっていた。フォークを入れるととろりと蜜が滴り、皿の上に小さな光の輪を作る。エアリィは自分の皿から一切れを小さく切り分けると、フォークに刺して紫水の方へと差し出した。
「せっかくだから、こっちもちょっと食べない? おいしいよー♪」
屈託のない分かち合いの申し出。紫水は微笑みを浮かべたまま、それを迎え入れる。
「じゃあ、いつもの交換だね。エアリィ嬢もどうぞ」
「わーいっ! それじゃ少し頂くね」
「というか全部食べてもいいけど?」
「全部だと紫水さんの分無くなっちゃうからだめー。一緒に食べるからいいんだよっ♪」
そう言って頬張るエアリィの表情は、幸福そのものを絵に描いたよう。紫水はその笑顔を見つめながら、甘やかな菓子よりも、こうして満ち足りた顔で食む彼女を眺めていることの方がずっと甘美なのだと――けれどその想いは表には出さず、ただ穏やかな笑みの内に仕舞い込んだ。
窓の外では、果樹園の梢が夕陽にきんいろを纏い始めている。皿がほとんど空になった頃、エアリィは満ち足りた息を吐きながら、ふと顔を上げた。
「ね、またどこかに一緒に行こうねっ!」
屈託のない誘いの言葉に、紫水の胸は温かなもので満たされる。
「ふふ。今度はどこへいこか?」
問い掛けに笑みを咲かせたエアリィはまだ答えを持たないけれど、それさえ先の楽しみへと繋がっていく。この先にどんな景色が待っていようとも、隣を歩くのが彼女であるならば。それだけできっと、どんな道行きも輝いて見える筈だという確信があった。
「ああ、楽しみだね。――とても!」
夕暮れのひかりがふたりの影を果樹園の小径に伸ばして、梨の香りを乗せた風が、その足取りをそっと後押しするように吹き抜けていく。籠の中で眠る梨の実もまた、この穏やかな一日の証として、ほのかな甘いにおいを静かに漂わせ続けていた。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功